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4.ミザンセーヌmise en scéne 演出
『ゴッド・ファーザー』 2つの結婚式 コニーの結婚式 : 豪華であり多くの参加者、同時にビジネスの場でもある。 マイケルの結婚式: わずかな家族員だけの質素で宗教的。 ビジネスと家族の葛藤:作品の大きなテーマ 監督コッポラは、セットと俳優の演出によってこの対比を生み出している。 ミザンセーヌ(シーンに置く、アクションをステージにのせる、の意味) 一般的に映画界においては「カメラに映るすべてのもの」を意味する。つまり、セット(装置)、俳優、衣装、小道具、照明、、といったものである。またセットにおける俳優の位置や動き、「ブロッキング」と呼ばれるものも含まれる。(ほぼWikipediaの定義のまま) セット:アクション(動作)が行われる場所。野外の場合もあれば、人工的につくられた防音スタジオの場合もある。セットはデジタル技術で修正されることもある。 セットの空間的な特質は、しばしば登場人物とその葛藤を展開させ、テーマを示唆することで、映画に意味をあたえる。 強制的遠近法Forced perspective 遠くの物は近くの物より小さく見える、ことを利用した、一種のだまし絵的な技術。たとえば、わざと奥に小さい物を置くことで、実際より奥行きがあるように思わせるたりすること。 例:東京神宮外苑の聖徳記念絵画館前の銀杏並木、岐阜県立美術館の庭園、京都の無隣庵の庭園 『天井桟敷の人々』(1945) http://www.youtube.com/watch?v=Ff1Bxvrbgrk 19世紀のパリの犯罪通りの再現セット。遠くにある物をより小さくすることで奥行きがあるように見せている。 場所のモニュメント(記念建造物)を盛り込むことで、その場所での出来事であると思わせる。 『猿の惑星』のラスト・シーンhttp://www.youtube.com/watch?v=muEnLlycOn4&feature=related :自由の女神があることで猿の惑星がじつは地球のなれの果てだったことが明かされる。 『ブレード・ランナー』(1982) 近未来のロサンジェルスの町並み。 実際にはそこで撮影する必要はない。 『地獄の黙示録』http://www.youtube.com/watch?v=IHUSmOQnzEk ベトナム戦争を扱っているが撮影はフィリピン。 Computer-generated imagery(CGI)を使ってセットをつくる場合もある。 ティム・バートン『アリス・イン・ワンダーランド』(2010) http://www.youtube.com/watch?v=tkssu2ksM1k セットについて書く:視覚的・空間的特質 セットの視覚的特徴が観客からの反応を喚起する。 明るく広がる屋外のシーンは無限の可能性を感じさせる。 例:『アイガー北壁』(予告編http://www.youtube.com/watch?v=xbbXWyI2AqE) 暗く窮屈な内装はワナにはめられることを言外に意味する。 例:『メメント』http://www.youtube.com/watch?v=91QGubnDHSs http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88_(%E6%98%A0%E7%94%BB) 文脈としてのセットの使い方は演出を解釈する上で重要である。 例:『カポティ』の冒頭。 平凡な、あるいは、恐ろしい、もしくはその両方の、カンザスの田舎の風景。NYとの対比。http://www.youtube.com/watch?v=Q4BvvJ69pIQ 監督やロケハン担当者はその視覚的・空間的な特徴から場所を選ぶ。 その特質は文化的意味だけでなく情緒的な言外の意味も伝える。 『インテリア』(1978)の立派だがうつろな海岸の家は物質的な豊かさと精神的な疎遠さを映し出す。 『リストラ・マン』の特徴のないアパートは主人公たちの単調で過酷な仕事と生活を映し出す。 セットの機能 セットの第一の機能は時間と空間を確立して、アイディアとテーマの導入をし、ムードをつくること。 『エイジ・オブ・イノセンス』(1993) 1870年代のニューヨーク http://www.youtube.com/watch?v=K0bENHsyGPg ジャンルによっては特定のセットと場所につながっている。例:ウエスタン 監督にはよって、わざと観客の期待に逆らってセットを選ぶこともある。 例:ミュージカルはふつうは劇場のようなセットをえらぶが、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『リトル・ダンサー』はちがうセッティングにしている。 ムルナウの『サンライズ』(Sunrise: A Song of Two Humans)http://www.youtube.com/watch?v=pG03b0_R4JE&feature=related 人物 俳優の動きは映画の意味を大きく左右する。 キャスト 俳優選びは監督のできる重要な決定。 ふつうはオーディションで選ぶが、「Aリスト」の俳優はオーディションでなく話し合いで決まる。 同じフィルムで異なるセット:『フル・メタル・ジャケット』新兵訓練所・ベトナムの戦場 同じセットで異なる映画:海岸『ピアノ・レッスン』・『Bhaji on the Beach』 商業的な理由から、配役が限定されることがある。 典型的配役typecasting(同じ種類の役をいつも同じ俳優に配役する)はスターやスタジオにとってありがたい。 時々、それまでのイメージを裏切る役をする俳優もいる。 演技スタイル 無声映画の時代は大げさな身振りの演技。 トーキー以後は抑え目の演技 Barry Kingの演技スタイルの分類 ・Impersonation 没入的演技:役になりきる ・Personification スター的演技:スターでありつづけて演じる ・technical acting 技術的演技:アクセントや身体的特徴まで変えて自在に演じる。 例:『博士の異常な愛情』http://www.youtube.com/watch?v=MqBIOfZC-I4 のピーター・セラーズ ハリウッド・スタジオ・システム(制作・配給・俳優を1つのスタジオがおさえる)時代 スター的な演技が支配的。 スタジオ・システムがこわれはじめてヨーロッパ映画の影響を受けだすと メソッド演技 ロシアの演劇理論家コンスタンチン・スタニスラフスキーの心理リアリズムにもとづき、ニューヨークにリー・ストラスバーグが1947につくったアクターズ・スタジオの展開された演技法。自分の感情を増幅して役になりきる演技法。没入的演技法。 『L.A.コンフィデンシャル』 http://www.youtube.com/watch?v=5nnFof4KpKY 大酒のみのラッセル・クロウが6ヶ月禁酒。 『マシニスト』http://www.youtube.com/watch?v=ZGTRl4SkWvI ![]() クリスチャン・ベイルは役作りのために約30kg体重を落として、その4ヶ月後にまた32kg増やして『バットマン・ビギンズ』http://www.youtube.com/watch?v=vak9ZLfhGnQでバット・マン役をする。 ![]() ヒース・レジャー 『ブロークバック・マウンテン』http://www.youtube.com/watch?v=57inv_1LTI8 ![]() 『ダーク・ナイト』http://www.youtube.com/watch?v=nN8KOKHNp08 ![]() 役に入り込みすぎて、眠れなくなり、睡眠薬の過剰摂取で死亡。 「メソッド俳優の死」として報じられる。 ブレヒト流演技:観客との距離をとる ブレヒト(Bert(olt) Brecht1898―1956)は「異化」について、「『三文オペラ』のための註」のなかでこう述べている。 「『三文オペラ』は、その表現する内容ばかりかその表現方法の点でも、市民的な物の考え方と密接に結びついている。それは劇場の観客がこの人生について見たいとのぞんでいるもののについての一種の講演である。だが同時に観客は、自分の見たくないものをもいくらか見せられる。つまり、自分の希望が実現されるのを見るだけではなく、それが批判されるのをも見る。(自分を主体としてだけでなく、客体としても見るのだ。)したがって、原則的には、演劇にある新しい機能を与えるようになる。」(『三文オペラ』165頁) さらにその演劇論のなかでこう述べている。 「もはや観客は、自分の世界から芸術の世界へと誘い込まれるのではなく、むしろ反対に目さめた感覚をもって自分の現実的な世界に連れていかれねばならない。・・・その原理は感情同化のかわり異化を導き入れることである。 異化とはなにか? ある出来事ないし性格を異化するというのは、簡単にいって、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。・・・異化するというのは、だから、歴史化することであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである。・・・劇場はもはや観客を酔っぱらわせたり、さまざまな錯覚を授けたり、この世界を忘れさせたり、自分の運命と妥協させたりしようとしない。これからは劇場はこの世界を、観客がそれに手を加えることができるような形で、観客に提供するのだ。」 (『今日の世界は演劇によって再現できるか---ブレヒト演劇論集---』123-4頁) 役者が役に命を吹き込み、観客にそういう登場人物がいると信じさせることは、観客を映画に巻き込むために欠かせないものと思われている。しかしこうしたリアリズムとは正反対の立場が、ドイツの演劇家のブレヒトの提唱した「異化」である。これは、観客が役に同化して感激するのを良しとしないで、むしろ観客がその役に違和感をもつことで、知的な反応(階級的な社会状況への認識)を引き出そうとする。 ブレヒト流演技法の影響例:『マルホランド・ドライブ』http://www.youtube.com/watch?v=F3FH_v3X3Xo http://www.youtube.com/watch?v=R8i5CyDmWqk 役者の演技は意図的に不透明http://www.torrentbox.com/torrent_details?id=1614545 役者の肉体 人物配置 前面に位置する人物:重要人物。 監督は人物の配置に細心の注意をはらう。 『市民ケーン』の人物配置 俳優の肉体:服装と小物 服装は時代と場所の情報を提供するが、それ以上に重要なのは、社会環境と個人的なスタイルを表現すること。 『サンセット大通り』(1950) 予告編http://www.youtube.com/watch?v=6j8JXbV7JWI&feature=fvst オープンニングhttp://www.youtube.com/watch?v=nQNh_m3YIBc&feature=related ラストシーンhttp://www.youtube.com/watch?v=SA9lFsiut2Q 売れない脚本家が往年の大女優の情夫となり、分不相応なスーツを仕立てる。 新しい衣服は、大女優への依存と彼の人生が自分の思いのままにならなくなったことの象徴。 衣装と同じく、小物も、登場人物の性格を表したり、その変化・展開を示唆することができる。 『自転車泥棒』(1948) http://www.youtube.com/watch?v=H_DbxqbMOAg&feature=fvst http://www.youtube.com/watch?v=FZm7WuIVPtM&feature=endscreen&NR=1 自転車は、単に移動機関にとどまらず、戦後のイタリアの人々が直面した絶望的な状況のシンボル。自転車を盗まれることで失業し、自転車を盗もうとして見つかり、子供の前で小突かれ殴られ涙ぐむ父親。 The Station Agent(2003) 懐中時計 主人公の生真面目さと閉じこもった生活 俳優の肉体:メーキャップ メーキャップや髪型は時代を特定するだけでなく、人物の性格やその変化を表す。 prostheses人工装具(俳優の顔や体につける3次元のメーキャップ) 『めぐりあう時間たち』(2002) ヴァージニア・ウルフを演ずるニコール・キッドマンの付け鼻 ![]() ニコール・キッドマン ![]() ヴェージニア・ウルフ メーキャップと小物は、コミカルな、あるいはぎょっとするような効果をもたらすことができる。 『オースチン・パワー』でのマイク・メイヤーはメーキャップ、小物、髪型、人工装具で、 パワーズ、ドクター・イヴィル、ファット・バスタードを演じている。 ![]() ![]() ![]() モーフィングmorphing ある映像を次第に別の映像に変えるコンピューターによる映像処理技術 例:『マスク』The Mask(1994) http://www.youtube.com/watch?v=sRUvbeP_vCo&feature=fvwrel Lon Chaney 「千の顔をもつ男」 ![]() 『ノートルダムのせむし男』 ![]() 『オペラ座の怪人』 ![]() The Unkown メーキャップだけでなく、身体そのものを多様に変形・操作して、さまざまな役を演じた。 照明 三要素:質(強い/ソフト)・配置(光の当たる角度)・コントラスト(強い/弱い) 強い光 ソフトな光 自然光 「マジック・アワー」(日の出の直前、日没直後)の拡散した光 『天国の日々』はマジック・アワーに撮られた。 三点照明 ![]() ハイ・キー照明(High-Key lighting):keyライトとfillライトの比が2:1以下。 ![]() ナチュラル・キー照明(Natural-key lighting):key-light/fill-light 4:1~8:1 ![]() ロー・キー照明(Low-key lighting):key-light/fill-light 16:1~32:1 ![]() 配置 バランスと左右対称 古典的ハリウッドフィルムでは、主人公を中心にした左右対称の配置が好まれた。 ![]() ![]() Holiday ![]() 『戦場のピアニスト』 対角線 人間の目は、対角線、垂直線、水平線、の順に反応が低くなる。 対角線がもっとも視覚的な重みを持つ。 ![]() ![]() 『理由なき反抗』 ![]() マネ『闘牛士の死』 Loose framing(ゆるい枠) 開放感・孤独感 ![]() Badland Tight framing(締まった枠) 不自由さ・緊密さ ![]() 『赤い砂漠』 『オイル』There will be blood 義理の親子の緊密感から、はてしない石油探しへ 前景・後景 前景にある物は物語で重要なもの。 『汚名』 スパイであることがわかったアリシアを亡き者にしようと毒が入れられたコーヒーカップが前面に置かれ、否応なしに観客はそこに注目する。 光と影 明暗法chiaroscuro 『第三の男』のクライマックス 色 撮影デザイナーは色調を考える。色によって映画のムードが決まってくるから。 『理由なき反抗』赤:存在の苦痛と性的衝動の混じり合ったものを示す。 『ドウ・ザ・ライト・シング』赤は夏の暑さを強調。 彩度は、色合いの強さと弱さをしめす。 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』鮮やかさのない色合いは主人公の退屈な生活を示している。 ミザンセーヌの二つのアプローチ ドイツの表現主義 2次元的なフレームづかい 不気味なストーリー、明暗法の照明、対角線、奇妙な人工的セット 例:『カリガリ博士』 フランスの詩的リアリズム 演出とカメラワークの結合 3次元的フレームづかい 人々の複雑な絡み合いを再現する。 カメラの凝った動きを多用する。 『ラング氏の犯罪』の殺人シーンhttp://www.youtube.com/watch?v=syX8_l_DxSo 3. 物語の形式
「物語は直線的な語りで話してはならない。それ以外の語りの可能性はいっぱいある。映画はその可能性を豊かにするだけなのである。」(ピーター・グリューナゥエイ) 観客が、映画を構造化する装置としての物語の役割に習熟すると、登場人物が変わり成長するのを把握し、並行とモチーフを認識し、そしてもっとも重要なことは、これらの細部を総合して、映画のテーマの解釈を作り上げることができるようになる。 物語とは、時空間の起こる一連の出来事である。でたらめな出来事ではなくて、原因と結果の論理によって結びつけられた一連の出来事である。 因果の論理は、登場人物の性格、目的、困難、行動をつなぎ合わせる。 物語映画はふつう、人間の登場人物とその葛藤に焦点をあわせる。 登場人物は目的をはたすために困難に遭遇する。 多くの物語映画の登場人物は、いくつものレベルの困難に打ち勝つ。 映画作成者はストーリーの細部を体系的に組み上げて、観客にとてって意味のある楽しめる経験を作り上げる。 フィクションの世界を枠づける: ダイエジェティックdiegetic(物語世界内の)要素と 非ダイエジェティックnon-diegetic(物語世界外の)要素 diegesisダイエジェシス:物語世界(フィクションの世界) Voice-overボイス・オーバー 画面上にいない語り手の声が流れてくること 語り手が、物語世界の登場人物ではない場合(non-diegetic)と、登場人物の場合(diegetic)とがある。 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』The Royal Tenenbaums ではナレーションだけでなく、本の見出しまで出てくる。 音楽 物語世界の外から挿入されてくることも多い。 オダギリジョー主演ライフカードCM『マドンナ篇 封印』 non-diegeticな音楽かと思うと実はdiegeticな音楽であったというひねり。 物語世界のなかで:出来事を選び並べる 上演時間は90分から120分ぐらい。 現実の時間をそのまま上演することはまれ。 ヒッチコックの『ロープ』(1948)はそれに挑戦 ふつう、時間にそって流れる物語全体(ファブラfabula)を見せることはなく、そのなからか出来事を選択して並べ見せている。こういう見せ語られる物語をシュジェートsyuzhetという(もともとはロシア・フォルマリズムの用語)。 「ストーリー」storyをファブラfabula に 「プロット」plotをシュジェートsyuzhet に 当てることがあるが、論者によってまちまちだし、一般観客はどちらの語も物語一般に使うことも多いので、この際、このロシア語をつかうことにしよう。 シュジェートは時間順に沿う必要はない。 フラッシュバックflashbackで過去の出来事のカットを瞬間挿入することも フラッシュフォワードflashforwardで未来の出来事のカットを瞬間挿入することもできる。 また『パルプ・フィクション』(タランティーノ)のように時間の並べ方を大幅に切り貼りして前後させることもできる。 『過去を逃れて』Out of the Past(1947) 1.平和な小さな町でガソリンスタンドを営むジェフのもとに、一人の男がやってくる。彼はジェフの古い友人と称して、ジェフに丘の屋敷へ来るように言う。 2.深夜、結婚を誓いあったアンを車に乗せ屋敷に向かいながら、ジェフは彼の過去を話し始める。彼は探偵としてギャングのボスの情婦を追うが、彼女の美しさに魅せられ、二人でサンフランシスコで逃亡生活をした。しかし元の探偵仲間に見つかってしまう。二人がもみ合っている時、情婦は元の仲間(今は密告者)を射殺して、姿をくらました。話し終え、朝になり屋敷についたジェフはアンをそのまま帰らせる。 3.屋敷にはギャングのボスと、彼がかつて愛した情婦がいた。ボスは過去の話は水に流すとして、ジェフに脱税の担当者から脅迫されているのでその書類を奪ってほしいと依頼される。秘書の手引きで担当者に会いに行き、再度担当者の元にいくと担当者は殺されており、容疑はジェフにかかっていた。はめられたと知ったジェフはボスにかけあって無実を証明するところまでもっていくのだが、ボスは情婦に殺され、情婦はジェフに金をもって二人で逃げようと提案する。車で屋敷を出たところに、ジェフの通報により警察が待ち受ける。ジェフの裏切りを知った情婦がジェフを射殺するが、彼女も警察により射殺される。 4.ジェフの死後、アンは、ジェフは情婦と逃げるつもりだったのか、ジェフの下で働いていた聾者に聞く。ジェフのことを忘れさせるのがジェフの本意だろうと思った聾者は、そうだと答え、アンを過去から解放させようとする。 ファブラ 探偵のジェフが依頼をうけて女を見つけ、女と逃亡生活をする。元の仲間に見つかり、女が射殺、遺体を埋めて、田舎町に来てガソリンスタンドを始め、アンと恋仲になる。そこにボスの手下がやってきて、屋敷に来るように言う。屋敷で脱税書類を奪うように言われたが、それは罠だった。無実を証明すべくボスに掛け合うが、ボスは情婦に殺され、二人して逃げるが、警察が待ち受けており、情婦はジェフを殺すが、自分も警察のマシンガンで殺される。ジェフの死後、アンはガソリンスタンドのボーイと話す。 ファブラとはちがうシュジェートの時間配置の意味 最初に平和な町で実直に働く主人公ジェフを描くことで、主人公への観客の共感を得ることができる。 過去の話が出てくることで、過去から逃れようとして、逃れられなかった主人公が描かれる。 ファブラでは出てくる出来事をシュジェートでは出来事そのものとして描かないで伝聞ですますこともできる。 『黒い罠』Touch of Evil(1958);爆破犯人の自白は自白シーンを描かないことで、遵法な操作をするヴァルガス検事と、違法な取り調べをするクインラン警部との対比を強調している。 ファブラでは一回しか起きていないことをシュジェートでは何度もくりかえし出すこともある。 例:『市民ケーン』でのスーザン・アレクサンダーのオペラ・デビューは、スーザンの観点とジェド・リーランドの観点から、二度語られる。 物語の構造 3幕構成 Three-Act Structure4部構成 Four-Part Structure (Thompson) 第1幕:提示から転換点まで1.提示から転換点まで 第2幕:困難な状況からクライマックスへ2.困難な行為から中間点の大きな転換点へ 3.展開:目標への葛藤がクライマックスへ 第3幕:行為により解決へいたる4.エピローグ ふつうの物語映画は3幕構成になっている。 第1幕 登場人物、目標・目的、葛藤が、提示されて、最初の転換点にいたる。 主人公protagonisitが目標に合わせて方法を修正したり、目標そのものをかえたりする。 第2幕 主人公は困難にあったり、敵対者antagonistに出会う。葛藤は数多くなり複雑になり、クライマックスへといたる。 第3幕 大団円(dénouement) 結末 Kristin Thompsonの説:ハリウッド映画は4部構成をとっている。 そのほかの物語構造 2部構成 例:『フル・メタル・ジャケット』(1987) 訓練期とベトナム戦線 語りによる枠付けframe narration 例:『カリガリ博士』(1919) フランシスがカリガリ博士が怪人を使って連続殺人をしていたという話をするが、じつはフランシスは精神病院の患者であり、その院長がカリガリ博士だった。 エピソードの語りepisodic narrative さまざまなエピソード(挿話)の集まり。オープンエンド(なんの解決ももたらさない)のことが多い。 例:『大人は判ってくれない』(1959) 古典的ハリウッド商業映画のルール ・明快さ 観客は設定・時間・出来事・登場人物で困惑させられてならない。 ・統一性 原因と結果のつながりは直接的で完結していなくてはいけない。 ・登場人物 観客が同一化でき、行動的で、目標を追求しなくてはないらない。 ・完結 第3幕・エピローグは締めくくりとしてすべての疑問にこたえなくてはならない。 ・でしゃばらない職人技 物語は、観客を物語世界に引き込むように、語られるべきで 語り方がめだつようであってはならない。 多くの映画がこれらのルールをやぶる語り口をしている。 ・明快さの欠如 例:市民ケーン、盗聴、ミステリー・トレイン、羅生門、ラン・ローラ・ラン、シン・レッド・ライン ・統一性の欠如 例:去年マリエンバードで、メメント、ハルホランド・ドライブ、レザボア・ドッグズ、 ・オープンエンド 疑問や葛藤が解決されない 例:大人は判ってくれない、情事、ミニミニ大作戦、ブロウ・アップ、ブレイク・アップ ・ふつうでない登場人物づくり -観客が入り込めない(同一化できない)人物 例:バッドランド、盗聴、デッドマン、石油。 -登場人物が行動するよりも、自分の行為について考え込み話す。例:5時から7時のクレオ、My Dinner with Andre、ストレンジャー・ザン・パラダイス、スキャナー・ダークリー -登場人物の目的が不明 例:卒業、大人は判ってくれない -語り手が信用できない 例:カリガリ博士、羅生門、ユージュアル・サスペクト ・語り口に注目させようとする 例:アメリカン・スプレンダー、Just Another Girl on the IRT、The Nasty Girl、ドッグビル、ペルソナ、ユージュアル・サスペクト、ナチュラル・ボーン・キラー、主人公は僕だった、脳内ニューヨーク 視点と意味 小説では語り手は重要な役割をもつ。 一人称の語り 「僕は・・・」、「私は・・・」は1人の人物の限定された出来事についての知識と理解に読者を限定する。例:『三四郎』 三人称の語り 「彼は・・・」「彼女は・・・」 限定された情報のこともあれば、全知のこともある。 焦点化(どの視点から物語が語られるのか) 1ゼロ焦点化:語り手>作中人物 俯瞰視点 語り手は作中人物より多くを語る。 2内的焦点化:語り手=作中人物 共有視点 語り手は作中人物が知っている以上のことを語らない。 3外的焦点化:語り手<作中人物 外在視点 語り手は作中人物が知っているよりもわずかしか語らない。 複数視点の物語:移ろう内的焦点化・複数の内的焦点化 例:『藪の中』、『羅生門』 映画での語り口 完全に一人称の語り口の例:『クローバー・フィールド』(全編手持ちビデオカメラから撮られた映像) ふつうは限定された語り(一部の登場人物から見た世界を語る)を使うが、重要な時に、全知の語りから情報をあたえて、観客の気持ちをぐっとさせたり、サスペンスをもりあげたりする。 例:すれちがいドラマ(観客は恋人同士がすれちがっているのを知っているのだが、登場人物はそれと知らない。観客はおもわず登場人物に「気づいて!」と呼びかけそうになる)。 ヒッチコック『サボタージュ』爆弾が入っている荷物だと観客は知っているが、登場人物たちは知らない。いつ爆発するのかと観客ははらはらする。 ヒッチコック『汚名』ではアリシアがスパイであることを知った夫とその母はアリシアを毒殺しようとするが、アリシアとデブリンはそれを知らない。全知の語りで観客にそのことを教えることでサスペンスが盛り上がる。 登場人物の主観に観客を同調させ理解させる方法 主観ショット(point-of-view shot):登場人物が見たものを写すショット 例:『散りゆく花』の主観ショット 登場人物のボイス・オーバー:登場人物の声がみずから語る。 観客への呼びかけ:登場人物がカメラを通じて観客に話しかけること 物語形式 物語の要素:登場人物、行為、時間、場所、因果関係 物語要素の選択と配列 シュジェート:選択され配列されスクリーンに上映された出来事 ファーブラ:シュジェートの背後にある時間順にならんだすべてのできごと 空想世界の提示物語内的: 物語世界に含まれる部分 物語外的:物語世界の外にある 構造: 3幕構成、4部構成、枠構造、エピソードからなる構成 語り:全知の語り、限定された語り、主観的な語り 上映会:『スラムドッグ・ミリオネール』 インド映画はすごいエネルギー。 2映画分析入門(8)
映画のスタイル 古典的:明快なお話語り リアリスト:人物像の探求や生活の把握を志向。 フォルマリスト:表現の仕方に注目させる。 リアリスト的映画スタイルの例 『ウンベルトD』Umbert D.(Vittorio De Sica1952) 女中の朝のコーヒーの支度の様子を長々と描く。 イタリア・ネオリアリズム フォルマリスト的映画スタイルの例 『脳内ニューヨーク』Synedoche, New York (Charlie Kaufman 2008) 映画の意味についての情報を提示するものには、 (1)記述的なもの(あらすじなど) (2)解釈的なもの (3)評価的なもの がある。 分析や記述がなくて評価だけしても説得的ではない。 映画について書こうとするとより映画が深くみることができるのでおすすめ。 ただし最低2回を観てから書くこと。 あらすじも書けないであれこれコメントするなど、論外。 2 映画分析入門(7)http://youtu.be/8egldd8SziE
ほかの映画への言及(間テキスト的言及) ラン・ローラ・ランRun Lora Run (Tom Tykwer 1999) のなかの、 ヒットコックの『めまい』Vertigo (Hitchcok 1958)への言及 ブロンドのアップした巻き髪の女 この言及は単なる言及のとどまらず、 映画の構造の類似性を示している。 『めまい』 主人公は愛する女の転落を目撃した後、ふたたびその再現のような愛する女の転落を目撃する。話をまき直して2度起きる。 『ラン・ローラ・ラン』では、薬の売買の大金をなくした恋人にローラがなんとか金を工面しようとするが、①恋人は強盗をして失敗。再度、話がもどってやり直し、しかし②救急車にひかれて死ぬ。再度話をもどしてやり直し。③カジノで大金を得て大団円。 話を3回まき直してやり直す。 巻き髪と年輪はフイルムのメタファー (年輪のメタファーは『ラ・ジュテ』で用いられる)。 時間の再帰的構造はフイルムに納められた時間の性格である。
2.5 映画分析入門(6)http://youtu.be/-iK6xI6-lvQ
映画の向こう側の世界への言及 風と共に去りぬGone with the Wind (Victor Fleming 1939) 南北戦争 シャーマン将軍によるアトランタ焼き払い(焦土作戦)への言及 コールドマウンテンCold Maountain (Anthony Minghella 2003) 南北戦争のピーターズバーグ包囲戦への言及 第一次世界大戦では通常のものになった塹壕線の先駆けとなり、 軍事史の中でも顕著な位置付けを与えられている。 イグノリアス・バスターInglourious Basterds (Quentin Trantino 2009) ゲシュタポに両親を殺されたフランス娘が経営する映画館にかかっている映画 レニー・リーフェンシュタール主演 Die weiße Hölle vom Piz Palü ドイツ占領下のパリ、であることを示す。 リーフェンシュタール: ダンサー→山岳映画の初演女優→ナチ宣伝映画の監督 『意思の勝利』ニュールンベルクでのナチス党大会の映画 『オリンピア』ナチス政権下でのベルリンオリンピック記録映画 ベルリンオリンピックのための映画、というより、 ベルリンオリンピックはこの映画のためのオリンピックだったのでは、 とさえ言えるほど、この映画撮影のために大会・選手は協力させられている。 映画の持つ、ナショナリズムの宣伝の力、への言及となっている。 スターや著名人への言及 Dick Tracy (Warren Beaty 1990) Al Pacino演ずるBig Boy 過去のギャングスター役とのかぶり 『ビリジット・ジョーンズの日記』 BBCのドラマ『偏見と高慢』に夢中の主人公 ダーシー役:コリン・フォース 作家がこのダーシー役から作中のマーク・ダーシーを構想。 マーク・ダーシー役を同じくコリン・フォースが演じている。 2 映画分析入門(5) http://youtu.be/ZxTTdkIQI4U
細部と構造 並行と構造 並行しての配置は映画の最初と最後を比較させることで、 映画全体の構造についての情報を観客に与える。 『裏窓』(アルフレッド・ヒッチコック1954) 最初と最後 同じ場所を映す 二人の主人公が経験した大きな変化を伝える 転換点(turning points) 物語映画には、 はじまり、中間部、終わり、と それへの転換点 がある。 監督はここが転換点だとわかるように さまざまなしるしをつける。 40 Year Old Virgin (Judd Apatow 2005) 40歳の童貞男 女性客から電話番号をもらった主人公 初体験に向けて仲間と盛り上がる。 ズームとドーリーショット In A Dream(Jeremiah Zagar 2008) 自身の作品であるモザイクの中を歩く主人公 創造の道を見つけて歩みだした芸術家 家庭問題を抱えてモザイクの城から出て行く主人公 主のいなくなったモザイク1 主のいなくなったモザイク2 すべての映画は、 転換点とくり返し(モチーフ)で 構造がつくられている。 反復と、時間順ではない構造 Night and Fog 夜と霧 (Alain Resnais アラン・レネ 1955) (1), (2), (3) ナチ時代:白黒 戦後:カラー 時間順にならべるのではなくて、 戦後のカラー映像を挟み込むことで 強烈な視覚的コントラストを生み出す。 2 映画分析入門(1)http://youtu.be/3mxz8PAv0jo
2 映画分析入門(2) http://youtu.be/EGgmeHvcnwc 2 映画分析入門(3) http://youtu.be/C-TKrik5HT4 2 映画分析入門(4) http://youtu.be/w0dW56Nf8eo 映画論の後、質問に来た方、間違えをおしえてしまいました。 渡り鳥を描いた映画の名前は、WATARIDORI、です。 英語の題名は、Winged Migration、です。 上映会:ヒッチコック『めまい』 1.映画分析への導入
http://youtu.be/RprJaEcd2MI 名古屋市立大学の一般教養講義のスライド・ショー。 引用はすべて学術引用とさせて頂きます。 上映会:オーソン・ウェルズ『市民ケーン』 講義概要 授業の目的・概要 メディアは私たちの環境の一つとなっています。本講義では、そうしたメディアの一つである、映画を取り扱います。 「子供らしい無垢な心で思うまま書きましょう」、などという、たわけた作文教育のおかげで 無知なままに思いつきの作文(印象批評)することで事たれり、と思っている、ナイーブ(ばか)な段階を脱して、映画を分析的によりおもしろく見ることができるようになりましょう。 学習到達目標 印象批評を脱して、映画をその構造と技法にそくして分析・評論できるようになる。 授業概要 すぐれた映画論の教科書に即しながら、映画をより分析的により豊かに観ることを学ぶ。 授業計画 1.導入 映画分析へのアプローチ 2.映画について書く 3.語りの形式 4.ミザンセヌ(演出) 5.撮影 6.編集 7.音楽 8.ドキュメンタリーとアバンギャルド・フィルム 9.映画とイデオロギー 10.社会的文脈と映画のスタイル 11.文化現象としての映画スター 12.ジャンル 13.作家主義 14.産業としての映画 15.まとめ 教科書・テキスト Maria Pramaggiore & Tom Wallis, Film: A Critical Introduction. Laurence King (ISBN 978-1-85669-720-0) 和書では見られないすぐれた内容。オールカラーしては安価。 参考文献 高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』 (岩波現代文庫) 日本語で書かれたもっともすぐれた映画監督論。講義では扱わないがぜひ読むことを勧める。 斉藤美奈子『文章読本さん江』(筑摩文庫) なぜこんなにも印象批評(無知な思いつき作文)がはびこるのかを、作文教育の暴走から解明してくれる本。大学の講義一般を受ける前に読むことを勧める。
『時をかける少女』 2006年
監督:細田守 原作:筒井康隆 脚本:奥寺佐渡子 ![]() 原作は短編。 アニメ作品はほとんどオリジナルな作品。 物語はほぼべつもの。 しかし設定(タイム・リープする女子高生、二人の男友達)は共通。 つまり物語世界を共有した、物語のべつのバージョン(変種)といえる。 ![]() 原作では少女(和子)は、時間跳躍と空間移動をする能力を、理科実験室でたまたま嗅いだ薬のよって得た。 二重存在の矛盾(過去に移動したらなもう一人の自分がいるはず)は解決されていたとされている(角川文庫77頁)(どう解決したかは述べてない)。 それに対して、アニメではこの二重存在の矛盾は問題になっていない。なぜなら、ここでのタイム・リープは、過去のある時点まで、時間の系をさかのぼり、そこからべつの時間の流れをつくる、つまり、別の時間の流れ(系)をつなげることがタイム・リープだから。 これはいわば、映画のフィルムをさかのぼって、その時点でフィルムを切って、つまり別のフィルムをつなげるという、映画(アニメ)の編集作業と同じ、時間のとらえ方なのだ。 時間はそこで二またになる。三叉路の標識の場所に何度も戻るのはこのパラレルな可能な時間系を示している。 ![]() 主人公真琴がバージョン2であるなら、主人公のおば(和子)がじつはバージョン1であることがわかる。 おばが高校時代の話をしているときに出てくる写真には、男子2人のはさまれた女子1人であるおばが写っている。筒井康隆の原作に主人公の名前は「和子」である。つまり、原作の主人公は、おば和子であり、このアニメはそのめい真琴によるバージョン2なのである。 技術的には、イフェクトをつかって影をつけていないにもかかわらず、奥行きがあるように見えるのは、アニメーターの技術が高いから。とくにキャッチボールをするときの体の動きはみごと。 ![]() 繰り返されるモチーフ キャッチボール:男女を意識する直前の少年・少女の心の通い合い。つみのない三角関係。 ![]() 三叉路のシーン:ある時点から、可能な時間がいくつも分岐していることをしめす。(映画的な時間系)。 土手のシーン:右から左へと人が移動。時間の流れ(時間直線)。 いったん時間直線を左(未来)に消えた千昭が、泣く真琴の元に戻ってきて「未来で待ってる」とささやき、真琴が「すぐ行く、走っていく」と答える。未来から過去につかの間やってきて真琴と恋をして去っていく千昭がこのワンシーンで集約されている。 平行関係:おば和子とめい真琴。おば和子が別れた相手とは会えないように、真琴も千昭とは二度と会えないだろう。しかし、千昭が見たかった絵(和子が修復)を、真琴は、千昭のいる未来へととどけるであろう。未来にもどった千昭が絵を探し行くと、その絵は存在し、その絵が真琴の努力によって消失を免れたことを知ることになるだろう。(ちなみに、真琴がおば和子を訪問した時に、絵が修復中であることの張り紙がある博物館のなかを、実は千昭のと思われる人物があるいているのが、後ろ姿が出てくる)。 なんといっても見事な脚本(オリジナル作品といっていい)。 脚本はきわめて自然な高校生の会話をとらえている(ようにおじさんには聞こえる)。 声優も登場人物の設定年歳とあまり年齢の変わらない仲里依紗、石田卓也らの起用が成功している。 原恵一 監督『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』
![]() 背景動画 普段は動かない背景を動かす手法 塔の階段を転げながら上るクレヨンしんちゃん ![]() 背景が動く=背景が主役になる=時代背景がテーマとなる。 20世紀の行動成長期の昭和の時代が主役となる。 時代は動く、背景は動かない。ならば背景のように動かない時代があるならどうか。 静止した輝かしい時代、それへのノスタルジーに浸りきるオトナ。 ![]() 子供帰りした父親(パパ)の、足のくさいにおいで、正気にもどすクレヨンしんちゃん。 ![]() 高校時代の淡い恋い、失恋、上京、新米社員としての奮闘、働くお父さん、つつましい家族の団らん。 ![]() ![]() 記憶をよみがえらすことで、父であることを再びひきうけるパパ。 (それにしてもこのパパの回想シーンはなんてすばらしいんだろう。涙なしでは見ることができない)。 物語論でいう「内的焦点化」とは
語り手は作中人物が知っていること以上のことを語らない。 レイアウトシステムは、たとえば、遠景・近景の移動指定をしたりするが、これは、限定された主人公の視点から風景(世界)を描くことになる。 こうした主人公からは見えない(背後)世界の構築をして、その世界を主人公の限定された視点からえがいているのが、 『機動戦士ガンダム』である。 さてこうした(背後)世界構築しきれない場合はどのなるのだろうか。 その典型例が『新世紀エヴァンゲリオン』であるように思われる。この作品では世界構築の破綻を、主人公の内的世界の投影としての「世界」として解決しているようにおもわれる。こうした内的世界の投影としての「世界」として物語世界の構築をかたづける一群のアニメが「セカイ系」と呼ばれる。 このセカイ系のアニメ、とりわけ「エバンゲリオン」と 自閉的で内的世界が肥大化したオタク世代との間には、過剰なシンクロが生まれた。 ![]() 歌舞伎の暫く ![]() ![]() ![]()
押井守『METHODS 機動警察パトレイバー2 演出ノート』 より引用。
「一編の映画を構成するカットの中には、ストーリーの展開に全く貢献しないカットも必要です。それどころか、敢えて言うなら、「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」もまた必要となります。 すべてのカットが〈物語〉を構成する部分として必要十分にその機能を果たし、かつ緊密な計算のもとに並べられているとすれば、それは演出家にとって理想といえるフィルムかもしれませんが、映画を構成するあらゆる要素が、ただ物語を実現するためだけに機能するのであれば、映画は所詮「物語の器」であるに過ぎないことになります。 実際には映画は見られることで様々な解釈を海、演出家の思惑を越えた〈映画〉として体験されます。そしてそれこそが〈映画〉という自由で若い形式の特筆すべき長所であり、そして可能性でもあるのです。映画の演出という作業を、その最も本質的な部分まで射程に入れて考えるならば、こうした演出の限界はそのまま演出の可能性でもあります。 映画は一般にどんな単純な作品でもこの種の読替の余地を残すものであり、量産による作品構造の単純化や撮影時の偶然、俳優との出会いなど〈偶然〉の介入によって、アクション映画が奇妙に普遍的な世界観を実現するような、そんな幸福な瞬間に出会うことがあります。一方でアニメは一般に実写作品に較べて情報量が圧倒的に少なく、(それゆえに表現や構造をコントロールしやすいというというメリットもあるのですが)この種の〈偶然〉と遭遇することは稀です。量産されるTVシリーズに較べて、謂わば一回勝負である映画作品の場合は特に〈偶然〉を孕みにくく、これがアニメ作品が同じ映画の構造を持ちながら、「所詮は漫画」であり、「底が浅い」という印象をもたらす原因のひとつになっています。 実写作品がカットそれ自体の持つ情報量(意図せざるものをも含む)によって、易々と実現してみせながら、アニメ作品では常に欠如しているもの、それが世界観の基礎でありバックグラウンドでもある“世界の奥行”に、映画の現実(世界)にも必要十分以外の要素、不確定な情報=ノイズが必要なのです。そしてこのノイズこそが「意図したものしか描けない」アニメのもっとも苦手な描写であることは明らかです。アニメ作品の映像は原理的に二次映像そのものであり、現実を機械的に写し取る実写映像に較べて初めから抽象度が高く、明確な意図と方法なしには現実を繋ぎ止めておくことの困難な“記号”に過ぎません。ことが単に情報量の問題だけでないことは、情報量そのものをいくら上げても、それが意図された情報に過ぎないという限界からも明らかであり、作画された映像はどこまでいっても“ノイズ”を発生させることはできません。 アニメがアニメであることの限界を抱えつつ、世界の奥行きを実現して〈映画〉に到達する方法とは何か? その試みが〔鳥のいる風景〕です。「P2」に登場する鳥たちにはどのような象徴的な意味もありません。強いて言うなら、それはこの作品で描かれた「世界」と「物語」に混入されたノイズであり、記号の体系を掻き乱すための異質な記号そのものに他なりません。本編の外側にあって物語りをアウトレンジし、作品を自律的に完結させようと目論む演出家の意図を長距離から射程に納め、射程に入れるそのことだけでこうとなる厄介な長距離砲。 それがつまり“鳥”なのです。 鳥をあちこちに出没させる作業にとって、レイアウトという工程が格好であることは言うまでもありません。 レンズの選択Lens アニメのレイアウトは、画角や奥行(パース)、光源の設定など、幾つかのようそによって構成されますが、〝レンズの選択〟もまた最終的な画面を構成する上で重要な様相となります。 ワイドレンズの特有な画角の広さ、画面の歪みや奥行感の誇張、あるいは長焦点レンズ特有の〝立ち上がり〟やフォーカス震度などレンズの持つ光学的な特性を作画によって表現するという手法は、撮影の技法である〝段マルチ〟同様に、実写の映像感覚をアニメに持ち込むものであり、フレーム外投射光やレンズのゴーストなど、様々な演出上の試みの延長線上にあります。 アニメで実写映像を再現することにどんな意味があるのか? それを考えることは、実はそのままアニメ映像の〝根拠〟について考えることでもあります。簡潔に言うなら、正統な〈アニメーション〉から派生した劇映画としての〈アニメ〉の映像は、その演出的基準を映画ではなく、むしろ実写映像の記憶に依存しており、そして(これが重要なのですが)実写映像そのものもまた、原理的にはレンズという物理的(光学的な)特性に依存しているだsけであって、決して美学的な概念や規範から生み出されたわけではないということです。人間の脳を介在させ、画布とイメージを直結してみせる絵画との決定的な違いがここにあります。一見すると、アニメーターが原動画を作成する姿は、絵画の制作過程に酷似して見えますし、作画作業の時点では同じ構造が存在するのですが、その本質は大きく異なります。アニメの作画はなによりもまず〝工程〟なのであり、それ自体で完結するものではありません。アニメの制作過程は全て最終画面から逆算され、必要とされる要素を積み重ねていくプロセスとして理解されるべきで、個々の作業の現場で実感(直感)される〝本質〟は、謂わばその局面に過ぎません。 こうした考え方は〝正統なアニメーション〟をもって任じる人々には受け入れ難いかもしれませんが、「広義の映画としてのアニメーション」さらには「特殊な劇映画の形式としての〈アニメ〉」という立場からは、ごく自然なものにすぎません。現在のアニメは作画は勿論のこと、CGやビデオワーク等、あらゆる映像の技術を駆使して制作されるものであり、この傾向はかつて映画が音声や色彩を導入した歴史と同じく、決して押し留めることができないものです。「可能な技術はそれがなんであれ必ず導入し、人間の脳裏に宿った映像は全てこれを実現する」ことが映画の取り敢えずの本質であり、映画の欲望そのものといっても過言ではありません。世界的にも類をみない〝特殊な劇映画の形式である日本のアニメ〟は、限られた制作環境のなかでこの欲望を実践しているのであって、そのかぎりにおいて、現在の映画の動向の先端に位置するものです。〝映画の欲望〟そのものの是非について---それはここでは語り尽くせない問題であうが、演出家(監督)が考えるべき最終的な課題であることは間違いありません。 奥行きの演出Perspective 解放空間-閉鎖空間 映画空間という言葉はあくまでも概念に過ぎず、スクリーンに映された空間はどこまでいっても平面に過ぎません。実写映画はその平面内にフォーカスというレベルを持ち込み、情報量の粗密によって、ごく自然に擬似的な奥行感を成立させていますが、(特殊な技法を除いて)線と面の表現でしかないアニメはただレイアウト上の工夫によってこれを獲得するしかありません。勿論、全てのアニメ作品が奥行感を必要とする訳ではありませんが、平面的構成を基調とする古典的、もしくは芸術的な〈アニメーション〉でなく、劇映画としての〈アニメ〉を目指すなら、これは避けて通ることのできない課題となります。レイアウトの目標、その努力の大半はじつはこの「奥行の演出」に向けられていると言っても過言ではありません。」 『攻殻機動隊』 モチーフ:物語の中心的なテーマにかかわる繰り返し。 ネット世界へのダイブ(飛び込み) ![]() 宮崎アニメにおけるグロテスクなるもの
![]() 宮崎アニメほどグロテスクなものをたくみに取り込んでいるアニメはないのではないだろうか 日本アニメでは絵の節約のために止め絵が多用される。
観客がそれをあまり異質なもとの感じないのは、 歌舞伎の見得を切るときのスローやストップモーションになれているからである。 『水戸黄門』や『東山の金さん』のようなマンネリな時代劇は、 じつは、見得のポーズがきまっている。 「この印籠の紋所が目に入らぬか。ここにおわすは先の副将軍、水戸光圀公なるぞ」、 ![]() 「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」 ![]() その見得へと話を落とし込むために話がワンパターンになるのである。 ![]() (お約束の由美かおるの入浴シーン) 止め絵を多用するアニメも、だから、決めのポーズへと落とし込む、ワンパターンなマンネリな話がなんども再現されることになる(べつに批判するつもりはない、個人的にはヤッターマンのマンネリは大好きである)。 ![]() ![]() 大友克洋『AKIRA』1988年 同原作のマンガのアニメーション。
![]() 1990年から海外でも公開され、日本のアニメーションへの海外の注目をもたらした。 ![]() 最終兵器による世界の破滅、超能力をもつ少年少女、軍隊としての自衛隊の描写など、その後のSF終末的なアニメの原型となっている。
テレビがつまらないから映画と写真の話をしよう (講義案)
---ベンヤミンの複製芸術論をてがかりにして--- 講義目的:映画と写真の登場が私たちにどのような思考の可能性を与えたのかを知る。 講義概要:19世紀が「小説の世紀」だとしたら、20世紀は「映像の世紀」だったと言えるでしょう。写真と映画というメディアは、私たちを取り囲む、1つの環境となりました。ではこの複製可能なメディアはどのような論理を持ち、どのような思考の可能性を私たちに与えているのでしょうか。この講義では、写真と映画やその他の芸術を、ベンヤミンの複製芸術論を手がかりにして、横断的に取り扱いながらこの問題を考察していくことにしましょう。 授業計画 1.はじめに 20世紀がまさに「映像の世紀」だったことを確認し、それが私たちにいかなる思考の可能性を与えたのか、という問題提起をすることにします。 2.ロシア・フォルマリズムの異化論とは何だったのでしょうか。私たちはそこに日常文脈に埋没してなれっこになっている(同化した)ものを、その文脈から引きはがし、異形なものとして提示する(異化する)という、20世紀の美学の誕生をみます。そしてブレヒトがこの異化をつかって、観客にあらたな社会認識をうながそうとしたことをみます。 3.映像の連続をきりとり、つなげあわせて新たなありもしない世界をつくりあげる、映画とはそういう芸術です。この映画の技法のほとんどを完成させたグリフィスの作品を観て、その技法を学びましょう。 4.ロシアにおけるモンタージュ理論は、グリフィスの作った映画技法を、理論化しました。クレショフの実験は映像のつながりが新たな意味を生むことを発見しました。さらに音楽が映像に加わることで「音楽によるクレショフ効果」(音楽による疑似的な時空間の付与)とでも呼ぶべきものが生まれることをみましょう。 5.もともと在った場所から引きはがされて、オーラをなくした映像の集積。そこに立ち現れる意味(天使)。 ベンヤミンは「技術的複製可能性の時代の芸術作品」などの一連の著作のなかでその可能性に賭けていました。ベンヤミンの思考の軌跡を追ってみましょう。 6.ナチスという政権はそれ自体が巨大な「夢工場」でした。リーフェンシュタール『意志の勝利』『オリンピア』やナチ娯楽映画をみることで、ナチスがどんな(悪)夢を作り上げていったのかを見ることにしましょう。 7.日常から引きはがされて集められた写真たちは、その写真に写っている人々の運命(ホロコースト)を語ります。瓦礫のような写真と遺物の集積からは天使ではなく、恐ろしい悪夢が立ち上がってきました。ボルタンスキーの作品にそれをみることにしましょう。 8.写真を撮ることは作為に満ちた行為です。しかし作為によって切り取られた写真の連続から立ち現れる愛する者を失った悲しみは作為を超えた「真実」となりえます。荒木経惟 『センチメンタルな旅・冬の旅』にそれをみてみましょう。 9.ベンヤミンの方法をつかって小説を書いたのが、ゼーバルトでした。彼の作品に見られる小説と写真の融合という記号と、そこから現れる、「記憶の遊歩者」を見ていきましょう。 10.さまざまな声をもつ語りから浮かび上がる「真実」 を描いたのが黒沢明の「羅生門」でした。黒沢はこれを集団脚本制作やマルチカメラの技法にも応用しました。アラン・レネはこの語りの重層性を「去年マリエンバードで」で用いたのでした。 11.クリス・マイケルの実験作『ラ・ジュテ』はスチール写真だけで構成された映画です。ここでは細分化された静止画の集積として時間が再構築されているのです。 12.映像群はつなぎ合わされ一本のリールとなります。リールとなった時間は逆戻りと反復が可能な時間となります。そうした可逆・反復可能な時間をあつかった作品、ヒッチコック『めまい』とクリストファー・ノーラン『メメント』を見てみましょう。 13.コマの連続は一つの時間を物語ることができます。わずか24頁のコマの連続によってある家族の年代記を語りきった、萩尾望都 「グレンスミスの日記」『ポーの一族』の技法を見てみることにしましょう。 14.映像の編集はべつ物語(人生)を語ることができます。映画的編集によって新たな人生をはじめること、それをジャンピエール・ジャネの映画「アメリ」に見てみましょう。 15.これまでのまとめ。映像の世紀である20世紀は私たちのいかなる可能性を与えたのでしょうか。それは映像の集積を再編集することで新たな生への可能性を指し示すことだったではないでしょうか。 医学教育が求める社会学とは何か?
(千葉大学セミナーでの報告) はじめに---医薬看護早期合同実習を指導して--- 大げさな題名をつけてしまいましたが、まずは私の勤務校でのささいな経験からお話をはじめたいと思います。 私が勤務する名古屋市立大学では数年前から、医学部・薬学部・看護学部の1年生を対象に、早期合同実習なるものを始めました。私がオブサーバーとして参加しているのは、KJ法で医療についてのテーマを話し合うというものと、模擬問診の体験実習です。 4月に入ってきたばかりの新入生たちがはたしてうまく共同して実習をすることができるのかしらと私は少々心配していたのですが、学生たちは私が予想していたよりずっとうまく、フラットな関係で一生懸命に協力しあい話し合い実習をすすめていきます。 そこで私は考えました。なぜ1年生の、それもちがう学部生同士が、このようにうまく協力しあい話し合えるのか。医療関係者のみなさんにとってはもう答えは自明のことでしょうね。そうです、かりにも医療者を目指す者ならば、それは、医学部であれ、薬学部であれ、看護学部であれ、「患者を治し援助したい」という思いは一つなのであり、その同じ思い(目標)をもっているから、ことなる学部の医療系学部生の間に連帯と協力関係がうまれているのです。 このことはおそらく、医療者にもあてはまることでしょう。異種の医療関係者が連帯し協力しあえるのは、「患者を治したい、あるいは(治せないにしても)なんとか助けたい」という同じ思い(目標)を持っているからなのです。 これまでの医療社会学 さて、こうした医療関係者の思い(目標)にたいして、これまでの医療社会学はどのような目標をもった、どのようなものだったのでしょうか。 医療社会学がおこなってきたことは、大きくみると二つだったように思われます。それは、医療社会の社会学的分析、と、医療が社会においてはたす役割の分析、でした。 医療社会の社会学的分析には、たとえば、医師と患者の関係の分析が含まれます。これのもっとも有名な理論は、パーソンズの「病人役割論」です。病人は治療を受けて休むことができ(2つの権利)、医師の言うことを聞いて良くならなくてはいけない(2つの義務)、というのがその内容です(あまりにも常識的なのでがっかりすると思いますが)。 また、医療社会の社会学的分析には、シンボリック相互作用論をもちいた「死のアウェアネス」という理論があります。これは、ターミナル(末期)の患者をめぐる認識の文脈には、①「閉鎖」認識、②「疑念」認識、③ 「相互虚偽」認識、④「オープン」認識、があるというものです。 医療が社会にたいしてはたす役割の分析には、フーコーの「生権力」批判があります(フーコーは社会学者とはいえないように思いますが、社会学者は有名な学者の業績は自分の領域に引きずり込むのが好きなので、社会学の古典としてよく言及されます)。これは、権力が生命をも把握しようとするとき医療がその手段となる、というものです。 またイリイチなどが展開した医療化批判(脱医療化論)もあります。現代人の生活全般に医療が浸食していくことを批判したものです。顕著な例が、「健康病」とでもいうべきものです。これは、健康のために運動して健康のために食事する、「健康のためなら死んでもいい!」という現代人特有の強迫観念とそれをあおって利益を得ようとする産業構造の発展のことです。 医療社会学者と医療者の目線のずれ こうした医療社会学の内容をみていくと、医療のたてまえ肯定であれ、医療批判であれ、医療社会学のもくろみは、どこか、医療者の関心・目的とは、ズレているように思われます。つまり、端的に言うなら、医療社会学者はもっぱら医療(者)を見ている、のにたいして、医療者は患者を見ている、のです。 患者を治す(援助する)ために さて、患者を治す(援助する)という目標をもっている医療なのですが、はたして単なる医学的治療だけで患者は治るのでしょうか。あるいは言い換えるなら、患者を助けるには、医学・生理学的な知識だけで十分なのでしょうか?いくつかの事例をあげてみましょう。 (事例1)治ったと思ったらまた入院してくる神経性の下痢の患者。 これは入院して治癒した神経性の下痢の患者が退院すると再発して戻ってくるというものです。 病院医療では治療はもっぱら隔離された病院の中で行なわれます。そこでは病人は「患者」です。しかし治療が終われば病院の外に患者は帰っています。この事例の場合、患者は主婦で、彼女は家族のもとに帰っていきます。家族間のコミュニケーションの障害(夫と子どもからの板挟み)により彼女の下痢は再発して、彼女はまた病院にもどってくるのです。こうした家族コミュニケーションの問題をあつかっているのが、心理療法の一種である家族療法です。ここでは家族を一つのコミュニケーションのシステムとしてとらえ、システムの潜在的な障害が、病人の病気として現れる(顕在化する)とされます。 (事例2)治ったと思ったら、退院後、自殺してしまったストーマ患者。 人工肛門設営にも成功し完治した患者がお礼と言ってナース・ステーションを訪問したとき、元患者の表情が暗いので、看護師がどうしたのかとたずねたところ、浴室で人工肛門のキャップ交換をしたら、そのあとに浴室に入った妻から、「臭い」と言われたと、話した。その後、その元患者は自殺してしまった。これは、後でお話する看護診断では「自己概念」の「ボディイメージの混乱」と呼ばれるものです。人間はだれしもが、自分のイメージ(自己概念self concept)を持っており、病気になったり手術を受けたりすると、それが大きく損なわれる。新たな自分の、この場合は身体のイメージを作って受容しなくてはいけないのだが、そうしたあらたな自己イメージは、家族・恋人などの協力がないとうまくつくられない。なぜなら、自己のイメージというものは、他人、とくに親密な他者を鏡にして作り上げられるからです(これを「鏡に映った自我」といいます)。 (事例3)自分の病気についてえんえんと語り続ける患者 これは事例というよりもしばしば見られることなのですけど、病院や医院の待合室でえんえんと自分の病気について話をしている患者をよくかけます。話したところで治るわけでもあるまいに、と思うのですけど、患者は自分の病気について語らないではいられないのです。それは、ちょうど、刺さったとげを覆うように皮膚がもりあがるのに似ています。病気という非日常的な状況に陥った時、その事態を自分に納得させるべく、人は物語のベールでそれを覆おうとするのです。人間は、いわばカイコのように、物語をはき出しその繭の中で生きている動物です。自分をその物語のなかで位置づけ説明しようとします。そうした自己のことを、「物語的自己」といいます。これは、家族療法の発展型である、ナラティヴ・セラピー(物語療法)で展開されている理論です。鋭利なナイフのような事件をおおうように物語が幾重にも生み出されしかもその袋を突き破って事件というナイフが飛び出してくるさまを知りたいと思う方は、ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』という小説(というよりノン・フィクション)をお読みになると良いと思います。 患者は具体的な人間である このような事例をとおしてみえてくることはどういうことでしょうか。それは、患者は疾患をもつ動物(ホモサピエンス)ではなく、病気をかかえた人間であり、その人間への理解が足りないと、十分な治療や援助はできないということです。つまり、疾患をもつ患者、という見方を超えて、病むことで問題をかかえた人間、という見方を持つ必要があるということです。 そうした見方をするために必要な知識・理論にはどんなものがあるのでしょうか。それを知るための、何か手がかりのようなものはないのでしょうか。手がかりはあります。それは「看護診断」というものにあると私は思います。 看護診断 医師というのは、あんがい(ぜんぜん?)看護学や看護理論の内容を知らない(知ろうともしない)人たちです。そこであえて素人の私が解説することにしましょう。「看護診断」とは、看護師がくだす診断のことです(看護師も診断するのです!)。医学診断とは、患者の疾患を診断することです。これに対して、看護診断とは、病むことで患者が人間として抱えるにいたった問題を診断することです。 医学診断と看護診断がどう違うのか、具体的な例をあげてみましょう。 今、ここに、大腸ガンの医師A、大腸ガンの主婦B、肝硬変の看護師C、肝硬変の建築業者Dがいるとしましょう。医学診断では、大腸ガンの患者は(A,B)、肝硬変の患者は(C,D)というふうに同じ疾患をもつものとしてくくられます。しかし、医師Aも看護師Cも疾患についての知識が豊富だろうと思われるにたいして、主婦Bも建設業者Dも疾患についての知識は不足していることでしょう。もしそうなら、看護診断では「知識不足」として、患者(B,D)が同じ診断を受けます。また、これまでの精力的な仕事ができなくなり引退においこまれるのではないかと医師Aと建設業者Dが不安に陥っているとするなら、看護診断の「不安」が(A,D)に診断されます。つまり、医学診断と看護診断の仕方とそれによる患者のくくりかたは、医学と看護の観点の違いにあるのです。医学がもっぱら疾患に注目してそれを治そうとするのにたいして、看護が病気を抱えながらも自分で回復していく人間に注目し援助しようとする、その観点と立場の違いが、この両者の診断の違いとなって現れるのです。(詳しくは、中木高夫著『POSをナースに』を参照ください)。 看護診断にみる社会学的内容 看護診断は、患者を、病気の人間として見ていくために、さまざまな領域からいろいろな理論を導入して診断名を開発しています。そしてそこには多くの社会学の理論も導入されているのです。 では看護診断のなかにはどのような社会学的な内容が導入されているのか、順次みていくことにしましょう。 領域6自己知覚 類1 自己概念、類3 ボディイメージ。これはすでにふれましたね。 領域7 役割関係 類1 介護関係、類2 家族関係、類3 役割遂行。 領域8 セクシュアリティ 類1 性同一性、類3 生殖母親/胎児二者間系 領域9 コーピング/ストレス耐性 類1 身体的/心的外 傷後反応 レイプ-心的外傷シンドローム、類2 コーピング反応 コーピング 家族コーピング妥協化・家族コーピング無力化、家族コーピング促進準備状態、非効果的地域社会コーピング、地域社会コーピング促進準備状態。死の不安。 医師はストレス概念は知っていても、コーピング概念は知らない人もいるようですが、これはラザルスという学者が提唱した概念です。状況がどの程度深刻なものと評価するかによってストレスは違ってくるし、その状況へ対処(コーピング)できるかによっても異なってくる、ふつう対処には、問題解決型と感情型とがある、という学説です。 領域11 安全/防御 類3 暴力 自殺 領域10 生活原理 類1 価値観 類2 信念 霊的安寧 類3価値観/信念/行動の一致 信仰心、霊的苦悩 これは宗教社会学、とくにヴェーバーの宗教社会学があつかった問題です。 領域12 安楽 類3 社会的安楽 社会的孤立 看護診断にみる社会学 こうして、看護診断をみていくと、そこに取り入れられている社会学は、「自己概念」、役割理論、家族社会学、地域社会学、宗教社会学、社会的孤立による「孤独死」・「無縁死」や自殺をめぐる社会学などだといえるでしょう。 ここで重要なことは、看護診断に導入されている社会学の内容は、医療社会学のそれではないことです。 たとえば、看護診断に導入されている「役割理論」は、医療社会学の「病人役割」論ではありません。患者理解のための、一般の社会における役割、が問題になっているのです。入院生活になじめない「社長さん」とか、手先がふるえて退院後の調理を案じている主婦とかを、役割理論によって、理解しようとしているのです。 医学教育が求める社会学 私たちがみた看護診断に導入された社会学の知識と理論内容は、患者を人間として理解するために必要とされた内容でした。医学も、より良い治療をするために、看護同様に、より患者を社会とつながった人間として理解することが求められるでしょう。だとすると、看護診断にみられた社会学の内容は、医学教育にもめられる社会学の内容をさし示しているみなすことができないでしょうか。 医学教育が求める社会学は、医療を見つめる社会学である「医療社会学」ではなく、社会に帰属する人間の理解を深めるための社会学、つまり、一般の社会学なのです。 なぜならば、医学も看護と同様に、患者という人間を対象として、それをなんとかして助けたいと思っており、その人間理解を深めるためには、患者が社会のなかでどのように生きているかについての、一般的な社会学の知識と理論が求められるからです。 では、医学教育において、これまでの一般的な社会学を教育していればいいのでしょうか。 答えはノーです。患者というのは病いによってきびしい状況にある人間です。医学はそうしたきびしい状況にある人間の理解を求めています。それに対して、既存の社会学はそうしたきびしい状況にある人間を十分にとらえるものになっていないように思われます。それはあまりに、常識的な考え方を学問的な言い回しで言い換えたものに過ぎないことが多すぎます。社会学を医学教育で教えるならば、これまでの社会学を刷新して、その上で教育しなくてはいけないでしょう。 これまでの社会学の問題点と刷新すべきところ 看護診断に導入されている社会学を参考にしながら、これまでの社会学の問題点と刷新すべきところを列挙していくことにしましょう。 自我論 「自己概念」の理論は社会心理学のものでした。それの自己概念の形成と変容をクーリーの「重要な他者」との関連で説明するべきでしょう。 また、自我が「物語的自己」であることをふまえ、個々人を支配する、ありふれた(しかし支配的な)物語から、個人がどのように解放され新たな物語を生成していくのかを説明しなくてはいけないでしょう。(これについては、メタファーによる物語形成を、拙著『ケアに学ぶ臨床社会学』で展開してみました)。 家族社会学 家族社会学はフェミニズムのジェンダー論の登場によって大きく変わりました。 ジェンダー論以前の家族社会学は、その耐えがたい保守性が特徴です。たとえば、パーソンズは、家族がはたす機能には、手段的機能と表出的機能があるとし、それはもっぱら、父親と母親によって担われるとしました。これなどは、「お父さんはお仕事に行き、お母さんはお家で子育てする」という、「おじさん」の言いそうなことの、焼き直しにすぎません。 これにたいして、ジェンダー論以降の家族社会学は、「近代家族」(両親と子どもからなる情愛にみちた閉じた核家族)が特殊近代西洋のものにすぎないことを指摘します。(さらにジェンダー論の家族社会学者の多くがフェミニストですから、暗に、そこからの解放・離脱を提唱します)。また、統計などをつかって、大所高所からみた家族論を展開します。たとえば、子どもが親の家からいつまでも離脱しないで寄生しているというパラサイト・シングル論などがそうです。 家族看護学は、患者理解のために、患者が帰属している家族を理解しなくてはいけないとして始まった学問です。当初は家族社会学の内容を導入していました。しかし、そのあまりの退屈さ(「常識」を疑うことのなさ)、切迫感のなさに辟易し、しだいに家族療法の内容を導入するようになりました。家族療法では、家族はひとつのシステムとみなされ、システムの障害が個人の発病につながるとみます。ただ看護教員がシステム理論を理解できないため、多くの大学が家族看護学から撤退しつつあります。 医学教育に導入されるためには、これまでの家族社会学の刷新が必要です。それには、家族療法の源泉となったベイトソンの理論にさかのぼって、家族のコミュニケーションのあり方から家族を論ずる必要があるでしょう。(拙著『ケアに学ぶ臨床社会学』でこれを試みてみました)。 地域社会学 最近、「社会関係資本」( social capital社交資産)という概念が注目されています。水平的でゆるやかな人とのつながり(例:米国のボーリング・クラブ)が、その人間の資産として、地位や職業の獲得などに影響し、またこの「社会関係資本」が高い地域は治安などもいい、という考えです。たとえば、イタリアでは社会観系資本が豊かな北中部では道州制に成功したというのです。反対に社会関係資本がとぼしいシチリアでは道州制がうまくいかなかった。ボス支配とそこへのコネがすべて、というシチリアは、実は「社会関係資本」がやせているのです。 これはべつの言い方では、NHKの番組にもなった「ご近所の底力」のことです。ご近所が相互につきあう、ゆるやかなネットワークを持っている(たとえばひんぱんにあいさつをかけあう)地域は治安もいいのです。こうした「ご近所の底力」は孤独死も減少させることが期待できます。地域社会学をこの社会関係資本に着目して刷新するべきでしょう。 宗教社会学 最近の宗教社会学は、宗教の集団的な側面や新規な動きなどを外側から語る傾向があるようです。しかし、人びとが宗教運動へのめり込む大きな理由には、病苦などの苦難にたいする納得的な説明をもとめる精神的な飢餓(神義論的問いかけ)があります。その意味で、神義論を議論の中心にすえたヴェーバーの宗教社会学の読み直しと復権が求められているでしょう。 自殺論 私たちはついつい自殺の原因を心理的原因に求めがちです。ところが、社会学の古典である、デュルケーム『自殺論』はこうした心理還元論をとっていません。彼によれば、自殺には、利他的自殺(集団本位的自殺)、利己的自殺(自己本位的自殺)、宿命的自殺、アノミー的自殺(螺旋状に際限なく増大する欲望に呑み込まれて自殺する)、があります。 社会の人間現象を、個人心理から説明しようとする傾向を「心理学化」と言います。しかし、自殺などの現象はむしろ不況などの社会的状況から説明したほうが見えやすいのです。自殺を社会状況から説明する試みは過度な心理還元論を是正することにつながるでしょう。 まとめ 医学教育に必要なのは、医療社会学ではなくて、一般の社会学です。だが、それは既存の社会学を教えればいいということではありません。患者を救うために患者を理解したいという医療関係者の切迫した思いに応えるべく、これまでの退屈な社会学を刷新することが、今求められているのです。 7.『未来少年コナン』 1978年 監督:宮崎駿 作画監督:大塚康生
![]() 原作アレクザンダー・ケイ作『残された人びと』 The Incredible Tide by Alexander Key 内田庶 訳 岩崎書店1974年 あらすじ ファシスト「平和連盟」の世界征服の試み、大津波が襲い世界は壊滅した。最後の避難ヘリコプターが墜落して、12歳のコナンは一人、孤島に漂着した。絶望したコナンは、「声」の命令に従って生き延びて5年が経った。一人のコナンの元へアジサシのティキィが訪れ、コナンは幼なじみのラナが生きていることを知る。島からの脱出を計画していたコナン。しかし突然「新社会」のパトロール船が島に来て、女医「ドクター」らによってコナンは「新社会」の都市「インダストリアル」へ連れて行かれる。 一方、ハイハーバーには大異変の前に多くに子どもたちが空輸されていた。ラナと叔母のメイザルもハイハーバーで暮らしていた。指導者は医師ジャンであったが、大人が十分に手をかけることができないままに成長した子どもたちは無頼の徒となりつつあった。「新世界」からダイス長官の指揮する船が来て、交易をせまり、ハイハーバーの支配権はダイス長官と彼と手をつなぐ不良オーロに移りつつあった。 インダストリアルに連れて行かれたコナンは額に十字の印を付けられる。激高したコナンは暴れ、囚人となる。近づいてきた年老いた囚人パッチはじつは高名な科学者でラナの祖父である「先生」ブライアック・ローであることを知りコナンは驚く。コナンは囚人としてパッチの造船部屋で働くことになり、二人はひそかにハイハーバーへの脱出を計画する。地殻の変動により再び津波がインダストリアルを襲い、町の半分は沈むことを先生は知る。さらに津波はハイハーバーを壊滅する。脱出の前にそれをインダストリアルの高級市民に告げた先生は捕らわれる。コナンは先生を救出して、二人はうハイハーバーへと向かう。 ハイハーバーではビールスによって伝染病が広がる。一人の女の子がその犠牲となって死んだ。ダイス長官はワクチンと引き替えにハイハーバーに隠されていたエネルギー変換器をもつ飛行マシンを手に入れる。実は伝染病は飛行船を手に入れるためにダイス長官がわざと住民に感染させたのであった。 コナンと先生は海上で迷い嵐に遭う。コナンたちを追ってきた船も難破し「ドクター」だけがコナンによって救助される。3人はあらたにいかだをつくってハイハーバーに向かう。 ラナは、「コミュニケーター」というテレパシーによる交信能力者である。ラナはずっと祖父「先生」と交信してきていた。「先生」たちが海上で迷っていることを知ったラナは能力を振り絞って、アジサシのティキィに乗り移ってコナンにハイハーバーへの航路を教える。 ハイハーバーに着いたコナンは津波がまもなく襲うことを告げ、住民に高台へ避難するよにう言う。コナンに抗い、津波に飲まれそうになったオーロを間一髪、コナンは助けるのであった。 原作を大幅に脚色している。ほとんど宮崎のオリジナルといっていいほどの作品となっている。 (アニメのあらすじはhttp://www.aooxsolution.com/conan/story を参照のこと。) 思いつくままに変更や拡張された部分をあげてみる。 コナンは一人で12歳の時、孤島に漂着して5年間暮らした。→コナンは残され島で生まれ、オンジによって育てられた。 コナンとラナは幼なじみである→残され島に漂着したラナをコナンが救ったのが二人の出会い。 女医「ドクター」→モンスリー(インダストリアの士官)。世界終末戦争により傷ついた元少女(『風の谷のナウシカ』のクシャナ王女の原型)。 ダイス長官:ハイハーバーを支配し、エネルギー変換器を奪取するためには手段をえらばぬ冷徹な士官→船長ダイス。気ままな海の男。インダストリアに反逆し、コナンたちの味方となる。 造船所の主パッチことブライアック・ロー「先生」は最初から正体をコナンに明かす→サルベージ船の責任者パッチはその正体をはじめはコナンにもラナにもあえて明かさない。 コナンの行程は孤島→インダストリアル→ハイハーバー。→アニメでのコナンの行程は、残され島→インダストリアル→サルベージ船→インダストリアル→ハイハーバー→インダストリアル→ハイハーバー→残され島 太陽エネルギーを得て世界支配をもくろむレプカはアニメだけの人物。太陽エネルギーで動く巨大飛行兵器ギガントを復活させる。『天空の城ラピュタ』のムスカの原型。 原作はほとんど情景の描写がない空間的な広がりに欠けた作品だが、アニメでは圧倒的な海と空の広がりを感じさせるものになっている。 三角棟の地下に押し込められた下級市民たちの群像は不リッツ・ラングの映画『メトロポリス』を思い起こさせる。また地下通路を移動する姿はアンジェイ・ワイダの映画『地下水道』を思わせる。 人類のための称して太陽エネルギーを獲得しようとするが実はそれは世界を再び破滅させかねない軍事利用のためのものだった、そのエネルギーの利用は地殻変動による大津波をもたらした、というストーリー展開は3.11以降の現実を知る者にとってあまりに苦い。原子力の平和利用としての原子力発電が、兵器としての原子力爆弾の技術を維持するために、温存・促進されてきたが、それは安全でもなんでもなく、津波によってその正体をあらわしたのだ。アニメのなかで出てくる「太陽エネルギー」とはまさに原子力にほかならなかったのである。 6.ルパン三世
モンキー・パンチの『漫画アクション』連載(1967~9)のマンガを原作としたアニメ 1971年-1972年 ルパン三世 (TV第1シリーズ) 1977年-1980年 ルパン三世 (TV第2シリーズ) 1984年-1985年 ルパン三世 PartIII 第1シリーズ 大人向けのハードボイツドタッチのアニメを目指すが、視聴率がふるわず途中から子どもも対象としたギャグ・アニメ路線変更 演出 :大隅正秋→Aプロダクション(宮崎駿・高畑勲) 作画監督:大塚康生 大人向きの物語の展開 メカニックの見事な描写 フェラーリ12気筒搭載ベンツSSK(ルパンの愛車) オープニング ![]() ![]() ワルサーP38などの銃、F1自動車、腕時計など ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 凧をつかった奇想天外な脱出。 ![]() かなり踏み込んだセクシーな描写 ![]() (第1回「ルパンは燃えているか?」では峰不二子の乳頭まで描かれている) もともとの大塚康夫の原画でも描かれている。 モニター画面の前に立つルパン ![]() 3回目放送の後で大隅は降板。 しかし第10回放送「ニセ札つくりを狙え!」までは大隅路線。 第11回「7番目の橋が、落ちる時」から宮崎・高畑路線。 (第10回放送「ニセ札つくりを狙え!」と第11回「7番目の橋が、落ちる時」は、 1979年宮崎駿監督作品『ルパン三世カリオストロの城』の材料となっている)。 第11回「7番目の橋が、落ちる時」 アニメの絵の中で、建物や車の模型を指さして説明するシーン(表象の中の表象) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 引きちぎられた桟橋に乗りながら、手錠のまま、ワルサーP38で敵を撃ち殺す。 ![]() ![]() ![]()
アルプスの少女ハイジ 1974年放送
監督:高畑勲 場面設定・画面構成:宮崎駿 キャラクターデザイン・作画監督:小田部羊一 音楽:渡辺岳夫 ![]() 原作 ヨハンナ・シュプリ『ハイディ』 3週間にわたる初の現地取材 ペーターとハイジのダンスは高畑勲と宮崎駿がダンスしてみせたのを原画におこしたものとのこと。 レイアウト(場面設定・画面構成)システムのはじまり レイアウトとは、一枚の紙に、背景とキャラクターの位置関係、動きの指示、カメラワークの有無やそのスピード、撮影処理など、そのカットで表現される全てが描かれた映画の設計図とも言えるもの。 それまでの、絵コンテ→背景画・原画、の制作にたいして、絵コンテ+レイアウト→背景・原画という工程にした。 場面設定 ![]() レイアウト ![]() ![]() (『BSアニメ夜話07アルプスの少女ハイジ』(キネマ旬報社2008年)56ー7頁) 人物たちが動く背景世界が整合したきっちりとしたものになる。 整合性のある統一的な背景世界のことをアニメ・オタクたちは「世界観」と呼んでいる。 原作と比較して あきらかな改変は、原作ではクララの車いすをこわしたのはペーターだが、アニメでは車いすが自然と下に落ちていってこわれたことになっている。1年間観客につきあってもらうことになるペーターを悪役にできなかった。原作では、ペーターは文明化されていない粗野な牧人の少年。ハイジによって啓蒙される対象。アニメでは純朴な少年である。 またクララがいったん歩けたのだけど、その後、なかなか歩けるようにならず葛藤するという話もアニメでのそ創作で、また物語の味わいを深くしている。 原作ではクララによい乳を飲ますために山羊に良い草を食べさせる、のだが、アニメでは、やせて乳のでの悪く飼い主が「つぶす」(屠殺)を考えている「ユキちゃん」(ユキのような白いやぎ)に、よく乳が良く出るようにするために、おじいさんの助言にしたがって必死に良い草をたべさせようとする、という話になっている。 原作にあるキリスト教の教え諭す内容(たとえば放蕩息子の帰還)は削られ、アルプスの自然のすばらしさとハイジという少女のもつ輝きが人々をこころのこわばりを溶かしていくという内容が展開されることになった。 むしろ原作のもっていた豊かさをこのアニメがひきだし展開したといえる。アニメ『アルプスの少女ハイジ』があったからこそ、この有名な割に忘れられかけた作品のもつすばらしさが理解されるようになったというべき。 宇宙船も戦争も事件らしい事件もない、それでいてけっして緊張がとだえることがないドラマ。何気ない日常こそが緊張と喜びと悲しみに満ちた現場なのだということを感じさせてくれる巧みなドラマ構成。 宮崎駿、自身も、『岩波少年文庫50冊』の中でこう書いている。 「ぼくらがまだ若くて、たぶんあなたが生まれるずっと前に、ぼくらはこの本を原作にして、52本のテレビアニメを作りました。ぼくらの先頭にいたのは、ひとりの若い演出家でした。もちろん今はおじいさんになっていますが、その人が有名なわりにあまり読まれなくなっていた原作に新しい生命をふきこんだのです。アニメより原作を本で読んだ方がいいという人がいます。ぼくも半分位そう思っていますが、この作品はちがうと思っています。見、読みくらべてみて下さい。ぼくらはいい仕事をしたと、今でも誇りに思っています。」(75頁) 音楽 ライトモチーフ(特定の人物や状況などと結びつけられ、繰り返し使われる短い主題や動機)をつかっている。フランクフルトにいるときも音楽によってハイジがアルプスの山をおもっていることがわかる。 3.
手塚プロ『どろろ』(1969年) 父の野望のために妖怪に身体の48カ所を捧げられ、片輪として生まれた百鬼丸は、妖怪を一匹一匹殺すことで、自分の身体を取り戻す。連れの少年(実は少女)の、どろろ、はじつは百鬼丸の身体の部分を集めて作られてできた子どもであり、彼(女)を殺せば、身体がもとに戻ると知らされても、百鬼丸はどろろを殺さず、妖怪退治を続ける。(身体の不足部分を器具によって補い人間の形をしている百鬼丸と、身体のパーツの寄せ集めである、どろろ、は、のちの手塚の『ブラックジャック』のピノコ(畸形嚢腫」で、双子の姉の体のこぶ(畸形嚢腫)の中に脳や手足、内臓等がばらばらに収まった状態であったものを、ブラックジャックが取りだし、器具をつけて人間のかたちにしている少女)を思わせる。 ![]() 国芳の妖怪 ![]() 百鬼丸がたたかう妖怪 ![]() 『宇宙戦艦ヤマト』(1977年) 実在の戦艦大和の被爆画像 ![]() 攻撃を受けるヤマト ![]() 船長の最後の言葉「地球か、何もかもが懐かしい」 ![]() 『銀河鉄道999』(1979年) ![]() ![]() 2.日本アニメーションの二つの軸
東映動画 『白蛇伝』(1958年)、『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)、『長靴をはいた猫』(1969年)などの長編作品を発表し、1960年代における東映長編時代が築かれていった。 2コマ撮りを基本としていた。1秒あたり12枚(1枚の絵を2コマずつ撮影)。 わんぱく王子の大蛇退治 マッスよりもフォルム(立体感よりも平面的な形)を重視する様式による新機軸 ![]() 息をのむ大蛇退治のシーン(原画 大塚康夫 原画補 月岡貞二) ![]() ![]() ![]() フル・アニメーション 映画のフィルムは、1秒24コマで映写されている。1秒あたり24枚のセル画で撮影されるのが、フル・アニメーション。 リミテッド・アニメーション フル・アニメーションより簡略化された抽象的な動作を表現する手法として考案され、1秒あたり12枚のセル画、2コマ/1枚のセル画、もしくはさらに少ない枚数のセル画で撮影される。 虫プロダクション(むしプロダクション、虫プロ) 日本のアニメーション制作会社。漫画家でアニメーターである手塚治虫が関係したアニメーション専門プロダクションである。「株式会社虫プロダクション」(旧虫プロ)1961年に設立され1973年に倒産した。 リミティド・アニメーションを多用。1秒あたり8枚(一枚の絵を3コマずつ撮影)を使用(「3コマ撮り」)。また動いている部分(たとえば口)だけを動画にする(口パク)や「止め」(音楽と声優だけが進行して絵は1枚の静止画のまま)を多用する。ダンピングによって、アニメの販売価格を低めた。マンガからテレビ・アニメという流れが定着した。しかし廉価で動きの荒いテレビ・アニメーションの蔓延をまねいたともいえる。 鉄腕アトム (アニメ第1作) フジテレビ系列にて、1963年1月1日から1966年12月31日まで放送。全193話。「日本で最初の1話30分の本格的連続テレビアニメ」。一部を除きモノクロ作品。 ジャングル大帝 フジテレビ系列で1965年(昭和40年)10月6日 - 1966年(昭和41年)9月28日まで全52話を放送。日本国産初の本格的なカラーテレビアニメのシリーズ。 人間の言葉を話す白いライオン(レオ)がアフリカに動物の共存共栄の帝国を建設する。 何と言っても見事なオープニング(ライオン・キングに多大な影響をあたえたと思われる) ![]() ![]() ![]() ![]() ライオン・キング(The Lion King)は、1994年6月15日に全米で公開されたディズニーによる長編アニメーション映画。 多くのキャラクターをジャングル大帝の影響から作っているが、あらすじはもっと単純な、『ハムレット』、映画『十戒』などに似た、王位簒奪・王位継承をめぐる物語。ミュージカル仕立てになっているが、それは『ジャングル大帝』にも一部あった(第34、35回「黒豹トットの逆襲」など)。 テーマ科目13 メディア環境論 マンガ・アニメ論 講義予定表 @名古屋市立大学
第 1 回現代マンガの誕生 手塚治虫『新宝島』・『来るべき世界』・『ジャングル大帝』・『漫画大学』・『漫画教室』 石森章太郎『マンガ家入門』 手塚治虫原案・浦沢直樹『Pluto』 第 2 回劇画の登場(1960年前後) 辰巳ヨシヒコ、白土三平『忍法武芸帳』 『ガロ』の革新 白土三平『カムイ伝』、つげ義春『ねじ式』・『ゲンセンカン主人』・『赤い花』・『無能の人』 『COM』の応戦 手塚治虫『火の鳥』 原作ものマンガの登場と隆盛 梶原一騎・ちばてつや『あしたのジョー』 小池一夫『子連れ狼』 第 3 回24年組の登場 大島弓子『バナナブレッドのプディング』・『綿の国星』 竹宮恵子『風と木の詩』・『地球へ』 山岸凉子『アラベスク』・『天人唐草』・『夜叉御前』・『日出処の天子』・『舞姫 テレプシコーラ』 萩尾望都『11人いる!』・『ポーの一族』・『トーマの心臓』・『訪問者』・『イグアナの娘』・『残酷な神が支配する』・『バルバラ異界』 第 4 回ストーリー少女マンガの誕生と展開 手塚治虫『リボンの騎士』、 池田理代子『ベルサイユのばら』 少女マンガの王道 ストーリー少女マンガ 美内みすず『ガラスの仮面』 一条ゆかり『デザイナー』・『砂の城』・『有閑倶楽部』 第 5 回ギャクマンガ 革命から自虐へ 赤塚不二夫『もーれつア太郎』『天才バカボン』 山上たつひこ『光る風』・『喜劇新思想大系』・『がきデカ』、吾妻ひでお『不条理日記』 ギャグマンガの限界なき自壊 鴨川つばさ『マカロニほうれん荘』、江口寿史『すすめパイレーツ!』・『ストップ・ひばりくん』 四コママンガの革新 いちいひさいち『バイトくん』、吉田戦車『伝染んです』 第 6 回マンガ描写の革命からジャパン・アニメーションへ 大友克洋『気分は戦争』・『童夢』・『アキラ』・『AKIRA』・『MEMORIES』・『STEAMBOY』 (第7回にまたがる) 第 7 回 描けるんです! 高野文子『絶対安全カミソリ』・『お友達』・『るきさん』 高橋留美子『うる星やつら』・『めぞん一刻』・『人魚の森』・『人魚の傷』 鳥山アキラ『ドクター・スランプ』・『ドラゴン・ボール』 谷口ジロー『坊ちゃんの時代』・『神々の山嶺』・『遙かなる町へ』 第 8 回 Jコミック 岡崎京子、よしもとよしとも、望月峯太郎、松本大洋、古谷実、浅野いにお 現代のカリスマ 井上雅彦『スラム・ダンク』・『リアル』・『バガボンド』 第 9 回 藪下泰司 『白蛇伝』 芹川有吾 『わんぱく王子の大蛇退治』 手塚治虫 『鉄腕アトム』・『ジャングル大帝レオ』 第 10 回 松本零士 『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』 富野喜幸 『機動戦士ガンダム』 第 11 回 高畑烈 『太陽の王子ホルスの大冒険』・『じゃりんこチエ』・『アルプスの少女ハイジ』・『火垂るの墓』 第 12 回 テレビシリーズ『ルパン三世』 宮崎駿 『ルパン三世カリオストロの城』・『未来少年コナン』・『風の谷のナウシカ』 第 13 回 押井守 『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』・『機動警察パトレイバー』・『甲殻機動隊』 第 14 回 庵野秀明 『新世紀エヴァンゲリオン』 細田守 『時をかける少女』 第 15 回 荒川弘・水島精二 『鋼の錬金術師』 今敏 『東京ゴッドファーザーズ』
1.東映『白蛇伝』1958年
日本初のカラー長編マンガ映画。 ![]() 子供だまし、しようという気がまるでない、大人の鑑賞にもたえうる作品を、一から作り上げた高い志。 ![]() ![]() 元になったのは、白蛇伝、という中国の民話だが、直接の元になっているのは、 『白夫人の妖恋』(びゃくふじんのようれん)(1956年公開)東宝とショウ・ブラザーズ共同制作の特撮伝奇映画。高波が寺を襲う特撮はなかなかのもの。 ![]() アニメーション化では、パンダ、ミーミー、ブタ、イタチ、ネズミなどの動物が追加されている。アニメーションらしい動きがとくに動物に見られる。 ![]() ![]() ![]() それにして、たった二人で全登場人物の声を担当した、宮城まり子と森繁久彌はすごい。 マンガ論講義 目次 @大谷大学
1 現代マンガの誕生 手塚治虫『新宝島』・『来るべき世界』・『ジャングル大帝』・『漫画大学』・『漫画教室』、 石森章太郎『マンガ家入門』 2 劇画の登場(1960年前後) 辰巳ヨシヒコ、白土三平『忍法武芸帳』 3 『ガロ』の革新 白土三平『カムイ伝』、つげ義春『ねじ式』・『ゲンセンカン主人』・『赤い花』・『無能の人』 『COM』の応戦 手塚治虫『火の鳥』 4 原作ものマンガの登場と隆盛 梶原一騎・ちばてつや『あしたのジョー』小池一夫『子連れ狼』 5 ストーリー少女マンガの誕生と展開 手塚治虫『リボンの騎士』、水野英子『星のたてごと』、池田理代子『ベルサイユのばら』 6 24年組の登場 大島弓子『バナナブレッドのプディング』・『綿の国星』、竹宮恵子『風と木の詩』・『地球へ』山岸凉子『アラベスク』・『天人唐草』・『夜叉御前』・『日出処の天子』・『舞姫 テレプシコーラ』 7 萩尾望都『11人いる!』・『ポーの一族』・『トーマの心臓』・『訪問者』・『イグアナの娘』・『残酷な神が支配する』・『バルバラ異界』 8 少女マンガの王道 ストーリー少女マンガ 美内みすず『ガラスの仮面』(劇中劇について) 一条ゆかり『デザイナー』・『砂の城』・『有閑倶楽部』 神尾葉子『花より男子』 9 ギャクマンガ 革命から自虐へ 赤塚不二夫『もーれつア太郎』『天才バカボン』 山上たつひこ『光る風』・『喜劇新思想大系』・『がきデカ』、吾妻ひでお『不条理日記』 10 ギャグマンガの限界なき自壊 鴨川つばさ『マカロニほうれん荘』、江口寿史『すすめパイレーツ!』・『ストップ・ひばりくん』 四コママンガの革新 いちいひさいち『バイトくん』、吉田戦車『伝染んです』 11 マンガ描写の革命 大友克洋『気分は戦争』・『童夢』・『アキラ』 12 描けるんです! 高野文子『絶対安全カミソリ』・『お友達』・『るきさん』 高橋留美子『うる星やつら』・『めぞん一刻』・『人魚の森』・『人魚の傷』 鳥山アキラ『ドクター・スランプ』・『ドラゴン・ボール』 谷口ジロー『坊ちゃんの時代』・『神々の山嶺』・『遙かなる町へ』 13 Jコミック 岡崎京子、よしもとよしとも、望月峯太郎、松本大洋、古谷実、浅野いにお 14 ストリーテラーたち 浦沢直樹、諸星大二郎、星野之宣、弘兼憲史、本宮ひろ志、さそうあきら (手塚治虫原案・浦沢直樹『Pluto』) 15 現代のカリスマ 井上雅彦『スラム・ダンク』・『リアル』・『バガボンド』 (13) J コミック
岡崎京子 大胆な性描写の向こうに、セックスでも消費でも決して癒えぬことのない、凶暴な傷をかかえた、したたかに見えて、じつは傷つきやすくもろい少女と少年たち、を描ききった。今、ここに生きている、ぼくら/私たちが、ここに、ある。 『Pink』 ワニを飼う売春少女 ![]() 『リバーズ・エッジ』 汚れた河口ぞいの高校に通う少年少女。川岸に放置された遺体を宝物にする少年と少女。 「そして惨劇が起きる。平坦な戦場で彼らが生き延びること。」(ノート あとがきにかえて)。もっとも先鋭的な文学の試みがここにはある。 ![]() ![]() よしもとよしとも 『青い車』 事故で恋人を失った少女と、その恋人の弟。 ![]() 望月峯太郎 『バタアシ金魚』熱血純情水泳部マンガ ![]() 『ドラゴン・ヘッド』 世界終末パニック・マンガ ![]() 『万祝』 海洋冒険マンガ ![]() 松本大洋 現代の絵師。二人の男の友情と挫折と克服。 『花男』 野球狂の父とそこに引き取られたひ弱で頭でっかちな息子とが繰り広げるひと夏の奇跡。 ![]() 『ピンポン』 天才ピンポン少年の挫折とその天才をよみがえらせる幼なじみ。 ![]() 『竹光侍』 狂気をかかえあえて剣を捨てて竹光を持つ青年と彼を襲う刺客との壮絶な戦い。 ![]() 浅野いにお 現代の力無い絶望のなかでひたむきに生きていく若者たち。 『すばらしき世界』 ぼくたちの生きているこの世界は美しくもなければすばらしくもない。だけど、そんな世界でぼくたちは生きていくしかない、そう生きていくのだ。そしてぼくたちが生きていくならば、それはきっとすばらしい世界なんだ。 ![]() 『ソラニン』 会社を辞めてロック・バンドを結成した青年。死んだその青年が残した曲を演奏する恋人。しかしそれは大ヒットするわけではない。たやすい成功も夢の実現もない、それが主人公たちの生きている世界だ。 ![]() 高野文子
『絶対安全カミソリ』 作品ごとに絵柄を変えてかき分ける驚異的な画力・構成力・演出力 ![]() ![]() 「たなべのつる」痴呆老女を少女として描く(痴呆の綿の国星?) ![]() 『お友達』 ![]() 『るきさん』 ![]() 『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』 マンガの中で主人公の少女の『チボー家の人々』の読書を追体験させる。 文学とマンガというメディアの交差の向こうに見えるのは、亡霊のような、老いることのない小説の登場人物たちと、それを読んでいた華やぎこそないがひたむきで確かに輝いていた一人の少女の時間と時代である。 ![]() ![]() 高橋留美子 画面展開のテンポの良さ、巧みなキャラクター形成、少女マンガに学んだコマの巧みさ、卓越したストーリー展開。とにかくうまい。各国に翻訳され今や世界的マンガ作家。 『うる星やつら』 ![]() 『めぞん一刻』 ![]() 同一の紙面に、向き合った二人の顔を描く、みごとなコマ処理。 『人魚の森』・『人魚の傷』 (人魚の森シリーズ。人魚の肉を食べたことで不老不死となった男女が永遠の時をさまよう。 ![]() これって『ポーの一族』へのオマージュ(敬意を込めたパクリ)? 『犬夜叉』 ![]() 半妖(犬夜叉)と巫女の末裔の少女との恋と冒険 「炎トリッパー」(炎に巻き込まれ戦国時代にタイムトリップする女子高生)と『人魚の森』の残酷なラブストーリーとを合体させてできあがった長編妖怪SFゴチックロマン(長い!)・マンガ。 ゴシックロマンとは18世紀末から19世紀初頭にかけて流行した中世趣味による神秘的、幻想的な小説。代表作『オトラント城奇譚』・『フランケンシュタイン』・『ドラキュラ』、エドガーアラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」もこの系譜にあたる。 ![]() 「アッシャー家の崩壊」さし絵 鳥山アキラ 卓越したデザイン的描写。 『ドクター・スランプ』 ![]() 椰子の木が生えるカルフォルニア的な村(知多半島の町?)が舞台。 すでに背景世界(世界観)が完成している。 『ドラゴン・ボール』 ![]() ドクタースランプの背景世界のなかで、宇宙人によるロール・プレイング・ゲーム。 主人公のライフ・レベルがついに加速度的に増大。 谷口ジロー メビィウスの影響を受けた白い精緻な画面。 『坊ちゃんの時代』関川夏央原作 ![]() 明治の文壇を舞台にした『坂の上の雲』。 伊藤整の『日本文壇史』を思わせる文学者たちの交流。 明治がもっていた夢と挫折。 『神々の山嶺』夢枕獏原作 ![]() 山岳マンガの極北。2005年アングレーム国際漫画祭 最優秀美術賞 『遙かなる町へ』オリジナル作品 2002年アングレーム国際漫画祭 最優秀脚本賞・優秀書店賞受賞。 ![]() ![]() 『孤独のグルメ』 ![]()
大友克洋の革新
大友克洋(1944-) リアルで、フラットで乾いた白い絵。 描き手が持ちがちなキャラクターへの溺愛がない、突き放した描き方。 マンガの歴史は、大友以前と大友以後に、二分された。 メビウス(ジャン・ジロー)の影響 ![]() メビウス(1938-)はフランスのマンガ(BD)の作家。 『童夢』 ホワイトノーズのように崩れゆく白い団地 ![]() ![]() ![]() 『AKIRA』(1983-93) ![]() ![]() 大友自身によるアニメ化(1988) 日本アニメへの海外の注目を集める。 ![]() ![]()
10.ギャグマンガの限界なき自壊
吾妻ひでお 『ななこSOS』 ![]() ACT.3 ACT.0 ななこSOS ネコの首風雲録 『不条理日記』 ![]() 『失踪日記』 ![]() ![]() ![]() 鴨川つばさ『マカロニほうれん荘』 ![]() 江口寿史『すすめパイレーツ!』 ![]() 『ストップ!!ひばりくん』 ![]() 『江口寿史の爆発ディナーショー』 ![]() 四コママンガの革新 いちいひさいち『バイトくん』 ![]() 『がんばれ!!タブチくん!!』 吉田戦車『伝染んです』 ![]() ![]() ![]() 『いじめてくん』 ![]() 四コママンガからストーリー・マンガへ 業田良家『自虐の詩』 ![]() 物語の自生的展開 すぐれたキャラクターは物語をうみだす。 「物語的自己」人間は自分のストーリーを作ってそのなかの主人公として自分を位置づけている。
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