13.リスク社会としての現代

15.リスク社会としての現代
(1)リスク社会の出現
1986年4月26日に旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所の4
号炉が爆発する事故が発生し、周辺のみならず、ヨーロッパ全土に深刻な放射線被害をもたらしました。同じ年の1986年9月26日、ウルリヒ・ベックの 『危険社会』 が出版されました。同書は専門書としては異例の売上となり、そこで提唱された「リスク社会」の概念は広く知られることになりました。
 リスクとはなにか。私たちの生活は古来、さまざまな危険(英danger,独Gefahr)におびやかされてきました。思いもかけない天変地異が私たちの社会を飲み込んできました。しかし、リスク(英risk,独Risko)とは、こうした危険一般ではなく、むしろ私たちの社会じしんがもたらした危険を指します。
 例えば、2011年3月11日におきた東日本大震災は、地震と津波による災害でした。こうした地震と津波という危険は、地震国である日本が有史以前からかかえてきたものです。しかし、その地震と津波によっておきた福島第一原子力発電所事故は、地震国である日本が、(おそらくは被爆国でありながらも核爆弾の技術を確保したいという隠れた意志のもとに)、過去定期的に津波が襲ってきていた海岸線に原子力発電所を多数建設し、しかも津波に対する備えを充分にしてこなかったという、私たち社会のおこないがもたらし災害、いわば「人災」でした。
 こうした、みずからの行動や選択によって発生しうる危険、すなわち、自己責任により冒す危険、のことを「リクス」とよびます。
 ベックは、自分のしたことが自分に返ってくるという自己回帰的(再帰的reflexive)な構造をもつ社会を「リスク社会」と呼びました。そしてこのこのリスクのもつ自己回帰的(再帰的)構造に、近代の変容、つまり現代の決定的な特徴を求めたのです。

(2)産業資本主義の自己矛盾
 近代の産業資本主義は、つねに、非産業世界(外部)を前提にしていました。産業化はたえずその対象としての未開拓地を必要としていました。
 ローザ・ルクセンブルクはこのことを『資本蓄積論』なかでこう言っています。「資本主義は、その存在と進展のために、非資本主義てきな生産諸形態をその環境として必要とする」(太田哲夫訳書76頁)。
 産業資本主義は、拡大再生産、資本の拡大を不可欠としています。ヴェーバーがいう「伝統主義」が支配する「単純再生産」ではなく、たえざる利潤の獲得とその資本への再投下(拡大再生産)を基軸とするのです。
 しかし、飽和した限られた社会の中からは利潤はうまれません。賃金だけを生活費とするような労働者や正当な賃金払いをもとめる主婦や妥当な価格を要求する資源提供者しかいないような社会では利潤はうまれないのです。片足を自給自足の農業に残したままの労働者や農村を追い出されてぎりぎりの賃金でも満足する労働者が存在し、「愛」の名の下に無給で働く主婦が存在し、ガラス球のようなガラクタや安い対価で鉱物資源や人的資源(奴隷など)を提供してくれる「未開地」があればこそ、産業資本主義はその利潤の獲得と資本
の増大を可能とすることができるとのです。
 しかし、資本の拡大はこの資本主義がそうした未開地へと拡大侵食していくことを意味します。結果、未開地はどんどん失われていきます。労働者は正当な賃金を要求し、主婦は対等な人格と労働の対価をもとめ、「開発途上国」は資源にたいする対価をもとめ、それはどんどん先進国との差を縮めていきます。産業資本主義は外部世界を前提としつつも、その外部世界を侵食して消し去っていくことで、自分の前提条件を突き崩していくという自己矛盾を抱えているのです。
 たとえば、安価でぼうだいな労働者の存在が中国を世界の工場へと押し上げましたが、人口の停滞・現象と労働運動などによる賃金の上昇によって、中国に工場をもつメリットは資本にとってますますうしなわれいきます。中国が資本主義圏に飲み込まれれれば飲み込まれるほど、外部としての性格を失えば失うほど、産業資本主義にとって中国の魅力は薄れていくのです。
 岩井克人はその著『ベニスの商人に資本論』で、遠隔地貿易とは、交換比率のちがう地域間での貿易により利潤(もうけ)をえる経済であった、産業資本主義とは市場と工場内での労働と貨幣の交換比率の差を使った利潤をあげるものであった、といいます。これらの経済はともに、地域格差、空間における価格体系のちがいを利用して利潤をあげる経済でした。
 では地域による価格体系の差がどんどんうしなわれていったとき、どうやって利潤をあげていくのか。岩井はそれは、空間による差異ではなく、時間による差異を利用するのだといいます。つまり、技術革新型の資本主義です。この技術革新型の資本主義は、未来の技術による労働と生産の比率の違いによって利潤をあげる、つまり将来の技術水準を先取りした企業が、まわりの遅れた生産技術との差によって利潤をあげるのだというのです。
 産業資本主義は地域的な価格体系の格差(差異)を利用して利潤をあげてきました。しかし資本主義は空間的に拡大していくというその拡大運動のなかで利潤をあげていきました。技術革新型の資本主義は、こんどはみずからの中に未来を先取りすることで、その先取りに技術革新の広がりの運動の中で利潤を上げていくのです。地域的外部を失った資本主義は、時間的に進んだ部分と遅れた部分とを作り上げることで利潤をあげてきました。しかし、その差は技術の拡散によりつねに解消されていきます。それゆえ、こんどは、たえざる技
術革新あるいは技術モードの変更により格差(差異)を創出していくことが必要とされるのです。
 資本主義の外部への拡大は、外部を失うことで、内部での差異創出の運動へと変化したのです。つまりみずからをたえざる再編へともちこむことで自分を維持する、資本主義がみずからを技術革新によって未来の資本主義へたえず再編していく。そのことによって延命ざるを得ないというわけです。
 この外部から内部への資本主義の運動は、ちょうど外部を近代化していった近代の運動が、みずからの内部へとその運動を転換することにつながります。ここでベックの議論にもどりましょう。

(3)再帰的近代(外部性の喪失)
 ベックによれば、近代とは外部を前提にしていました。ベックのあげるのは次の3つです。
 ①自然環境
 近代産業社会は、自然から資源を取り入れ、外部たる自然に廃棄物を捨ててきました。
 ②「愛」による家庭
 男女の身分的な差別(家父長制)によって、家庭に労働者の再生産をさせてきました。ここでいう「労働の再生産」とは、職場で疲れた労働者が家庭にもどって元気になりまた働くことができるようになる、という現在の労働力の再生産と、子どもをそだててみらいの労働者とするという、新たな労働者の生産(再生産)の両方を意味します。この家庭内の労働は賃金による労働でなく、「愛」の名の下によるほぼ無給の労働でした。近代社会はこうした影に隠れた労働(シャドー・ワーク)を不可欠な前提としてきたのです。
 ③科学の専門化
 科学は政治とは分離させられ、中立公正で客観的なものであるとされてきました。
 しかし、再帰的近代、すなわちリスク社会になるとこうした外部生は失われました。その結果、各領域での再帰的近代化(reflexive modernization)が生じることになります。
 ①廃棄物を捨てることができる余地がもはやなく、廃棄物は環境汚染という形で社会へ跳ね返ってきます。外的環境からの危険とは異なる、人間社会がもたらしたリスクが、問題となってきます。ここでは、富の分配でなくリスクの分配(マネージメント)が問題となってくる。またこのリスクを認知するために科学にきわめて依存するようになります。たとえば、目に見えない放射汚染は科学的な測定によってしか認知できません。私たちは放射線の危機の認知のためにたえず科学をあてにするしかないのです。
 ②産業社会の個人化が家庭にまでおよび、家庭はもはや安定した役割分業の世界ではなくなってきます。失業という危険が人々を個人化する。失業から離婚し、公団やアパートなどで「孤独死」する中高年が増大している現状はまさにこれです。女性の教育水準の上昇し、労働市場への進出して、離婚の増大します。結果、じつは身分的性別役割分業であった核家族(未婚の子どもと両親からなる家族)は解体していきます。
 ③これまで、科学は外に研究対象を見出してきました。ところが、原子力発電事故のように、科学がみずから危険を生産するものになってくると、科学は外に対象を見いだすのではなく、自らが生み出した帰結に対処する(自分で自分のしりぬぐいをする)ようになってくるのです。ここにおいて、科学はおおきな政治的な力をもつものとさえなってきます。しかるにこれまでの議会制民主主義は政府をコントロールすることはできても、こうした政治的な力をもつようになった科学技術には対応しきれなません。これには、市民運動などのサブ政治で対応することが必要になるのです。
 こうして、資本主義のこうした自己回帰的(再帰的)な運動は、近代が外部を近代化する
のではなく、みずからを再度、近代化する、「近代の近代化」(再帰的近代)をもたらすとベックを主張したのでした。
[PR]
by takumi429 | 2016-07-21 20:22 | 社会学史 | Comments(0)
<< まとめ 12.強制収容所の時代としての現代 >>