カテゴリ:都市の社会学 パリ( 14 )

パリ滞在記

映画『パリ、ジュテーム』を見てパリに関心を持った方は、よかったら私のパリ滞在記を見てください。滞在記は、「私の都市航海」 にあります。
また今回のパリ滞在記は「鴨川左岸日乗」に連載中です。こちらもご覧ください。
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by takumi429 | 2008-07-11 04:03 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ まとめ

パリ
フランスの首都、パリは、フランスの北西部のわずか87k㎡の円形の(山手線の内側よりわずかに大きい)空間にすぎない。このわずかな空間に、政治・経済・文化・芸術などフランスのあらゆる中心が集中している。
パリはもともとセーヌ川の中州であるシテ島から発展していった。成長するカタツムリがその殻をしだいに大きくするように、パリも6度にわたってより拡がった城壁を築いてきた。現在のパリは、最後のティレーヌの城壁がこわされた後、その周りの軍用地帯(Zone)だったところを走る外環高速道路によって、まわりの郊外(banlieu)から区別されている。
セーヌ川の流れから見て右にあるセーヌ左岸は政治と経済の中心地であり、左にあたるセーヌ左岸はパリ大学がおかれた文教地区(カルチェ・ラタン)とお屋敷町(ファーブル・サンジェルマン)であった。権力の軸はルーブル宮殿からカルーゼルの凱旋門、凱旋門、さらにグランド・アルシュ(新凱旋門)へと伸びてきた。
今日のパリの構造を作り上げたのは、第二帝政期ナポレオン三世の命をうけたオスマン男爵によるパリ大改造であった。シテ島や市役所周辺などの貧民街を一掃し、直行・斜行する直線道路を縦横にめぐらし、その両側にアパートを造らせ、広場を作り、上下水道を整備し、公園を配置した。土地は高騰し地上げ屋が暗躍し、土木工事は多くの地方出身を引き寄せた。しかし立ち退かされた貧民たちは「パリのシベリア」と呼ばれた北東部へと追いやられた。生まれ変わった都市中心部には、豪邸よりも快適なアパートを好む新興ブルジョワたちが住み込んだ。こうしてパリの「ブルジョワ化」と北東部のクロワッサン状の貧民地域という、今日までつづくパリの構造を作られたのである。
オスマンの都市改造とともに、パリは消費革命を経験する。商品を見世物として大々的に展示する博覧会が19世紀後半に5度開催され、展覧会の展示方法をもちいたデパートの薄利多売が異常な(ときには万引きまでしかねない)婦人たちの購買欲を刺激し、高級娼婦がオペラ座で媚びを売り、パトロンがバックステージから踊り子の踊りに舌なめずりをし、鉄道が人々を観光地へと運び、大衆は郊外へ出かけての浮かれ騒いだ。アカデミーの歴史画に対抗して、印象派はこうしたオスマン以後の都市空間と消費生活の風俗画を積極的に描いたのであった。
パリへの移民は地方出身者からマグレブ人(北アフリカ人)、ブラック・ノワール(サハラ以南のアフリカ人)、アジア人へと変遷をとげてきた。彼らの多くは市の北東・南東部、さらに環状高速道路で隔てられた郊外(banlieu)に住み、地下鉄・RER(首都圏高速交通網)で都心に働きに出てパリを支えながらもその周辺にあって虐げられている。
パリはブルジョワ化して、カルチェ・ラタンには高級ブティックがならび、貧困街にも「ブルジョワ自由民」が進出する。他方、パリの高級街は観光客などの襲来でファーストフードや量販店が並ぶという「大通り化」に瀕している。
都市の風を受けて街を航海していく遊歩者は、街をスナップショットし、それを組み合わせ、パリという光と影が織りなす街のイメージを作り上げていこうとする。
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by takumi429 | 2007-08-05 16:30 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 12

都市の社会学 パリ 12
『パリの社会学』Ⅶより
パリ-郊外(banlieue):1つの都市圏?
パリとその周辺の郊外のもつ断絶
ティエールの城壁(1841~1844年)
城壁がなくなったパリは、対仏同盟軍による1814年、15年の攻撃に耐えることができなかった。1818年に組織された国防委員会は、1820年7月18日、「パリを防御体制下におく必要性」を認める決定をしたが、計画は何も実現しなかった。1830年に組織された要塞化委員会は問題の再検討を行なったが、パリ郊外を取り巻く大規模な城壁を作るべきだという人々と、「保安用の城壁」を伴った一連の要塞からなる防御陣地を、市門に沿って首都のまわりに配すべきだという人々のあいだで、意見の調整ができなかった。1836年に組織された新たな委員会(通称「王国防衛委員会」)が、これらふたつの方式を結びつけた計画を、1838年7月6日に採択した。そしてフランス、イギリス、ドイツ連邦の緊張が高まった1840年になって、ようやく首相兼外務大臣のアドルフ・ティエールが、新たな城壁の建設を公益認定し、ドッド・ド・ラ・ブリュヌリ将軍とヴァイヤン将軍の指揮のもとに行なう意向を示した。計画は両院で可決され、1841年4月3日に発布された。こうしてパリは全長34キロ近く(稜堅の凸凹部分を計算に入れれば三十九キロ)の巨大な楕円に囲まれることとなった。現在のマレショーの大通り〔歴代元帥の名を冠した大通り〕とパリの現境界線とのあいだに築かれたこの城壁は、世界最大規模のものである。城壁にともなって、堀の前250メ
ートルは、ラテン語でnon aedificandiと呼ばれる建築禁止区域(ゾ ン)になっていた。城壁そのものは幅140メートルあり、内側から外側に向かって次のような構成になっていた。幅2メー
トルの下水用排水溝。幅6メートルの砂利敷き車道(「城壁道」)。これはほどなく幅40メートルの軍用道路にとってかわられ、1861年以降はマレショーの大通りに補われた。またマレショーの大通りは、所々で内側30メートルほど私有地に入り込んでいた。高さ10メートル、厚さ3メートルの城壁平場。これは6メートルごとに控え壁で補強されていた。平場の頂上にある射撃用足場。40メートルほどの堀。堀の外岸と斜堤。これは1860年以降、パリの境界を示すことになっていた。
この大規模な城壁全体は、10の工兵管区ベルシー、シャロンヌ、ベルヴィル、オーベルヴィリエ、ラ・シャペル、バティニョル、ブローニュの森、ヴォージラール、プティーーモンルージュ、メゾンーーブランシューに分割されていた。総計94ある稜堡(りょうほう)には、658門の大砲が備わっていた。・・・
ティエール城壁は、1870年のプロイセン軍による攻囲のときにしか役立たなかった。1919年4月19日の法令により、城壁の取壊しが決まった。場末(ゾ ヌ)と呼ばれた地域に住み、おもに屑屋を営んでいた人々が立ち退いた後には、低価格住宅(HBM)や低家賃住宅(HLM)が建設され、首都のもっとも外側をとりまく環状道路である外周環状道路(プ ルヴア ルコペリフエリソク)がその近くをかすめるように走っている。『パリ歴史事典』352-4頁

ブルアージュの稜堡式要塞
ブルアージュは、フランス、ノルマンディ地方のサントンジュ海岸に面している。現在、町は大西洋からはなれた内陸部にあるが、中世のころは水路で海に出られる臨海都市であった。ブルアージュは、1571年に防備をほどこされ、プロテスタントの拠点であるラロシェルに対抗するため、1622年からリシュリューによって近代化された。その後、海軍基地にするためにボーバンによって全体の改築がおこなわれ、稜堡式要塞(りょうほしきようさい)となった。稜堡式要塞は、砲台となる稜堡、土塁(どるい)と堀などで構成され、稜堡はあらゆる方向からの攻撃に対処するために死角がないように配置されている。しかし、泥の堆積によって水路がうまってしまったため、ブルアージュは海軍基地としての機能をうしない、海軍基地はロシュフォールに移動した。
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ボーバン
セバスティアン・ル・プレストル・ド・ボーバン(1633~1707)。フランスの軍人、軍事技術者。砲台となる稜堡(りょうほ)、土塁(どるい)、堀などで構成される稜堡式要塞とよばれる築城術および、要塞を攻撃する際にもちいる塹壕の運用について体系化した。1703年には元帥となり、著書には「攻囲論」などがある。また、ボーバンは統計調査法の元祖、経済学の創始者のひとりともされている。
THE BETTMANN ARCHIVE
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パリの城壁 6ティエールの城壁

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ティエールの城壁とリニャンクール門の空間の利用
ティエールの城壁は幅が合計390m、円周が34km。首都の面積87km2 のうち15%にあたる13 km2 を占めていた。1926年にゾーヌには42000人が仮住まいしていた。

←パリ18区       城壁          ゾーヌ  郊外サントゥアン・サンドニ→   
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リニリニャンクール門とロピタル・ビショの間にあった第37,38,39稜堡の上に2700の低価格住宅(HBM)がが1926年から1931にかけて建設された。
[パリ周辺で40,000の低価格住宅、120,000人の住民]
サントゥアン門とリニャンクール門の間に818の低家賃住宅(HLM)が1958年から1959年にかけて建設された。
[パリ周辺 低家賃住宅、スポーツ施設、リセ、病院、15区のポルト・デュ・ベルサイユの展示場公園、14区のジャルダン大通りの大学都市などなど]


ゾーヌ(場末)ZONE
1841年から1845年にかけて、パリの周囲に「ティエールの市壁」と呼ばれる城壁が巡らされると、草地となっていた城壁の外側の緩衝地帯には早くからタール紙で覆った板張り
のあばら屋が建てられ、周りには小さな庭もしつらえられて野菜などが作られていた。この軍用地の最初の住人は屑屋で、やがて簡単な仕事場を建てるための敷地を捜していた下級職人層がこれに続き、その後古物商や家具職人、家具商などもここに住むようになった。付近に広い土地を取得して、倉庫や時には工場を建てる実業家もいた。こうした住人たちの喉をうるおすために「マストゥロケ」と呼ばれた飲屋も開かれた。アリスティッド・ブリュアンはこれらの貧民たちのことを「城壁(フオルテイフ)の文無しども」と呼んでいる。彼らは一八七〇年から七一年の攻囲戦の際にいったんその住みかを追われるが、1880年頃にはこの周囲35キロメートル、幅わずか250メートルの環状地帯(総面積444ヘクタール)にふたたび住み着いている。「ゾーヌ」と呼ばれたこの場末の人口を50万と見積もった途
方もない試算もあるが、1913年のセーヌ県の調査では2万人以下、1926年の別の調査では4万2300人という数字が挙げられている〔「ゾーヌ」の呼称は「軍用地」(ゾーヌ・ミリテール)に由来する〕。城壁の盛り土の上で草をはむ牛の様子や、ルヴァロワ〔パリ北西部、現在のルヴァロワロペレ〕付近のロバや山羊の群れは絵はがきにも描かれている。
「場末」の住人は危険な階層という評判が高かった。売春婦たちが客を取っているあいだ、「ビュット〔モンマルトルの丘〕の狼たち」とか「バティニョルの押し込み強盗」などとあだ名されたひも連中があたりを見張っていた。マスコミは彼らを「ならず者(アパッチ)」と呼んで民衆のあいだにその人気を広めたが、とくにそのなかのひとり、マンダの裁判(1920)は「カスク・ドール」〔「黄金の髪」の意。事件の中心となった娼婦のあだ名〕の伝説を生み、ジャック・ベッケルの映画〔『肉体の冠』〕によって不朽の名を留めることになった。だが住人の大半はその日暮らしで細々とした仕事を営んでいた貧民たちである。もっとも数が多かったのは屑屋だった。バトリス・ブーセルは『パリ事典』のなかで書いている。「市壁付近ではまだ、白皮なめしに使うために犬の糞を集めている姿が見られた。なかには場末の〈医者〉と呼ばれた屑屋もいて、彼はごみ箱で拾った本を読んでその知識を身につけ、無料で診察していた。箱形馬車で寝起きしながら子どもたちに道徳と読み書きを教えていたアンデルソン牧師もいた。」日曜になると、郊外に住んでいた労働者たちがピクニックにやってくる。1908年の警視庁の報告書によると、ジャガイモやムール貝を焼く匂いがたちこめるなか、この場所へ行楽に訪れたパリ市民の数は年間1万人にのぼっている。ジプシーたちはトランプで運勢を占い、手相を観ていた。歌を唄って小銭を集める旅回りの芸人もいた。飴やゴム風船売りの他、「プレジール」や「ウーブリ」と呼ばれた小型のワッフル(ウエハース)を売る姿も見られた。
1926年4月19日の法令により市壁の撤去が決められると、その跡地とゾーヌに分譲住宅地の建設が計画される。低価格の住宅が大量に作られ、敷地の一部には外国人学生のための大学都市も建設された。この地域を対象にした都市計画とその実際については、ジャンーールイ・コーアンとアンドレ・ロルティによる『城壁から周辺地区へ』のなかに詳しい研究がある。ウジェーヌ・ダビは、1933年の『パリの郊外』のなかで次のように書いている。「子どもの頃私がよく遊びにいったビュットーーモンマルトルや大採石場(グランドコカリエ ル)の空き地には、今では兵舎や町工場、銀行、自動車修理工場といった殺風景な厳めしい建物が立っている。まさに「土地は金なり」である。家と家は互いに接し、もたれ合い、垣根を立てて太陽を遮っている。」それでもわずかの土地は緑地や広場、公園、スポーツ施設として残された。1953年2月7日の法令は最後の空き地を一掃し、安価で粗末な建築の大量生産が始まる。住人たちはその後、環状自動車道の騒音と大気汚染に悩まされることになる。
 いったん姿を消すと「ゾーヌ」は一種の神話に変貌し、自由の空間、社会の周縁というイメージに彩られる。同時にそれは「貧困」を体現する場でもあった。パリの場末を舞台にした映画は数多い。ジョルジュ・ラコンブの『空の音楽家』(ミシェール・モルガン主演)や短篇のドキュメンタゾー『ラ・ゾ!ヌ』の他、ブリッツ・ラングは『リリオム』のためにスタジオのなかに「場末」を再現し、ルネ・クレールは1957年、ルネ・ファレの小説『環状地帯』をもとに『リラの門』を撮っている。セリーヌ、サンドラール、オーギュスト・ル・ブルトンらは、その作品の大部分に場末を登場させている。今日では、貧困と暴力と治安の悪さというかつてのブルジョワにとっての「ゾーヌ」の神話を、パリの郊外全体が体現するようになった。中流階級にとって、周りを場末に囲まれて暮らしているという意識は今も消えていない。 (『パリ歴史事典』427-9頁)

La zone des fortifs, à Saint-Ouen
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Neuillyなどの西南部の郊外は豊かでパリ市内と連続しているが、その他の北東部の郊外はパリ市内とは断絶した貧しい層がすむ荒廃した場所になっている。

郊外の風景
東京国立近代美術館 『写真の現在3 臨界をめぐる6つの試論』
Photography Today 3: Resolution/Dissolution  2006.10.31-12.24

小野 規 Tadashi ONO
1960年生まれ。1991年アルル国立高等写真学校卒業。90年代からパリを拠点に活動、19世紀の先駆的な写真を参照系とした、パリやエジプトの風景をめぐる作品を発表。現在、パリ郊外に在住。
「Fieldwork from Periphery(周縁からのフィールドワーク)」
http://onotad.free.fr/page-fieldwork/fieldwork%20menu.html 
は、「Street 2」「View(with the tower)」「Study of tree」「Study for a garden」の四つのシリーズにより構成される。パリ郊外というローカルな「周縁」から、歴史・移民・自然など、グローバルな問題系をも見通そうとする連作。
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小野規
《Fieldwork from Periphery より
Street (avenue Pablo Picasso), Paris,》
2002-2005年

小野規インタビュー  〈周縁からのフィールドワーク〉をめぐって
まず、パリ郊外についてちょっと解説しましょう。
パリ郊外は、20区から成るパリ市の周辺に円環状に展開する広大な地域で、一般的にイメージされるパリとはまったく異なった都市風景が広がっています。 そこにはパリ市の倍以上の人々が暮らし、多くは安価な労働力を提供してパリの社会活動を底辺から支えています。 西部、南西部の一部を例外として、一般的に生活水準はパリ市内より低く、反対に失業率は高く、移民労働者および移民出身者が多く住んでいます。
パリ郊外は一般に「バンリュー」と呼ばれていて、中心としてのパリから社会的にも映像的にも排除されている地域です。 すでに「バンリュー」という言葉のなかに、ある土地から除外される、という意味合いが含まれています。
5年前からパリ郊外の北東部にあるセーヌ・サン・ドニ県(昨年11月の暴動が始まったところです)に住み始めたのですが、あらゆる面でパリ中心部との連続性の欠如を実感すると同時に、この「パリではない」といわれている地域にこそ、パリ、あるいはフランス社会の、さらにはヨーロッパという文明の現在形が色濃く現れているのではないか、と考えはじめました。
一見平凡きわまりないローカルな空間、しかしここにはヨーロッパ植民地の歴史や移民、都市への人口集中といったグローバルな諸問題へと思考を展開していくきっかけになりそうな微小なささくれというかざらつきがあって、それがとても気になっています。
「周縁」としてのパリ郊外は「中心」であるパリによってつくられ、見られ、表象されてきました(同時に見えなくもされました)。 「見ること」と権力は深く関わっていて、その「見る側」に写真も発明以来ずっと加担している。写真家が郊外で好まれないのも故なきことではありません。
「周縁からの」という言い回しには、こうした中心的視線にたいするオータナティヴなまなざしの可能性について考えたい私自身の立ち位置を確認する、という意味合いが込められています。
自身がアジアからの移民、つまり周縁的な人間であるということ。 そして特権的な旅人ではなく、実際に周縁の土地、パリ郊外で暮らし、ローカルな日常から思考していること。 これらを包括する「周縁からの」フィールドワークによって、周縁の風景を自らの風景として引き受けていくことが可能になるのではないか、と希望しています。  
また、そうして獲得された周縁からのまなざしは、中心からのそれとは違う、より柔軟で多様なものであると思います。 
中心主義的まなざしによって構築された今のヨーロッパは、オータナティヴな視線を獲得することによってしか現在の問題を解決できないでしょう。 周縁を客体ではなく自らの一部として引き受けるということは価値観の転換による苦痛を伴うはずですが、同時に世界へのパースペクティヴを大きく変化させる可能性を手にすることだと思います。

参考文献:堀江敏幸『郊外へ』白水社

〈パリの遊歩者〉
地図を片手にパリをさまよっていると自分が事件を解決するべく捜査している刑事か探偵、あるいは機会をねらっている犯罪者になったような気分になってくる。
19世紀のパリ 大量に流入してくる人口の都市滞留により貧民層を「危険な階級」と呼ばれ、パリは犯罪都市の様相を呈していた。
フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年7月23日 アラス - 1857年5月11日)フランスの犯罪者で後にパリ警察の密偵となり、ついには国家警察パリ地区犯罪捜査局を創設し初代局長となる。退職後、私立探偵事務所開設。犯罪者にして刑事にして探偵。
バルザックの『人間喜劇』のヴォートラン 徒刑囚・犯罪者・警察勤務

世界最初の推理小説
アメリカのエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809- 49年)
5編のうち3編がパリを舞台にし、C・オーギュスト・デュパンが解決する。
「モルグ街の殺人」:パリのモルグ街の殺人の謎を解く
「マリー・ロジェの謎」:失踪し死体となったマリー・ロジェの謎を新聞記事だけから解く。安楽椅子探偵の元祖。
「盗まれた手紙」:盗まれた手紙をめぐる攻防
(その他:「黄金虫」:暗号解読、「おまえが犯人だ」:最後に人々が一堂に会した場面で犯人を名指しする。) (丸谷才一訳『ポー名作集』中公文庫)
C・オーギュスト・デュパン(C. Auguste Dupin)は、エドガー・アラン・ポーの短編推理小説に登場する架空の人物で、世界初の名探偵といわれる。登場する事件は、『モルグ街の殺人』『マリー・ロジェの謎』『盗まれた手紙』の3編。
五等勲爵士。フランスの名門貴族で、シュバリエであったが、いくつかの不幸な事件により財産をなくす。パリ郊外サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところ(パリ市、フォブール、サンジェルマン・デュノ街33番地)にある崩れかけた古い怪しげな館に、事件の記述者である「私」と同居。
昼は戸を閉め切った真っ暗な部屋で強い香料入りの蝋燭に火をつけ、読書と瞑想にふける。夜はパリの街を徘徊して大都会の闇と影を愛する。
趣味は「夜自体のために夜に魅了されること」("to be enamored of the Night for her own sake")。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%91%E3%83%B3
「ポーの有名な短編小説『群衆の人』は、探偵物語のレントゲン写真のようなものである。探偵物語を包む衣服、すなわち犯罪が、この短編では欠落している。残っているのは道具立てだけ、すなわち追跡する者と、群衆と、ひとりの見知らぬ男であり、この男は、つねに群衆のただ中にいるように道を選んでロンドン中を歩き回る。」(ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」233頁)
ロンドンのカフェのガラス窓から外をゆくさまざまな人々を見ている語り手。ふと異様な人物に見つけ、その人物の後をずっと追い続ける。男は群衆のなかを歩き回る。人がまばらになると元気をなくすが人が群れなす所では元気になる。丸一日の追跡の後語り手は追跡をあきらめる。
窓の外を行き交う人にさまざま想像をめぐらす語り手。
群衆の中をブラウン運動のごとき歩行をしめす男。
シャルル・ボードレール(1821-67): フランス近代詩の父とよばれる。『悪の華』・『パリの憂鬱』。フランスで精力的にポーの翻訳と紹介をした。1952年「エドガー・アラン・ポー、その生涯と著作」
散文詩「群衆」(『パリの憂鬱』収録)「魂の神聖な売淫」:通りすがりの群衆の誰にでも感情移入できる詩人の想像力
「ボードレールが「大都市の宗教的な陶酔状態」について語るとき、名指しされないままであるその主体は、商品かもしれない。そして「魂の神聖な売春」は、それが愛との対置が意味を持つものなら、実際商品の魂の売春以外のなにものでもありえない。」(ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」245頁)
都市に押し寄せながれていくものに一瞬にして同価値となって、その流れとぶつかり合いによって大きくうごかされる、特殊な商品。交換価値の化身としての貨幣。

都会の中を歩き回る、遊歩者。彼が目にし、拾い集めた、さまざまな言葉、イメージ。その集積の中から、個々人では意識することができない、都市全体(社会全体)の姿が立ち現れてくるのではないか。街の風に吹かれながら、街を旅しながら、さまざまなイメージを切り取り拾い上げながら、それをつなぎ合わせて、街の全体の立ち上げることはできないだろうか。
ヴォルター・ベンヤミン(1892-1940)ドイツの評論家
彼の自伝的作品の痕跡を探ることで、彼の生まれ育ったベルリンというものを探ってみよう。どうようにパリという街をさまよい歩くことでパリという街の全体が現れるのを期待しよう。
ベンヤミン 水辺の記憶
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by takumi429 | 2007-08-05 16:28 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 11

都市の社会学 パリ 11
『パリの社会学』 Ⅵ 混成への賭け
社会混成la mixité social (さまざまな職業・階層・民族の人々がともに生活すること)ということが盛んにいわれる。
夜と昼では混成の形がことなる。
映画『アメリ』ではモンマルトルの丘の下の18区西部の混成の様子がうまく描かれていた。
18区西部の就労人口の社会的構成の変遷
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社長・幹部    □
中間職      □灰色
勤労者・労働者 ■

大ブルジョワは仲間内だけで固まって住んでいる。
例:イル・ド・フランス内でのCercle de l'Union interalliée会員の住居の変遷

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Cercle de l'Union interalliée:1917年に第2大統領Ferdinand Fochフランスの元帥がパリ33 Rue du Faubourg Saint-Honoréに作った、排他的な社交・食事クラブである。排他的な3100人の国際的なメンバーが商談などに用いたりする。
クラブ Club 
政治、専門職業、特定のレクリエーションなど、共通の関心をもつ者同士の交流や社交を目的として、定期的につどう人々の集まり。また、その活動の場。個人ないし複数の人が営利のために設立・経営するクラブもある。クラブの会員は人数が限定され、その資格もしぼられてくる。新規の加入は、会員の委員会による審査をへて、会員の投票できめるのが通例である。
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Neuilly-sur-Seine

大ブルジョワは7,8,16,17区とお隣のNeuillyの狭い所にかたまって住んでいる。


中流の幹部や知的職業たちは、都心の住民が歳を取り商売などをやめてできた住宅にひっこしてくる。しかし学区の問題があって、レベルの低い、移民が多いため、外国語をむしろ生徒が話しているような学校ができたり、そうした学校に子供が通うことには大きな抵抗がある。

棲み分け
貧困層がHLM(habitation à loyer modéré低家賃住宅)などの公営住宅に住む。
都心から西にかけての高いアパートに富裕層が住む。
パリの公営住宅
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中古アパートの1㎡あたりの売値
パリの平均:3989ユーロ(≒664,567円) 
東京23区 平均       899.900円 (2003年)
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〈パリの遊歩者〉
モスク(フランス語ではモスケ la Grand Mosquée de Paris)
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M 7 Place Monge
向かいには植物園
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アラブ世界研究所
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 サンルイ島の対岸(左岸)
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by takumi429 | 2007-07-31 00:04 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 10

都市の社会学 パリ 10
(8パリの社会学 Ⅴ より)
パリはブルジョワの街、左翼の街か?首都の逆説的選挙
2001年市会議員選挙
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灰色:右派議員が多数
黒色:左派議員が多数

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赤が社会党、緑が緑の党、青が保守党 (ル・モンドより)
http://www.lemonde.fr/web/vi/0,47-0@2-823448,54-920934@51-921954,0.html
パリの東部と(HLM低所得者集合住宅の多い)郊外で左翼が強い。
パリはブルジョワ化しているが、それは資産家であるよりもブルジョワ自由民によるものであるために、政府批判と左翼的傾向が継承される。

〈パリの遊歩者〉
サクレクール教会(Basilique du Sacré-Cœur)

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パリ,モンマルトルの丘の上に建つ巡礼教会。普仏戦争の敗北,パリ・コミューンとうち続く社会的混乱からの回復を願った国家的行事として建設が企画され,アバディー Paul Abadie(1812‐84)によるロマネスク・ビザンティン様式の案(1874)が採用された。その範となったのは,アバディー自身その修復に携わった南仏ペリグーのサン・フロン大聖堂である。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成したものの、礼拝のために開放されたのは第一次世界大戦の終わり、1919年のことであった故に、この寺院は皮肉にも普仏戦争以来のドイツに対する復讐の象徴として多くのフランス人から捉えられた。建設中は,パリの景観を損ねる中世建築のまがいものと批判されたが,今日ではパリに欠かせない名所となっている。現在は観光地として人々を魅了している。映画「アメリ」の撮影場所としても知られている。(Wikipediaより)
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サンチエ地区(レ・アールの北)
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入り組んだアーケードに服飾業者の店が建ち並ぶ(→昔の岐阜駅前の問屋街)
パリの服飾業の中心←脱植民地化(北アフリカのユダヤ人社会がパリにもどってきた)
ユダヤ人の出もどりはピエ・ノワールの出もどりより前
ピエ・ノワール (Pied-noir) とは、かつてフランス領北アフリカ、特にアルジェリアにおけるヨーロッパ系住民で、これらの地域の独立後、フランス内地に引き揚げてきた人を指す。
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服飾業界
(1)生地の卸売業者
(2)製造業者(モデルを考案し卸売業者のところで生地を選び、その生地を自分の工房で截(たったり)、截らえたりする。服飾業界の中心)
(3)請負業者 
路上 仕事場かつ運搬場かつ一時的倉庫
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パリ全体よりも高い、サンティエの外国人率(%) (1994年資料)
         フランス人  欧州出身外国人 欧州外からの外国人
サンティエ地区   72.8     7.8      19.4
パリ         84.1     4.8      11.1

歴史の古い中心部へ元の階層がもどってくる流れ
1982年から1990年にかけて
中級および上級管理職の上昇率 パリ全体24%、サンティエ地区43%
中国人の進出がめだつ 中国で造ってパリの持ち込み売りさばく

サン・ドニ通りには娼婦が立っている。
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by takumi429 | 2007-07-24 14:26 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 9

都市の社会学 パリ 9

Ⅳ パリの「高級化」と脱プロレタリア化(「パリの社会学より」)

「ブルジョワ化」という言葉はほんとうは適切ではない。バスチーユやグット・ドールの労働者に代わって住み始めたのは、世襲財産を相続したブルジョワではなくて、「ブルジョワ・ボヘミアン(自由民)」とも呼ぶべき中間層である。

労働者と勤め人の退却
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パリの脱工業化  灰色が第3次産業部門労働者 白色が工業労働者
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上流・平均クラスの上昇
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パリの区ごとの就労人口の社会労働構造の変遷(1954年から1999年)

上級・中間管理職と社長の、1954年と1999年の区ごとの割合
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ベルシー地区 元はワインの倉庫が建ち並ぶ地区
90年代に再開発 経済財政産業省の移転 国立図書館の移転など

ベルシー地区の人口変遷
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17区
南西から北東へ
65番Ternes街
66番PlaneMonceau街
67番Batignolles街
68番Epinettes街
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17区全体がブルジョワ化している。
良くなる住宅状況
人口の減少とともにパリは庶民的でなくなっていく。
半世紀で725000人の減少。人口密度の減少と住宅状況の向上。
戦後の不快
戦後はスラムが多く、人口は過密だった。
1954年180000世帯(16%)が部屋の外の各階で、30000世帯(3%)が中庭で、2800世帯が(ポンプや給水所などの)別のところで水をくんでいた。
フランス全体でも52%しか水道を引いていなかった。
風呂かシャワーがあるのは19%の世帯。(フランス全体では10%)
洗面所だけというのが10%の世帯。
あとの71%はinstallations sanitaires衛生設備[給排水を行う器具・設備で,便所・浴槽など]をもっていない。
1954年 375000世帯が一部屋で、うち168000世帯(45%)が二人以上。2162世帯が4人以上。
今日の快適さ
今日、状況明らかによくなった。1999年、パリの住居の94,5%、が浴槽かシャワーをもつ。フランス本土では、浴室を持っている住居は97,6%に達した。うち10%は2つの以上の浴室をもっている。
人口密度は1954年に270人/ha、1999年は202人/ha。

〈パリの遊歩者〉

バスティーユ地区 
以前は「フォーブル・サンタントワーヌ」と呼ばれていた。
1657年の特令(ルイ14世治下) 労働者・職人が自由に仕事することを許可
多くの中央・北ヨーロッパの木工が移り住む 家具の街となる。
中庭・通路(パッサージュ)で木を乾燥させた。
オーベルニュ出身者 鍋釜製造業者、ブリキ屋、古鉄商人

ブルジョワ化
大量生産・装飾を排した家具の流行・プラスチックなどの新素材の普及→家具職人10の1
職人の去った後に、広いアトリエをもとめる若いアーティストが入ってきた。
近年地区がさらに高級化し不動産投機で住めなくなるのをアーティストの団体が抵抗。
ラップ通り もとはオーベルニュ出身者たちが踊りに行った活気ある場所だった
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オペラ・バスティーユ
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フランソワ・ミッテラン大統領の大建設計画の一部1989年革命200周年祭に落成。
パスティーユ広場の再編成とパリ東部全体の再構築を目的にしている。
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職業別労働人口増減の推移(%)1954~1990年(サント・マルグリット行政地区)
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by takumi429 | 2007-07-21 23:26 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 8

都市の社会学 パリ 8
富裕な都市パリ(『パリの社会学』より )
首都パリ
科学研究
パリは科学の発展と大学生活に適している。
国立科学研究センター(CNRS)の勤務員が働く場所がパリ地域の支配的地位を今一度示している。2002年で43.8%の研究者がイル・ド・フランスで働いている。
それでも確かに、地方分散への努力は効果があったのである。1992年には研究職員の半分以上がパリ地方に研究所があったの。

パリは並はずれた地位を活動において持っており、その活動は社会的な領域、すなわち、政治と文化での地位を確固たるものにしている。
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パリ 経済的首都
経済活動の空間的・地域的特徴
9区とグラン・ブルワール、さらにシャンゼリゼと8区、さらにパリ西部のNeuillyヌイイへと大企業のオフィスと銀行、少し遅れてブルジョワ家族が進出してくる。
地域の特化とイメージの定着
8区オートクチュール、9区銀行と保険会社

株式市場上場企業のパリ集中

パリは優越の極?
ビジネス部門:銀行、金融、企業サービス
伝統部門:宝石、既製服製造業、ホテル業
頭脳部門:編集、出版、テレビ、情報
三部門のパリ集中
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パリ、金持ちの街
ISF (Impôt de solidarité sur la fortune)
ISF(裕福連帯税):資産から負債を引いた純資産が750,000ユーロ(約1.2億円)を超える世帯に課せられる。
ISFを払う世帯がパリは多い。
しかしそれ地区の差がはげしい。パリの中心と西(7,15,16区)でパリの課税者の46%。それに対して、11,12,19,20区では8.7%にすぎなかった。富はパリの西の地区に集中している。
東西の差は郊外に行くともっと大きくなる。
ベルサイユがあるイヴリーヌ県(Yvelines)では、地域の24%の住民の24%が富裕税を課せられているのに対して、セーヌ=サン=ドニ県(Seine-Saint-Denis)では住民の4.3%しか課税されなかった。

良い地区に住む人間は良いパリ市民に良い地区には良い教育機関があり、進学もしやすい。
貧しい地区の学校は崩壊しつつあり、まともな教育もうけられない。(良い地区に住む金持ちの子供とうまく越境入学する手づるをもつ教育関係者の子供だけが良い教育を受けられる)。こうして社会的な格差が再生産されていく。

〈パリの遊歩者〉
パリの一戸建て邸宅街villa @16区
パリではめずらしい一戸建てが並ぶ私道。住民以外は進入禁止の場所もある。
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カステル・ベランジェ エクトル・ギマール設計 → アール・ヌーボー
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黄金の三角 シャンゼリゼ大通りとその南西の道とでできた三角形
高級ブティクが立ち並ぶ
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観光客や庶民の殺到による「大通り化」:マック・フナック(書店・デスク・家電店)などの大衆店の占拠
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サン・ジェルマン・デュプレ
学生の街から高級店の街へ
カフェ・フローラ
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サルトルが住んでいたカフェ、デュ・マーゴ、モーニングセットが18ユーロ!
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アール・ヌーボーはデザイン史のひとつとしてみることができる。デザインを考える時、私たちがおちいりがちなのは、デザインといのは表面的な見てくれの良さをでっちあげることだというような偏見にとらわれてしまうことだ(私みたいなつまらない人間だけのことかもしれないけど)。しかしデザインというのはもっと本質的な品物と人間との関係についてのコンセプトというかビジョンをその内にもっていて、それがなくては人の心をうつようなデザインにはならない。そのことをよく示しているのが次の工業デザインの定義だと思う。

「インダストリアル・デザインの定義
トーマス・マルドナード
「インダストリアル・デザインとは工業製品の形の質のを決定することを究極の目標とするひとつの活動である。ここで形の質というのは、外面的な特徴を指すのではなく、ひとつのモノを生産者並びにユーザーから見て、首尾一貫性のある統一体へと変えるような、構造的、機能的諸関係のことをいうのである。単なる外面的な特徴というものは、しばしばモノをうわべだけいっそう魅力的にしようとしたり、あるいは構造上の欠陥を偽り隠そうとする意図の結果であるにすぎず、したがってそれはモノと共に生まれ、モノと共に成長した現実をあらわすのではなく、偶然的現実をあらわすにすぎない。これに反して、ここでいうモノの形の質というのは、常になんらかの仕方で形態形成のプロセスに関与する諸要素、つまり機能的、文化的、技術的、経済的諸要素の調整および統合の結果である。形の質は、内部の組織に対応する現実、つまりモノと共に成長した現実を形づくることなのである。」(阿部公正監修『世界デザイン史』美術出版社13頁)

デボラ・シルヴァーマン『アール・ヌーヴォー フランス世紀末と「装飾芸術」の思想』
フランスのアール・ヌーヴォーの歴史・社会的背景
(1)自由主義的な第3共和制の、貴族的エリート層との妥協 と 
反社会主義の旗印の下への国民的連帯の追求を含めた 政治的再編
(2)激しさを待つ国際競争時代におけるフランス市場の優越をもたらす源泉として、最先端の産業技術から豪華な工芸への、支配エリート層による経済上の方向転換
(3)公的領域と私的領域の境界混乱をもたらす「新しい女」をめぐる社会問題
(4)視覚的形態の概念に深い含意をもたらす、現代性と新しいフランスの臨床心理学の関係
  
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by takumi429 | 2007-07-20 15:36 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学パリ 7

都市の社会学パリ 7
オルセー美術館と印象派

19世紀後半の消費革命により、フランス、とりわけパリの生活は、富裕な商工業者(ブルジョワ)とそれに付随する小経営者・上級官吏・給与生活者・年金生活者(プチ・ブルジョワジー)とその家族の生活を基調とするものになった。
フランス・ブルジョワ社会の成立をうながした第二帝政の崩壊直後のパリコミューンはフランス政府軍により壊滅させられ(約3万人の虐殺)、パリはよりいっそうブルジョワ社会として第一次世界大戦(1914年)までの「よき時代ベルエポック」を謳歌することになる。
印象派の絵画はこうしたパリを中心としたブルジョワの余暇社会をなかで生まれた視線をもちいてその社会や自然を描いたとみることもできる。

オルセー美術館
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王政が最終的に打倒された2月革命(1848年)から第一次世界大戦(1914年)までの美術品をおさめているのが、オルセー美術館である。(原則としてそれ以前の美術品はルーブル美術館、それ以後はポンビドゥー・センターにおさめられている)。オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設された鉄道駅舎兼ホテルであった。それを改修して1986年に美術館として開館した。駅舎だったために鉄とガラスでできた明るい建物は、建物の奥の5階にある印象派の多くのコレクションと見事に調和している。また19世紀の写真、グラフィック・アート、家具、工芸品なども展示されており、19世紀後半「世界の首都」とよばれたパリの文化を堪能することができる。
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ポンビドゥー・センター

ポンピドゥー・センター(Centre Pompidou)は、フランスの首都・パリにある総合文化施設で、正式名称はジョルジュ・ポンピドゥ国立美術文化センター(サントル・ナシヨナル・ダール・エ・ド・キュルチュール・ジョルジュ・ポンピドゥCentre National d'Art et de Culture Georges Pompidou)という。レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースが設計し、1977年開館。名前は、フランス第五共和政の第2代大統領ジョルジュ・ポンピドゥーにちなんでいる。ポンピドゥー・センターには国立近代美術館、産業創造センター、音響音楽研究所IRCAM、公共図書館が入っている。
美術館としては国立近代美術館に20世紀の美術が展示されている。現在は美術館の中の中二階にあたる部分にマチス、ピカソからボイスまでが展示されており、一階にあたる部分にはもっぱらビデオ・アートが展示されている。
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印象派
アカデミーとサロン
(Wikipediaより)
フランス学士院(-がくしいん Institut de France)は、フランスの国立学術団体。17世紀に絶対王政のもと、アカデミー・フランセーズなどの団体(王立アカデミー)が設立されたが、フランス革命後の1793年、いったん廃止された。1795年10月25日にフランス学士院として創設され、現在はアカデミー・フランセーズ及び4つのアカデミーで構成される。
•アカデミー・フランセーズ (1635年設立)
•碑文・文芸アカデミー (1663年設立)
•科学アカデミー (1666年設立)
•倫理・政治学アカデミー (1795年設立)
•芸術アカデミー (1816年設立)
芸術アカデミー
もともとアカデミーは、徒弟制のもとで工房、職人組合など属していた画家や彫刻家、あるいは音楽家達が、芸術は知的な学問分野であり旧弊な制度は廃されるべきだとして結成した自由な集まりであった。やがて彼らは国王直属の機関となり、ヨーロッパに冠たる芸術国家を作ろうという国家の芸術政策のもと、芸術家の育成・表彰・展示といった特権を独占する。フランス革命前に、芸術関係では次の3つの王立アカデミーがあった。
•絵画・彫刻アカデミー(1648年、シャルル・ルブランらにより設立)
•音楽アカデミー(1669年設立)
•建築アカデミー(1671年設立)
フランス革命議会により、1791年王立アカデミーは廃止されたが1795年に再興。王政復古期の1816年に「芸術アカデミー」に統合された。
アカデミー制度の中心になるのは、修業方式でない方法で芸術家を育てる教育機関(エコール・デ・ボザール)、若手の芸術家から優秀な者を選びイタリアなどへの学習旅行を贈るコンクール(ローマ大賞)、自分達の発表の場を自分達で確保する展覧会(サロン)の3つである。
エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts, École nationale supérieure des Beaux-Arts)は19世紀パリに設立されたフランスの美術学校である。
17世紀にフランス王立アカデミーの付属学校が設置された。1819年に、絵画・彫刻・建築の部門が統合され、国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)となった。ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされた。(古典主義:動的で劇的で過剰な装飾性をもつバロック(語源は「ゆがんだ真珠」という意味のポルトガル語)に対して、ギリシャ・ローマの古典古代を理想とし、調和と均衡を理想とする)
1968年の5月革命をきっかけに大学の改革が行われ、エコール・デ・ボザールも分割されたが、パリのエコール・デ・ボザールとして続いている。
ローマ賞(Prix de Rome)は、芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度である。1663年、ルイ14世によって創設され、1968年廃止されるまで継続した。
1663年創設当初のローマ賞では建築、絵画、彫刻、版画の各賞が設けられ、王立アカデミーの審査により優秀者が選出された。このうち第一等、第二等受賞者が、コルベールによりローマ・ボルゲーゼ庭園(Villa Borghese)内のメディチ荘(Villa Medici)に設立された在ローマ・フランス・アカデミー(Académie de France à Rome)に送られ、彼らはそこで一定期間イタリア芸術勉学の便を得た。1803年の制度改革により芸術アカデミー会員の審査という形式が確立し、また音楽賞が追加された。
制度が確立した19世紀にあってローマ賞は各部門若手芸術家の登竜門として機能した。しかし、終身会員であるアカデミー会員がその出身分野を問わず全部門賞審査の投票権をもつことから、「旧い世代」に属する彼らの審査基準が保守的であり、新奇な芸術傾向に対して過度に敵対的であることへの批判、建築、絵画、音楽など他の芸術分野の審査を行えるのだろうかとの疑問、あるいは審査員は愛弟子を優遇しているのではないかとの疑惑がたびたび提起された。
受賞者中にはもちろん後世名を成した芸術家も多いが、必ずしも大成した者ばかりでないこと、一方で絵画部門でのドラクロワ、マネ、ドガ、作曲部門でラヴェルなど、ローマ賞にたびたび挑戦するも認められなかったが、後に名声を得た芸術家も多いことが、こうした権威批判を裏付けている。
フランスにおける反権威主義運動の頂点となった1968年のいわゆる五月革命後、ローマ賞はアンドレ・マルロー文化大臣により廃止されたが、1971年からは「奨学金給付生(pensionnaires)の選定」という形でなかば復活しており、この奨学金給付生も「ローマ賞受賞者」と呼ばれることが多い。現在、給付生は18か月ないし2年間メディチ荘への滞在が認められる。ただし現在の運営主体は芸術アカデミーでなく、フランス文化省管轄下の法人組織として財政上の独立性を担保された在ローマ・フランス・アカデミーである。

サロン(仏:Salon)とは、もともと応接室などの部屋を意味する言葉である。
1.応接間、談話室など。
2.フランス語で宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界をサロンと呼んだ。主人が、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しんだ。
3.(フランスで)展覧会のこと。元々芸術アカデミーが開催する美術展(官展)がルーヴル宮殿の大サロンで開催されていたことに由来する。ディドロの「サロン評」は美術評論の始まりといわれる。
高階秀爾『フランス絵画史 ルネッサンスから世紀末まで』講談社学術文庫
アカデミーの美学 は、絵画を、何よりもまず理性に語りかけるものとする考えにもとづいている。・・・理性に語りかけるということは、絵画のびを支えるものとして、合理的な基準を重んずるということである。画家は事故の絵画表現を、感覚的なものではなく、合理的な基準にしたがわせなければならなかった。このようにして、遠近法、数学的人体比例、幾何学的な安定した構図、正確な明暗表現などがアカデミーの絵画の基礎となった。・・・そのような規則や基準を学ぶための手段としてアカデミーが画家たちに要請したのは、優れた範例、すなわち古代(ギリシャ、ローマ)やルネッサンス(特にラフェエロ)の作品の模写ということであった。これらの範例を学ぶことによって、画家は正しい基準を養うことができる。もちろん、アカデミーの理論も現実のモデルの写生を否定するものではない。・・・しかしながらアカデミーの理論家たちによれば「模倣」すべき対象は「ありのままの自然」ではなく「あるべき自然」であった。人間にしても風景にしても、現実の姿は不完全であり、正しい基準にしたがってはいない。それ故に、まず優れた先例に学んで、そこから得られた正しい基準にのっとって自然を修正することによって「真の理想」が達成されることになる。・・・
また、その同じ合理主義的な美学は、デッサンを色彩よりも優位に置く考え方を生み出した。デカルトが語った通り、この現実の世界の本質は「広がり」であり、色のない「広がり」はあっても、「広がり」のない色はあり得ない。したがって、線や形は色彩よりいっそう本質的なものであり、それ故に絵画においてもいっそう重要なものと考えられた。このようにして、過去の優れた範例を手本としてまずデッサンの習練を積み、正しい基準に基く形態の把.握や正確な陰影法を十分に身につけ、次いで人体モデルなどの現実の対象を「正しく」写し出す訓練を重ね、最後に色彩の表現を学ぶという、今日にまで続いている絵画修業のプログラムがこの時期に確立されたのである。
 さらに、絵画は理性に語りかけるものであるから、当然ある明確な主題ないしは内容を持たなければならない。単に感覚的な表現だけでは絵画として不完全なものと考えられ、いかに技術的に優れていても、格が低いものと見倣された。この考え方によれば、神話的主題や宗数的主題も含めて、ある物語的(あるいは寓意的)内容を持つ「歴史画」こそが、最も高貴な絵画ということになる。歴史画以外のものも、描き出される対象によって、肖像画、風景画、静物画などに分類されるが、人間を描く肖像画は、自然を描く風景画よりも格が上であり、無生物を対象と寸‐る静物画は風景画よりも一段と下のものだと見倣された。すなわち、ジャンルによる絵画の価値の序列が成立したのである。(106-9頁)
藝術家の養成においても、アカデミーの役割は決定的であった。当時の画家にとって、正規にモデルを使って勉強できる場所はアカデミー付属の王立絵画学校しかなかった(もちろん、人間のモデルを使うことができるのは、範例の模写や石膏デッサンなど、必要な課題を終えてからである)。そしてアカデミーに正式に入会を認められるためには、普通には「大賞」受賞、資格認定、入会作品の審査という三つの段階を経なければならなかった。いずれの段階においても、審査するのはアカデミーの会員たちである。
「大賞」というのは後に「ローマ賞」と呼ばれるようになるもので、絵画学校の課程を終えて優れた卒業作品を提出した生徒に与えられる。「大賞」を得るとイタリアに留学する資格が得られ、普通の場合ならローマのフランス・アカデミーで学ぶことになる。後には、この「大賞」受賞を目指す学生だけを待別に教育する特待生教育の学校まで創られた。イタリアから帰ってその成果を示す作品が十分に優れたものと認められれば、アカデミー会員への有資格者(準会員)として承認され、入会作品の課題が与えられる。課題作制作の期限は普通一年で、その入会作品が審査を通って受け入れられれば、やっとアカデミーの会員になれるのである。もちろんこれは一般的な場合で、時には例外もあり得る。(134-5)
 ルーブル宮殿の「サロン・カレ」(方形の間)で開催されたため、1737年以降「サロン」と呼ばれるようになった公式の展覧会も、やはりアカデミーが主宰するものである。18世紀の「サロン」は、19世紀のそれとは違って公募せいではなく、出品はアカデミーの正会員、準会員にかぎられていたから、自分の作品を世に知らしめるためには、やはりまずもってアカデミーに入る必要があった。(136)
アカデミーが主宰する官設の展覧会であるサロンも、19世紀になってその性格を大きく変えた。旧体制の時代においては、サロンに出品できるのはアカデミーの会員(正会員、準会員)にかぎられていたのに対して、革命後は、自由と平等の理念に基づいて、サロンは万人に開かれたものとなったからである。もっとも万人に開かれたと言っても、現実問題としては誰でも作品を並べることができるというものではない。主として実際の会場の都合から、特に応募者が急増した1830年代以降、作品を提出するのは誰でも可能だが、それが展覧会場に並ぶかどうか審査という厳しい関門を通らなければならないという事態が生じてきた。

1863年ナポレオン3世が(サロン)落選者展の開催を命ずる。マネ『草上の昼食』
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ボードレール『現代生活の画家』
「群集こそが彼の領域である。大気が鳥の領域であり、水が魚の領域であるように。彼の情熱にして職業であるもの、それは群集との婚姻である。完全な遊歩者、情熱的な観察者にとって、数の中、揺れ動くものの中、運動の中、束の間と永遠なものの中に住居を定めることは広大な喜びである。我が家の外にいながらにして、どこにいても我が家にいるように感じる、世界を見る、世界の中心にいる、世界に隠れ続ける、そのようなことが、こういった自由で、情熱的で公平な精神が持つ、言語によってでは不器用にしか定義し得ない、慎ましやかな喜びの幾つかなのである。観察者とは、どこにいても自己の無意識を享受する王族なのである。生命の愛好者は、世界を己自身の家族とする。あたかも美しい性の愛好者が、既に見つけだした美女や、これから見つけ出す、もしくは見つけ出すことの出来ないであろう美女たち全てを、彼の家族とするように。もしくは絵画の愛好者が、キャンバスに描かれた夢によって魔法をかけられた社会の中で生きているように。そのようにして、普遍的な生を愛する者は、電気の巨大な貯蔵庫の中に入るように群集の中に入っていく。この人物を、群集と同じくらいに巨大な鏡にたとえることが出来るだろう。もしくは意識を授けられた万華鏡にたとえることが出来るだろう。その万華鏡は、動きの一つ一つにおいて、多様な生と、生の持つあらゆる要素の動的な魅力とを体現するのである。それは非我に飽くことのない自我である。瞬間ごとに非我を、生そのものよりも生き生きとした、常に定まらることのない束の間の姿に変えて表現するのである。ある日G氏は、力強い眼差しと、喚起力を持った仕草とでとある会話を輝かしながらこう言った、「あらゆる能力を飲みこむような、実に明確な性質の怒りに苦しまないような人間は、群集の懐で退屈するような人間は、皆愚か者である!そして私はそのような愚か者を軽蔑する!」と。・・・
そのようにして、彼は行く、走る、そして探す。何を探しているのだろうか?間違いなくこの人物は、つまり私が描いてきたような、活発な想像力を授けられ、常に人間たちという大きな砂漠を横切って旅を続ける孤独者は、単なる遊歩者よりも高尚な目的を持っている。その場の状況次第の束の間の快楽とは異なる、より全般的な目的を持っている。彼が探しているその何かを「現代性」と呼ぶことをお許し願いたい。というのも、問題となっている観念を表現するのに、これ以上に相応しい言葉が存在しないのである。彼にとって重要なのは、流行の中から、流行が歴史性のうちに持ちうる詩的なものを取り出すこと、移り変わり行くものの中から、永遠を引き出すことなのである。今日の絵画の展示会に目を向けた時、我々が驚かされるのは、あらゆる主題に過去の衣装をまとわせようとする、芸術家たちの一般的な傾向である。ほとんど全ての芸術家たちがルネッサンスの流行や家具を取り入れているのは、ちょうどダヴィッドがローマ時代の流行や家具を用いていたのに似ている。しかしながら、そこには一つの違いがある。それは、ダヴィッドはとりわけギリシャ・ローマ的な主題を選んだので、そこに古代の衣服を着させるしかなかったのに対して、昨今の画家たちは、あらゆる時代に当てはまるような一般的な主題を選びながらも、中世やルネッサンスやオリエントの衣服をそこにまとわせることに固執しているという点である。これこそ疑いようのない怠惰の証である。というのも、ある時代における衣服に関するあらゆるものが醜いと宣言してしまうことは、そこに含まれる不思議な美を、たとえどれだけそれが小さく微かなものであろうとも、抽出しようと努力するよりも、ずっと都合が良いのであるから。現代性とは即ち、移り変わり行くもの、束の間のもの、偶然のものである。これが芸術の半分を占め、残りの半分が永遠なもの、不動なものである。古代の画家たちにも、それぞれの現代性があった。古代から我々の手元に残されている大多数の美しい肖像画には、その時代の衣装が着せられている。そういった肖像画が完全なまでの調和を得ているのは、衣装や、髪型や、更には仕草や、眼差しや微笑みさえもが(各時代には、それぞれの仕草と眼差しと微笑みがある)完全な生命力を持った一つの総体を作り上げているからである。この移り変わり行く要素、束の間の要素は、その変容が実に頻繁ではあるが、この要素を軽蔑したり、それ無しで済まそうとしたりすることは出来ない。この要素を消し去ってしまえば、原罪を犯す前の唯一の女性が示していた美のような、中傷的で定義しがたい美に陥らざるを得ないだろう。その時代が要求する衣装を、別のものによって代替してしまうのは、それが流行の求める仮装であるというような場合を除けば、言い訳の出来ない過ちを犯すことである。それゆえに、18世紀の女神や妖精やトルコ王妃の肖像画は、精神的に似通っているのである。」
遊歩者(Flâneur) この言葉(「散策する」という意味のフランス語のflânerに由来)は、シャルル・ボードレールが用いて、他人を観察しながら群衆のなかを歩き回ることを楽しむ都会人を指した。ボードレールは『現代生活の画家』のなかで、親密でありながら冷淡で、社会階層の相違に非常に敏感な現代の眼差しを示すものとして「遊歩者」という語を使用した。芸術ではコンスタン・ギースの作品に見られるような風俗スケッチがこれに対応し、すばやいスケッチと鋭い観察とが結びあわされている。それは印象主義によっって形をとることになる自然主義的な様式のための新たな公式となった。(ジェームズ・H.ルービン著/太田泰人訳『岩波世界の美術 印象派』427頁)
1864年エドゥワール・マネ『オアランピア』をサロンに出展。
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アレクサンドル・カバネルの代表作『ヴィーナスの誕生』との比較。
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奥行きの欠如(否定):平板な塗り方、歴史(物語)性の否定。アカデミーの美学の否定。
現代の生活の諸相を描く。
そのために同一のモデルにいろんな衣装を着せて使うこともいとわない。(バルザックの人物再登場法を想起させる)

クロード・モネ「タンタドレスのテラス」
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「このようにモネの作品は、近代的商業の富とそれがもたらす余暇とを、最新の趣味による明快な線と実用的な読解性(さらには魅力的な色彩)をもった視覚的な形式に統合することによって、自分が生きている時代の一貫したヴィジョンを表現しているのである。彼は知らず知らずのうちに、領有する豊かな領地の前でポーズをとる荘園領主を表した記念的、祝賀的絵画の、資本主義的現代版を作っていたといえる。(ルービン103)
「この画家に確実に見いだされる1つの特徴は、世界を視覚的なスペクタクルとしてあらわすことによる遠隔化の効果である。」(ルービン121)
観光ガイドにのっているような景勝地を描く。余暇社会がもたらす視線。
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エドガー・ドガ
「ドガは、同時代の余暇生活にたいする鋭い観察を基盤とした、印象主義的の都会的次元を明確にした。その独創的なな空間構成や実験的な技法は、自然主義的な効果の背後に計算された人工的な手段があることを強調しており、それによってドガの作品に自覚的で主知的な調子を与えている。」(ルービン179)
古典的手法で現代の都会生活を描き出すことからドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。
身体のねじれや開きの方向によって空間の構成がいかに変わっていくかを、バレリーナや娼婦をつかって実験的に研究する。
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競馬はイギリスに亡命した貴族たちが持ち帰った上流階級の新風俗であった。
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カメラのスナップショットから影響うけた斬新な画面の切り取り
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パトロンである紳士がバックステージに立っている。この頃、踊り子は金持ちをパトロンをもつのが当たり前となっていた。

ケルボット

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オスマンのパリ改造後の都市風景

ピエール・オーギュスト・ルノワール画
「La Loge(桟敷席)」1874年
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オペラ座の風景 観客席をながめて女を物色する男

デュマ・フィス『椿姫』
「〔高級娼婦〕マルグリッドは芝居の初日にはきっと欠かさず見に行った。そして毎晩、劇場や舞踏場で夜をふかした。新作が上演されるたびに、きまって彼女の姿が見られたが、そういうときには、必ずといっていいほどに、1階の桟敷の前には、三つの品がそえらえてあった。観劇眼鏡と、ボンボンの袋と、椿の花束が。この椿の花は、月の25日のあいだは白で、あと五日は紅だった。」(新潮文庫21頁)。
劇場の桟敷で、「店を張る」高級娼婦。椿の花は「開店」・「閉店」の札代わり。
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by takumi429 | 2007-07-18 14:29 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 6 

都市の社会学 パリ 6 
〈パリの遊歩者〉
消費の殿堂 デパート
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ボン・マルシェ百貨店(-ひゃっかてん、Le Bon Marché)はフランス、パリ7区のバック通りにある世界最初の百貨店である。もともとはパリの流行品店のひとつだったが、1852年にアリスティッド・ブシコー(Aristide Boucicaut)によって買い取られ、夫人マルグリット(Marguerite)とともに、バーゲンセールなどの百貨店としてのシステムを確立、発展していった。
1869年、店舗を改装するもブシコーは気に入らず、新たに建築家L. A. ボワローとギュスターヴ・エッフェルを雇い入れ、パリのオペラ座をモデルに再改装を行い、1887年に完成した。
ブシコー夫妻のボン・マルシェ百貨店における派手なショーウィンドウと大安売りの季節物で客を呼び込む手法は、パリ万国博覧会を参考にしたと言われている。巨大で立派な店舗に毎日客が押し寄せるさまを、作家エミール・ゾラは百貨店をモデルにした小説の中で「消費信者のための消費の大伽藍」(« Une cathédrale de commerce pour un peuple de client »)と呼んだ。
1984年、百貨店はLVMHグループに買収。セレクティブ・リテーリング部門の傘下となった。
本館と食料品館に分かれている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ボン・マルシェの食料品館はすばらしい。料理を作らない私でもうきうきしてきます。

マガザン・デュ・プランタン(Magasins du Printemps)は、フランスのパリの本店を置く百貨店。プランタンはフランス語で春の意。
オ・プランタンはギャルリ・ラファイエットのように、他の百貨店を備えたパリ9区のオースマン大通りに本店がある。また、支店としてはフランスのいたる所や、海外にもアンドラと日本の東京(プランタン銀座)、韓国のソウル、サウジアラビアのジッダにもある。かつてはアメリカ・デンバーにも店舗があったが、閉鎖された(現在はクエスト・ダイアグノスティックスのオフィスになっている)。現在はグッチの親会社であるピノー・プランタン・ルドゥート社(PPR)が運営されている。
歴史
オ・プランタンはポール・セディーュの設計とジュール・ジャリュゾにより1865年に完成。ガラス工芸のアール・ヌーヴォーの丸い屋根に囲んだ近代建築な百貨店に仕上げた。1975年には、建物と丸い屋根が歴史上の記念碑として登録された。
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ギャラリー・ラファイエット(Galeries Lafayette) 1895年創業。オペラ座の裏
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オペラ座を意識した内装建築

産業革命
機械の発明などの技術革新を原動力とし、手工業から機械制大工業への移行を中心とした、その国全体の経済的・社会的大変革。これにより、資本主義的生産様式が確立。〔狭義では、十八世紀後半から十九世紀初めにかけて イギリスで行われたものを指す。日本では、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて行われた。industrial revolution の訳語。「工業革命」の方が原義に近い〕

消費革命 consumer revolution
大量生産の随伴現象としての大量消費mas consumptionが世界全般に広く行き渡るようになること。ロザリンド・ウィリアムによれば、19世紀後半のフランスこそが、購買力の展でも商品の多様性の点でも、消費革命の時期である、とされる。この時代にフランスでは万博博覧会が連続的に開催され、デパートが興隆し、映画が発明され、電気照明が発達して、商業がこれらがもたらしたファンタジーを利用することで、大衆消費という新しい消費モデルが形成されたという。

ロザリンド・H. ウィリアムズ『夢の消費革命―パリ万博と大衆消費の興隆』 (吉田典子訳),工作舎、1996年)

国際博覧会(万国博覧会)
国際博覧会条約によれば、国際博覧会とは、「複数の国が参加した、公衆の教育を主たる目的とする催しであり、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう」とされている。

1851年 ロンドン万国博覧会(第1回):ロンドンのハイドパークで開催。クリスタル・パレス(水晶宮)は鉄とガラスで造られた当時の画期的な建造物であった。

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1855年 パリ万国博覧会(第1回):入場者数500万人。
1867年 パリ万国博覧会(第2回):幕府及び薩摩藩・佐賀藩が出品。水戸藩の徳川昭武、渋沢栄一らがパリに赴く。
1878年 パリ万国博覧会(第3回):シャイヨー宮が建設。エジソン(米)の蓄音機や自動車が出品。
1889年 パリ万国博覧会(第4回):フランス革命100周年を記念するエッフェル塔が建設され、後にパリのシンボルとなる。
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1900年 パリ万国博覧会(第5回):過去を振り返り新しい20世紀を展望することを目的とした。 展示会場としてグラン・パレ、プチ・パレがつくられた。
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グラン・パレの内部 鉄とガラスの輝ける商品の空間
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デパートは博覧会での商品を輝かせる手法を屋内に取り込むことによって成立した。


「消費の殿堂」「恒常的祝祭空間」としての百貨店の登場
ボン・マルシェ アリステッド・プシコーとその妻マルグリット 1972年第1期工事完成
                              全館完成は1887年
販売技術革新
入店自由/定価明示/大量陳列/返品自由/現金販売/カタログ通信販売
薄利多売方式の徹底
古い商業慣習の打破
経営革新者としてのブシコー
低収益高回転の営業方針
バーゲンセールの発明
目玉商品の導入
返品制
[経営技術革新]
売場主任による独立売店管理
歩合給システムの採用
昇進システム・社員教育の導入
退職金・養老年金制度の導入
社員持株制度の導入

資本主義社会を支える社会制度としての百貨店
近代的経営の基礎づくり
消費を創造する欲望喚起装置
都市生活文化の伝道者
(小川周三『現代の百貨店』日経文庫)

世界最初のデパート小説
エミール・ゾラ作、吉田典子訳『ボヌール・デ・ダム百貨店 — デパートの誕生』 藤原書店 2004年 ISBN 4894343754(原題 Au Bonheur des Dames, 1883年)
デパート(ボン・マルシェ、ルーブル、プランタン)を調査して執筆
あらすじ(以下のあらすじは、ルーゴン・マッカール叢書についてすぐれたサイトhttp://syugocom.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/germinal/lecture/rougon-macquart/volume11/ SYOUGO.COM 2007年5月24日からの引用させていただいた)

両親を失った後、叔父を頼ってヴァローニュから二人の弟を連れてパリへ出てきた少女ドニーズ・ボーデュは、周囲の小さな老舗を押しのけて華々しく発展しているデパート「ボヌール・デ・ダーム」に圧倒される。叔父の店への就職を断られたドニーズは「ボヌール・デ・ダーム」の女店員となり、つつましく働き始める。
 ドニーズは、求職の日に偶然出会ったボヌール・デ・ダームの支配人、オクターヴ・ムーレに対して言いしれぬ畏れを抱く。オクターヴは打算にたけた世俗的な男で、その才能によってボヌール・デ・ダームを大商店に発展させたのだった。オクターヴは銀行家に人脈のある貴婦人アンリエット・デフォルジュの愛人となり、事業拡大資金の調達を画策していた。
 垢抜けないドニーズは、はじめ女店員たちの間でいびられて苦しむが、友人ポーリーヌに支えられて懸命に働く。同郷の青年アンリ、ドニーズが密かにあこがれるユータン、ドニーズを敵視する女店員クララたちとの関わりを交えながら、ドニーズの生活は続いていった。しかし、彼女によこしまな欲望を抱く守衛のジョーブを拒んでその反感をかったドニーズは、ジョーブの密告がもとで解雇されてしまう。
 解雇されたドニーズは洋傘商ブーラの店で働きながら、廉価多売型のデパートの登場によって経営を圧迫され、破産に追い込まれてゆく小商店の実態について知る。これらの小規模経営者の間ではボヌール・デ・ダームに対する反感が高まり、形勢逆転のための廉価競争をしかけることが目論まれていた。
 やがてオクターヴのはからいでドニーズは新装したボヌール・デ・ダームに復帰する。次第に都会に慣れ、女店員としても力量を発揮しはじめたドニーズをオクターヴは軽い気持ちで誘惑しようとするが、貞淑観念の持ち主であるドニーズはこれを拒む。オクターヴの心に、巨万の富をもってしても言うなりにならない女への戸惑いが生じ、オクターヴはドニーズに本気で恋するようになった。
 オクターヴに裏切られたアンリエットはドニーズに敵意を抱き、さらにオクターヴを恨む。アンリエットは、ボヌール・デ・ダームの重役で独立して競合店を建てようと企んでいるブーテマンと結託し、新しいデパート「四季」のほうに出資するようアルトマン男爵を説き伏せようとする。
 ボヌール・デ・ダームでのドニーズの地位は順調に向上し、やがてライバルの店員たちを差し置いて子供服売場の主任にまで昇進する。ボヌール・デ・ダームはオクターヴの廉価多売の戦略で小商店との価格競争に勝ち、ライバル店「四季」の火災事故も幸いして驚異的な売上げを達成する。しかしデパートの経営がどれほど成功しても、オクターヴのドニーズへの恋は一向に報われず、オクターヴはドニーズが別に愛人を持っているのだろうと誤解する。オクターヴに対して大きな発言力を持つようになったドニーズは、ボヌール・デ・ダームの店員たちの待遇に同情し、オクターヴに提案して労働環境の改善を実現させる。同時に彼女は、オクターヴへの畏れが、オクターヴへの愛情であったことに気づく。
 ボヌール・デ・ダームは第二次の拡張工事を迎える。オクターヴの求愛をしのぎきれないと感じたドニーズは新装開店大売り出しの日を最後に退職する決意を固める。貴婦人たちの欲望をあまねく刺激した大売り出しは大成功に終わり、ボヌール・デ・ダームは未曾有の売上高を計上するが、オクターヴはドニーズとの別れを思って打ちひしがれる。その姿に打たれたドニーズはついに屈し、オクターヴへの愛を告白して結婚を承諾するのだった。

『ボヌール・デ・ダム百貨店』作中人物紹介 (邦訳付録)
オクターヴ・ムーレ この物語の主人公。ボヌール・テ・ダム百貨店の社長で、アイデアに富んだ野心家のプレーボーイ。大量の魅惑的な商品と近代商法でパリ中の女|生を誘惑し、店舗の拡張を図るが、そのために近隣の小さな商店は衰退の一途をたどる。
ドウ二ーズ・ボーデュ この物語の女主人公。両親の死後、二人の弟とともにパリにやってきた20歳の貧しい娘。ボヌールの既製服売場で売り子として働き、さまざまな苦労を経るが、忍耐力と勇気、優しさと賢明さを兼ねそなえ、しだいに社長のムーレから愛
されるようになる。
アンリエツト・デフオルジュ夫人 上流ブルジョヮ階級の未亡人でムーレの愛人。やや小太りの美人だが、嫉妬深い性格。自宅でサロンを開いており、元愛人の銀行家ァルトマン男爵にムーレを紹介する。
アルトマン男爵「不動産銀行」頭取の全敗奥書。ボヌづレが進出をもくろむ新街路の工事を請け負っており、沿道の所有権を有している。ムーレはデフオルジュ夫人を介して、事業の提携を持ちかける。
ポール・ド・ヴァラニョスク ムーレの高等中学時代の友人。没落した貴族の末裔。内務省の小役人で、すべてに無間心な悲観論者。ジヤンとペペ ドゥニーズの弟たち。
《界隈の小さな商店の人々》
ボーデユ  ドゥニーズの叔父。ボヌールの向かいにある古くからのラシャ[地が厚くて織り目がはっきりせず、けば立っている毛織物]とフランネル[紡毛糸を主として織った、柔らかで厚い毛織物]専門店「エルブフ本舗」の店主。頑固で古い商法に固執し、百貨店によって次第に客を奪われる。
エリザベツト・ボーデュ夫人 ドゥニーズの叔母。生まれ育ったエルブフ本舗が衰退するのを嘆き、ボヌールに絶望的な恨みをいだく。
ジユヌヴイエーヴ・ボーデユ ボーテュ夫妻の娘でドゥニーズのいとこ。母親と同じ貧血症。小さい頃からの許婚の店員コロンバンが、ボヌールの売り子クララに夢中になっていることに気づき、絶望して病気になる。
コロンバン エルブフ本舗の主任店員。働き者で従順に見えるが、根はずる賢い。
ブーラ 傘屋の老人。怒りっぽいが、根は親切な職人肌の芸術家。店舗拡張の邪魔になるために立ち退きを迫るボヌールに対し、断固戦いを挑む。
ロビノー 元ボヌールの絹売場副主任。妻の全てヴァンサールから絹物専門店を買い取り、リヨンの製造奏者ゴージャンを後ろ盾にして、ボヌールに絹地の安値競争を挑む。
《百貨店の人々》
プルドンクル ボヌールの重役の一人で、ムーレの右腕。監視全般を担当し、従業員には厳しい。女性を嫌悪し、とりわけドゥ二ーズを忌み嫌う。
ブートモン 絹売場主任。モンペリェ出身の陽気な男で、仕入れには優れた腕前を持つ。独立してライヴァル百貨店キャトル・セゾンを設立する。
ユタン 絹売場の店員。愛想のよい優秀な店員だが、出世故が強い。ドゥ二ーズは最初彼に親切にしてもらい、好感をいだく。
オーレリー夫人 既製服売場主任。商才はあるが、虚栄心が強く、お世辞のうまい売り子を厚遇し、はじめのうちドゥ二ーズに厳しくあたる。
クララ・プリュネール 既製服売場の女店員。素行が悪く、仕事に不熱心で、ドゥ二一ズをいじめる。一時ムーレの愛人になる。
ポーリーヌ・キュニヨ 下着売場の女店員。ドゥニーズに親切で、お互いに心を打ち明ける親友。
ドロツシユ  レース売場の店員。不器用で出世できず、いつも不運をかこつ。ドゥニーズと同郷で、彼女に想いを寄せる。
《その他百貨店の人々》 ロム(会計係主任、オーレリー夫人の夫で恐妻家)、アルベール・ロム(会言刊系、ロム夫妻の息子で放蕩者)、ジューヴ(監視員、好色な退役軍人)、ファヴィエ(絹売場の店員)、ミニョ(手袋売場の店員)、リエナール(毛縦吻売場の店員)、マルグリット・ヴァドン(既製服売場の女店員)、フレデリック夫人(既製服売場の副主任)、カンピオン(配送部主任)、ルヴァッスール(通信販売部主任)、ジョゼフ(梱包係のボーイ)、ボージエ(ボン・マルシエの店員でポーリーヌの恋人)
《百貨店の客たち》
プルドレ夫人 バーゲンを上手に利用する堅実な主婦だが、3人の子供の母親で、子供を介して母親を征服するムーレの作戦にひっかかる。
ギバル夫人 目を楽しませるだけで満足し、ほとんどの品物を返品する返品魔。ボヌづレの読書室を愛人のド・ボーヴ氏との連絡場所に使う。
マルティ夫人 誘惑には抵抗できない買い物狂で、夫を破滅させる。
ド・ボーヴ伯爵夫人 貧乏貴族の妻で、ぜいたくな品物への欲望が高じて万引きを働く。
《その他百貨店の客たち》 ド・ボーヴ伯爵(種馬飼育場の視察長官)、ブランシュ(ド・ボーヴ夫妻の娘)、マルティ氏(リセ・ボナパルトの教師)、ヴァランチーヌ(マルティ夫妻の娘)、ブータレル夫人(地方からボヌールに買い物に来る婦人客)

注目すべきことにひとつに、デパート商法により客が自由に商品を手に取れるようになったことで、万引きというものが発生してきたこと。
また、ゾラの小説をなぞってぎゃくにデパート建築がされたことも注目に値する。
(鹿島茂 『デパートを発明した夫婦』 講談社<現代新書>、1991年)

エレイン・エイベルソン『淑女が盗みにはしるとき ヴィクトリア朝アメリカのデパートにおける中流階級の万引き犯』
アメリカの事例ではあるが、デパートの登場とどうじに万引きが起きている。
中流階級の女性の万引きは「病的盗癖症」というレッテルを貼られ、女性特有の病いとされ、下層階級の万引きとは区別された。

日本のデパート
勧工場という小さなアーケード売り場→百貨店
呉服店 越後屋 1673年すでに店頭売り・現金販売・正札→三越
歌舞伎「白波三人男」 すでに万引きがあった!(日本は進んでる)

小林一三 阪急百貨店
鉄道とデパートと住宅開発とレジャー
三越少年音楽隊に対抗して温水プールのアトラクションとして始まった宝塚少女歌劇団
関東で阪急の手法をまねしたのが東急
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by takumi429 | 2007-07-18 01:32 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 5

都市の社会学 パリ 5
『パリの社会学』「Ⅲ 首都パリ 」より引用
パリ、政治的首都
世界では、政治的首都が、経済や文化の領域では主要な都市ではなく、もっとも人口の多い都市でもないことがまれではない。
合衆国、ブラジル、オランダ、インドがその例である。フランスでは、政治権力機構が、もっとも大きな都市に集中し、それがまた首都でもある。同様に、外向的代表であり、行政的中心でもある。
国家の官邸の大部分、共和国大統領官邸(エリゼ宮)や首相官邸(マティニオン邸)や国民議会(ブルボン宮)や元老院(リュクサンブール宮殿)は、人民に選ばれた者が住む前は、大貴族の住まいであった。革命の最中に、国外亡命者の財産は没収され、省庁や大使館がフォブール・サン・ジェルマンに置かれた。ブルボン家による王政復古[1814-30]もこの動きを反転させることはなかった。むしろ、生活様式が変わるにつれて、この動きは加速された。理由のひとつとしてはこのような大邸宅にはたいへん大勢の召使いがおり、その費用が高くなったということがある。高貴な資産家や大ブルジョワは、管理するのがむずかしくなった豪邸の荘厳さよりも、広大なアパートの快適な生活をしだいに好むようになった。
しかし、パリは同時に、現存の権力の異議申し立ての、特別の場所でもある。19世紀の革命的新聞や20世紀の社会運動はしばしばここパリで始まった。

パリ、文化と科学の首都
文化領域におけるパリの例外的地位により、作品が生み出され、市場に出されると、地方人や外人にまでそれが及ぶことになる。なぜなら彼らはパリに観光でたいへんしばしば訪れるからである。2003年、800万の外国人の到着がパリのホテルに記帳された。他方、フランス人は600万人に達するにとどまった。エッフェル塔、ルーブル、ポンビドーセンターはそれぞれ5、600万人の訪問客を受け入れた[パリ観光局 2004].創造と伝播の多くの手段が集中しているため、首都の文化的役割は、フランスの中央集権化のもっとも目に見える形のものであり、そのためもっとも批判されるものでもある。

文化創造
1999年、56194人の労働者が「情報、芸術、興業の職業」に属している。これらの職業は、「知的上級職および幹部」のカテゴリーに属している、すなわち、出版のサラリーマン、自営者、雇用者(ジャーナリスト、編集デスク)、作家、シナリオ・ライター、興業(劇場、映画テレビ)の芸術的あるいは技術的幹部、ショーの現場の芸術家(俳優、ダンサー、歌手)、造形芸術家、音楽家、である。パリはフランスにいるこの種の職201925の27.8%を集めている。しかるにこの種の職業は調査された全職業の7%にすぎない。
したがって、この過剰なありようは著しいものである。この職業はパリの職業の3.5%に相当するが、パリの外ではフランス全体の0.7%にしかならない。もし、興業の技術者・労働者、工芸職人も、秘書や会計係も含めるなら、文化的職業の45%はイル・ド・フランスで働いている。この地域の職はフランスの雇用の22%に相当する。比較として、この部門の労働者は、ローヌ=アルプ地域圏では8%、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏では7%しかいない。パリ地域の支配的地位は圧倒的である。映画やテレビのいくつかのポストでは80%を超える。出版の領域では70%あるいはそれ以上に達する[文化省2004]。この圧倒的な有り様は、クリエターの仕事に対してはっきりと見てとれる。作家の地位(文筆家、ドラマ作家、音楽作曲家、映画監督、イラストレーター、写真家)6000のクリエーター)をもつ6000のクリエーターと、彼らに許可された保護の特殊な領域から利益を得るのに十分に職業化された者のうち、75.5%がパリ都市圏に住み、同じく、51%がパリに住んでいる[Menger, 1993.]。
 新しいクリエーターもまた大いに住んでいる。調査によるとマルチメディアの編集者356人のうち、260人、すなわち、74%がイル・ド・フランスに住んでおり、うち176人がパリに住んでおり、これはイル・ド・フランスの67%、フランス全体の49%にあたる。
[Jocelyn, 2002].

文化の伝播
伝播させる重要な装置が、この活動する創作者に同伴している。そこでもパリの重さは大きい。出版部門のイル・ド・フランスのポテンシャルは70%である。首都の美術館誌の供給は詳しく述べることができないぐらい豊富である。週刊紙「パリスコープPariscope」には100以上の美術館が載っており、それはルーブルからエロティズム美術館 、さらにカンナヴァル美術館、ピカソ美術館までいたる多様なものがある。ギャラリーに関しては、数えるのが容易でない、なぜなら、この部門の境界がはっきりとはせず、流動的であるからだ。美術ギャラリー職業委員会は127のメンバーがパリにあり、ひとりがパリ郊外、22人が地方にあると述べている。美術学校とマティニョン通りの周辺を美術商が独占し、開かれたいくつものパーティを組織している。パーティの間、シャンパングラス片手に、買い手は、あるギャラリーからまた別のギャラリーへと、そぞろ歩く。サン・プレ通りからバック通りの古美術商の一画では高価なものが展示され、同様の種類のパーティが催されている。
図書館、劇場、コンサート会場は多数ある。2004年4月の21日から27日の一週間、映画館は297の異なる映画を上映した。シネマテックや映画監督、俳優や特集として劇場でおこなわれたフェスティバルでプログラムされたものは数えなくて、この数なのである。
地方の映画の供給とは比較にならない多さである。
映画館はパリの空間の中で、さまざまな社会カテゴリーの人間がもっともよく見に行きやすいように、分配されているわけではない。16区はとりわけ映画館がすくない、8区のシャンゼリゼが映画愛好家のたまり場であるのに。18区にはもはやほとんどクリシーとその周辺にしか映画館はない。区の東は、人口が多いにもかかわらず、映画館はなく、それは19区、20区もそうである。
この分布は両大戦間にはちがっていて、映画館はパリ中に散らばっていた。たとえば、バルベ交差点には二つの映画館、ロクソールとバルベ・パテがあり、二つとも立派な外観をもち、ロクソールはエジプトの神殿を模倣し、バルベ・パテは劇場の構造をもち、バルコニーがあり、肘掛け椅子は赤いビロードでおおわれ、緞帳(ドンチョウ)と俳優の楽屋があり入り口は人の活気でいっぱいであった。
この別の時代の二つの証言は思い起こさせる。日曜日、昼興行(マチネー)には家族づれが切符売り場におしかけ、夜の部は土曜から活況を呈し、多少とも合法的な男女が会うのであった。郊外とおなじく、郊外もかつてはもっとたくさんの映画館があったのだが、この二つの映画館もその輝きを失ってしまった。ルクソールも何年も前から使われなくなり、その建物の独自性ゆえに保護委員会があったが、区役所が買い取り、すでに姿を消した。
パリの映画の12の中心地は5つのゾーンにまとめることができる。左岸の中心、右岸の中心、徴税請負人の壁の跡地に作られた、南北の、大通り(外周道路)の映画館、最後に、セーヌの両岸に最近つくられ周辺地域までいたる、12区と13区の隙間をうめている二つの中心地、である。これは、首都の東部、ベルシイ地区とセーヌ左岸の再開発に参与した活動のひとつである。
南の区(13区、114区、15区)とベルシーの中心をのぞいて、周辺の地区には映画館はない。もしMK2(フランスの映画配給会社)の映画館が19区、20区やなシオン広場に開店することがなかったら増えもしないだろう。パリ周辺部での、この映画館の希薄化、消滅は、郊外で映画館はほとんどないことの前兆となる。しかし、供給だけが問題なのではない。近くにあるか遠くにあるかは実際上は、影響ない。週末ともなると、大勢の人がシャンゼリゼや、文化的場所や余暇を備えた他の街をそぞろ歩く。彼らの大半は、「街に」来たパリ郊外の住人で構成されている。それはまるで、そこだけが都市の雰囲気を味わうことができる、地方都市か中心地にいるみたいなものだ。
この文化的提供への、隔たった、空間的に隔たり、そしてそれはしばしば社会的隔たりでもあるのだが、そうした関係は、同様に、権力と社会的卓越の場所への関係によって排除されているとの感情を強化するものである。[サラリーマンの単調な生活を、「メトロ、仕事、おねんねMétro, boulot et dodo」、とよく言うが]、郊外の住民もまた、支配的社会地位を表現し象徴しているもの、とくに文化の普及の場から遠く離れて、メトロ、仕事、テレビMétro, boulot et télocheという生活をしているのである。」

〈パリ散策〉
情報誌はPariscopeがおすすめ。住所が載っているので地図で確認できます。L’officiel des Spectaclesは住所が載っていなくて大変苦労する。

ルーブル美術館
宮殿の南東の端にある入り口Porte de Lionから入ると並ばずにすむ。
西洋の美術館はフラッシュをたかなければ写真は大目にみてくれる。
名画が目白押しでそれを見て回るだけで大変。一日、せめて半日はとっておくこと。
今回の訪問で印象的だったのはラ・トゥールGeorges de La Tour
「ラ・トゥール Georges de la Tour 1593~1652 宗教画と風俗画をえがいたフランスの画家。ろうそくの光でてらされた暗い室内をあつかった夜の絵がよく知られている。」
http://www.salvastyle.com/menu_classicism/latour.html
http://fr.wikipedia.org/wiki/Georges_de_La_Tour
イタリアのカラバッジョ(Caravaggio 1571~1610 イタリアの画家。光と影を強調した劇的な画法で知られ、17世紀バロック絵画の先駆者とされる。本名ミケランジェロ・メリージ)は明暗のコントラストを強調し、照明のような光のもとで登場人物たちを劇的に浮かび上がらせる。これにたいしてラ・トールは光源を絵の中に取り込み人物を闇の中でうかびあがらせるのだが、あくまでもその姿は静謐なものである。昼間の風俗画は登場人物の視線の交差がおもしろい。夜の光源からの光の線と、昼の人物の視線。どちらも、見える・見ることの線のなかでうかびあがる絵画である。


聖マタイの召命(せいまたいのしょうめい)
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ミケンラジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョによって1592年から1602年にかけて製作された絵画であり、ローマのフランス人管轄教会サン・ルイージ・デイ・フラチェージ教会内のコントレー聖堂に掲げられている。

大工の聖ヨセフ (Saint Joséph charpentier) 1640年頃137×102cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)
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透けるろうそくの光が透けるイエスの手の描写と光がもたらす静謐な緊張感がすばらしい。


いかさま師 (Tricheur )1635-1638年頃
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登場人物たちの視線の交差がゆかい。

〈その他の美術館〉
オルセー美術館 駅舎を改築して作った鉄とガラスの光に満ちた美術館
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ポンピドー・センター(国立近代美術館)現代絵画、最近はビデオアートが多い。

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ロダン美術館 フォーブル・サン・ジェルマン(パリのお屋敷街)の邸宅を改装した美術館
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ピカソ美術館 ユダヤ人街もある人気スポットのマレ地区のお屋敷を改築。

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ジャック・マール アンドレ美術館 
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ミッキー・マウス展 
シャンゼリゼ、フランクリン・ルーズベルト駅のそばのギャラリー
http://www.mickfinch.com/expodoc/mickey/PR.html
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by takumi429 | 2007-07-17 18:25 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)