『田舎教師』その1

田山花袋 『田舎教師』(1909)
日露戦争の勝利に日本全国が沸き立つなか、北関東でひっそりと死んでいった小学校教師、その人生を描いた作品。

巻頭に北関東の知図が添付されている。

「巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が到らなかった青年の一生ということを思わせたいと思って挿んだのであった。」『東京の三十年』(岩波文庫257-8頁)。
(地図を小説に添えるという手法はすでに島崎藤村が自主出版した『破戒』明治38年1905年で試みていている。藤村が近体詩人から小説家への転身をはかって発表したこの『破戒』は文壇に大きな衝撃をあたえた。花袋の『田舎教師』はこの『破戒』への対抗から書かれている。しかし地図を添える手法がじつは、日露戦争に博文館の記者として従軍した記録『第二軍従征日記』1905年で花袋が使っている。このことについてはあとでまた検討するhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903488/218)。
本当にそうなのか。
そもそも地図というものがどんな意味を当時もっていたのか。
それを知るために、いったん、小説から離れて、当時の地理学教科書をみてみることにしよう。

日本の教科書の時代区分
 明治5年(1872年)「学制」
 明治14年(1881年)開申制度:小学校教科書について府県が一定の書式で文部省に届け出る
 明治16年(1883年)認可制度:小学校及び中学校教科書について府県が事前に文部省の認可を得なければならない
 明治19年(1886年)小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令
  教科書検定制:小学校,中学校教科書は,文部大臣が検定したものに限る
 明治35年(1902年)教科書疑獄事件:教科書の採択競争の激化に伴い多くの不正が発覚 
 明治37年(1904年)国定教科書:国語,書き方,修身,歴史,地理 
 明治38年(1905年)国定教科書:算術,図画
 明治44年(1911年)国定教科書:理科
 昭和24年(1949年)教科書検定制度:小学校,中学校,高等学校において文部省検定済教科書の使用
地理教科書 記述の順番・さし絵・地図などに注目してみよう。
明治13年文部省印行『小學地誌』
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、琉球へと記述が進む。出発点に「京都市中図」がそえられれている。
 各地方は京都からのアクセスの仕方でとらえられている。地域は、領域(面)としてとらえられるのではなく、京都からの行き方(アクセスの仕方)でとらえられている。
明治34年文学者編輯へんしゅう所編纂へんさん『修正新定地誌』
「第二篇 日本地理各道誌」
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、臺たい湾わん、へと記述をすすめる(沖縄は南海道に含められている)。
「第一 畿内」「京都」から始まる。

明治33年普及社編輯所編集『小學地理』
「第一章 第一 東京(東京府上)」から始まるが、「第二 小笠原島(東京府下)」、「第三 利根川(千葉懸)」、「第四 水戸(茨城懸)」という風に、地点を名所案内のように取り上げていく記述の仕方で、さし絵も名所案内の趣きである。
これに対して初の国定地理教科書
明治36年文部省著作『小學地理 一』は、
附圖に色刷り「日本交通全圖ず」’日本の領土を赤くぬったた地図)をつける。
記述は、「第二 関東地方」から始まるが、まず各地方は必ず地図のなかでその領域を確定する。さらに府・懸の地図を載せて、そこでも府・懸の領域を白抜きしてい確定する。
日本の諸地域は、それまでの点と点や、京都からのアクセスの仕方で把握されるのでなく、あくまでも固有の領域(領土)をもつものとして把握される。その際、そうした国土の把握を目に見える形にしたものが地図であった。ここでは名所案内の水平のまなざしではなく、上から垂直に見下ろすまなざしがうまれている。そしてそのまなざしは東京(中央)からのまなざしであったといえよう。
 地図のまなざし:地域の領土的把握・上(中央)からの把握
田山花袋は、どのようにして地理学的な地形図(地図)に親しむようになったのか。
博文館で、『大日本地誌』の編集を手伝った。
「『大日本地誌』の編輯の手伝いを私は明治三十六年から始めた。山崎直方君、佐藤伝蔵君が主任で、私と他に若い文学士一名、理学士一名が手伝った。私は山崎君、佐藤君から地理に対する科学的研究の方法を教えられたことを感謝せずにはいられない。」(『東京の三十年』239頁)
山崎直方http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9
(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)日本の地理学者。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。1895年、26歳の時、帝国大学理科大学(現東京大学)で岩石学を専攻し、地質学科を卒業する(同じ門下生に京都大学の地理学教室創設者の小川琢治がいる。佐藤伝蔵と同級生)。1897年、28歳の若さで第二高等学校(現東北大学)の地質学の教授に就任。文部省から1898年から1901年まで3年間ドイツ・オーストリアへ地理学研究のため留学。地理学者のJ・J・ライン[3]やペンク[4]に指導を受ける。当地から当時先端の地理学を学ぶ。帰国後、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現筑波大学)の地理学教授に就任。1911年には東京帝国大学理科大学教授に就任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9#cite_ref-2
佐藤 傳藏(さとう でんぞう、明治3年4月15日(1870年5月15日) - 昭和3年(1928年)8月26日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱物学。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BC%9D%E8%94%B5
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者、地理学者。物理学者湯川秀樹は三男。
1886年 16歳で第一高等学校に入学。
1893年 24歳で同校を卒業し、帝国大学理科大学地質学科に入学する[1]。
1894年 小川家の長女の小川小雪と結婚式を挙げる。
1896年『台湾諸島誌』東京地学協会
1897年 東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。
1891年 紀州旅行の準備中(10月28日)に、濃尾地震に遭遇。被災地を見たのち帰省し、地学の研究を志すようになる[1]。
1908年 農商務省地質調査所退官、京都帝国大学文科大学教授、地理学講座担当。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%90%A2%E6%B2%BB
日本の地理学前史
福沢諭吉 『世界国尽』1869年(明治2年)
 七五調の世界地理案内書。アヘン戦争や各国の歴史・政治形態についてもふれている。
 さし絵がふんだんに掲載。しかし地図は巻頭のみ。とにかくとてもためになる啓蒙書。

札幌農学校出身者 アメリカのピューリタン(新教徒)精神
 志賀重昂『日本風景論』1894年(明治27年) 科学的知識と日本精神論の奇妙な合体
  「日本ライン」を提唱。
 内村鑑三『地理学考』(のちに『地人論』と改題)1894年(明治27年)
  世界の地理現象に神の摂理を見る。

東京大学 地質学科出身者 小川琢治・山崎直方
 植民地経営(支配)に役立つ学問としての地理学
 台湾1895~1945年 日本統治。
 小川琢治『臺湾諸島誌』1996年(明治29年)
 山崎直方・佐藤伝蔵『大日本地誌 第十(琉球・臺湾)』1915年(大正4年)博文館
 

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by takumi429 | 2014-06-01 23:30 | 社会環境論 | Comments(0)
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