メタファーを聞く--- 物語生成の核(種)として--- 私たちはすでに、家族療法において、「ナラティヴ・セラピー」という動きが盛んになったのをみました。ナラティヴというのは「物語り」のことです。心理の問題を抱えた人の多くが、自分を虐げるような物語の中に自分を置いていることが多い。そういう人が生き生きと自分を解放できるようなのびやかな物語を、話し合いながら一緒に編み出していこう、あるいはクライエントが生み出すのを手伝っていこうというのが、「ナラティヴ・セラピー」でした。 )。 だがその新たな物語形成において、問題となってくるのは、そうした新しい物語はどんな風に生まれてくるのか、そのきっかけ、契機は、どういうものなのか、という問題であす。 ここでは、この物語の生成の契機となるものは何かという問題を考えるべく、いくつかのケースを考えてみることにしましょう。 2.ケース1 下肢切断の患者の語り ある手術看護婦の話。 看護婦Tさんはもともとは、病院の窓口で働き、30歳になってから看護婦に転身した。そのため、看護の空気になじめないでいる。 ある日、初老の女性患者を術前訪問。患者は糖尿病の悪化で片足を切断する手術を受けることになっていた。てきぱきと質問と説明をできないTさんに対して、患者は一時間の長きにわたって物語った。 途中、師長から呼び出しがあった。師長いわく「遊んでいるかと思った」。 「だって患者さんはやっぱり不安だからついつい長く話すでしょ」とTさん。 「なるほど、そうだろうね」と著者(勝又)。 「でもそのひとは『不安』なんていう言葉をその人は使っていたの?」。 「うん、たしかに『不安』ていう言葉は使ってなかった」。 Tさんはしばらく考えてから、 「そういえば、『足に悪いことをした』って言っていたわ」。 Tさんの話を聞いていた私は唖然としました。しかし気を取り直して、 「それから患者はどんなことを言っていたの?」。 「ふん」(うん)と関西人のTさんは考えてから、 「『私は昔から病気と付き合ってきた、お父さんの看病や義理のお母さんの看病やら、ずっとしてきた』と言っていたわ」。 「それで?」。 「ふん」。私の質問にTさんはだまりこんでしまいました 「じゃ、思い出したらまた教えて」と私。 後日、Tさんからメールがありました。 「あれからずっと思い出そうとしたのだけど何も思い出せません。私は一体一時間も何を聞いていたのでしょう」。 3.ケース1の分析 この患者の話に著者がこだわったのは「足に悪いことをした」という患者の言い方の意外さです。この発言にはいったいどんな意味があるのでしょうか。 まず問題を外堀から埋めていきましょう。 Tを呼びつけて看護特有の嫌みを言った師長は術前訪問としてどんなことを考えていたのでしょうか。 おそらく手術に関わるいくつかの質問項目をてきぱきと聞き出すということを考えていたと思われます。同時にこの術前訪問は、「これからあなたはこれこれの手術を受けることになる、覚悟せよ」という宣告にもなっているのでしょう。 患者の状態は質問の項目だけ切り取られ、後は手術の予告があるのであって、じつは「患者(うだうだした)話を聞く場ではない」ようです。 ここでは患者は、手術という、いわば、生物機械への「修理」の観点からだけとらえられ、そのための質問用紙に患者の答えが転写されている。 それに対してTさんはどうだろうか。Tさんの頭の中には、「手術前の人間は不安のためにさまざまな訴えをするものだ」という考えがあったと思われます。ですから患者の訴えをみんな「不安」あるいは「不安のなせる業」という箱の中に放り込んでしまいました。 よく外国語で話しかけられた時のことを思い出すと経験することなのですが、日本語ではなんと言ったかは言えるのだけど、その外国人が外国語で実際にはなんて言ったかは思い出せないということがよくあります。日本語に翻訳された瞬間に元の言葉は忘れてれてしまうのです。 Tさんの話もそれに似ています。Tさんは患者の話した話を次から次へと「不安」という言葉に翻訳してしまったため、かんじんの患者の元の「語り」を忘れてしまったのです。 でもTさんが新米でしかも悪い意味での「看護ずれ」していない手術看護婦だったの幸いしたのかもしれません。患者の話を真に受けてしまう、そのナイーブさが、患者の「語り」を引き出すことに成功したのかもしれないからです。 さて、患者は「病気とずっとつきあってきた」という言い方をしてました。ここでは病気はつきあう相手、つまり人間のようなものにたとえられています。すなわち「擬人法」というレトリック(修辞法)が使われています。擬人法は、人でないものをひとのように見立てます。似ているということをつかって「見立てる」こと、つまり「~を・・・として見る」ということを「隠喩」(メタファー)と言います。つまり擬人法は隠喩の一種なのです )。 ここでは、これまで病人の看病をしてきたという経験と、これから糖尿病がもたらした片足切断によって障害者として生きて行かなくてはならないという未来とが、「病気とつきあう」という擬人化によってくくられています。つまり「病人の看護」と「障害を持ちつつ生きていく」とがともに「病気とつきあう」という言葉でくくられているわけです。。 患者はこのメタファーをつかうことで、これまでの過去を、「病気とつきあう人生」という形で整理して、これからの障害者として生きていく未来に、接続させているのです。 レトリックとは言葉によって人を説得する術です。メタファーもそうしたレトリックのひとつにほかなりません。しかしレトリックは他人を説得するだけではありません。この患者の場合には、自分を、今後の障害者としての人生を、自分に納得させるために、このレトリック使われているのです。 さて、問題の「足に悪いことをした」という表現をみてみましょう。 「悪いことをした」とか「すまないことをした」とか言われるのは、ふつうは人間に対してです。だから、ここでは足は人間のようにとらえられているといえるでしょう。つまりここでも擬人化がなされているわけです。 「悪いことをした」というのはどういう意味か。おそらく片足切断という状況になるまで糖尿病の治療を十分にしてこなかった。だから今回の切断は、ある意味、自業自得なのだと、患者は自分に納得させようとしているのでしょう。 では、まるで人格があるかのように「足」について語るのにはどんな意味があるのだろうか。 患者が「足に悪いことをした」と言った瞬間、足は別の人格を持つものとして患者に相対しています。それは患者とは別のものです。患者はすでに、自分とは分離し別個のものとなった足のことを考えているのです。片足が切断された後の状態を、患者はこの喩え(擬人化)で知らず知らずのうちに、先取りしようとしていたのもしれないと考えられます。 こうして、片足切断の手術を直前に控えた患者は、「足に悪いことをした」というレトリック(たとえをつかった説得の方法)によって、片足喪失の状況を生き抜いていく自分の物語りを紡ぎ出していこうとしているのです。切断される自分の足を別個の意思をもつ者にたとえることで、足をこれからなくすという話から、足を喪失して後その状況を生き抜いていく話へと、患者をつつむ物語りは転換していき、足の擬人化(たとえ)はその転換の接続点となっているといえるでしょう。 こうしてみると、私たちが自分を立て直す新しい物語りを作るとき、メタファー(見立て)はその新しい物語生成の核(種)となっていくのではないか、とも考えられる。 4.概念図式としてのメタファー ここでもうすこし一般的な考察をしてみましょう。 人間が事態のとらえるとき、そのありようは実はあまり多様ではありません。むしろ自分の体で経験したわずかなパターンを使い回していることがしばしばです。人間は、慣れない事態を、見立て(メタファー)によって、慣れ親しんだパターンに還元していることがよくあります。 そのためメタファーとも気づかないほど当たり前になっている多くの言い回しがあります。たとえば、「目玉焼き」というのももともとはメタファーです。 さらに「男に捨てられた」というような言い回しがありますが、本来、「捨てる」ことができるのは品物です。つまりこの言い回しでは「私」は使い捨てされる「品物」に喩え(見立て)られているわけです。 さらに「捨てる」という言葉の連想から「さんざんいいように使っておいて、ボロぞうきんのようにポイと捨てた」という具合にどんどんメタファー(隠喩)の中で連想が展開していってお話を作っていくことがあります。こういうメタファーの展開のことをアレゴリーといいます )。「別れた」を「捨てられた」と見立てることで、男女の別れ話は、品物を使い捨てる話へと移しかえられています。つまり男女の別れの話が、ものを捨てる話(概念体系)へと写し取られていく。その写し取り(写像)の端緒となったのは、「別れる」という事態を「捨てられた」というたとえ(メタファー)で語ったことにあります。そうすることで男女の別れの話は、ものを捨てる話へと写し取られて、物を使い捨てる話(概念体系)のなかで理解されていくことになります。 レイコフという言語学者は、メタファー(隠喩)を「ある領域(集合)を別の領域(集合)と関係づけることによって、一方を他方で理解する」するという頭の働かせかたである、と言っています。そしてAの領域(集合)の要素(たとえば「捨てる」)をBの領域(集合)の要素(「別れ」)に対応させる(写像)。そしてAの集合の世界のつながりをつかってBの集合の世界を理解する。つまりAの集合を、Bの集合を理解するための概念図式にすること、これを「概念メタファー」と呼んでいます )。 たとえば、「恋いは旅である」というメタファーは、「旅」に「恋」をたとえることで、旅をめぐる経験によって、恋愛というものを、理解していく。たとえば、「僕たちは道に迷った」、「途中事故にあった」、でも「ちゃんと目的地にたどり着いた」。こうして「旅」をめぐる経験をつかって、「恋」をめぐる経験が、腑分(ふわ)けされ、理解され、把握されていくわけです(もともと概念とは把握することを意味します)。 人間が実感を込めて経験的に理解できることの範囲というのは実は限定されたものです。私たちはそのままでは理解しがたい事態を、すでに慣れ親しんだお話へと移しかえ、それを展開していくことで、そのままではなかなか理解できないような事態を、理解できるものへと変えていくのです。 私たちが慣れ親しんでいる常套句(クリシェ)はこうした陳腐な喩えによるすり替えに満ちています。しかしこうした陳腐な言い回しによるありふれた物語りの圧政の下で虐げれている自分が存在します。そのとき、それまでとは違う喩え(見立て)をすることで、自分を別の物語りへと解放していくことが求められるのかもしれません。 しばしば「夫婦の絆」という言い方がされたりします。「絆」とはもともとは「動物をつなぎとめる綱」のことであり、本来はメタファーである。だがもうメタファーであるのを意識しないほど当たり前になった言い方になっています。しかしその喩えで考えるかぎり、夫婦の関係は強固で、それを失った者は、まるで「糸の切れたたこ」みたいに思えてくるでしょう。でももしここで誰かが「夫婦なんてポスト・イットみたいなもんよ」と言い出したらどうだろうか。この喩えは夫婦に対するまるで違った見方をもたらすかもしれません。 陳腐でそれだけに逃れがたい物語りのくびきから逃れるために、人はたとえ(メタファー)をつかい、それを種にして新たな物語りを生成していくのではないでしょうか。片足切断の手術を目前にした患者の一言から私はそうしたことを考えます。 5.家族療法におけるメタファー ではこうしたメタファーについてナラティヴ・セラピーではどのようにあつかわれているのでしょうか。家族療法の代表的な学会誌『Family Process』 に「メタファーを聞く」という興味深い論文が載っています。 ) メタファーというのは、ホワイトが遺糞症をスニーキー・プーと名付けて外在化した有名な事例に見られるように、決して家族療法では注目されてこなかったわけではありません。しかし家族員たちがみずから語るメタファーについてはこれまであまり注目されてきませんでした。だが論文の著者たちは言います。「私たちの考えでは、メタファーは、思考の物語様式の最も小さい単位であり、家族の「世界制作」の行為を定め保持する意味の多義性の織物への理想的な入り口点である。」 そして著者たちは、「家族が生み出すメタファーを使ってカウンセリングしていく7つのステップ」なるものを提唱しています。それはつぎのようなものです。 第1段階 メタファーを聞き取る。 家族の語りのなかにメタファーを見つけ出すことです。 第2段階 そのメタファーを有効なものにする。 子どもは言葉ではなくて絵などもメタファーとしては使う。そうしたさまざまな形で出てくるメタファーを、これはメタファーなんだ、というふうに確定していく必要があります。 第3段階 メタファーを押し広げる。 メタファーからクライエントの心理状態がどうであるかと探るのではなく、メタファーを展開していくことです。たとえば、子どもが「玄関マットみたいな気分だ」という発言をしたならば、それを「落ち込んでいるんだね」という風に読み取って(翻訳して)いくのではなく、「だれがそのマットを何のために使うの?」というふうに聞いて、家族全員にそのメタファーについてどんどん連想をひろげさせていくのです。 第4段階 可能性に遊ぶ。 これは第3段階に含めることもできます。メタファーをどんどん楽しみながら展開していくことです。たとえば、(私勝又が勝手に考えた例ではありますが)「そのマットは汚れているのかい?」「洗ってないんだろうな」とか、「いやペルシャ製だよ」「それがどうして玄関マットなんだろう」とか、楽しみながら話し合うこと、が例として浮かびます。 第5段階 他のものを巻き込む メタフェーを言った人間とカウンセラーだけでなく、他の家族員を巻き込みながらメタファーを展開していくこと。 ここで、重要なのは、メタファーがどんな意味かを解釈しようとしては話はおわってしまうということです。「それは君の不安の象徴だね」とか「お母さんの罪の意識の現れだね」とかいうふうに解釈をしないことが大切なのです。むしろメタファーをどんどんひろげて話を家族の会話の中で展開していく。つまりメタファーからお話を展開していくこと、私たちがすでにみた言い方では「アレゴリー」を展開していくこと、が大切なのです。 第6段階 印づけと選択 あるメタファーに着目してそれを展開するのですが、それにはさまざまな可能性があります。その可能性のどれかに印をつけて、家族の会話の中から選択しなくてはいけません。 メタファーの展開では、でたらめな展開とみえたものが、後からみると必然的な展開として現れることがあります。 たとえば、ある虐待をしている母親が「川に流されているような気分だ」と言いました。カウンセラーは、「おぼれそう?」「つかまるものはある?」「川に何か他のものはある?」と聞いてみました。しかし、その後6ヶ月も連絡が途絶え、カウンセリングはうまくいかなかったかと思っていたら、6ヶ月後やってきた母親はいきなり「川は湖に流れ込んでいて私は湖へと出た」とメタフェーからの話の続きを言い始めました。「今はカヌーのなかにいる。漕がなくてはいけないと思う。」と彼女は言いました。実は彼女は3週間ずっと禁酒してからカウンセラーの元へやってきたのです。メタフェーからのでたらめな展開と思えた連想はじつは必然性をもっていたのです。 第7段階 未来への接続 メタファーの意味を一義的に確定しようとして、メタファーの未来へと広がる可能性を切り刻んではいけません。メタファーがもつ発見的で前向きな力を大事にしていかなくてはいけないのです。 「メタフェーを聞く」カウンセリングでは、患者が何気なく行ったメタファーにカウンセラーが気づき、それを押し広げて、家族員全体を巻き込んだお話へと展開していくことが提案されています。これはまさにメタファーが概念体系から別の概念体系への写像であり、別の概念体系のなかでアレゴリーによって話を展開することを言っているにほかなりません。 レイコフと同じように、「メタフェーを聞く」の著者たちは言います。 「物語りが作られるのは、そして私たちの文脈でいうなら、私たちの環境に人間的な形と意味が与えられるのは、おもに、メタファーを通じてなのである。」 ところで概念体系から概念体系への写像を考えてみると、それは必ずしも言語の概念体系から言語の概念体系への写像とは限りません。言語から絵画への写像もあるし、さらに言語体系から身振り体系への写像もありえるでしょう。 そこで興味深いのは著者たちがあげている二番目の症例です。 家族は、母エレンと、娘7歳、11歳の息子、5歳の息子です。離婚した父は再婚しています。母親は自殺未遂で重傷し回復して退院している。ここでは、メタファーは5歳の息子の絵です。その絵では、噴火する火山のふもとで「助けて」と叫ぶ怪獣が描かれています。この絵が言葉にならない、家族と彼の状態の、メタファーとなっています。カウンセラーはこの絵をめぐっての家族員に会話を展開させていきます。そうするうちに、この5歳の男の子は絵を描き変えていき、それはしだいに穏やかな絵へと変わっていったというのです。つまり、メタファーは必ずしも言語的なものとはかぎらないのです。 6.ケース2:福祉の現場から ここでさらに福祉の現場におけるケースをみてみましょう。ある保健婦は訪問先の家庭で次のようなケースを見ました。 医療器具をつけている幼児のIちゃんは言葉で話すことはできないが、行動によって生命維持としての生活を表現する場面がみられた。アンパンマンのビデオを見ていた時のことである。急にIちゃんが倒れた。研究者はIちゃんの具合が急に悪くなったのかと驚き、「どうしたんですか?」と母親にたずねた。すると母親は『アンパンマンが倒れると、倒れて気管切開の所をはずすの。アンパンマンが助けられると(顔をつけかえてもらう場面)元気になるの。』と答えた。Iちゃんは気道が狭窄しており、吸引が必要なため、気管切開術を受けている。Iちゃんはアンパンマンが助けられると、母親に気管切開の所をつけてもらい、立ちあがり、ぱちぱちと拍手した。Iちゃんはアンパンマンが元気ない状態を、気管切開の所がはずれてしまい元気がないことにたとえて表現している。Iちゃんは、気管切開は生命を維持する大切な部分だと感じている。」 ) ここではどういうことが起きているのでしょうか。呼吸器をはずして苦しくなるIちゃんの事態が、アニメのなかのアンパンマンの困窮に移しかえられています。なぜそんなことをIちゃんはするのでしょうか Iちゃんは呼吸器をはずしては生きていけない、かわいそうな子だ。おそらく、そういう物語りが、Iちゃんに与えられていると思われます。しかしアンパンマンは顔を取り替えることで元気になりバイキンマンをやっつける英雄となる。こちらの話では(呼吸の)苦しみは次の復活と活躍の前段階です。呼吸器なしでは生きられないというIちゃんのこれまでの否定的な物語りは、苦しみから復活して活躍するという肯定的な勇気あるアンパンマンの物語りへと移しかえられています。つまりIちゃんは、アンパンマンが苦しんでいる時に自分の呼吸器をはずして、自分の苦しみとアンパンマンの困窮を対応(写像)させているのです。つまり自分の苦しみのメタファーとしてアンパンマンの困窮を対応させるという、ちょっと大げさ言えば命がけのメタファーがここでは行われているのです。 もちろん、このメタファーは身振りとアニメという、非言語的なものです。それはまだ物語にはなりきってはいないでしょう。新しい物語を作るには、その周りの人々が、「アンパンマンが元気になったように、Iちゃんも呼吸器をつけて活躍するんだね」、というようなことを言って、そのメタファーを物語として展開する必要はあるかもしれない。しかしともかくも新たな物語の種はIちゃん自身によってまかれたのです。 7.結語 新しい物語はどのように立ち現れてくるのかというのが私たちの疑問でした。新しい物語りは、思いがけない隠喩(メタファー)の形をとって、それを種(核)として立ち現れてくるのではないのか。ケアの現場における二つの事例を考察することで、物語生成の核としてのメタファーという仮説を私たちは得ることができたのです。
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by takumi429
| 2021-07-26 13:52
物語的転換からナラティヴ療法へ 意味的世界の物語の構造 ケース 自分もシングル・マザーである元保健師が、何人かのシングル・マザーに「あなたにとって子育ての意味とは何か」と尋ねた。 3人以上の会話では、「新しい恋人(男性)の出現はまわりから非難される」、「けなげな母親を演ずることが要求されているのを感じる」、と言った発言がみられた。 質問者との2人だけの会話になると、母親たちは、うってかわって自分の個人的体験を話し始めた。ただ「自分にとって子育ての意味は~だ」というふうには答えず、かわりにきまって①子どもの父親との出会い、②子どもの父親との別れ、③子どもの出産、④自分の母親との関係、の4つについて語った。 ここで興味深いのは、「子育ての意味」を聞かれた母親たちが、その質問をきっかけにして、子育てをめぐるお話を話していることです。これは質問に対するはぐらかしではないでしょう。私たちが文章を読んでいてある単語の意味をとらえようとする時、単語だけですぐに意味が理解されるわけではありません。単語の意味は、前後の文脈によってちがってきます。文脈があってはじめて意味が確定されます。しかしまた文脈は個々の単語の意味からできあがっています。文脈は個々の単語の意味が決まっていかないとつくられません。 外国語を読んでいる時のことを思い出してみるとわかりやすいのですが、私たちが外国分を読んでいるとわからない単語が出てくると、辞書を引いてその単語の意味を調べます。しかし単語によってはいくつもの意味が出てきます。どの意味なのかは、前後の文脈がわからないと決められません。しかし前後の文脈を理解するためには、こんどはそれをつくっている単語の意味がわからなくていけません。文脈が先か、単語の意味が先か。どうどうめぐりのようですが、私たちは辞書を何度もひきながら、「これはどうやら、こういうお話なのではないのかな」というふうに、文脈と単語の意味を探りながら、そこに書かれてある話を理解していきます。ちなみに、こうした文脈と単語の意味のどうどうめぐりのことを、「解釈学的循環」といいます。 このケースでも、「子育て」の意味をたずねられた母親たちは、その意味を成り立たせる文脈といえる、「子育てをめぐるお話」を話さざるを得なくなっているのです。 しかし、その「子育てをめぐるお話」も会話をする人数によってちがったものになってきます。 まず3者以上の会話の場面。3者関係というのは一種、公的な場面の性格をもっているのかもしれません。ここでは話される「お話」は、シングル・マザーをめぐってよく聞かされる「お話」になっています。いわく、「結婚もしないで子どもを作った女がまた男とくっついているよ」というような「尻軽女」のイメージの語り、あるいは、「あの人は女手ひとつで一生懸命に子どもを育てているよ」と言った、「けなげな母」のイメージの語り、です。 つまり3人以上の会話の場面という少々、公的な場面では、シングル・マザーをめぐる、世の中から押しつけられる「話し」(物語)が現れてくるのです。 2者関係の会話では、母親たちはうってかわって、自分なりの、子どもをめぐるお話、を語り始めます。おそらく、質問者もシングル・マザーであったために、回答者は自分と同じ仲間とみなして、両者に親密な関係が生まれたのでしょう。そうした関係の中だからこそ、子育てをめぐる、よりパーソナルな物語を語ることができたのでしょう。 これは、ケース7の保健婦に食べることの意味を問われた糖尿病患者たちは質問者である保健婦にあわせた回答をしていた、のとは対照的です。ケース7が、おそらく「保健師」という専門家の立場からの質問(と質問される人たちと思われた)であったのに対して、このケース8の場合は、同じシングル・マザーどうしの会話、という雰囲気ができていたのでしょう。 しかし、その場面でも、「子育ての意味は~だ」というような、言葉の定義づけのような回答がなされたのではありません。現在の子育てにいたる人生の大きな出来事、つまり①子どもの父親との出会い、②子どもの父親との別れ、③子どもの出産、④自分の母親との関係、が語られる。つまり、自分の子育てをめぐる物語が語られたのです。つまり、「子育て」の意味というものが単体であるわけではないのです。意味はそれを含む文脈によってちがいます。子育ての場合、その文脈は人生の子育てをめぐる大きな4つの出来事の歴史(物語)からかたちづくられるのです。 このケースから次のようなことが引き出せると思います。 意味は文脈としての物語のなかに組み込まれてはじめてその意味をもつ。 物語には、世間一般にひんぱんにくり返されている「ありきたりな語り」がある。しかしありきたりではあるが、それはその物語で語り説明される人間を大きくしばり、支配している。 質問者が専門家としての顔ではなく、質問される者と同格の者として現れ、そこで会話がなされるとき、質問される者からのびのびしたパーソナルな語り(物語り)がうまれてくる。 行為の意味を語るためには、それを語るために、語り手が不可欠だと思う人生の重大な出来事(イベント)があり、それをつなぐかたちで物語りがつくられ、その物語のなかで意味が与えられる。 物語論への転回 最近、人文系の学問では、さかんに「物語り」への注目が集まっています。 哲学の領域では、マッキンタイアという哲学者がその著『美徳なき時代』のなかで個々の行為の意味を理解するためにはその行為の文脈を理解しなくてはいけないと主張しています。 行為の意味をより「客観的な」行動へと還元していく学問傾向に抗して、マッキンタイアは次のように言います。 もし、私が、カント倫理学の講義の最中に、突然六個の卵を割ってボウルに入れて、小麦と砂糖を加えたとする。しかもその間ずっとカントについての講義を続けていたとする。このような場合に私の行為を行為の連続として理解しようとしても、私の行為は理解可能にはならない」 (255-6)。 マッキンタイアによれば、「行為の連続体が理解可能となるには、ある文脈が必要」(p.256)なのであり、「物語」とはまさにこのような文脈のことなのです。 私が論じたのは、ある人の行いを首尾よく同定し理解しているときには、私たちは常に、特定の挿話を一揃いの物語的な歴史という文脈に位置づけているという点であった。その歴史とは、当の個人のそれと、個人の行為と受苦の舞台のそれという両方の歴史である。さて、いま明らかになっている点とは、他者の行為がこの仕方で理解可能とされるのは、行為自体が基本的には歴史的な性格をもっているからだという点である。物語という形態が他者の行為を理解するのにふさわしいのは、私たちすべてが自分の人生で物語を生きているからであり、その生きている物語を基にして自分自身の人生を理解するからである。物語は、虚構の場合を除けば、語られる前に生きられているのだ。 日本語では「歴史」と「物語」とはぜんぜん別の言葉です。しかし英語では、history とstory となってこの二つは似ています。さらにフランス語ではどちらにもhistoire、ドイツ語でもどちらもGeschiteという言葉を使います。またイタリア語でもどちらもstoriaです。ですからフランス語、ドイツ語、イタリア語など多くの言葉では、「歴史」と「物語」は、単語では区別できません。つまり、「歴史」とはほんとうにあった「お話(物語)」のことだととみなされているのです。 西暦1159年、平治の乱。源義朝、平清盛に敗れる。 西暦1185年、壇ノ浦の海戦。源義経、平家を滅ぼす。 西暦1992年、源頼朝、征夷大将軍となる。 という出来事のられつ(とその暗記)を「歴史」だと思っている学生はきまって「歴史嫌い」です。ほんとうの歴史とは「平家清盛らによって一度は壊滅させられかけた源氏は平家を壇ノ浦で討ち果たし鎌倉に幕府を開いた」というふうに出来事を一種の「因果関係」でつないだ、現実にあったお話(物語)です。「物語的な歴史」とはこうした、「現実に起こったお話(物語)」のことです。 ちなみに、「物語」(story)は、もともとは、語り手(ナレーターnarrator)が語って、それが文章などにまとめられたものです。個々の語り手が語っているお話の方は、「(物)語り」(ナラティヴnarrative)という言葉をつかいます(ドイツ語ではErzählung、フランス語ではrécit)。また、物語のあらすじのことを「プロットplot」といいます。 マッキンタイアは私たちが他人の行為を理解するときかならずその行為の文脈にあたる「物語的な歴史」の中でその行為を位置づけ理解すると言います。そして、そうした他者理解ができるのは、「私たちすべてが自分の人生で物語を生きているから」なのです。 さてここで、人間の行為・同一性の本性へのこの探究の出発点となった問いに戻ることができる。「個々の人生の統一性は何に存するか」であった。答えは、「その統一性は単一の人生において具体化された物語がもつ統一性である」となる。・・・人間の生の統一性は、物語的な探求(narrative quest)の統一性である。 つまり、私たちの自我の統一性は物語によって支えられているのです。 心理学の領域ではJ.ブルーナーが中心となって、物語論を心理学に導入しようとしています。ブルーナーは、もともとは、1960年代後半からはじまった心理学の「認知革命」の担い手でした。それまでの心理学は「行動主義」といって、心をひとつのブラックボックス(暗箱)とみなし、刺激(S)を入力すると、どんな反応(R)を出力されるかを調べようとしてきました。これに対して、ブルーナーたちは、心(頭脳)のなかでどんなことが起きているか、つまり頭脳の働き(認知)を研究しようと提唱したのです。しかしこの「認知心理学」はその後、頭脳の働きをコンピューターでシミュレーションして研究しようとするコンピューター科学にいわば乗っ取られてしまいました。そこでブルーナーは、コンピューターを使った「計算主義」(人間の脳で行われているのは一種の情報処理計算であるという立場)を批判して、あらたに、心は文化なくしては在りえないという「文化主義」を提唱しました。そしてこの文化においてもっとも重要なのが物語(narrative)だというのです。 われわれは,物語的体制化に向かう一つの「生得的」で原初的傾性をもっており,それがわれわれの物語の理解や使用を早く容易にしている。しかし今一方,文化はやがてその道具一式を通して,また間もなく自分たちが参加するようになる伝統的な語りや解釈のしかたを通して,物語という新しい力をわれわれに備えさせてくれることとなるのである。 では、語り(narrative)によって編み上げられるストーリー(お話)はどんな働き(機能)をしているというのでしょうか。ブルーナーによれば、「ストーリーの機能は,正当とされる文化パターンからの逸脱を緩和し,あるいは少なくとも理解可能にするような意図的な状態を見いだすことである」。 つまり、病気などの普段の生活から逸脱した事態が生じた時、自己と自分の状況をまとめあげようと、よりいっそう物語りが生み出されていくことになるのです。病いなどの事態による意味の喪失という事態は、物語りによる意味の再生を求めることになるのです。 ナラティヴ・セラピー 1980年代になってから、家族療法(クライエントだけでなくクライエントを含むシステムとしての家族をカウンセリングの対象にすべきとする心理療法)において、ナラティヴ・セラピーという新しい潮流が生まれだしました 。 ここでは次のようなことが前提とされています。 人間は自分なりの「物語り」(narrative)をもっており、その物語りによって自分を形成しささえている、つまり「物語的自己」をもっている。たとえば、「男らしく戦地に赴き祖国のために戦う」という「物語り」を信じて多くの若者はベトナムへ、イラクへと赴いた。「いつか王子様が来る」と信じていた有能な女子大生はナイーブ(愚かな)な若者と出会い、キャリアをすてて家庭の「主婦」となる。 この物語りは対話の中で形成される。たとえば、映画、テレビ、ポスターの「銃を取れ!」という呼びかけに呼応して、父や友人との語らいのなかで「愛国心」や「民主主義」をめぐる物語りは彼の中でふくらみ、彼を内面から支えるものになる。クリスマスをめぐる麻薬的なおとぎ話を子供の頃から繰り返し聞かされてきた彼女はツリーもない部屋で一人で過ごすことなど信じられない。 こうした物語りはある文化において支配的な力をふるっている。たとえば招集を避けることは「臆病者」のすることであり、「愛国心の欠如」を意味するゆえに、徴兵拒否はできない。独りで過ごす女は「みじめな女」以外の何者でもないように思える。 しかし、しばしば支配的物語(dominant story)は彼/彼女を抑圧するものとなる。それは彼/彼女を虐げるだけのものになる。たとえば、戦場で飛び散る子供たちの死体のなかで戦いゲリラ不意打ちにおびえるうちにこれまで自分を支えてきた物語りが信じがたくなっている、もし信じるとするなら自分は臆病者にすぎなくなってしまう。ビール片手にテレビのフットボールの試合に雄叫びをあげる夫にフライドポテトを差し出す自分ははたして「幸せな王女様」なのだろうか。 ナラティヴ・セラピーはこうした抑圧的な支配的物語に押しつぶされそうになったり引き裂かれそうになったりしている自己を解放させようとします。これまでの支配的な物語ではなく、その人その人にふさわしい物語を自分で創り上げることを問いかけと対話によって手助けしようとします。その時のカウンセラーの構えには次のような独特のものです。 クライエントの問題についてはクライエントが一番知っている。カウンセラーではなくクライエントがその専門家である。カウンセラーは「無知の構え」をもってクライエントに接し、質問する。たとえば、自分が特殊な性病にかかっているとずっと思い詰めてきたクライエントに対して、「いつからそう思いこむようになったのですか?」(それはお前の妄想だという専門家として見下した診断が含まれている質問)をするのでなく、「いつからその病気になったのですか?」(クライエントがその病気については専門家だという態度を含む質問)をする。そうすることではじめてクライエントは悩みを語ることができるようになる、つまり扉が開かれた状態になるのです 外在化。問題をクライエントの内的問題でなく、外的な何かとして扱う。たとえば、失禁とか過食とかをその個人の責任として責めるのではなくて、なにかその個人とはべつの存在であるかのように話において扱うことで、押しつぶされそうになっている重圧からクライエントを解放する。 それまでの物語ではおさまりきらなかったことがら(ユニークな結果)を核にして新たな物語を形成します。たとえば、解放軍として進攻した自分たちを迎える現地民のうつろな目、敵意に満ちた目、物乞いに差し出された手。雪明かりの中を独り歩く自分のほほを打つ心地よい冷気、ホームレスたちのたき火の明かりの暖かな色。これまでの物語りからは説明がつかなかったことがら、それが新しい物語りの形成の種になりうる。 そうして新しい物語によって新しい自己を生成する。銃を捨てた自分は侵略と縁を切ったのであり、家を出た自分は自分らしい生き方を求めるためにそうしたのだ。 そして新しい物語りは語りをうながしともに創り上げるカウンセラーとの対話の中からはぐくまれます。自分の言うことをまず真に受けてくれ、真摯に聞いてくれる相手に語る。語りはうなずかれ、あるときには反復され、あるときにはまとめられて送り返され、その反応と送り返しに励まされある時は驚かされながら、物語りはさらに紡がれていくのです。 ここでケース8をふりかえってみると、シングル・マザーの元保健婦とシングル・マザーとの会話はまさにこのナラティヴ・セラピーと軌を一にしていたことがわかります。 3人以上の会話では、まさに世間一般に流布しているありきたりでしかもそれだけに私たちにまつわりつき縛っているような「お話」(支配的物語)が語られました。しかし、2者関係になって、しかも質問者が被質問者と同格な立場であるとき会話ははずみ、シングル・マザーたちは、自分の子育てをめぐるお話をはじめました。しかもそれは子育てという観点からみて重要な人生の出来事をつないでいく形でできあがった子育てをめぐるお話(歴史)なのです。
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by takumi429
| 2021-07-19 17:38
家族療法 病んでいるのはシステムとしての家族 それが家族の一人に顕在化しただけ 直線的因果論から円環的因果論へ 犯人探しの介入をしない 家族看護学:患者を含む家族全体を看護の対象とみなす ベイトソンの理論(→家族療法) 家族はサイバネティクス的なシステムである ベイトソン理論理解のために 1)うそつきのパラドクスの階層化による解決 2)暴走するエアコン 3)ダブルバインド論 嘘つきのパラドクス 「私の言うことはウソだ」 階層化による解決 「私の言うことはうそだ」←これだけはうそではない 統合失調性患者はこの階層化できない 冗談が通じない エアコンの暴走 「冷房と暖房を両方かける」 共依存 妻がつくせばつくすほど、ずにのって荒れる夫 ダブルバインド 統合失調症の説明 「ダブルバインド状況を浮彫りにする出来事が、分裂症患者とその母親との間で観察されている。分裂症の強度の発作からかなり回復した若者のところへ、母親が見舞いに来た。喜んだ若者が衝動的に母の肩を抱くと、母親は身体をこわばらせた。彼が手を引っ込めると、彼女は「もうわたしのことが好きじゃないの?」と尋ね、息子が顔を赤らめるのを見て「そんなにまごついちゃいけないわ。自分の気持ちを恐れることなんかないのよ」と言いきかせた。患者はその後ほんの数分しか母親と一緒にいることができず、彼女が帰ったあと病院の清掃夫に襲いかかり、ショック治療室に連れていかれた。」(『精神の生態学』306頁) 矛盾したフィードバックと階層化の禁止 抜け出せないどうどうめぐり 治療的ダブルバインド 本来、ダブルバインドというのは決してわるいものというわけではないです。ダブルバインドにおちいることで、その矛盾の地平を超えた高次の地平に飛躍するきっかけになりえる。だからそうした高次への飛躍のためにわざと治療者がしかけるダブルバインドをベイトソンは「治療的ダブルバインド」と呼んでいます。 抜け出す(悟る):学習 「学習Ⅰ ・学習Ⅱ・学習Ⅲ」 後年、ベイトソンはハワイの海洋研究所でイルカの学習について研究しました。教え込まれた芸をするたびにエサをもらえたイルカは、たちまち条件反射(学習Ⅰ)の段階を超えて、これが芸をしこむ学習なのだとさとります(学習Ⅱ)。しかし調教師が芸をしてもエサをくれなくなると、尾ひれをたたいて不満を示し、いらいらします。だがしばらくして、「わかったぞ」とばかりのしぐさをして、いままでやったこともない芸をつぎつぎに披露しはじめ、エサを得ていきます。つまりイルカはこの学習が何のためののものかをさとったのです。これまでエサをもらうことで新しい芸を習得するために学習がおこなわれていたのであって、ならば教え込まれなくても新しい芸をひろうすればいい。それまでの学習を超えたレベルに到達したのです(学習Ⅲ)。こうしてイルカは餌付けによる学習(学習Ⅰ)、そうしたものが芸の学習であることを悟って要求される芸をする段階(学習Ⅱ)という、決まった芸の学習というレベルをこえて、創造的な芸の披露という段階(学習Ⅲ)に到達したのです。 ベイトソンを読むたびに私が思い起こすのは、この歓喜に満ちたイルカの跳躍です。 家族療法へ ベイトソンのダブルバインド論は統合失調症を説明する有力な説ではありますが、まだ決定的な説だとされているわけではありません。統合失調症はいまだ原因がはっきりとせず、治療も困難な精神病です。 しかし、ベイトソンがダブルバインド論のなかでとりあげた、コミュニケーション論は、それまでの精神療法を刷新するものでした。病いの原因を個人に求めるのではなく、病的なコミュニケーションの連鎖に求める。そのコミュニケーションによって作られたシステムとして家族をとらえるという観点から、家族療法とよばれる心理療法がうまれることとなったのです。 物語療法へ ベイトソンの論文・著書を再読する別のグループにより、物語療法なるものが生まれてきました。 それについては次回。 #
by takumi429
| 2021-07-12 08:30
家族看護学
(以下の内容は全面的に 森山美智子編集『ファミリーナーシングプラクティス 家族看護の理論と実践』 医学書院 2001年に依拠しています) ケース4 主婦A(43歳)は、神経性の下痢で入院していた。ほぼ治癒して退院したのだが、家に戻るとまた再発してしまった。Aさんの病状はAさんだけも問題ではないと感じた看護師たちは、Aさんの家族を呼んで話を聞いてみた。 面接の場で、Aさんの夫は家族に背を向けて座り、もっぱらAさんに向かってだけ断定的な口調で話をしていた。それに対して、子どもたちももっぱらAさんにうったえるかたちで話をしていた。 Aさんが、親同士のコミュニケーションと子どもたちのコミュニケーションの間にあってちょうど両者から圧力をうけるかたちになっているのがみてとれた。 今までの看護では、もっぱら看護の対象は患者個人とされてきました。しかし、このケースの場合、患者を病院という場にいわば隔離しているときには治癒するのに、家族に戻すと再発してしまいます。そこで家族全員を呼んで話をさせるとどうも家族内のコミュニケーションがぎくしゃくしている。それもコミュニケーションのぎくしゃくが、妻であり母親であるAに集中して圧力を与えている。どうやら、「病んでいる」のはじつはこの家族全体であって、その「病い」がAさんの神経性の下痢というかたちで表に現れている(顕在化している)にすぎないのではないか、と考えられます。そうであるならば、看護の対象を、個人からその個人を含む家族全体に広げるべきではないか。こうしてうまれてきたのが「家族看護学」という領域です。 家族療法から家族看護学への影響 森山(編2001 )によれば、家族療法で用いられるシステム論より導き出された家族における重要概念にはつぎのものがあります。 1)家族は大きな上位システムの一部であり,多くの下位システムから構成される。 つまり、家族のなかには、夫婦というシステムや、子どもたち(兄弟姉妹)というシステムがあります。また、場合によっては祖父母たちというシステム、さらにはペットと家族員の誰かの緊密な関係(システム)というようなものがあるかもしれません。 これは「システム」という考え方のもっとも基本となるものです。たとえば、拒食症の子どもをかかえる家族を見るとき、父親、母親、拒食症の子ども、をそれぞれ個別にみても、これといって問題のある人にはみえない。しかし、彼らが家族を構成するとそのコミュニケーションの仕方に独特の問題が生まれてくる、というようなことがあります。こうした、個々の要素からは説明できない、システムとなってはじめて生まれてくるような問題(特性)のことを「創発特性」といいます。 3)家族員1人の変化は家族全体に影響を与える。 システムは成員相互の関係にほかなりませんから、一人の変化は全体の変化となります。 4)家族は変化と安定の間にバランスを創造することができる。 家族システムは、その環境(まわりの社会や地域など)の変化、さらに内なる環境の変化(成員の成長・加齢など)につねにおびやかされています。たとえば、不景気による親の失業あるいは定年退職、学費の上昇や、子どもの進学・独り立ちなど、さまざまなことが変化をもたらします。しかしそれによって家族がすぐに解体してしまうというのではなく、そうした変化に対応しながら家族というものが安定されたかたちで維持されていくことがみられます。たとえば、母親はパートタイム労働を始め、かわりに父親は家事を手伝い始めたり、子どももアルバイトをしたり、家事を手伝ったりして、こうした変化に対応して家族というものを維持していこうとします。 5)家族間の行動は,直線的な因果関係よりも円環的視点からのほうがよく理解できる。 たとえば、拒食症の子どもがいて、それに口うるさい母親がいて、その母親に対してつっけんどんな父親がいるとします。このとき、拒食←母親の小言←父親の横柄さ、という因果関係を想定して、父親の態度が悪いのだ、という単線的(直線的)な決めつけ(原因追及)をしても家族の問題はみえてきません。むしろ、子どもの拒食→母親の夫へ訴え→父親の横柄な対応→いらだった母親の子どもへの小言→子どもの拒食→母親の夫への訴え→夫の横柄な対応→・・・というぐあいに、一種の悪循環が起きているのであり、どれが究極の原因だとすることができるわけではありませんし、だれかを糾弾すれば解決するわけでもないのです。原因があるとすれば、まさにこの悪循環のサイクルそのものなのです。ですから、考察の焦点をこの循環のサイクル、つまり円環パターンに当てるべきなのです。 1)家族はフィードバックプロセスを通して自己調整する能力をもつ。 たとえば、登校拒否でゲームセンターにしけ込む息子、それを探し出して家に連れて帰る親。家族のきしみと崩れを食い止めようとする、つまりくずれを打ち消すような(ネガティブ)フィードバックが働いているわけです。 2)フィードバックプロセスは家族のいくつかの異なったシステムのレベルで同時に起こり得る。 登校拒否の子どもの行動を元に戻そうとする親。じつはその子どもの行動こそが、バラバラになりそうになっている家族をまとめる働きになっている、というような場合もあるかもしれません。こうしてさまざまなフィードバックの過程が家族のなかで働きあっているわけです。 直線的質問と円環的質問 円環的なシステム思考によって介入における質問の仕方もちがってきます。 介入の際の質問には,と「円環的質問」の2つのタイプがある(Tomm,1987,1988). これまでの介入の時の質問は、「そのときだれが何と言ったのですか?」「何かきっかけとなって,食事療法をもうやめようと思われたのですか?」というように直接的に状況を尋ねる質問でした。これは「直線的質問」と呼びます。ここれに対して「ご主人が食事療法をやめられたときに,奥様は何とおっしやいましたか?」「奥様の言われたことに対して,ご主人はどのような行動を示されましたか?」「子どもさんはどんな行動を起こされましたか?」「もし,奥様が“食事が思うように食べられないお父さんのつらい気持ちを私たちがわかっていなかったのね。ごめんなさい”と言われたら,ご主人との関係はどう変化するでしょう?」といった相手への影響を探求する質問があります。これを「円環的質問」といいます。こうした質問は家族員に原因が円環的にめぐっていることに気づかせることで、変化を促す手段となります。(Tomm,1985 ; Tomm1987,1988). 直線的な質問は、「家族が問題をどのようにとらえ,受け取っているか」などの情報を収集するのに適しています。それにたいして、円環的質問は、「問題についてどのように解釈しているか」を訪ねる質問です。たとえば、「だれがいちばん祐子さんの拒食能を心配していますか?」「お母様は,祐子さんのことを心配して,どのように接しておられますか?」この質問によって家族がどのように影響しあっているかが見えてきます。 円環的質問は、家族が今まで気がつかなかった、あるいは、見えていても意識しなかったことに新たに気づかせることができます。その結果、円環的な因果関係を家族員に意識させることができます。そこからまた解決への可能性も見えてきて、家族員の行動の変化をうながすことにもつながるのです。 家系図(ジェノグラム) 家族関係の把握のためにはよく使われるのが「ジェノグラム」です。「ジェノグラム」とは、 原則として3世代程をさかのぼる家族員(血縁ではなくとも同居している家族との関係が深い人を含む)の家系図のことをいいます。 家族というのはまず最初に患者をケアする単位であることが多く、とくに慢性病・成人病・老人のケアの担い手となることが多いです。ですから、べつに家族療法や家族看護学の手法をとらなくても、患者の家系図(ジェノグラム)をつくるのはとても有益なだと思われます。 #
by takumi429
| 2021-07-02 08:14
| 看護に学ぶ臨床社会学
「この講義で興味深かった内容」を
400字前後にまとめて、 学籍番号・氏名を付けて masanao429アットマークgmail.comに 7月27日5時までに送ってください。 #
by takumi429
| 2021-06-28 15:27
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