6.ジンメルとヴェーバー 形式合理性の支配する時代

6.ジンメルからヴェーバーへ 形式合理性の時代としての近代

「普遍的文化」?
マックス・ヴェーバーは1920年出版の『宗教社会学論集』第1巻で、「どのような諸事態いの連鎖が存在したために、西洋にのみ、その発展傾向において普遍的な意義と妥当性をもつ文化諸現象が出現したのか」という問題提起をしています。
 これを読むと、アジアのかたすみにすむ私たちは、思わずむっとしてしまいます。「ヨーロッパ文化だけが普遍的だと?!」と腕まくりしたくなります。でも、西洋の「普遍的文化」というのはどういうものなのでしょうか。ここで文化の例として、西洋の時計と和時計を比較してみましょう。

 和時計と西洋時計
 和時計は、日々変化する日の出(明け六つ)と日没(暮れ六つ)に合わせて時を刻む時計です。それは時計の設置された場所における日の出と日没時間をすべて組み込んだ時計です。でも和時計は設置場所でしか使えない。「普遍的」(どこでも使える)時計ではありませんし、そんな「普遍性」を求めてはいません。和時計の背後にある時間の体系は、その時々と場所に合わせて時間がずれたり伸びたり縮んだりする。そうした柔軟な体系です。
 それにたいして、西洋の時計は、使用されている場所に関係なく時を24等分して刻みます。その地域の基準地を決め(たとえば明石)、その場所における太陽の南中時を正午とします。この時計は、どの土地にも適合していない、自律的な時計(自分勝手に動く単純な機械)であって、それをあらゆる場所で使い、その土地の人間を強引にそれに合わせさせています。このでの時間の体系は、その時々と場所にはまったく合わせない、硬直した固定的な時間体系です。
 普遍的などこでも通用する西洋時計と西洋の時間システムとは、じつは勝手に動く(自律的な)閉じた時間機械と閉じた(自律的)時間システムにほかならないのです。
 してみると、ヴェーバーの言う、西洋的な「普遍的」な文化いうのは、ひょとしたら、その時々、その場所、その事がらに、合わせて作るのではなくて、自律的に完結した(閉じた)体系を、強引に当てはめる(妥当させる・通用させる)文化なのではないでしょうか。

 ここで、この「序言」が書かれるまでの経緯を、学説史的年代記として列記してみましょう。

1900年 ジンメル『貨幣の哲学』初版出版
1905年 ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」雑誌発表
     注で、『貨幣の哲学』の最終章について言及。
1907年 ジンメル『貨幣の哲学』第二版出版
  ?年  ヴェーバー、『貨幣の哲学』第二版に書き込み。
     (書き込み本はアーヘンの教会図書館が所蔵)。
1911-12年 ヴェーバー、「音楽の合理的・社会学的基礎」Die rationalen und soziologischen Grundlagen der Musik(のちに『音楽社会学』と呼ばれ)るを執筆か。 
1911-15年 『宗教社会学』(『経済と社会』の一部分)執筆か。

1916-7年 「世界宗教の経済倫理」を雑誌に発表(のちに『宗教社会学論集』に収められる)。
1920年 『宗教社会学論集』第1巻 出版
     「序言」にて、西洋文化の「普遍性」はどこから来たのか、という問題提起。
     西洋文明のさまざまな領域における合理化について言及。

 ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、すでに5年前に出版された『貨幣の哲学』初版について言及しています。そしてさらに、2007年に出版された『貨幣の哲学』第2版に、書き込みとアンダーライン・サイドラインをして読み込んでいます。
『貨幣の哲学』は「分析編」と「総合編」に分かれますが、「分析編」は、人間の営み、とくに交換から、どのように貨幣というものが生まれてくるかを描いています。反対に「総合編」は、この貨幣というものが人間の生活にどのような影響を与えるかを書いています。じつは、ヴェーバーの『宗教社会学』もそれに似た構成をしています。前半では、人間の行為から「超感性諸力」(目に見えない力)が生まれ、やがてそれが神概念となり、宗教の意味の体系(教説)を作り上げます。後半ではこうして生まれた宗教がその組織と人間を通して一般に人々の生活にどのような影響をもたらしたかを考察しています。
 ヴェーバーの『宗教社会学』は『貨幣の哲学』の影響を受けた可能性が大です。だとすると、ヴェーバーの『貨幣の哲学』への書き込みは、『貨幣の哲学』の出版(1907年)から『宗教社会学』執筆開始(1911年頃)のあいだになされた可能性が大です。

 ジンメル『貨幣の哲学』
 ではジンメルは『貨幣の哲学』でどんなことを言っているのでしょうか。ヴェーバーの書き込みに注目しながら、ヴェーバーと一緒に読んでみましょう。
 ジンメルはこの著作で、マルクスの労働価値説(貨幣によって示される交換価値はその商品にこめられた一般的な労働時間によってもらたされる)を否定しています。貨幣とは、(交換)関係が結晶化したもの(「形式」)(邦訳第2巻233-4頁)であり、貨幣によって現される価値は交換関係での価値です。 ですから、ある品物がある貨幣と同じ価値があり交換されるということの意味は、品物の実体的価値が貨幣(商品)の実体的価値と等しい、ということではなく、品物がそれを含む商品全体なかで占める割合(比例)で示される価値と貨幣がその全体の貨幣量のなかで占める割合(比例)で示される価値とが同じであることをしめす、言っています(邦訳第2巻172-4頁) 。
 商品と貨幣は、実質的な価値が対応し等しいとみなされるのではなく、その商品が商品体系の中でもつ(比例〕関係的な価値と、その貨幣が貨幣体系のなかで持つ(比例)関係的な価値、とが等しいみなされるのです。
 つまり、ここでは商品の交換の媒介となる貨幣が、閉じた体系を持っており、その閉じた体系の内部での関係(比例)値が、閉じた貨幣体系の外にある商品へと対応するのです。
 貨幣は広汎に普及することで、この交換関係の価値を普遍化するのです。

 ヴェーバー「音楽の合理的・社会学的基礎」
 さてヴェーバーは、同じ頃、西洋の、「平均律音階」の出現とその意味をさぐる論文、「音楽の合理的・社会学的基礎」を書いています。
この論文は後の題名(『音楽社会学』)から想像されるような、音楽と社会の一般的関係をあつかった論文ではぜんぜんありません。この論文は一貫して、音階の比例分割、つまり有理数(合理数)による分割という問題があつかっています。
 もともと音楽は数学や天文学と同列の学問だとされてきました。それは音階というものが有理数(分数)で作られるからです。(たとえば、一つの弦を1/2にすると1オクターブ音が高くなり、2/3にすると、ドの音がソの音の高さになるのです)。
 ところがどの音から分数によって音階を作っていくかによって、じつは音階は微妙にずれてきます。出発点の音によって音階は本当はその度ごとに作り直さなくてはいけなくなります。弦楽器や管楽器ならばそれは微調整で適応できます。しかしオルガンやピアノやギターなど音が固定された楽器ではそうはいかなくなります。転調のごとに別の楽器を使うわけにもいきません。(ピアノやギターがふつうオーケストラに入っていないのはおそらくそれが理由でしょう)。
 この問題を、西洋ではオクターブを12等分することで解決しました。だがその際、音階を分割するのは、もはや分数(有理数)ではなく、無理数なのです。人間の耳は周波数が2倍になると、同じ音に聞こえます。12回音を上げていくとちょうど上の周波数が2倍の音になるように音階を分解する。つまり2の12乗根づつ周波数があがるような音階(半音)を12回積み上げて、上の高い同音にいたるような音階をつくるのです。こうしてできた音階を「平均律音階」といいます。ピアノやオルガンなどはこの音律に調律されています。
 この音階によって自由な転調ができるようになりました。つまりハ長調のラの音はヘ長調のレの音と同じとされるようになったのです。だがその結果、平均律音階の音はどれも、本来の有理数による音階から少しずつずれているのです。
 「有理数」(分数 a rational number)というのは直訳すれば「合理的な数」のことです。それに対して「無理数」(an irrational number) 、つまり「非合理な数」です。つまり西洋の音階は、無理数(非合理数)で音階を分割するという、「非合理性」の導入によって成立したのです。
 この平均律音階の誕生の結果、それを内部に仕込んだ楽器(ピアノ)は、どの調の音階にも対応できるようになりました。しかし、それぞれの調の音階が、起点とする音からの比例分解によって音階をつくっているために、無理数で分節した音階は正確には対応しません。でもそれをいわば、無理矢理対応させる、というのが平均律音階の強みです。そうすればどの調の音も、いちいち調律をし直さなくても弾けるようになります。それはちょうど、1日を24等分するだけの時計でどこに行ってもそれですます、という西洋時計のシステムと同じです。本来は異なっているさまざまな調の音を、「異名同音」として同じ音だとしてくくってしまう。まだ日が高かろうとあるいは沈もうと「6時」だとし、太陽が南中していなかろうと「正午(12時)」だとしてしまうのと同じです。
 ヴェーバーが「普遍的文化」と言ったとき考えているのは、じつはこうした無理矢理あてはめていくような合理性をもった文化のことを考えていたとおもわれるのです。

 呪術からの解放から形式合理主義の世界へ
 ではヴェーバーは、その未完に終わった『宗教社会学論集』で、この「普遍的文化」の発生をどのように説明しようとしていたのでしょうか。残された文献から構成されるのはつぎのような展開です。

 呪術の園
 原生的共同体において、あらゆる生活諸領域は、その神話的呪術的な世界観(聖なる天蓋)の下にまとめられていました。芸術領域もその例外ではありません。芸術はこの世界観に文字通り呪縛されており、同時にその世界観に奉仕するものでした「正しい」とされた様式からの離脱は、呪術的な恐怖を伴うために忌避されました。
 たとえば、音楽を例にとるならば、ひとたび呪術的に効果ありとされた旋律は固定されがちであり、それからはずれた旋律は忌避されました。この固定された旋律から音階が形成されていのです。

 呪術的世界観の打破
 古代ユダヤの民が創出した一神教はこうした呪術的な神話的世界を打破するものとして働きました 。それまで各地の「高きところ」(聖地)でのおこなわれた祭礼はすべてエルサレムに集中され、各地の「八百万(やおよろず)」の神々は否定されました。ただユダヤ教はその民族的な紐帯を脱し切れてはいませんでした。しかし、その神を継承した、キリスト教、イスラム教ではその神観は普遍的なものとなりました。それによりそれまでの地縁・血縁による共同体の祭祀とその呪術的な信仰は打破されました。これをマックス・ヴェーバーは「呪術からの解放」と呼んでいます。 
 呪術的世界観の束縛から解放された文化諸領域はその独自な自律的な展開を見せ始めます。芸術もその例外ではありません。ここでふたたび音楽を例にしてみましょう 。
  
平均律の誕生
 脱呪術化した世界観の下で、音階はそれまでの固定的な旋律の呪縛から自由になりました。それまでの音階が旋律に拘束され、主音から音階形成がなされていたのに対して、音階内部の自律的で合理的な分節が目指されました。有理数(rational number直訳すれば合理数)によるさまざまな音階分節が試みられたが、二分の一、三分の二、四分の三、という有理数による音程の分節は相互に不整合をもたらします。結局、有理数による音程分節はあきらめられ、無理数(irrational number直訳すれば非合理数)による音程分節がなされることになり、それが「平均律」となったのです。この平均律は和声的には常にわずかながら不純であるが、自由な移調や転調を可能にし、その結果、西洋音楽は飛躍的発展を遂げることになったのです。
 平均律音階は、提示された主音から合理的の音階形成をしようとしない。すなわち音階の外から与え提示された音から出発して合理的な音階をその度ごと形成しようとはしません。すでにできあがった音階でそれに対応しようとします。ヴェーバーはその時々の現実に適合しようとする合理性を「実質合理性」と呼びました。しかし平均律音階では否定されています。平均律はあくまでも自分のなかの閉じた無理数による分節による音階をつくりあげ、それを適用します。外のものとの完全な対応を放棄することで、その内部の整合性・体系性を追求するこうした合理性を、ヴェーバーは「形式合理性」と呼びました 。
 
 形式合理性の支配
 ヴェーバーによれば、この形式合理性は、西洋音階のみならず、西洋の文化一般の性格でした。
 たとえば、西洋の線遠近法による絵画は、肉眼からみた像とはわずかであるが遊離した図学的体系による作図を基本にしています。ゴチック建築の登場する以前、たとえば、ロマネスクの教会は、建物の大きさごとに計算され調整されたそれまでの円形アーチとそれによる正方形の区画からの建築しようとしていました。ゴチック様式はその大きさとごとにつくりあげる試みを放棄して、尖頭アーチと長方形の区画の組合せで、教会の建築をしました。西洋の法体系は、事件ごとに人がらや事がらにそくした審議と判決をするのではなく、あらかじめ形式的につくられた法体系を事態に対応させることで審判を下します。さらに貨幣の体系は、個々人が品物にこめたさまざな思い(使用価値)を切り捨て、交換関係のなかでの価値だけで、品物の価値を決める、そうした自律的な体系となっています。

 貨幣と法体系
 マルクスによれば、商品交換が全般的になるにつれて、個々人にとってのものの価値、すなわち「使用価値」ではなく、そのものがどれくらいの金額で交換されるかという「交換価値」が品物の価値を決定するようになります。すなわち個々人の価値(使用価値)と
は別の価値(交換価値)の体系ができあがっており、その価値(交換価値)の体系があることで市場経済が成立しているのです。
 個人の観点からみたら、交換価値というのは、時には「理にあわない」(不合理)もののこともあります。例えば、先祖代々大事にしてきた掛け軸が、二束三文の値段しかつかないこともあります。農地改革 の時にただ同然で手に入れた土地が都市化で急に億の値段がつくこともあります。
 貨幣による交換はこうした交換価値によって、個々人の思い入れによる「使用価値」を押しつぶしていきます。
 このように個々人や個々の場合から見ると「理に合わない」、「ぴったりしない」けれどもそれがあることでさまざまな処理ができるような体系として、法律の体系があります。
Aさんが人を殺したのとBさんが人を殺したのとは、もちろん別の事柄です。それぞれ別の事情があるでしょう。個人の側からみると事情をよく吟味して罰するべきでしょう。いわば「大岡裁き」というのがそれです。でもそれは、Aさんの時は無罪放免、Bさんの時は磔獄門(はりつけごくもん)という結果を招きかねません。このようにいつもその事情ごとに罰し方が違っていたら、なんら規則や決まりというものが作れなくなってしまい、社会生活というものはずいぶん不安定なものになってしまうでしょう。将来のことを予測・計算することもできませんから、およそ計画的な経営というものは難しくなり、「越後屋」にでもなって「お代官様」に賄賂を贈ってお目こぼししてもらった方がよくなってしまいます。
 ともかく、「悪さ」や「非道」があったら、それに、犯罪名を適用し、さらい、その犯罪に対する処罰を適応する、たとえば、「人殺し」や「刃傷沙汰」があったなら、ひとまずどちらも「殺人」という名でくくり、その罰則の幅を決めておいて、そのうえで事情を考慮するというのが、近代の法体系のあり方です。
 同じようにAさんとBさんが別れるのと、CさんとDさんが別れのとは、もちろん別の事柄です。しかしひとまず「離婚」という言葉でくくってそれから対応するのが法律のやり方です。(かつて『クレーマー・クレーマー』という離婚をあつかった映画がありました。圧巻は法廷の論争シーンでした。夫婦の個人的な悩みや問題が法律の「言葉」で表現されるとき、まるで身を切られるような残酷さを持っているのをそれはみごとに表していました)。
 掛け軸を持っているのと、金の延べ棒を持っているのとは同じではありません。しかしどちらも「所有」という見方でくくることでその権利を保障しているからこそ、人びとは安心して売買(交換)ができるのです。持っているものによって急に取り上げられてしまうようになったら不安で売買なんかできません。
 法律の体系は、社会のさまざま事柄を、法律の言葉でくくり、それを処理する体系です。貨幣(交換価値)の体系も法律の体系も、個々の、本来ならば「同じ」とはみなすことのできない物事を、「同じ」とみなしくくることで、機能しているのです。
 このようにヴェーバーは、個々の事例にそれぞれふさわしい「合理性」を「実質合理性」とよびました。それに対して、個々の事例を共通なものとして形式的にくくるような合理性を「形式合理性」とよびました。

(2)形式合理性の世界
 その本来の問題解決からみたら「非合理」と思えるものを導入することで西洋の「合理性」は成立し、各領 域は自律的(合理的)体系をなしているのです。たとえば貨幣の体系は、個々の「使用価値」を無視しそれからみたら「理に合わない」、「交換価値」の自律的体系としてたち現れています。また法体系は、個々の実状をいったん捨象することでその実律的、形式的かつ普遍的な体系となっています。たとえAの殺人とBの殺人は個別的なことなのに、ひとまず「殺人」としてくくります。それぞれに実状にあわせて裁判することを「カーディー裁判」といいます。しかしそれでは場合によって判決が違ってきて、計算(予測)可能性がなくなり、資本主義的経営がなりたたなくなります。

マルクス 
使用価値 
交換価値(+労働価値説)

ジンメル 
内容 
交換価値形式(交換関係の結晶)としての貨幣

ヴェーバー
実質合理性
形式合理性(閉じた自律的システム)
 
 マルクスは『資本論』で、「使用価値」と「交換価値」の2分類を提唱しました。その際、マルクスは、「交換価値」は、「一般的な労働」の時間によって計られる、とかんがえていました(労働価値説)。ジンメルはこの労働価値説を切り捨て、貨幣が現しているのは、交換関係における価値であり、貨幣はこの交換関係が結晶化したもの、つまり関係が実体化したもの、つまり「形式」だとみなしました。
 ヴェーバーは、このジンメルの関係の結晶化としての「形式」という考えをつかって、「形式合理性」という概念を得たと思われます。この合理性は、交換や転用が可能な普遍的な合理性です。しかし、それがさまざまなものに交換・転用・適用できるのは、体系が柔軟性だからではなくて、むしろ反対に、他の領域からいったん離れて独立に自律的で、固定化した体系(システム)だからなのです。
 こうして、ヴェーバーは、ジンメルの形式社会学(関係の結晶化としての形式をあつかう社会学)、とりわけ『貨幣の哲学』を経由することで、マルクスの「使用価値」と「交換価値」に対応するものとして、「実質合理性」と「形式合理性」という概念をつくりあげたと思われます。
 この形式合理性の体系でもっとも重要なのは、貨幣体系と法体系です。しかしそのほかの領域もそれぞれに自律的に(つまり他の領域や人間本来の目的からの合理性を無視して)展開され完結しているとヴェーバーはみていたのです。
 非合理性を媒介にして形式合理のさまざまな体系が自律的に展開する、それがヴェーバーの近代観です。そうしたばらばらになったさまざまな領域の体系のなかにあって、その分裂を一手に引き受けまとめ上げるべきものとされるのが、個々人の「人格」なのです。
 禁欲的に自分の幸福からみると非合理に過ぎない労働に邁進する近代人は、同時に分裂した近代にあって統合をめざす唯一の拠点として緊張にさらされているのです。宗教的禁欲主義が世俗的な資本主義を生み出し、非合理を媒介にして自律的形式的に合理化した諸領域が発展していく。ヴェーバーの近代とはこうした逆説的な発展が生み出したものにほかならないのです。
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by takumi429 | 2016-05-26 21:53 | 社会学史 | Comments(0)
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