カテゴリ:ナラティヴ( 1 )

ケアにおける語りのメタファー

ケアにおける語りのメタファー

キーワード:物語り、メタファー、家族療法
Key words : Narrative, Metaphor, Family therapy

1.昨今、家族療法において、「ナラティヴ・セラピー」という動きが盛んになっている。ナラティヴというのは「物語り」のことである。心理の問題を抱えた人の多くが、自分を虐げるような物語の中に自分を置いていることがじつは多い。そういう人が生き生きと自分を解放できるようなのびやかな物語を、話し合いながら一緒に編み出していこう、あるいはクライエントが生み出すのを手伝っていこうというのが、「ナラティヴ・セラピー」である )。
 だがその新たな物語形成において、問題となってくるのは、そうした新しい物語はどんな風に生まれてくるのか、そのきっかけ、契機は、どういうものなのか、という問題である。
 本稿では、この物語の生成の契機となるものは何かという問題を考えるべく、いくつかの事例を考えてみることにする。

2.事例1:下肢切断の患者の語り
ある手術看護婦の話。
 看護婦Tはもともとは、病院の窓口で働き、30歳になってから看護婦に転身した。そのため、看護の空気になじめないでいる。
 ある日、初老の女性患者を術前訪問。患者は糖尿病の悪化で片足を切断する手術を受けることになっていた。てきぱきと質問と説明をできないTに対して、患者は一時間の長きにわたって物語った。
 途中、師長から呼び出しがあった。師長いわく「遊んでいるかと思った」。 
「だって患者さんはやっぱり不安だからついつい長く話すでしょ」とT。
「なるほど、そうだろうね」と著者(勝又)。
「でもそのひとは『不安』なんていう言葉をその人は使っていたの?」。
「うん、たしかに『不安』ていう言葉は使ってなかった」。
Tはしばらく考えてから、
「そういえば、『足に悪いことをした』って言っていたわ」。
 Tの話を聞いていた私は唖然とした。しかし気を取り直して、
「それから患者はどんなことを言っていたの?」。
「ふん」(うん)と関西人のTは考えてから、
「『私は昔から病気と付き合ってきた、お父さんの看病や義理のお母さんの看病やら、ずっとしてきた』と言っていたわ」。
「それで?」。
「ふん」。私の質問にTはだまりこんでしまった。
「じゃ、思い出したらまた教えて」と著者。 
後日、Tからメールがあった。
「あれからずっと思い出そうとしたのだけど何も思い出せません。私は一体一時間も何を聞いていたのでしょう」。

3.事例1の分析
この患者の話に著者がこだわったのは「足に悪いことをした」という患者の言い方の意外さである。この発言にはいったいどんな意味があるのだろうか。
まず問題を外堀から埋めていこう。
 Tを呼びつけて看護特有の嫌みを言った師長は術前訪問としてどんなことを考えていたのだろうか。
 おそらく手術に関わるいくつかの質問項目をてきぱきと聞き出すということを考えていたと思われる。同時にこの術前訪問は、「これからあなたはこれこれの手術を受けることになる、覚悟せよ」という宣告にもなっているのだろう。
 患者の状態は質問の項目だけ切り取られ、後は手術の予告があるのであって、じつは「患者(うだうだした)話を聞く場ではない」とされていると思われる。
 ここでは患者は、手術という、生物機械への「修理」の観点からだけとらえられ、そのための質問用紙に転写されている。
 それに対してTはどうだろうか。Tの頭の中には、「手術前の人間は不安のためにさまざまな訴えをするものだ」という考えがあったと思われる。ですから患者の訴えをみんな「不安」あるいは「不安のなせる業」という箱の中に放り込んでしまった。
 よく外国語で話しかけられた時のことを思い出すと経験することなのだが、日本語ではなんと言ったかは言えるのだけど、その外国人が外国語で実際にはなんて言ったかは思い出せないということがよくある。日本語に翻訳された瞬間に元の言葉は忘れて去られてしまうのである。
 Tの話もそれに似ている。Tは患者の話した話を次から次へと「不安」という言葉に翻訳してしまったため、かんじんの患者の元の「語り」を忘れてしまったのである。
 でもTが新米でしかも「看護ずれ」していない手術看護婦だったの幸いしたのかもしれない。患者の話を真に受けてしまう、そのナイーブさが、患者の「語り」を引き出すことに成功したのかもしれないからである。
 さて、患者は「病気とずっとつきあってきた」という言い方をしていた。ここでは病気はつきあう相手、つまり人間のようなものにたとえられている。すなわち擬人法というレトリックが使われている。擬人法は、人でないものをひとのように見立てる。似ているということをつかって、「見立てる」こと、つまり「~を・・・として見る」ということは「隠喩」(メタファー)と言う。だから擬人法は隠喩の一種である )。
 ここでは、これまで病人の看病をしてきたという経験と、これから糖尿病がもたらした片足切断によって障害者として生きて行かなくてはならないという未来とが、「病気とつきあう」という擬人化によってくくられている。つまり「病人の看護」と「障害を持ちつつ生きていく」とがともに「病気とつきあう」という言葉でくくられているわけである。
 こうすることで患者はこれまでの過去を、病気とつきあう人生という形で整理して、これからの障害者として生きていく未来とを連続するものとしてつないでいる。
 レトリックは言葉によって人を説得する術である。メタファーもそうしたレトリックのひとつにほからない。しかしレトリックは他人を説得するだけではない。この患者の場合には、自分を、今後の障害者としての人生を、自分に納得させるために、このレトリック使われているのである。
 さて、問題の「足に悪いことをした」という表現をみてみよう。
「悪いことをした」とか「すまないことをした」とか言われるのは、ふつうは人間に対してである。だから、ここでは足は人間のようにとらえられている。ここでも擬人化がなされている。
「悪いことをした」というのはどういう意味か。おそらく片足切断という状況になるまで糖尿病の治療を十分にしてこなかった。だから今回の切断は、ある意味、自業自得なのだと、患者は自分に納得させようとしているのであろう。
 では、まるで人格があるかのように「足」について語るのにはどんな意味があるのだろうか。
井上ひさしの戯曲に「しみじみ日本・乃木大将」という芝居がある。この芝居では、乃木大将の軍馬3頭と近くの牝馬2頭が、「人格」ならぬ「馬格分裂」を起こし、各々前足と後足に分かれて、乃木大将のその時々の場面を演じ、乃木大将という人物を語るという趣向になっている。
患者が「足に悪いことをした」と言った瞬間、足は別の人格を持つものとして患者に相対している。それは患者とは別のものである。つまり患者はすでに、自分とは分離し別個のものとなった足のことを考えている。つまり、片足が切断された後の状態を、患者はこの喩え(擬人化)で知らず知らずのうちに、先取りしようとしていたのもしれないと考えられる。
 こうして、片足切断の手術を直前に控えた患者は、「足に悪いことをした」というレトリック(たとえをつかった説得の方法)によって、片足喪失の状況を生き抜いていく自分の物語りを紡ぎ出していこうとしているのである。切断される自分の足を別個の意思をもつ者にたとえることで、足をこれからなくすという話から、足を喪失して後その状況を生き抜いていく話へと、患者をつつむ物語りは転換していき、足の擬人化(たとえ)はその転換の接続点となっているといえるだろう。
 こうしてみると、私たちが自分を立て直す新しい物語りを作るとき、メタファー(見立て)はその新しい物語生成の核(種)となっていくのではないか、とも考えられる。
 
4.概念図式としてのメタファー
ここでもうすこし一般的な考察をしてみよう。
 人間が事態のとらえるその有り様は実はあまり多様ではない。自分の体で経験したわずかなパターンを使い回していることがしばしばである。そのとき人間は、慣れない事態を見立て(メタファー)によって慣れ親しんだパターンに還元していることがしばしばある。
そのためメタファーとも気づかないほど当たり前になっている多くの言い回しがある。
たとえば、「目玉焼き」というのももともとはメタファーである。さらに「男に捨てられた」というような言い回しがある。だが本来、「捨てる」ことができるのは品物である。つまりこの言い回しでは「私」は使い捨てされる「品物」に喩え(見立て)られている。さらに「捨てる」という言葉の連想から「さんざんいいように使っておいて、ボロぞうきんのようにポイと捨てた」という具合にどんどん隠喩の中で連想が展開していってお話を作っていく(こういうメタファーの展開のことをアレゴリーという) )。「別れた」を「捨てられた」と見立てることで、男女の別れ話は、品物を使い捨てる話へと移しかえられていく。つまり男女の別れの話(概念体系)が、ものを捨てる話(概念体系)へと写し取られていく。その写し取り(写像)の端緒となったのは、「別れる」という事態を「捨てられた」というたとえ(メタファー)で語ったことにある。そうすることで二人の別れの話は、ものを捨てる話へと写し取られて、ものを使い捨てる話(概念体系)のなかで理解されていく。
 レイコフという言語学者は、メタファー(隠喩)を「ある概念を別の概念と関係づけることによって、一方を他方で理解する」するという頭の働かせかたである、と言っている。そしてAの概念体系の要素(たとえば「別れ」)をBの概念体系の要素(「捨てる」)に対応させ(写像し)、さらにその写像をさらにどんどんして、Aの概念体系とBの概念体系が対応されることを「概念メタファー」と呼んでいる )。
 人間が実感を込めて経験的に理解できることの範囲というのは実は限定されたものである。私たちはそのままでは理解しがたい事態を、すでに慣れ親しんだお話へと移しかえ、それを展開していくことで、そのままではなかなか理解できないような事態を、理解できるものへと変えていくのである。
 私たちが慣れ親しんでいる常套句(クリシェ)はこうした陳腐な喩えによるすり替えに満ちている。しかしこうした陳腐な言い回しによるありふれた物語りの圧政の下で虐げれている自分が存在する。そのとき、それまでとは違う喩え(見立て)をすることで、自分を別の物語りへと解放していくことが求められるのかもしれない。
 しばしば「夫婦の絆」という言い方がされたりする。「絆」とはもともとは「動物をつなぎとめる綱」のことであり、本来はメタファーである。だがもうメタファーであるを意識しないほど当たり前になった言い方である。しかしその喩えで考えるかぎり、夫婦の関係は強固で、それを失った者は、まるで「糸の切れたたこ」みたいに思えてくる。でももしここで誰かが夫婦なんて「ポスト・イットみたいなもんよ」と言い出したらどうだろうか。この喩えは夫婦に対するまるで違った見方をもたらすかもしれない。
 陳腐でそれだけに逃れがたい物語りのくびきから逃れるために、人はたとえ(メタファー)をつかい、それを種にして新たな物語りを生成していくのではないのだろうか。片足切断の手術を目前にした患者の一言から著者はそうしたことを考える。
 
5.家族療法におけるメタファー
ではこうしたメタファーについてナラティヴ・セラピーではどのようにあつかわれているのだろうか。家族療法の代表的な学会誌『Family Process』 に「メタファーを聞く」という興味深い論文が載っている。 )
 メタファーというのは、ホワイトが遺糞症をスニーキー・プーと名付けて外在化し有名な事例に見られるように、決して家族療法では注目されてこなかったわけではない。しかし家族員たちがみずから語るメタファーについてはこれまであまり注目されてこなかった。だが論文の著者たちは言う。「私たちの考えでは、メタファーは、思考の物語様式の最も小さい単位であり、家族の「世界制作」の行為を定め保持する意味の多義性の織物への理想的な入り口点である。」
 そして著者たちは、「家族が生み出すメタファーを使ってカウンセリングしていく7つのステップ」なるものを提唱している。そこでは患者が何気なく行ったメタファーにカウンセラーが気づき、それを押し広げて、家族員全体を巻き込んだお話へと展開していくことが提案されている。これはまさにメタファーが概念体系から別の概念体系への写像であり、別の概念体系のなかでアレゴリーによって話を展開することを言っているにほかならない。
レイコフと同じように、著者たちは言う。「物語りが作られるのは、そして私たちの文脈でいうなら、私たちの環境に人間的な形と意味が与えられるのは、おもに、メタファーをつうじてなのである。」
 ところで概念体系から概念体系への写像を考えてみると、それは必ずしも言語の概念体系から言語の概念体系への写像とは限らない。言語から絵画への写像もあるし、さらに言語体系から身振り体系への写像もありえるだろう。
 そこで興味深いのは著者たちがあげている二番目の症例である。家族は、母エレンと娘7歳、11歳の息子と5歳の息子からなります。離婚した父は再婚。母親は自殺未遂で重傷し回復して退院している。ここでは、メタファーは5歳の息子の絵である。その絵では、噴火する火山のふもとで助けてと叫ぶ怪獣が描かれている。この絵が言葉にならない、家族と彼の状態の、メタファーとなっている。カウンセラーはこの絵をめぐっての家族員に会話を展開させていく。そうするうちに、この5歳の男の子は絵を書き変えていき、それはしだいに穏やかな絵へと変わっていったというのである。つまり、メタファーは必ずしも言語的なものとはかぎらないのである。

6.事例2:福祉の現場における
 ここでさらに福祉の現場における事例をみてみよう。ある保健婦は訪問先の家庭で次のような事例を見た。
「医療器具をつけている幼児のIちゃんは言葉で話すことはできないが、行動によって生命維持としての生活を表現する場面がみられた。アンパンマンのビデオを見ていた時のことである。急にIちゃんが倒れた。研究者はIちゃんの具合が急に悪くなったのかと驚き、「どうしたんですか?」と母親にたずねた。すると母親は『アンパンマンが倒れると、倒れて気管切開の所をはずすの。アンパンマンが助けられると(顔をつけかえてもらう場面)元気になるの。』と答えた。Iちゃんは気道が狭窄しており、吸引が必要なため、気管切開術を受けている。Iちゃんはアンパンマンが助けられると、母親に気管切開の所をつけてもらい、立ちあがり、ぱちぱちと拍手した。Iちゃんはアンパンマンが元気ない状態を、気管切開の所がはずれてしまい元気がないことにたとえて表現している。Iちゃんは、気管切開は生命を維持する大切な部分だと感じている。」 )
 ここではどういうことが起きているのだろうか。呼吸器をはずして苦しくなるIちゃんの事態が、アニメのなかのアンパンマンの困窮に移しかえられている。なぜそんなことをIちゃんはするのか。
Iちゃんは呼吸器をはずしては生きていけない、かわいそうな子なのだ、おそらく、そういう物語りが、Iちゃんに与えられていると思われる。しかしアンパンマンは顔を取り替えることで元気になりバイキンマンをやっつける英雄となる。こちらの話では(呼吸の)苦しみは次の復活と活躍の前段階でしかない。呼吸器なしではいきられないというIちゃんのこれまでの否定的な物語りは、苦しみから復活して活躍するという肯定的な勇気ある物語りへと移しかえられている。つまりアンパンマンが苦しんでいる時に自分の呼吸器をはずして、自分の苦しみとアンパンマンの困窮を対応させる、つまり自分の苦しみのメタファーとしてアンパンマンの困窮を対応させるという、ちょっと大げさ言えば命がけのメタファーがここでは行われているのである。
 もちろん、このメタファーは身振りとアニメという、非言語的なものである。それはまだ物語にはなりきってはいない。新しい物語を作るには、その周りの人々が、「アンパンマンが元気になったように、Iちゃんも呼吸器をつけて活躍するんだね」、というようなことを言って、そのメタファーを物語として展開する必要はあるかもしれない。しかしともかくも新たな物語の種はIちゃん自身によって撒かれたのである。
 
7.結語
 新しい物語はどのように立ち現れてくるのかというのが我々の疑問であった。それは思いがけない隠喩(メタファー)の形をとって、それを種(核)として立ち現れてくるのではないのか。ケアの現場における二つの事例を考察することで、このような仮説を我々は得ることができたのである。

文献
1)McNamee, S., Gergen, J.: Therapy as Social Construction, 野口裕二・野村直樹訳,ナラティヴ・セラピー,社会構成主義の実践, 金剛出版,東京,1997.
2 ) 野内良三 : レトリック辞典, 国書刊行会, 東京,1998.
佐藤信夫 : レトリック感覚, 講談社, 東京, 1992.
佐藤信夫 : レトリック認識, 講談社, 東京, 1992.
瀬戸賢一 : メタファー思考,意味と認識のしくみ, 講談社, 東京, 1995.
3) 佐藤信夫 : 隠喩と諷喩と書物, 叢書 文化の現在10 書物, 世界の隠喩 (大江健三郎・中村雄二郎・山口昌男編), 91-137, 岩波書店, 東京, 1981.
4) Lakoff, G.: The Contemporary Theory of Metaphor, Metaphor and Thought (In Andrew, O.Ed.), Cambridge University Press., Cambridge,1993.
松本曜 : 認知意味論, 大修館書店, 東京, 2003.
5) SIMS, P. A., WHYNOT, C. A.: Hearing Metaphor: An Approach to Working with Family-Generated Metaphor. Family Process, 36, 341-355, 1997.
6) 勅使河原薫 : クライエントとその家族・保健婦が捉える生活についての記述的研究, 家庭訪問を通して, 日本赤十字看護大学大学院看護学研究科修士論文,1999.
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by takumi429 | 2008-03-15 12:36 | ナラティヴ | Comments(0)