カテゴリ:社会環境論( 28 )

11.ショック・ドクトリンの時代としての現代

11.ショック・ドクトリンの時代としての現代

(1)カリガリ博士の家
映画『カリガリ博士』では、カリガリ博士は患者チェザーレを治療と称して、自分の操り人形に作り変え、彼をつかった夜な夜な殺人を犯していてしました。そして映画の最後では、カリガリ博士の病院が、実は登場人物全員を収容していることが明かされました。そう、私たちもカリガリ博士の病院のなかに収容されているのです。

(2)『ショック・ドクトリン』
2007年にカナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインが発表した『ショック・ドクトリン』もまた、ふたりの博士の登場から始まります。
 ひとりはカナダのユーイン・キャメロン博士。彼はCIAの援助をうけてモントリオールの病院で、精神患者に電気ショックを与え、その過去の記憶からなる心を消し去り、作りかえる実験を繰り返していました。CIAはかれのショック療法を拷問に技術として導入しました。
 もうひとりは、アメリカのシカゴ大学経済学教授でノーベル賞受賞者、ミルトン・フリードマン博士。かれはケインズ流の国家介入の経済政策を喘鳴否定し、過激な自由主義を標榜しました。その自由主義政策を実施するためには、それ以前の体制がクーデターや大惨事などによって一掃されること、つまり、ショックによって社会が白紙状態になることこそ望ましいとしました。
 この二人の博士のショックによる人間と社会改造という教え(ドクトリン)は、チリの軍事政権のおいて結合しました。社会民主党政権が誕生し、国有化されそうになった多くの企業が国有化されることになり、その所有を奪われそうになったアメリカの企業家は政府に働きかけ、CIAはその手先のピノチェト将軍を使って国家転覆に成功します。この軍事政権の下、シカゴ大学でフリードマンの教えを受けた学生たち(シカゴ・ボーイズ)が経済政策を担当して、政府の機関の多くを民営化して、過激な自由至上主義の政策がとられました。反対者は収容所に拉致されて、キャメロン博士のショック療法からCIAが開発した手法をつかって拷問を繰り返したのです。
 国家転覆や大災害というショックを利用して、弱肉強食の自由主義を導入して、一握りの富裕層と大多数の貧困層を生み出し、反対者は収容所でショック療法によって抵抗力を奪う。ショック・ドクトリン(惨事便乗型資本主義=大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革)が誕生したのです。
 この惨事便乗型資本主義は、フォークランド紛争を利用したイギリスのサッチャー政権、「連帯」による民主化革命後のポーランド、ソ連解体後のロシア、壁の崩壊後のドイツ、イラク戦争、津波の襲ったスリランカ、アパルトヘイトの後の南アメリカ、ロシアからの移民を受け入れIT軍事産業国家に変貌したイスラエル、と次々の登場していっているのです。
 この惨事便乗型資本主義では、政府の機関が(軍事や警察までもが)民営化されました。しばしば、政府の担当者が民間企業の経営者を兼ねています。こうした官と民が一体化した「コーポラティズム国家」では復興は一向に進まず、一握りの富裕層が利得を得て、大多数の貧困層はもといた場所から追い出されているのです。

(3)ショック=獣人化
 キャメロン博士が生んだショック療法とフリードマン博士が提唱したショックのあとのドサクサに乗じた過激な市場原理導入。この2つは偶然、同時に生まれたものなのでしょうか。
 そうではないでしょう。「狼が狼にたいするように」人が人に襲いかかる自由主義市場原理。これは文化や歴史をもった人間のいるところでは貫徹できないのです。本能のリミッターを失った人間は代わりに、歴史的にけいせいされた文化の中に生まれます。本能をもたないために限界をしらない行動にでてしいかねない人間は、この文化によって、限度を超えない自由をまなんでいるのです。しかしそうした秩序だった自由は、弱肉強食によって社会の富を独り占めしようとしている強者たちにとってはじゃまです。ショックによって人間が歴史と文化の枠をはずれ、本能のリミッターさえもたない「ケダモノ以下のケダモノ「となって互いに奪い合うこと。これこそが、強者たちの望む状態なのです。つまり、ホッブスの描いた自然状態こそ、彼らが望むものなのです。
 こうして人間がショックによって、ケダモノ以下の存在へと転落させられ相争うことを、ゾラの小説『獣人』にちなんで、「獣人化」と呼ぶことにしましょう。
 なぜなら、ゾラの『獣人』では、鉄道という危険な乗り物による恐怖と列車事故による大災害というショックによって、ケダモノ化した主人公たちが、列車殺人や愛人刺殺や機関車内での格闘と転落死、さらにブレーキを失った軍隊をのせた列車の疾走、というものが描かれているからです。

(4)塹壕から収容所
シュベルブッシュの『鉄道旅行の歴史』で明らかにされているように、もともと「ショック」なる言葉は、軍隊の一斉射撃や一斉攻撃によって前面にでてきた言葉です。
 第一次世界大戦において、このショックは、まずは塹壕のなかでの恐怖として現れました。この経験をした世代は「塹壕の世代」と呼ばれます。第二次世界大戦は基本的に第一次世界大戦でうまれた戦争技術と体験の拡大でした。しかし、ショックの新たな現れ方として顕著だったのは、収容所の体験でした。国と国との間の攻撃ではなく、国内における残忍な収容と処刑。このショック体験が第二次世界大戦以降のわれわれの思想の踏み絵となっています。いわゆる「アウシュビッツ以降」と呼ばれる時代、それが現代なのです。
 次回はこの収容所体験がもたらした時代診断を考察することにしましょう。
[PR]
by takumi429 | 2016-07-21 20:18 | 社会環境論 | Comments(0)

9(悪)夢工場としての現代

 9.(悪)夢工場としての現代

 今回は、ヴァルター・ベンヤミン(Walter Bendix Schönflies Benjamin 1892-1940)がとらえた近代、というよりもむしろ現代、を考えていくことにしましょう。

 疎外論から物象化論
マルクスにおいて、「疎外」とは、作り手である人間から産み出された物が、作り手の手を離れて作り手の、作り手である人間の手の届かない物になってしまうこと、いいます。
マックス・ヴェーバーの弟子でもあったジョルジュ・ルカーチは、この疎外論を『資本論』にもとづき、さらに発展させて、「物象化論」を提起しました。
物象化とは、作り手である人間が生み出した関係が独立して、ぎゃくに人間を支配してしまう事態をいいます。例えば、経営のために生きている人間、官僚制に支配される人々などがその例です。
貨幣の出現によって、使用価値とは別の交換価値が生まれ、その交換価値によって物事の価値が計られようになります。物象化論は、交換価値は一般的労働によって定まるのではなくて、むしろ交換関係という形式が結晶化して、その関係が人間を支配するようになることを明らかにしたのです。それは明らかにヴェーバーの「形式合理性」論の延長線上にある議論でした。
貨幣の流通によって、物や人の固有の価値ではなく、交換できる、誰にとっても通用する価値が、計られるようになる、また、そういう目で人や物をみるようになる。貨幣経済がもっとも盛んな大都市において、それがどういう精神構造を生むのでしょうか。それを示しているのが、ボードレールの散文詩集『パリの憂鬱』の中の「群衆」という詩です。

ボードレールの散文詩「群衆」(1961年)
「群衆を沐浴するというのは、誰にでもできる業ではない。群衆を楽しむことは一つの術である。そして人類をうまく利用して生命力を大いに飲み食いできるの は、ただひとり、揺藍にあった時、仙女から、仮装や 仮面への好みや、己(おの)が棲処(すみか)への憎悪や、旅への情熱を 吹きこまれた者のみだ。
 群衆、孤独。活動的で多産な詩人にとって、たがいに等しく、置き換えることの可能な語。己の孤独を賑(にぎ)わせる術を知らぬ者は、忙しい群衆の中にあって独りでいる術をしらない。
 詩人は、思いのままに自分自身でもあり他者でもあることができるという、この比類ない特権を亨(う)けてい る。一個の身体を求めてさまようあれらの霊魂たちと同じように、詩人は、欲する時に、どんな人物の中へ でも入ってゆく。彼にとってだけは、すべてが空席なのだ。そして、ある種の場所が彼に閉ざされているよ うに見えるとすれば、とりもなおさず、彼の目から見 て訪れるに値しないものであるからだ。
 孤独にして思索を好む散歩者は、この普遍的な融合 から、一種独特の陶酔を引き出す。群衆とたやすく結婚する者は、金庫のように閉ざされたエゴイストや、軟体動物のように殼にとじこもった怠け者などには永久に与えられることのないような、熱烈な享楽を識る のである。彼は、めぐり合わせが提示してくれる職業のすベて、歓びのすべて、悲惨のすべてを、自らのものとして受け容れる。
 人間が愛となづけるものは、この筆舌につくしがたい饗宴、すなわち、詩となり隣人愛となった魂が、目の前に姿を現す思いがけないもの、通りかかる未知のものに、己をすべて与えつくす、この神聖な魂の売荏 に比べれは、まことに小さく、まことに限られており、
まことに弱い。
 この世の幸福な人々に、彼らの幸福に優る幸福、より広大でより洗練された幸福があると、時おり教えてやるのは良いことだ、たとえ彼らの愚かな誇りを一瞬 辱めることにしかならむにもせよ。植民地を築く人々 や、民族を牧する人々、世界の涯に流謫の身の宣教者 たちはきっと、こうした不可思議な陶酔について何ほどか知るところがあるだろう。そして、彼らの天才が 自らのために作り上げた巨大な家族のさなかにあって、これらの人々は、かくも波瀾多き彼らの運命やかくも純粋な彼らの生活のゆえに彼らを気の毒がる者た ちのことを、時おり笑っているに違いない。」(阿部良雄訳『ボードレール全集IV』筑摩書房1987年 26-27頁)

ボードレールは、通りすがりの群衆 の誰にでも感情移入できる、そうした詩人の想像力を、「神聖な魂の売淫」と呼んでいます。彼のいう「神聖な魂の売淫」とは、人々が 互いに名も知らぬままにすれちがうような、そうした 大都会の孤独と陶酔のなかから生まれてくるものなのです。

ベンヤミンの評
ヴァルタ一・ベンヤミンはその著作「ボ一ドレ一ル における第二帝政期のパリ」のなかで、この詩につい てこう言っている。
「ボードレールが『大都市の宗教的な陶酔状態』について語るとき、その陶酔の主体はなざされていないけ れども、それは商品ではなかろうか。そして、あの『神聖な魂の売淫』---これと較べれば『人間が愛と呼ぶ ものは、まったくけちな、限られた、弱々しいものだ』といわれているの---は、愛との対置に意味があると するなら、じっさい、商品のたましいの売淫以外のものではありえない。」川村ニ郎・野村修訳『ヴェルター・ベンヤミン著作集6ボードレール新編増補』晶文社1975年75頁)
交換価値が支配する大都会では、だれにでも売られる、その価値こそが問題となる。そうした価値を推し量る想像力は、物や人の重々しい泥臭い固執から自由になって、軽やかに舞いながら物狂おしく高まり拡がっていく。
ここでは交換価値がもたらす物象化(関係のひとり歩き)が否定的にとらえられるのではなく、むしろ、大都会において出現する新しい詩的な想像力を生み出すものとされているのです。

ポーの紹介文
ちなみに、この散文詩「群衆」は、エドガー・アラン・ポーの短編「群衆の人」に想を得ています。ポーのフランスへの積極的な紹介者でもあり、また翻訳者でもあったボードレールは、その1852年の「エドガー・アラ ン・ポー、その生涯と著作」という論文でポーの「群衆の人」という短編について次のような言及をしています。(その後、この「群衆の人」は1855年にボードレール自身によって翻訳されました)。

「群衆の人」は絶えず群衆の中へと潜りこんでいく。人間の大海原の中で快感をおぼえっっ泳ぐのだ。震えおののく影と光に満ちた黄昏(たそがれ)がおりてくると、彼は静まった街区を逃れて、人間物質の生き生きとうごめく街区を熱心に探しもとめる。光と生の圏が狭まってゆくにつれて、彼は不安になってその中心を探す。洪水の時の人間たちのように、公衆の蠢動(しゅんどう)の最後の頂点をなすものに必死にしがみつく。それだけの話なのだ。孤独を忌みきらう犯罪者なのか?自分自身に耐える ことのできぬ馬鹿者なのか?」(阿部良雄訳rボードレール全集II』筑摩書房1984年116頁)

「群衆の人」
この「群衆の人」はポーが1940年に書いた短編です。舞台はロンドンです。Dコーヒー店の窓から外を見ている語り手は、道行くさまざまな人々をどんな人でどんなことを考えているだろうかと、詩的な想像力を働かせています。ところがひとりの奇妙な老人を見つけます。語り手はその老人だけは、どうしてもどんな人物であるか想像できません。そこでその老人を尾行することにします。老人はうちに帰ることもなく人混みのなかをうろうろ動くばかりです。人混みが密集し活発な所では、老人も元気に歩きまわります。しかし、人が動きもまばらな所では老人の動きはのろくなります。老人は人混みをもとめてうろうろと動いていき、いつまでも動きを止めることがありません。2日目の宵になり、もとのD店に尾行して舞い戻った語り手は、疲れ果てて老人の尾行を放棄し、あれこそは「群集の人」なのだとつぶやくのです。(小川和夫・佐藤正明 他訳『筑摩世界文学体系37 ボオ・ボ一ドレール』筑摩哲房1973年37-42頁)

 ボートレールは、この短編の始めの部分である、ガラス窓越しに行き過ぎる群衆を眺めては、その人々の履歴を読みとる「私」の 精神状態に、散文詩「群衆」の想を得ています。しかし ボーの物語の中心はそこではなく、むしろ絶えず群衆のなかに身をおいて、そのなかでブラウン運動のごとき動きをみせる謎の男こそが、この物語の中心なのです。
「神聖な魂の売淫」を「商品のたましいの売淫」と呼んだ、ベンヤミンにならって、私たちはこの「群衆の人」を貨幣になぞらえることができるでしょう。それは絶えず人と人との間にあって活発に動く。しかも自らはけっして変わることも、何処かに納まることもなく、繰り返し元の場所に返ってくる。市場での活発な商品交換にあって、この運動は活気づく。しかしいかなる商品をも購入することなく、その間をはじかれて動き続けるのである。それは、語り手が老人を評したように、「あらゆる巨大な知力、替戒心、吝嗇、 貧欲、冷静、悪意、残忍、得意、歓喜、極度の恐怖、 強烈な--この上ない、絶望といった諸観念」を担っ ており、そして「すべての犯罪の核心」となり得るのです。
 
 こうしてみると、ブラウン運動を続ける貨幣の化身を描いたポーの「群集の人」の影響を受けて書かれたボードレールの散文詩「群衆」のおける詩人の想像力「魂の聖なる売淫」を商品のもつ「たましい」である交換価値に起源をもつものであると指摘したベンヤミンの指摘は的をえたものだと言えるでしょう。そして、さまざま人の気持ちに同化してしまう詩人の想像力と、さまざまな人々の間でふらふらと歩きまわる遊歩人は、ともに、商品の交換価値を受容し媒介する貨幣の精神的な化身にほかならいないのです。

 ともあれ、ここでは、物や人が、その固有の価値(使用価値)から切り離されて、交換価値によって計られ売り買いされるという関係が否定的なものでなく、大都会の生み出す詩的な想像力として評価されているのです。
 この貨幣経済がもたらした、本来の使用される文脈からの物が切り離され、そうしてまったく別の使用文脈にありながらそこから切り離された、物と物が、(交換)価値が同じであるとして、等号で結ばれる(交換される)ということ。この、切り離しと結びつけ、こそが、ベンヤミンが20世紀前半にみいだした新たな思考の可能性を生み出す源泉でした。それをみていくことにしましょう。

 技術的複製可能性の時代としての現代
 ベンヤミンは、その著「技術的複製可能性の時代の芸術作品」(旧邦訳題『複製技術時代の芸術』)(Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit 1935)で、20世紀とは、技術的複製可能性の時代である、と規定しています。この技術的複製可能性とは、具体的言えば、写真とその連続である映画を指しています(この規定は現代にも通用します)。
 オーラの喪失 
 元来、芸術作品には教会や宮殿など、それが設置される場所が決まっていたものです。そこに置かれることで、その作品には独特のオーラ(Auraアウラ) が付随していました。
 しかし、写真によって作品のコピーが簡単に作ることができるようになりました。コピーはそれを作品が置かれた文脈・背景から引き離して見ることができるます。その結果、その作品がもともと置かれた場所でもっていたオーラは消えます。しかし逆に、それまで描かれていたのに気づかなかったものに気がつくことがあります。
 異化効果
 ロシア・フォルマリズムという芸術運動において「異化」Verfremdungというものが提唱されていました。「異化」とは「同化」の反意語です。
 ロシアフォルマリズムは、私たちはそこに日常文脈に埋没してなれっこになっている(同化した)ものを、その文脈から引きはがし、異形なものとして提示する(異化する)ことで、その美しさを、鑑賞者・読者に感受させるという、20世紀の美学を生み出しました。
 たとえば、風景をそれがなじみとけ込んでいる周りから切り離すことで、その風景を正視させることができます。すると、そのとき、その風景のもつ美しさが際立ってくるということあります。
 こうした工夫は京都のお寺のそこかしこに見られます。窓で庭の風景を切り取ったり、ふすまなどで区切ったり、門で矩形に区切って風景を切り取ります。そのことで風景の美しさが際立ってくるのです。
源光庵
悟りの窓・迷いの窓
c0046749_2127285.jpg

圓光寺の庭
c0046749_2127335.jpg


切り取られていないとふつうの紅葉の庭にしか見えない。
c0046749_21275727.jpg

南禅寺の大門
c0046749_21282633.jpg

c0046749_21284643.jpg

c0046749_2129018.jpg
 ベンヤミンの友人の劇作家ブレヒトは、この異化をつかって、観客にあらたな社会認識をうながそうとしました。慣れっこになっていることを、ことさら大げさに言ったり演じたり、強調したり、字幕を垂れ下げたりして、観客にその事がらに違和感を覚えさせ、注意を向けさせます。
 たとえば、京都の人が出てくる芝居で、「け、なんぼのもんじゃ」、という悪態を、How much are you?とか「お前の値段はいくらだ?」と言い換えたり、「おいくらですか、あなたは?」という字幕を垂れ幕にしてみたり、「なんぼ」というところで指で札を数える真似をしてみたりします。そうすることで、この悪態が、人の価値を貨幣価値で計るほど世知辛い流通の巷である都会人の悪態である、ことに気づかせるのです。
 そうすることで、芝居をみてスッキリした、という感想をもってもらうのではなくて、なんか後味が悪いけど、それはこの芝居がが私たちの社会をまさに描いているからなのだ、たしかに人の価値を「なんぼ」とお金で計るなんて、ずいぶんなことをやっているのだなあ、とかいうふうに、自分たちの住んでいる社会について気づかせるわけです。
 視覚的無意識
 風景の美しさも悪態の世知辛さも、もともとの風景や言葉のなかにあるものです。でもそれに私たちは慣れっこになっていて気づきません。目に見えるものでも、見えているはずなのに気づいていないものというのがいくつもあるはずです。
 たとえば、走っている馬の足はどういうふうになっているでしょうか。馬が走っているのを実物や映像で見ている人は多いはずです。でもそれがそんなふうだったかというとわからない人は多いでしょう。
 たとえば、馬が走っている時、その足はすべて地面から離れている時があるか、ないのか、という議論がありました。写真が最初発明された時に、マイブリッジという人はさっそくその問題を解決すべく、写真を利用されました。彼は馬の走っている姿を連続した写真に撮りました。

マイブリッッジ 走る馬の連続写真Eadweard Muybridge, Galloping Horse1878
その結果、馬の足がすべて空中にある瞬間がある、しかしそれはそれ以前に想像されたのとはちがって足を広げている時ではなくて、足をすぼめているだったのです。
テオドール・ジェリコー『エプソンの競馬』1821年(パリ・ルーヴル美術館)
こうして、視覚的無意識(見えているはずなのに見えていないもの)は、
写真に撮りその場から切り離して見ると、見えてくる(無意識が意識化される)、あ
あるいはその写真を組み合わせると見えてくるものがあるのです。
https://www.youtube.com/watch?v=4gLBXikghE0
クレショフ効果
さらにこの写真と写真との組み合わせによって新しい意味がうまれてくることがあります。
ロシアの映画理論家・監督クレショフ
写真の連続(カット)と写真の連続(カット)を接合させることで新たな意味生まれることをあきらかにしました(こうしたフィルムの編集のことをモンタージュといいます)。
たとえば、スープの写真(カット)の後に、無表情の男の顔(カット)を置くと、男は腹をすかせている、と観客は思います。また死んだ子どもの写真(カット)の後に、無表情の男の顔の写真(カット)を置くと、観客は、男は悲しんでいる、と思います。また、裸の女の写真(カット)の後に、無表情の男の顔写真(カット)を置くと、男は欲情している、と観客は思います。実際には、無表情の男のカットはすべて同じものでしかありません。それでも別のカットとつなぐことで、それはそれぞれ別の感情をもったショットだと観客には見えるのです。

また、クロス・カッティングという手法もあります。
ここでは2つの系列のカットが交互に組み合わせられることで、その双方が同時進行しているように見えます。
たとえば、A悪漢に襲われるヒロインというカットと、B疾走する騎馬隊というカットを交互につなぐ(A1→B1→A2→B2→A3→B3)ことで、悪漢に襲われるヒロインを救助すべく急ぐ騎馬隊、という物語で出来上がります。
http://www.youtube.com/watch?v=FMTQ9sU3XXw
ベンヤミンは、こうした映画のカット(写真)とカット(写真)のつなぎ合わせによる意味創造を、新しい芸術のあり方とみなしました。

『パサージュ論』
さらに、この映像の断片と断片のつなぎあわせという技法は、本文から切り離された引用と引用の結合という手法にまで拡大されます。それがベンヤミンが残した膨大な草稿である『パサージュ論』でした。
 パサージュpassageとは、19世紀末にパリで流行した商店街の形式です。アーケードの下にガラス張りの商店が左右に軒を連ねて通路となっているものをいいます。遊歩者は、区切られたガラスごしに商品群をA→X→B→Y→C→Zというぐわいに、順番に、ときには右側の店から左側の店へと視線を移しながら、見て歩くのです。
 ベンヤミンの『パサージュ論』19世紀末期のパリ都市文化をめぐるさまざまな引用を、元の本文から切り離して、まとめたものでした。読み手は、パッサージュを歩く遊歩者のように、読書していくことになるのです。

 無意識の顕在化としての夢
 フロイドがはじめた精神分析において、無意識は夢となって現れます。遊歩者がパサージュを通り抜ける時、近代の無意識が夢となって立ち上ってきます。あるいは詩人が、行き交う人をガラス越しに見ていく時、人々の共通して持つ時代の無意識が、詩となって現れる。
ガラス窓の枠で区切られた商品のイメージが連続していくなかで、都会の人々の無意識の欲望と願望が、写真の連続(映画)として立ち上がってきます(ベルリン交響曲)
 夢を、映像と音と音楽で実現したのが、映画です。引用と引用の集積を読み進めながら、近代の無意識を1つの夢として顕在化させるのは詩人です。あるいは、それはベンヤミンの最晩年の「歴史の概念のために」という文章において、巨大化する瓦礫の山(切断された物の集積)のなかに破局をみいだす「新しい天使」でもあります。
 遊歩者=詩人=歴史の天使。
 現代とは、切断された(そのことで隠された意味(無意識)を意識することが可能となった)断片の集積から、時代の無意識(夢)を、あらわとする(映画的)思考が、指導的な思想となる時代です。

 ベンヤミンの思想の皮肉な実現
 ベンヤミンが映画的思考とでもいうべきものに期待していたのに対して、映画的思考は皮肉な帰結をもたらしました。
 
 ナチズム 映画国家  
 ドイツのナチズムは、映画を利用することで政権を獲得し、かつ維持しようとしました。
 政治には、古来、行政と祭り事(政)の2つの顔がありました。祭り事としての政治をおこなう国家を「劇場国家」と呼びます。
 それにたいして、ナチズムは敗戦の直前まで映画を製作し続けました。それは、政権自体が、一種、映画のような、映像的英雄ドラマによる大衆動員だったからです。
 宣伝省という省までもうけて、それはドイツ民族(アーリア人)の幻想をかきたて大衆を先導し動員しました。ユダヤ人やロマ人や障害者・同性愛者を収容所に閉じ込め大量死させ、奪った財産を大衆にばらまくことで支持を得ていきました。
 映画の製作所はしばしば「夢工場」と呼ばれます。ナチズムは夢工場としての政権でした。しかしそれは抑圧され殺された者にとって悪夢の工場でしかなかったのです。
 レニ・リーフェンシュタール 
ナチズムの映画製作に積極的に協力したのがレニ・リーフェンシュタールです。彼女は
『意志の勝利』でニュールンベルグのナチス党大会を、『民族の祭典』で、ベルリン・オリンピック記録映画を監督しました。映像の断片を編集(モンタージュ)することで、偉大なるヒットラーとその党とドイツ第三帝国の栄光を描いたのです。

 ボルタンスキーの作品
 収容所に強制連行され殺された少年・少女の写真や、死者たちの遺品としての衣服などを集め、それを配置し設置することで、彼らがたどった過酷な運命を立ち上がらせようとする作品を作り続けているのが、フランスのユダヤ人芸術家クリスチャン・ボルタンスキーです。もともとは学校の写真などから切り取られ、そのうえで集められた写真の集積や、もともとはそれを着ていた人たちから引き離された衣服や遺品の集積を見ることで、私たちは、集められ連行され殺されていった少年・少女たちや人々のその後の過酷な運命を、知ることに成るのです。
 ベンヤミンの手法は、皮肉にも彼をも死に追いやったナチズムの歴史を浮かび上がらせるのにもっとも効果的なものとなったのです。
c0046749_22525217.jpg

クリスチャン・ボルタンスキー「プリム祭」1990年
白黒写真、金属製引出し、白布、電気スタンド



 ゼーバルト『土星の輪』
 ベンヤミンの手法を小説の形で写真などを多用しながら推し進めていたのが、ゼーバルトという小説家でした。彼の『土星の輪』という旅行記は、イギリスの東海岸のさびれた海岸線をめぐるものです。
 今はさびれたイギリス南東部の海岸をたどり歩く<私>。
 この南東部の海岸は、いわばヨーロッパ大陸に貼り付けられはがされたガムテープのようなものです。大陸に起きた汚行・破壊のかけらが、この海岸に張り付いています。つまり、この地方は、世界の破壊と残虐の歴史を写し取ったネガのようなものです。この細分化されたかけらは、かけらの集積ではあるが、土星の環が土星の重力を示すように、ひとつの環をつくっています。かけらの形をとった痕跡をひとつづつたどることで、そこから、人間の犯してきた残虐と汚行の歴史が、土星の環のように形あるものとして、<私>(痕跡を読む者)のまえに立ち現れてくるのです。
「痛みの痕跡」は無数の細かい線となって歴史を貫いている(ゼーバルト)。写真というのも光の痕跡にほかなりません。写真という光の痕跡を多用しながら、痛みの痕跡をたどり、歴史の隠れた像を浮かび上がらせる。ベンヤミンの手法を使うゼーバルトの小説も、ベンヤミンとその民族(ユダヤ人)を追いやった過酷な歴史を浮かび上がらせるものとなったいるのです。

NHK 『映像の世紀』
 映像の断片から20世紀前半の歴史と社会の全体像を浮かび上がらせる
[PR]
by takumi429 | 2016-06-30 20:59 | 社会環境論 | Comments(0)

宗教社会学 第7回

イスラエルは周辺の超大国(巨大帝国)に翻弄される地政学的運命にあった。

アッシリア

新バビロニア ネブカドネザル
捕囚

ペルシャ帝国 キュロス王 宗教寛大策
捕囚からの帰還
神殿再建

マケドニアのアレキサンダー大王 オリエントに大帝国をなす
死後分裂
ギリシャ文明の席巻

ローマ帝国の支配

サドカイ派 神殿貴族派
パリサイ派 民衆厳格宗教派
ゼロトイスト(宗教的熱意を持つ人々)

新約聖書 福音書+パウロらの手紙+黙示録
東地中海世界の共通語 コイネー(共通ギリシャ語)でかかれている。
イエスの時代のユダヤ人はアラム語(ペルシャ帝国公用語)を話し、礼拝の時だけヘブライ語を使う。

福音書 イエス・キリストの行状と教えと受難物語
共観福音書
マルコ 処女受胎・復活は触れていない
マタイ マルコ+Q資料
ルカ マルコ+Q資料

ヨハネ福音書




[PR]
by takumi429 | 2015-06-09 10:01 | 社会環境論 | Comments(0)

宗教社会学講義 第5・6回

第5回ナショナルジオグラフィック社製作『覆る聖書の常識』上映
第6回 古代ユダヤ教 のまとめ
創世記・出エジプト記によれば、
アブラハムが部族をひきいてウルを出てながい流浪ののちカナンにたどり着いた。
一時ユダヤ民族はエジプトにおりそこからモーゼにひきいられて30年の放浪の後、エリコを攻め込み定住した。
聖書考古学の新しい知見
ユダヤ民族は外からカナンの地に来たのではない。
都市王政の抑圧搾取を嫌った人々が、都市王政に反乱を起こし、山地に移り住んだ。
ユダヤ民族はずっとカナンの地にいた。
出エジプトはモーゼとわずかな人たちがエジプトから逃げてきたというにすぎない。しかし、モーゼがもたらしたヤハウェ神を、都市の圧政から逃げて山地にすんでいた人々には解放の神と受け取られた。彼らはこの外来の神を受け入れることで、自分たちの団結を固めようとした。

私見によるまとめ
かつて最も盛んだった都市王政のウルを出て、さらに、民衆全体が王の奴隷ともいえるエジプトから逃げてきた、という神話は、じつはカナン内部にあった王政と侵略者(海の民ペリシテ人)による支配から脱しようして、外来の神ヤハウェの名の下に団結して自らをイスラエルの民という宗教的アイデンティティーを創り上げた人々が、戦うべき対象、忌避すべき対象、逃れるべき対象として、東西の先進地の王政・王朝の名をかりて、カナンにおける王政・侵略者・支配者を弾劾したものにほかならなかった。

スェーデンの聖書考古学の学派は「ミニマリズム」を標榜して、聖書の記述を最小限しかみとめない。
しかし、その聖書考古学をもってしても、
エルサレムに巨大な城壁の跡があり、神殿が現在の岩のドーム(イスラムの聖所)のいちにあったようだ。さらに6つの部屋止めをもつ同じ様式の城門がカナンの各地にあり、外国の碑文にも、「ダビデの家」という記述がある、ことから、ダビデの名をもつ王朝が存在したことを、認めている。

文書資料説
J 神をヤハウェと呼ぶ。 遊牧民と交易収益が中心の南部の王朝の文書か?
H 神をエロヒームと呼ぶ。農耕の神(バール)など支配的だった北部(王朝)の文書か?
D 北部がアッシリアによって支配された後、国を立て直すために、倉庫の中から発見されたという形をとって、ユダ王国のヨシアがヤハウェ信仰を軸に国制引き締めをはかった(申命記改革)。そのときの神聖革命のために作成された文書。
P 新バビロニアによってユダ王国が滅亡し、バビロンに連行された(これを「捕囚」とよぶ)宗教者(祭司)たちが、バビロニアにあった創造神話などをヤハウェ信仰へと改変してまとめあげたもの。

イスラエルの内部は捕囚以前は多神教であった。ヤハウェは戦争の時に人々をまとめ鼓舞するために呼びかけ崇拝される神にすぎなかった。(このようなその時々の必要に応じて崇拝する信仰を「拝一神教」と呼ぶ)。しかし、ヨシア王とその周りの者たちは、アッシリアによる北部王朝の崩壊、エジプト王朝の興隆にはざまにあっての、ユヤダの国難を立て直すべく、「申命記改革」を断行した。しかし、バビロニアへ派兵を進めたエジプトのネコ王と戦い、ヨシア王はあっけなく破れ殺された(メギドの戦い)。
ヤハウェ神を中心とした申命記改革とその文書「申命記」を宙に浮いてしまった。

イスラエル北部では多神教信仰、とくに多産の神バールへの信仰盛んだった。それを厳しく批判しそのままでは国が滅びると告げてきたのが預言者たちであった。ヤハウェ神による罰としての国の崩壊、という図式は、南のユダ王国が崩壊したときにもてきおうされ、預言者はヤハウェ神はエジプトやバビロニアの軍隊をもあやつってユヤダに罰を与える、そうした世界神の地位を得るようになっていた。
その後、新バビロニアにより連行された祭司たちは、先進地バビロニアの神話を改変しながら、ヤハウェを絶対的で唯一の神へと昇格させ、その神観のもとにユダヤ民族の神話と歴史をまとめあげた。こうして、一神教としてのユダヤ教がうまれたのである。

預言書
イスラエル内部の階級対立 虐げられたイスラエル平民(債務奴隷)
他の神の崇拝(←多神教) 妬む神ヤハウェ
イザヤ書
第1イザヤ
第2イザヤ
第3イザヤ
13バベルの審判
エレミア書

[PR]
by takumi429 | 2015-06-02 08:07 | 社会環境論 | Comments(0)

宗教社会学 第4回 講義メモ

宗教社会学 第4回

ウル 都市王政 暴力を背景にした市民支配
洪水神話 文字の発生は経済文書(契約など)から 神話の記録へ
貨幣経済 借金のかたに奴隷奉公(債務奴隷)
ハムラビ法典でも3年で解放するようになどと警戒・警告
都市内での格差問題 階級対立

ヨセフ物語
パロ(エジプト王)の夢解き
7年の豊作と7年の不作
穀物備蓄で乗り切る
食料生産と備蓄が公共事業となっている
王と神殿のために人民を働かせ富(食料など)を生み出し再分配する 「ライトルギー経済」
ポランニーの交換の分類 互酬・再分配・市場経済

The Bible
出エジプト記

エジプト史
2王国
下エジプトと上エジプト
ナイル川下流のデルタ地帯 要の位置の都市 メンフィス
ナイル川中流域 中心都市テーベ
統一王朝 パレスチナを避けて海岸線の町を支配して交易路を確保
ペルシャ帝国支配下
アレクサンダー大王、ペルシャ帝国を破り世界帝国を作る。
大王の死後戦友のプトレマイオスが王朝(首都アレキサンドリア)を興す。
クレオパトラはギリシャ系 アラム語・ギリシャ語など他言語を話す。
だからローマ人のアントニオともシーザーともねんごろになれた。

神殿経済
規則的なナイル川の氾濫(7・8・9・10月)沃土(シルト)
増水季アケト7〜11月・播種季ペレト11〜3月・収穫季シュムウ3〜7月
公共事業としての農業と神殿建設
書記 :読み書き・数学(計算と測量)の重要性
耕地の測量技術の高さがピラミッドなどの神殿建設に生かされた
臣民を公共事業に従事させつづける体制 (ライトルギー経済)

メソポタミア 塩害があり、灌漑が逆に塩害をもたらした。
エジプトではナイル川の氾濫(増水)のため塩害なし

出エジプトは本当にあったのか。

『あばかれた聖書の常識』 前半
ウルからの離反とエジプトからの脱出という神話は何を意味しているのか。

メソポタミア 都市王政に支配される 階級分解 貨幣経済の発展 債務奴隷(ハムラビ法典で言及)
エジプト 国家に組織され隷属して働く臣民 全面的隷属

都市王政のもとでの債務奴隷化・絶対王政のもとでの隷属臣民化の忌避
そこからの離反・離脱

[PR]
by takumi429 | 2015-05-13 12:03 | 社会環境論 | Comments(0)

社会環境論 第3回 講義メモ

宗教社会学 第3回

「われわれに似せて人間を作ろう」という神々
多神教の世界 バビロニア神話
洪水神話
『100のモノが語る世界の歴史』「16フラッドラブレット」

ギルガメシュ叙事詩
The Epic of Gilgamesh

バビロニア=アッシリア文学 のなかで最も重要な作品の1つ。 古代メソポタミアの有名な英雄ギルガメシュの物語の集大成。 アッカド語 で記された文献は,ニネベのアッシュールバニパル の図書館跡出土の 12枚の書板がおもなもので,欠損部分は,メソポタミア各地およびアナトリアで発見された多くの断片により補足されている。 この原型というべきシュメール語 の断章が,前2千年紀前半に書き残されている。 歴史上のギルガメシュは,前3千年紀前半にウルク を支配した実在の人間で,キシュの支配者アッガと同時代であるとされている。 しかし,詩のなかには史実と思われることは述べられていない。 親友エンキドゥ が,女神イシュタル の怒りに触れ,12日間の病気で苦しんだ末に没したことから,ギルガメシュが不死を求めて放浪する,というのが本編の主要テーマ。

The Bibleアブラハムの生涯
イサクの献納
側女ハガル→イシュマエル 献納 →ベドウィン(遊牧民)アラビア民族

ハガルHagar
旧約聖書中の人物。 アガル Agarともいう。 アブラム (のちにアブラハム) の妻サライ (のちにサラ) に仕えていたエジプトの女。 サライは石女 (うまずめ) で子を得ることができなかったので,ハガルを夫に差し出し,ハガルはイシマエルを産んだ。 サライはハガルの増長を憎んだので母子ともにアブラムのもとを離れたが,イシマエルは全能の神ヤハウェによって大いなる民の祖となることを約束された (創世記 16~21章) 。

アブラハム セム族の祖先 神の声を聴いた預言者
アブラハムが出てきたウルとは
『100のモノが語る世界の歴史』「12ウルのスタンダード」
都市国家の表(平時)と裏(戦時) 暴力による支配
The Bible 出エジプト記
専制国家
東西の都市国家と専制国家を逃れてきた人々からなるユダヤ人


[PR]
by takumi429 | 2015-05-02 01:42 | 社会環境論 | Comments(0)

社会環境論 第2回 講義メモ

宗教社会学2
一神教の根本である旧約聖書の内容を大ヒットTVドラマで見ていこう。
Bible ノアの洪水物語 上映
NHK『モノが語る世界の歴史』「6大洪水伝説を語る粘土板」
二つの世界創造物語 比較参照
バビロニアの神話世界の残滓
原始海ティアマト 混沌の海と秩序創造
「われわれ」と名乗る神々 熟慮の複数?集団的人格?多神教の世界の残滓
ノアの洪水物語←ギルガメッシュ神話←シュメール神話
捕囚によるバビロニアへの祭司・貴族の連行
バビロニア神話を整理整頓する祭司たち 祭司資料
親父の神ヤハウェがフルチンで歩いていそうなヤハウィスト
4資料説(ヴェルハウゼン)
聖書を読むことはプロテステントが始めた。
何故なのか。
プロテスタント(カトリックの教皇体制に抗議)を生み出したルターの伝記をみてみよう。
ZDF 動画キャピチャーソフト(AGデスクトップレコーダー)←Vector
宗教改革とはメディア革命でもあった

[PR]
by takumi429 | 2015-05-02 01:40 | 社会環境論 | Comments(0)

社会環境論 第1回

社会環境論(1)

大人(大学卒)になるために必要な能力literacy (読み書き能力)とは

コンピューター・リテラシー (SMS依存のことではない)
Word・Excel・PowerPoint 無料ソフト:OpenOffice
AdobeのPhotoshop・Illustrator・Premiere Elements
InDesign(DTPソフト)
Postcast・E-learning(ネット大学など)
単体(スタンド・アロン)からインターネットでつながった(クラウド)コンピューター
メイル(手紙)の交換から情報の発信ベース
類似例:
往来物(手紙模範文集)が教科書となり情報誌となる
アルカイダ(場所)が拠点となる
福音の教えが増殖する
パウロの手紙が新約聖書の中核となる

メディア・リテラシー:メディアにだまされない力
ニュースは最低2つのチャンネルの情報を比較せよ
日本語ニュースは記者クラブによる官報
英語ニュースは米国・英国寄り
独語・仏語などのニュースチャンネルを得ると別の視点が得られる
歴史リテラシー(歴史を読み解く力);世界史を知らないとニュースも理解できない。
高校の世界史Aの教科書(カラー印刷で800円足らず)を読むのがいいけど、受験の暗い記憶もあってなかなか。
そこでおすすめなのがNHK高校講座、その「世界史」
他のおすすめ:「ろんりのチカラ」:クリティカル・シンキングの紹介
⚪︎「世界史」第1回 グローバルヒストリー (時間がなければカット)

宗教リテラシー
世俗化(脱宗教化)の極にある日本
日本を出るともっとも必要なのは宗教リテラシー(あるベンチャー企業の社長の弁)
宗教が関わっていないものごとを探すのが難しいほど。
そこで宗教リテラシーをつけてもらうために2冊の教科書を指定。

リテラシーとは、知識を蓄積することではなくて、理解し語ることができるようになること。
宗教を理解するのにまず必要なのは、宗教を求める人の気持ちを理解すること、と、
崇拝の対象への驚き・おののき・うやまい(畏敬)の気持ちを理解すること

⚪︎NHK高校講座「地理」の「中東世界」
プリント配布:一神教の比較
基礎となるユダヤ教
⚪︎「世界史」の「トルコ革命とパレスティナ分割」
プリント配布:エルサレム史
古代から現代にいたるまで宗教的沸騰地:中東

世界の3分の2を支配する一神教を理解しよう。
一神教を生んだ中東世界への理解
一神教の基礎となる旧約聖書の世界
ビデオを活用して理解を進めることにしよう。

⚪︎最後の授業にテストをするので必ず受けるように。



[PR]
by takumi429 | 2015-05-02 01:37 | 社会環境論 | Comments(0)

出エジプト 地図

http://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/1102003110
[PR]
by takumi429 | 2015-04-26 15:55 | 社会環境論 | Comments(0)

アブラハムの旅

http://www.moriel.org/Sermons/Japanese/Abraham%27s_Journey-Japanese.pdf

http://theologia.blog21.fc2.com/blog-entry-146.html

[PR]
by takumi429 | 2015-04-26 15:47 | 社会環境論 | Comments(0)