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看護教育における社会学(2)

3.看護師のための社会学をもとめて
こうした状況に置かれて,私なりに,看護のための社会学を模索し,3冊の本を書いてきた.以下,拙著を紹介することで私の模索(悪戦苦闘)をご報告したい.

(1)『はじめての看護理論』
看護学には「看護理論」というものがある.これは,さまざまな(おもに外来の)理論をつかって看護の仕事と対象(患者)を理論づけようとする試み,だと言えよう.1970年代以降,おもに北米で大量に生産されてきた .
 看護理論の開祖としては,ふつうナイチンゲールが挙げられている.彼女の『看護覚え書き』がその理論書とされる.ナイチンゲールは彼女の看護論を,公衆衛生学の影響と,自らの病人としての体験から書いたと思われる(ナイチンゲールの臨床看護師経験は短く,後半生をすべて病人としてすごした).ヘンダーソンはこのナイチンゲールの看護論をニード(欲求)論としてまとめ直して,みずからの看護論とした.
 意外なことに,病者の体験や看護師としての経験から理論をくみ上げていく看護理論は,このナイチンゲールとヘンダーソンまでであって,それ以降の看護理論はすべて外来の諸理論を導入することでその理論体系を作っていった.導入された理論は,システム理論,精神医学,精神分析,実存分析,文化人類学,反人工知能論,現象学,解釈学,などである.
 臨床看護の実践に根ざした看護理論の構築をしようと看護理論家が現場にもどってくるのは,現象学的解釈学(ドレイファスの解釈したハイデッガー哲学)の影響をうけた,パトリシア・ベナーになってからである.あえて肯定的に言えば,看護学はさまざまな学問領域から学ぶことで,いわば,ひとつの「人間学」として立ち現れようとしている,ともいえる.
 すでに現場の臨床看護職者(現役看護師)と看護教員との間にミゾがあることは述べた.看護教員は現場の看護師に対して,この外来理論で固めた「看護理論」を振りかざすことが多い.看護理論はわからないというのが現場看護師の不満と不安である.
看護理論に導入されている諸理論をみてみると,じつはそれが社会学が導入してきた理論とほぼまったく同じであることに気づかされる.だから,導入した学者の下手な解説を聞くより,その元になっている学問領域の原典翻訳や解説を読んだ方がずっとわかりやすいということも,社会学徒にはよくわかる.
ジョセフィン・ドノバンの『フェミニストの理論』という本がある(Donovan1985).この本は,フェミニストが導入している諸理論を説明し,それからそのフェミニズム理論を解説するという構成をとっていてたいへん明快である.看護理論も同じように,まず導入している理論を簡単明瞭に説明し,それからその看護理論を解説すれば,ずっとわかりやすくなるだろう.しかもさまざまな学問についての勉強もできる本になるだろう.
こうしてできあがったのが,『はじめての看護理論』(勝又 1995,2005)である.
ただこの本では,看護理論だけの解説ではなく,看護診断に導入されているけれど,医学をうすめたような教育からは一番理解しにくいと思われる社会学や社会心理学の理論や概念の解説もした.具体的には,自己概念,役割理論,ノンバーバル・コミュニケーション,コーピング理論である.前者の三つは,「間奏曲」として理論解説の間にはさみこんで解説した.コーピング理論とは,ストレスはその人間はそれをどのように評価するかでストレスのありようがちがってくるという理論である.提唱者のラザルスはこれを「ストレスの現象学」と呼んでいる.そこでこの理論は現象学(とその影響をうけたベナー理論)を解説する時に取り上げた.
 この本のイラスト原案(ネーム)はすべて私が描き,それを第1版(日総研出版)では少女漫画家にイラストにしてもらった(第2版(医学書院)では,素人がイラストを描いたため,残念ながら,出来がかなりおちてしまった).またイラストは単に本文の内容を絵にしたものではなく,できるだけ別の方向から説明するように工夫した
 この本は看護理論の理解に困難を覚えていた臨床現場の看護師からたいへん歓迎された. 現場の臨床看護師は,(彼らにとっては周知の)臨床活動を細かく分析した研究よりも,むしろ,臨床活動がより明晰にみえてくるような理論を求めているのだ.

(2)『ナースのための社会学入門』
所属学部が看護短期大学部から看護学部に昇格すると同時に,担当科目が「社会学」から「保健医療社会学」へと変更になり,「医療社会学」を教えなくてはならなくなった.そこで「医療社会学」の教科書をぱらぱらと見てみると,どうもアメリカ系の医療社会学よりもイギリス系の医療社会学の方がおもしろく思えた.アメリカ系の医療社会学はパーソンズの影響がつよい.しかし彼の病人役割論とパターン変数による医師の行為の類型づけは,医学側からも「きわめて形式的かつ表面的な分析である」と批判されている(Runderman1981).それにたいして,文化人類学や医療人類学の影響,さらに大陸のフーコーの影響をうけたイギリスの医療社会学は,もっと西洋医学を相対化してとらえている(Hart 1985, Aggleton 1990).この西洋医学を相対化してとらえる視点からの医療社会学としては,国内でも,黒田浩一郎編の『現代医療の社会学』など(黒田編1995,2001, 佐藤・黒田編1998)が書かれ,ようやく日本の医療社会学もおもしろくなり始めていた.
しかし,こうした「医療社会学」を教えることに私はすこし抵抗があった.それは,あえていえば,その「広がりのなさ」である.どんなに学んでも医療以外の現象をみる目は養われないような「医療社会学」では,だめなのではないか.医療のことは看護職につけばいやでも詳しくなる.そうした日常の業務や仕事の,内実と問題が「見えてくる」ような,しかも,その見え方が,他の社会領域をも見通すような「見え方」となるような社会学,「医療社会学」とはいえ,かりにも「社会学」と名乗るならば,そうした「目から鱗がおちる」ような体験と見え方をもった社会学,そんな医療社会学を教えることはできないだろうか.
その試みとして,とうてい充分とはいえないが,講義では,まず社会学の一般的な理論を紹介し,その理論を医療の現場に適用すると,どのように医療の世界が見えてくるか,を解説をしてみた.この講義から生まれたのが『ナースのための社会学入門』(勝又1999)である.
内容は次のようなものである.
まず,社会学一般の定義をしてから,これまでの医療社会学の批判をし,それを超えるために,医療人類学に学ぶ必要を説く.さらに,役割・地位の体系としての社会大系論を説明して,その適用例として,「病人役割論」と説明し,かつその問題点(慢性病患者・老人患者にはあてはまらない)を指摘し,それを超えようとした理論としてサスとホーランダーの理論を説明した.シンボリック相互作用論について説明し,その適用例として,「死のアウェアネス理論」を解説した.エリアスの「文明化」論を説明し,その現れとしての,死の隠蔽化,それに抗した,キュウブラ=ロスの『死の瞬間』の解説をする.ゴフマンの「全制的施設」を説明し,その一例として病院をみる.経営学のコンティンジェンシー理論の解説とそれからみた経営体としての病院を考える.ラベリング理論の解説とその適応例としての,患者へのラベル貼りに言及する.社会のゲゼルシャフト化のなかでインフォームド・コンセントに必要が増してきたことを指摘する.社会における専門職支配の増大を説明して,その一例として医療化についてふれる.最後に,フェミニズム理論の「母性」主義批判と,ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』での,聖職概念が労働者の搾取を容易にしたという,分析を見た上で,その典型例として看護職の母性主義と聖職意識を批判した.

(3)『ケアに学ぶ臨床社会学』
「患者の気持ちを理解したい」.看護師ならば誰もがそう思う.「それには,臨床心理学だ」,というわけで,臨床心理学を学ぶ看護師や看護学生は多い.しかし,「どうもちがう」,と思う者も多いようだ.臨床心理学は,「病気の心」(病んだ心)を扱うに対して,看護師が関心を持っているのは,「病人の心」なのだ.それは必ずしも「病んだ心」ではない.病人の心理を扱う学問としては,「健康心理学」(health psychology)がある(この場合の“health”とは健康状態の良い方も悪い方も指す.だから,「病いと健康の心理学」と訳すべきかもしれない).しかしそれは統計学へのいじるしい依存から,患者心理の理解からはかえって遠ざかっているかにみえる(Ogden 2007).
「患者理解」のために,ヴェーバーの理解社会学を使うことはできないだろうか.もしそのまま使うのはむずかしいなら,それがもともと影響をうけた解釈学にまで立ち返り,テキスト解釈の手法にさらには物語論を取り入れて,それを再活性化できないだろうか.人文科学における「物語論的転回」の一環でもあるナラティヴセラピー(物語療法)の成果を取り込み,さらに,認知意味論のメタファー論を導入して,患者の具体的な語りやふるまいを分析できないだろうか.
こうして生まれたのが,『ケアに学ぶ臨床社会学』(勝又2010)である.
この本では,看護や福祉などのケアの現場から10の事例・研究例を挙げて,それを解読する形で記述を進めた.
まず,人工肛門設置の後に落ち込んだ ケースと自殺したケースを挙げて,「自己概念(姿形・能力・性格など自己イメージ)の変調」であることを明らかにして,さらに「自己概念」はクリーの「鏡に映った自己」などの考えを使って活性化しなくてはいけないことを述べた.
さらになぜ家族看護学に家族社会学が導入されないで家族療法が導入されているのかを説明した.そのついでに「近代家族」論と,(家族療法の源泉である)ベイトソンの理論を概観した.
看護にあまり助言できていない社会学であるが,じつはヴェーバーの理解社会学は彼の病気から生まれた.ヴェーバー社会学のもつ「異化する精神」はこの病いによる失墜の体験から生まれており,この体験を通してうまれた論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を解説した.さらにそこでの意味理解をさらに展開するために,むしろ看護理論やケアの現場から学ばなければならないと説いた.
夜中にナーシング・コールをしてコーヒーを求める患者やコーヒーをまわりの者にふるまうことで本来の闊達な自分を取り戻した患者のケースを分析することで,物質的なもの以上の,コミュニケーションの媒介としての意味が「いっぱいのコーヒー」にはあったことを分析した.
さらに「育児の意味」を問われたシングルマザーたちが,子供の父親との出会い,と別れ,出産の様子,母親との関係,という人生の4つの出来事と関わらせて育児を「語る」というケースから,意味が物語的な文脈の中にあることを明らかにした.ついでナラティヴ・セラピーの概観をした.
最後に,下肢切断手術の前の患者が語ったメタファーのケースと,アンパンマンに自分をたとえるためにあえて呼吸器具をはずす幼児の「命がけのメタファー」のケースから,患者は自分を支配する物語を,メタファーをつかって別のたとえ話へと書きかえていくのではないかと指摘した.

4.終わりに
こうして見るとずいぶん遠回りをしてきた.しかし,この遠回りは決してむだではなかっただろう.収穫はどっさりあった.この遠回りがなくては,ヴェーバー研究者の私が,システム理論や,現象学・ハイデガー理論についてまとめることもなかったろうし,認知科学,ベイトソン理論,物語論,さらに認知意味論,を学ぶということもなかっただろう.
ナイチンゲールは,『看護覚え書き』で,「自分の患者は病気の人間であって動物ではない」(Nightingale 1969 =1975 p.220)と言っている.患者を人間として把握するために,看護は,いわば「人間学的想像力」とでも呼ぶべきものを必要としている.そのために,看護学は広範な学問からの理論導入を図っている.そしてその「人間学的想像力」を助けるものとして,社会学のもつ「社会学的想像力」が要請されるのだ.そしてその「社会学的想像力」は,せまい領域をあつかった応用社会学の1つである「医療社会学」によって豊かになるのではなくて,社会学一般の理論と知識によってもたらされるのである.
そうしたことをふまえて,今後,看護専門職養成課程で教えるといいと思われる,一般的な社会学の内容を思いつくままに列挙してみよう.
まず,看護診断に取り入れられている,役割理論,自己概念の解説は必要だろう.また看護や福祉ではグラウンデッド・セオリー(Glaser and Strauss 1965)が興隆している.しかし私見によればその研究方法はきわめて煩雑なものとなってしまっている.シンボリック相互作用論をふまえてもっと柔軟な研究方法であることを教えるべきだろう.
看護学は家族については学びたいと思っているが,それは「家族はかくあるべし」,という「家族ベキ論」でもないし,「近代家族」を相対化するジェンダー論の議論でもない.看護が家族について知りたいのは,病人がでたときにそれを援助するケアの集合としての家族である.このケアする/される濃密なコミュニケーションの関係を,看護学は,むしろ家族療法から学ぶことが多い.家族療法に学びながら,家族員の人間関係を分析した家族社会学が求められている.
またケア・システムの単位としての地域についても地域看護は社会学的知見を求めている.そこで有望だと思えるのは,社会関係資本(social capital)についての議論だろう .
疾患は完治しても自殺する患者や,ナース・ステーションの前でリストカットをくりかえす患者など,自殺は看護にとっては身近で切実な問題である.自殺のようなきわめて個人的な問題と思えるものが,実は国全体で見てみると安定した自殺率という形で現れるのだというデュルケームの議論は今でも刺激的で,講義で話すると看護学生は目を輝かせる.個人の(心理的な)問題と思えるものがじつは社会全般につながる問題なのだ,という指摘は,つねに問題を「心理学化」しがちな学生たちを,まったく反対の方向へと目を開かせる「社会学的想像力」を持ってもらうための大きな題材となるだろう.
看護職というものについては,「感情労働」の議論が今,盛んとなっている(Smith 1991).しかし,日本の看護側からの反応(武井2001)は,感情労働論がもつ鋭利な批判性(Hochshild1983=2000)を充分には生かしていないように思われる.社会学との協力によるさらなる研究が求められるだろう.

主流の社会学ではこれがメジャーなのだ,これが古典なのだ,と言っても,看護教育では通用しない.その学説・理論を聞いて,学生が目から鱗が落ちるような思い,すなわち,患者としてしか見えなかったものが,社会とつながり構成している人間として,厚みをもった存在として見えてくるという,体験を与えるものでなくてはならない.看護のもとめる人間的想像力を高めために,社会学的想像力を得させるものでなくてはならない.しかし,これはまさに,社会学の本来のあるべき姿だったのではないだろうか,と,道草ばかりしてきたマイナーな社会学教員はひそかに思うのである.


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by takumi429 | 2010-07-25 05:27 | 臨床社会学
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