都市の社会学 パリ 3
『パリの社会学』Ⅱ パリの引力 パリは政治権力を集中し、フランスの富と可能性の本質部分に相当する人口と資産を集中させている。街のほんのわずかな限られた空間の中に、政府機関や記念建造物や美術館が集まり、物質的かつ象徴的な富を集約している。 この集中化は過去2世紀の歴史の所産である。この2世紀の間に、パリは田舎よりずっと早いリズムで成長した。地方人を引きつけ、さらにますます遠い国の出身の移民を引き寄せた。 人口の増加 パリには、1801年の、55万人の人口があり、1856年の国勢調査では117.4万人の人口がすでにあった。半世紀の間にその人口は2倍になった。1860年の周辺の合併吸収によりパリの人口は50万人増え、1861年の国勢調査では169.6万人になった。1921年にパリの人口はピークとなった。290万の人口となりもうすこしで300万人となるところであった。それから1954年までは人口は安定していた。この時にはパリの人口は285万人であった。その後、人口の減少が来た。1954年から1999年の間、パリは72.5万人の人口減少した。人口は212.5万人どまりとなったが、これは1801年の人口のほぼ4倍であった。 他方、フランス全体の人口は、19世紀の初頭から2930万人から5850万人に増えた。首都の人口が4倍になったのに、2倍になったにすぎない。1801年、現在のイル・デュ・フランスになった3県の人口は135.5万人であった。それが1999年には1095万人に達している。200年の間に、この地域の人口は8倍にもなった。 フランス本国、イル・ド・フランス、パリの人口増加率の変化 パリは人口減少に転じているが、イル・ド・フランス(パリ周辺)の人口増加は以前、フランス本国全体よりも高く、この地域がいまだ多くの人口を引き寄せているのがわかる。 パリに来る移民の変遷 地方人から外国人へ 19世紀にパリにやって来たのは地方出身者であった。すなわちリムーザン(中央山塊北西部の地方)、ブルターニュ、オーヴェルニュ(フランス中央部,中央山塊の主要部を占める地方)の出身者たちだった。地方人はかたまって住み、特徴ある地区を作り上げた。ブルターニュ出身者はモンパルナスの駅の近くに、オーヴェルニュ出身者はファーブル・サンタントワヌに。(ルイ14世の自由化施政によりファーブル・サンタントワヌは家具や冶金の工房がたくさんでき、それにオーベルニュ出身者が従事した。彼らはコミュニティを作り、独自の祭りをおこなってきた。) 1886年、パリはフランス最大の都市であったが、パリ市民の36%しかそこで生まれた者でしかなく、56%はセーヌ県やその他の地方出身者であり、8%は外国人であった。1999年には、パリ出身のパリ市民の数はさらに減って、31%がパリ生まれ、14.5%が残りのイル・ド・フランス生まれにすぎない。よそ者(32%)は地方生まれである。とくに23%は外国生まれである。 移民にたいしては絶えず、差別的イメージが、政治家やジャーナリストによって作られてきた。 ブルターニュからの移民がより多くなった1930年代、共同体の行列が毎年モンパルナスの道を席巻した。同時に、排斥されたブルターニュ人とそのアイデンティティの誇りを統合しようという意欲がみられた。 今日、もはやブルターニュ人の行列行進はない。しかし何年も前から、13区の中国人コミュニティがパリの「チャイナ・タウン」の道を旧暦の正月にねり歩く。フランス当局によって認められた統合の意欲は、2004年のフランスの中国文化年の機会に認められ、シャンゼリゼを行列が練り歩くことが認められた。 中国人だけがパリの路をねり歩くことが許可された移民ではない。スリランカの内紛のために多くのタミール人がパリに移住している。スリランカ出身のタミール人のコミュニティも数年前から、9月に、ヒンドゥ教の神々の1人で像の頭をもつ、ガネーシャの祭りをたたえて行列がねり歩く。腰巻きだけ身につけた上半身裸で裸足の男たちに引かれた花車が10区と18区の路、北駅と東駅の間の道をねり歩く。地面にまかれたクルミとココナツの破片の中を、女性たちのきらびやかなサリーとあっけにとられたパリ人のカメラのレンズとの間を、祭りの行列は進む。 パリのガネーシャの祭り(Wikipediaより引用) 「グット・ドール:パリの移民史の縮図 地下鉄バルベス・ロシュアール駅の近く、シャペル大通りの北の、18区にある、この地区はいくつもの移民の波を経験してきた。この土地もまたパリの外側に位置しており、たいへん質素な賃貸アパートが、1860年のすこし前に、ここに建てられて以来のことである。 ゾラは小説『居酒屋』の筋建てをここに置いた。登場人物のランチエとジェルヴェーズは、マルセイユ地方から、仕事を見つけようとして、パリに上がってきてここに住んでいる、とされる。フランスの、とくに田舎からの、この移民に取って代わって、次、ヨーロッパ人、スペイン人とイタリア人が移民してきた。1920年から、カビリー人[アラブと混血化しなかったベルベル人でアルジェリアからの移民]が、それに取って代わった。彼らはこの地区にマグレブ(モロッコ・アルジェリア・チェニジア)の色調を与え、それは1990年まで続く。次に、バルベルのカフェはアフリカレストランに取って代わられた。織物商人は徐々に、金銀のラメの代わりに、ブラック・アフリカのろうけつ染めやバザン[縦糸が麻糸で横糸が綿糸の綾(あや)織物]を商うようになってきた。このアフリカ相互の競争は今日、アジアや東ヨーロッパからの到来者の新しい波に直面している。この人口の動きは、歴史のレベルに置き直すと、結局、人々をつかってのたえまない型の練り直しでしかない。そしてその運命は、異種交配の運命なのである。」 セネガルのろうけつ染め(wax) 〈パリの遊歩者〉 グット・ドール バルベス・ロシュアール駅の入り口 (左に焼きとうもろこし売り) 高架下の市場 モスク
by takumi429
| 2007-07-16 18:30
| 都市の社会学 パリ
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