3.逆説としての近代 ヴェーバー(1)

3. 逆説としての近代 ヴェーバー(1)

1.マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
(マルクスのいうような)資本主義が成立するためには
①たえずもうけ(利潤)を資本として再投下するような(禁欲的な)資本家と
②その資本家のもとで文句もいわず働く勤勉な(禁欲的な)労働者とが
現れなくてはいけません。
 ではこうした禁欲的な資本家と労働者はどのように現れたのでしょうか。
 この問題に答えようとしたとき、私たちはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著作に出会うことになります。
 まずこの著作の内容をみていく前に、この作品がどのような問いかけに支えられていたかをみていくことにしましょう。

(1)異化する問い(あたりまえを疑う)
この著作のはじめの方で、ヴェーバーは、つぎのような金儲けに精を出す資本家への問いかけ(自問自答)を提示しています。
「休みなく奔走(ほんそう)することの『意味』を彼ら(「資本主義精神」にみたされた人々)に問いかけて、そうした奔走のために片時も自分の財産を享受しようとしない態度は、純粋に現世的な生活目標から見ればまったくの無意味ではないかと問うとき、彼らは、もし答えうるとすれば、『子や孫への配慮』だと言うこともあるだろう。しかし、より多くは、---『子や孫への配慮』という動機は、明らかに彼らだけのものでなく、『伝統主義的』な人々にも同様にあるのだから---より正確に、自分にとっては不断の労働を伴う事業が『生活に不可欠なもの』となってしまっているからなのだ、と端的に答えるだろう。これこそ彼らの動機を説明する唯一の的確な解答であるとともに、事業のために人間が存在し、その逆でない、というその生活態度が、[個人の幸福の立場からみると] まったく非合理的だということを明白に物語っている。」(Archiv 54/RS・30/訳79-80頁。()は引用者挿入、[ ] は改定時(1920年)の加筆)。
 この引用を問答形式に書き直してみよう。
「なぜ楽しむことを知らずにそんなに休みなく働いているのです?」
「子どもたちに財産を残すためですよ。」
「でもそれは昔の人たちでも考えたことですよ。でも彼らはずいぶんのんびりと生活を楽しんでいきていました。決してあなたのようにあくせくと働いてはいませんでしたよ。」
「ええ、なるほどそうですね。」
「じゃ、なぜそんなに働くのですか。」
「まあ、働かずにはいられない、働いて事業を続けることが生活の不可欠なものになっているとでもいうですかね。」
「それじゃ、あなたという人間のために事業があるのではなく、事業のためにあなたは存在する、というわけですね。」
「まあ、そういうことになりますかね。」

 私たちがすっかりなじんでいる(同化している)ものを奇妙でよそよそしいものものに変えることで、それをはっきりと見えるものにすること、こうした技法を、芸術論では「異化」と言います。ヴェーバーはいわばこの「異化」の手法を用いて、日常当たり前に仕事に精出す資本家のあり方が、「人間のために事業があるのでなく、事業のために人間がいる」というきわめて倒錯したものであることをあばきたてるのです。
 日常のきわめて当たり前で理にかなったと思われる生活に潜む倒錯(非合理)。それをかぎ当てるヴェーバーの視点は特異なものだ。この視点をヴェーバーが得たのは、じつは彼自身が禁欲的な学者として勤勉に励んだあげくに精神的に疲れ果てはらゆる社会的地位を失うという経験をしたからにほかならないのです 。 
 この論文はこうした資本主義の精神に慣れっこになりそれに浸りきっている人びと、すなわち現代の私たちの倒錯した生活のあり方がどのように生まれたかを説明しようとする論文なのです。

(2)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」あらすじ                            
 第1章 問題の提示
 第1節 信仰と社会階層
統計をみると、資本主義に参加することと、プロテスタント(新教徒)であることとの間にプラスの相関関係があります。この関係に対して、一般的にはつぎのような説明が考えられます。(1)経済発展が改宗を引き起こした、(2)少数派は経済に専念する、(3)プロテスタントは世俗的だから、(4)営利活動の反動で宗教に向かった。しかしこれらの説明に対しては、(1)むしろ宗教性が経済志向を決定しがち、(2)ドイツではカトリックの方が少数派、(3)プロテスタントはむしろ非世俗的だった、(4)プロテスタントでは事業と信仰が仲良く同居していた、という反論が成立します。そこでむしろ、一見水と油のようにみえる、資本主義参加とプロテスタントであることが、じつは「親和的関係」(相性のいい関係)にあり、プロテスタンティズム(新教)から資本主義への参加、がじつは説明できるのではないか、と考えられます。それをこれから考察していくことにします。

 第2節 資本主義の「精神」
まず「資本主義の精神」を体現している思想として、フランクリンの思想を取り上げます。そこにみられる精神は、営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなすような精神です。この精神はフッガーのような単なる金銭欲とはちがう、ある種の倫理性をもっています。
 この「資本主義精神」は、これまでどうり生きていければ良いする「伝統主義」とは対立します。ゾンバルトは経済の基調を、(1)「欲求充足」と(2)「営利」とに分けています。しかし営利活動が伝統主義によって営まれていることもあります。ですから「資本主義精神」は経営組織のあり方から自然に生まれるものではないのです。むしろこの精神が入り込むと、(私の叔父の例にみられるように)経営組織の形態が同じでも、劇的な変化がもたらされます。
 この精神はよく問うとみると、じつはきわめて倒錯的で非合理的です。けっして世俗的な目的を追求する合理性からうまれたのとは思えません。ではこの、営利活動を倫理的義務、すなわち「天職Beruf」とみなすような思想はどこにその源泉をもつのでしょうか。

 第3節 ルッターの天職概念
営利活動での資本増大を「天職」とみなすこの思想は、世俗の労働を「天職Beruf」と訳したルッターの宗教改革の精神に由来します。つまり彼は修道僧にしか通用しなかった「天職」の論理を世俗の仕事に適用したのです。しかし世俗労働を「天職」とみなすだけでは、「資本主義の精神」がもつ、資本の増大をたえず求める、あの駆り立てられるような心のありかたは生まれてきません。絶え間ない資本の増大へひとびとを駆り立てた起動力(Antireb)はどこにあったのかを知るために、プロテスタンティズムの禁欲思想にわけいることにしましょう。

 第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
 第1節 世俗内的禁欲の宗教的基盤
禁欲的プロテスタンティズムの、主な担い手は、(1)カルヴィニズム、(2)敬虔派、(3)メソジスト派、(4)再洗礼派系の教派、に分けられます。
 とりわけ(1)カルヴィニズムの「予定説」、すなわち、人は救いと滅びのどちらかに予定されており、それは変更不可能であるという教えは、決定的な影響力をもちました。ピューリタン革命時のイギリスでまとめられた「ウェストミンスター信仰告白」にはこの教えが明記されていることからも、この教えが一般信者にとっても周知の教えだったことは明らかです。自信のない一般の信者が、救いに予定されていることの「証し」を求めるのは無理もないことでした。ルッターは世俗の労働も神から与えられた「天職」とみなしてよいとしていました。ですから修道院でおこなわれた合理的な禁欲的主義で世俗の労働を行うことが可能になっていました。カルヴァン派の人々はこの合理的・禁欲的な世俗の労働で「神の栄光」を増大させることに「救いの証し」を見いだそうとしました。
 こうした傾向は(2)敬虔派、(3)メソジスト派でも同様でした。ただ両派では感情的側面が強く、その分だけ合理的な禁欲が弱まっています。
 (4)再洗礼派系の教派の教義はこれとはちがいます。彼らは心正しき者だけから構成された「教会」を作り上げようとしました。心正しさは精霊がその者に宿ることで証明されます。ですから精霊が宿るのを妨げるような、人間の本能的で非合理的なものを克服しようとしました。その結果、合理的な禁欲主義をめざすことになったのです。
 こうしていずれの宗派の信徒も、神に召命された者であることの証しをもとめて、合理的で禁欲的な世俗労働へと駆り立てられたのです。

 第2節 禁欲と資本主義精神
プロテスタントでは牧師が信徒の相談にのり指導することを「司牧」(Seelsorge)といいます。ここでは、この司牧の活動からうまれた神学書、とくにバクスターの書いたものをとりあげます。この司牧(魂のみとり)は宗教的な教えが日常生活へ影響する際の仲立ちの役割をしているからです。
 プロテスタント、とくにカルヴェン派、の司牧では、「救いの証し」とされる「神の栄光」の増大は、有益な職業労働から生まれるとされました。そしてその職業の有益さは、結局、その職業がもたらす「収益性」(どれだけ儲かるか)で測かることができるとされるようになりました。しかも楽しみ事は徹底的に否定されました。その結果、儲けても、楽しみに使わず、さらに営利活動に投資してどんどん利潤を追求していくことが宗教的に奨励されたのです。しかもそうした経営者のもとには、仕事を「天職」とみなして必死になってはたらく勤勉な労働者さえも与えられたのです。
 しかし富が増大するにつれて宗教心はうすれていきます。その結果、フランクリンにみられた、倫理的ではあるが宗教色の消えた「資本主義の精神」、つまり営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなす精神が生まれたのでした。
 こうしてつぎのことがあきらかにされました。すなわち、資本主義を構成する要素のひとつである、「天職」という考えのうえにたつ合理的な生活態度は、ルッターの「天職Beruf」という考えを前提にしてプロテスタント(新教徒)がみずからの「救いの証し」を合理的な禁欲で追求したことから、もたらされたのです。
 しかし現代においては資本主義はすでに自律的な自動運動をしており、もはやそれを生み出した精神の支えを必要とはしていません。私たちは、生命のない機械と生きている機械(官僚制)の運動のただ中に、巻き込まれていくばかりなのです。

(3)内容の再整理
 さてこうして「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじをのべたわけですが、ここでもう一度この作品の内容を整理しなおしてみましょう。
 この著作はしばしば西洋的合理化を述べた作品であるかのごとく語られます。しかし内容を要約すると、解明はおもに経済的な側面に向けられていることがわかります。
 社会の主流である経済体制が、「欲求充足」の経済体制から「営利」中心の資本主義体制に移行する。その移行、あるいは転換はどのように起きたのか、それにたいする宗教の働きが問題とされています。
 「欲求充足」の経済に適合的なのは「伝統主義」とよばれる、これまで通りの生活ができればいいとする精神です。それに対して、「営利」活動が中心となった資本主義は、もちろん伝統主義によって営まれることはあるにせよ、やはりそれに適合的なのは営利を自己目的とした「資本主義の精神」です。
 しかしこの「資本主義の精神」はそれ以前の「伝統主義」からは生まれたとは考えられません。伝統主義が「今生きてあること」(dasein)を大切にするのに、「資本主義の精神」は現在を犠牲にして果てしない彼方にあるものへ向かって駆けていく、そうした倒錯した精神だからです。
 そうした精神の由来を、ヴェーバーは修道院の禁欲主義に求めます。世俗を離れ、ただ神のみを想い、厳しい労働によって自分たちばかりか俗人たちの救済を作り上げていた修道士の活動の論理。この論理はどのように世俗へともたらされたのでしょうか。
 神からの呼びかけによって与えられた使命としての職業(Beruf) はそれまで、聖職のみに限定されていました。ですから修道僧の禁欲もあくまでも世俗の外の修道院に限定されたままでした。
 しかしルッターが、世俗の一般の仕事も、神からのお召しによる「職業」であるとみなしたことで、この修道院だけにあった禁欲主義は世俗へともたらされました。ちょうどレールを切り替えることで電車が引き込まれてくるように、禁欲主義は世俗の労働に適用可能になりました。
 その意味で、ルッターはレールを切り替える人、つなわち「転轍手」であるわけです。
 しかし世俗の仕事が「職業=使命」とみなされるだけでは、あの追いたれられるような、強迫的な労働は生まれません。
 それをもたらしたのは、カルヴァン派の宗教カウンセリング(「魂のみとり」)でした。彼らの「魂のみとり」(司牧)では、業績とか収益が「救いの証し」であるとみなされました。その結果、自分が救いに予定されているか不安な平信徒は、「救いの証し」をもとめて、いまや聖職と同格の「職業」と見なされるようになった世俗的労働にまい進することになったのです。
 図にまとめると次のようになるでしょう。

修道院の禁欲--┐転轍
            ↓
伝統主義-→× 資本主義の精神   
∥        ∥ (適合)
欲求充足----→営利

 ルッターの転轍       :仕事を「職業=使命」とみなす
         「意味連関」:修道僧の禁欲的労働の論理が世俗労働をつかむ
 カルヴァン派の「魂のみとり」:収益を「救いの証し」とみなす 
         「感情連関」: 不安→証しの追求 心理的起動力が生まれる
 
ルッターの転轍により、世俗労働=「職業」とルッターがみなしたことにより、修道院の禁欲の論理が世俗の労働をつかみます。人々は日常の仕事を、神から与えられた、神の意にそった「使命」としてはげみます。つまりあたらしい意味の連なり(意味連関)が世俗の労働をとらえたのです。
 カルヴァン派の魂のみとりは、収益・業績=「救いの証し」とみなしました。不安にあえぐ人たちは「証し」を求めて仕事(職業)にまい進しました。こうして禁欲的な労働の心理的な機動力がうまれたのです。収益をあげても救われるわけではありません。しかし一般の信徒は心理的に収益をあげて安心したいと思ったです。つまりここでは目的-手段の連関があるのではなくて、不安から労働するという、心理的な連なり(感情連関)があるわけです。
 くり返しになりますが、ここでは二つの「解釈がえ」があったわけです。
 ルッターは日常的な労働が「転職」として解釈しなおしました。その結果、聖職者の世界と俗人の世界の区分の廃絶され、聖職者(修道士)の論理が俗界への侵入してきました。しかしそれだけでは社会資本主義へ転換するには不十分でした。
 カルヴァン派では収益・業績が「救いの証し」と解釈されました。その結果世俗的労働にまい進する心理的機動力が生まれました。そうして、伝統主義が支配していた経済は、資本主義が支配する経済システムへと移行したのです
 つまり、伝統主義と結合していた伝統主義的経済(単純再生産)を、宗教的な合理的禁欲思想が捉える。その帰結として、伝統主義的経済システムから資本主義的経済システムへの移行がうまれたのです。
 ここでは新しい社会科学のアプローチが生まれています。つまり行為をする人間がその行為をどのような意味づけをしているのか、その意味づけをちゃんと解釈し理解することで、その行為はどのように社会を作り上げていく、あるいは社会を変革していくのかを説明しようとするアプローチです。これがヴェーバーの「理解社会学」というものなのです。(ヴェーバーはとりわけ後者の社会変革の方に関心があったように思われます)。
 
 さてヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はプロテスタントの禁欲主義という、一見正反対のものから資本主義の精神が生まれたことを明らかにしました。それは彼の言い回しを使えばまさに「意図せざる結果」だったのです。ヴェーバーの発想は、資本主義を語る場合にも欲望や消費のだんだんに増大していくというような他の論者の発想とは異なります。いったんそれとは正反対の禁欲というものが張り込むことによって資本主義の発展は促進されたというのがヴェーバーの考えでした。ヴェーバーによれば近代とはこうした逆説的な逆転によってもたらされたのです。一見正反対なものがその発展をもたらす。惑星がいったん逆行してから順行していくようにヴェーバーのとらえる歴史発展は、ある傾向が順調に拡大発展していくのでなく、いわば逆説的な逆転が常にはらまれているのです。
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by takumi429 | 2010-12-15 01:59 | 社会学入門 | Comments(0)
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