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はじめに

社会学講義(近代とは何だろうか)


はじめに

本講義は、「近代とは何か」という問題意識のもと、社会学のさまざまな古典的作品をとらえなおすことをめざします。


1)社会学のとらえどころのなさ

 社会学を学びはじめて、私たちがまず当惑するのは、その体系性のなさです。

 古典的とされる作品は、自殺、プロテスタンティズム、貨幣、監獄など、あつかっている対象もばらばらなだけではなく、その手法にもおよそ共通性が見当たりません。

 教科書の多くは、家族・成長・役割・地域・国家・国際社会、などといった、一見、体系性があるかのような配列になっています。しかしこの見せかけの体系性は文化人類学などからの借用でしかありません。細かくみるとかっちりしたまとまりがあるわけでなく、しまりのない内容の羅列です。その内容は社会学の古典の内容とは連続していません。

 また最近よく見られるのが、いわゆる「科研費社会学」とでもいうべき、わい小な「社会学」の席巻です。「科学研究費補助金」などの助成金を獲得するために、いかにも「お役に立ちますよ」、「社会の実情を調べていますよ」といった感じの、役人からの下請け仕事、賞味期間の短い、じつは役にも立たない、しかも致命的なことにまるで面白くない、「社会学」研究が量産されています。しかし実はこれらの研究手法は社会学とは別のところから来ており、その「社会学」なるものは、社会学の古典とは関係がありません。


(2)古典社会学のネガティヴな共通性

 社会学の古典の内容がばらばらなのは、実はそれを書いた社会学者が実は社会学の出身ではなく、学生のとき社会学を学んでいなかったからです。あるいは学ぼうにも社会学がまだ学問として確立していなかったからです。

 社会学の古典を書いた、いわゆる社会学の「巨人」としては、テンニース、ヴェーバー、デュルケム、ジンメル、少し下って、(やたら大作主義だけどつまらない)パーソンズ、(「大山鳴動して鼠一匹」の)ハバーマスなどが挙げられるでしょう。また、最近、社会学者が勝手に社会学の巨人ということにしているフーコーも入れることにしましょう。

彼らの出身学問をあげると、テンニースは古典学、ヴェーバーは法学、デュケムは哲学、ジンメルも哲学です。またパーソンズは経済学、フーコーは哲学です。

 社会学の巨人はいずれも出身学問から外れた学者なのです。社会学は、既存学問から外れた「落ちこぼれ」が作った「学問」なのです。


(3)古典的社会学のポジティヴな共通性

 社会学の巨人が、なぜ既存の学問から「落ちこぼれ」てしまったのか、それを考えることで、古典的社会学のポジティヴな共通性が見えてきます。

 社会学の巨人たちはなぜ既存の学問のワクから外れてしまったのか。それは彼らが、既存の学問の枠組みには収まりきらない問題意識をかかえていたからです。彼は、日々生きている感覚、違和感や「温度差」といった感覚をも含めて、その感覚を捨て去ることなく活かしながら、自分を包みその中で自分が生きている、今ここにある社会を、まるごととらえようとしたのです。今生きているこの社会を、「近代社会」と呼ぶなら、彼らの問いは、この近代社会とはどんな社会なのか、それはどこから来てどこにむかって行くのか、という問いです。短く約めるなら、「近代とは何か」という問いです。

 この「近代とはないか」という問いこそが、古典的社会学の根本問題です。そしてその後に発展して来た学問として「社会学」をとらえる最もよい立ち位置を提供してくれる問題です。


(4)この講義の予定と特徴

 この講義では、「近代とは何か」という問いのもとに、古典とされる社会学者の業績を見ていきます。また社会学以外のものでも、この「近代とは何か」という問いに答えようとしている作品もなら、おなじくあつかうことにします。




by takumi429 | 2017-10-04 14:12 | 近代とは何だろうか
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