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マネ『フォリー・ベルジェールのバー』をめぐって

マネ『フォリー・ベルジェールのバー』(1881-2年)をめぐって

この絵を見るとだれでも遠近法(perspective)のゆがみに気がつく。バー・メイドの正面にいる客の影とメイドの影は、彼女のすぐ後の鏡に映っていなくてはいけないだろう。また、鏡にうつった客とメイドの距離からして、客はメイドのすぐ前にいなくてはいけないはずである。作品の発表当時に描かれた風刺画はこの矛盾をついたものと言える。

マネ自身がかいた、この絵の習作をみると、当初はこうしたゆがみはなく、メイドの影は実物のすぐ後に描かれている。またメイドの視線も右をみており、その先に客がいて、その影が鏡に映っていて、遠近法のゆがみはそれほど見られない。

X線解析によれば、マネはメイドの影をどんどん右にずらしていき、その結果、客との距離は縮まった。
ではなぜ、マネはあえて、こうした遠近法のゆがみを採用したのだろうか。
習作と完成した絵とを比較してみよう。習作に対して完成画の大きなちがいは、(1)バー・メイドは右斜めではなく、正面(絵の観客)を見ている、(2)客とメイドは、息がかかるほど近づき相対している、(3)習作のバー・メイドは髪をアップしてきりりとした表情をした女であるのに対して、完成画のメイドは、無防備でどこかうつろな表情した娘であう。
 絵のモデルが、絵の正面を見ている、より正確にいえば、絵の観客を見ている、そうしたマネの絵を思い浮かべてみよう。
 すぐに浮かぶのが、ヴィクトリーヌ・ムーランをモデルにしたいくつかの絵である。
ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像
彼女をモデルにして、マネは、『草上の昼食』を描き、

『オランピア』を描き、

さらに『街の女歌手』

または闘牛士(『エスパダの衣装をつけたヴィクトリーヌ・ムーラン』

最後には、『鉄道』のモデルにしている。

ほかにも、マネのお気に入りのモデルには、弟子のベルト・モリゾや妻のシュザンヌ・マネがいる。マネは近代の生活を描いた画家とされている。だが、現実の人物を描くのではなく、むしろ、おなじみのモデルを使って、さまざまな人物をモデルに演じさせて、それを描いている。
たとえば、街のカフェの情景を描いたと思われる、『プラム』でも、カフェの娘を演じているのは、友人の女優である。


何人かの特定のモデルに、さまざまな人物を演じさせる。これはちょうど、映画のスター・システムを思わせる。
ものごとの有り様は、それが展開された段階になってから振り返るとよく見えることがある。たとえば進化した人類の体の仕組みを知ったうえで、その進化の途上にあった猿たちを調べるとその体の仕組みがよく見えてくる。マルクスは『資本論』でそう言って、資本主義の段階から振り返ってそれ以前の時代をとらえなおした。
マネの絵も、その後にうまれた映画というメディアの仕組みからとらえ直しせないだろうか。

映画でしばしば見られる技法が、ツー・ショット、ショット、切り返しショットの連続である。

ショットとリバースショットの効果
観客はAまたはBになった気になる感情移入(これが映画スターへの過剰な思い入れを生む)。
観客はスターが演ずる登場人物に感情移入(乗り込む)ことで、映画のなかの物語世界を経験する。
観客が感情移入による映画の中の世界を経験しやすくするために、
おなじみの感情乗り物(スター)であったほうがいい。つまり毎回演ずる人が変わるよりもおなじみの人が演じていた方がいい。
感情の乗り物になるスターは、あまりに個性的であるために感情移入がしにくい人間であるよりも、透明感があって気持ちをとけ込めやすい人物の方がいい。だから脇役は個性的ではあるが、主役はあまり個性的すぎず、個性的でもとけ込みやすさをもっていなくてはいけない。
ともあれ、常連のスターに感情移入することで映画のなかの世界を私たちは経験する。
 さて、ここでマネの『フォリー・ベルジェールのバー』を見てみると、1つの画面のなかに、いわば映画の、肩越し(肩なめ)のショットと人物が相手の正面を向いて相手(どうじに観客)に相対しているショット、が一緒に描かれているのである。娘に向き合い、その姿が鏡に映ることで、私たちはフォリー・ベルジェールの客のひとりになっているのである。(そして私たちは映画の登場人物のようにどんどん相手にちかづいていく、それによって映画の中の世界に入り込んでいく)。マネ劇場の中のモデル、ヴィクトリーヌ・ムーランが観客の方をみていた(カメラ目線だった)のは、観客の私たちを、絵の中の世界へと導くためだったのである。そして私たちが抵抗なくその世界のなかに入れるように、彼女の表情は乗り込むための空間をもった空虚さにみちていたのである。
 そうして空ろな表情した娘と相対することで私たちは夜のパリの世界へと導かれる。見えているのは華やぎにみちた、しかしどこかまやかしの世界である。それは実体ではなく、すべて鏡にうつった虚像の世界なのである。マネの最後の傑作は、こうして私たちを虚像の、しかし輝きにみちたパリの夜の世界へと誘うのである。
by takumi429 | 2010-10-21 12:01 | ゾラ講義
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