5. 従軍記者としての体験 明治37年(1904)、田山花袋は博文館から派遣され、第二軍私設写真班の主任として日露戦争に従軍した。ちなみに日露戦争では日本軍は、第一軍、第二軍、第三軍、に分かれ戦った。乃木将軍が率いる第三軍が旅順攻略で多大な戦死者を出したことは有名である。 写真班の撮った写真は博文館から発行されたグラビア雑誌『日露戦争写真画報』に掲載され、花袋の観戦記など文章は同じく博文館の旬刊『日露戦争実記』に発表された。翌明治38年(1905)にこの観戦記はまとめられ、『第二軍従征日記』として博文館から出版された。この『日記』は作家田山花袋の転機となった作品である。それまでロマンチックな少女小説を多く書いていた花袋は、この作品以後、はっきりと自然主義作家の道を歩むことになった。 すでにふれたが、この『第二軍従征日記』には「第二軍進行経過地図」と題された地図が添付されている(地図3)(田山1968b)。 ちなみに『日露戦争写真画報』の創刊号にも遼東半島の詳細な地図が掲載されている(博文館1904)。おそらくこれらの地図はおなじ軍事的な目的のために作成されたものと思われる。もともと明治21年(1888)から第二次世界大戦終結まで日本の地図は(国内の地図もふくめて)すべて陸軍参謀本部の陸地測量部が作成していた(織田1974:165)。日露関係の緊張が高まるなか、日本陸軍はこの測量地図をすでに作っていたと思われる。 ところで『第二軍従征日記』に添付された地図のほうには線が引いてあり、「凡例」には「吾等ノ進行セシ道路」と書いてある。この線は花袋たち写真班とかれらが従軍した第二軍の進行経路を示す線なのである。 作品の本文はすべて日記の形式をとっている。たとえば、 「五月六日(金曜日)晴 午前十一時 --- 自分等は辛うじて本船に帰ることができた。 ・・・ 五月七日(土曜日)晴 如何にしても上陸する覚悟で八幡丸を下りたのが、午前七時半。・・・ 上陸 した處は岩と波ばかり立っている荒磯で、路はうねうねと岩山の上に通じ、それを上り尽くすと、其處に一体の平地。・・・ 五月八日(日曜日)晴、風 遼東の気候の変化の烈しいのは兼ねて聞いて知って居たが、しかも是程とは思ひも懸けなかった。・・・」(田山1968b:232-6) まず日付、曜日、天候が記され、その日の出来事が書かれている。記述の流れは常に一定に進行し、ほとんど逆行も飛躍もしない。花袋は標題(たとえば「上陸」)さえも文の一部(「上陸した處は岩と波ばかり・・・」)に流し込んで、文章の流れを切断しないように留意している。時を刻むのあくまでも日付であり、行軍と従軍の進行が記述の流れを支配している。そして遼東半島上陸後は、彼らの歩みは地図の上の「吾等ノ進行セシ道路」の線をたどることになる。読者はこの線をたどりながら、作中の花袋と第二軍がいまどこを進行しているか知ることができる。 さて彼らが行軍した遼東半島はどのようなところだったのだろうか。 明治38年2月20日博文館発行の『写真画報臨時増刊 征露第二軍写真帖』に納められた写真(写真2)を見ると、草木もまばらな裸の広野がひろがっている。 裸にされたというのは外面的なことだけではない。『第二軍従征日記』にはつぎのような記述がある。 「以後二三日間の間に探った、此 付近の地理 これはこれから記述する金州南山の戦いに非常に必要となるものだから、此處に詳しく記してみよう。 金州へ通ずる街道、その重なのが二つ。一つは遼陽海城盖平を経て金州から旅順へ通ずるもの、一つは劉家店、亮甲店、轉角房を経て貔子窩に達するもの、はじめのは金州街道、後のは貔子窩街道と仮に名づけて置こうか。・・・貔子窩街道は我が軍の主力の行進路で、その二つの街道がちょうど十三里臺子の下の處の石門子付近で一緒になって、金州の盆地へと赴いて居るが、其一緒になろうとする少し手前、即ち不等辺三角形のその二角がまさに相合わせんとする處に、かの老虎山の山脈が波濤のごとき山塊を起している・・・」(田山1968b:247)。 ここで使われている地名は地理上の地点と線と領域を指すだけである。場所を指定できるならば本当の地名である必要はなく、仮の名前でもかまわない(たとえば、「金州街道」、「貔子窩街道」)。地形はあくまでの戦略的な観点から把握され、その結果、場所はその歴史性を剥奪され、ただの平面になっている。 この戦略的な 地平面の上を兵士たちは動いていく。 「俄に起こる敵兵敗走の光景。いよいよ陥落と言ふので、今迄頑強に抵抗した敵の歩兵は皆な一散に掩濠の中から飛出す。三面のわが兵は今ぞ時 --- と驀地に突進する。混乱狼藉のさまは鼎を覆へしたようで、山上の路を遁れ去るもの、山腹を這って走る者、旅順街道に出づる者、これが夕陽の明かな空気の中に手にとるように見える」(田山1968b:260)。 透明な「空気」。むき出しになった地平面。その平面のうえを動く人間たち。それを照らし出す夕陽。さらに平面上の移動によって形成される、作品をつらぬく線条の時間。『田舎教師』で我々がみた小説作法は、この『第二軍従征日記』においてすでに確立されていたのである(注5)。 ところで地図をつかいながら軍隊を進めさせたのは陸軍司令本部である。そのまなざしはまさに国家的戦争を遂行させる日本帝国の国家のまなざしと言える。こうしたまなざしの下で日本帝国臣民たる田山花袋は第二軍とともに、いわば『日記』の地図の上を行軍していったわけである。 『田舎教師』では地図の上を移動するのは、花袋のかわりに主人公清三となり、地図を見おろすのは、司令本部ではなく、作者の花袋である。国家が地理的平面の上で臣民を行軍させる、という『第二軍従征日記』の構図は、『田舎教師』では、作者が地図をつかって主人公を地理的平面の上で移動させる、という構図になっている。しかしどちらも上からのまなざしが地理的平面の上で人間を把握し動かす、という構図においては同一なのである。 6. 主人公の主体(臣民)化 明治42年11月7日の『読売新聞』に掲載された「『田舎教師』合評」で匿名評者「LMN」はつぎのように評している。 「前半はやや平坦すぎて、時々無理に挟んだようなシーンもあるが、後半はどこを攫えてもピチピチ活きて居る。息もつかずに読ませる。中でも僕の最も好きなのは主人公が病気になってからの後だ。 『清三はもう充分に起き上がる事は出来なかった。容態は日一日に悪くなった。昨日は 便所から這うやうにして辛うじて床に入った。でも其枕元には國民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあつて、痩せこけた骨だった手がそれを取り上げて見る』 殊にこの一節の如きは、印象描写の模範とすべき價がある。さまざまに胸に描いた希望も目的も戀も凡ては家庭の境遇に妨げられて、身は一個の田舎教師として、痛ましくも病死を遂げる。時恰も日露戦争が起り、世は挙って國家の運命のまにまに心奪われて熱狂する。その陰には寂しい田舎に、一個の田舎教師の見るかげもない一生の幕が閉ぢられる。かう云う全編の筋から見て、前に掲げた一節の如きは、如何に力強く、意味深いものであるか。ここまで来れば平面描写は平面描写に終わって居ない。僕は所謂平面描写の眞生命は、ここにあると思う」(吉田・和田編1972:437。「平面描写」については注5参照)。 こうした評価はまさに花袋のねらったところであったと思われる。なぜなら花袋はこの小説のモデルとなった小林秀三の墓をはじめて見た時に、次のような感慨をもらしているからである。 「私は一番先に思った。『遼陽陥落の日に・・・日本の世界的発展の最も栄光ある日に、万人の狂喜している日に、そうしてさびしく死んで行く青年もあるのだ。事業もせずに、戦場へ兵士となってさえ行かれずに。』・・・私は青年--明治三十四、五年から七、八年代の日本の青年を調べて書いて見ようと思った。そうして、これを日本の世界発展の栄光ある日に結びづけようと思い立った」(田山1981:252)。 国家存亡の戦い(日露戦争)とそれに関わることもできず死んでいく青年。匿名評者「LMN」の評に見られるように、この作品が読者たちにもたらした感銘には、日本が全体として日露戦争に邁進する中、その狂喜に参加することもできず死んだ青年、という構図がある。すなわち、日本全体がロシアと戦っているという一体感、その一体感のもとに、会ったことも見たこともない、地方の一青年の悲劇がまるで、知人や友人の悲劇のように感知されるのである。 さらに『田舎教師』で花袋はこう書いている。 「日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古の戦争、世界の歴史にも数えられる大きな戦争 --- その花々しい国民の一員と生まれてきて、その名誉ある戦争に加わることも出来ず、その万分の一を国に報ゆることも出来ず、その喜悦の情を人並みに万歳の声に顕すことすらも出来ずに、こうした不運な病の床に横って、国民の歓呼の声を余所に聞いていると思った時、清三の眼には涙が溢れた」(田山1980:236-7)。 平岡敏夫はこの主人公の悲しみを「『国家』とともに在ろうとしながら、貧困と結核により、脱落して行かねばならぬ悲しみ」と解している(平岡1985:333)。すなわち、対外戦争により意識されるようになった「日本」という「国民国家」を背景にしてはじめてこの小説の主人公の悲劇は理解されるのである。 しかしこうした作品の意図は、モデルとなった小林秀三の実人生をねじまげることになった。現実の小林秀三は、徴兵検査で「乙種合格」となって徴兵を逃れた折り、柏餅まで奢ってそれを喜んでいるのである(小林1978:118-9)。しかるに花袋は作中、主人公清三に 「自分も体が丈夫ならば--三年前の検査に乙種などという憐ぬべき資格でなかったならば満州の野に、わが同朋と共に、銃を取り剣を揮って、僅かながらも国家の為に盡すことができたであろうに」(田山1980:205) と、言わせているのである。 主人公はあくまでも国家の忠実な臣民へとまとめあげられねばならなかったのである。 明治40年(1907)に花袋は『一兵卒』という短編を書いている(発表は『早稲田文学』明治41年1月号)。この作品は、日露戦争に従軍しながらも遼陽攻略という決定的な場面に加わることもなく、脚気衝心でひとり死んでいく一兵卒を描いたものである。 「かれは歩き出した」(田山1972:86)。 この小説でも主人公「かれ」は歩いている。野戦病院をひとり出て、本隊に追いついて遼陽での攻撃に参加しようと、「かれ」は歩く。しかし途中の村で脚気衝心で死ぬ。 作品の構造は簡単である。野戦病院から遼陽へ地図のうえで線を引く。その線の上を「かれ」が歩いている。この地理的な線の上を歩く彼の歩行によって小説のなかの空間と時間がまとめられ、小説のなかの描写は生まれる。つまり主人公の目的地への移動が小説の空間と時間をまとめるやり方である。 主人公「かれ」は遼陽攻撃という日露戦争のハイライトとでもいうべき場面で兵隊として活躍するのでなく、それをめざしながらもその途上で死ぬ。兵士として華々しい活躍を享受することなく、それをめざしながらも途上で死ぬ「かれ」。 こうしてみるとまるで畑違いの作品にみえる『田舎教師』と『一兵卒』はじつは同じ構造をもっていることがわかる。 柳父章は『翻訳語成立事情』のなかで、花袋の『一兵卒』のなかで使われる「かれ」が、西洋語の三人称とは異なり、あくまでも主人公のみを指していることを指摘している(柳父1982:205-9)。 ここで我々が注目しなければならないのは、この「かれ」というものが、遼陽攻撃という国家の目的から逆に規定された主体を意味することである。「おれ」「おまえ」という関係から「かれ」という三人称の主体を生み出すのは、離れた目指すべき地点からの逆規定である。西洋ならこうした地点は「神」によって占められたかも知れない。しかし花袋の世界、すなわち日本では、この地点は帝国主義戦争を遂行する国民国家によって占められたのである。つまりここでの「主体」(subject)はあくまでも日本帝国の「臣民」(subject)でしかないのである。 作中の「かれ」の名前は、第三者の兵士が軍隊手帳を読むことで、作品の最後にようやく与えられる。 「三河国渥美郡福江村加藤平作」(田山1972:106) こうして無数の「かれ」が国家の目的へとまとめられ死んで行ったことを我々は知る。この「かれ」の名前にはさまざまな者の名前が代入可能であった。そこに代入可能な者、およびその家族が「日本帝国臣民」と呼ばれたのである。 『一兵卒』の主人公とおなじく、『田舎教師』の主人公、林清三も、一個の「主体」として我々の前に立ち現れる。だがこの主人公は、戦場において「臣民」を歩かせる、まなざしと同じまなざしが、上から把握することで、はじめて主体となったのである。二つの作品において、「主体」(subject)となることは「臣民」(subject)となることと同義なのである。 個人を臣民として国家というものへとまとめあげていくまなざし。このまなざしの下にできあがった「日本」という空間において、すでにみたように、見も知らぬ一兵卒や代用教師への読者の共感と同情が可能となったのである。 7. 結論 日本自然主義文学の代表作である田山花袋の『田舎教師』は日露戦争を遂行する国家の上からのまなざしを取り込むことでその作中の時空間を成立させている、と言える。またこの作品がもつ感動の源泉も、このまなざしがもたらす「日本国家」という(想像の)空間的なまとまりなくしてはじつは生まれなかったものなのである。この小説の巻頭に添えられた一枚の地図はこうしたまなざしの出現を示唆するものだったのである。
by takumi429
| 2007-05-02 21:55
| 田山花袋研究
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