カテゴリ:メディア環境論( 22 )

もしも映画論をもういちど講義できるなら

もしもまた映画論が講義できるなら
次の設問を与えて映画を見てもらおう。
1)『パリ・ジュテーム』「モンマルトル」

登場する二人はこの後どうなるでしょうか。

2)『ラ・ジュテ』

静止画だけからできた映画ですが、1ヶ所だけ動画がありますが、それはどこでしょう。その意味は何でしょうか。(私の答えも自信があるわけではないけどよくみてもらうために)。映画にでてくる年輪は何を意味しているのでしょか。
3)『めまい』

『ラ・ジュテ』と似たシーンが登場するしますが、それはどこでしょう。その意味はなんでしょう。あと繰り返しでてくる形(モチーフ)はなんでしょうか。
4)『ラン・ローラ・ラン』

『めまい』から借りたシーンや形がでてきますがそれは何でしょうか。
5)『サイコ』

途中で主人公マリオンに何かが起こりますが、そうした展開はなぜこの映画に必要だったのでしょか。
6)『12モンキー』

これは『めまい』ではなく、むしろ『ラ・ジュテ』のリメイクですが、なぜそう言えるのでしょうか。『ラ・ジュテ』には無いものはなんでしょうか。
7)『アメリ』アメリがいつも水切りをし、そのための石を大切なことの前に見つけるのはなぜでしょうか。セルフ写真機の回り出す丸椅子は何を意味するのでしょうか。写真の連続によってものが動いているように思わせ、物語を構成するのが映画だとしたら、こうした映画の原理が現れているシーンがいくつもあります。それはどれとどれとどれでしょうか。アメリが体現している精神は何でしょうか。
8)『羅生門』この映画の後、黒澤明は、集団脚本作成、マルチカメラという方法を用いますが、それはどんな方法だとおもいますか。この映画の特徴からそれを想像して答えてください。
9)『雨月物語』宮川一夫カメラマンの長回しが際立つ場面はどこですか、それを探してください。
10)『明日は来らず』途中でお婆さんが電話で話します。その声が大きいのはなぜでしょうか。また、映画の後半思いもかけない展開がまっていますが、それはなんでしょうか。車の売り手、階段の上のダンスホール、ラジオの放送などは何を意味しているのでしょうか。また、映画の後、二人はまた会えると思っているのでしょうか。

11)『東京物語』くりかえしあらわれるモチーフはなんですか。映画の最後の紀子の告白に性的な意味はあるのでしょうか。この場面によく似た場面を探して、それにこたえなさい。また『明日は来らず』との比較して、この映画のオリジナリティはどこにあると思いますか。


私の答え(忘れないうちに大急ぎで)(一部忘れてしまった(;_;)

(1)二人は結婚して子どもができる。車の車窓に順番に見える人々が、乳母車をおす母親、妊婦、恋人2人、そして運命の出会いのヒロインである。サイドミラーに映ったこれらの人々が移ることで、この順番は逆転する。ミラーに映らないことで主人公が異変に気づくのがこの運命の出会いのきっかけであり、この女性を送っていくだけかと思ったら、「待ちますよ」と言って送っていくだけでなく、治療のあとも待ち合わせるという発言になっていることから、主人公がこの女性と付き合おうと思っていることがわかる。こうして運命の出会いから二人の人生がはじまり、恋人時代→妊娠→子ども、へと進んでいくことが想像される。なお、逆転する時間というのはフィルムによって時間を写しとることではっきりと意識されるようになった時間のあり方である。

(2)ベッドで主人公を見つめるヒロインが瞬きする。まばたきは写真のシャッターを想起させる。この映画が静止画の連続である、つまり、一枚一枚、シャッターを切っていることとつながっている。

映画に出てくる年輪はフィルムの巻を意味する。もちろん、年輪は同心円でフィルムの間は螺旋なので完全には同一ではないが、年輪の外側、内側で別の時間にいることを語るのは、時間がフィルムに撮られ巻かれて保存されていることをふまえている。

(3)二人が年輪をみつめて、ここに自分がいる、そこにあなたがいる、という発言をするシーン。繰り返しでてるくモチーフは、うずまき。これはフィルムの巻、に類似している。

(4)三度繰り返しの冒頭のアニメのなかの螺旋階段。カジノでのブロンド女性の巻き髪の絵など。

5)主人公だと思われていたマリオンが突然殺されてしまうこと。映画の観客は主人公の眼を通して物語を観ていくので、ついつい主人公に感情移入をしがち。その結果、映画での「制限された語り」は主人公のレベルになりがち。主人公よりももっと観客のえる情報が制限されている、つまり主人公が観客のうかがい知れない面をもっており、観客はそれを最後に知らされる(『アクロイド殺人事件』の手法)には、この主人公への観客の同一化はジャマになる。それゆえ、最初、別の主人公に同一化させて、その主人王を殺すことで、観客の視線(同一化)を宙ぶらりんにすることにこの映画は成功している。

(6)時間が反復するだけでなく、主人公が過去の時間(過去の映像の集積=写真の連続のすきま)に入り込んでいるから。

(7)映画の編集とは必要な写真をピックアップすることだから。水切りのように。周り椅子はフィルムの巻をイメージしている。盲目の老人に周りの情景の部分を切り取り語ることで老人を素晴らしい世界の中にあると実感させる。管理人の元にある手紙の集積から都合の良い部分を抜き出して、配達されなかった虚構の手紙を編集した。などなど。アメリとは映画のモンタージュ(編集)の精神の化身なのである。

(9)一つの対象をマルチな視点からとらえ、それを適宜選択してつなぐ、という手法としては同じもの。

(9)京マチ子の舞から湖畔へとつながるシーンなどなど。

(10)歳を取って耳が遠くなっている、からではなくて、恋しい夫が(心理的に)とてつもなく遠くにいる、と感じているから。

急に不動産の男(長いコートが天使のつばさのよう)に連れられて、階段の上にある天国のようなホールでダンスする。声は天国からの声をイメージする。

(11)一番大事で、元ネタの『明日は来たらず』にないモチーフは、紀子に義理の母、つぎは義理の父(笠智衆)が話しかけるシーン。


紀子(原節子)の告白に性的意味はないのか。

死んだ息子のことは忘れて再婚して欲しい、という義父の言葉に「私、ずるいんです、夜寝ていると何かを待っているような気がするんです。そういうことはお母様には言えなかったんです」と言って泣く。私のつかった映画論教科書(Film:A Critical Introducton) によれば、映画の繰り返されるモチーフに注意せよ、とのこと。そこでこのシーンによく似たシーンはというと、紀子のセリフにあるように、義母とみ(東山千栄子)に再婚を進められるシーンがある。そこで、とみは紀子のアパートに泊まり礼を言う、「思いがけず、昌二(死んだ次男で紀子の夫)の布団まで使わしてもろうて」というとみの言葉に、紀子はうなじをかきあげる仕草、すこし身悶えしているようなとも思えるしぐさをする。亡き夫の残り香がある布団のことを言われてのこの仕草に、紀子が夫との性的営みを一瞬思い返していることをうかがわせる。また義父周吉との会話の前に、勤務校に出勤する京子を見送る紀子の姿のとなりに、盛りのまま立ち枯れそうな花が写っている。女盛りをあたら立ち枯せそうな紀子を象徴していると思われる。その直後に、「何か待っているような気がする」というセリフがあるのであるから、これはもう女盛りの自分を奪ってくれる存在を待っているのだという意味以外にとりようがない。
高橋治の『絢爛たる影絵』が直木賞候補になった時、選考委員が、「小津映画にやたら性的なものをみつけようとする解釈はどうも・・・」という批判があった。たしかに高橋本には、紀子の自慰までものべる小津の想像の会話が書かれており、読者はそこまでは考えすぎだ、と思ってしまう。しかし、この二つのシーンを比較すれば、このセリフに性的な爛熟を堪えきれなくなっている紀子の苦悩の告白を見るのは、むしろ正しい解釈なのだと言わざるを得ない。元ネタであるアメリカ映画『明日は来らず』と比較してみると、この紀子と周吉・とみの夫婦の血の繋がらない義理の親子の情愛とその描写こそが、この映画のオリジナリティだったと理解されるのだ。


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by takumi429 | 2014-08-31 09:18 | メディア環境論 | Comments(0)

『めまい』をめぐる映画群

ヒッチコック『めまい』をめぐる映画群

クリス・マルケル脚本監督の『ラ・ジュテ』(1962)
静止画の連続が映画なら、思い切って静止画(スチール写真)で映画を作ってみようという実験的試み
 この映画のリメイク:テリー・ギリアム監督「12モンキー」(1995)
主人公の時間移動とは、静止画の連続の中に別の静止画をすべりこませること。
時間はフィルムのロールの形となっている。
 年輪を見つめる二人 
 時間=年輪=フィルムのロール
 ヒッチコック「めまい」のシーンへの言及
 (映画は相互に参照しあう)
ヒッチコック『めまい』(Vertigo)(1958年)
高所恐怖症の元刑事は愛する人妻が鐘楼から身を投げて自殺するのをたすけられなかった。しかしその後、町でその人妻そっくりの女を見つける。そして、ふたたび鐘楼から落ちる女を男は見ることになる。
回帰し反復する時間ロールとなった時間

映画における編集
180度の原則 二人を撮り、次に交互に人物を撮る、さらに接吻する二人をアップで撮る。登場人物やその恋人になったような観客の感情移入を生む。
クロス・カッティング 走る来るKKKの映像と男に襲われそうになっている娘の映像を交互に撮る。娘の救出にむかうKKK

ジャン=ペエール・ジュネ監督『アメリ』(2001年)
(原題:Le FabuleuxDestin d‘Amélie Poulain 「アメリ・プーランの素晴らしい運命」の意)
編集は写真の断片を拾い集めて、ありもしない、でもあり得るかもしれない現実を作り上げる。
例:証明写真機に残された写真から恐ろしい人物を構築。手紙の断片を切り抜いてつなぎ合わせて妻への愛の手紙を作り上げる。
現実を編集し新たに組み立て新しい人生へと旅たつ主人公

映画とは(暫定的定義)
映画とは、編集によって、新たな、見たこともないような、すばらしい、恐ろしい、すてきな現実を作り上げる、そうした芸術である。


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by takumi429 | 2014-08-24 21:23 | メディア環境論 | Comments(0)

物語の構造

映画の物語の構造には、(1)物語の中身、と(2)物語の語りとがある。

(1)物語の内容(ストーリー、ファブラ)物語(narrative)は、因果関係や動機づけによってかたちづくられる。多くの場合、冒頭部(発端となる均衡状態)中間部(均衡の崩壊・過渡期)、結末部(均衡の復元)、という構造を持ち、たいていは主人公の成長・衰弱・死などの変容をともないます。

 この部分は、メディアへ移植可能な内容 時間順に起きる出来事 ABC
 物語の中身。映画だけでなくて、小説でも、マンガでも、アニメでも、RPGでも、移植して表現できる。

例 レ・ミゼラブル(元小説)ミュージカル、映画、マンガ・アニメ

指輪物語(元書物)映画 変形・派生体としてのロール・プレーイング・ゲーム

物語の世界 背景と登場人物(キャラクター)背景・ABC・・・

 移植された物語は「別伝」「スピン・オフ」となる。


(2)物語り(ナレーション、シュジェート)
 どのように観客に提示するか。 CBA

 どの視点から語るか 

(1)全知の語り(俯瞰視点・ゼロ焦点化):語り手は作中人物の誰かが知っている、ないしちかくするよりも多くを知っている、ないし物語る)。神(全知全能)の視点から語る。全知の語りでは、登場人物の視野に限定されず、観客は登場人物の誰よりも多くのことを知っており、その結果、サスペンス(はらはらどきどき)が生じる。

(2)制限された語り:限られた視点からの限られた情報だけが観客につたえられる。

①一人の登場人物の視点から物語られる(共有視点・内的焦点化)。語り手は、作中人物が知っている以上のことをかたらない。観客は登場人と同じことしか知らず、その結果、他の人物や出来事にたいするミステリー(なぞ)が生じる。例:漱石『三四郎』「ストレイ・シープ」

②出来事や人物の表面しか語らない(外在視点・外的焦点化)。語り手は、作中人物が知っているよりもわずかしか語らない。その結果、主人公にたいしてもミステリー(なぞ)が生じる。例:ヒッチコック『サイコ』観客が視点を共有する女主人公を殺すことで、だれとも同一化・共有できない視点から見ることを観客に強い、その結果、主人公の青年がなぞをもつ存在となる。

 物語の中の時間がどのように流れるのか

 どのように観客に提示 CBA
 どんな順番に、どんなスピードで語るか。 さかのぼったり、ハショッたり、ゆっくりしたり。配列・持続・頻度。


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by takumi429 | 2014-08-24 21:04 | メディア環境論 | Comments(0)

Ⅱ.パラパラ写真として映画

映画とは、24コマ/秒の静止画の連続(サイレント時代は16コマ/秒)
 目の錯覚で動いて見えるだけ
マイブリッッジの走る馬の連続写真Eadweard Muybridge, Galloping Horse1878

GIFアニメーションで動かしてみると、

階段を降りる裸婦

これもGIFアニメーションにしてみると、











クリス・マルケル脚本監督の『ラ・ジュテ』(1962)
静止画の連続が映画なら、思い切って静止画(スチール写真)で映画を作ってみようという実験的試み
 この映画のリメイク:テリー・ギリアム監督「12モンキー」(1995)
主人公の時間移動とは、静止画の連続の中に別の静止画をすべりこませること。
時間はフィルムのロールの形となっている。
 →年輪を見つめる二人 
 時間=年輪=フィルムのロール
 →ヒッチコック「めまい」のシーンへの言及
 (映画は相互に参照しあう)
ヒッチコック『めまい』(Vertigo)(1958年)
高所恐怖症の元刑事は愛する人妻が鐘楼から身を投げて自殺するのをたすけられなかった。しかしその後、町でその人妻そっくりの女を見つける。そして、ふたたび鐘楼から落ちる女を男は見ることになる。
回帰し反復する時間←ロールとなった時間

映画における編集
180度の原則 二人を撮り、次に交互に人物を撮る、さらに接吻する二人をアップで撮る。→登場人物やその恋人になったような観客の感情移入を生む。
クロス・カッティング 走る来るKKKの映像と男に襲われそうになっている娘の映像を交互に撮る。→娘の救出にむかうKKK。

ジャン=ペエール・ジュネ監督『アメリ』(2001年)
(原題:Le Fabuleux Destin d‘Amélie Poulain 「アメリ・プーランの素晴らしい運命」の意)
編集は写真の断片を拾い集めて、ありもしない、でもあり得るかもしれない現実を作り上げる。
例:①証明写真機に残された写真から恐ろしい人物を構築。②手紙の断片を切り抜いてつなぎ合わせて妻への愛の手紙を作り上げる。
現実を編集し新たに組み立て新しい人生へと旅たつ主人公

映画とは(暫定的定義)
映画とは、編集によって、新たな、見たこともないような、すばらしい、恐ろしい、すてきな現実を作り上げる、そうした芸術である。



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by takumi429 | 2014-08-24 19:11 | メディア環境論 | Comments(0)

Ⅰ導入 映画の物語世界

映画の物語世界がどのように構築されているか、まず具体的に

『パリ、ジュテーム』(Paris, je t'aime)(2006年)というオムニバス映画の、
モンマルトル(18区) Montmartre
監督:ブリュノ・ポダリデス/出演:ブリュノ・ポタリデス、フロランス・ミュレール
を見てみることにしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=EwOy9kfHZro



まんぜんと見ていてもなかなか見えてこないものですから、問いをたててみることにしましょう。

まず次の問いに答えるよう、1回見てください。
問い1 主人公とヒロイン、この男女はこの後、どのようになるでしょうか。つぎのなか選びなさい。
①男は女性を医者に送っていって、それきりになる。
②男と女は恋人同士になる。
③男と女は結婚して子供をつくる。
④この映画だけからは何も言えない。

では次の問いに答えるよう、もう一度見てください。この問いに答えると、問い1の答えがわかってきます。

問い2
この映画ではちょっとおもしろい仕掛けがでてきます。それはなんですか。その仕掛けに映るものはなんですか。その仕掛けに映るものの前に見えたのは何ですか。それらはなぜその順番になっているのですか。

さらにもう一度見て、次の問いに答えてください。(これはむずかしい。私なりの解答を後で提示します。答えが不確定なのは、解釈がさまざまにあり得るからではなくて、私の読み(解釈)がまだ不十分だからにすぎません。みなさんのお力をお貸しください。じつは問い1も、以前見せた受講生の皆さんからの回答で気づいたものです)。問いはすべて、ある解釈へと導くようになっています。

問い3 自動車のなかに運ばれた女性は、なぜ「音楽を止めて」というのでしょうか。(あるいは監督はなぜ、そう言わせたのでしょうか。
問い4 主人公にとってこの車とは何なのでしょうか。(車は車だよ、という答えではだめです。あなたにとって、携帯とは何か、というのと同じ種類の問いだと思ってください)。
問い5 二人が話しだした後に、「チンチン」という音が鳴ります。これは何の音ですか。
問い6 車が走り出すと、以前、車内で流れていた音が、物語世界の外から流れてきて、映像全体をつつみます。これは何を意味するのでしょうか?
問い7 この映画の音に着目すると、この物語についてどんな事が言えますか。

私の回答は6行下を見てください。

なお、断片的なカットと写真を組み合わせて、音楽とナレーションをつけて、宝塚メディア図書館の習作CMを、仲間と作ったことがあります。参考までにアップしておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=ZYyPI6v6Rus&feature=youtu.be

さて、私の回答
問い1 ③。①は「待つのはかまいません」という発言からありえない。あとの理由は問い2を見よ。
問い2 サイドミラーに女性が映らないので驚き車から出た。
車内から見えた通行人:①乳母車を押す母親、②妊婦、③恋人同士、④出会うことになる女性。
ミラーからは反対に映るわけだから、④→③→②→①の順になる。つまりこの出会いは二人が結婚して子供を作るというふうに進むことを暗示している。
問い3 ひとりぼっちの車をお気に入りの音楽で満たしている主人公に対して、その孤独に浸っていないで、私と話し合ってほしいという気持ちの表れ。
問い4 主人公の孤独な世界=車空間
問い5 モンマルトルの汽車の形をした観光バスの鳴らすベルの音。映画の最初にも、「道を空けてくれ」、という意味で鳴らしている。だが、そのときは主人公は駐車するのに必死でまったく聞こうともしなかった。
問い6 外の世界の音が、それまで閉じていた主人公の車の中に入り込んでくる。女性とであったことで、孤独な青年の外界との和解を感じさせる。

まだまだ、意味不明な所もあるけど、それはどのようにも解釈できるのではなくて、まだ私の解釈がゆきとどいていないだけのことです。より全体が明らかになり見えてくるような解釈(よりよい解釈)があったら教えてください。文化研究はよりよい解釈、より妥当する解釈を、厳密に(恣意的でなく)求めていく、まじめな厳格な学問です。文系学問を「好き勝手言っているだけ」と思っている人間は、単にものを知らない、それこそバカが好き勝手言っているだけのことです。
映画は、けっして「感じ」で作ったりはできません。全部、きちんと設計し計算して人や物やカメラを動かしカットを撮り、それをつなぎ合わせ、音をかぶせていきます。

物語世界とその語り方
(1)物語の内容(ストーリー、ファブラ) 物語の他のメディアへ移植可能な内容
①時間順に起きる出来事 A→B→C
 物語の中身。映画だけでなくて、小説でも、マンガでも、アニメでも、RPGでも、移植して表現できる。
例 レ・ミゼラブル(元小説)→ミュージカル、映画、マンガ・アニメ
指輪物語(元書物)→映画 変形・派生体としてのロール・プレーイング・ゲーム

②物語の世界 背景と登場人物(キャラクター)背景・A・B・C・・・
 移植された物語は「別伝」「スピン・オフ」となる。

(2)もの語り(ナレーション、シュジェート)
  どのように観客に提示するか。 C←B←A
   どの視点から語るか 主人公の視点から・神(全知)の視点から・表面だけしかわからない視点から
   例 『アクロイド殺人事件』物語は実は犯人だった男の手記として語られる
   どんな順番に、どんなスピードで語るか。 さかのぼったり、ハショッたり、ゆっくりしたり。


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by takumi429 | 2014-08-23 19:09 | メディア環境論 | Comments(0)

12.映像群のえせ物語(歴史)への回収

12.映像群のえせ物語(歴史)への回収

ベンヤミンは歴史の痕跡の集積の中から、歴史の向かうべき方向を示す風を受け取る「歴史の天使」を夢想した。つまり、映画は、映像を元ある場所から引き離なす。それはオーラを失なう。しかし、逆に視覚的無意識のもとにあったことを意識化させることができる。そして、痕跡としての映像(写真)を新たに集めつなぎ合わせ行くことで、新たな物語をえがくことができるのである。ベンヤミンはこの映画の手法を、歴史哲学の手法へと昇華させようとしたのだ。
写真は光の痕跡であり、その写った事物の指標(index)であるから、おなじく痕跡や指標となる事物ならば、写真同様に、その時代と社会の痕跡としてあつかうことができる。ベンヤミンは、こうした時代と社会の痕跡物が集められ陳列されている場所として、パリのアーケード(パッサージュ)を夢想した。どうじに、遺作となった『パッサージュ論』を、さまざまな文章から切り取られた引用(遺物)の集積として構想した。すなわち、作品がそれじたいひとつのパサージユにしようとした。読者(痕跡を読む者)は、みずから、その集積から、過去の歴史のあり方を発見して、そこから「時代の風」(世界の進むべき道)を、読み解き、さらには、新たな物語(=歴史)を構築していくこと、を期待したのである。
しかしベンヤミンの、この映画的手法への過剰な期待は裏切られた。
映画はたやすく人々を、英雄崇拝、ナショナリズムへの陶酔へと、引きずり込んだ。映画は、異化(脱オーラ化)した映像群を、観客がみずからの構想力・想像力でつないでいくのを待ってはくれない。むしろ、脱オーラ化した映像を、再度、安易な物語の連続性(コンティニュイティcontenuity)へと回収する。そのときもっとも力を持ったのは、(映画のコンティニュイティ編集もさることながら)、音楽である。
聴覚は視覚よりも、より時空間をつよく設定する。空間を認識する三半規管は耳に付随する。そして音楽は時間芸術である。音楽はひとつの時空間をもつ物語世界を、鑑賞者に錯覚させる。音楽をかぶせられた映像群はたやすくその異化作用を失い、再度、魔術をかけられて、心地よい物語(歴史)へまとめられていく。この音楽の再呪術化の作用のなかで、ベンヤミンの期待は裏切られていった。
しかし、安易な物語への回収を拒む(映像)作家と鑑賞者(読者)の協同は、こうした安易な物語(歴史)への回収を乗り越えて、時代と社会の、隠された意味を把握しつつ、新たな世界への構想を生み出しうることを、我々は信じたいと思う。


1)音が視覚にどんなに強い影響を与えるかの例としては、「マガーク効果」がある。
これは映像の中の自分物が、GA、と言っているのに、音がBAであるために、見ている人間には、DAと聞こえるというものである。
2)5秒間だけ目をつぶってみる。つぎに5秒間だけ耳をふさいでみる。これだけの単純な実験でも、視覚よりも聴覚の方が空間を認識させるということがわかる。
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by takumi429 | 2013-01-20 18:30 | メディア環境論 | Comments(0)

11.ゼーバルト『土星の環』 痕跡をたどる旅

11.M.G.セーバルト(Max Sebald 1944–2001) 『土星の環』(1995)
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イングランド南東部の海岸地方をめぐる、イラストと写真を多用した旅行エッセイ。
出版社の紹介文
「<私>はイギリス南東部を徒歩で旅し、過去何世紀にもわたる様々な破壊の跡を目にした。海辺で、資料館で、<私>の連想は、帝国主義時代のオランダの過去、ワーテルローの戦場跡を訪れた記憶、バルカン半島における虐殺の歴史、アフリカ大陸でのベルギーの搾取や略奪などへと続いていく。 
 <私>は旅先で多くの人びとと出会い、過去の様々な人びとを想起し、その生涯を辿る。コンゴで植民地主義の狂気を目の当たりにし、『闇の奥』を書いたコンラッド、「理想の国民」たる蚕を偏愛した西太后、フランス革命前後の激動をくぐり抜け、回想録『墓のかなたから』を書いたシャトーブリアン......。
 最後に<私>は、中国からヨーロッパにもたらされ、各国で国家事業として育成された養蚕に思いをはせる。養蚕を国家意識高揚に結びつける企図は、百年後ナチによっても鼓舞されていた......。
 思索や連想の糸がたぐられ、ヨーロッパ帝国主義による破壊と自然がもたらした災厄(さいやく)、古今の文人たちの生涯を辿っていく。誰も振り返らない往古の出来事、忘れられた廃墟が、時空を超えて呼び戻される。境界がなく、脱線と反復を真骨頂とする、ゼーバルト独自の世界。」

この作品を映像化したものが、PATIENCE (AFTER SEBALD)

今はさびれたイギリス南東部の海岸をたどり歩く<私>。
この南東部の海岸は、いわばヨーロッパ大陸に貼り付けられはがされたガムテープのようなものだ。大陸に起きた汚行・破壊のかけらが、この海岸に張り付いている。つまり、この地方は、世界の破壊と残虐の歴史を写し取ったネガのようなものだ。この細分化されたかけらは、かけらの集積ではあるが、土星の環が土星の重力を示すように、ひとつの環をつくっている。かけらの形をとった痕跡をひとつづつたどることで、そこから、人間の犯してきた残虐と汚行の歴史が、土星の環のように形あるものとして、<私>(痕跡を読む者)のまえに立ち現れてくるのだ。
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by takumi429 | 2013-01-20 18:11 | メディア環境論 | Comments(0)

10.『アメリ』 編集(モンタージュ)による人生の再構築

映画『アメリ』(2001)

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問い:主人公アメリはなぜ水切りをいつも(サンマルタン運河で)するのか。また水切りのための<いい>石をいつもひろうのか。

答え:水切りの石は、水面の何カ所をいわばピックアップしながら軌跡をえがいて飛んでいく。この映画は、人生という長大で膨大な映像の集積の中から、いくつかの映像をピックアップし直すことで、新たな人生へと多くの人々を旅立たせ、またみずからも旅立とうとする主人公アメリを描いた映画だから。アメリは水切りをし、あるいは水切り用の石を拾うことに、別の人生という物語を作り上げようする試みを、夢想しているのである。映像の集積の中から、いくつかの映像をピックアップし直すことは、フィルムのなかからいくつかの映像(カット)を抜き出し、それをつないで別の物語映画をつくる作業と同じである。つまり映画の編集と同じ作業であり、この映画は、映画の編集(モンタージュ)のもつすばらしさについて語った映画なのである。

例証:
①子どもの頃の宝箱をアメリに見つけられ贈られた初老の男。宝箱のなかの宝は、彼の幼年期の思い出の品、幼年期のその時々の「指標」(インデックス痕跡)である。その思い出の品から幼年期を思い返すことで、自分の人生の軌跡というものを改めて確認した初老の男は、別れて会っていない娘と孫に会うことで人生を軌道修正する(やり直す)決意をもつことができた。
②旅するドワーブ人形。妻を失った悲しみから立ち直れないアメリの父のドワーブ人形を、アメリは庭からはずし、スチワーデスの友人に頼んで、世界中のさまざまな名所に立たせて写真をとってもらう。そして、その写真を父親に送ってもらう。父親のもとには、世界中の名所に立つドワーブ人形の何枚もの写真が届く。その写真から、父親はドワーブが(じぶんで)世界を旅していると思う。これは写真の連続から物体の運動を観客に想像させる映画の基本原理の応用である。ドワーブの旅に励まされた父親は、亡妻の思い出にひたり家にこもることをやめて、みずから旅立つのだった。
③夫に捨てられ南米で死なれた、「マドレーヌのように泣く」アパート管理人マドレーヌ。アメリは、彼女の元にあった夫からの手紙から、いくつかのせりふを切り取り、並べ直し、コピーして紅茶に浸して、事故のために届かなかった手紙をねつ造する。30年後にようやく届いた手紙には、妻マドレーヌとやり直そうしていた亡夫の言葉がつづられていた。これはフィルムのなかから、適切なカットを選び、それをつなぎ合わせて、ひとつのストーリーとなる映画をつくる、という映画の編集の手法と同じである。手紙はアメリが作ったものだが、まったくのでたらめとはいえない。むしろ、本当に南米に逃げ客死した夫は本当に後悔し復縁をのぞんでいたのかもしれない。客死しなければ、アメリが作った手紙と同じような手紙を妻に書いていたのかもしれないのだ。映画のウソは「真実」を作り上げることもあるのだ。
④勤め先のカフェで、同僚と常連客とをくっつける。切り取ったフィルム(カット)とフィルム(カット)とを熱でくっつけつなぐ作業と同じ。
⑤街で困っている盲人に、街のさまざまな様子を声で伝えながら、駅まで案内するアメリ。街の様子はアメリによってピックアップされ語りによって構成され、それを聞いた盲人は、パリの街角の喧噪をひとつのまとまった情景として感受することができ感激して黄金色に輝く。編集によって退屈で当たり前にみえる情景が心をかき立てるシーンへと変化する、という映画編集の妙技、をイメージしたもの。
⑥自動写真機のゴミ箱に捨てられた禿頭の男の写真から、アメリの彼氏となる男ニノは、あやしい怪人をイメージしていた。断続的な写真の集積・連続から、不気味な人物の悪夢が立ち上がる。フィルムの中から勇ましい姿だけをピックアップしてつなぐことで、貧弱な劣等生男(ヒットラー)映像から民族の指導者(総統)が立ち上ってくる。レニ・リーフェンシュタールの映画の魔法と同じ作業。
⑦アメリの仕掛けた罠(サイズの合わない部屋履き、取り替えられたドアのノブ、水虫薬に取り替えられた歯磨き薬、未明に鳴るようにされた目覚まし、母親の電話から24時間心理カウンセラーの電話へと代えられた短縮ダイヤル)によって、自分が狂気あるいは神経衰弱に陥ったと錯覚する八百屋の店主。いくつかの映像をつなぐことで、おそろしい物語を作り上げる映画の手法と同じ。
⑧アメリは、出会ってたちまち恋に落ちた相手ニノに、落とした写真のアルバムを返すのに、地点と地点をつなぐようにして指示をし、写真と写真とつなぐようにしてメッセージを送った。水切りのように、破線を描いてつながっていくこの指示とメッセージは、映像をピックアップしてつなぐ映画をイメージしたものである。

結論:映画の手法を使ってまわりの人たちの人生を明るく、あるいは正しいものへと、変えていったアメリは、自分の人生も変えていったのである。
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by takumi429 | 2013-01-17 10:09 | メディア環境論 | Comments(0)

9.複眼の映像 黒澤明の方法

『羅生門』黒沢明監督、橋本忍脚本(1950年)
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原作『藪の中』芥川龍之介(1921年)
検非違使に問われた人物の証言だけから構成された歴史小説。
とくに、①盗賊多襄丸(たじょうまる)、②奪われ陵辱された女、③多襄丸にだまされ妻を陵辱され死んだ男(巫女の口を借りて語る)、の3者によって事件が語られるが、そのいずれもが一致せず、事件の真相はまさに「藪の中」のなかにあって不明のままとなる。
映画では脚本家の橋本忍は、事件を見ていた④木こりの証言、を付け加えることで、事件の真相を明らかにして、人間の欲望と矮小さとえがいた。
事件は、①盗賊多襄丸、②女、③男、④木こり、の4つの目から見た話として、4回、形をかえつつ反復される。
登場人物の目から事件をとらえる、というのは、複数の目(カメラ)から場面をとらえるということである。黒沢明はこの発想を展開して、シナリオの集団制作、マルチカム撮影方式へと発展させた。

シナリオの集団制作
複数の人間が協力してシナリオを書くというのは映画では別にめずらしいことではない。黒沢映画のシナリオの集団制作の際立った特徴は、机を中心に丸座になった脚本家たちが、同時に、同じシーンのシナリオを書く、ということにある。つまり脚本家の数だけの複数のシナリオができる。そしてそれをまわし読んでいちばんいいシナリオをえらび、そのシーンのシナリオの決定稿とするのである。
つまり同じシーンを複数の人間が描くのである。これは『羅生門』が同じ事件を複数の人間に語らせたのと同じ構造である。
丸座になった脚本家が同じシーンを対象にしてシナリオを書く、というのは、同じ対象をさまざまな方向から、複数のカメラで撮影するという、マルチカム撮影方式へと発展した。

マルチカム撮影方式
マルチカムとは、マルチ(複数の)カメラということ。つまりマルチカム撮影方式は、ひとつのシーンを複数のカメラで同時に撮影し、あとから一番いいカットを選んでつなぎ、そのシーンを構成する。原理としては、『羅生門』の、複数の人間の語りによって事件をとらえる、というのと同じ構造であることがわかる。

参考文献
橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』文藝春秋社(2005)

追記 写真はネット上から借りたもの。「RASHOMO「」が誤って「RAMONSHO」になっているが、写真の構成は優れているので、そのままお借りした。
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by takumi429 | 2013-01-11 18:40 | メディア環境論 | Comments(0)

8.ラ・ジュテ 映画を成立させる観客の2つの構成的想像力

ラ・ジュテLa jetée(1962) クリス・マイケル脚本・監督
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静止画(スチール写真)だけで構成された短編SF映画。

この映画を観ることで、私たちは映画を構成している2つの原理に気づくことになる。

鑑賞者は1秒間に24枚の静止画の連続を観ている。それを連続的な動きとみている。

映画における二つの不連続
①カットのおける不連続 1秒間24枚の静止画
②シーンにおける不連続 カットとカットが接続される

映画を成立させる観客の構成的想像力
①カットにおける連続した運動を構成する想像力 (残像効果による運動の視覚的錯覚によるものと言われるが、近年はその説に疑問も呈されていて、むしろ観客の想像力によるものではないかとも言われている)。
②シーンにおけるカットとカットを同一の世界のものとして構成する想像力
①運動構成的想像力
②世界構成的想像力
とひとまず呼んでおこう。
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by takumi429 | 2012-11-12 14:36 | メディア環境論 | Comments(0)