カテゴリ:社会環境論( 28 )

古代ユダヤ年表

年表 (Metzger1963訳書参照)

前19-17世紀 <族長時代>

前13世紀 <モーゼ時代>

前13世紀後半 イスラエル諸民族カナン侵入・定着(?) 「契約の書」

前12-11世紀 <士師時代>部族連合、戦時における大士師の指導 

前1000頃

前961 

前926 王国分裂

「デボラの歌」ペリシテ人(鉄器を持った海の民)の東進、

シロの神殿を破壊

<王国時代>

ダビデ即位

ソロモン即位

<南北分裂王国時代>

北王国 

前900頃 ヤラベアムⅠ世、ベテルとダンに金の牛の像を起き、聖所とする。オムリ王、サマリア845 エヒウ革命(預言者エリヤとに遷都。
カナン宗教蔓延 預言者エリア

エロヒスト」(H)

王母アタリアの独裁と死
預言者エリシャ

エリシャに指導された抵抗運動の指導下に,エヒウが〈ヤ
ハウェ主義革命〉を起こし,オムリ家を打倒)


南(ユダ)王国  
前850頃

845 エヒウ革命(預言者エリヤと

840 祭司による宗教粛正

前800 両王国の繁栄と社会的退廃

前733 シリア・エフライム戦争

前721 アッシリア軍によりサマリア

アッシリアに従属 反アッシリア同盟に属する

前721 アッシリア軍、エルサレム包囲 アッシリアへの従属 

前609  メギドの戦い ヨシア王の死         

前597 新バビロニア王ネブカドネザルの軍、エルサレム包囲 

前578 新バビロニア軍によりエルサレム陥落、神殿崩壊 

<単一王国時代>

ヒゼキア王 宗教粛正 アッシリアへの反乱

預言者イザヤ(後期)「エホウィスト」(J+H)

アッシリアの衰退 ユダ王国の一時的独立 

ヨシア王(前640-609) 申命記改革 ヤハウェ原理主義 

エルサレム礼拝独占、「申命記」文書(D) 成立
                     

預言者エレミア(前期)

エジプトの支配

新バビロニアの支配              

預言者エレミア(後期)

第一次捕囚 (上層民をバビロンに連行)

第二次捕囚 預言者エゼキエル

<捕囚時代>

捕囚地バビロンで「神聖法典」(レビ記17-26章)「祭司文

書」(P) 成立 預言者第二イザヤ

<ペルシャ時代>

前539  ペルシャ軍によりバビロン陥落

前538 ペルシャ皇帝キュロスⅡ世の勅令により第一次帰還

前538 ペルシャ皇帝キュロスⅡ世の勅令により第一次帰還

前515 サマリア人の援助を断り、その妨害に耐えて神殿を再建。

前458 ネヘミア、ユダヤ州の知事として着任。城壁再建、社会改革

前430 エズラの宗教改革進展。

エルサレム神聖共同体を確立。大祭司・長老組織による行政

「モーゼ五書」(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・

申命記)成立。

前331 アレクサンダー大王によりペルシャ滅亡

都市の王や貴族によって抑圧され奴隷にされることに抵抗し都市から逃げ出したカ
ナンの人びとは、同じようにエジプトの王の元から逃げてきたモーゼがもたらした
ヤハウェという神を受け入れ、このヤハウェの名の下に立ち上がり、イスラエル人
を名乗り、王侯貴族を打倒した。ところがみずからの国をつくるとふただび王がう
まれ人びとを搾取し隷属させようとする。王制を批判する人びとは、人びとを開放
した戦争神ヤハウェを持ち出すことで王制を批判する。イスラエルがその両側にあ
る大国によって滅ぼされると、民衆解放の神ヤハウェをないがしろにしたからであ
ると預言者は訴えた。預言はさらに、ヤハウェはエジプト、アッシリア、新バビロ
ニアの帝国をも操って、自らの神殿さえ壊して、イスラエル(のちにユダヤ)の人
びとを罰するのだと訴えた。その結果、ヤハウェ神は、世界を支配する神となり、
バビロン捕囚後には、唯一絶対の神となった。こうして、ただ1人の神を崇拝する
一神教がうまれた。

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by takumi429 | 2015-04-26 04:17 | 社会環境論 | Comments(0)

カルヴァンの生涯

カルヴァンの生涯

1509:フランスのピカルディーで誕生(ルターの26年後)。ドゥメルグによれ

ば、ピカルディー人は自由解放の精神に富んだ船乗りたちで、「勇敢にして短

気なピカルディー人」という慣用句がある。カルヴァンは怒りっぽい性格だっ

たと言われるが、自身の多くの書簡に「私は短気であることを告白します」と

いう文章がある。

1523:聖職登録し、パリへ遊学。

1529:父の意志により法律の勉強に転向。

1531:父の死により、生来の希望である古典文学研究者(ユマニスト)になり、文

学、古典文学の研究に没頭。

1532:『セネカ寛容論の注解』を刊行。世に知られるようになる。

1533:友人ニコラ・コップ、パリ大学総長就任演説に際して福音主義を説き、

教会を追われ亡命。この演説草稿を書いた疑いによりカルヴァンも亡命。

1534:回心を体験、福音主義陣営に入る。故郷に戻り聖職禄を辞退。パリで「

檄文事件」(教皇のミサの誤謬を攻撃したビラが、国王の寝室にまで貼られた

)が起き、数十人が処刑される。カルヴァンはバーゼルに亡命。

1536:バーゼルで『キリスト教綱要』初版本(ラテン語、全6章)を刊行。

   ついでフランス語版が刊行される。フェラーラからバーゼルへの帰途、

   戦乱のため道が通行止めになりジュネーブを経由。この地でファレルに

引き留められ、ジュネーブの宗教改革のために働く。

1538:教会改革についてジュネーブの当局者たちと意見が合わず、追放され、

ストラスブールへ。亡命者のためのフランス教会を建てる。

1540:3人の子を持つ未亡人イドレットと結婚。

1541:改革に失敗し、無政府状態となっていたジュネーブへ、再び招聘される


1547:過労のため悪性気管支カタルを疾病。生涯過度の徹夜により体力を酷使

。不断の偏頭痛のため口を開けられない状態が続く。

1553:三位一体を否定するセルベトスを告発。(市議会は火刑を宣告。

   カルヴァンは火刑を免れさせようと努力するが火刑が執行される)

1556:肋膜炎、肺結核に襲われる。

1559:ジュネーブ大学を創立。

1564:7つか8つの病気と戦いつつ死去。

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by takumi429 | 2015-04-26 04:13 | 社会環境論 | Comments(0)

マルチン・ルターの生涯と思想

マルチン・ルター

ルッターの生涯

 ここでルタ-の略年譜をあげておきましょう(徳善1912参照)

1483年(0歳)アイスレーベンで誕生(11月10日)

1501年(18歳)エルフルト大学教養学部に入学

1505年(22歳)法学部に進む。落雷を受けたのを着にアウグスティヌス修道院入


1507年(24歳)司祭となる。神学研究を始め、講義も一部担当とする

1507年(28歳)ヴィッテンベルクへ移る

1512年(29歳)神学博士、ヴィッテンベルク大学生聖書教授となる

1513年(30歳)第1回詩篇講義。塔の体験(1514年?)

1515年(32歳)ローマ書講義。[教皇レオ10世、ドイツでの贖宥状(しょくゆう

じょう)販売を許可]

1517年(34歳)95箇条の提題(10月31日)

1518年(35歳)第2回詩篇講義、ハイデルベルク討論、アウグスブルクで異端審

問を受ける

1520年(37歳)『キリスト教界の改善について』『教界のバビロン捕囚につい

て』『きシルト者の自由について』など、宗教改革的著作を相次いで出版。教

皇庁、破門脅迫の大教勅を発する

1521年(38歳)正式に破門される。ウオルムス喚問、帝国追放を宣告され、ワル

トブルク城に保護

1522年(39歳)ヴィッテンベルク町教会で連続説教。新約聖書のドイツ語訳を出


1523年(40歳)改革運動を開始

1525年(41歳)農民戦争。カタリーナ・フォン・ボラと結婚。『奴隷的意志に

ついて』を出版

1530年(47歳)アウグスブルク信仰告白を提出

1531年(48歳)ガラテヤ書講義

1534年(51歳)旧約聖書のドイツ語訳完成。『旧新訳聖書』として出版

1536年(54歳)創世記講義(~1545年まで継続)

1546年(63歳)アイスレーベンで死去(2月18日)

 ルタ-がドイツ語を作った

 ルタ-が聖書をドイツ語に翻訳した、というと、すでに共通のドイツ語があ

って、それへ翻訳したように思えます。しかし、じっさいには、大きくは低地

ドイツ語と高地ドイツ語に分かれる、さまざまな方言がしゃべられていたので

す(現在でもドイツのの方言はかなりの違いがあります)。文章語としては神

聖ローマ帝国の公用語はラテン語でした。だからルターが高地ドイツ語で聖書

を訳し、それが活字となって読まれることで、この高地ドイツ語がドイツの標

準語となったのです。

ヴェーバーの論文との関連でいえば、ルターの生涯で大きなポイントは、ルタ

ーがもともとアウグスティヌス修道会の修道士だったという点です。

西洋キリスト教の歴史において、それまでのゲルマン人をキリスト教化する大

きな推進力は、修道会と教会でした。

ローマの教会は当初はいつくかある大都市の有力な教会の一つにすぎませんで

したが、次第に力を強め、ローマ帝国の後継者としてゲルマンの王に皇帝の冠

を授けるという役割を演ずることで、(ビザンチン帝国のギリシャ正教をのぞ

く)いわゆるカトリックの世界において頂点に立ちます。

 このいわば、体制側とでも言うローマ教皇を頂点としたカトリック教会は、

領民から10分の1税を徴収する、教会が属するピラミッド型の組織でありま

した。

 かたや、修道会運動は初期キリスト教の理念の従った清貧と信仰の集団とし

て、民衆の尊敬を受けていました。(修道会はどうじに学問と技術革新の場で

もありました。ルターは修道会で学問をまなび聖書教授となりましたし、たと

えばシャンパン・ワインというのは修道士が発明したものです)。教会の腐敗

と堕落が蔓延するたびに、キリスト教内部からはいくつもの修道会運動がおこ

ります。修道会は、禁欲的に労働と祈りをもっぱらとする集団として現れまし

た。しかし、それは時にはあまりに極端となると、ローマ教皇を頂点とするカ

トリックの教会組織を脅かしかねない存在として現れます。カトリック教会は

極端でないものは、正統としてのお墨付きを与えて、自らの組織のなかに組み

込みますが、極端なものは異端として弾圧しました。

修道士たちの良き行いによる業績は「教会の宝」としてプールすることができ

るとしました。このプールされた「教会の宝」としてローマ教皇の裁量でほか

の人々に分け与えることができるとされました。教皇から宝を分け与えれられ

た人は、罪の償いを免じられる。こうして教皇が教会の宝を与える証明書が「

贖宥状」でした(徳善2012,p.64)

 しばしば「免罪符」と呼ばれますが、ただしくは「贖宥状(しょくゆうじょ

う)」が正しいのです。「贖宥」とは、カトリック教会で、「信徒が果たすべ

き罪の償いを、教会が免除すること」です。つまり、「罪を免じる」のではな

くて、罪を犯した人がその贖(あがな)い(つぐない)をしなくてもいい、と

いう証明書なのです。なぜなら、そのつぐないは、修道士たちがしてくれてい

てそのつぐないが教会にたくさん蓄えられていて、つぐないができない信者は

お金を教会に払うことで、そのつぐないを代行してもらえるからです。

 もちろん、罪も盗みや殺人とか背信とかの大罪を犯した者は地獄に落ちるし

かありませんが、償い可能な罪ならば、それは死後、「煉獄」という場所で神

から与えられた苦しみに耐えるならば、最後に審判では天国にいくことができ

るとされました。

 「煉獄」というのは、それまでの、天国と地獄の2つの死後の世界に、あた

らにつけ加えられた死後の世界です。「浄罪界」と呼ばれたこともあります。

カトリックの世界観では、死後の世界は、地獄、煉獄、天国の3つです。この

世界観をもっとも完成された形で表現したのが、ダンテの『神曲』という詩で

す。煉獄では人間は7つの大罪(傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲

)を業火を受けながら浄化するのです。

 ルターは罪のつぐないをお金で他の人に代理になってもらうなどというのは

とんでもないことだとしたのです。ではルターの思考はどのように生まれ展開

されていったのでしょうか。

 徳善(2012)によれば、ルターの宗教思想の始まりは、聖書講義をしている

時の躓(つまづ)きに始まります。

 ルターは大学で学生に講義をしている時に、聖書の『詩篇』第31編2節の「

あなたの義によって私を開放してください」という一節にはたと行き詰まって

しまいます。

 この詩句はダビデが神に訴えた歌とされています。普通に考えれば、「神が

与えた律法を私たちはまもっているのだから、神さま、神さまに正義というも

のがあるなら、その正義にもとづいて私たちをこの困難から開放してください

」という意味になるでしょう。別に「わからない」というほどのこともないよ

うに思えます。

 しかしルターは神の「義(正義)」というものをもっと厳格に考えていまし

た。それは神の「怒り」「裁き」であって、「救い」と結びつくものではない

。「わからない」。では、学生に教えられはしない。ルターはもがきます。

 ここでなぜルターは「わからない」と思ったのでしょうか。ふつうなら、「

神が与えた律法(きまり)をちゃんと守っているよ、だから助けて下さいよ

」、と読める部分が、ルターが「理解できない」と思ったのはなぜなのか。

 それは、神の与えた律法を自分がきちんと守っているという自信が持てない

からです。なぜ自信がもてないのか。自堕落だからか、いやそうではなくて、

自分にとても厳しいからこそ、自分のいたらなさをつねに感じているからこそ

、真剣に信仰しているからこそ、自分は律法をちゃんと守っているぞ、という

ようなおごりと満足を得られない、自分は徹底的に罪深い存在なのだと自覚せ

ざるをえないのです。「自分はそこそこいい人間だ、ちゃんとしている」とい

う薄っぺらなおごり(驕慢)は、絶対の神のまえに打ち砕かれるのです。

 ではどう解釈すべきなのか。ルターは言語学的にこの部分を調べます。

 「神の義」というのは文法的には「所有者の属格」という用法が使われてい

る。たとえば「お父さんの贈り物」という表現の場合、「贈る」という行為を

する主体は「お父さん」である。「お父さん」が「贈る」という行為をすると

、それは「お父さん」の手をはなれ、贈られた人のものとなる。「所有の属格

」というのはそういう用法である。だから、「神の義」というのも、神から人

間へと「贈り物」として与えられる、「義」はそれを贈られた人間の所有する

ものとなって人間は救われるのだる。ではその「贈り物」とは何か、それが神

の子、イエス・キリストにほかならない(徳善2012,pp.37-40)。こうして、旧約

聖書の「詩篇」のなかに、その後の「新約聖書」にかかれる救世主イエス・キ

リストの予告を、ルターは読み込んだのです。

 これによって、旧約聖書と新約聖書の関係もつきます。つまり旧約聖書は私

たちに律法をあたえ、新約聖書はそれを守れない罪深き私たちを救う救世主イ

エスを与えるのです。

 ルターはこの着想を塔の中で得たといいます(塔の体験)。ルターはこの着

想をさらに押し拡げ、「十字架の神学」というものを作り上げます。それは以

下のような内容です(徳善2012,p.60)

1.律法とそれにもとづく人間の行いによっては、人間は救われないこと。

2.罪に堕ちた後の人間の自由意志とは名ばかりであって、これによるかぎり

、人間は罪をおかすほかないこと。

3.神の恵みを得るには、人間は自己自身に徹底的に絶望するしかないこと。

4.神の救いの啓示(宗教的真理の人間への知らせ)は、キリストの十字架に

よってのみ与えられること。

「キリストの十字架」とは、神の子イエスが私たち人間の罪を背負って犠牲と

なって十字架にかけられたこと、そのことによって罪深き私たちは救われると

いうこと、でキリスト教の根本的な教えです。この教えは、イエスが捕らえら

れ十字架にかけられるという「受難」(passion)の話として、キリスト教徒には

繰り返し語られ、また絵画・彫刻・ステンドグラスなどで、字の読めない民衆

にも分かるように教えこまれてきました。

(イエスの受難物語についてはhttp://www.jizai.org/wordpress/?p=405)

(十字架にいたる7日間についhttp://ebible.web.fc2.com/jujika01.htm)

 さてこうした神学を確立したルターにとって、聖書に書いてない煉獄という

世界や金銭によって罪のあがないを免除されるとする贖宥状(しょくゆうじょ

う)というのは、許しがたい逸脱でした。そこで彼は学者としてこの問題を公

開討論にしようと、質問状の形で、つまり95箇条の提題として提起したので

す。

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by takumi429 | 2015-04-26 04:11 | 社会環境論 | Comments(0)

イスラエル史

年表 (Metzger1963訳書参照)

前19-17世紀 <族長時代>

前13世紀 <モーゼ時代>

前13世紀後半 イスラエル諸民族カナン侵入・定着(?) 「契約の書」

前12-11世紀 <士師時代>部族連合、戦時における大士師の指導 

前1000頃

前961 

前926 王国分裂

「デボラの歌」ペリシテ人(鉄器を持った海の民)の東進、

シロの神殿を破壊 契約の箱

<王国時代> サウル、王権樹立

ダビデ即位 エルサレムへ遷都

ソロモン即位 王宮・神殿の建設 「ヤハウィスト」(J)

<南北分裂王国時代>

南(ユダ)王国   北王国 

前900頃 ヤラベアムⅠ世、ベテルとダ

前850頃

845 エヒウ革命(預言者エリヤと

840 祭司による宗教粛正

前800 両王国の繁栄と社会的退廃

前733 シリア・エフライム戦争

前721 アッシリア軍によりサマリア

アッシリアに従属 反アッシリア同盟に属する

前721 アッシリア軍、エルサレム包囲 アッシリアへの従属 

前609  メギドの戦い ヨシア王の死         

前597 新バビロニア王ネブカドネザルの軍、エルサレム包囲 

前578 新バビロニア軍によりエルサレム陥落、神殿崩壊 

<単一王国時代>

ヒゼキア王 宗教粛正 アッシリアへの反乱

預言者イザヤ(後期)「エホウィスト」(J+H)

アッシリアの衰退 ユダ王国の一時的独立 

ヨシア王(前640-609) 申命記改革 ヤハウェ原理主義 

エルサレム礼拝独占、「申命記」文書(D) 成立

                      

預言者エレミア(前期)

エジプトの支配

新バビロニアの支配              

預言者エレミア(後期)

第一次捕囚 (上層民をバビロンに連行)

第二次捕囚 預言者エゼキエル

<捕囚時代>

捕囚地バビロンで「神聖法典」(レビ記17-26章)「祭司文

書」(P) 成立 預言者第二イザヤ

<ペルシャ時代>

前539  ペルシャ軍によりバビロン陥落

前538 ペルシャ皇帝キュロスⅡ世の勅令により第一次帰還

前538 ペルシャ皇帝キュロスⅡ世の勅令により第一次帰還

前515 サマリア人の援助を断り、その妨害に耐えて神殿を再建。

前458 ネヘミア、ユダヤ州の知事として着任。城壁再建、社会改革

前430 エズラの宗教改革進展。


エルサレム神聖共同体を確立。大祭司・長老組織による行政

「モーゼ五書」(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・

申命記)成立。

前331 アレクサンダー大王によりペルシャ滅亡

 4資料仮説(ユリウス・ヴェルハウゼン提唱)

 旧約聖書の律法(トーラー)、すなわち「モーゼ五書」(創世記・出エジプ

ト記・レビ記・民数記・申命記)は、おもに4つの文書から成り立っている。

文書名(略号) 成立期・成立場所 特徴など(JEはJとEの結合)

ヤハウィスト(J) 前10世紀統一王朝時代のユダ 神名「ハヤウェ」を使用

エロヒスト (E) 前9世紀分裂時代の北王国神名

申命記 (D) 前7世紀北王国崩壊後のユダ 捕囚期に増補改訂

祭司文書 (P) 前6世紀バビロニア 祭司が作成

エホゥスト (JE) 北王国崩壊後のユダ   JとEを結合

 生の座(Sitz im Leben) (ヘルマン・グンケル提唱)

 編集された文書には、以前からのさまざまな伝承(法律集をふくむ)が含ま

れている。文章の様式から、そうした伝承がおこなわれた場(生の座)を探ら

なくてはいけない。

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by takumi429 | 2015-04-26 04:05 | 社会環境論 | Comments(0)

「重右衛門の死」

「重右衛門の死」(明治355月)

(1)集団的人格の発見 (閉じた共同幻想へ)

(2)可視化される異常性・犯罪性

(3)イタリアのヴェリズモ(自然主義)文学との共通性

あらすじ

自分(語り手)はかって東京の私塾で信州の山村出身の青年らと知り合った。五年後、旅の途中で、自分は偶然にもその村を訪れた。平和に見えた村では連続放火事件がおきていた。犯人は重右衛門という四十ニ歳の男とその情婦となった十七歳の野生児である。しかし放火の現場を押さえられず、警察も手が出せない。もとは重右衛門は村でも指折りの名望家の跡取りであった。しかし睾丸の肥大という先天的不具者であるため、性格は屈曲し、長じて、放蕩を繰り返すようになった。家は没落し人手に渡った。腹いせにその家に放火した重右衛門は監獄にいれられた。六年後帰ってきた重右衛門は完全に無頼の徒となった。重右衛門は村人に物をせびり、断られると放火をするようになった。自分が訪問した夜も放火による火事がおき、さらに翌日も放火騒ぎがあった。その消火の手伝い酒を平然と重右衛門はあおっていた。村人との口論の後、酔いっぶれた重右衛門を世話役の号令のもと四五人の若者が連れ出した。二十分後、重右衛門は「田池(ため池)」で溺死していた。事件は終息したかに見えた。しかしその夜、全村は火の海となる。翌日、焼け跡から重右衛門の情婦だった少女の死体が発見された。

リンチ殺人

信州の山村で放火が多発する。犯人は身を持ち崩した「重右衛門」という男。犯人はわ かっているのに、現行犯でないため簪察は手が出せない。そこで起きた、村人によるリンチ殺人事件。

「おい、確(しっか)りしろ」

と世話役は叫んで、倒れたままいよいよ起きまじとするする重右衛門を殆ど五人掛かりにて辛くも抱上げ、なおぐずぐずと理屈を云いかけるにも頓着せずに、Xの字にその大広間をよろめきながら、遂に戸外へと伴れ出した。

一室はにわかに水を打ったように静かになった。今しもその一座の人の頭脳には、云い合わねど、いずれも同じ念が往来しているので、あの重右衛門、あの乱暴な重右衛門され居なければ、村はとこしえに平和に、財産、家屋も安全であるのに、あの重右衛門がいるばかりで、この村始まって無いほどの今度の騒動。

 いっそ・・・

 とだれも皆思ったと覚しく、一堂の人々は皆意味有り気に眼を見合わせた。

 ああこの一瞬!

自分はこの沈黙の一座の中に明かに恐るべく忌むべく悲しむべき一種の暗潮の極めて急 速に走りっっあるのを感じたのである。

一座は再び眼を見合わせた。

「それ!」

と大黒柱を後ろに坐っていた世話役の一人が、急に顎で命令したかと思うと、大戸に近 く座を占めていた四五人の若者が、何事か非常なる事件でも起こったように、ばらばらと 戸外へと一散に飛び出した。

      *          *          *

 二十分後の光景。・・・

 諸君、その三尺四方の溝のような田池の中には、先刻火酔して人に扶(たす)けられて戸外へ出たかの藤田重右衛門が、殆ど池の広さ一杯に、髪を乱して、顔を打伏して、まるで、犬でも死んだようになって溺れているではないか。

「一体どうしたんです」

 自分は激して訊ねた。

「何アに、先生、えら酔殺たもんで、つい、はまり込んだだア」

 とその中の一人が答えた。

「何故揚げて遣らなかった! J と再び自分は問うた。

 誰も答えるものが無い。

(『蒲団・重右衛門の最後』(新潮文庫)155-7頁)

「いっそ……」(「殺してしまえj )

語り手の「自分」は村人の心の声を聞く。しかしそれは誰がいったのでもなく、また特定 の個人の心の声でもない。村人たちの共同の心の声である。そして「なぜ助けなかった」 という「自分」に質問にたいする、村人たちの「沈黙」。そのとき、村人たちは一体と なって私刑の秘密を沈黙の闇のなかに押し込める。

ここにおいて花袋は語り手という「暗箱」に映ったものを叙述する自然主義のスタイルからはみ出しているといえよう。聞こえない声、それも特定の個人の声でなく、村落共同体の語られない「殺してしまえJという声。それを花袋は小説のなかに取り込んだ。

もしこの方向がさらにすすめられるなら、それは村人たちの語られない声、個人ではな く、村の共同体がもつ、決して語ることのない深層に押し込められた、凶暴な声を拾い集 めることになってしまう。

しかしそれを追求しては花袋の「片恋Jに学んだ「写真」的手法は瓦解しかねない。

花袋はおそらく二葉亭四迷が訳したツルゲーネフの「猟人日記」を摸して、連作として書き始めたこの小説はこの一作をもっ て終わらざるをえなかったのである。

 ではこの共同体の声なき声、個人でなく集合的な人格の声、決してあからさまにされることのない、深層に埋もれている、しかし殺害を命じる声。これを取り上げ浮かび上がらせる作業は誰か引き継いだ者はいなかったのだろうか。

 私たちはそう考える時、柳田国男の民俗学に出会うのである。

やなぎた-くにお【柳田国男】

民俗学者。兵庫県の人。東大卒。貴族院書記官長をへて朝日新聞に入社。民間にあって民 俗学研究に専念。民間伝承の会o民俗学研究所を設立。「遠野物語」(明治4 3年(19 10) ) 「蝸牛考」など著作が多い。文化勲章。(1875-1962)

共同体の深層にある殺害の記憶と声

 柳田は「後狩詞記」42

 今の田舎の面白くないのは狩の楽しみを紳士に奪われたためのであろう。中世の京都人 は縻と犬とで雉子・鶉ばかりを捕らえておった。田舎侍ばかりが夫役の百姓を勢子にして 大規模の狩を企てた・・・大番役に京に上るたびに、むくつけき田舎侍と笑われても、 華奢・風流の香も嗅がず、年の代わるのを待ち兼ねて急いで故郷に帰るのは、まったく狩 という強い楽しみがあって、いわゆる山里に住む甲斐があったからである。殺生の快楽は 酒色の比ではなかった。罪も報いも何でもない。あれほど一世を風靡した仏道の教えも、 狩人に狩を廃めさせることのきわめて困難であったことは、「今昔物語」にも「著聞集」 にもその例証がずいぶん多いのである。

「後狩詞記」42

「殺生の快楽は酒色の比ではなかった。」

柳田は「遠野物語」において「異人」殺しをする村人を描いた。

またそれは個人の声であってはならない。あくまでも共同体員の共同の思いでなくてはな らない。そうした共同の声を潜ませているものとして選ばれたのが伝承なのである。それ は誰か特定の者が言ったのでもない。村人全体によって語り継がれ、語り継がれることで 村人全体の潜在的な意識を現すものなのである。

柳田はそうした「集合表象Jを叙述するために、独特の文体をとっている。

そこには柳田によるきわめて厳格な統制が働いている。その統制がめざしているのは、村 人たちのなかに埋もれている、「異人」への恐怖、そして「異人」殺害の記憶の発掘なの である。

柳田の山人論は山奥深く探ると始源としての殺意がみいだされるという構造になってい る。-沖縄論:海の彼方へ始源としての日本をとどる旅

「山の人生」序文:山奥には人間の根源的な欲望(殺意)が眠っている

今では記憶している者が、私の外に一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不 景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞で 斫り殺したことがあった。

女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情で あったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子 たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつ も一合の米も手に入らなかった。最後に日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい 奢の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥に入って?寝をしてしまった。

眼がさめて見ると、小屋のローぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。 二人の子供がその日当たりのところにしやがんで、頻りに何かしているので、傍らに行っ て見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。阿爺、これでわしたちを殺してく れといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうで ある。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。

「山の人生J 93-94

欲望の喚起をする赤い光

諸君、自分はその夜更に驚くべく忘るべからざる光景に接したののである。.oo

自分が眼覚めた時には、既に炎々たる火が全室に満ち渡って、黒煙が一寸先も見えぬほど 這っていた。自分は、寝衣のまま、・・・戸外へと押し出された。

押出されて、更に驚いた。

夢ではないかと思った。

どうです。諸君。全村がまるで火!!! 鎮守の森の陰に一つ。すぐ前の低いところの一隅に 一つ。後に一つ。右に一つ。殆ど五六力所から、凄まじい火の手が上がって、それが灰色の雨雲に映って、寝惚けた眼で見ると、天も地も悉(ことごと)く火に包まれて了ったように思われる。雨は歇(や)んだ代わりに、風が少し出て、その黒烟とその火が恐ろしい勢で、次第にその領域をひろめて行く。寺の鐘、反鐘、叫喚、大叫喚!!

 自分は後ろの低い山に登って、種々の思想に撲れながら一人その悲惨なる光景を眺めていた。

 実際自分はさまざまな経験を為たけれど、この夜の光景ほど悲壮に、この夜の光景ほど荘厳に自分の心を動かしたことは一度も無かった。火の風に伴れて家から移って行く勢、人のそれを防ぎ難(か)ねて折々発する絶望の叫喚。自分はあの刹那こそ確かに自然の姿に接したと思った。

(『蒲団・重右衛門の最後』新潮文庫164-165

閉じた共同体のもつ異人への恐怖にみちた幻想:異人幻想 集団の「声なき声」:民間伝承

柳田国男『遠野物語』

閉じた共同性:民族国家をささえる幻想 異人への残虐さ戦時における残虐さ

本来、異人は交易へと開かれた存在である。それを恐怖する共同性はいわあ「閉じた」倫 理の支配する「閉じた共同体」と呼ばれるべきである。この閉じた共同性の称揚がなぜ行 われるのか。その蒙昧さを啓くのでなく、その恐怖の共同性を歌い上げるのはなぜか。

石尾の指摘によればこうした閉じた共同性は家産制下のライ卜ルギー経済のおいて称揚されるものである。諸共同体を統括する政体が疑似共同体の長として、いわば国家を「想像の共同体」として統括するとき、この閉じた共同性が持ち上げられ、開かれた倫理を放棄されるのである。

花袋のまなざし 放火-性欲=睾丸肥大(創作)

柳田のまなざし

ムラにおける集団的殺意の潜在

根源的殺害-ムラの集団的恐怖:笑いのない異人恐怖

佐々木鏡石の語り(ムラ人たちの観点) お化け話;哄笑との同居 を『遠野物語』として、村人の深層にある共同幻想を抽出したかのようにみせる。

(2)可視化される異常性・犯罪性

田山花袋は放火の原因として睾丸の肥大にみられる異常性欲を創作している。

こうした性欲から放火するという説を紹介しているのが、

呉秀三「放火狂を一証侯トシテ論ジ其二三ノ症例を挙グ」

(『東京医学雑誌』71893,pp.450-460,509-516,585-589,687-694,749-714,890-893,988-989

呉秀三は日本の精神医学の開祖とでもいうべき存在。

この論文は連続放火犯、永吉力松の精神鑑定の報告書。

ここで「放火ノ處行ヲ以テ一種ノ性慾ヨリ出ヅルモノトノ、狂疾ナキモ其疾性慾ノ為二此犯罪ヲナスモノアリトノ説ハ、嘗テ一時ニ行ハレタリ」と紹介している。

そして最後に永吉力松の顔の精密な銅版画を掲載している。

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この銅版画の意味は何か。

この連続放火犯の外見にその犯罪を引き起こす異常性を見出そうとしていないか。

チェザーレ・ロンブローゾ(: CesareLombroso 1835116 - 19091019)は、イタリア精神科医で犯罪人類学の創始者)

 犯罪生得説(犯罪者は生まれつき犯罪者でそれは頭蓋骨などの異常からわかる、という説)の提唱者

1876に上梓された『犯罪人論(L'uomodelinquente)』である。全3巻、約1,900ページにも及ぶこの大著において、彼は犯罪に及ぼす遺伝的要素の影響を指摘した。

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イタリアにおいてなぜこのような差別論以外の何者でもない議論がうまれたのか。

ここでイタリアという国が統一された過程を見てみると、

それは南部と北部との内乱状態を経ていることがわかる。

(ちょうどアメリカの南北戦争期と重なる、両国がウエスタンを生み出した理由か)。

「盗賊の顔つきをしている」者を虐殺しつくした将軍の語りは、ロンブローゾのそれと大差がない。

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  (東京書籍『世界史B2013,288-9頁)


南部とシチリア島の暴動

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ヒーローとしての山賊

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山賊ニコラナポリターノの死体の前でポーズをとるイタリア軍兵士1861 年から65年にかけて、全イタリア軍の3分の2ちかい兵士が南イタリアの治安維持のために配備された


 1860年以降の政府の最大の悩みの種は南部であった。晩年の力ヴール(彼は18616月に病に倒れ、急死した)も頻発する南部の暴動に悩まされたが、たいていの場合、軍によって鎮圧した。1860年代半ばまでには、政府が表向きは「山賊討伐」と呼んだ暴動鎮圧のため に、10万人ちかい兵士が動員された。南部の暴動や無法の横行は、たしかに犯罪であったが、改治的社会的な抗議でもあった。シチリア島民が新政府に猛反対したことの一つは、徴兵制だった。そのような制度は、それまでのシチリア島にはなかったからである。1862年の夏、ゴヴォーネ将軍はシチリア島で 徴兵忌避者を一斉検挙し、村全体を包囲して水の供給を断ち、「山賊らしい顔つきの者」は見かけしだい射段するという残虐な軍事行動を行った。この将軍は議会に喚問され、当時の作戦をたずねられたとき、殺しただけでは物足りないとでもいうように、シチリア.島民は未開人である、と暴言を吐いた。

(クスリトファー・ダガン著『イタリアの歴史』創土社2005年、197頁)


イタリア

欧米

日本

1647ナポリ、パレルモでスペイン支配に対する反乱

1674メッシナでスペインに対する反乱

1713ユトレヒトの和(スペイン領イタリアがすべてオーストリアに帰属)

1713スペイン、サルディーニャとシチリアを奪回

1720ハーグ和約(サヴォイア公、サルデーニャ王となる)

1737メディ家断絶

1764ナポリで大飢饉。ベカリーア「犯罪と刑罰」


1796ナポレオンのイタリア遠征(~97

1797チザルピーナ共和国成立。ヴェネチア共和国滅亡

1798ローマにローマ共和国成立。

1800ナポレオンのイタリア再遠征

1802ナポレオン、イタリア共和国大統領となる

1809ナポレオン、教皇領を併合

1814ナポレオン大尉、エルバ島に流刑。ウィーン会議(~15

1815ナポレオン百日天下。全イタリア、オーストリアの支配下に入る

1820ナポリ革命。シチリア革命

1821ピエモンテ革命

1831中部イタリア諸地域で革命。マッチーニ、「青年イタリア」を結成

1839イタリア初の鉄道(ナポリ―ポルティチ間)



1848パレルモの反乱。「ミラノの5日」の反乱。第1回イタリア独立戦争。

1849ローマ共和国政府樹立。フランス軍によりローマ共和国崩壊

1852カヴール、サルデーニャ王国宰相となる。

1855クリミア戦争に参戦

1857カヴール、パリ会議に参加

1857イタリア国民協会設立


18592回イタリア独立戦争

1860ガリバルディと千人隊のシチリア遠征。ガリバルディ、南イタリアをヴィッとーれ・エマヌエーレ2世に献上

1861イタリア王国成立


1860 政府軍、南部の「山賊」征伐(~65

1866シチリアで反乱










1911リビア戦争(~12)リビア併合宣言


19151次世界大戦にイタリア参戦

1919ミラノで「戦闘ファッシ」結成。ダンニツィオ、フィウメ占領

1922ファシスト、ローマ進軍。ムッソリーニ内閣成立

1925ムッソリーニ、ファシズム独裁宣言

1933産業復興機関(IRI) 設立

1935エチオピア侵略開始。国際連盟、イタリアに経済制裁決議

1938人種差別法成立

1939アルバニアを併合


1940日独伊3国同盟。イタリア参戦

1941伊独、ソ連、ついでアメリカに宣戦

1943連合軍、シチリア上陸。ムッソリーニ失脚

1944連合軍ローマ開放。北イタリアの主要都市の解放

1945ムッソリーニ処刑。パルチザン武装解除。第1次デ・ガスペリ内閣発足


1946国民投票により君主制廃止

1949北大西洋条約機構(NATO)創設に参加

1950南部開発公庫設置

1963第1次モーロ内閣(社会党入閣)

1970離婚法成立

1973共産党書記長ベルリングェル、歴史的妥協路線を提唱

1978「赤い旅団」によるモーロ元首相誘拐・殺害事件。妊娠中絶法成立

1991イタリア共産党解散


1651ホッブス「リヴァイアサン」


1701スペイン継承戦争(~14





1740オーストリア継承戦争(~48

1762ルソー「社会契約論」



1775アメリカ独立戦争

1789フランス革命













1830パリ7月革命


1838イギリス、人民憲章公表




1848フランス2月革命、ウィーン3月革命。ベルリン3月革命。マルクス、エンゲルス「共産党宣言」

1852ナポレオン3世即位

1854クリミア戦争(5456











1861アメリカ南北戦争(~65


1867オーストリア・ハンガリー帝国成立

1970普仏戦争(~71

1871ドイツ統一、パリコミューン

1873大不況始まる(~95

1877ヴィクトリア女王、インド女帝宣言

1887仏領インドシナ成立

1889パリ万国博覧会(エッフェル塔完成)




1914第1次世界大戦


1919パリ講和会議




1929世界大恐慌始まる

1933ヒットラー内閣成立

1936スペイン内乱




19392次世界大戦勃発

1940日独伊3国同盟








1947パリ講和条約


1949 NATO発足


1962キューバ危機

1965アメリカ、ベトナム北爆開始

1973パリ和平協定、ベトナム戦争停戦。

1986ソ連ゴルバチョフ書記長ゴルバチョフの「ペレストロイカ」路線

1989ベルリンの壁崩壊

1991湾岸戦争

1993欧州連合(EU)発足





1774前野良沢ら「解体新書」


1821伊能忠敬、日本地図を完成



















1853アメリカ使節ペリー浦賀に来航










1854日米和親条約










1867幕府・薩摩、パリ万国博覧会に参加


1868明治維新




1877西南戦争



1882松方財政(~85)によるデフレ不況により農民層の分解、農地の集中、中農層の没落、都市への流入

1894日清戦争(~95

1904日露戦争(~05

1910韓国併合


1918シベリア出兵


1925治安維持法、普通選挙法公布

1927金融大恐慌

1932 5.15事件

1933国際連盟脱退


1936 2.26事件

1937盧溝橋事件(日中全面戦争



1940日独伊3国同盟








1945敗戦



1951サンフランシスコ講和条約、日米安保条約調印

1960安保条約改定

1969学生運動激化

19702次安保条約改定


(3)ジョバンニ・ヴェルガGiovanni Verga18401922

 ゾラの自然主義文学の影響を受け、シチリアの現実を描いた(ヴェリズモ文学)

「グラミーニヤの恋人」:ヒーローとしての山賊に恋い焦がれてその子ども生む娘

「カヴァレリア・ルスティカーナ」:徴兵の間に嫁いだ恋人のとの関係に気づいた夫と決闘して死ぬ元狙撃兵

「赤毛のマルペーロ」:硫黄鉱山で父をなくし、自らも坑道の中に消えた赤毛の少年炭鉱夫

「羊飼イエーリ」:幼なじみのマーラとようやく結ばれた羊飼イエーリ。しかしマーラはおなじく幼なじみだった地主の息子ドン・アルフォンソの情婦だった。事態をようやく理解したイエーリは一瞬にしてドン・アルフォンソの首をかき切り、裁判官のまえに引きたらられた時「どうして!」と言った。「殺してはいけなかったの?・・・あいつがぼくのマーラを盗んだのに!」

「マラリア」:マラリアがすべてを奪っていく沼地で酒場のおやじは鉄道によってさびれた店をたたみ、信号夫となる。

「ルーパ女狼」:いつも腹をすかせている狼のように、情欲に飽くことのない女ルーパは、懲役帰りの青年を我がものとするために、娘とめあわせ、シチリアの真昼の小麦畑で、義理の息子となった男と愛欲をむさぼる。

田山花袋にも「一兵卒の銃殺」という作品があり、それは脱走兵の放火を描いている。

人々が、一種、けだもののようになってあい争う。「獣人」となった人々。しかし、それは動物への回帰でも、古代ギリシャへの回帰(D.H.ロレンス)でもなく、南部を搾取するかたちでのイタリア統一のもとでの、むき出しの人間性の現れにほかならない。

 田山花袋の小説と似たモチーフが現れるのは、国民国家形成という形で現れた近代化(そのもとでの「獣人化」)を両作家が描いているからにほかならない。


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by takumi429 | 2014-07-21 23:03 | 社会環境論 | Comments(0)

家族写真という装置

 明治文学のおける写真
 1.はじめに
 明治後半になって日本は近代的な国民国家としての形をととのえる。明治近代は、鉄道、写真、地図などの さまざまな文明の利器(装置)をもたらした。そう した装置は人々の集団表象(イメージ)にどのような作用をもたらしたのだろか。そしてその作用は、国民国家としての「日本」の出現とどう関わっているのだろうか。
 この明治後半の時代にもっとも密着じたかたちで作家活動をしていた、当時の「前衛」作家であった、田山花 袋のいくつかの作品(および彼の同時代人の作品)を読 むことで、この問題について考えたい。
 具体的には、『田舎教師』のなかの「地図」の意味、「少女病」という作品のなかでの「市電」のもつ意味、『重右衛門の最後』におけるパノラマ的視線の意味、などを取り上げる。
 地理学的な「地図」が、国家のまなざしの下で従軍する臣民(主体)と、作家のまなざしの下で(地図の上を) 移動する小説の主人公(主体)、をつなぐ装置(しかけ) であることは、勝又[1995]とKatsumata [1995]で、明らかにした。
 本稿では、田山花袋の『生』と、花袋とともに自然主 義文学グルーブの一員でもあった島崎藤村の『家』とい う、二つの小説を、その作品の中に現れる家族写真に着目しながら、読む。そうすることで、「写真」という装置が人々の表象のありかたにいかなる影響を与えたのかを考える手がかりを得たい。

 2.小説『生』のなかの写真
 明治41年(1908年)、田山花袋は、『読売新聞』に「生」という小説を連載した。この小説は、花袋の母親(てつ)の死(明治 32年8月19日)にいたるまでに田山家に起きたできごと をほぼそのまま淡々と描いた作品である。小説の叙述は時 間の経過どうりに進む。おそらくたいていの読者は この小説のだらだらした進行にうんざりしてしまうだろう。しかしこの小説には、最後に、きわめて魅力的な場面が現れる。

「兄弟三人 三軒の家は一家のように睦しく往来した。…
今日は女達が三人お揃いで、九段の鈴木に行って記念の 写真をとらうといふのである。…
車なので、存外早く、午少し前には、三人は写真を撮っ てもう帰って来て居た。
写真屋の話が始まった。
一週間目に其写真が郵便で届いた。割合よく写って居 た。写真の話が一時三軒の家を娠やかにした。… 序に写真を蔵つて置く小箱が其処に届けられる。明治 の初年に大阪で撮ったといふ大小を差した父親の写真はもう黄く薄くなって居た。それに兄弟が三人揃って撮した少年時代の写真、誰れだか陥らぬ丸雷の女と一緒に撮った中年の頃の母親の写真、死んだ叔母の写真、嫂の 写真、総領の姉の写真は其頃はやった種板其まゝの硝子製で、木の框の壊れて取れたのを丁寧に母が白紙に包んで蔵つ置いた。其の他に昨年英男と一緒に寫した母親の写真が一枚あつた。兄弟は皆なそれを手に取って見た。「 (田山[1993:15-8])

 母親の死後、息子兄弟とその妻たちが一同に会する。 一週間前に「鈴木」という写真館でとった女達の写真が郵便で届き、それを見ながら、ふたたび「写真の話」が盛り上がる。それを機会に昔の家族写真が彼らの前に広げられる(相馬注[1972:379]参照)
 単調だった叙述に、映画のフラッシュ・バックのよう に、過去の家族写真が挿入される。そうして失われた 家族と失われた彼らとの時間が思い起こされる。

 3小説『家』の中の写真
 花袋の『生』とおなじように家の歴史を扱った作品 に、島崎藤村の『家』がある。明治43年(1910)から 連軟されはじめ、翌44年にまとめられた。この『家』という小説は、藤村自身の島崎家および彼の姉が 嫁いだ高瀬家という二つの旧家が崩壊していくことを描いた小説である。
 あらすじをみておこう。
 主人公三吉(藤村)は、旧家制度から自由な、恋愛結婚による新たな「家庭」homeを望んでいた。しかし彼と彼の妻は現実には見合い結婚であり、結婚後も三吉が望むように、恋愛結婚ではなかった。結婚前には、妻のお雪には勉、三吉には曽根という、それぞれ思いをかけた相手があった。盗み読みした手紙から偶然、お雪の勉へ 気持ちを知った三吉は、身を引いて、お雪と勉を「恋愛結婚」させようとするが果たせない。結局、勉はお雪の妹お種の夫になる。西欧流の「恋愛結婚」による家庭の形成という三吉の夢はもろくも崩れる。
 旧家から逃れ恋愛結婚による家庭をつくることに失敗した主人公三吉。彼の欲望は、三吉の家に手伝いに来ていた姪たちへと向かう。しかし姪たちは実家に帰り、近親相姦の危機を脱した主人公は安堵する。三吉が関係しそこなった姪のお俊は結婚する。橋本家の家長の達雄は出奔し、また跡継ぎの正太も死んで、この旧家は崩壊する。三吉の家は、旧家の重苦しさとは異なり、若人が集う家であったが、この三吉の家にしばしば来ていた正太も、死んでしまう。また三吉の3人の娘もすベて死に、さらに妻のお雪の死も暗示される。こうして旧家どうように、三吉の家庭も瓦解するのであった。
 この作品でも写真というものがきわめて重要な働きをしている。それを見ながらさらに写真というものの意 味について考えてみよう。
 島崎藤村の小説『家』ではすくなくとも十回、写真が登場する。それを以下一覧してみよう。カッコ( )は、モデルとなった実在の人物の名前。
(1)三吉(藤村)が橘本(高瀬)家を訪問したのを記念して、三吉と橋本家全員の記念写真が撮られる (上巻ニ)。
(2)橋本家から届いたその記念写真を小泉(島崎)家の人々が見ながら語り合う(上巻三)。
(3)三吉(藤村)とお雪(冬子)の新家庭のもとにお雪の妹お福が訪れる。三人でお雪の昔の写真と三吉の昔の写真を見る。その際、お雪の実家名倉家に奉 公人で、(じつはお雪が思いをかけていた)勉という青年の写真が出てくる(上巻五)。
(4)三吉の女友達の曽根について、三吉とお雪が語り合っている。三吉の話から彼が曽根の写真を見せてもらうような関係であることをお雪は知り、しおれる (上巻六)。
(5)三吉の姉お種(園子)が三吉の家を訪れ、お雪の実家の人々の写真を見る。その中には、かつてお雪 が思いをかけ、今は妹のお福の夫となって名倉家の養子となった勉の写真があった(上巻十)。
(6)妻の留守中の家事手伝いにきていた姪のお俊(いさ)に、叔父と姪の関係以上のものを求めそうになった三吉は、お俊が実家の兄の家から帰ってこないことに不安をおぼえつつ、死んだ娘のお房(緑) の写真をみる(下巻三)。
(7) 家事手伝いの姪二人が実家に帰り、三吉はほっとしながら死んだ娘のお房(緑)の写真をみる。写真のガラスに反射した彼自身の顔を見ながら三吉は内省する(下巻三)。
(8)三吉とお雪の家に姪や甥たちがあつまり、三吉は 記念に写真を撮ることを提案する。三吉は橋本家の跡継ぎの正太と写真におさまる(下巻七)。
(9)お雪がお俊の結婚写真を取り出す。三吉はお雪との夫婦生活を反省する(下巻八)。
(10)橋本家の跡継ぎの正太が死んだという電報が届く。お雪は、間近のお産に不安を覚えつつ、正太の 写真を取り出し、死んだ三人の娘の位碑の前において燈明をあげる(下巻十)。(お雪のモデルである藤 村の妻冬子は実際にこのあとのお産で死ぬ)。
 2つ旧家の崩壊は、記念写真をとる旧家全員(1)とそれを見る旧家の人々(2)から、跡継ぎの死(10)への移行によって語られる。
 こうして小説『家』のなかに出てくる写真の描写を取り上げてみると、じつはそれがそのままこの小説の概要 になっていることがわかる。
 ではなぜ写真の描写と取り上げると、それがそのまま 小説の概要になるのか。それはおそらく、藤村 がこれらの写真のいくつかを実際に時間順に並べ、そうしてこの小説を書いていったからだ、と思われる。だから小説の節目節目に藤村は写真の図像を織り込んでいる。 この小説の緊密な構成は、じつは写真という装置を活用したことから生まれている。

4.反復・回帰する時間から、行きて帰らぬ時間へ
写真の出てくる場面ををもうすこし詳しくみてみよう。
三吉(藤村)と橋本(高瀬)家全員の記念写真の場面(上巻ニ)。

「母親さん、写真屋が来ましたから、着物を着替えて下 さい。」
こう正太がそこへ来て呼んだ。
「写真屋が来た?それは大夕忙だ。お仙--峰の子は こうしておいて、ちゃっと着更えまいかや。お春、お前 も支度するがいい。」とお種は言った。
「嘉助 みんな写すで来いよ。」達雄は店の方を見て呼んだ。
記念のため、奥座敷に面した庭で、一同写真を撮ることになった。大番頭から小僧に至るまで、思い思いの場 処に集まった。達雄は、先祖の竹翁が植えたという満天星の樹を後ろにして立った。
「女衆は前へ出るがいい。」
と達雄に言われて、お種、お仙、お春の三人は腰掛け た。
「叔父さん、あなたはお客様ですから、もうすこし中央 へ出て下さい。」
こう正太が三吉の方を見て言った。三吉は野菊の花の 咲いた大きな石の側へ勤いた。
白い、熱を帯びた山雲のちぎれが、みんなの頭の上を 通り過ぎた。どうかすると日光が烈しく落ちて来て、撮影を妨げる。急に嘉助は空を仰いで、何か思いついたように自分の場処を離れた。
「嘉助、どこへ行くなし。」とお種は腰掛けたままで問いた。
「そこを動かない方がいいよ--今、大きな雲がやつて 来た。あの影になったところで、早速撮って貰おう。」と 正太も注意する。
「いえ---ナニ---私はすこし注文があるで。」
と言って、嘉助はみんなの見ている前を通って、一番日影になりそうな場所を択んだ。ちょうど旦那と大番頭 とは並んだ。待ち設けた雲が来た。若い手代の幸作、同 じく嘉助の枠の市太郎、みんな撮った。
(島崎[1967:254])

 大きな旧家というものは一種の経営体のようなものである。血縁者ばかりではなく、重要な使用人もその構成員である。だからのちに家長の達雄は出奔してしまった後、橋本家を支えるのこのは大番頭の嘉助である。こうした番頭までふくめた旧家の輪郭が写真によってくく られています。この場面にみられる華やいだ晴れがましさからわかるように、いわば写真撮影は一種の「祝祭」であり、それによって集団の結合の確認される。
 しかし家の「祝祭」には盆や正月などの儀礼もあった。かつての儀式はつねに反復され、反復 をされることで永遠へとつながっていました。家が永劫 に続くものとしてその同一性を確保するものであった。家族の統合を確認する機能は家族写真が果たすものになった。しかし写真に写された「今」という瞬間はたちまちのう ちに過ぎ去っていき、喪失惑をもたらす。儀式に よって反復される時間ではなく、つねに失われいく 「今』という瞬間の、その連なりとして、絶え間なく変化していく時間というものが、写真によって意識されるようになる。

 橋本から写真の着いた日は、実は用達に出て家にいな かったが、その他のものは宗蔵の部屋に集まって眺めた。
「達雄さんもフヶましたね。」とまたお倉が言った。… 故郷にあった小泉の家---その焼けない前のことは、いつまでもお倉にとって忘れられなかった。橋本の写真を 見るにつけても、彼女(お倉)はそれを言い出さずにいられなかった。
(島崎[1967:263])

「達雄さんもフケましたね」という言葉に現れたよう に、写真は見る者に時間の推移を鋭く突きつける。ここでは時間は反復されるものではなく、絶え間なく過ぎ 去っていく。さらに突きつけられた時間の推移 は失ってしまったものへの郷愁を呼び起こします。橋家の写真を見ながらお倉は失った「小泉の家」を思い出す。
 盆や正月の家族団らんや家と家との間にとりおこなわ れる結婚式などの「祝祭」儀礼はこうした喪失惑とは無縁である。それは年輪のように家の記憶を太くする。しかるに「家族写真」という「祝祭」は撮られた瞬間の「今」から絶えず遠ざかっていくことを意識させる。写真とは、「失われた時」を意識させる、そうした「装置」なのである。

 5.写真による小説の時間の形成
 この小説では、家族が経ていく「飴のようにのびた」時空間の流れを、瞬間において切断したその切断面が、写真となって最後に読者に提示されている。写真という装置によって、「失われていく今」の連続として家族の記憶はつくられていく。
 田山花袋の『生』での、「父親の寫真」、兄弟の「少年時代の寫真」、「中年の頃 の母親の寫真」、「死んだ叔母の寫真」、「嫂の寫真」、「総領の姉の写真」、「昨年英男と一緒に寫した母親の寫真」、これらはすべては失われた人々と失われた時間の記憶である。
 ほんらい、人間の記憶は、決して時間順の行儀よく。それも等間隔に整理されているわけではない。私たちは自分にとって重要なことなら、それがどんなにむかしのことでも昨日のように思い出す。そのかわり、さして重要でもないことはすぐに忘れる。
 だからこの花袋の『生』と藤村の『家』という小説のなかを流れている時間は、本来私たちが物事を思い出したり覚えている時間とは、異な形式の時間なのだ。そしてそうした時間を成立させているのが、この家族写真という装置なのである。
 この『生』の末尾で出てきた写真群全体をつなぐよう な、田山家の年代記とでもいうべき小説をのち(大正5 年)に花袋は書く。その小説の題名が『時は過ぎゆく』であるのは決して偶然ではないだろう。おそらく、この『生』でもちいた写真による過去の想起と写真による時間の配列・設定、その結果としての「ゆきてかえらぬ時の流れ」という小説のなかの時間性、の展開として小説『時は過ぎゆく』は位置づけられるだろう。


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by takumi429 | 2014-07-13 21:26 | 社会環境論 | Comments(0)

少女病

「少女病」:電車という名の欲望

「少女病」明治4051日の『太陽』発表

あらすじ

小説は郊外の貸家から代々木の停車場に向かう主人公の描写から始まる。主人公、杉田古城(「過ぎた固執」?)37歳、小説家。もっぱら少女小説を書いている。かつ ては一世を風靡したこともある。しかし清純な少女へのあこがれに終始するその作風は飽きられ、いまでは雑誌の編集でなんとか生活をしている。盛りを「すぎた』彼の の唯一の楽しみは通勤電車で美しい女学生を見、妄想にふけることである。彼は停車場ですでに女学校出の娘や女学生の姿を物色する。知人たちのうわさ話から、どうやら彼は、妻子持ちであるにも関わらず、オナニス卜であるらしいことが知れる。甲武電車に乗り、さらに市電へと乗り換える。主人公は車中で女学生たちを見、接触しながらうっとりとする。出社すると少女趣味を編集長にあざけられる。夢のない仕事と 生活に死にたいように気持ちになりながら、?は帰宅の電車に乗る。東京博覧会帰リ の客のために市電はたいへんな混雑。しかたなく彼は電車のデッキの真鍮棒につかまって乗っている。そのときもう一度会いたいと思っていた美しい女学生をガラスご しに見つけ、心を奪われる。しかし電車の加速に手をすべらした彼は、線路上に転がリ、反対方向から来た電車にひかれ死んでしまう。

女一覧

この小説の中では8人の女が登場する。それをまず出てくる順に列挙しよう。

1 「二十二三」歳ぐらいの「庇髪の女」。

「鴬色のリボン、繻珍(しゅちん)の鼻緒、おろし立ての白足袋」代々木停車場から「すくなくとも五六度は其女と同じ電車に乗ったことがある」。主人公はこの女の家まで突き留めている。

2  いつも代々木から牛込まで同乗する娘。

留針(ピン)を拾ってやったことがある。「白いリポン」はでな縞物に、海老茶の袴を穿いて、右手に女持の細い蝙蝠傘、左の手に紫の風呂敷包。

3  妻

「二十五六」歳ぐらい。「旧派の束髪」木綿の縞物の着物。

4 5

代々木からの車中での二人の娘。

年上の方は、「縮緬(ちりめん)のすらリとした膝あた から、華奢な藤色の裾(そで)、白足袋をつまだてた三枚襲の雪駄(せった)、ことに色の白い襟首」。もう「一人の肥った方の娘は懐からノウ卜ブックを出して頻りにそれを読み始めた。」

6

千駄ヶ谷駅から乗った「不器量な、二目とはみられぬような若い女」

「反歯(そっぱ)、 ちぢれ毛、色黒」

7

「見慣れたリボンの色」「四谷からお茶の水高等女学校に通ふ十八歳位の少女

8

かつて信濃町から一度だけ同乗し、もう一度逢いたいと思っていた令嬢。

朝の電車では見あたらず。帰宅のお茶の水からの甲武線(現在の中央線)で車中に発見。

「白い襟首、黒い髪、鴛茶のリボン、白魚のような綺麗な指、宝石入りの金の指 輪」。この少女にみとれて主人公は轢死。

 疑問(1) なぜ妻(3)とたいして歳も変わらない女1がでてくるのか。女1はすでの223歳で、「少女」と呼ぶにはあまりにとうが立ちすぎている。しかも主人公の妻(女3)は256歳。たいして歳も違わない。それなのに女1 に主人公は欲情し、妻には関心を失っている。「ちょっと変ではないか」。読者がそう思うのも無理はないだろう。

じつはそこが作者のねらい目だったと思われる。

 この小説を書いた田山花袋は当時、少女小説家であり、年齢も主人公と同じ37歳。 代々木の郊外に住み、博文館の編集者として甲武線(現在の中央線)と市電を使って通勤していた。それゆえ主人公は花袋自身をモデルにしているといって良いだろう。

 しかし花袋の妻の里さはこの明治40年に28歳。それに対してこの小説の主人公の妻は256歳で、花袋の妻より23歳若く設定されている。

 なぜ主人公の年齢が花袋と同じなのに、妻の年齢は若く設定されているのか。それは 主人公が欲情している女1とあまり年齢差がないことを読者に気づかせるためにほかならあない。そもそも、女1じたいが妻の年齢に近い女としてあえて登場させられていると思われる。

 なぜそんなことをしたのか。

 それは主人公の欲情が、単に「若い女」に対する欲望ではなく、あくまでも「電車で 出会う女学生」に向けられたものであることを示したいからにほかならない。

答え:女の若さではなく電車という空間で出会うことが主人公の欲望を喚起していることをしめしている。

郊外の家 妻   日常  生殖(子作り)

電車空間 女学生 非日常 オナニー

疑問(2) 「女学生」にどうして欲望を喚起するのか。

女学生(女子大生o女子高生):記号をまとった存在 束髪(庇髪)、ノウトブック、本、袴・・・

「女学生」=「女」+「学生』=欲望の対象+禁欲的勉学

「女学生」は「女」+「学 生という記号は二つの相反する記号からなっている。「女」は男にとってつねに「性的対象」を意味する。反対に「学生」は禁欲のイメージをもっている。つまり「女学生」とは「誘いつつ拒む」あるいは 「拒みつつ誘う」存在という記号である。つまり「イエス』と「ノー」との間を振り子のように動くもの、すなわちジンメルの言う「媚態」(コケットリー)をあらわす記号である。

ガラス越しの女学生とは、欲望の対象の提示と遮断なのである。この欲望の喚起は、ショ一、ウンドウの中の商品にも似ている。

対照表への追加

郊外の家 妻  生殖(子作り) 自発的欲望(need 日常品 家庭

電車空間 女学生 オナニー    喚起された欲望(want) 商品 ターミナルデパー卜

疑問(3)主人公はなぜ廣突にも小説の最後に死んでしまうのか。

一般の評

「少女病Jについては、「主人公の生活が十分現れず、その性格が不分明なところから、単に一個の病理的現象を書いたものという感がある。主人公の年齢が三十七八で子供の二人ある人とは受け取りがたい。結末主人公が電車から落ち死ぬるのも作為にすぎる」(片上伸「田山花袋氏の自然主義J明治414月『早稲田文学』)との批評 がある。たしかにこの作品は書き込みが足らず、筆致があらく、とりわけ主人公の描写にはひとりのみこみのところがある。特に最後の死は突飛で「作為に過ぎる」といえるだろう。(『明治文学全集67田山花袋集』「解題」吉田精一388頁)

轢死の遠因は、東京勧業博覧会からの帰リ客がどっと乗り込んだこと

「お茶の水から甲武に乗換へると、をりからの博覧会で電車は殆ど満員、それをむりに車掌のいる所に割り込んで、兎に角に右の扉の外に立つて、確りと真鍮の丸棒をつかんだ。」

直接原因は、反対路線を走る電車。

真の原因は、電車(鉄とガラスの箱)のなかの女への欲望

「美しい眼、美しい手、美しい…白い襟首、黒い髮、鴬茶のリボン、白魚のような綺麗な指、宝石入りの金の指輪---乗客が混合つて居るのと硝子越になつて居るのとを都合の好いことにして、かれは心ゆくまで其の美しい姿に魂を打ち込んで了つた。」

答え:女たちを乗せる交通(Verkehr)によって喚起された欲望に翻弄された主人公 はまさにその交通によって殺される。

Verkehr -s /-e

1. 交際、っきあい、交流、交渉

2. 交通、運輸

3. (貨幣・切手などの)流通

4.《婉曲に》(Geschlechtsverkehr) 性交 [mit jm.] verehelichen Verkehr haben [ …と]婚前交渉を持つ。

例えば、小説『ソフィーの結婚』で、収容所長が、子どもを救うために誘惑するソフィーにたいして「君とVerkehrを持ちたい!」とうめくシーンがある。

疑問(4)なぜ人物の持ち物が列挙されるのか---ガラス箱の中の女たち---

主人公「かれ」の目に映る「少女』たち。それはさまざまな部分へと細分された存在である。

「少女Jたちの描写をみてみよう。「栗梅の縮緬(りちめん)の羽織をぞろりと着た格好の好い庇髪の女の後姿」。また「鴬色のリボン、繻珍(しゅちん)鼻緒、おろし立ての白足袋」。あるいは、「はでな縞物に、海老茶の袴を穿いて、右手に女持の細い蝙蝠傘、左の手に紫の風呂敷包」。

女たちはさまざまな衣服や持ち物へと分解され、人格でばなく、むしろそした衣服と小物を展示するための白いマネキンのようでさえある。

主人公を死にいたらしめる女の描写をみてみよう。

「お茶の水から甲武[電車]に乗換へると、をりからの博覧会で電車は殆ど満員、そを無理に車掌の居る所に割込んで、兎に角に右の扉の外に立って、確りと真鍮の丸棒 をっかんだ。ふと車中を見たかれははツとして驚いた。其硝子窓を隔ててすぐ其処に、信濃町で同乗して、今一度是非逢ひたい、見たいと願って居た美しい令嬢が、中折帽子や角帽やインバネスに殆ど圧しつけられるようになって、丁度烏の群に取巻かれた鳩といったような風。」

「美しい眼、美しい手、美しい髮…白い襟首、黒い髮、鴬茶のリボン、白魚のよ うな綺麗な指、宝石入りの金の指輪--乗客が混合つて居るのと硝子越になつて 居るのとを都合の好いことにして、かれは心ゆくまで其の美しい姿に魂を打ち込んで了った。」

 電車は鉄とガラスの箱である。その箱の中に「中折帽子や角帽やインバネス」とならんで「令嬢」がいる。しかしいまや主人公の眼には、彼女は一個の人間というよリも、「美しい眼、美しい手、美しい髮…白い襟首、黒い髮、鴬茶のリポン、白魚のよ うな綺麗な指、宝石入りの金の指輪」という欲望を喚起する物の集積として現れている。

 電車という交通の機関によリ次々と登場する女たち。しかもそれは一個の人間であるよりも、むしろ欲望を喚起するさまざまな部分部分へと細分化され、主人公のまなざしがその細分化した部分の集列をなめるように移動していく。

 オナニス卜直接的交渉よリも想像のなかで実物の代償となるものイメージによって

欲望を喚起している存在==記号による欲望の喚起

例:糸井重里の『コピー塾』の投稿作品:「ぼくのお兄さんは『女子大生』という字を見 ながらオナニーしています。」

品物がそれが意味するものでなく、それ自身が輝く世界

商品のコマーシャルのためを見せるためにドラマなどの番組を放送する-商品自体が. 番組となる。

記号としての物がそれ自体輝き人を魅了する世界

使用価値ではなく、商品がそれ自体で輝く世界=記号の乱舞による欲望の喚起 記号の集積=商品の集積

人物がすべて衣服や髪型や持ち物によって表現される。人を表す記号としての品物がガラス箱のなかに溢れんばかりになっている。ショーウンドウのなかの商品

補足 痴漢はむかしからいた

明治45128日東京朝日の記事

●婦人専用電車

▽不良少年の誘惑予防

乃木大将もかつて、学習院女学部の生徒が電車に乗ると、男子が兎角生徒の体に触れたがって困ると、電気局員に語られたと記憶するが、

▲花電車を狙う   近来不良学生が、山手線沿道より市内各女学校に通う女学生のいずれも同一時刻に乗車するを機とし、混雑に紛れて或いは附け文、或いは巧妙なる手段を以って誘惑し、しからずとも女生徒の体に触れ、その美しき姿を見るを楽しみとする風がある。彼等はこの女学生の満載せる電車を称して、「花電車」と呼んで居るが、今回中野、昌平橋間に各駅から婦人専用電車を、朝の八時半前後と午後の三時半前後に数回運転せしむることに決定し、この電車を女学生が利用するようにと、お茶の水付属女学校、女子学院、千代田女子学校、双棄女学校、三輪田女学校、精華女学校等に対し通知し、来る三十一日より実施することになった。

▲女学生客の減少   右に就き中部管理局員は語って曰く、「外国の例は知らぬが、日本ではこれが最初である。兎に角名案たるに足るだろうと思う。これを運転せしむるに至った動機は、従来男女学生間の風儀を乱すような事が少なからず、牛込や四谷駅長からの申し出もあり、調べて見ると、女学生の客は次第に減って居る。そして遠いのを我慢して、車や徒歩で通学して居るものがだいぶあると云うことが判つたからである。婦人専用電車と去うのは、二台連絡する後のに婦人専用と札を掛け、前車には男子を乗せることにするつもりだ云々」と語った。


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by takumi429 | 2014-07-06 18:27 | 社会環境論 | Comments(0)

パノラマ的描写


『第二軍従征日記』記述
パノラマ
「殊に、自分等にべんりであったのは、其頂上に歩兵の掘った掩壕 (えんごう)が、さながら我々の為めにでもあるかの如く残し棄てられてあつたことで、自分は三浦くんと一緒に毛布(けつとう)を其底(そこ)に敷いて、芝居でも見る気で、じつとその前に展(ひろ)げられた大パノラマを望んだ。
 芝居でも見る気!いや、其時は左様でも無かった。
     初めて臨んだ戦争の大舞台
 凄まじい大砲の巨音(おと)が天地を震ふばかりに轟(とろどき)渡つて、曳火弾は白く、着発弾は黄く黒く爆発するを見ると、臆病のようであるが何となく氣がそはそはして、胸が妙にどきついて、かうしてじつとしては居られぬやうな仏地が爲る。頭を出すと、打たれる恐れがあるので、否、先日現に其經驗があるので、自分等は寧ろ小さくなつて、臥そべって、其前方の大景を望んだので。
 風は烈しいが、暖かい。空気の透明に澄んだ日で、南山の敵の陣地から 打出す砲はさながら取に指すかのやうに見える。わが砲共陣地は?と見ると、一番近いのが、自分等の萵地から約五百米ばかり離れた扁平な丘陵の上で、其處に野砲ばかり据えられているが、それょり猶五百米 を隔てて、十ニ三門並べた砲共陣地があるのが歴然見える。眉を舉げて望 むと、今朝の荒れ模様の名殘は猶金州湾から大連湾へと懸けて明かに其の痕跡を留めて居て、透徹し過ぎた空に、黑い凄い殘雲が砲烟(ほうえん)か柯ぞのやうにちぎれちぎれに飛んで、海の色の碧の濃さと言つたら……。岸には、 怒既の烈しく碎けるのが白く、白く。
『そら打つた!』
と言ふと、共に絶大なる響。続いてわが砲兵陣地からは、砲身がびかッと光ると同時に、砲彈は空気を裂いて嗚って飛んで行く。それと引違ひ に、敵の砲弾も音響と共に盛に炸裂して、最近いものは、自分等の高地の二百米ぱかりの下に来て、破裂して黑い凄まじい砂烟をニ三間ほど颱(あ)げた。その最も多く来るのは、第二番目の陣地で、一時は十五六発の敵彈が其附近に黑く白く落下するのを見た。下の砲共陣地には砲門が五ッ六ッ、其周囲もに五六の人の小さい影が人形のやうに見えて、瞳を凝すと、 打つ時に手を舉げて號令するのもありありと。」(「第二軍従征日記」『明治文学大系第67巻』253-4頁)

パノラマ〚英 panorama〛建物内に
パノラマ
イスタンブールのトルコのコンスタンティヌス攻略パノラマ
https://www.youtube.com/watch?v=D3tJ422N3Rg

パノラマ
建物内に、野外の高所から四方を展望するのと同じ感じを与えるように作った装置。建物の内部に円く絵画をめぐらし、中央の展望台から見回すと、視覚の錯覚によって完全な実景を見る感を与える。 画面には陰彩を生じないように反射光線を用い、また、絵画の前面には立体的実物を置き、両者の色彩・形状に注意して区別を不明瞭にしてある。わが国最初のパノラマ館は 明治二三年五月七日開場の上野パノラマ館、同年五月二二日開場の浅草の日本パノラマ館である。前者は戊辰戦争を、 後者は南北戦争のシーンであった。明治中・後期の見せ物。 また、一般に大景観の意味がある。

山花袋『田金教師』三七(明治四ニ)[上野の]東照宮の前では、女学生が派手な蝙蝠傘をさして歩いて居た。パノラマには、 古ぽけた日清戦争の画か何かがかゝつてゐた。

「東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社です。日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、全国各地に数多くございます。 そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれておりますが、正式名称は東照宮でございます。」http://www.uenotoshogu.com/about/上野東照宮HP


パノラマ館の図
「かしこは弾丸も来たらず、見晴しは好し、戦闘視察には最も便りよからめ、あれへあれ
へ」この声に導かれて周囲を見渡せば、西も東も砲煙弾雨につつまれ、朦朧(もうろう)たる中に千軍万馬が馳駆する。破裂する栂弾地雷は地獄のような赤を発し、すさまじくも又おぞましい……。
 眼前に拡がるこの現実と紛う戦闘光景は上野公園のパノラマ。このパノラマ館は明治二十三年第三回内国勧業博覧会に白河戦争の図でもって開設されたが、その後いったん閉館。明治二十九年になって、図を旅順攻撃に代えて、上野公関内桜ヶ岡に設立された。戦闘の
すさまじさを如実に伝える妙画は、野村芳園、芳光両画伯の手になるものと伝う。
(山本松谷函)
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(『目で見る江戸・明治百科 第六巻 明治新東京名所、地方名所の巻』1996年国書刊行会)
『田舎教師』目的地から規定される欲望の担い手としての主体
近所の女工たちに性的な挑発を受けた主人公は、その性欲を鎮めるべく「中田遊郭」に行くことを決め、河畔の道を歩く。
「路は長かった。川の上に簇がる雲の姿が変わる度に、水脈の穏やかに曲がる度に、川の感じが常に変わった。夕日は次第に低く、水の色は段々に納屋色になり、空気は身に沁み渡ように濃い深い影を帯びて来た」(田山1980:115)。
 冒頭と同様に、まず目的地までの行程の線が引かれ、そこまでの距離が語られる。その上を主人公が歩いていく。主人公の歩行が時間の進行を刻み、そして行程の上を移動する主人公の目に写る情景が小説の情景描写となりその空間に広がりを与える。
 目的地へ歩行が作品の時間と空間を形作るばかりではない。目的地への関係が主人公の内面的欲望を規定する。
「清三は自らの影の長く草のうえに曳くのを見ながら時々自ら顧みたり、自ら罵ったりした。立ち留って堕落した心の状態を叱しても見た。行田の家のこと、東京の友のことも考えた。そうかと思うと、懐から汗でよごれた財布を出して、半月分の月給が入っているのを確かめてにっこりした。二円もあれば沢山だということはかねてから小耳に挟んで聞いている。青陽楼という中田では一番大きな家だ、其処には綺麗な女がいるということも知っていた。足を留めさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力の方が一層強かった。心と心が戦い、情と意が争い、理想と欲望とが絡み合う間にも、体はある大きな力へと引きずられるように先へ先へと進んだ」(田山1980:155)。
 描写は主人公の目からみた川辺の情景から主人公の内省へと向い、さらに主人公の内面的な性的欲望をめぐる葛藤へといたる。この内面的欲望と葛藤はあくまでの目的地(中田遊郭)への空間的関係から規定されている。小説の描写は、目的地までの距離、空間、風景、そこに映る主人公の影、主人公の内省、内面の欲望へと進む。主人公の内面的欲望は、目的地から距離という地理的関係から導き出されている。
 描写はさらに続く。
「渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに坂東太郎の名に背かぬほど大河の趣を為していた。夕日はもう全く沈んで、対岸の土手に微かにその余光が残っているばかり、先程の雲の名残とみえるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上に覚束なく浮いていた。白帆がこころ懶(もの)うさそうに深い碧の上を滑って行く。
 透綾の羽織に白地の絣を着て、安い麦稈の帽子を冠った清三の姿は、キリギリスがないたり鈴虫が好い声を立てたり阜斯(ばった)が飛び立ったりする土手の草路を急いで歩いて行った。人通りのない夕暮れ近い空気に、広い漾々(ようよう)とした大河を前景にして、その痩削の姿は浮き出すようにみえる。土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆や豆やもろこしが豊かに繁った。ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い烟を立てて通って行くのが見えた」(田山1980:155-6)。

夕陽を受ける人影
「俄(にわか)に起る敵兵敗走の光景?。愈々(いよいよ)陷落と言ふので、今迄頑強に抵抗した 敵の歩兵は皆な一散に掩壕の中から飛出す。三面のわが兵は今ぞ時――と驀地(まっしくぐら)に突進する。混乱狼藉のさまは鼎を覆えしたようで、山上の路を遁(のが)れ去るもの、山腹を這つて走る者、旅順街道に出づる者、これが夕陽(せきよう)の明かな空気の中に手に取るやうに見える。」(「第二軍従征日記」『明治文学大系第67巻』260頁)
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by takumi429 | 2014-06-15 18:53 | 社会環境論 | Comments(0)

『田舎教師』を読む その2

主人公の中田遊郭往還
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想像で書いた 現地調査なし・清三の日記にもそうした事実なし
 しかし口絵にもなる重要なシーン
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 麦倉河岸には涼しそうな茶店があった。 大きな栃(とち)の樹が陰をつくって、 冷めたそうな水にラムネがつけてあった。 かれはラムネに梨を二個ほど手ずから皮をむいて食って、 さて花茣蓙(はなござ)の敷いてある樹の陰の縁台を借りて仰向けに寝た。 昨夜殆ど眠られなかった疲労が出て、頭脳(あたま)がぐらぐらした。 すずしい心地の好(い)い風が川から来て、 青い空が葉の間からチラチラ見える。 それを見ながらかれはいつか寝入った。 (『田舎教師』新潮文庫174頁)

「性欲が溜まっているだろう、遊郭に行ったあとはスッキリしただろう」 「溜まる性欲」とのとらえかた

どうやって書いたのか。
 地図を見ながら書いた。
 すでに『大日本地誌』のために調査したことのある上流の風景を借りてきた。
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書き方 すでに冒頭に見られる
 歩いた経路を地図に書き、そこからどのような風景が見えるか想像する。
 経路を歩くことで、小説の内部の時間と空間が生まれる。
 目的地との関係から主人公の内面がうまれる。
 赤い光に照らされることで主人公の内面(抑えた欲望)が浮かび上がる。

地図の上に経路を描いて人を見下ろすまなざし
 『第二軍従征日記』に添付された地図 参謀本部の直属の陸地測量部の作成した地図

NHK高校講座 日本史『日露戦争』
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日露戦争特別展 http://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html

「一兵卒」日露戦争に従軍し脚気発心で死ぬ主人公
  「彼」=国民の誰でも代入可能 一兵卒の彼に代入されうる者=日本男子(国民)

日露戦争の勝利のわきかえるなか、地方でひっそりと死ぬ青年教師
これが悲劇になりうるのは、「日本国」全体という地図のまなざしのもとに、
この一地方の青年がとらえられているからにほかならない。

日露戦争
 機関銃と要塞が本格的に使われた大消耗の国家総力戦
 人・武器・食料などの補給(兵站)に鉄道が大々的に使用された。
ロシアはシベリア鉄道、日本は山陽鉄道(のちの山陽本線)と広島から広島南部の宇品(うじな)港を結ぶ宇品線を使って、兵隊、物資の輸送を行った。
 もともとシベリア鉄道の支線としての東清鉄道と旅順港の要塞化が引き金。
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 (ウラジオストックは不凍港とはいえ真冬には凍るし、日本海でふさがれている。日本海を逆さにしてみるとそれがよくわかる)。
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 戦争の後半までシベリア鉄道はバイカル湖を湖面が凍る時は湖上に鉄道を敷き、溶ける夏は船で、物資を運んでおり、しかも単線だったために輸送力が低かった。
 しかし、バイカル湖を迂回する路線が開通することで満州の戦地への補給能力が飛躍的に高まった。
開戦前からこのシベリア鉄道開通まえに勝利しなくてはいけないと日本側はかんがえていた。
 日本もロシアも満州・朝鮮の地図作成に戦争前から努力した。
 日本はたまたま死んだロシア人将校のもっていた地図を利用して戦争を行うことができた。(横手慎二著『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』中公新書)

この鉄道について花袋はべつに小説「少女病」を書いている。つぎはそれを読むことにしよう。
近代と鉄道の問題を考えてみることにしよう。

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by takumi429 | 2014-06-08 18:39 | 社会環境論 | Comments(0)

『田舎教師』その1

田山花袋 『田舎教師』(1909)
日露戦争の勝利に日本全国が沸き立つなか、北関東でひっそりと死んでいった小学校教師、その人生を描いた作品。

巻頭に北関東の知図が添付されている。

「巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が到らなかった青年の一生ということを思わせたいと思って挿んだのであった。」『東京の三十年』(岩波文庫257-8頁)。
(地図を小説に添えるという手法はすでに島崎藤村が自主出版した『破戒』明治38年1905年で試みていている。藤村が近体詩人から小説家への転身をはかって発表したこの『破戒』は文壇に大きな衝撃をあたえた。花袋の『田舎教師』はこの『破戒』への対抗から書かれている。しかし地図を添える手法がじつは、日露戦争に博文館の記者として従軍した記録『第二軍従征日記』1905年で花袋が使っている。このことについてはあとでまた検討するhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903488/218)。
本当にそうなのか。
そもそも地図というものがどんな意味を当時もっていたのか。
それを知るために、いったん、小説から離れて、当時の地理学教科書をみてみることにしよう。

日本の教科書の時代区分
 明治5年(1872年)「学制」
 明治14年(1881年)開申制度:小学校教科書について府県が一定の書式で文部省に届け出る
 明治16年(1883年)認可制度:小学校及び中学校教科書について府県が事前に文部省の認可を得なければならない
 明治19年(1886年)小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令
  教科書検定制:小学校,中学校教科書は,文部大臣が検定したものに限る
 明治35年(1902年)教科書疑獄事件:教科書の採択競争の激化に伴い多くの不正が発覚 
 明治37年(1904年)国定教科書:国語,書き方,修身,歴史,地理 
 明治38年(1905年)国定教科書:算術,図画
 明治44年(1911年)国定教科書:理科
 昭和24年(1949年)教科書検定制度:小学校,中学校,高等学校において文部省検定済教科書の使用
地理教科書 記述の順番・さし絵・地図などに注目してみよう。
明治13年文部省印行『小學地誌』
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、琉球へと記述が進む。出発点に「京都市中図」がそえられれている。
 各地方は京都からのアクセスの仕方でとらえられている。地域は、領域(面)としてとらえられるのではなく、京都からの行き方(アクセスの仕方)でとらえられている。
明治34年文学者編輯へんしゅう所編纂へんさん『修正新定地誌』
「第二篇 日本地理各道誌」
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、臺たい湾わん、へと記述をすすめる(沖縄は南海道に含められている)。
「第一 畿内」「京都」から始まる。

明治33年普及社編輯所編集『小學地理』
「第一章 第一 東京(東京府上)」から始まるが、「第二 小笠原島(東京府下)」、「第三 利根川(千葉懸)」、「第四 水戸(茨城懸)」という風に、地点を名所案内のように取り上げていく記述の仕方で、さし絵も名所案内の趣きである。
これに対して初の国定地理教科書
明治36年文部省著作『小學地理 一』は、
附圖に色刷り「日本交通全圖ず」’日本の領土を赤くぬったた地図)をつける。
記述は、「第二 関東地方」から始まるが、まず各地方は必ず地図のなかでその領域を確定する。さらに府・懸の地図を載せて、そこでも府・懸の領域を白抜きしてい確定する。
日本の諸地域は、それまでの点と点や、京都からのアクセスの仕方で把握されるのでなく、あくまでも固有の領域(領土)をもつものとして把握される。その際、そうした国土の把握を目に見える形にしたものが地図であった。ここでは名所案内の水平のまなざしではなく、上から垂直に見下ろすまなざしがうまれている。そしてそのまなざしは東京(中央)からのまなざしであったといえよう。
 地図のまなざし:地域の領土的把握・上(中央)からの把握
田山花袋は、どのようにして地理学的な地形図(地図)に親しむようになったのか。
博文館で、『大日本地誌』の編集を手伝った。
「『大日本地誌』の編輯の手伝いを私は明治三十六年から始めた。山崎直方君、佐藤伝蔵君が主任で、私と他に若い文学士一名、理学士一名が手伝った。私は山崎君、佐藤君から地理に対する科学的研究の方法を教えられたことを感謝せずにはいられない。」(『東京の三十年』239頁)
山崎直方http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9
(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)日本の地理学者。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。1895年、26歳の時、帝国大学理科大学(現東京大学)で岩石学を専攻し、地質学科を卒業する(同じ門下生に京都大学の地理学教室創設者の小川琢治がいる。佐藤伝蔵と同級生)。1897年、28歳の若さで第二高等学校(現東北大学)の地質学の教授に就任。文部省から1898年から1901年まで3年間ドイツ・オーストリアへ地理学研究のため留学。地理学者のJ・J・ライン[3]やペンク[4]に指導を受ける。当地から当時先端の地理学を学ぶ。帰国後、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現筑波大学)の地理学教授に就任。1911年には東京帝国大学理科大学教授に就任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9#cite_ref-2
佐藤 傳藏(さとう でんぞう、明治3年4月15日(1870年5月15日) - 昭和3年(1928年)8月26日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱物学。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BC%9D%E8%94%B5
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者、地理学者。物理学者湯川秀樹は三男。
1886年 16歳で第一高等学校に入学。
1893年 24歳で同校を卒業し、帝国大学理科大学地質学科に入学する[1]。
1894年 小川家の長女の小川小雪と結婚式を挙げる。
1896年『台湾諸島誌』東京地学協会
1897年 東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。
1891年 紀州旅行の準備中(10月28日)に、濃尾地震に遭遇。被災地を見たのち帰省し、地学の研究を志すようになる[1]。
1908年 農商務省地質調査所退官、京都帝国大学文科大学教授、地理学講座担当。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%90%A2%E6%B2%BB
日本の地理学前史
福沢諭吉 『世界国尽』1869年(明治2年)
 七五調の世界地理案内書。アヘン戦争や各国の歴史・政治形態についてもふれている。
 さし絵がふんだんに掲載。しかし地図は巻頭のみ。とにかくとてもためになる啓蒙書。

札幌農学校出身者 アメリカのピューリタン(新教徒)精神
 志賀重昂『日本風景論』1894年(明治27年) 科学的知識と日本精神論の奇妙な合体
  「日本ライン」を提唱。
 内村鑑三『地理学考』(のちに『地人論』と改題)1894年(明治27年)
  世界の地理現象に神の摂理を見る。

東京大学 地質学科出身者 小川琢治・山崎直方
 植民地経営(支配)に役立つ学問としての地理学
 台湾1895~1945年 日本統治。
 小川琢治『臺湾諸島誌』1996年(明治29年)
 山崎直方・佐藤伝蔵『大日本地誌 第十(琉球・臺湾)』1915年(大正4年)博文館
 

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by takumi429 | 2014-06-01 23:30 | 社会環境論 | Comments(0)