2.マルクス 資本主義としての近代(2)

 金をやりとりする手
 そうした売り手・買い手の個々人の顔を見ないで、金のやり手としてだけ見る、というか、そのようにやり取りが現れてくるというのは、ちょうど、ステファン・ツヴァイク(1881-1941)の小説「女の二十四時間」のつぎのような箇所に似ているかもしれません。
「わたしは賭博場にはいり、自分では賭けずに机のあいだをぶらぶら歩きまわって いました。ごちゃまぜになった組の者たちを、特別な方法でながめていたのです。特別な方法で、と申しましたが、これは死んだ夫があるとき教えてくれたものなのです。・・・つまり、けっして人の顔を見ずに、四角四面な机の面(おもて)だけを見、さらにそこにのっている人間の手と、そのおのおの独自なしぐさだけを見るという方法なのです。・・・あの緑色の長方形の盤だけをです。そのまんなかで、珠がよいどれのように数字から数字へとよろめうごけば、まるで畠にたねでもまくかのように、うずまく紙幣やら、まるい金貨や銀貨やらが、四角にくぎられたかこいのなかに落ち、と、さっとばかり大がまで刈るように、それを管理人〔ディーラー〕の熊手がひっさらってゆき、あるいは、まるで穀物のたばのように、それを勝つた者のところにしゃくってやる、といったぐあいです。速近法的に焦点をあわせれば、この場合変化しうる唯一のものは、手なのです――緑色のテーブルのまわりにぐるりとならび、白くぬきでてものまち顔の、そわそわとおちつかないたくさんの手なのです。・・・実際この突発的な手の動作こそは、常に各種各様の気性を背おったものであり、それぞれがみんなことなったものである上に、また常に思いがけない意外なものでもあるのです。・・・実に幾千という各種各様の手があるものなのです。毛のはえたまがった指があり、卿蛛のように金をわしづかみ にする野獣のような手、靑ざめた爪がついて、金をつかむこともできなさそうな、ふるえる神経質な手、高貴な手、下賎な手、残忍な手、内気な手、狡猾な手、それからいわばロごもるような舌たらずの手――しかしそのどれもがことなった印象をあたえるのです。これらの一対の手が、どれを取りあげてみてもそれぞれの特殊な生活を表現しているからです。」
 ある日、この婦人はカジノで異様な手を見つけ、その手の持ち主をつい見てしまいます。。手の持ち主は、たまたま初めて立ち寄ったカジノで大当たりを取ってしまったために、賭け続けて破産しつつあった青年でした。異常な興奮状態の彼に巻き込まれて情事を重ねてしまった婦人は、帰るための旅費を彼に渡します。ところがまたカジノに行くと、その金をつぎ込んでいる青年をみつけます。婦人が叱責すると、青年は激昂して婦人を床に叩き伏せます。カジノを去った婦人は、風の便りに、数日後破産し破滅した青年が自殺したと知るのでした。

 ここでは、手は口ほどに物を言い、というふうに、手にその人間の本質が現れてくると婦人は語っています。でもたまたまビギナーズ・ラックで大当たりを取ってしまって、カジノにのめり込み破滅することになった青年の手は、彼の性格を現すというより、カジノのもつ魔力、金の魔力に魅入られた手だと言うべきでしょう。人びとは金をやりとりする担い手となり、その金によって底なしの欲望をいだき破滅していくのです。

 労働者の「搾取」とは
 さてこの資本主義では労働者は搾取されているとマルクスは言います。つまり、労働者が生産現場で生み出した「剰余価値」が、資本家によって奪われているというのです。剰余価値についての岩井克人の明快な説明を引きましょう。

「剰余価値とは、貨幣の蓄積を目標とする産業資本家と、自らの労働力を商品として自由に処分でき、同時に自らの労働力を生産物の形で実現するための生産手段から切り離されているという『二重の意味で自由な』労働者が、市場で接触することによって生じる…。具体的には、それは、産業資本主義経済における資本家は、労働市場で商品として購入した労働力を生産過程で使用することによって、労働力の再生産に必要な生活手段の価値(すなわち労賃の形で支払われる労働力の価値)と生産過程で消費あるいは減耗したさまざまな原材料および生産手段の価値との和以上の総価値をもつ生産物を生産することができる…。そして産業資本家自身のものとなるこの価値の剰余部分が「剰余価値」と呼ばれるのである。さらに詳しく言えば、産業資本主義社会において剰余価値は二通りの仕方で生み出すことができる。一つは労働者の労働時間の延長あるいは労働の強化であり、それによって発生した剰余価値は「絶対的剰余価値」と呼ばれる。もう一つは、労働時間あるいは労働の強化が固定されている中で、労働の生産性を一般的に高めることによって労働力の再生産に必要な生活手段の価値を相対的に低下させることであり、それによって発生した剰余価値は「相対的剰余価値」と呼ばれる」。
「いま、ある企業家が新たな技術の採用すなわち『技術革新』によって他の企業家に先がけて労働の生産性を高めることに成功したとしよう。この企業家が生産物を旧来の技術の下で成立していた市場価格で売るならば、彼は労働生産性の上昇分だけ他の企業家以上の利潤を獲得するはずである。マルクスの言う『特別剰余価値』とは、このようにして革新に成功した企業家の手元に残る超過利潤のことである」。

 つまり、剰余価値とは、生産物に込められた、労賃分の労働力と原材料生産手段の価値より以上の、労働力です。また絶対的剰余価値とは、労働者の労働時間の延長あるいは労働の強化で得られる剰余価値のことであり、相対的剰余価値とは、労働の生産性を一般的に高めることによって労働力の再生産に必要な生活手段の価値を相対的に低下させることによって発生した剰余価値です。また特別剰余価値とは、技術革新によって労働の生産性をあげることで獲得された剰余価値のことです。資本主義とは資本家がこの労働者のうみだした剰余価値を奪い、市場で金にかえて、それを自分の資本とし、それをさらに投入して生産していくしくみにほかなりません。

 システムとシステムの差異
 岩井克人は、さらにすすんで、あらゆる資本主義とは、価格システムと価格システム(等号の体系)との間の差異(ギャップ)を利用して儲けるものにほかならない、といいます。

「それでは、利潤とは、詐欺、ベテン、泥棒、掠奪といったまさに不等価交換がおこなわれている場 所でしかみ出されえないものなのであろうか?利潤とは、等価交換からはけっして生み出されないものなのであろうか?この問いにたいする答は、しかし、否である。実は、あくまでも等価交換の原則にもとつきながらも利潤を生み出すことのできる場所が、いわば場所ならぬ場所において存在するのである。
 ふたつの異なった価値体系の狭間—それが、そのょうな場所、いや非場所である。すなわち、おたがいに異なったふたつの価値体系のあいだを媒介して、ー方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る—それが、等価交換のもとで利潤を生み出す唯一の方法である。利潤とは、価値休系と価値体系とのあいだにある差興から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。
 たとえば、遠隔地交拐に代表される『ノアの洪水以前から』の商業資本主義とは、地域的に離れたふたつの共同体のあいだの価値体系の差興を媒介して利潤を生み出す方法であり、いわゆる産業革命以降に確立した産業資本主とは、生産手段を独占している資本家が、労働力の価値と労働の生産物の価値とのあいだの差異を媒介して利潤を生み出す経済機構であり、いわゆるポスト産業資本主義的な形態の資本主義においては、新技術や新製品のたえざる開発によって未来の価格体系を先取りすることのできた革新的企業が、それと現在の市場で成立している価格体系との差異を媒介して利潤を生み出し続けている。突際、貨幣の無限の自己増殖をその目的とし、利潤の獲得をその動機としている資本主義にとって、差異さえあれば、それはどのような差異であってもかまわない。」

 商業資本主義は、遠隔地での価格システムの違いをつかって儲けます。たとえば、二束三文のガラス玉が、遠く離れたアフリカやアジアでは高値で売れる。遠隔地ではありふれたもの(例えば象牙や陶器)がヨーロッパでは高価なものとなる。二束三文の物(たとえばガラス球)を遠隔地に持っていてそこで高く売り、そこでは高くない物(たとえば象牙や陶器)に換えて、ヨーロッパに戻り、それを売って大儲けする。これが商業資本の利潤の獲得のしかたです。
 これに対して、産業資本主義は、生産過程における労働力商品の価格と商品交換(市場)のおける労働力商品の価格のギャップ(差異)を利用して資本家が儲けます。生産現場では労働者を一日こき使って商品を作ります。でもほんとうはその労働者の一日を養うのに必要なのは、市場ではその生産物の(たとえば)半分と交換される品物でしかない。生産現過程と流通過程での労働力の価値システムの差異を利用して資本家は利潤をあげる(もうけている)わけです。あるいは、技術革新によって他の生産現場にたいする優位(差異)を利用して利潤をあげるのです。これは現在と未来の生産力の違い(それによる労働力の価値の違い)という差異を利用して利潤をあげているわけです。
 つまり岩井によれば、資本主義とは、システムとその外にあるシステムとの差異によって動く熱機関のようなものなのです。だが、もし、システムがその外に別の差異のあるシステムをもたなくなったら、つまりシステムが拡大してその外部を持たなくなったら、どうなるのでしょうか。ものを生産する場とものを売買し消費する場が完全に一体化してしまったら、それは、石炭・石油や原子力で加熱しようにも外部が高温となって温度がなくなってしまった状態(熱死)の熱機関のようなもので、何の利潤も生み出すことができず、動きを止めてしまうでしょう。資本主義は、システムの外に差異ある外部をつねに必要としているわけです。

 史的唯物論
 こうした資本主義の社会は人類の歴史おいてどのような位置にあるのでしょうか。マルクスは『資本論』の前に書いた『経済学批判序言』(1859年)で次のような定式化をしています。いわゆる、史的唯物論の定式とよばれるもので、ちょっと長いですが、重要なので、全部引用しておきましょう。

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
 社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
 このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
 一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
 大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。」

「史的唯物論」とはなにかという議論には入り込まないでおきましょう。ただここで確認しておきたいのは、マルクスは、生産力の発展が、生産関係の変革をもたらし、ひいては社会体制の変革をもたらす、と考えていたということです。
 たとえば、狩猟生活の段階では、人類はたまにしかとれない獣で生きていくことができませんから、木の実などを採取して生活していたと想像されます。栗などの木の実を女たちが採取して食事にしていました。木の実の量は限られていましたから、そのそばにはわずかな人々しか暮らせなかったでしょう。また採取し過ぎると餓死することいなるので採取の量と時期についての慣習や指導もあったでしょう。また狩猟においては男たちの共同作業の役割と序列があったことでしょうし、たまたまとれた獣をどのように料理し分配するかのきまりもあったことでしょう。
 農業生産ができるようになると、一粒の穀物からたくさんの穀物がとれるようになりました。たとえばメソポタミアでは1粒の麦から80粒の麦が育ったといいます。この飛躍的な食料生産力の増大は、大量の人口を可能にしました。集落は大きくなり余剰生産物をあつかう市場やそれを管理し他所から略奪から守る権力も必要になったでしょう。こうして農民とそれを支配する王権がうまれてきたでしょう。また天候と季節に左右される農業生産では、天文学が天候を操る神への信仰も生まれたでしょう。
 一年ごとの太陽エネルギーが蓄積されたのが穀物(農産物)だとするなら、有史以前からの太陽エネルギーが蓄積されたのが、石油や石炭などの化石燃料です。この化石燃料を燃やすことで、昼夜、天候や季節に左右されない生産(24時間の生産)が可能になりました。(化石燃料の利用には、蒸気機関と内燃機関の2つの発展方向がありましたが、人類は途中から内燃機関(いわゆるエンジン)を発展させる方向に進みました)。この生産力をつかって大量の製品が生まれました。その生産のための労働者と資本家の関係が社会の中心的な生産関係となりました。商品の売り買いを保護するために個人の所有権というものが基本的な権利となりそれをまもるために法律や政府が生まれました。労働と個人の所有というものを絶対視する考えが広がります。
 原子力という原爆転用の技術を内包した生産力の発見によって、原子力発電が生まれ、それを維持し配電しる電力会社、原子力発電所を受け入れる原発村などの関係がうまれました。原爆転用の技術を内包した発電技術は軍事力との密接な関係を裏にもっています。処理方法が不十分で兵器転用の可能な原子力をたえず安全だと言い続ける必要から、多くの助成金で学者が飼われ、メディアへの巨大な資金の投入から「安全神話」が歌われつづきてきました。
 こうして、生産力はそれに見合った生産関係をもち、そのうえにそれにみあった、政治や文化の形をもつことになります。
 支配というものは、そのたびごとにむち打ちするような非効率な支配よりも、支配されることが「あたりまえ」だと思うように人間を飼いならしていくことをめざします。
「働かない人間はダメな人間だ」、「残業して一人前」、「有給をとるなんてとんでもない」とかいう「空気を読めない」(KY)奴はダメだ、というような言い回しは、支配者や資本家にとって好都合な理屈を、「一般常識」のように思い込ませているだけです。あるいは「女は男と比べると劣っている」という「女ってさ・・・」という言い方は、女性を非正規雇用のパートの低賃金に押し込め正当化するための言い草でしかありません。
 マルクス主義では、こういう、支配者にとって支配されるもの信じこませると便利な、支配を正当化するような、ものの考えのことを「イデオロギー」といいます。また、人々におしつけられ、人々の真実の存在を隠すような意識のことを「虚偽意識」といいます。

 まとめ
 ではマルクスの近代のとらえ方をまとめておきましょう。
 マルクスによれば、近代社会とは資本主義が支配する時代です。
(1)そこでは使用価値が違う物が、等しい(交換価値)を持つものとして交換されます。交換の媒介(なかだち)をするにすぎなかったはずの貨幣(お金)が動きまわり、逆に人々の欲望をかきたて、あらゆるものが商品となっていきます。
(2)商品を生産し販売し資本を増大させる資本家は、資本主義の原則に則った形とはいえ、資本の人格化(金の亡者)として絶えざる資本増大を目指し、労働者を搾取し、他の資本家と弱肉強食の争いを繰り広げます。
(3)このマルクスの歴史観では、生産力が生産関係を規定しさらにその生産関係が、法・学問・文化・イデオロギーなどの上部構造を規定します
(4)資本主義はシステムとシステムとの差異から利潤(動力)を得ています。差異がなくなった時、利潤はえられず動力はなくなるとかんがえられます。資本主義はそのシステムの外部(システム)をたえず必要とするのです。
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by takumi429 | 2016-04-22 00:03 | 社会学史 | Comments(0)
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