メディア・アートの可能性をめぐって
はじめに―――ISEA2002 NAGOYA [Orai] に参加して――― 第11回「電子芸術国際会議」(ISEA, International Symposium on Electronic Art2002)が、2002年の10月28日から31日にかけて、「往来」をテーマにして名古屋で開催された。名古屋中心部にあるナディアパークで行われたオープニングにつづき、公募プログラムの研究発表部門と作品発表部門が名古屋港周辺で発表・展示された。また関連の企画プログラム「メディアセレクト2002」の多くの展示がなされ、さらに共催プログラムや関連プログラムとしてさまざまな音楽会、パーフォーマンスなどの公演、作品展示、講演などが催された。この期間、名古屋市の各地に電子芸術の花が咲いた。 論文発表者でもあった私は、地元の利を生かすべく、車で名古屋市内の各展示や各公演を精力的にまわってみた。 その結果、私にとって印象深かったのは、展覧会もさることながら、名古屋の街じたいであった。「名古屋の街はあんがいおもしろい」というのが率直な感想だ。 名古屋の街は文化不在であるとしばしば言われ、私も多少それにうなずくところがあった。「大いなる田舎」という呼び名もいたしかたないと思っていた。ご当地ソングが石原裕次郎「白い街」という(ヒットしなかった)歌しかなく、「白い街」というより灰色の街だなとさえ思っていた。 しかし車でまわってみると、名古屋はずいぶん別の印象の街に変わる。電車やバスや徒歩だと、どこに行くのも不便で、町並みも間延びして感じる。それが車だと印象は一変する。道は広くて街路樹も多く、どこに行くのも大変便利である。町並みも車にとっては適度なひろがりをもっていて、車からみるそれは、はっきり言って、美しい。 交通の違いによって街は全く別の顔を見せる。バスや自動車などを、人と目的地を媒介する「交通メディア」とあえて呼ぶならば、名古屋は「交通メディア」によってまったくことなる姿(現実)をもつ街であるといえよう。つまりメディアはそれぞれ別の現実を出現させるのである。 さらに驚いたのは、高速道路沿いのあじけない地区だと思いこんでいた一角に、実はとても由緒正しい見事な邸宅があり、その倉を展示に供与していたり、つまらないと思いこんでいてこれまで一度も行かなかった名古屋港地区が、実は古い倉庫や美術館や水族館などのある大変おもしろい場所だったり、名古屋ドームのそばに立派な市民のコミュニティセンターがあったりした、ということである。 ISEA2002をきっかけに、車を駆けてまわった結果、私が得たものは、実は「名古屋再発見」とでも言うべきものだった。 そしてさらに興味深かったのは、保守的だと言われがちな名古屋の市民が、ISEA関係の内外のアーティストたちを快く受け入れ、彼らの作品などを展示させていることであった。名古屋の日常的空間の上に、電子芸術という多少、新奇な芸術作品が置かれ、公演がなされる。この日常空間と非日常的芸術空間の折り重なりが、私にはなにか心地よい新たな空間が創り出しているような気がした。電子技術という新しいメディアが作る芸術の空間が、日常の空間と重なることで、新しい空間を創出しうる、それが私にはきわめて印象深かった。 メディアが新しい現実を創り上げる、しかもその現実は、日常の現実と重ね合わせられることで、また新たな世界を創り出す。これが私のISEA 2002 NAGYA [Orai]を見てまわった体験から私が感じたことである。 だがそれはこの「電子芸術」、あるいは「メディア・アート」ともよばれる、このコンピュータを使ったアートそれ自体がもっている特質なのかもしれない。ここで私たちはより一般的な視野に立ち、このメディア・アートというものを、これまでの芸術の流れのなかで位置づけ、さらにその可能性について考えてみることにしよう。 メディア・アートの位置と可能性 芸術様式の3段階 コンピュータをつかった芸術が出現した、今日という時点から振り返って見ると、芸術は次のような三つの段階を経てきているように思われる。 (1)芸術が神話的世界に従属している段階 (2)芸術がそれぞれ自律した世界を構成する段階 (3)芸術がデジタル化されることにより相互に引用・編集される段階 ではこの各段階について見てみよう 。 芸術の神話的段階 原生的共同体において、あらゆる生活諸領域は、その神話的呪術的な世界観(聖なる天蓋)の下にまとめられている。芸術領域もその例外ではない。芸術はこの世界観に文字通り呪縛されており、同時にその世界観に奉仕するものであった。「正しい」とされた様式からの離脱は、呪術的な恐怖を伴うために忌避された。 たとえば、音楽を例にとるならば、ひとたび呪術的に効果ありとされた旋律は固定されがちであり、それからはずれた旋律は忌避される。この固定された旋律から音階が形成されていた。 呪術的世界観の打破 古代ユダヤの民が創出した一神教はこうした呪術的な神話的世界を打破するものとして働いた 。それまで各地の「高きところ」(聖地)でのおこなわれた祭礼はすべてエルサレムに集中され、各地の「八百万の」神々は否定された。ユダヤ教はその民族的な紐帯を脱し切れてはいないが、その神を継承した、キリスト教、イスラム教ではその神観は普遍的なものとなった。それによりそれまでの地縁・血縁による共同体の祭祀とその呪術的な信仰は打破された。これをマックス・ヴェーバーは「呪術からの解放」と呼んでいる。 呪術的世界観の束縛から解放された文化諸領域はその独自な自律的な展開を見せ始める。芸術もその例外ではない。ここでふたたび音楽を例にしてみよう 。 平均律の誕生 脱呪術化した世界観の下で、音階はそれまでの固定的な旋律の呪縛から自由になった。それまでの音階が旋律に拘束され、主音から音階形成がなされていたのに対して、音階内部の自律的で合理的な分節が目指された。有理数(rational number直訳すれば合理数)によるさまざまな音階分節が試みられたが、二分の一、三分の二、四分の三、という有理数による音程の分節は相互に不整合をもたらした。結局、有理数による音程分節はあきらめられ、無理数(irrational number直訳すれば非合理数)による音程分節がなされることになり、それが「平均律」となった。この平均律は和声的には常にわずかながら不純であるが、自由な移調や転調を可能にし、その結果、西洋音楽は飛躍的発展を遂げることになった。 平均律音階は、提示された主音から合理的の音階形成をしようとしない。すなわち音階の外から与え提示された音から出発して合理的な音階をその度ごと形成しようとはしない。すでにできあがった音階でそれに対応しようとする。その時々の現実に適合しようとする合理性をヴェーバーは「実質合理性」と呼んだが、それは否定されている。平均律はあくまでも自分のなかの閉じた無理数による分節による音階を適用する。外のものとの完全な対応を放棄することで、その内部の整合性・体系性を追求するこうした合理性を、ヴェーバーは「形式合理性」と呼んでいる 。 形式合理性の支配 ヴェーバーによれば、この形式合理性は、西洋音階のみならず、西洋の文化一般の性格であった。 たとえば、西洋の線遠近法による絵画は、肉眼からみた像とはわずかであるが遊離した図学的体系による作図を基本にしている。ゴチック建築は、教会の建物の大きさごとに計算され調整されたそれまでの円形アーチとそれによる正方形の区画からの建築を放棄して、尖頭アーチと長方形の区画の組合せで教会建築をする。西洋の法体系は、事件ごとに人柄や事柄にそくした審議と判決をするのではなく、あらかじめ形式的につくられた法体系を事態に対応させることで審判を下す。さらに貨幣の体系は、個々人が品物にこめたさまざな思い(使用価値)を切り捨て、交換関係のなかでの価値だけで、品物の価値を決める、そうした自律的な体系となっている。 芸術的世界形成 話を芸術領域にかぎっても、芸術の各領域は宗教の呪縛から解き放され、自律的な独立した体系を形成するようになった。絵画、音楽、彫刻など芸術の各領域は分化して、独自の芸術世界となる。そこでは作家は一つの自立・独立した世界を創り上げる創造主のごときものとなる。天才が神からの啓示をうけて作品を創り上げるというロマン主義な作家至上主義がそこから生まれる。 芸術のデジタル化 こうした分化した芸術諸領域にとってコンピュータの登場は衝撃的なものであった。コンピュータは、アナログ的なものを0と1との数字の連なりへと還元する。つまりアナログの連続的な変化はデジタルの不連続な変化へと置換される。そこではテキストも音も画像も動画もすべて数値へと変換される。絵画の微妙なタッチも名人の演奏も美しいアリアもすべてデジタルの数値へと変換される。しかもその数値の集合はコンピュータによって瞬時に自在に計算し加工することができる。つまり絵の色調も演奏の音の高さも声の響きも瞬時に変えることができるようになった。また絵の中の人物の首だけを別の人物の首にすげ替えることも、過去の演奏に現代の演奏を伴奏として付け加えたりにしたりすることも簡単にできるようになった。 このコンピュータによる芸術のデジタル化は次のことをもたらした。 (1)諸芸術の融合 デジタルに一元化されることで、さまざまな芸術はひとつのものとして統合され処理されうるものになった。これによってそれまで分化していた諸芸術は統合されうるものとなった。こうしたさまざまなメディアを統合して扱うことを「マルチメディア」(multimedia)と呼ぶ。 (2)多彩な引用と編集の可能性 デジタル化された芸術情報は簡単に引用しかつ編集できるものとなった。今や芸術家は一種の編集者へと変身した。 (3)仮想現実の成立 コンピュータによって即時的反応(interaction)が可能となり、さらにテキスト・音・画像が一体となることで、「仮想現実」(virtual realityバーチャル・リアリティ)が生み出される。 こうした、マルチメディアによる自由な引用・編集を駆使した芸術が「メディア・アート」と呼ばれるものである。 西洋芸術の継承者としてのメディア・アート 私たちはすでに、西洋の芸術が、現実に対応しながらも、それとは切れた、閉じた自律的な体系を形成していることをみた。メディア・アートの段階に至って、西洋芸術のもつこの自律性は廃棄されたのだろうか。そうではない。たとえば平均律はMIDI(コンピュータ音楽の世界基準)にそのまま引き継がれている。線遠近法はコンピュータ・グラフィックスにそのまま受け継がれ、さらに徹底されている。メディア・アートは、良くも悪くも、西洋芸術の正当な嫡子なのである。現実に対応してはいるけど実はそれとは別の体系としての世界をもっているというこの性格こそが、まさに「仮想現実」を成立させているとも言えるのである。 芸術様式の3段階の整理 さてこの芸術の様式の3段階を、芸術の諸領域の関係、芸術家の位置づけ、その芸術世界の時間と空間の特質に関して、表にしてまとめておこう。 神話的段階 芸術が自律した段階 マルチメディアの段階 芸術の諸領域 神話による統合 自律的分化 融合・絡み合い 芸術家 祭式の請負職人 神のごとき創造者 編集者(剽窃者) 芸術世界の様相 円環的・反復的 線条的・不可逆的 断片的・可逆的 (1)神話的段階では、芸術の諸領域は神話によって統合されている。そこでは芸術家はあくまでも祭式の請負職人にすぎない。またその芸術世界は神話がもつ円環的で反復的な時空間を持っている。 (2)芸術が自律した段階では、芸術の諸領域は分化している。そこでは芸術家は神のごとき創造者とみなされる。諸宗教の競合時代から一神教への移行によって、神話的な円環的反復的時空間は、創造を起点とする歴史的・線条的なそれへと移行した。芸術家が創造者を模倣するとき、その時空間も一種の世界形成の歴史のごときものとなっていると考えられる。 (3)芸術がデジタル化されマルチメディアの段階にいたると、芸術の諸領域はさまざまに融合し絡み合うようになる。ここでは芸術家はもはや創造者ではない。むしろさまざまな既存のイメージ、テキスト、音を引用しそれを変形しつつ組み合わせる編集者のごときものとなる。(ときにはそれはデュシャンのように剽窃者にも似てくる)。またそこでの時空間は断片的で可逆的なものとなるだろう。 仮想現実の展開の可能性 さてコンピュータによる仮想現実には二つの可能性の方向があるように思われる。(1)まず一つはもっとも一般的に考えられている、コンピュータの内部に作られた仮想現実である。人間はコンピュータとの対話(インターフェイス)のなかでその世界に入り込む。(2)もう一つはコンピュータを媒介したインターネットのなかに出現した現実である。それぞれについて述べてみよう。 (1)コンピュータの中の現実 コンピュータの中の仮想現実の構築には二つの方向がある。一つはあくまでも自然な現実に近づけようとする試みである。この試みは飛行機の操縦士や複雑な機械のオペレーターの訓練などに使用されたり、建築される前に仮想建築物をコンピュータ上につくって検討するなどの利用がある。もう一つの方向は、仮想現実を自然な現実に近づけるのではなくて、独自の原理をもった一つの完結した世界にしようとするものである。その際、原理として採用されるのはたとえば生物にみられる遺伝子プログラミングなどの原理である。 前者の仮想現実を自然な現実に近づけるというのは工学的には興味深い。しかし限りなく芸術から遠ざかっていく。たしかに、現在、多くの人々は仮想現実と現実との錯視に何かあたらしいロマンがあるように錯覚している。新しいメディアが生まれると必ずそれは独自の世界を生み出す(たとえば小説は「小説のなかの世界」を生み出す)。多くの論者は、メディアの世界と現実世界とを取り違えた人間が生まれるという批判をしがちである。だが小説の世界を現実世界と取り違える人間はいないように、あたらしいメディアが生み出す世界と現実世界との違いはそれを享受する人間にとって自明なことであり、その異なる世界に横断的に関わることにこそ、メディアに関わる喜びはあるのである。仮想世界と現実世界との錯視にロマンを見いだすというのは、メディアに無理解な人々と同じ水準の議論でないだろうか。むしろ芸術が絶えずみずからの作品世界を創り上げてきたことを考えると、独自な原理によってコンピュータの中に別の世界を創り上げる方が、より芸術的行為であると考えられる。 (2)ネットワークの中の仮想現実 コンピュータ内部の仮想現実よりもずっと現実性を持っているのが、コンピュータを媒介としてつながっているネットワークの世界である。具体的には、インターネットによる世界である。もともとは研究情報メールの交換からはじまったものであるが、しだいに発展して、情緒的なメールも交換されたり、携帯電話によるメール交換へと枝分かれしたり、ウェッブ・ページという巨大な情報発信の場になったり、ネット上での商業取引の場になっている。このネット世界を指す場合、"virtual reality"は「仮想現実」と訳すより「実効(事実上有効な)現実」とでも訳すべきかもしれない。アーティストは、インターネットをつかって広場の照明を世界各地からの指示で動かしたり、世界各地からの指示で展示室の植物を育てその状態を知らせたりしている。 ここではコンピュータの計算能力はさして重要ではない。むしろ重要なのはネットワークが人々をつなげているという、そのことである。 日本において紙と筆の導入と仮名文字の発明は、それまで直接、男女が呼びかけあっていた相聞を、手紙の交換という形態に広げた。手紙による相聞は和歌の交換による恋愛の形態を生み、さらにその和歌の詞書きを拡大させることで物語文学の世界が生まれた。また相互の掛け合いの形式は連歌、俳諧(連句)として発展していった。 インターネットでは「出会いサイト」が生まれ、人々の手紙の交換が生まれている。またインターネットを利用した連句の試みも盛んにおこなわれはじめた。これらはインターネットという新しいメディアをつかった伝統的な「往来」(手紙などのやりとり)の文化の復活とさえいえるだろう 。 人々はそうしたインターネットの交流のさまざまな場をもち、同時に現実に場を持つ、「多重生活者」として暮らしている。もちろんインターネットに夢中になる者もいよう。しかしそれは源氏物語に夢中なっていた東国の少女(更級日記の作者)と何ら変わりはないのであって、決して錯乱した狂気の人ではない。むしろ文化というものは、ある意味で、メディアが創り出す世界を多重的に享受することに他ならないのである。 複合現実(ミックスド・リアリティ) このメディアによる多重的世界という点で注目されるのが、「複合現実」(Mixed Reality) という技術である。複合現実とは、現実世界と仮想世界をリアルタイムで継ぎ目なく融合する先端技術である。典型的にはシースルー型のヘッドマウントディスプレイをかけて現実世界をメガネ越しに眺め,そこへ仮想世界のCGデータを重畳表示して見るといった使い方がおこなわれる。たとえば脳の手術では誤って内部にメスをいれると致命的なため、CTスキャナーなどで取り込んだ内部の構造のディスプレイをみながらその画像越しに現実の患部をみて手術するというようなことがおこなわれる。そこでは仮想世界と現実世界とが二重写しになっている。だがこの現実世界と仮想世界との併存・二重化はもっと大きな射程を持った出来事である。 人間のサイボーグ化と複合現実 私たち現代人は、眼鏡、入れ歯、車など、さまざまな人工補完物(prosthesis)をつかって暮らしている。コンピュータはこの人工補完物として近年現れた。たとえば私がこうして文章を書いているのはパーソナル・コンピュータの画面の上である。私はローマ字をキーボードでうち、漢字を呼びだし、適切な漢字に変換する。さらに言葉の定義や英語のつづりをハードディスク内蔵の辞書や事典で確認する。それだけではない。最新の情報をもとめてインターネット検索をしてそこで得た情報を文章に差し込んでいる。つまり、ダナ・ハラウェイのように言うならば、私たちはコンピュータを人工補完物としたサイボーグと化している 。 コンピュータがそれまでの人工補完物と決定的にちがうのは、それがネットワークとつながった補完物であるという点である。私は今ここで書いている場を、ネットワーク上の情報空間と接続(リンク)することができ、またその接続によって書き進めることができる。もともと人間の世界とは人工物が混在化した世界にほかならない。現代においては現実世界の中にコンピュータの世界がはめ込まれている。私たちはコンピュータ世界を使いながら現実を生きている。現実世界とコンピュータの世界(それはコンピュータ内部の仮想世界とコンピュータを媒介とするネットワーク世界の双方を含む)とが多重化した世界に私たちは生きているのである。 コンピュータが遍在する今日の世界において新しい芸術の可能性は、この複合現実からの新たな芸術空間を創り上げることに求められるはずである 。 おわりに―――オワシス21――― ちょうどISEA2002の開催に合わせたように、名古屋の中心地である栄に10月11日「オアシス21」という公園が生まれた。バスのターミナルと商店街と公園とが一体化した施設である。この施設でおもしろいのは、バスの交通ネットワークと地下の商店街の広場と地上の公園と空中の大屋根の空間という、人々が行き交ういくつもの空間が、この「オワシス21」という施設によって接合(リンク)されていることである。バスを降りた人が地下の商店街に向かって歩いていくと吹き抜けの広場に出る。そこは外の公園とつながった空間になっており、さらに見上げると水をたたえた大屋根(「水の宇宙船」)を歩く人々の影が屋根の床にぼんやり透けて見える。いくつもの空間が折り重なり接合することでそこには新しい空間が生まれている。メディア・アートによる新しい芸術空間がうまれるとしたらまさにこの「オワシス21」のような接合の構造をとることになるだろう。現実世界とメディアがつくるさまざまな世界とが接合されるとき、退屈で灰色に見えた現実は、新たな光を受けて輝きだすだろう。
by takumi429
| 2006-01-13 14:01
| メディア社会学
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