4.モンタージュ理論

4.モンタージュ理論 Theory of Montage 
モンタージュとは「組み立てる」を意味するフランス語のmonterに由来し、一般に映画のショットとショットをつなぐ「編集」をさす技術的な用語である。ハリウッド映画でつかわれるエディティングと同義語であるが、おもにヨーロッパ映画で使用されている。もっとも、実際には個々のショットをつなぐためには多様な視点と水準―たとえば物語やリズム、あるいは造形的なフォルムなど―があり、そのため、時代やスタイルに応じて、歴史的にさまざまな意味と効果を生みだしてきた。

なかでも1920年代のソビエト・ロシアで生みだされたモンタージュ理論は、映画を最重要の芸術とする社会主義政権のもと、いかにイデオロギーや思想といったメッセージを伝達するかという観点からモンタージュを映画表現の最大の手段とみなして実践し、その後の世界の映画界に大きな影響をあたえることになった。

「弁証法的モンタージュ」ともよばれるソビエト・モンタージュ派の理論は、ショットとショットの結合によって、ショットの具体的な表象内容にふくまれていない新しい意味や観念を観客に提示することをこころみた。そのもっとも有名な例がレフ・クレショフ(1899~1970)による「クレショフ効果」とよばれる実験である。たとえば、1人の人物の無表情な顔のクローズアップと、食卓の上にあるスープ皿をつないで見せると、だれもが「空腹の人物」をみとめた。ここから人々はモンタージュによって抽象的な観念をえがくことができると確信し、それぞれがモンタージュの理論と実践をおこなった。セルゲイ・M.エイゼンシュテインは、「戦艦ポチョムキン」(1925)や「十月」(1928)などでショットとショットの衝突による新たな意味の表出をこころみ、またフセボロド・プドフキンは、「母」(1926)などでショットの具体性を尊重した感情の強調によるモンタージュを実践した。

ソビエト・ロシアのモンタージュ理論は、映画の意味作用のひとつの磁場となるショットの結合(つまり編集)に美学的で哲学的な考察をくわえることによって、映画表現に大きな影響をおよぼした。だが、その一方、彼らの理論は抽象的な観念の表出を追いもとめるあまり、ショットの具体的な表象内容を無視して映像を記号化する方向にむかうことになった。そのため第2次世界大戦後には、映像の生き生きとした写真的な性格を重視する「反モンタージュ」の考えから批判されるようになった。 

クレショフ効果
https://www.youtube.com/watch?v=4gLBXikghE0
「こうしてクレショフの眼鏡にかなった連中で、映画史に残る〈クレショフ映画実験工房〉なるワークショップが誕生する。・・・この時期クレショフらを苦しめていたのは、極度の物質的な窮乏である。映画制作の生フィルムが欠乏している時、実験用の材料の余裕があるはずがない。彼らは静止写真か、静止写真同様のみじかいフィルムの断片を使って、俳優の演技を撮影し、その組み合わせを試みた。クレショフが「映画なしの映画」と名づけた実験である。そんなとき、1921年3月、クレショフはモスクワ地方政治教育委員会の写真・映画部から90メートルのフィイルを受け取った。上演時間わずかに数分にしかあたらない断片だが、クレショフは直ちにこのフィルムでつぎのような実験計画を立てた。
(1)1つの一から撮影するダンス=10メートル
(2)モンタージュを使って撮影するダンス=10メートル。
(3)経験の違いによるモデル俳優体験の相互関連=(a)14メートル。(b)20メートル。
(4)さまざまなアクションのシーンを単一の構成に連結する=30メートル。
(5)人体の多様な部分の結合と、モンタージュによる希望するモデル俳優の創造。
(6)モデル俳優の目の動き=2メートル。
・・・とくに有名なのは、(4)と(5)。(4)は燃す楠のアルパート広場にあるゴーゴリー記念碑、ワシントンのホワイト・ハウスなど別べつの背景を前にした男と女のショットを連続してモンタージュすると、まるでその男女は同一場所で出会い、ホワイト・ハウスに向かっていくようにみえる。いわゆる〈創造的地理〉のモンタージュ。(5)は第1の女性の上半身、第2の女性の眼、第3の女性の脚など、別べつの女性の身体部分を撮影してつなぐと、実在しない女性像が誕生する。いわゆる〈創造的人間〉のモンタージュである。いずれもワン・ショットの表現だけでなく、複数のショットの組み合わせが映画独自の世界を創造し得るという〈モンタージュ〉的映画論の主張となる。」(山田和夫著『ロシア・ソビエト映画史』キネマ旬報社、1996年、70-1頁)。

「1920年、クレショフによって実現された実験の例は、二人のロシアの映画作家の以上のような考え方がまだ初期的なものにとどまっていることをしめしている。プドウキンの先生であり協力者であるクレショフは次のような場面を集めた。
1 1人の青年、左から右に行く。
2 1人の乙女、右から左に行く。
3 2人が出会って、手を握り合う。青年は手で空間の一点を指示する。
4 広い階段を持った白亜の大きな建物が見える。
5 2人の人物が階段をのぼっていく。
これらの断片の各々は、異なった一組のフイルムから引き抜かれたものであった。即ち最初の三つのカットはそれぞれ異なったロシアの街上で撮られたものであり、四番目のカットはアメリカの大統領官邸であった。しかし観客は、その場面をひとつの全体として知覚した。これこそクレショフが、観念的または創造的地理と呼ぶものである。」(アンリ・アジェル著『映画の美学』(岡田真吉訳)白水社1958年、92-3頁)。

クレショフ効果
「クレショフと私は、興味ある実験を行った。私達は、いろんな映画から有名なロシアの俳優モジューヒンの大写しをとりだした。私達は、静止的で、いかなる種類の感情も示していない大写しを選んだ。--動きのない大写しである。私は、三つの異なった結びつけ方に従って、映画の他の断片と、すべての点で同じ大写しとを結びつけた。第一のモンタージュでは、モジューヒンの大写しのすぐ後に机の上のスープ皿のカットを続けた、モジューヒンがその皿を見つめているという印象が、明瞭で、疑いのないものとなった。第二のモンタージュでは、モジューヒンの表情が、死んだ女が横たわっているクッションづきの長椅子を示す映像と結びつけられた。第三のモンタージュでは、その大写しに小さな熊の姿をしたおかしな玩具を弄ぶ小娘のカットを続けた。私達がその三つの結びつけたカットを、何にも知らされていない観衆に示した時、その結果は驚くべきことになった。観衆は、俳優の演技の前に熱狂して有頂天になった。観衆は、わすれられたスープを前にしたそのまなざしの重苦しい苦々しさを強調し、死んだ女を前にして示された深い悲しみに心動かされ、遊んでいる小娘を見詰める明るく嬉しそうな微笑に感嘆した。しかし、私達は、その三つの場合において、俳優の表情は全く同じものであることを知っていた。」(アンリ・アジェル著『映画の美学』(岡田真吉訳)白水社1958年、144-5頁)
 
ロシア・ソビエト映画の歴史(革命直後)
年事項
18965月4日、首都サンクトペテルブルクでシネマトグラフ国内初公開。
1908初の国産劇映画「ステンカ・ラージン」(ウラジーミル・ロマシコフ監督)
19198月27日、映画産業国有化宣言。世界初の国立映画学校(のちの全ソ国立映画大学)創立。
1920クレショフ、映画学校の教授に招聘。クレショフ、プドフキンらと「クレショフ映画実験工房」を作る。
1922~25ジガ・ベルトフら「映画眼」グループがドキュメンタリー映画「キノプラウダ」のシリーズを製作。
1924サイレント映画の黄金時代がはじまる。レフ・クレショフ「ボリシェビキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」レオニード・トラウベルグ、グリゴーリー・コージンツェフ「十月っ子の冒険」
1925セルゲイ・エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」
1926フセボロド・プドフキン「母」
1929ベルトフ「カメラを持った男」(旧邦題「これがロシアだ」)

1917年の革命(ロシア革命)で内戦状態になると、革命に賛同する映画人がいる一方で、多くの映画人がクリミアに疎開し、さらに欧米諸国に亡命していった。レーニンは「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから映画産業を国有化し、記録映画や宣伝映画に力をそそぎ、これらをプロパガンダ用の列車内や船上で上映した。ただし、当初は民間製作の余地ものこっていた。
1919年にはガルジンを中心に世界初の国立映画学校が設立され、レフ・クレショフら革命前からの映画人が指導した。クレショフのモンタージュ論は、セルゲイ・エイゼンシュテイン、フセボロド・プドフキンに発展的にうけつがれ、ロシア・アバンギャルドの絵画や演劇と合流しながら、24年以降のソビエト・サイレント映画の黄金時代を生みだした。「映画眼」を提唱したジガ・ベルトフの記録映画や、少しおくれて登場したアレクサンドル・ドブジェンコの詩的映像のモンタージュもふくめ、この時期の新しい映画言語をつくりだす試みは、現在にいたるまで世界的な影響をおよぼすことになる。

(以下はエンカルタからの引用)

エイゼンシュテイン
I プロローグ
エイゼンシュテイン Sergei Mikhailovich Eisenstein 1898~1948 創造的な映画編集技術と、モンタージュ理論などで世界的に評価される旧ソ連の映画監督、舞台演出家。対立するショットをつなげて新たな意味を生みだす編集技術によって、作品の中でみずからの理論を実践した。

II モンタージュ理論の構築
ラトビアのリガに生まれ、ペトログラード土木専門学校でまなんだが、赤軍でアマチュア演劇グループに参加したことをきっかけにして、演劇の道にすすむようになった。1920年ごろ、実験的なプロレトクリト(プロレタリア文化協会)劇場の美術担当者となり、国立高等演劇工房での勉強をへて、プロレトクリト劇場で演出を開始。対照的なイメージをみせることによって観客に怒りや驚きなどの感情的な反応をおこさせる独創的なアイデアをこころみ、のちのモンタージュ理論の基礎をきずいた。
1924年には、最初の長編映画「ストライキ」をプロレトクリトの仲間とつくり、労働者たちによる有名なストライキの場面では、屠殺(とさつ)される牛と、政府の兵士に射殺される労働者のシーンを交互に展開させた。

III 「戦艦ポチョムキン」
第2作の「戦艦ポチョムキン」(1925)は、1905年革命20周年記念のためにソビエト政府から依頼された作品で、サイレント映画の最高傑作のひとつにかぞえられる。05年におこった水兵の反乱をテーマにした群衆劇で、民衆の虐殺場面はとくに名高い。オデッサの長い階段を背景に、アクション場面と細部のショットを細かく交互につなぎ、銃や人の顔のクローズアップによって、にげまどう市民と攻撃する兵士を対照させながら、おどろくべき迫力を生みだしている。視覚的な構図を巧みにあつかう技術は、以後の世界の映画に大きな影響をあたえた。
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つづいて、革命10周年記念映画「十月」、社会主義的な農業のあり方をうたう「全線」をとりおえたが、前者は1927年公開にあわせ完成したにもかかわらずトロツキーの失脚により一部差し替えを余儀なくされて結局28年の公開となり、後者もまた完成後に政治的理由から大幅な改変を命じられて、タイトルも「古きものと新しきもの」とあらため、公開は29年になった(邦題は「全線 古きものと新しきもの」)。

IV 映画史にのこした偉大な足跡
フランスでつくられた短編トーキー映画「センチメンタル・ロマンス」(1930)では、グリゴーリー・アレクサンドロフが助監督をつとめた。1931~32年に手がけた「メキシコ万歳」は未完成におわったが、のちにアレクサンドロフによって再編集されて、79年に完成した。

ほかに、未完成の「ベージン草原」(1935~37)、壮大な歴史的叙事詩「アレクサンドル・ネフスキー」(1938)、「イワン雷帝」第1部(1944)、「イワン雷帝」第2部(1946年完成、58年公開)などがあり、その第3部は、製作が半分ほどすすんだところで当局から製作中止を命じられ、廃棄処分されたという。
映画の可能性に対する情熱と理解の深さにより、映画史上まれにみる革新者のひとりにかぞえられる。「映画感覚」(1942)、「映画の形式」(1949)など、著作は広範囲にわたり、日本では「エイゼンシュテイン全集」が刊行されている。

プドフキン,V.
I プロローグ 
プドフキン Vsevolod Pudovkin 1893~1953 ソ連時代のロシアの映画監督、俳優。ボルガ地方ペンザに生まれ、父親の仕事で子供のころにモスクワに移住、モスクワ大学で物理化学をまなぶ。第1次世界大戦に出征してドイツ軍の捕虜となったが、脱走して1918年にモスクワにもどった。アメリカ映画「イントレランス」(グリフィス監督、1916)をみて感動、レフ・クレショフのもとで映画製作の実際をまなぶ。20年からクレショフやウラジーミル・ガルジンの作品に俳優、脚本、美術、助監督などで参加、25年には短編喜劇「チェス狂」(共同監督)を発表する。その彼の名を世界的にしたのは、ゴーリキー原作による長編第1作「母」(1926)である。

「母」(1926年)ヴェラ・バラノフスカヤマクシム・ゴーリキー(1868~1936)の小説の映画化。力は強いが酔っ払いのヴラソフは酒屋で工場主からストやぶりを頼まれる。そして工場でストライキ中の息子パーベル(ニコライ・バターロフ)と対面するが、当然敵味方に分かれ、パーベルは逃げる。一方、ヴラソフは撃たれて死ぬ。その後、家にやってきた警察に、母ニーロヴナ(ヴェラ・バラノフスカヤ)。はパーベルを救おうと武器の隠し場所を白状するが、逆に息子は捕まってしまう。脱獄したハーベルはデモ隊に加わり騎兵隊の銃弾に倒れる。息子の死で革命に目ざめたニーロヴナは、地に落ちた赤旗を手に歩き出す…。
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[講師のコメント:この映画のなかでストライキする群衆と割れた氷が氾濫しながら流れるシーンが交互に映し出される。「戦艦ポチョムキン」の中で獅子の像が戦艦の砲弾が炸裂するシーンと交互に映し出され、その獅子が立ち上がるように見えることと、民衆の蜂起とが重ね合わされていた。それと同じように、観客は、流れる氷はストライキする群衆の蜂起を象徴するためのモンタージュかと思いこむ、と突然、逃げる息子が氷の上を飛び跳ねながら逃げていく。これのシーンは、象徴的なモンタージュと思わせておいて、実はそうでなく映画の話と連続したシーンであるというひねりになっている。またこれはグリュフィスの「東への道」で氷の上で気を失っているリリアン・ギッシュを主人公が氷の上を飛びながら助けに行くシーンを引用したものであろう。映画には相互参照が頻繁にみられるが、これもその愉快で興味深い一例であろう。それにしてもこの映画の母親を演じた女優の演技はすばらしい。]

II ソ連映画黄金期を現出
この「母」で、クレショフのもとでまなんだモンタージュ理論を実践。その後も「聖ペテルブルグの最後」(1927)、「アジアの嵐(あらし)」(1928)を発表し、エイゼンシュテインとならんでソビエト映画を代表する監督となった。1930年代に入り、社会主義リアリズム路線のもとに20年代のモンタージュ理論が批判されると、モンタージュ中心の演出論を俳優論で修正し、共同監督作をふくめて「脱落者」(1933)、「勝利」(1938)、「ジルムンカの饗宴(きょうえん)」(1941)、「ナヒーモフ提督」(1946)、「ワシリー・ボルトニコフの帰還」(1953)などを発表した。著作も多く、26年の「映画監督と映画材料」や34年の「映画俳優論」などは世界的に影響をあたえた。

ベルトフ,D.
I プロローグ
ベルトフ Dziga Vertov 1896~1954 ソ連時代のロシアの映画監督、映画編集者、理論家。本名はデニス・カウフマン。ポーランド(当時はロシア領)のビャウィストクに生まれ、第1次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で家族とともにサンクトペテルブルクに移住。最初は医学志望だったが、ロシア未来派のアバンギャルド芸術に魅せられて詩や小説を書き、また音のモンタージュに熱中した。このころジガ・ベルトフのペンネーム(ウクライナ語で「独楽(こま)よ、まわれ」の意味)をもちいはじめる。1917年のロシア革命によってモスクワ映画委員会の所属となり、18年からニュース映画「映画週報」の編集にたずさわる。翌19年から長編記録映画の製作をはじめた。

ベルトフ「カメラを持った男」ジガ・ベルトフは、映画のカメラだけがとらえうる客観的真実を重視して、「映画眼」の理論をうちたて、ソビエトだけでなく各国のドキュメンタリー映画に大きな影響をあたえた。写真は、ベルトフの映画理論の集大成である記録映画「カメラを持った男」(1929)のポスター。
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II 「映画眼」を主張
1922年に実験的な記録映画監督たちをあつめて「キノクス」グループを結成、「キノキ(映画眼)」理論を宣言する。これは、映画カメラのレンズが新しい知覚を生みだすという考えのもとに、俳優や撮影所などフィクションをいっさい排し、現実世界に映画カメラをむけることを主張したもの。その実践として、同年から「キノ・プラウダ」シリーズをはじめる。その後、映画論の集大成である「カメラを持った男」(1929。戦前公開時の邦題「これがロシアだ」)、ソビエト映画最初のトーキー「ドンバス交響楽」(1930)、あるいは「レーニンの三つの歌」(1934)などすぐれた長編記録映画を発表するが、30年代半ばに入ってスターリン体制の強化とともに形式主義(→ ロシア・フォルマリズム)と批判され、晩年はニュース映画の編集者として不遇のうちに没した。なお実弟のミハイル・カウフマン、ボリス・カウフマンともに著名な映画カメラマンである。

クローズアップ
グリュフィスが始めたクローズアップの技法はそれまでの舞台用の演技とはちがう演技を俳優に求めることになる。思うにのちのメッソッド演技(なりきり演技)はこのクローズアップの技法にふわさしい演技法だろう。またクローズアップによって観客は俳優の心情にきわめて感情移入するようになる。
映画史のなかでもっとも印象的なクローズアップがみられるのは『裁かれるジャンヌ』である。
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『裁かるるジャンヌ』La Passion de Jeanne d'Arc 1927年 97分(20コマ/秒)/81分(24コマ/秒) 
ジャンヌ・ダルクの裁判を歴史的資料に基づいて再現したカール・ドライヤー監督の代表作。
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ドライヤー,C.T.
I プロローグ
ドライヤー Carl Theodor Dreyer 1889~1968 デンマークの映画監督。コペンハーゲンに生まれ、2歳のときドライヤー家の養子となる。1910年ごろにジャーナリストとなり、13年にノルディスク映画社に脚本選別係として入社。15年に脚本家として自立し、「裁判長」(1919)で監督デビュー。次作の「サタンの書の数頁」(1919)では、グリフィスの「イントレランス」(1916)に影響をうけて4つの時代における人間の裏切りをえがいた。このころになるとハリウッド映画の攻勢で国内市場は狭まり、映画製作をつづけるには、デンマークをはなれざるをえなくなる。スウェーデンで「牧師の未亡人」(1920)、ドイツで「不運な人たち」(1921)や「ミヒャエル」(1924)、またデンマークにもどって「あるじ」(1925)を発表する。

II 人間の苦悩を追究
フランスでとった「裁かるゝジャンヌ」(1928)とトーキー第1作「吸血鬼—デイヴィッド・グレイのふしぎな冒険」(1932)は、彼の名を国際的にした。前者は、ノー・メーキャップの顔のクローズアップを中心に火刑に処せられるジャンヌ・ダルクの心理を映像化し、また後者は、幻想味と現実味をまぜながら超自然現象の視覚化をこころみた。ともに高い評価をうけたが、どちらも興行的には失敗し、デンマークにかえってジャーナリストの仕事にもどる。だが、第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)でナチス・ドイツがデンマークを侵略すると、中世の魔女狩り(→ 魔女)を題材とした「怒りの日」(1943)を発表。その後も「ふたり」(1945)、「奇跡」(1955)、「ゲアトルード」(1964)と話題作を発表し、寡作ながら、その独特な映像表現によって国際的に高い評価をうけた。
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by takumi429 | 2007-06-08 15:39 | 映画史講義 | Comments(0)
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