カテゴリ:フィルム・スタディーズ入門( 16 )

映画論 まとめ

映画論講義 まとめ
映画前史
ルネッサンスの画家ボッティチェッリの絵画のゆがんだ顔や連続動作の天使像などに見られるように、静止画というものは運動を停止してしまうがゆえに、ぎゃくに運動を表現したいという願望をはらむものでした
おなじく、写真が発明されたときも、それは目にもとまらない運動を把握したいという願望が込められていました。たとえば、マイブリッジの写真は走る馬の足の形をとらえるために撮られました
映画の誕生
映画は、運動というものを写真の静止画に切り取り、その静止画を連続して映写することで、目の残像効果によって、運動を再現します。
 映画の創始者であるフランスのリュミエール兄弟は、見せ物を撮るのではなく、日常の生活を撮り、上映しました。
 同じく映画の創始者であるエジソンの下で映画を制作したエドウィン・ポーターはその作品『大列車強盗』(1903)にカメラに向けて発砲する強盗を撮ることで、観客を映画の世界に巻き込みました。
 映画の父グリフィス
映画は、残像効果という生理的錯覚だけで、一連の動きある情景を表現するだけではありません。コマ(映像)の連続(ショット)とべつのコマの連続(ショット)をつなぎ合わせることで、現実ではない映画の中のシーンを作り上げることができます。こうしてコマ→ショット→シーン→シークエンス→1本の映画、というふうにつなぎ合わせていくことで、映画どくじの世界がうまれます。
「映画の父」とよばれるG.W.グリフィスは、ショットとショットをつなぎ合わせることで、映画どくじの世界を生み出すさまざまな技法を作り上げました。
 たとえば、登場人物の二人を撮り、次に交互に人物を撮り、さらにキスする二人をアップで撮り、それらのショットをつなぎ合せることで、愛し合う恋人同士のシーンを作り出します。(その際、二人を結ぶ想像上の線(イマジナリー・ライン)の手前から撮影しなくてはいけません。その線を越えて撮影すると二人の人物の左右の関係が逆になってしまうからです。これを180度の原則といいます)。
 ちなみに、このショットと反対からのショット(リバース・ショット)を文字通り、ショットの応酬(撃ち合い)として描けば、それが「西部劇」になります。また「撃ち合い」の代わりに、「斬り合い」にすれば日本の「時代劇」になります。
 また、走り来るクー・クラックス・クランのカットと男に襲われそうになっている娘のカットを交互につなぎ合わせる(クロス・カッティング)で、娘の救出にむかうクー・クラックス・クランというシーンを作り上げました。
 さらに俳優をきわめて近くから撮る(クローズ・アップ)によって、観客が俳優の間近にいるような錯覚を与えました。その結果、映画俳優は舞台俳優とは比べものにならないような崇拝の対象(偶像アイドル)、すなわちスターになりました。
 コンティニュイ編集
実際の個々のショットはばらばらに撮影されることが普通です。それをたくみつなぎ合わせることでまるでそれが連続したまとまった情景を撮ったように思わせるのが、コンティニュイティ編集です。コンティニュイティ編集とは複数のショット(時間と空間の断片)を統合して時間と空間の統一性を作り出すことです。連続性(コンティニュイティ)を観客に感じさせるために、すでに述べた180度の原則やアイライン・マッチ(登場人物がスクリーンの外の何かを見ると、切り返しがあって登場人物の見ているものが示される)、視点に沿った切り替え(登場人物が何か見ているカットの後に登場人物の視点からみたそのものが示される)、アクションに沿った切り替え(アクションがなされるに合わせてショットから別のショットへの切り替えが起こる)、方向を合わせた連続性(ものの進む方向が一定していること)など技法が用いられます。
ロシアにおける展開
モンタージュとは「組み立てる」を意味するフランス語のmonterに由来し、一般に映画のショットとショットをつなぐ「編集」をさす技術的な用語で、もともとは「編集」の意味でした。しかしロシアではそれが映画の連続性(コンティニュイティ)ために使われるのでなく、ショットとショットを組み合わせて、それまでにはなかった意味や世界を作り上げるようになったものをさすようになりました。
 オデッサの階段で有名な『戦艦ポチョムキン』でエイゼンシュタインは、砲撃のショットと獅子の像のショットを交互につなぐことで、「立ち上がる民衆」という象徴的な意味を持たせました。
 またクレショフは、無表情な男の顔のショットに食べ物、子供、女性、などさまざまなショットをつなげることで、観客にありもしない感情を男の表情のなかに読み込ませることに成功しました(これを「クレショフ効果」といいます)。
世界言語としての映画
初期の映画には音声がありませんでした。しかし、それだけに世界中どこでも通用する「世界言語」なのだという自負を映画人はもっていました。特に動きだけで人を笑わせるドタバタ喜劇は世界中で観客を魅了しました。ですからトーキーの時代になっても長らくチャップリンはこの世界言語としてのドタバタ喜劇に固執しました。
オーソン・ウェルズの挑戦
舞台の俳優・演出家から出発したオーソン・ウェルズ、その第1作『市民ケーン』から、これまでとは対照的な映画作りをしました。彼は長まわしとディープ・フォーカスが多用しました。長まわしとは、1つのショットが長時間にわたることです。またディープ・フォーカス中の前景・中景・背景のすべてに同時に焦点を合わせることで、そうすると複数のアクションが同時にひとつの画面の中に収められます。こうすることで、画面に登場するさまざまな人々の所作・感情を観客は一挙に見ることができるのです。
ドイツ映画の挑戦
ドイツ映画は幻想的な世界を作り上げることに優れていました。ドイツの映画独占企業ウーファはハリウッドに唯一対抗できる映画産業でした。「カリガリ博士」、「嘆きの天使」、「メトロポリス」などの作品は世界中に受け入れられました。
 編集によって作り上げられた世界として映画をつかって、ドイツ帝国というものを作り上げようとしたのがナチズムだったかもしれません。レニ・リーフェンシュタール監督による、ナチ党大会記録映画『意志の勝利』、ベルリンオリンピック記録映画『オリンピア』は、まさに映画によってナチズムとその支配するドイツ帝国を高らかに歌い上げるものでした。宣伝省の大臣にゲッペルスを据え、ウーファ帝国の末期になってもミュージカル映画、娯楽映画さえ作り続けたのは、まさにヒットラーの作り上げたドイツ帝国そのものが映画的現実だったからでしょう。まさに映画が現実を模写するのではなく、現実が映画を模倣しようとしたのです。
メソッド演技
クローズ・アップなどの映画手法は俳優に舞台とはちがう演技をもとめるようになりました。芝居がかった大げさな身振りではなく、むしろひかえめであるけれど真にせまった演技。そうした要求に応えるべくうまれてきたのがメソッド演技法でした。俳優が役に対応する自分のなか感情を増幅することで役に同調する。たとえば悲しみを演じるために自分の体験で味わった悲しみを増幅することで、役柄に同調するのです。こうした、なりきり演技は、まるで「地で演じている」ような感覚を観客に与えます。しかし役柄への過剰な同調は、俳優の生活破綻をもたらしかねないものでもあります。こうした演技法はニューヨークのアクターズ・スタディオなどで始められました。マーロン・ブランドはまさにこの演技法を最初に実践した俳優でした。
 映画の物語構造
映画の物語の構造には、(1)物語の中身、と(2)物語の語りとがあります。
(1)物語(narrative)(の中身)は、因果関係や動機づけによってかたちづくられています。多くの場合、冒頭部(発端となる均衡状態)中間部(均衡の崩壊・過渡期)、結末部(均衡の復元)、という構造を持ち、たいていは主人公の成長・衰弱・死などの変容をともないます。
(2)物語の語り(narration)には、(1)制限された語りと(2)全知の語り、があります。(1)制限された語りでは、一人の登場人物の視点から物語られます。観客は登場人と同じことしか知らず、その結果、ミステリー(なぞ)が生じます。(2)全知の語りでは、登場人物の視野に限定されず、観客は登場人物の誰よりも多くのことを知っており、その結果、サスペンス(はらはらどきどき)が生じます。
映画作家
映画作家とは、自分の映画作品を通じてスタイルとテーマの一貫性を示している監督で、撮影技法(どうカメラに収めるか)に独自性を持っている監督です。こうした監督を単なる演出家から区別する作家主義は、1950年代フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』から始まりました。
 ヒッチコック
 ヒッチコック映画におけるスタイルの統一性は、(1)編集とモンタージュの強調、(2)登場人物から見た視点ショット(主観ショット)の数の多さ(3)閉め切られた空間での撮影、です。
 またテーマは、(1)捜査(たいていは殺人事件)の捜査にまつわる物語。主人公は、捜査する者、あるいは、される者、(2)告白と罪、(3)サスペンス、(4)完全犯罪の殺人、(5)間違えたれた男、です。
 黒澤明の複眼性と多声性
 黒澤明は、音響と映像の対位法(コントラプンクト)を『酔いどれ天使』や『野良犬』で試み、さらに『野良犬』では犯人と刑事は分裂した双子のような登場人物となります。この登場人物の分裂による対位法は『影武者』にも引き継がれています。
 また『羅生門』では、登場人物の視点から同じ事件がさまざまに語られます。この後、脚本作成でも、複数の脚本家が同一シーンを書いていく合同脚本の方法が用いられています。
 この「複眼の映像」(橋本忍)の発想は、マルチ・カメラという撮影技法も生み出しました。これは、複数のカメラを同時に回して撮り、後から好きなカットを好きな時間だけ編集して、一本にまとめていく手法です。また黒澤はディープ・フォーカスと望遠レンズを多用して、さまざまな登場人物の行動・表情を同時、圧縮してとらえました。こうして複数の登場人物の観点・思惑が交差する画面をつくりあげています。
 このように、黒澤明は、対位法によって単一の人物(視点)を複数にし、さらにこの複数の視点から多声的に語っていこうとした映画作家なのです。
[PR]
by takumi429 | 2010-01-16 02:32 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

映画とは何だろうか (映画『アメリ』に学ぶ)

講義ノート 映画とは何だろうか

1.
みなさん、この講義ではウォーレン・バックグランド著(前田他訳)の『フィルム・スタディーズ入門』(晃洋書房)を教科書にして、映画研究(フィルム・スタディーズ)について、ご一緒に勉強していくことにします。
「フィルム・スタディーズ」(映画研究)と言うからにはその研究対象である、「映画とは何か」という問題がでてきます。この教科書では「はじめに」にあたる部分です。しかしこの部分はあっさりと書かれています。ですから今回はもっぱら映画とは何かということについての私の考えを述べることにしましょう。でもこれは大きな問題なので、今回私がお話するのはあくまでも暫定的な答えだと思ってください。

2.
ご存じの方も多いかと思いますが、映画とは、1秒間に24コマ/秒の静止画の連続して銀幕(白い幕)に投影するものです。サイレント時代は1秒間に約16コマ、投影していました。(サイレント映画がちょこまかちょこまかと早く動いて見えるのは、現代の映写機で昔のフィルムを投影するためです)。
投影されたものはあくまでも静止画なのですが、あまりに早くそれが連続して投影されるために、目の錯覚によってそれが動いて見えるわけです。

では、ここでひとつ、短い映画を見てもらいましょう。
クリス・マルケル脚本・監督の『ラ・ジュテ』(1962年)という映画です(映画上映)。

この映画は、映画というものがもともと静止画の連続にほかならないのだから、思い切って静止画(スチール写真)だけで映画を作ってみよう、という実験的試みをした映画です。
舞台は未来の地球でそこでは世界戦争のために世界は崩壊し人類は地下で暮らしています。破滅した地球を救うべく主人公の男が過去と未来へと送り込まれます。ところでこの主人公は少年期に飛行場のタラップで一人の男が殺されるのを目撃しています。過去の世界に滑り込んだ主人公はそこで一人の女性に出会い恋に落ちます。任務を解かれた主人公は過去へと逃亡します。しかし、飛行場のタラップで、まさに彼女の目の前で処刑されます。少年時代の主人公がみたのはまさにその情景だったのです。主人公の少年期の不思議な記憶の中で殺された男こそ、主人公その人だったのです。こうしてひとつの円が閉じられ、映画は終わります。

さてこの映画はすべて静止画からできています。その結果、まるで写真の束を一枚一枚めくっていくように映画が進行していきます。つまり、切れ目なく続く時間と空間が、ここでは写真の集積に置き換えられています。
ちょうど図書館の図書カードをめくっていくように、私たちは一枚一枚とそれをめくっていくわけです。主人公の時間移動は、この静止画の連続の中に別の静止画をすべりこませる、そうした形になっています。

3.
切れ目なくつながった時間と空間とその中での運動は、映画の中では静止した写真の連続の置き換えられます。そしてその写真の連続がフィルムとなってつながり、巻かれてロールとなっています。つまり時間はフィルムのロールの形をとっています。
映画の中で主人公と彼女の2人が木の年輪を見つめるシーンがあります。このシーンは、じつは、ヒッチコックの監督作品『めまい』(Vertigo)(1958年)のシーンを借りてきたものだと言われています。
そこでヒッチコック『めまい』を見てみることにしましょう(映画上映)。

この映画の主人公は高所恐怖症の元刑事です。彼は友人に依頼されて自殺願望のある友人の妻を護衛します。しかし、愛する人妻は鐘楼から身を投げて自殺し、高所恐怖症の彼は彼女を助けられませんでした。しかしその後、彼は町でその人妻そっくりの女を見つけます。じつはその女は人妻と同一人物で、人妻の夫から依頼されて主人公をだまし、鐘楼から飛び降りたふりをしただけで、鐘楼から落とされたのが依頼者の実の妻だったのです。主人公は彼女を鐘楼に連れてのぼり、真実を暴きます。しかし彼女はあやまって鐘楼から落ち、主人公はふたたび鐘楼から愛する女が落ちるのを見ることになるのです。

ここでは女が鐘楼から落ちることが二度繰り返されます。つまり時間は回帰し反復されるのです。こうした回帰し反復される時間とは、映画において時間が写真の連続のロールの形をとっていることから生まれたものなのかもしれません。だから、主人公と人妻は、映画のロールに似た年輪を二人で見つめるシーンがこの映画の中にでてきたのです。
(映画というのはこのようにとても互いを言及しあうものです。「ラ・ジュテ」はさらに
テリー・ギリアム監督「12モンキー」(1995年)でリメークされます)。

4.
映画が静止画の連続でしかないのに、私たちはそれが連続しているもののように錯覚します。そこで映画「ラ・ジュテ」は、思い切って静止画だけで映画をつくってみたわけです。しかし、よく考えてみると、映画における錯覚にはじつは二つの種類の錯覚があります。

まずは、すでにのべたように、静止画の連続が動いて見えるという視覚上の錯覚があります。
しかし、映画における錯覚にはもう一つあります。たとえば、二人の男女がまず映し出されるとしましょう。次に、女性が話している情景が映し出され、さらに男性が話している情景が映し出され、それが交互に映し出されます。そうして最後に二人がキスしている情景が映し出されたとしましょう。
私たちはこうした映像の連続を見て、二人の男女が近づき言葉を交わし気持ちが高まってキスするという一連の動きを想像します。
しかし実際の撮影はこの一連の二人の動きとはまるで違うものです。まず二人の男女の情景を撮り、つぎに女が話している情景をいくつも撮り、つぎに男が話している情景をいくつも撮り、最後に二人のキスシーンを撮ります。次にこうして撮られた映像をそれぞれ断片(カット)をつなぎ合わせます。まず二人のカット、男と女のカットを交互につなぎ合わせ、最後に二人のキスシーンをそこに付け加えます。
あるまとまった写真の連続(カット)をつないでいくこと(編集)で、観ている者がそこに連続した物語を見つけ出すわけです。
こうしてみると映画にはつぎの二つの錯覚があるわけです。
(1)動画的な錯覚(幻影)。これは静止画の連続によって生まれます。
(2)物語的な錯覚(幻影)。これはひとまとまりの写真の連続(カット)をつなぎ合わせること(編集)で生まれます。

『ラ・ジュテ』では、写真の連続であるカットはその最小単位である1枚の静止画に縮められています。その結果、人物や情景が動いて見えるという動画的な錯覚はなくなりました。しかし、カットとカットをつないでみせることで、物語が進行しているように見えるという錯覚(幻影)は残されたのです。
たとえば、『ラ・ジュテ』の中で1ヶ所だけ動画になっている場面があります。ベッドに横たわる主人公の恋人の瞳のまばたきが動画になっています(映画のことをflickers(明滅する光)ということがあります。この場面は、彼女の瞳が開いたり閉じたりする、つまりまなざしの明滅を、光りの明滅である映画(flickers)にひっかけているのかもしれません)。
この場面はカメラにむかって女性がいるだけですが、私たちは彼女の視線は主人公にむけられたものつまりこの場面は主人公の視線からみた映像(主観ショット)だと思いこみます。それは前後の静止画カットの組み合わせによって私たちがそう想像するだけです(もちろん撮影の現場では彼女はカメラを見ているのであって主人公を見ているのではありません)。カットの組み合わせ(編集)によってベッドの上で見つめ合う二人という想像による物語上の幻影が生まれているわけです。
(1)の動画(アニメーション)的錯覚(幻影)はほぼ生理的に起きてしまうものです。しかし(2)の物語的な錯覚(幻影)は、観客の想像力によって生まれるものです。
映画が映画として成立するためには、こうした物語的な幻影が成立するために、観客の想像力を必要としているわけです。
しかしこの観客の想像は、その想像のあり方に大きく左右されます。それは文化によっても違ってくるでしょう。また観客の願望によっても大きくちがってくるでしょう。
近寄ってくる二人のカットの後、女性のカットになっても、その女性を美人だと思わないような人たちは、その女性を主人公が激しく求める気持ちで見ているのだとは想像しないでしょう。結果、そのショットは主観ショットとしては成功せず、その後の展開も観客にはしらじらしいものになるでしょう。
ぎゃくにその女優が観客の好みに合っている場合、観客は主人公の主観ショットに激しく同調して、まるで自分がその女優の前にいるような気持ちになり、その女優と接吻するような気持ちになるでしょう。映画のスターに観客が熱狂するのは、こうした観客の想像による登場人物への同一化(感情移入)をそそることで映画の物語ができあがっているからです。映画が観客の願望の投影となるのはこのためです。

5.さて、一続きの写真の連続(カット)を組み合わせることで映画ができあがっているということをそのまま映画のテーマとしているような映画を見てみましょう。それがこれから見るジャン=ペエール・ジュネ監督作品『アメリ』(2001年)(原題:Le Fabuleux Destin d'Amelie Poulain 「アメリ・プーランの素晴らしい運命」)です(映画上映)。

この映画はうっかりすると、とりとめもないちょっといい話を集めただけの映画に見えるかもしれません。しかしよく見ると映画というものの論理が一貫して貫かれた作品だと思われます。
まずこの映画のあらすじを見直してみましょう。
主人公アメリは父親を早くになくし父親との暖かい気持ちのやりとりももてずに育ちました。父親は妻を亡くしてずっと思い出に引きこもっており、アメリは家を出てパリのカフェで勤めていますが、恋人さえつくれずにいます。
人間の自我というものはその人間が自分の過去をどのような物語にしているかによって形作られます。回想というのは過去の全体ではなくてその中の重要と思えたエピソードをつないでいったものです。どんなエピソードを選びつないでいくかによって、現在の自分のありようは悲惨なものであったり、滑稽なものであったり、すばらしいものであったしします。
ある日アメリはアパートの壁の中から、以前そこに住んでいた少年(現在は中年男性)のブリキの宝物箱を発見します。箱の中には少年がその時々に胸躍らせた宝物が入っていました。アメリはその元の持ち主に返してあげることでその男に娘や孫に対する優しい気持ちをよみがえらせることに成功します。彼は忘れていた少年時代のいくつかのシーンを思い出すことによって、優しい気持ちをもった自分を取り戻したのです。
人間は過去のいくつかのエピソードを縫い合わせて物語にして自分を作り上げています。だがそれが悲惨なものでしかないとき、別のエピソードを拾い上げ縫い合わせ自分の過去の物語を作り上げことが必要とされるでしょう。過去の人生の痕跡としていくつかのエピソードが生まれるともいえます。ですが、ぎゃくにいうと、いくつかのエピソードがあって過去の人生はそれを貫くように動いてきたというふうに考えられているともいえます。
ここで気づくのはアメリが運河に石を投げ水切りするのを趣味にしているということです。石は水面の上を何度も飛び跳ねながら、水面に波紋を作っていきます。ぎゃくにいえば波紋の中心をつなぐ形で石の軌跡が描かれます。投げるたびに石が接し波紋を広げる水面の点もちがってきますし、それを結ぶ石の軌跡もちがってきます。
深読みすぎといわれるかもしれませんが、私はここに写真の連続によって運動を想像させる映画のあり方を思い起こします。写真は光の痕跡であって、それは石がぶつかってできる波紋に似ています。石の軌跡はいくつかの波紋(痕跡)すなわち写真の連続から推定されます。過去のどのエピソードを選びそれをつないでいくかによってその人間の人生の軌跡はちがったものとして現れてきます。アメリはなんども石を投げて水切りをしながら、別の波紋とそれをつなぐ別の軌跡を見つめている。それは自分の人生の軌跡をとらえ直そうとする彼女の願望がなせる業なのではないでしょうか。
映画のストーリーに戻りましょう。宝箱を返してあげてから、彼女はちいさな善行とでもいうべきことをし始めます。盲人に街の様子を報告しながら目的地まで連れて行ってあげたり、意地悪な八百屋の主人を小さないたずらを積み重ねてノイローゼだと思いこませて、その主人にいじめられていた片腕の青年を助けたりし ます。さらに亭主に逃げられた管理人に死んだ夫からの手紙を書いてやり、さらに父親の持っていたドワープの人形をフライト・アテンダントの友人に頼んで世界中の名所の前に立たせてその写真を父親に送りつけます。これらはみな同じ映画の論理に基づいています。
まずわかりやすいのはドワープの人形の写真です。世界の名所・遺跡の前に立つドワープ人形の写真。その写真が何枚も送られてきたことで、父親はドワープが世界を旅していることを想像します。つまりドワープの静止画の連続が旅行という運動を想像させたのです。つまりここでは動画的錯覚(幻影)が生まれています。父親はこの「旅するドワープ人形」にうながされて、亡妻を思う隠居から出て外の世界へと旅立ちます。
アメリ盲人に街の様子を教える時、街のすべてを語ることはできません。アメリが見た活気ある街の様子がいくつかの断片的情報の組み合わせとして盲人に伝えられ、そうして盲人は今まで知ることもなかったパリの下町の全体というものを想像することができるようになりその姿は喜びに輝きます。また八百屋の意地悪な主人を困らすためにアメリは靴ひもを切る、トイレの取手を取り替える、歯磨き粉を洗顔クリームとすり替える、目覚ましの時計を進めておく母親への電話の短縮ダイアルを精神相談窓口へと変更しておく、などなど、細かな細工をし、それが全体として、「自分は精神を病んでいる」という八百屋の主人の妄想(想像)を生み出すことになります。これらはすべて映画の編集が受け手に物語を想像させるのと同じ手法です。
そしてもっとも重要なのは、夫に捨てられた管理人への手紙です。アメリのアパートの管理人は若い頃夫からもらった熱烈な愛の手紙をいまだに大切に持っています。夫は秘書と南米に駆け落ちしそこで交通事故に遭って死んだのです。彼女はこの悲しみの淵から立ち直ることもできず泣き暮らしています。たまたま新聞でアメリはアルプスの山中に墜落した飛行機から何十年後もたって発見された手紙の話を知ります。そこで管理人の手紙を盗み出しそれをよく読み、その中からいくつかの言葉を組み合わせて、別の手紙を作り上げます。そして何十年も昔の手紙であったように変色させて、管理人の元に届けさせます。手紙には彼女を置いてきたことを後悔しすぐに帰るという内容が書かれていました。管理人は、夫は自分のもとに帰ろうとしていた、事故さえなければ帰ってきていたのだと思い、深く慰められます。
アメリは管理人の夫の手紙をいくつかの断片にカットし、その断片をつなぎ合わせて新しい妻への愛の手紙を作り上げたのです。ではそれはまったくのでたらめだったのでしょうか。一つ一つの断片はまぎれもなくその夫の書いた文章です。そして、もしかしたら彼は本当に妻のもとに帰ろうと思っていたのかもしれません。手紙の断片(カット)をつなぎ合わせることで、そこには、ありもしない、でもあり得たかもしれない「現実」というものがうまれたのです。
さてアメリが思いを寄せた青年は駅にある自動写真機のゴミ箱に捨てられた出来損ないの証明写真を集めるのを趣味にしています。集められアルバムに貼られたそれらの写真はさまざまな人々の人生を見る者に思い起こさせるものになっています。しかしその写真の中には不思議なスキンヘッドの男の写真があります。パリの駅のあらゆる自動写真機に捨てられた男の写真。そこから青年はふしぎな怪人を想像しています。青年は証明写真機に残された写真から恐ろしい人物を構築していたのです。写真の連続から運動が想像されるように、ここでは写真の集積が怪人への想像をもたらしています。写真の連続は危うい想像をもたらすこともあるのです。それはちょうど過去の暗いエピソードだけをつないで閉じた人生の持ち主になっているアメリのあり方に似ています。
偶然、アメリは青年が想像している怪人が実は写真機の修理人にすぎないことを知ります。そのことをアメリは青年に知らせ、青年を怪人の想像から解放します。そしてこの青年とかかわることで閉じた自分の人生の軌跡をべつのものへと変えようとし、最後にそれに成功するのです。人々の人生を映画的手法によって幸せにした少女はみずからにその手法を用いることで過去から解放され新しい人生を歩み始めるのです。
5.
『アメリ』という映画は、映画というものがどのようなものかをまさに私たちに教えてくれる映画というべきでしょう。そしてそれによれば、映画とは写真の断片を拾い集め、つまり編集して、ありもしない、でもあり得るかもしれない想像の現実を作り上げるものです。つまり、映画とは、編集によって、観客の想像を誘うことで、新たな、見たこともないような、すばらしい、恐ろしい、すてきな現実を作り上げる、そうした芸術なのです。
では次回から、こうした映画をどのように観ていったらいいのかということを、映画研究から学んでいくことにしましょう。
[PR]
by takumi429 | 2008-10-25 23:37 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

フィルム・スタディーズ入門 まとめ

1 イントロダクション
一連の写真の連続を切り分け(カット)、それをつなぎ合わせてシーンにすることで映画はできています。たとえば、登場人物の二人を撮り、次に交互に人物を撮り、さらに接吻する二人をアップで撮り、それらのカットをつなぎ合せることで、愛し合う恋人同士のシーンを作り出します。(その際、二人を結ぶ想像上の線(イマジナリーライン)の手前から撮影しなくてはいけません。その線を越えて撮影すると二人の人物の左右の関係が逆になってしまうからです。これを180度の原則といいます)。また、走り来るクー・クラックス・クランのカットと男に襲われそうになっている娘のカットを交互につなぎ合わせる(クロス・カッティング)で、娘の救出にむかうクー・クラックス・クランというシーンを作り上げることができます。映画とは、こうした編集によって、新たな、見たこともないような、すばらしい、恐ろしい、すてきな「現実」を作り上げる、そうした芸術といえるでしょう。

2 映画の技法
映画の技法には、演出技法(ミザンセーヌ)と撮影技法、があります。演出技法はセットデザイン・照明・登場人物の動きなどをどのようにカメラの前に現れさせるかということで、撮影技法とはそれをどのように撮影し、フィルムに収めるか、ということです。
演出技法に重心をおく映画では、長まわしとディープフォーカスがもちいられます。長まわしとは、1つのショットが長時間にわたることです。またディープフォーカスとは画面の中の前景・中景・背景のすべてに同時に焦点を合わせることで、そうすると複数のアクションが同時にひとつの画面の中に収められます。
 撮影技法に重点をおく映画では、コンティニュイティ編集が多用されます。コンティニュイティ編集とは複数のショット(時間と空間の断片)を統合して時間と空間の統一性を作り出すことです。連続性(コンティニュイティ)を観客に感じさせるために、すでに述べた180度の原則やアイライン・マッチ(登場人物がスクリーンの外の何かを見ると、切り返しがあって登場人物の見ているものが示される)、視点に沿った切り替え(登場人物が何か見ているカットの後に登場人物の視点からみたそのものが示される)、アクションに沿った切り替え(アクションがなされるに合わせてショットから別のショットへの切り替えが起こる)、方向を合わせた連続性(ものの進む方向が一定していること)など技法が用いられます。

 3映画の音響
 映画作品のストーリー世界(物語世界)のことを、ディエジェージンス(diegesis)といいます。映画の音響は、その音の発信源(音源)がどこに位置するかでつぎのように区分されます。
(1)非ーディエジェーシス上の音響。これは、物語世界の外からの音です。サウンドトラックなどがこれにあたります。(2)ディエジェーシス上の音響。これは、ストーリー世界の中にある発信源からの音響です。これはさらに、①登場人物の声などの外的なディエジェーシス上の音響と、②登場人物の心の声などの内的なディエジェーシス上の音響とに分けられます。

4映画美学
映画美学にはつぎの2つの立場があります。
(1)リアリスト
現実を模倣する映画の能力が映画を芸術として規定すると主張します。長回しとディープフォーカスこそが映画固有の特性を表現する映画のスタイルとします。
(2)フォーマリスト
映画は現実を完全には模倣できない、その映画のもつ制約こそ、芸術的な目的のために私たちの日々の現実経験を操作し変形するきっかけを映画制作者にあたえる、と主張します。フォーマリストはとりわけ、モンタージュ(カットとカットをぶつけ掛け合わせること)を重視します。

5映画の物語構造
映画の物語の構造には、(1)物語の中身、と(2)物語の語り口、とがあります。
(1)物語(narrative)(の中身)は、因果関係や動機づけによってかたちづくられています。多くの場合、冒頭部(発端となる均衡状態)中間部(均衡の崩壊・過渡期)、結末部(均衡の復元)、という構造を持ち、たいていは主人公の成長・衰弱・死などの変容をともないます。
(2)物語の語り口(narration)には、(1)制限された語り口と(2)全知の語り口、があります。(1)制限された語り口では、一人の登場人物の視点から物語られます。観客は登場人と同じことしか知らず、その結果、ミステリー(なぞ)が生じます。(2)全知の語り口では、登場人物の視野に限定されず、観客は登場人物の誰よりも多くのことを知っており、その結果、サスペンス(はらはらどきどき)が生じます。

6映画作家
映画作家とは、自分の映画作品を通じてスタイルとテーマの一貫性を示している監督で、撮影技法(どうカメラに収めるか)に独自性を持っている監督です。こうした監督を単なる演出家から区別する作家主義は、1950年代フランスの映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』から始まりました。
 ヒッチコック
 ヒッチコック映画におけるスタイルの統一性は、(1)編集とモンタージュの強調、(2)登場人物から見た視点ショット(主観ショット)の数の多さ(3)閉め切られた空間での撮影、です。またテーマは、(1)捜査(たいていは殺人事件)の捜査にまつわる物語。主人公は、捜査する者、あるいは、される者、(2)告白と罪、(3)サスペンス、(4)完全犯罪の殺人、(5)間違えたれた男、です。
黒澤明:複眼性と多声性
 黒澤明は、音響と映像の対位法(コントラプンクト)を『酔いどれ天使』や『野良犬』で試み、さらに『野良犬』では犯人と刑事は分裂した双子のような登場人物となります。この登場人物の分裂による対位法は『影武者』にも引き継がれています。
 また『羅生門』では、登場人物の視点から同じ事件がさまざまに語られます。この後、脚本作成でも、複数の脚本家が同一シーンを書いていく合同脚本の方法が用いられています。
 この「複眼の映像」(橋本忍)の発想は、マルチ・カメラという撮影技法も生み出しました。これは、複数のカメラを同時に回して撮り、後から好きなカットを好きな時間だけ編集して、一本にまとめていく手法です。また黒澤はディープフォーカスと望遠レンズを多用して、さまざまな登場人物の行動・表情を同時、圧縮してとらえました。こうして複数の登場人物の観点・思惑が交差する画面をつくりあげています。
 このように、黒澤明は、対位法によって単一の人物(視点)を複数にし、さらにこの複数の視点から多声的に語っていこうとした映画作家なのです。

7映画ジャンル
ジャンル映画とは、ハリウッドの映画産業による大量生産品のことです。ジャンルには、例えば、メロドラマ、フィルムノワール、SF、時代劇などあります。
繰り返されるパターンにより観客は先取り予測します。ジャンル映画は希望と約束を設定し、この希望と約束が成就されることで快がもたらされます。ジャンル映画が観客を満足させるのは、観客たちが解決したいと望んでいるこうした疑問や問題を解決してくれるからです。つまりジャンル映画は集団的な表現形式、社会に向けて掲げられた鏡であり、社会で共有された問題や価値観を具体化し、映し出しているのです。ですからジャンル映画を研究することは、このジャンル映画を生産し消費している文化を研究する方法の1つです。
メロドラマ 
メロドラマはしばしば1人の女性(被害者)の視点から語られます。それは家父長的社会(男尊女卑のおじさん優位の社会)での女性が被る道徳的葛藤をテーマとしています。全知の語り口の形式をとり、プロット(語りの展開)は、予想外の展開とどんでん返し、偶発事と出会い、さらに秘密、から成り立ってします。メロドラマには、(1) 堕落した女の映画、 (2)未知の女(unknown woman)のメロドラマ、 (3)被害妄想の女の映画、などがあります。
フィルムノワール
フィルムノワールとは、1941『マルタの鷹』(ジョン・シューストン)から1957『黒い罠』(オーソン・ウエルズ)にかけて見られた、特徴を備えた犯罪映画の一群とその影響をうけた後続の映画です。
 フィルムノワールの演出技法と撮影技法は、ドイツの表現主義の影響を受けており、明暗法による照明や斜めのフレーミングが、濃い影、シルエット、傾いた線、不安定な構図からなるコントラストの強い映像を生み出しています。
 物語では、正義と悪の区分があいまいとなり、主人公(私立探偵が多い)は手を汚します。そうなる原因として、しばしばファムファタール(危険な魅力を持つ女)が現れ、物語はしばしば、彼女と男性主人公との闘争の形をとります。
 このジャンルは、第二次世界大戦による女性の社会進出にたいする男性の不安がもたらしたものとみることができます。

SF映画
SF映画は、科学とテクノロジーの進歩がもたらすものについての省察と宇宙旅行とエイリアンとの接触と遠い未来という設定を持っています。
1950年代のSF映画は、冷戦体制のもと、共産主義の脅威を描いたとみることができます。しかし、「赤狩り」の脅威を描いたものとみることもできます。

8ノンフィクション映画
ドキュメンタリー映画に次の5に分類できます。
(1)解説するドキュメンタリー
(2)観察するドキュメンタリー
(3)相互作用するドキュメンタリー
(4)反省するドキュメンタリー
(5)演技するドキュメンタリー
ドキュメンタリー映画は、(ふつう)やらせでない現実を撮っているとはいえ、それを選別し、さらにショットに細分化し、それらを貼り合わせ編集して、ひとつの「現実」を提示するという点では、フィクション映画となんら変わるものではありません。
[PR]
by takumi429 | 2008-07-10 17:40 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

13 ノンフィクション映画

ドキュメンタリー映画はやらせでない事実の客観的記録とみなされがちである。しかし撮影することはその出来事に影響をもたらさざるを得ない。むしろ制作者がどのような選別を行いながら、映画のなかでの出来事を形作るかを見なくてはいけない。その出来事の形作り方によって5つの種類に分けられる。

(1)解説するドキュメンタリー
身体をともなわないヴォイスオーバーによる注釈、記述的で情報豊かであることを念頭においた映像

(2)観察するドキュメンタリー
「生活の断片」、あるいは出来事のそのままの再現を示そうとする。
映画制作者は、関与しない傍観者であろうとする。

(3)相互作用するドキュメンタリー
撮影される人々や出来事と制作者とが相互作用する。インタビューの形式をとる。
 例:マイケル・ムーア『ロジャー・アンド・ミー』(1989)

(4)反省するドキュメンタリー
撮影される出来事・人々よりも、それが撮影される仕方に焦点を当てる。ドキュメンタリーの再現がしたがっている約束事を観客に明らかにして、その真実を顕わにするという見せかけの能力に異議をとなえる。
ジガ・ヴェルトル『カメラを持った男』(1928) 

(5)演技するドキュメンタリー
世界を撮ることから作品を表現することに重点が移る。
エロール・スミス『シン・ブルー・ライン』(1988)警察官殺人の再演することで事件についての証言の非一貫性を明らかにする。
[PR]
by takumi429 | 2008-06-29 13:39 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

フィルム・スタディーズ入門 12 SF映画

SF映画の特性

科学とテクノロジーの進歩がもたらすものについての省察
宇宙旅行とエイリアンとの接触
遠い未来という設定

1950年代のSF

放射能X Them!(ゴードン・ダグラス1954)

核実験により巨大化した蟻が人間を襲う。
蟻は都市の下水道網に巣をつくり、死闘の上それを人間が火炎放射器で駆逐する。

解釈
蟻=共産主義者
共産主義の脅威
冷戦のアレゴリー(たとえ)

硫黄島で地下壕をめぐらした日本軍
広島・長崎で原爆に被爆した日本人
蟻=日本人

ボディ・スナッチャー/恐怖の街(ドン・シーゲル1956)

カリフォルニアの小さな町の住人が、次第に眉人間に取って代わられる。取って代わる人々は元の人間とそっくりだが感情と情緒を欠如している。

SF/ボディ・スナッチャー(フィリップ・カウスマン1978)
リメイク版

解釈1 冷戦を描いた
共産主義による洗脳の結果、人々が全体主義国家に受動的にしたがう感情のないロボットになる様子を描いている。


解釈2 赤狩りを描いた

マッカーシー Joseph Raymond McCarthy 1908~57 アメリカ合衆国の政治家。1950年代初頭に非米活動調査委員会を舞台に共産主義者の破壊活動に対するキャンペーン、「赤狩り」の先頭にたってマッカーシズムをまきおこした。

ハリウッド・ブラックリスト (Hollywood Blacklist)
1940年代後半から1950年代中ごろ、映画俳優、映画監督、脚本家のグループが、彼らの人生のある時期に共産党と関連があったとされて非米活動調査委員会により取調べを受けた事件。

ハリウッド・テン(追放をうけた10人)(覚えなくていいよ!)
アルヴァ・ベッシー (脚本家)
ハーバート・ビーバーマン (映画監督・脚本家)
レスター・コール (脚本家)
エドワード・ドミトリク (映画監督)
リング・ラードナー・Jr (ジャーナリスト・脚本家)
ジョン・ハワード・ローソン (作家・脚本家)
アルバート・マルツ (作家・脚本家)
サミュエル・オーニッツ (脚本家)
エイドリアン・スコット (脚本家・プロデューサー)
ダルトン・トランボ (脚本家、映画監督)→「ローマの休日」脚本

SF映画
人間のもつ科学と技術文明に対する懐疑
エイリアンに投影される人間の恐怖と願望
科学がもたらす未来において先鋭化される人間の根元的問題の摘出
[PR]
by takumi429 | 2008-06-25 23:09 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

フィルム・スタディーズ入門 11 フィルムノワール

フィルムノワール
1941『マルタの鷹』(ジョン・シューストン)から
1957『黒い罠』(オーソン・ウエルズ)にかけて見られた
ある特徴を備えた犯罪映画の一群
あるいはその影響をうけた後続の映画

フィルムノワールの演出技法と撮影技法
表現主義的意匠(明暗法による斜めのフレーミング)が濃い影、シルエット、傾いた線、不安定な構図からなるコントラストの強い映像を生み出している。
ヴォイスオーヴァーやフラッシュバックといった主観的な技法
俳優とセットを等しく強調。

ドイツ表現主義(例:『カリガリ博士』)からの影響
ドイツから移住した監督:エドワード・ディミトリク、フリッツ・ラング、ロバート・シオドマク、ビリー・ワイルダー

物語とテーマ
ファムファタール(危険な魅力を持つ女)とはずれ者の(私立)探偵
脇役がネットワークをくみ、道徳的に怪しげなことをしている
曖昧な登場人物の動機、誤った手がかりを追う探偵、アクションの突然な変転
ナレーターないしコメンテーターが前面にでてきてヴォイスオーヴァーやフラッシュバックが多用される。
犯罪とその捜査が描かれる
現実味のある都会のセット
希望の喪失 絶望・孤独・懐疑心

ファムファタールfemme fatale
魅力的だが危険な女
家父長的価値観をと男性登場人物の権威を脅かす。
ファムファタールとヒーローとの闘争
第二次世界大戦による女性の社会進出にたいする男性の不安がもたらした構築物

最近のフィルムノワール
『L.A.コンフィデンシャル』
[PR]
by takumi429 | 2008-06-19 21:33 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

フィルム・スタディーズ入門 10 映画ジャンル(1)


ジャンル映画:ハリウッドの映画産業による大量生産品

ジャンルの例:メロドラマ、フィルム・ノワール、SF、時代劇などなど

作家論 個々の映画監督の作品を独創的にしている共通の特性を識別

ジャンル研究は特定の映画作品群を定義する共通の定義を識別

ジャンル映画へのアプローチ

記述的アプローチ:映画作品群が共有する特性にしたがって、それらを特定のジャンルへと分類する。

機能的アプローチ:1つの映画作品を歴史的および社会的な文脈へと結びつけようとし、ジャンル映画が社会の基層にある不安や価値観を具体化していると主張する。

神話としてのジャンル映画

繰り返されるパターンのより観客は先取り予測する。ジャンル映画は希望と約束を設定し、この希望と約束が成就されることで快がもたらされる。ジャンル映画が観客を満足させるのは、観客たちが解決したいと望んでいるこうした疑問や問題を解決してくれるから。
ジャンル映画は集団的な表現形式、社会に向けて掲げられた鏡。社会で共有された問題や価値観を具体化し、映し出している。

現実の問題に空想上の解決をあたえている。
ジャンル映画をみることは文化的な儀式である。
ジャンル映画を研究することは、このジャンル映画を生産し消費している文化を研究する方法の1つ。

(1)メロドラマ 

特性
メロドラマはしばしば1人の女性の視点から語られる。
メロドラマは被害者の視点から物語る。
メロドラマはヒロインを被害者に変える。
家父長的社会(男尊女卑のおじさん優位の社会)での女性が被る道徳的葛藤をテーマとしている。
全知の語り口の形式のもとづく。
プロット(語りの展開)は、予想外の展開とどんでん返し、偶発事と出会い、さらに秘密、から成り立つ。
道徳的な葛藤をもたらすところにドラマの肝がある。

(1.1) 堕落した女の映画
「これらの映画は、不倫や婚前交渉といった性的逸脱を犯した女性に関わっている。その伝統的なタイプのプロットでは、これらの女性は家庭的な空間から追い出され、長期的な凋落を経験する。
(リー・ジェイコブス『罪の報い』の定義)

『ブロンド・ヴィーナス』1932

ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督
マレーネ・ディートリッヒ主演

主人公(ヘレン)は夫を渡欧させて治療させるためにキャバレーに復帰し、富裕な政治家ネッドと情事を重ねた。完治して帰国しそれを知った夫に息子を奪われまいと息子をつれて逃亡し、貧窮し娼婦となり、ついに息子を奪われる。奮起してパリのキャバレーの花形として返り咲いたヘレンはネッドに会い、二人は息子に会いにアメリカに帰国する。別れた夫のもとに息子に会いに行ったヘレンはそこにとどまろうと決心する。

道徳的に許されないヘレンの情事と客引きは、作品の最後の、ヘレンの母性愛と家父長主義的な価値観への服従によって埋め合わされる。

(1.2)未知の女(unknown woman)のメロドラマ
男に思い出してもらうことに失敗した女のお話
(スタンリー・キャヴァルの研究による)

男性登場人物がヒロインを見分けられないことから、ドラマの道徳的葛藤・秘密・ドラマの展開の核がうまれる。

未知の女のメロドラマの要となるもの
未知の女はいかにしてかつて彼女が愛した男性に自分の存在をわかってもらうことになるのか、いかにして自分だけが覚えている秘密をその男性に打ち明けるのか。

『忘れじの面影』Letter From An Unknown Woman
(マックス・オフュルス1948)

(1.3)被害妄想の女の映画
夫が自分を殺そうとしているという妻の恐怖にもとづく
夫はたいてい再婚であり、以前の妻は奇妙な状況で死んでいる。
家のなかにあってそのヒロインが近づけない空間がある

シャルル・ペローの昔話「青ひげ」のバリエーション

ヒッチコック『レベッカ』(1940)
ロバート・スティーヴンソン『ジェーン・エア』(1940)
[PR]
by takumi429 | 2008-06-14 22:54 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

フィルム・スタディーズ入門 9 黒澤明

複眼性と多声性

音と映像の対位法
コントラプンクト 2つの異なる旋律を同時に進行させながら結合する作曲技法

ソ連映画『狙撃兵』狙撃兵を殺しにいくシーンでレコードの「サ・セ・パリ」が流れる。

『酔いどれ天使』肺病病みのやくざ(三船敏郎)が失意に沈むシーンで拡声器から流れる
「カッコウ・ワルツ」

『野良犬』犯人(木村功)と新米刑事(三船敏郎)との対決の場面にながれる近くの住宅で奥さんが弾くピアノ曲と子供達の歌声
映像と(外的なディエジェーシス上の)音響との対位法

同一人物の中にある対立が分裂した双子のような登場人物となる。
『野良犬』→『影武者』

「複眼の映像」(橋本忍)
『羅生門』
盗賊(三船敏郎)が駆け落ちしていた侍(森雅之)と妻(京マチ子)を襲い、妻を犯し、侍は殺された。この事件が、盗賊、殺された侍の霊を代弁する巫女、侍の妻、目撃者のきこり(志村喬)の立場からそれぞれ語られる。
「羅生門的現実」:現実は観察者の視点によってさまざまに違って現れる。

合同脚本
「黒澤組の合同脚本とは、同一シーンを複数の人間がそれぞれの眼(複眼)で書き、それらを編集して混声合唱の質感の脚本を造り上げるーーそれが黒澤作品の最大の特質なのである。・・・黒澤組のようにライターが先行して、一稿ないし二稿の叩き台を作り、特に決定稿では同一シーンを書き揃え、それらの取捨選択から、隙間や弱みのない、充実した部厚い、しかも新鮮な混声合唱ともいえる脚本を作るなど、日本映画界にも他に例がなく、・・・世界のどこにも例がない、黒澤明が主催する黒澤組独自のものといえるのではなかろうか。」(橋本忍『複眼の映像』177頁)

マルチ・カメラ
複数のカメラを同時に回して撮り、後から好きなカットを好きな時間だけ編集して、一本にまとめていく手法

『天国と地獄』急行こだまの車内シーン 八台のカメラ

パン・フォーカス 望遠レンズの多用
さまざまな登場人物の行動・表情を同時、圧縮してとらえる。

複数の登場人物の観点・思惑が交差する画面

『七人の侍』
[PR]
by takumi429 | 2008-06-05 23:40 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

フィルムスタディーズ入門 8 ヒッチコック

ヒッチコックはスタイルとテーマの一貫性によりすべての作家主義の批評家から作家と見なされている。

ヒッチコック映画におけるスタイルの統一性
(1)編集とモンタージュの強調
(2)視点ショットの数の多さ
(3)閉め切られた空間での撮影

ヒッチコック映画におけるテーマ
(1)捜査(たいていは殺人事件)の捜査にまつわる物語
    主人公は、捜査する者/される者
(2)告白と罪
(3)サスペンス
(4)完全犯罪の殺人
(5)間違えたれた男

上映
『サイコ』(Psycho)
監督 アルフレッド・ヒッチコック
製作 アルフレッド・ヒッチコック
脚本 ジョセフ・ステファノ
出演者 アンソニー・パーキンス、ジャネット・リー
音楽 バーナード・ハーマン
撮影 ジョン・L・ラッセル
編集 ジョージ・トマシーニ
公開 1960年


参考文献
ヒッチコック/トリフォー著『定本 映画術』晶文社
ドナルド・スポトー『アート・オブ・ヒッチコック』キネマ旬報社
[PR]
by takumi429 | 2008-05-30 01:03 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)

フィルム・スタティーズ入門 7.映画の作家性

演出技法:フィルムに収められる出来事、セットデザイン、照明、登場人物の動きといった、カメラの前に現れるもののこと

撮影技法:フィルムに収められる出来事、つまり演出技法がフィルム上の映像へと変換される方法

物語と語り口

作家主義
芸術家としての映画監督(作家)と技術者(演出家)とを区別する。


作家とは

自分の映画作品を通じてスタイルとテーマの一貫性を示している監督
撮影技法(どうカメラに収めるか)に独自性を持っている監督

アルフレッド・ヒッチコック監督『レベッカ』(1940年公開)

原作ダフネ・デュ・モーリア
制作デヴィッド・セルズニック(『風と共に去りぬ』(1939年)も制作)
ヒッチコックに原作に忠実に映画化することを要求。両者の軋轢。
プロデューサーは映画が製品として上映されるまでのあらゆることを統括する。
セルズニックの映画と言っていい。その支配下で独自のタッチを出す。

キャメラの中で編集すること

冒頭3:30-4:38
断崖から身を投げようとしている男に出会った娘
むだのない最小限の撮影によって編集者(そしてプロデューサー)も彼が望んだままのシークエンスに手を加えられないようにした。



作家主義の始まり

1950年代フランスの『カイエ・デュ・シネマ』
シネマティークで映画を見まくった「シネフィル(映画おたく)」の評論誌
評論家から映画監督へと変身(ヌーベル・バーグ)


フランソワ・トリフォー「フランス映画のある種の傾向」(1954年)
作家主義の批評家による宣言文

ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(1960年)
作家主義の映画制作者による宣言文


「フランス映画のある種の傾向」

フランス映画の良質の伝統とは

高い興行価値
スターとの信頼関係
ジャンルという約束事
脚本の優先

すなわち
良質の伝統が提供しているのは、脚本をフィルムに収めること、脚本を機械的にスクリーンに移し替えること以上の何ものでもない。

映画が映画たるゆえんは、ストリーの中身をうまく伝えることではなく、それを独自のスタイルでもってフィルムに収め、観客を魅了すること。
撮影技法こそ映画作家(監督)の独壇場である。

作家主義の映画作品
すでに存在しているストーリーを再現するのではなく、カメラの前で生じた成り行きの出来事を描き出すもの。
[PR]
by takumi429 | 2008-05-23 15:53 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)