3.テンニース ゲゼルシャフト化としての近代

3.ゲゼルシャフト化としての近代 テンニース 


1.「個体発生は系統発生を繰り返す」(ヘッケル)
親身ではあるが、しかし暑苦しくもある、故郷の街から、この冷たい大都会へ来た。ここでは毎朝、カラスがわが物顔で路上に舞い降り、ゴミ袋から生ごみでついばんでいる。気づくと今日一日、定食屋で「ランチ」でひと言いったきりだ。夜のコンビニに行き、雑誌を立ち読みし、缶コーヒーを買い、店員の娘に「ありがとうございました」とマニュアルどおりの言葉をかけてもらうだけが救いの毎日が続いている。
 この個人的な経験は私だけのものだろうか。ひょっとしたら社会のみんなが経験していることではないのか。そう考えたとき、私たちはテンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(1887年)という著作に出会うことになります。

2.ゲマインシャフトとゲゼルシャフト
テンニースによれば、ゲマインシャフトとは肉親・家族や古くからの町のことで、そこでは親身な関係が支配しています。それに対して、ゲゼルシャフトとは、会社や大都会のような、欲得ずくの関係が支配している人びとの集まりです。
 テンニースは、人間が作る結合体には2つの類型があるとします。ゲマンシャフトは、本質意志による 有機的な(organish) 結合体であり、ゲゼルシャフトとは、選択意志による 機械的な(mechanish) 結合体であるといいます。ここでいう、「本質意志」とは、思惟をふくむ意志、生の統一性原理であり、「選択意志」とは、目的にふさわしいかを考えてものを選んでいる意志です 。ようするに、ゲマインシャフトがほかではありえないような気持ちでつながっている集団や関係であるのに対して、ゲゼルシャフトとは、欲得づくの計算によってつながっている集団や関係といえるでしょう。

3.印象批評風社会理論
してみると、私たちはゲマインシャフトの人間関係からゲゼルシャフトの人間関係の社会へと出てきたわけです。私たちが身の回りの社会に感じる「温度差」のようなもの、そうした時代の感性を受け止めるものとして、テンニースの理論はひとまずあるといえるでしょう。
 しかし、「温度差」だけで、現在と過去を語るのは、「最近はさあ・・・」、「昔はさあ・・・」とか、「今のひとは・・・」、「昔のひとは・・・」という、印象で社会や時代と語りがちになります。テンニースの理論を「なんとなく、こういう傾向があるよね」という、「傾向論」にすぎないのではないか、という批判を、中根千枝が『タテ社会の人間関係』 でしたのは有名です。
 こうした傾向による印象批評は、「温度差」から、勝手に「過去」というものを作り上げがちです。たとえば、最近の離婚率の上昇から、昔の人は離婚なんてしなかったという話をしたがりますが、明治期の日本というのは、世界でも有数の離婚大国でした。少年犯罪が目につくから、昔は少年犯罪なんてなかったみたいな言い方がされたりしますが、戦争直後の少年犯罪の方がずっと多かったのです。
 こうした印象批評による社会論もどきは、かってに「過去」を作り上げるばかりか、「もともとは・・・」、「本来の日本は・・・」、「古来私たちの社会は・・・」などという、過去にたいする幻想をつくりあげ、それをつかって現在を断罪し、「美しき・・・に帰れ」と声高に語ったりしがちです。
 でははたしてテンニースの理論はそういう印象批評風な社会理論もどきのものなのでしょうか。ここで、テンニースとこの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の成立と内容についてもうすこし見てみる必要があるでしょう。

4.テンニースのホッブズ 研究
『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』を書いたテンニースはどんな経歴の学者だったのでしょうか。
テンニースはもともとホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679)の研究者として出発しました。
ホッブズが『リヴァイアサン』(1651)の述べた〈服従契約としての社会契約説〉はつぎのような三段論法からできています。
(1)人間には自分を守ろうとする、おのずからそなわった権利がある(自己保存への自然権)。しかしそうして自分を守ろうとする人間は自分を守るために他人を傷つけ殺すこともいとわない。その結果、放っておけば、人間が人間に対して、まるで「狼が狼に対するような」殺し合いの状態になってしまう(〈暴力的死の恐怖〉の中で向き合う自然状態)。
(2)これでは人間同士討ちになってしまいかねない。そこで人々は、自分を守るための手段(暴力・武器など)を、ある特定に人間に預けることにし、それを互いに約束(契約)して、そうしてこの同士討ちをさけようとする。
(3)その特定の人間は、暴力手段を預けられることで、人々を自由に支配する力(主権 sovereignty)を持つ。主権をもつ人間へ服従することで、ひとびとは互いに殺し合うことなく、自分たちを守ることができるようになる。ここに、特定の人間にひとびとが服従している状態、つまりひとつの国家ができあがる。
ホッブズの社会契約説とは、他の契約説と同じく、あらゆる社会関係をいったん解体し、
自己の保存を追求する個人から社会を構成しなおそうという、思考実験です。しかしこの思考実験は決して思考の内部にとどまるものではありませんでした。それは現実の社会関係の解体と再構築に対応していたのです。
 このホッブズの社会哲学にたいしてテンニースはその処女作『ホッブズ哲学注解』(Anmerkung ueber Philosophie des Hobbes)のなかでテンニースはつぎのように述べています。
「定義と公理から推論され証明される幾何学とその確かさにおいて同等になること、それは学問に可能だろうか、あるいはどうしたら可能であろうか。これが認識理論の中心問題であった。トーマス・ホッブズは新しきヨーロッパでこの問題を解こうと努力した最初のひとりであった」(Vierteljahrsschrift fuer Wissenschaftliche Philosophie 3 (1879) S.461)。
 ユークリッド幾何学は23の定義と5つの公理からその全体系を論理的に構築しています(こういう理論体系を「公理系」といいます)。テンニースによればホッブズの哲学は、このユークリド幾何学的な構成をもつ社会哲学です。

5.所有をめぐる闘争
ホッブスは、人と人の争いが、「狼が狼に対するような」殺し合いの争いであるとしました。しかし、動物は決して、同一種同士では殺し合いません。狼は狼を殺しませんし、ライオンはライオンを殺しません。殺すのは他の種類の動物であって、同じ種に属する動物は、縄張り争いはすることがあっても殺しあうということはありません。多くの場合、負けた相手は自分の急所を相手にさしだすことでその争いはストップします(ローレンツ『攻撃』)。同じ種でありながら殺しあうのは、人間だけです。殺し合いというのは、きわめて「人間的」な行為なのです。人間がもつ動物的な資質から、この殺し合いは説明できません。むしろ、人間が本来の動物であったものから逸脱してしまったからこそ、この殺し合いはうまれたのです。
 しかし、殺し合いをする人間とはいえ、同じ集団内部の人間を殺すよりも、外部の、別の集団や共同体の人間を殺すことの方が多かったはずです。ところがホッブスの説く人間の「殺し合い」の闘争は、そういった外部の人間だけでなくて、万人が万人にたいしておこなう闘争をさしています。こう考えてみると、この「万人の万人に対する戦争状態」とは、動物的なものでも、古来からのものでもなく、17世紀に社会に生まれてきた新しい事態だったと言わざるをえません。
この、「守るために殺し合う」新しい社会とは何だったのか。カナダの政治学者クロフォード・マファーソンはその著『所有的個人主義の政治理論』で、ずばり、「所有的市場社会」にほかならないと指摘します(邦訳77頁) 。
 自分を守る、ということがすぐに、他人を損なう、ということにはなるわけではありません。それがホッブスが描くように、自分を守ることが他人から奪うことになる、というのは、人間が互いに「取ったり取られたり」の関係にある、つまり、自分の取り分を増やすためには他人の取り分をへらすしかない、という関係にあるということです。マクファーソンはそういう関係があるのは、人間が、互いの持っている(所有している)ものを(市場で)売り買いし合っているような社会、自分が儲けることが他人の損になるような社会、つまり「所有的市場社会」 にほかならない、と指摘します。
 市場社会では、売り買いは身分や家柄とは関係なく自由にされます。それだけに過酷な、取ったり取られたり(自分の儲けは相手の損)の世界です。また、売り買いされるには、その物がその人間の一部であっては売りようがありません。そうではなくて、あくまでもその人間がいまたまたま持っている(所有している)だけで、だからこそ、売り買いできるわけです。お気に入りのペンや先祖代々の茶碗をまるで自分の分身のように、後生大事にかかえこんでいるのではなくて、それがいくらの値段で売れるか、高く売れるなら売ってしまおう、高く売れるからこそ大事にしよう、そう考えるようになる。つまり、売り買いのことを常に考えながら、品物を持っている(所有している)ような社会、それが所有的市場社会なわけです。つまりマルクスのいう「交換価値」が支配的になって社会のあらゆる時と場所に浸透しているような、そんな社会のことです。
つまり、ホッブズの描いた、万人の万人に対する戦争状態とは、じつは資本主義の前提となる所有的市場社会が支配的となった社会だったのです。ホッブズの『リヴァイアサン』は、所有的市場における「自然状態」を克服するものとしての国家(リヴァイアサン)つまり市場における闘争から国家が要請されていくことを、ユークリッド幾何学のように、公理と定義から積み上げるように記述しようとしたものだったのです。それは市場社会の社会幾何学だったといえるでしょう。

6.『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』再読
以上のことをふまえてテンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』を読んでみましょう。
第1篇 主要概念の一般的規定
ここでは、2つの概念の一般規定がなされます。
主題:「人間の意志(Will)は、相互にさまざまな関係を結んでいる」(34頁)
結合体(Verbinding)とは、肯定的な関係によって構成される集団で、つぎの2つです。
 ゲマンシャフトは、現実的(real)で 有機的な(organish) 生(Leben)であり、
 ゲゼルシャフトは、観念的(ideal)で 機械的な(mechanish) 形成(Bildung)です。
第1章 ゲマインシャフトの理論
ここでは、出生、母子関係、夫婦関係、兄弟、父子関係、享楽と労働、場所のゲマインシャフト…とつみあげていきます。
 ここで注目すべきなのは、「都市」Stadt が、ゲマインシャフトにいれられていることです。ドイツは統一が遅れ、数百の領邦国家から成り立っていました。その国家がそれぞれの首都をもっていました。そうした小さくとも(たとえばワイマールのように)首都であった都市は文化の中心地でもありました。また多くの大学町(たとえばチュービンゲン・ハイデルベルクなど)も存在し、それも高い文化水準をもっていました。ドイツにはそうした文化的なまとまりと洗練度をほこる小都市が今もいくつもあるのです。
 第2章 ゲゼルシャフトの理論
ここでの記述は、基本的にマルクスが『資本論』で語っている内容と大差ありません 。交換、交換価値(ゲゼルシャフト的価値)、貨幣、所有と契約、市民社会(万人すべて商人)
労働者、資本家、商品市場と労働市場、階級へと記述がすすんでいきます。早い話が資本主義が支配する社会関係をのべたものといえます。

第2篇 本質意志と選択意志
ここではこの2類型の集団結合の基礎となる、人間の意志についての2類型が論じられます。すなわち、「本質意志」(思惟をふくむ意志、生の統一性原理)と、「選択意志」(意志をふくむ意志そのものの産物)です。
1-9章は、本質意志のさまざまな形式を述べています。すなわち、気に入り、習慣、記憶などなど、盛りだくさんです。
10章は、選択意志についてこう述べています。
「思惟された目的すなわち追求されるべき対象とか望まれた事象によって、つねにまず尺度が与えら得れ、この尺度にしたがって、企画されるべき活動が規定され、方向を与えられる。否それどころか---完全な場合には---目的に関する考えが、他の一切の考えや、思慮、したがって任意に選択される一切の行為を支配するのである。これら一切の思慮や行為は、目的に役立ち、目的に通ずるものでなければならない」(196頁)。早い話が「目的手段的な合理性」が支配するということです。さらにゲゼルシャフトは「計算可能な」関係世界だということです。
 そのあと、両者を比較し、39章で、「本質意志がゲマインシャフトの諸条件をみずからのうちに有していること、および選択意志がゲゼルシャフトを生じせしめる」(下68頁)とまとめています。
 第3篇 自然法 の社会学的基礎
 ここでは、意志論にまでさかのぼった上で、その意志論にもとづいてあるべき社会の基本となる法の体系を構築しようとしています。


ゲマインシャフト     ゲゼルシャフト
本質意志         選択意志
おのれ(Selbst)     人格(Person)
占有(Besitz)      財産(Vermoegen)
土地            貨幣
身分権          債権
   
第3章 結合された意志の諸形式
ここでは、本質意志と選択意志がそれぞれ結合されていかなる社会が形成されるかの考察しています。本質意志の結合の拡大は民族にいたる、のに対して、選択意志の結合の拡大は国家にいたる。ここで重要なのはテンニースが国家を民族を体現したものとはみなしていないことです。
「国家(Staat)は二様の性格を有する。まず第一に、国家は普遍的ゲゼルシャフト的結合である。・・・第二に、国家はゲゼルシャフトそのもの、換言すれば、ここの理性的ゲゼルシャフト的主体という観念と共に与えられる社会的理性である」(179-80頁)。
「国民国家(nationaler Staat)の形成は無限に拡大するゲゼルシャフトの一時的に限定されたものにすぎない」(189頁)。 
 つまり、テンニスにはいわゆるナショナリズムにみられるような、民族と国家を同一視するような指向はないのです。ふつうナショナリズムにおいては、過去の幻影が民族の形をとって現在の国家体制を正当化するものとして要請されます。しかし、ホッブスの社会幾何学に習って、社会集団の2類型を幾何学的に積み上げ明晰に構成したテンニースにとって、国民国家を「民族」の名の下に正当化することは許されないのです。
 最後にテンニースは、結論と概観をしてこの本を締めくくっています。

7.社会幾何学の意味
こうして再読してみると、テンニースはマルクスの資本主義論とホッブスの市場社会の社会幾何学を結合させて、ゲゼルシャフトの理論を構築したことがわかります。そのうえで、それと対置されるべきゲマインシャフトの理論を、人間の本質意志から構築したのでした。テンニースのオリジナリティは、ゲマインシャフト論の構築にあります。彼は、資本主義化による社会の混乱を、資本主義=市場社会の原理とはことなる社会の構成原理(本質意志によるゲマインシャフトの関係)を提示することで、解決しようとしたのです。
 それは中根千枝の批判するような「傾向」論とはまるでちがう、きわめて構築的なものでした。そして、「温度差」や「傾向」から社会を論じる印象批評的社会論が、過去の幻想を作り上げ、その幻想、とりわけ民族幻想を用いることで、(たとえばナチズムのように)現在の国家の矛盾と権力闘争を隠蔽し正当化することにたいして、きっぱりと手を切ることができたのです。 
8.差異の形成
テンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』は、こうしたすぐれた明晰な理論形成によるものでした。しかし、それでも私たちはあえて異論を提起したいと思います。
 テンニースの理論において、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトは併存しており、また社会の全体的方向は、ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと向かっているとされています。
 しかし、ゲマインシャフトというのは、じつはゲゼルシャフトの関係が支配的になること(ゲゼルシャフト化)によって生まれてきたのではないでしょうか。
 たとえばゲマインシャフトの代表としてあげられる家族は、きわめて融和的な関係にとらえられています。しかし、実際の「家」にはもっと計算づくの関係ではなかったのか、愛情によって家族をとらえようとするのはきわめて近代的な発想ではないのか。社会がゲゼルシャフト化してくるにつれ、それを補完するものとして「家」は情緒的な「家族」へと変質していったのではないのか。
 社会のゲゼルシャフト化が、ゲマインシャフトとゲゼルシャフトの二分化をうみだしたのではないのか。テンニースが掲げる、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトという差異じたいが、じつはゲゼルシャフト化、すなわち資本主義化の運動によってもたらされたのではないか。そしてこのゲマインシャフト/ゲゼルシャフトという差異がもつ、いわば温度差が、資本主義のエネルギーとなっているのではないか。ちょうど親密性が支配する家族が市場的な資本主義関係を補完するものであるように。近代という時代は、計算づくの関係を生み出すと同時に、計算づくでないような欲得なしの親密な関係を生み出す。計算尽くの関係は計算尽くでない関係に補完されつつ存在しているのではないのか、そうかんがえられるのです。

9.差異の消失:近代から現代へ
故郷に帰った私たちを待っているのは、東京と変わりばえしない安っぽい駅前の風景です。故郷の人びとは車を飛ばし、カラオケに興ずる。美しかった田畑は休耕地となって雑草だらけ、魚が群れていた川は護岸工事のために排水路のようになり、裏山には産業廃棄物が山積みになっている。父の遺産のもとは二束三文だった山の土地はリゾート開発で高騰し、一家の者はそれを奪い合う。故郷の町はシャッター街となって、パチンコ屋だけがけたたましい。故郷の親戚は、パチンコ屋とカラオケ屋を車で行き来する生活のなかで、地方のなけなしの最後の富が吸い上げられていく。帰省に疲れ果てて、都会の我が家に帰ってみれば、そこではばらばらの食事、たまに一緒にいると、たがいの顔をみることもなく、スマートフォンの画面を見つめている。
 今日、顕著になっているのは、計算ずくの世界に疲れた我々が帰って行くべきとされ
た世界、ゲマンインシャフト的な世界が、次々と浸食され剥奪されていく風景なのではないでしょうか。
 もはやゲマインシャフトはゲゼルシャフトの外部(他者)として存在するのではない。
ゲマンインシャフト的世界はゲゼルシャフト化によって浸食され崩壊ししつある。
 二項対立の差異により維持された近代そのものが、じょじにみずからの足もとを堀崩していく、それが、現代というものの基調であるように思われるのです。
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by takumi429 | 2016-05-05 18:11 | 社会学史 | Comments(0)
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