まとめ

近代(現代)社会とはいかなる社会か まとめ

私たちを取り巻き、私たちがその中で生きていくこの近代社会(あるいは現代社会)とはいかなる社会なのか、それこそが、一見バラバラにみえる社会学者たちの共通の問題意識であった。

マルクスにとって近代社会とは、資本主義にほかならない。
ものを使う人にとっての価値(使用価値)ではなく、それはいくらで売れるかで計られる価値(交換価値)が優位となった社会のなかで、労働者は労働を売り、資本家はそれを買取り、労働者を働かせ、利潤を上げ、その利潤を再度、資本投下して、資本を拡大させていく。増殖していく資本の運動として資本主義はある。

テンニースにとって、過酷な資本主義の現実こそ、ホッブスが説いた自然状態(人が人に対して狼である状態)にほかならなかった。この人が品物を買うときのようにあれかこれかという欲得づきの選択でしかつながりあえない関係(ゲゼルシャフト)に対して、それとはちがう本質的な意思により結び合う関係(ゲマインシャフト)を対置して、この両者をホッブスのようにユークリッド幾何学的な体系として社会理論を作ろうテンニースは試みたのである。

資本家のたえざる資本増大の欲求と労働者の勤勉な奉仕というのは、幸せをもとめるあたりまえの生きかたから見ると、じつは倒錯した生きかたでしかない。ヴェーバーはこの倒錯した生きかたの原点を宗教改革の禁欲思想にもとめた。聖職者しか求められなかった禁欲的な労働は、いっぱんの仕事も神から命じられた使命である、とされることで、ふつうの労働にも適用されるようになった。しかも、自分が救いに予定されているのか不安に思った信者たちは、仕事による業績(収益)にその救いの確かさを求めるようになり、けっか、自己の幸福とはうらはらな絶え間ない仕事への没頭をして資本を増大させることになり、こうして現代の資本主義がうまれたのである。

ジンメルによれば、貨幣とは交換関係が「形式」として結晶化したものにほかならない。ヴェーバーは、人間の関係が形式として結晶化し硬直化して人間に対峙するのは、貨幣だけではなく、法体系、音階、建築様式、時間システム、官僚制、などなど、西洋の文化全般の性格であると考え、これを「形式合理性」と名づけた。西洋文化の「普遍性」とは自律的なシステムとなったこれらのシステムを、強引に外部にも適用しようとする、西洋の全体性へに志向にほかならない。

デュルケームにとって、近代社会とは、欲望が本能のもつ制限(リミッター)を失ってらせん状に増大していく時代にほかならない。本能の制限を失って、同一種である人間どうしが奪い合い殺し合うような状態を治めるために、彼は宗教がもっていた道徳の力を復活させようとした。
同時代の作家ゾラは、フランスの第二帝政期を題材として、欲望を異常なまでに増大させているさまざまな社会的装置(欲望の喚起装置)を描き出した。すなわち、市場、株式市場、炭鉱、鉄道、デパート、政治、戦争である。

ベンヤミンにとって、本来の使用から切り離されて市場を浮遊する貨幣のありかたは、さまざまなイメージをそのもともとあった場所から切り離し別のものとつなぎ合わせることで、時代の夢を生み出す映画のあり方につながるものであった。ベンヤミンにとって近代とは夢工場にほかならない。バラバラにされたイメージをつなぎあわせて希望の社会のビジョンをイメージしようしたベンヤミンは、皮肉なことに、映画を制作するように政権を作り上げた(悪)夢工場たるナチズムによって死においやられたのである。

ナチズムを予感させる映画『カリガリ博士』の最後において、世界はすべて精神病院のなかに飲み込まれる。そこでは、収容所を管理運営する科学者が支配者となる。だが権力の源泉は、個人ではなく、一望監視装置に代表される収容所という装置にある。フーコーにとって近代とは、精神病院、監獄、学校、軍隊などの、それ自体完結して人を閉じこめる「全制的施設」(total institution ゴフマンの用語)が支配的となる、すなわち収容所の時代にほかならない。

アンダードンによれば、近代とは国民国家が支配的となった時代である。共同体から剥離された人々をまとめあげる「想像の共同体」こそ、この国民国家にほかならない。この共同体は、言語文化によって一体感を形成され、国旗、地図、人々の移動、新聞・小説などによって、同じ共同体に属しているという幻想をもち、国家装置なかでみずからを位置づけそれに殉じていく。

ウォラースティンによれば、近代社会は、中核、半周辺、周辺という、「世界システム」を形成することで生まれてきた。西洋近代社会はアフリカの奴隷を新大陸で働かせることで資本主義を開花させたのである。近代社会はたえずその外に従属的な地域を必要としているのである。

ナオミ・クラインによれば、新自由主義とは、ショック療法により、人が人に対して狼であるような弱肉強食の状態をつくりあげることで、資本主義の強者がさらなる利益を貪ろうとするものでしかない。現代はこのショック・ドクトリンが蔓延している時代なのである。

アメリカ合衆国におけるフロンティアの喪失は、同じパイを奪い合うホッブス的状態をまねきかねなかった。パーソンズはその危険をお互いの役割を遂行していこうという共通価値の受容によって乗り切ろうとした。しかし、それは白人男性優位の体制を普遍的なものとみなす「おじさんのたわごと」でしかなかった。フロンティアの喪失はアメリカン・ドリームの崩壊をもたらす。まともなことでは成功できない移民やマイノリティたちは非合法な方法で成功を得ようとする。マートンはそこの社会問題の発生の原因をみた。しかし対抗文化のなか、これまで成功とみなされてきたもの(目的)、それにいたる道すぎ(手段)を否定する若者たちがうまれてきた。彼らのナイーブな(このナイーブには「バカ」という意味合いもある)感性を反映したのがエスノメソドロジーである。アメリカはその後、外部に敵をつくりあげることでフロンティアを作り続けていこうとしている。

第二次世界大戦以降、際立ってきたのは、排除すべき他者を集めて殺して消去するという、強制収容所における大量殺害である。バウマンはその典型であるユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)は、たんにナチズムの狂気だけでは可能とならず、むしろ、近代の(道具的)合理性を駆使した官僚組織と科学技術によって可能になったのだとした。そこではおそろしく凡庸な陳腐な人間が、ぼう大な生命を消去する指示を下しているのである。

産業資本主義はたえずその外部をもたなくてはならず、しかもその外部をたえず侵食していくことで、みずからの危機を招き、その危機を克服するために、技術革新によってみずからの内部に差異をつくりあげなくてはならなくなった。近代社会もその基本原理である「普遍」の名のもとでの膨張によって外部を失っていく。ウルリッヒ・ベックによれば、外部を失うことでそれまで外部に依存し廃棄してきたものは社会の内部に回帰して危険なものとなる。この状態の陥った社会が「リスク社会」である(外部とはたとえば、自然環境、家庭内での女性、政治から分離中立だとされてきた科学などである)こうして近代社会の外部への作用が自分自身への作用へとなるという「再帰的近代」の段階に私たちの社会はいたったのである。
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by takumi429 | 2016-07-21 20:24 | 社会学史 | Comments(0)
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