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もしも映画論をもういちど講義できるなら

もしもまた映画論が講義できるなら
次の設問を与えて映画を見てもらおう。
1)『パリ・ジュテーム』「モンマルトル」

登場する二人はこの後どうなるでしょうか。

2)『ラ・ジュテ』

静止画だけからできた映画ですが、1ヶ所だけ動画がありますが、それはどこでしょう。その意味は何でしょうか。(私の答えも自信があるわけではないけどよくみてもらうために)。映画にでてくる年輪は何を意味しているのでしょか。
3)『めまい』

『ラ・ジュテ』と似たシーンが登場するしますが、それはどこでしょう。その意味はなんでしょう。あと繰り返しでてくる形(モチーフ)はなんでしょうか。
4)『ラン・ローラ・ラン』

『めまい』から借りたシーンや形がでてきますがそれは何でしょうか。
5)『サイコ』

途中で主人公マリオンに何かが起こりますが、そうした展開はなぜこの映画に必要だったのでしょか。
6)『12モンキー』

これは『めまい』ではなく、むしろ『ラ・ジュテ』のリメイクですが、なぜそう言えるのでしょうか。『ラ・ジュテ』には無いものはなんでしょうか。
7)『アメリ』アメリがいつも水切りをし、そのための石を大切なことの前に見つけるのはなぜでしょうか。セルフ写真機の回り出す丸椅子は何を意味するのでしょうか。写真の連続によってものが動いているように思わせ、物語を構成するのが映画だとしたら、こうした映画の原理が現れているシーンがいくつもあります。それはどれとどれとどれでしょうか。アメリが体現している精神は何でしょうか。
8)『羅生門』この映画の後、黒澤明は、集団脚本作成、マルチカメラという方法を用いますが、それはどんな方法だとおもいますか。この映画の特徴からそれを想像して答えてください。
9)『雨月物語』宮川一夫カメラマンの長回しが際立つ場面はどこですか、それを探してください。
10)『明日は来らず』途中でお婆さんが電話で話します。その声が大きいのはなぜでしょうか。また、映画の後半思いもかけない展開がまっていますが、それはなんでしょうか。車の売り手、階段の上のダンスホール、ラジオの放送などは何を意味しているのでしょうか。また、映画の後、二人はまた会えると思っているのでしょうか。

11)『東京物語』くりかえしあらわれるモチーフはなんですか。映画の最後の紀子の告白に性的な意味はあるのでしょうか。この場面によく似た場面を探して、それにこたえなさい。また『明日は来らず』との比較して、この映画のオリジナリティはどこにあると思いますか。


私の答え(忘れないうちに大急ぎで)(一部忘れてしまった(;_;)

(1)二人は結婚して子どもができる。車の車窓に順番に見える人々が、乳母車をおす母親、妊婦、恋人2人、そして運命の出会いのヒロインである。サイドミラーに映ったこれらの人々が移ることで、この順番は逆転する。ミラーに映らないことで主人公が異変に気づくのがこの運命の出会いのきっかけであり、この女性を送っていくだけかと思ったら、「待ちますよ」と言って送っていくだけでなく、治療のあとも待ち合わせるという発言になっていることから、主人公がこの女性と付き合おうと思っていることがわかる。こうして運命の出会いから二人の人生がはじまり、恋人時代→妊娠→子ども、へと進んでいくことが想像される。なお、逆転する時間というのはフィルムによって時間を写しとることではっきりと意識されるようになった時間のあり方である。

(2)ベッドで主人公を見つめるヒロインが瞬きする。まばたきは写真のシャッターを想起させる。この映画が静止画の連続である、つまり、一枚一枚、シャッターを切っていることとつながっている。

映画に出てくる年輪はフィルムの巻を意味する。もちろん、年輪は同心円でフィルムの間は螺旋なので完全には同一ではないが、年輪の外側、内側で別の時間にいることを語るのは、時間がフィルムに撮られ巻かれて保存されていることをふまえている。

(3)二人が年輪をみつめて、ここに自分がいる、そこにあなたがいる、という発言をするシーン。繰り返しでてるくモチーフは、うずまき。これはフィルムの巻、に類似している。

(4)三度繰り返しの冒頭のアニメのなかの螺旋階段。カジノでのブロンド女性の巻き髪の絵など。

5)主人公だと思われていたマリオンが突然殺されてしまうこと。映画の観客は主人公の眼を通して物語を観ていくので、ついつい主人公に感情移入をしがち。その結果、映画での「制限された語り」は主人公のレベルになりがち。主人公よりももっと観客のえる情報が制限されている、つまり主人公が観客のうかがい知れない面をもっており、観客はそれを最後に知らされる(『アクロイド殺人事件』の手法)には、この主人公への観客の同一化はジャマになる。それゆえ、最初、別の主人公に同一化させて、その主人王を殺すことで、観客の視線(同一化)を宙ぶらりんにすることにこの映画は成功している。

(6)時間が反復するだけでなく、主人公が過去の時間(過去の映像の集積=写真の連続のすきま)に入り込んでいるから。

(7)映画の編集とは必要な写真をピックアップすることだから。水切りのように。周り椅子はフィルムの巻をイメージしている。盲目の老人に周りの情景の部分を切り取り語ることで老人を素晴らしい世界の中にあると実感させる。管理人の元にある手紙の集積から都合の良い部分を抜き出して、配達されなかった虚構の手紙を編集した。などなど。アメリとは映画のモンタージュ(編集)の精神の化身なのである。

(9)一つの対象をマルチな視点からとらえ、それを適宜選択してつなぐ、という手法としては同じもの。

(9)京マチ子の舞から湖畔へとつながるシーンなどなど。

(10)歳を取って耳が遠くなっている、からではなくて、恋しい夫が(心理的に)とてつもなく遠くにいる、と感じているから。

急に不動産の男(長いコートが天使のつばさのよう)に連れられて、階段の上にある天国のようなホールでダンスする。声は天国からの声をイメージする。

(11)一番大事で、元ネタの『明日は来たらず』にないモチーフは、紀子に義理の母、つぎは義理の父(笠智衆)が話しかけるシーン。


紀子(原節子)の告白に性的意味はないのか。

死んだ息子のことは忘れて再婚して欲しい、という義父の言葉に「私、ずるいんです、夜寝ていると何かを待っているような気がするんです。そういうことはお母様には言えなかったんです」と言って泣く。私のつかった映画論教科書(Film:A Critical Introducton) によれば、映画の繰り返されるモチーフに注意せよ、とのこと。そこでこのシーンによく似たシーンはというと、紀子のセリフにあるように、義母とみ(東山千栄子)に再婚を進められるシーンがある。そこで、とみは紀子のアパートに泊まり礼を言う、「思いがけず、昌二(死んだ次男で紀子の夫)の布団まで使わしてもろうて」というとみの言葉に、紀子はうなじをかきあげる仕草、すこし身悶えしているようなとも思えるしぐさをする。亡き夫の残り香がある布団のことを言われてのこの仕草に、紀子が夫との性的営みを一瞬思い返していることをうかがわせる。また義父周吉との会話の前に、勤務校に出勤する京子を見送る紀子の姿のとなりに、盛りのまま立ち枯れそうな花が写っている。女盛りをあたら立ち枯せそうな紀子を象徴していると思われる。その直後に、「何か待っているような気がする」というセリフがあるのであるから、これはもう女盛りの自分を奪ってくれる存在を待っているのだという意味以外にとりようがない。
高橋治の『絢爛たる影絵』が直木賞候補になった時、選考委員が、「小津映画にやたら性的なものをみつけようとする解釈はどうも・・・」という批判があった。たしかに高橋本には、紀子の自慰までものべる小津の想像の会話が書かれており、読者はそこまでは考えすぎだ、と思ってしまう。しかし、この二つのシーンを比較すれば、このセリフに性的な爛熟を堪えきれなくなっている紀子の苦悩の告白を見るのは、むしろ正しい解釈なのだと言わざるを得ない。元ネタであるアメリカ映画『明日は来らず』と比較してみると、この紀子と周吉・とみの夫婦の血の繋がらない義理の親子の情愛とその描写こそが、この映画のオリジナリティだったと理解されるのだ。


by takumi429 | 2014-08-31 09:18 | メディア環境論
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