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まとめ

近代(現代)社会とはいかなる社会か まとめ

私たちを取り巻き、私たちがその中で生きていくこの近代社会(あるいは現代社会)とはいかなる社会なのか、それこそが、一見バラバラにみえる社会学者たちの共通の問題意識であった。

マルクスにとって近代社会とは、資本主義にほかならない。
ものを使う人にとっての価値(使用価値)ではなく、それはいくらで売れるかで計られる価値(交換価値)が優位となった社会のなかで、労働者は労働を売り、資本家はそれを買取り、労働者を働かせ、利潤を上げ、その利潤を再度、資本投下して、資本を拡大させていく。増殖していく資本の運動として資本主義はある。

テンニースにとって、過酷な資本主義の現実こそ、ホッブスが説いた自然状態(人が人に対して狼である状態)にほかならなかった。この人が品物を買うときのようにあれかこれかという欲得づきの選択でしかつながりあえない関係(ゲゼルシャフト)に対して、それとはちがう本質的な意思により結び合う関係(ゲマインシャフト)を対置して、この両者をホッブスのようにユークリッド幾何学的な体系として社会理論を作ろうテンニースは試みたのである。

資本家のたえざる資本増大の欲求と労働者の勤勉な奉仕というのは、幸せをもとめるあたりまえの生きかたから見ると、じつは倒錯した生きかたでしかない。ヴェーバーはこの倒錯した生きかたの原点を宗教改革の禁欲思想にもとめた。聖職者しか求められなかった禁欲的な労働は、いっぱんの仕事も神から命じられた使命である、とされることで、ふつうの労働にも適用されるようになった。しかも、自分が救いに予定されているのか不安に思った信者たちは、仕事による業績(収益)にその救いの確かさを求めるようになり、けっか、自己の幸福とはうらはらな絶え間ない仕事への没頭をして資本を増大させることになり、こうして現代の資本主義がうまれたのである。

ジンメルによれば、貨幣とは交換関係が「形式」として結晶化したものにほかならない。ヴェーバーは、人間の関係が形式として結晶化し硬直化して人間に対峙するのは、貨幣だけではなく、法体系、音階、建築様式、時間システム、官僚制、などなど、西洋の文化全般の性格であると考え、これを「形式合理性」と名づけた。西洋文化の「普遍性」とは自律的なシステムとなったこれらのシステムを、強引に外部にも適用しようとする、西洋の全体性へに志向にほかならない。

デュルケームにとって、近代社会とは、欲望が本能のもつ制限(リミッター)を失ってらせん状に増大していく時代にほかならない。本能の制限を失って、同一種である人間どうしが奪い合い殺し合うような状態を治めるために、彼は宗教がもっていた道徳の力を復活させようとした。
同時代の作家ゾラは、フランスの第二帝政期を題材として、欲望を異常なまでに増大させているさまざまな社会的装置(欲望の喚起装置)を描き出した。すなわち、市場、株式市場、炭鉱、鉄道、デパート、政治、戦争である。

ベンヤミンにとって、本来の使用から切り離されて市場を浮遊する貨幣のありかたは、さまざまなイメージをそのもともとあった場所から切り離し別のものとつなぎ合わせることで、時代の夢を生み出す映画のあり方につながるものであった。ベンヤミンにとって近代とは夢工場にほかならない。バラバラにされたイメージをつなぎあわせて希望の社会のビジョンをイメージしようしたベンヤミンは、皮肉なことに、映画を制作するように政権を作り上げた(悪)夢工場たるナチズムによって死においやられたのである。

ナチズムを予感させる映画『カリガリ博士』の最後において、世界はすべて精神病院のなかに飲み込まれる。そこでは、収容所を管理運営する科学者が支配者となる。だが権力の源泉は、個人ではなく、一望監視装置に代表される収容所という装置にある。フーコーにとって近代とは、精神病院、監獄、学校、軍隊などの、それ自体完結して人を閉じこめる「全制的施設」(total institution ゴフマンの用語)が支配的となる、すなわち収容所の時代にほかならない。

アンダードンによれば、近代とは国民国家が支配的となった時代である。共同体から剥離された人々をまとめあげる「想像の共同体」こそ、この国民国家にほかならない。この共同体は、言語文化によって一体感を形成され、国旗、地図、人々の移動、新聞・小説などによって、同じ共同体に属しているという幻想をもち、国家装置なかでみずからを位置づけそれに殉じていく。

ウォラースティンによれば、近代社会は、中核、半周辺、周辺という、「世界システム」を形成することで生まれてきた。西洋近代社会はアフリカの奴隷を新大陸で働かせることで資本主義を開花させたのである。近代社会はたえずその外に従属的な地域を必要としているのである。

ナオミ・クラインによれば、新自由主義とは、ショック療法により、人が人に対して狼であるような弱肉強食の状態をつくりあげることで、資本主義の強者がさらなる利益を貪ろうとするものでしかない。現代はこのショック・ドクトリンが蔓延している時代なのである。

アメリカ合衆国におけるフロンティアの喪失は、同じパイを奪い合うホッブス的状態をまねきかねなかった。パーソンズはその危険をお互いの役割を遂行していこうという共通価値の受容によって乗り切ろうとした。しかし、それは白人男性優位の体制を普遍的なものとみなす「おじさんのたわごと」でしかなかった。フロンティアの喪失はアメリカン・ドリームの崩壊をもたらす。まともなことでは成功できない移民やマイノリティたちは非合法な方法で成功を得ようとする。マートンはそこの社会問題の発生の原因をみた。しかし対抗文化のなか、これまで成功とみなされてきたもの(目的)、それにいたる道すぎ(手段)を否定する若者たちがうまれてきた。彼らのナイーブな(このナイーブには「バカ」という意味合いもある)感性を反映したのがエスノメソドロジーである。アメリカはその後、外部に敵をつくりあげることでフロンティアを作り続けていこうとしている。

第二次世界大戦以降、際立ってきたのは、排除すべき他者を集めて殺して消去するという、強制収容所における大量殺害である。バウマンはその典型であるユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)は、たんにナチズムの狂気だけでは可能とならず、むしろ、近代の(道具的)合理性を駆使した官僚組織と科学技術によって可能になったのだとした。そこではおそろしく凡庸な陳腐な人間が、ぼう大な生命を消去する指示を下しているのである。

産業資本主義はたえずその外部をもたなくてはならず、しかもその外部をたえず侵食していくことで、みずからの危機を招き、その危機を克服するために、技術革新によってみずからの内部に差異をつくりあげなくてはならなくなった。近代社会もその基本原理である「普遍」の名のもとでの膨張によって外部を失っていく。ウルリッヒ・ベックによれば、外部を失うことでそれまで外部に依存し廃棄してきたものは社会の内部に回帰して危険なものとなる。この状態の陥った社会が「リスク社会」である(外部とはたとえば、自然環境、家庭内での女性、政治から分離中立だとされてきた科学などである)こうして近代社会の外部への作用が自分自身への作用へとなるという「再帰的近代」の段階に私たちの社会はいたったのである。
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by takumi429 | 2016-07-21 20:24 | 社会学史 | Comments(0)

13.リスク社会としての現代

15.リスク社会としての現代
(1)リスク社会の出現
1986年4月26日に旧ソビエト連邦のチェルノブイリ原子力発電所の4
号炉が爆発する事故が発生し、周辺のみならず、ヨーロッパ全土に深刻な放射線被害をもたらしました。同じ年の1986年9月26日、ウルリヒ・ベックの 『危険社会』 が出版されました。同書は専門書としては異例の売上となり、そこで提唱された「リスク社会」の概念は広く知られることになりました。
 リスクとはなにか。私たちの生活は古来、さまざまな危険(英danger,独Gefahr)におびやかされてきました。思いもかけない天変地異が私たちの社会を飲み込んできました。しかし、リスク(英risk,独Risko)とは、こうした危険一般ではなく、むしろ私たちの社会じしんがもたらした危険を指します。
 例えば、2011年3月11日におきた東日本大震災は、地震と津波による災害でした。こうした地震と津波という危険は、地震国である日本が有史以前からかかえてきたものです。しかし、その地震と津波によっておきた福島第一原子力発電所事故は、地震国である日本が、(おそらくは被爆国でありながらも核爆弾の技術を確保したいという隠れた意志のもとに)、過去定期的に津波が襲ってきていた海岸線に原子力発電所を多数建設し、しかも津波に対する備えを充分にしてこなかったという、私たち社会のおこないがもたらし災害、いわば「人災」でした。
 こうした、みずからの行動や選択によって発生しうる危険、すなわち、自己責任により冒す危険、のことを「リクス」とよびます。
 ベックは、自分のしたことが自分に返ってくるという自己回帰的(再帰的reflexive)な構造をもつ社会を「リスク社会」と呼びました。そしてこのこのリスクのもつ自己回帰的(再帰的)構造に、近代の変容、つまり現代の決定的な特徴を求めたのです。

(2)産業資本主義の自己矛盾
 近代の産業資本主義は、つねに、非産業世界(外部)を前提にしていました。産業化はたえずその対象としての未開拓地を必要としていました。
 ローザ・ルクセンブルクはこのことを『資本蓄積論』なかでこう言っています。「資本主義は、その存在と進展のために、非資本主義てきな生産諸形態をその環境として必要とする」(太田哲夫訳書76頁)。
 産業資本主義は、拡大再生産、資本の拡大を不可欠としています。ヴェーバーがいう「伝統主義」が支配する「単純再生産」ではなく、たえざる利潤の獲得とその資本への再投下(拡大再生産)を基軸とするのです。
 しかし、飽和した限られた社会の中からは利潤はうまれません。賃金だけを生活費とするような労働者や正当な賃金払いをもとめる主婦や妥当な価格を要求する資源提供者しかいないような社会では利潤はうまれないのです。片足を自給自足の農業に残したままの労働者や農村を追い出されてぎりぎりの賃金でも満足する労働者が存在し、「愛」の名の下に無給で働く主婦が存在し、ガラス球のようなガラクタや安い対価で鉱物資源や人的資源(奴隷など)を提供してくれる「未開地」があればこそ、産業資本主義はその利潤の獲得と資本
の増大を可能とすることができるとのです。
 しかし、資本の拡大はこの資本主義がそうした未開地へと拡大侵食していくことを意味します。結果、未開地はどんどん失われていきます。労働者は正当な賃金を要求し、主婦は対等な人格と労働の対価をもとめ、「開発途上国」は資源にたいする対価をもとめ、それはどんどん先進国との差を縮めていきます。産業資本主義は外部世界を前提としつつも、その外部世界を侵食して消し去っていくことで、自分の前提条件を突き崩していくという自己矛盾を抱えているのです。
 たとえば、安価でぼうだいな労働者の存在が中国を世界の工場へと押し上げましたが、人口の停滞・現象と労働運動などによる賃金の上昇によって、中国に工場をもつメリットは資本にとってますますうしなわれいきます。中国が資本主義圏に飲み込まれれれば飲み込まれるほど、外部としての性格を失えば失うほど、産業資本主義にとって中国の魅力は薄れていくのです。
 岩井克人はその著『ベニスの商人に資本論』で、遠隔地貿易とは、交換比率のちがう地域間での貿易により利潤(もうけ)をえる経済であった、産業資本主義とは市場と工場内での労働と貨幣の交換比率の差を使った利潤をあげるものであった、といいます。これらの経済はともに、地域格差、空間における価格体系のちがいを利用して利潤をあげる経済でした。
 では地域による価格体系の差がどんどんうしなわれていったとき、どうやって利潤をあげていくのか。岩井はそれは、空間による差異ではなく、時間による差異を利用するのだといいます。つまり、技術革新型の資本主義です。この技術革新型の資本主義は、未来の技術による労働と生産の比率の違いによって利潤をあげる、つまり将来の技術水準を先取りした企業が、まわりの遅れた生産技術との差によって利潤をあげるのだというのです。
 産業資本主義は地域的な価格体系の格差(差異)を利用して利潤をあげてきました。しかし資本主義は空間的に拡大していくというその拡大運動のなかで利潤をあげていきました。技術革新型の資本主義は、こんどはみずからの中に未来を先取りすることで、その先取りに技術革新の広がりの運動の中で利潤を上げていくのです。地域的外部を失った資本主義は、時間的に進んだ部分と遅れた部分とを作り上げることで利潤をあげてきました。しかし、その差は技術の拡散によりつねに解消されていきます。それゆえ、こんどは、たえざる技
術革新あるいは技術モードの変更により格差(差異)を創出していくことが必要とされるのです。
 資本主義の外部への拡大は、外部を失うことで、内部での差異創出の運動へと変化したのです。つまりみずからをたえざる再編へともちこむことで自分を維持する、資本主義がみずからを技術革新によって未来の資本主義へたえず再編していく。そのことによって延命ざるを得ないというわけです。
 この外部から内部への資本主義の運動は、ちょうど外部を近代化していった近代の運動が、みずからの内部へとその運動を転換することにつながります。ここでベックの議論にもどりましょう。

(3)再帰的近代(外部性の喪失)
 ベックによれば、近代とは外部を前提にしていました。ベックのあげるのは次の3つです。
 ①自然環境
 近代産業社会は、自然から資源を取り入れ、外部たる自然に廃棄物を捨ててきました。
 ②「愛」による家庭
 男女の身分的な差別(家父長制)によって、家庭に労働者の再生産をさせてきました。ここでいう「労働の再生産」とは、職場で疲れた労働者が家庭にもどって元気になりまた働くことができるようになる、という現在の労働力の再生産と、子どもをそだててみらいの労働者とするという、新たな労働者の生産(再生産)の両方を意味します。この家庭内の労働は賃金による労働でなく、「愛」の名の下によるほぼ無給の労働でした。近代社会はこうした影に隠れた労働(シャドー・ワーク)を不可欠な前提としてきたのです。
 ③科学の専門化
 科学は政治とは分離させられ、中立公正で客観的なものであるとされてきました。
 しかし、再帰的近代、すなわちリスク社会になるとこうした外部生は失われました。その結果、各領域での再帰的近代化(reflexive modernization)が生じることになります。
 ①廃棄物を捨てることができる余地がもはやなく、廃棄物は環境汚染という形で社会へ跳ね返ってきます。外的環境からの危険とは異なる、人間社会がもたらしたリスクが、問題となってきます。ここでは、富の分配でなくリスクの分配(マネージメント)が問題となってくる。またこのリスクを認知するために科学にきわめて依存するようになります。たとえば、目に見えない放射汚染は科学的な測定によってしか認知できません。私たちは放射線の危機の認知のためにたえず科学をあてにするしかないのです。
 ②産業社会の個人化が家庭にまでおよび、家庭はもはや安定した役割分業の世界ではなくなってきます。失業という危険が人々を個人化する。失業から離婚し、公団やアパートなどで「孤独死」する中高年が増大している現状はまさにこれです。女性の教育水準の上昇し、労働市場への進出して、離婚の増大します。結果、じつは身分的性別役割分業であった核家族(未婚の子どもと両親からなる家族)は解体していきます。
 ③これまで、科学は外に研究対象を見出してきました。ところが、原子力発電事故のように、科学がみずから危険を生産するものになってくると、科学は外に対象を見いだすのではなく、自らが生み出した帰結に対処する(自分で自分のしりぬぐいをする)ようになってくるのです。ここにおいて、科学はおおきな政治的な力をもつものとさえなってきます。しかるにこれまでの議会制民主主義は政府をコントロールすることはできても、こうした政治的な力をもつようになった科学技術には対応しきれなません。これには、市民運動などのサブ政治で対応することが必要になるのです。
 こうして、資本主義のこうした自己回帰的(再帰的)な運動は、近代が外部を近代化する
のではなく、みずからを再度、近代化する、「近代の近代化」(再帰的近代)をもたらすとベックを主張したのでした。
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by takumi429 | 2016-07-21 20:22 | 社会学史 | Comments(0)

12.強制収容所の時代としての現代

12. 強制収容所の時代としての現代

(1)塹壕(ざんごう)の世代
二十世紀、それは大量殺戮の時代と呼んでもいいでしょう。
第一次世界大戦(1914年7月28日 - 1918年11月11日)は、兵士だけで900万人以上の死者をだす未曾有な戦争となりました。機関銃、戦車、飛行機、潜水艦、化学兵器など、現代の戦争兵器が出揃い、国家と国民が総力をあげて戦う総力戦の形もここに生まれました。
 この第一次大戦では圧倒的な火器、とくに機関銃から身を守るために、塹壕がはりめぐらされ、その塹壕の中で砲撃の恐怖に怯えながら身を伏せる、しかし総攻撃のときには、その塹壕を飛び出し機関銃などの一斉射撃の前に身を晒さなくてならない、という体験を兵士たちはすることになりました。
 こうした塹壕戦を体験した世代を「塹壕の世代」と呼ぶことがあります。
 映画『西部戦線異状なし』(1930)は、こうした塹壕戦の体験をみごとに描いています。戦闘の合間、つかのまの平安に主人公は蝶に触ろうと塹壕から手を伸ばします。しかし敵に狙撃されて主人公の少年は死ぬのです。
 塹壕からとびだしての総攻撃は死を覚悟しなくてはいけないものでした。その死を覚悟した時に、時計で計られるような、アメのようなのっぺらと伸びていくような日常の時間は途絶え、死を覚悟しなくてはいけない瞬間へむけてまばゆく飛び込んでいくような時間へと変容します。残されたつかの間の時間、その時間のなかであらゆるものがまばゆく輝いて存在して現れる。青い空、ゆれる木々、羽ばたく蝶。存在はまばゆい輝きをもって、死を覚悟した人間に前に現れれる。ドイツ語では「・・・がある(存在する)」というのを、Es gibt ・・・と表現します。直訳するなら、「それが与える」です。「それ」とは「存在」であり、存在が私たちに与えてくれたものが、「在るもの(存在するもの)」なのです。
 死を覚悟した人間に現れるまばゆい存在から、退屈になれきった日常を正していこう。志願して死んだ友人たちを多くもつ塹壕の世代だった哲学者ハイデガーの思索の方向はこれだったと思われます。

(2)強制収容所(死の工場)の世代
第二次世界大戦は基本的には第一次大戦の引いたラインの上にあります。しかし第二次世界大戦で顕著になったものもあります。それは強制収容所の体験でした。
 精神病院のような、人を隔離して管理する施設はそれまでもありました。しかし第二次世界大戦で出現した強制収容所とは、人を1ヶ所にあつめて殺害・抹殺する、そうした装置、「死の工場」としての強制収容所でした。
 最近、わたしは、ワイマールの近くのブーヘンヴァルト収容所跡の見学体験しました。入り口の向こうには収容所の各棟の跡という何もない空間が拡がっていました。なにもない。しかしこのあとかたもないことの重苦しさはなになにか。ここにいた膨大な数の人が消えてその跡地だけがあるという、その人間の不在(消失)と跡地の重苦しい存在。敷地には人間焼却炉は残っており、その隣に医務室があち、研究と称して収容者を切り刻んだ手術台があり、こびりつき変色したその跡がありました。消えた人間たちとそれを消した装置だけがふてぶてしく残って存在している。さらに、身長測定を装って背後から覗き銃殺した部屋があり、その足元の踏み台にはなんどもそこで犠牲者をまちうけて射殺した人間の足ですり減ったであろう凹みがありました。
 いま、あの風景をふりかえってみると、むかし教科書で読んだつぎのような詩がおもいかえされます。
    さんたんたる鮟鱇(あんこう)   村野四郎
    ――へんな運命が私を見つめている  リルケ

    顎(あご)を むざんに引っかけられ
    逆さに吊りさげられた
    うすい膜の中の
    くったりした死
    これは いかなるもののなれの果だ

    見なれない手が寄ってきて
    切りさいなみ 削りとり
    だんだん稀薄になっていく この実在
    しまいには うすい膜も切りさられ
    惨劇は終っている

    なんにも残らない廂(ひさし)から
    まだ ぶら下っているのは
    大きく曲った鉄の鉤(かぎ)だけだ
                          詩集『抽象の城』1954年

この作品に作者はつぎのような解説をしています。
「私は、この魚を魚屋の店頭でみたとき、はてな、このみじめな、こっけいな姿は何かに似ているな、といった妙な衝撃をうけましたが、それがこの詩のモチーフとなりました。
その次に、死さえ奪いさられてしまうこの悲劇は、現代に生きる人間の状況に何かよく似ているように思えたのです。たしかにそうでした。似ているから、この日常的な光景が、暗喩の対象として私の心をとらえたのでした。日々に私たち人間の人間性を削りとり、うばい去る現代の現実にひそむ悪は、ついにすべての人間を、のっぺらぼうの類型にしてしまうのですが、これを形而上(哲学)的にみれば、人間がなくなったことを意味します。これがすなわち、いわゆる「人間喪失」といわれる現象です。私はそのアンコウに、人間喪失の現場を見た気がしました。(中略)
その後から追いかけるようにして、軒からぶら下がっている空(から)の鉄の鉤が目にはいりました。そしてその鉤は、何か次に引っかけられるもの待ちかまえているように見えたのです。
この新しい犠牲を待ちかまえる貪婪なもの、それはさしずめ、この世の悪の実態、人間の原罪の正体ではないかと、考えられてきました。
こうした衝撃が、まとまって、ここにこのような一篇の詩ができ上がったのです。」(http://poemculturetalk.poemculture.main.jp/?eid=121 2014年1月17日)

 人の不在(消失)に対して、ものの存在が不気味に迫ってくる。ここでは、存在はかがやしいものではなく、ふてぶてしいほど不気味に「ある」のです。そこには根源的な悪の存在が感じられる。
 フランス語では「・・・がある」というのは、Il y a ・・・「それがそこに持つ」と表現します。ものがあることはもはや、es(存在)からの贈り物ではありません。存在はかがやしいものではなく、ものの存在することは、賜物でもなんでもなく不気味に押し付けがましく「ある」だけなのです。
 ハイデガーに学びならながらも、ユダヤ人として肉親・縁者・隣人のすべてを収容所で抹殺されたエマニュエル・レビナスの哲学は、この不気味で重苦しい存在を見すえることから出発しているように思われます。西洋の思想は結局、ユダヤ人という他者を抹殺するという帰結をもたらした。異質な他者との出会い、それを否定(抹殺)するのでなく、その面立ちを引き受けること、それを生きる道徳として、引き受けること、そこにこの強制収容所の曠野の向こうに希望の声を聞く可能性がある、そういっているように思えるのです。

(3)アイヒマン裁判
1960年、もとナチス親衛隊(SS)の隊員アドルフ・オットー・アイヒマン(Adolf Otto Eichmann1906-1962)は、イスラエル諜報特務庁(モサド)によってイスラエルに連行され、1961年4月より人道に対する罪や戦争犯罪の責任などを問われて裁判にかけられました。いわゆる「アイヒマン裁判」です。アイヒマンは、ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」(ホロコースト)に関与し、数百万の人々を強制収容所へ移送するにあたって指揮的役割を担ったとされた人物です。(アイヒマンは同年12月に有罪・死刑判決が下され、翌年5月に絞首刑に処されたました)。
 ハイデガーの弟子だったハンナ・アーレントはこの裁判を傍聴し、その傍聴記を、『イェルサレムのアイヒマン』という本にまとめました。
 アイヒマンにたいするアーレントの下した判断は驚くべきものでした。いや、アーレント自身が、アイヒマンを見ておそらく驚いたのでしょう。何百万人ものユダヤ人を強制収容所に送り込み抹殺させたその恐るべき人物が、じつに平凡で貧弱なつまらない男でしかなかったことに。自分はヒットラー総統の命令に従ってユダヤ人を強制収容所に送っただけであり、職務を忠実に執行したにすぎない、そうこの貧相な男は主張するばかりでした。裁判でアイヒマンの語ることを実際に見聞きした上で、アーレントはこう結論づけます。あの恐るべきユダヤ人抹殺は、悪魔のような人物によってではなく、このアイヒマンのように貧弱な陳腐な人間によっておこなわれたのだ。それを彼女は「悪の陳腐さ」と名づけました。決して許されてはならない絶対な悪というものが、荒々しく悪魔的な、いわば「悪の英雄」によって執行実現されるのではなく、平々凡々とした小心な組織人(官吏)によってなされる。アーレントは西洋近代のもつこの恐るべき「根源悪」をのぞきこみ、それを私たちに開示してみせたのです。

(4)『近代とホロコースト』
アーレントの問題提起をうけて、おなじくユダヤ人で戦後ですがポーランドからイギリスに亡命したへジークムント・バウマンという社会学者は『近代とホロコースト』という本をかきました。
 彼の結論は単純に言えば次のようになります。600万人のユダヤ人殺害は、ナチスの狂気や悪魔的な意志だけではとうてい遂行できるものではなかった。この天文学的な民族抹殺は、(ユダヤ人組織の協力と)ドイツが作り上げた合理的組織と科学知識をつかった装置を使わなくては不可能だった。ショワー(ユダヤ人せん滅)を可能にしたのはじつは西洋近代の道具的合理性なのだ。
「道具的合理性」とはフランクフルト学派の用語です。フランクフルト学派とはフランクフルトの社会研究所に集った哲学・社会学者たちをさします。主要なメンバーは、ホルクハイマー、ベンヤミン、アドルノです。フランクフルト学派は、マルクス主義とフロイドの精神分析を結合して社会を批判しようとしました。ユダヤ人だった彼らは主にアメリカに亡命し、戦後、フランクフルト大学に戻ってきました。「道具的合理性」とは、目的遂行のために研ぎ澄まされた合理性だり、目的の意味と倫理性は問わない合理性です。いかなる目的であれ、目的設定されればその目的へ到達するべく作動する理性です。
 ヴェーバーはすでにその政治論『新秩序ドイツの議会と政府』において、「生きた機械と死んだ機械が我々を支配している」と言いました。「死んだ機械」とは普通の機械装置のことですが、「生きた機械」とは官僚組織のことです。ヴェーバーは生きた機械である官僚制と機械を生む科学技術によって逆に人間が支配されるという疎外をすでに問題にしていました。フランクフルト学派はこうしたヴェーバーの疎外論をさらに展開したのです。

(5)アイヒマン実験
 ではなぜアイヒマンのような貧弱な人間があのような恐ろしいユダヤ人絶滅の輸送を指示することができたのでしょうか。
 バウマンがその説明として、スタンレー・ミルグラムがおこなった、いわゆる「アイヒマン実験」をとりあげています。この実験の報告は『服従の心理』という本にまとめられました。
 ミリグラムは、市民に学習と罰の関係についての実験に協力を求める呼びかけを新聞でおこない、応募してきた人に「教師役」を、もう一人のサクラに「学習者」を割り当て、学習者が間違えるたびに電気ショックを与えさせるよう、「実験者」が指示するという実験をおこないました。対になった言葉を学習するというのがその課題で、「学習者」役のサクラはわざとまちがえ、そのたびに与える電気ショックの電圧をあげていくよう、「教師役」の被検者は、「実験者」に支持されます。「学習者」役のサクラは電気ショックをうけたように演技をし、電圧を上がるたびにどんどん止めてくれるよう声をあげます。

実験の略図。被験者である「教師」Tは、解答を間違える度に別室の「生徒」Lに与える電気ショックを次第に強くしていくよう、実験者Eから指示される。だが「生徒」Lは実験者Eとグルであり、電気ショックで苦しむさまを演じているにすぎない。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0%E5%AE%9F%E9%A8%93 2014年1月19日)



 


「学習者」役の人間の、エスカレートする苦悶・懇願・罵倒にもかかわらず、「実験のためだから」、「身体的には問題ないことがわかっている」、「電圧をあげて実験をしてください」など、実験のためだ「実験者」と説明・指示されると、ほとんどの「教師役」の被検者が、罰の電圧をどんどん最高値まであげてしまった、というのが実験結果でした。
 つまり、直接的な責任をもたなくてよく、それが手続きや処理の過程として仕方ないとされていると、人間はどんな残酷なことも平気でするのだ、というのがこの実験からわかったのです。それはちょうど、命令だからしかたなかったのだ、といって平気で死の工場たつ強制収容所にユダヤ人を輸送しづけたアイヒマンのようなことを、残忍でもなんでもないごく普通の一般市民もしてしまうのだというのです。
 ここから、バウマンは、合理的な組織と装置のなかで処理をする者は、それがどんな恐ろしいことであっても、良心の呵責を感じなくなっていくのだとしました。また、苦しむ「学習者」が遠隔であればあるほど、平気で電圧をあげるようになることにも着目しました。それはちょうど、無人飛行機を使ってミサイルを打ち込んで誤爆などしている兵士がなんら罪の意識をもたないのと同じ現象なわけです。

(6)他者の排除から他者のせん滅へ
 もともと、アイヒマンはドイツ国内からのユダヤ人消去を命令されていました。ですから当初はユダヤ人の国外への送り出しをしていました。しかしドイツの勝利によりヨーロッパ大陸全体がドイツの制圧下になると、ユダヤ人を送り出せる場所がみつけられなくなりました。結果、ユダヤ人の「再定住化」先は、ドイツ支配下地域の強制収容所へと変わっていきました。そして、その強制収容所は「死の工場」として、ユダヤ人を消滅させていったのです。
 当初は、他者(ユダヤ人)は外部への排除されました。しかし、ドイツの拡大により、排除先の外部の消失すると、他者は、内部に取り込まれ(収容され)、「再定住」の場(収容所)で消去(殺害)させれたのです。
 ユダヤ人、さらにはロマ人、同性愛者、精神障害者、身体障害者などは、激情に駆られた憎悪や悪魔的な狂気によるのではなく、ある種きわめて冷静に淡々に、合理的な組織と科学的な処理装置をつかって、業務として、消滅させられていったのです。
 もし、ナチスのホロコーストが、狂気や憎悪だけから起きたのなら、そうした狂気に陥っているとはおもえない私たちは安心できるでしょう。しかし、あのホロコーストがあれほど膨大な人間を消去できたのは、むしろ私たちが慣れ親しみそれに依存して暮らしている官僚組織と科学技術によるものだとしたら、ホロコーストの恐怖からけっして私たちは無縁ではない。むしろそれはこの現代社会で何度でも再発しうるものであるし、現に再発してきた現象なのです。

(7)主体の液状化
 こうした道具的合理性の貫徹する組織のなかでは、人間は確固たる意志をもった英雄的(あるいは悪魔的)な存在ではもはやないでしょう。それは、殺された人びと同様に、腐敗して崩れどろどろになって液化したような存在でしかない。外部を失い、他者をその内部で消去していく装置のなかで生きている私たちが直面する危機とはいかなるものなのでしょうか。
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by takumi429 | 2016-07-21 20:20 | 社会学史 | Comments(0)

10.フロンティアの喪失 アメリカ社会学史への一視角

10.フロンティアの喪失―――アメリカ社会学史への一視角
 
アメリカ社会学の歴史をどのようにとらえたらいいだろうか。本稿は、それをフロンティアの喪失という観点からとらえてみることにしよう。
                            
1.ロック:新大陸開拓の承認
 イギリスの社会契約思想家ジョン・ロックはその主著『統治二論』のなかで、「土地の持つ潜在的能力を開花させるものがその土地を占有する資格を持つ」と説いた 。
 ロックのこの主張は、新大陸開拓の植民地の指導者たちを狂喜させた。なぜならインディアンを追いやって、土地を開拓していく彼らの行為がこの説によって正当化されたからである。
 
2.スペンサーの社会進化論:弱肉強食の承認
 弱者たるインディアンを攻め滅ぼし、アフリカから奴隷を連れてきて働かせる。こうした新大陸の論理をさらに正当化するものとして現れたのが、スペンサーの社会進化論である。彼の主張によれば、社会は動物の世界と同様に、弱肉強食であり、より進化しより適応力をもったものが、不適合な者を追い越して、繁栄していくのである(適者生存suvibal of the fitest) 。

3.スペンサーの死
 パーソンズ (Talcott Parsons 1902~79)はそのはじめての著作『社会的行為の構造』(1937)の冒頭で、「スペンサーは死んだ」と述べた 。それはすなわちすでにアメリカは社会ダーウィニズムの当てはまるような、外へ向かって膨張していく、またその膨張によって社会内部の対立矛盾が解消されるような社会ではなくなったことを意味していた。
すなわちフロンティアはもはや消えたのである。

4.ホッブズ問題
 フロンティアがなくなれば、いまやきまった土地のなかでお互いが取り分を求めて競い合うことになる。ひとつのパイを取り合うように、人は互いに敵対しあう。こうした問題をパーソンズは「ホッブズ的問題」と呼んだ。
 もしひとびとが自分の利益だけにはしって行為するなら、それはホッブズが『リヴァイヤサン』で描いた「人が人にとって狼であるような状態」になってしまう。そうして状態はどうしたら避けることができるのか、つまり「諸個人が功利的に行為する場合、どうすれば社会秩序は可能となるのか?」という問題、すなわち、彼が名付けるところの「ホッブズ問題」が生じることになる。
 この問題をパーソンズはどう解決しようとしたのであろうか。
 
4.1共通価値の受容
 パーソンズはこの問題を、「共通の価値の受容」ということで解決しようとした。「人が人にとって狼であるような状態」では、ひとはおたがいの出方(行為)を探り合い、結局、「両すくみ」の状態になって、身動きできなくなってしまう。この状態をパーソンズは「ダブル・コンティンジェンシー」と呼ぶ。ひとびとがたがいに、共通の価値と、それを実現するための様式(規範)受け入れることで、この「両すくみ」の状態は克服される、そうして社会の秩序は可能となる、そうパーソンズは考えた。 
 この共通の価値と規範の受容は二つの側面をもっている。ひとつは 共通の価値・規範を各人が自らのものとすること(内面化)、もうひとつは、共通の価値・規範が具体的な社会制度のかたちをとること(制度化)、である。
 
4.2 相補的役割関係
 共通の価値の受容は、パーソンズによれば役割というものが互いに支えあっていること、むずかしく言えば、一定の役割期待の相補性が成立していることを意味する。
 『社会体系論』(1951)の冒頭の献辞で、彼は妻に、病みがたい理論病患者にとって得難い均衡をもたらした、と感謝の言葉を述べている 。
 要するに、仕事をする「ぼく」、それを支える「君」というわけである。「君作る人、ぼく食べる人」というコピーがかつてあったが、それと大差はない。ともに「家庭は大切だ」という価値観を受け入れて、そのなかで補いあう(?)ような役割分担をしているというわけである(まあ男のかってな言いぐさといわれてもしかたないようなものである)。
 パーソンズはこうしたお互いに補いあうような役割関係が社会の大系を作り上げているとみる。たとえば、医師と患者もそうした相補的な役割関係である。
 
4.3 構造-機能主義
 パーソンズの描く社会は、地位-役割の体系としての社会である。地位の構造に埋め込まれた個人がその地位にふさわしい役割を演ずることで、社会の安定は維持されるのである。社会の構造に入れられた個人が、社会の安定に寄与する機能を果たすことで、社会の構造が維持されることを考察するのが、彼の「構造-機能主義」だったのある。
 
4.4幸福な社会=アメリカ
 こうした理論の背後には、50年代、世界でもっとも成功した社会としてのアメリカがある。つまりそれは「幸福な社会の完成体」としてのアメリカがある。しかしそれがたえず、自己を肯定しその価値観を宣伝し教え込まなくてはいけない社会でもある。じつはそれはそれを裏切る造反への不安がたえず抱えている、そうした社会でもあった。
 
5.1アメリカン・ドリームの功罪
 「アメリカ・ドリーム」と呼ばれるものがある。すなわち、アメリカではあらゆる人に成功の可能性がある、というものである。だがフロンティアの喪失の後、ある者の成功は他者の失敗を意味する。成功した者は他者に追いやられないために、その手段を独占しようとする。それでも成功しようとするものはその独占をうち破るか、あるいはまともではない手段を使ってでも成功しようとする。
 パーソンズの弟子のマートンが、デュルケームのアノミー概念を改変しつつ解き明かそうとしてのは、この問題である。
 
5.2 マートンのアノミー概念
 デュルケームのアノミー概念というのは、欲望の無制限な増大による無規範な状態を意味していた。彼のとらえた近代の病根はこの無制限な欲望の増殖という現象であった。
 マートンのアノミーのとらえかたはすこしちがう。マートンによれば、ある種の社会では「成功せよ」という文化的目標がつよく強調される。しかしそれを実現するための手段は問われない。その結果、人びとはまともな方法、すなわち、社会において制度的にきちんとみとめられ、できあがった手段をとらず、手っ取り早い手段をとるようになる。こうして生まれる無規制状態をマートンは「アノミー」と呼ぶのである
 アメリカは金銭的に成功するように人びとに圧力をかけている社会である。しかしそのための手段はあまり問われないため、人びとは非合法な手段を使ってでも成功しようとする。それがアメリカン・ドリームがもたらしている、アメリカの無規制状態なのである、とうのがマートンの考えていたことである。
 
5.3アメリカン・ドリームへの対応
 マートンは、文化的な目標とそれを実現するための(まともとされ、制度的にできあがっている)手段にたいして、どのような態度をとるかによって、人びとのあり方は5つの分類できるという 。
 Ⅰの「同調」は、社会が設定する目標をまともなやり方、つまり社会が認めた手段で達成しようとする人たちのありかたである。
 Ⅱの「革新」は、同じく社会が設定する目標を求めているが、まともではないやり方でそれを手に入れようとする人びとである。たとえば、ギャングのカポネのような人間を考えればいいだろう。
 Ⅲの「儀礼主義」の人びとは、もはや社会がいう目標を達成する気などなくなっている。しかし、社会的な決まりは守っていこうという人びとである。
 Ⅳの「逃避主義」の人びとは、社会的な目標も求めてはいないし、そのための努力も放棄してしまっている人びとである。
 Ⅴの「反抗」は、社会が標榜する目標もそのための手段にも疑問をもち、あらたな価値観によるあらたな目標とそのための手段を提示する。
 
     個人の適応様式の諸類型
  適応様式     文化的目標   制度的手段
 Ⅰ 同調        +       +     +は従う
 Ⅱ 革新        +       -     -は従わず
 Ⅲ 儀礼主義      -       +     ±は従わず別のものを提示
 Ⅳ 逃避主義      -       -
 Ⅴ 反抗        ±       ±
 
 マートンがいう「反抗」とはいかなるものなのか。それを具体化するような形でアメリカで現れたのが、「カウンター・カルチャー」と呼ばれる文化運動である。
 
5.1 カウンター・カルチャー
 60年代後半から70年代前半にかけてアメリカ西海岸では、「カウンター・カルチャー」(counter culture)と呼ばれる文化的運動が起こった。「対抗文化」とか「 反体制文化」とも訳されるこの運動は 、社会の既存価値観や慣習に反抗する若者の文化・生活様式であった。60年代末期のロック・ムーブメントは基本的にこの文化運動の影響下にあったと言ってよい。
 
5.2 映画『卒業』
 この時代のムードを先取りするように現れたのが、1967年ダスティン・ホフマンが演じた『卒業』という映画である。
 主人公の青年は東海岸の大学を優秀な成績で卒業し、家族のいる西海岸の家に帰ってくる。プールつきの立派な家に帰ってきた彼は、しかしどうもそこでの生活になじめなくなっている。やがて彼は幼なじみのエレインの母親と不倫関係になります。そして仲が良さそうにみえていたエレインの両親がじつは離婚寸前であることを知る。こうして彼は、日常生活の裏側を知り、そこに入っていく」。
 彼がかつてはなじんでいた家族との生活になじめず、まるで異邦人のような気分になっていることを表すシーンにこんなのがある。優秀な成績で卒業したことを祝って、彼の父親は息子に潜水服をプレゼントする。むりやりそれを着させられた彼の目に映る情景が潜水服の中からの視線で映される。8ミリをもってはしゃいでいる父と母。主人公は潜水服着せられ、ぎこちない動きで、水中マスクごしに両親たちを見る。結局かれはプールに潜らされ、水面を見あげ、ついにはプールの底に潜水服を着て沈む。
 同じ年、「ドアーズ」(doors)というロック・バンドがアルバム『まぼろしの世界』(Strange Days)のなかの「まぼろしの世界」(People Are Strange)という曲でつぎのように歌っている(作詞ジム・モリソン)。
「きみが異邦人(stranger)であるとき、ひとびとは見慣れない奇妙なもの(strange)になる。」
https://youtu.be/XZuj_xU-x0I
 この詩で歌われたのと同じように、『卒業』の主人公はまさに異邦人の目でまわりの人びとを見、そのため日常生活を営むひとびとがまるで奇妙な存在に感じられる。
 主人公はやがて幼なじみのエレインと恋仲になるが、彼の不倫相手の母親とそれを知った父親は、急いで娘を別の男と結婚させようとする。結婚式に駆けつけた主人公は教会のガラス越しに、いままさに進行しつつある結婚式を見る。もう手遅れだ、と思った主人公は思わずガラスを手で打ち「エレイン」と叫ぶ。すると突然、式は停止し、彼女は彼を見つめ。それに勇気を得た彼は、式場から花嫁エレインを奪い去り、ふたりしてバスに乗り込み、映画は終わる。
「もう決まったことだ」、「動かしようのないことだ」と思われた日常は、じつは意外にもろいものだった。異邦人の目で日常生活を眺め、それを突き崩していく青年。まさに「反抗」のタイプの人間が登場しつつあったのである。

5.3 エスノメソドロジー
 同じ1967年に ハロルド・ガーフィンケル(Harold Garfinkel 1917-という社会学者の『エスノメソドロジー研究』(Studies in Ethnomethodology) という論文集が出版され。
 この「エスノメソドロジー」という奇妙な名前の学問は、ひとびとがどのように日常生活を作り上げていくか、その方法を、まるで異邦人のような違和感をもちながら、調べていく。
 
5.3.1 エスノメソドロジーによる実験
 ガーフィンケルは、たとえば、学生に「家にかえったら、下宿人になったつもりで、親と会話しろ」と言う。当然、親子の会話は齟齬をきたす。
 たとえば、
親:「あれどうだった?」
子:(下宿人になったつもりで)「あれって、なんですか。」
親:「だから今朝言ってたやつだよ。」
子:「おっしゃることがわかりません。」
親:「お前、どうしたんだ。熱でもあるのか。」
 こうした齟齬をきたした会話からわかるのは、なにげない会話でもじつはその前提となる共通の理解されたもの(「背後理解」)があることである。
 またガーフィンケルは、学生に、「お店で値切ってみろ」と指導する。
 定価販売になれたアメリカの大学生は値切ることなど思いもつかない。品物の値段は「決まったもの」だと思いこんでいる。しかし実際に店の人に、「もう少し安くなりませんか」と聞いてみると、じつはけっこう値引きしてくれるものなのである。
 つまり、日常のふつうに進行していることがじつはかなり込み入ったことを前提にしていたり、「決まりきったこと」だと思っていたことが、じつは案外「やわ」であることがわかる。このように、ひとびとが「あたりまえ」と思っていることを浮き出させ切り出していくのがこの学派のやり方である。またその根底には、社会はあるものではなく作り上げていくものである、という考えがある。
 この学派はまさにマートンが予感した「反抗」の季節の産物といってよいだろう。

6.まとめ
こうしてアメリカの社会学の歴史は、フロンティアの喪失という宿命的な課題との格闘を通じて展開されてきた。フロンティアとは外部への侵出する際の前線を意味する。すなわち、外部へと侵出することが不可能になったときフロンティアは失われる。その後のアメリカの政策は絶えず外部を作り上げそこへと侵略しつづけることで自己を維持していきたように思われる。その意味でアメリカの社会は社会学者たちが立ち向かった問題の解決を回避つづけてきていると言えよう。
 侵略すべき外部の喪失という観点でみるなら、それはけっしてアメリカ一国の問題ではない。それはむしろ私たちが解決すべき問題でもあると思われる。


1.ロック『統治論・第二篇』宮川 透訳、中央公論社、世界の名著、1968
2.コント 霧生和夫.清水禮子 コント・スペンサー 世界の名著36, 中央公論社1970
3.タルコット・パーソンズ著/稲上毅・厚東洋輔/共訳 社会的行為の構造木鐸社1976
4.タルコット・パーソンズ著,佐藤勉訳:社会大系論、青木書店1774
5.マートン(著)、森東吾ほか(訳):社会理論と社会構造、みすず書房1961
6.Harold Garfinkel : Studies in Ethnomethodology, Blackwell Pub.,1984

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by takumi429 | 2016-07-07 22:18 | 社会学史 | Comments(0)

8. 規律化と臣民化としての近代 --- フーコー・アルチュセール ---  

8. 規律化と臣民化としての近代 --- フーコー・アルチュセール ---
 
 今回の講義は、社会が、人びとが規律の下に管理・監督される、いわば一種の収容所のようなものとして現れる、ということをあつかいたいと思います。まずはその例として独表現主義の有名な映画『カリガリ博士』の改訂をめぐる話から始めましょう。

『カリガリ博士』:全社会の収容所化
 
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『カリガリ博士』(Das Kabinett des Doktor Caligari1920年)

 この映画のもともとのあらすじは以下のようなものでした。
 見せ物小屋で催眠術をつかって眠り男を操る怪しい老人。町にその見せ物小屋が現れるとおなじく、夜な夜な連続殺人が起きる。主人公フランシスはそれが見せ物小屋の老人の仕業であることをつきとめ、老人を追って彼が逃げ込んだ精神病院を訪れる。そこで彼は、殺人をかさねていた老人がまさにその精神病院の院長、カリガリ博士そのひとであることを知る。院長カリガリは催眠術をかけた眠り男ツェザーレをつかって次々に殺人を重ねていたのである。フランシスの活躍によりカリガリは捕まる。
 しかし映画化にあたって、この話はすべて狂人フランシスの夢物語であった、というふうに改められました。彼の話にでてきた町の人びとというのは、じつは、ヒロインをふくめて、すべてラストで精神病院の中庭に患者として登場してきます。そしてそこへ、何かを企てているような病院長カリガリ博士が登場して、映画は終わるのです。

 クラカウアー(Siegfried Kracauer1889-66年)はその著『カリガリからヒットラー』で、この改訂は、脚本が本来が持っていた権力批判を薄めた改悪であるとしました。以来、日本ではその解釈が一般となっています。
しかし、この改訂は、いわゆる「夢オチ」(…というのは夢でした、という結末の付け方。先鋭的な話、奇妙な話、不整合な話も、すべて「夢」だったということでけりがつけられる)をつかった批判を弱めたもの、というだけではないように私には思えます。とくに正常だったと思っていた登場人物たちが、精神病院の中庭に、気がふれたありさまで現れるシーンのインパクトは無視しがたいものです。
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 元の脚本は、扇動し裏から暴力を起こしながらそれを治めるふりをするという権力への批判とも読めるものでした。それがこの改訂で、私たちの社会全体がじつは、精神病院のような収容所であって、「正常」と思っている私たちはじつはそのなかに収容されている。そして異常と正常を分かつのはカリガリ博士によって体現された「知」であり、それは1つの権力として私たちを支配しているのだ、というふうにみえてくるのです。
 社会全体がひとつの精神病院となり、私たちはそこに収容された囚人となる。そこでは精神医学という専門家の知識が権力をもつことになる。
 今回とりあげる、ミッシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-84)の描く近代とは、まさにこうした、知識によって管理された、一種の収容所のごとき世界です。フーコーがこうした近代世界のとらえかたを全面的に展開するのは『監獄の誕生 --- 監視と処罰 --- 』(1975)以降ですが、この本を読む前にまず補助線として、デュルケームの『社会分業論』を読んでみることにしましょう。

 デュルケーム『社会分業論』(1893)
あらすじ
 近代以前の社会は、同質性・類似性にもとづく連帯、すなわち「機械的連帯」を基本としていました。ですから、同質性からの逸脱に対して、体罰を与えたり成員としての資格を剥奪をしました。その結果、近代以前の社会では、行為者当人に課せられる苦痛、地位引き下げを本質とする「抑圧的制裁」を伴う法規が中心でした。
 ところが近代になると、社会は、社会的分業(労働が社会のさまざまな生産分野に専門化することによってつくりだされる社会経済的編成)による連帯、すなわち「有機的連帯」を基本とするようになります。逸脱はその社会分業関係の破綻をもたらします。だから逸脱にたいする対応は、分業関係、つまり人や物の関係、の修復をめざすようになります。その結果、諸事物を原状に回復し、阻害された関係の修復をめざす「復原的制裁」を伴う法規が主流となったのです。
 つまり前近代から近代への移行は、「機械的連帯」から「有機的連帯」への移行であり、
それは法体系のおける「抑圧的法律」から「復原的法律」への移行と対応しているのです。

 このデュルケームの考えを、(フーコーをふまえつつ)すこし読みかえてみましょう。
 近代以前の共同体社会では逸脱には共同体の怒りと排斥が向けられました。しかし逸脱者たちは共同体のはざまにあって、ある意味で共同体と共存していました。逸脱者は共同体へ影響をおよぼしうる、時には危険な、しかし時には有益な存在としてありました。
 近代となって逸脱者への対応はより巧妙になりました。逸脱した者は排除されるのでなく、おもてむき、社会へ回復することになります。社会は逸脱者を自己のうちに回収することで、逸脱者を無害なものとします。社会は逸脱者を「更生」・「治療」と称しつつ自分の管理下に集めるのです。社会はもはや逸脱者から脅かされることもなければ、そこから学ぶこともありません。こうして社会にとって危険な逸脱者(犯罪者と精神病患者など)は、排除されるのではなく、社会の内に、しかしその周辺に集められ、包み込まれて無害なものとされるのです。社会はその外部をみずからの内にとりこんだのです。

 では、フーコーの『監獄の誕生』を読んでいくことにしましょう。

 フーコー『監獄の誕生 --- 監視と処罰 ---』(1975)
「第1部 身体刑 第1章 受刑者の身体」
この本の冒頭で、フーコーは、2つの身体への刑罰のありさまを描き、それを対比させます。すなわち、(A)国王ルイ15世の殺害を企ててダミアンへの凄惨な八つ裂き刑(1757年執行)と、(B)4分の3世紀あとの「パリ少年感化院」での規律正しい日課規則、です。そのうえで、次のような問題提起をします。つまり、前者(A)から後者(B) への移行はいかにして生じたか、またそれはどんな意味があるのか、と。
「第2章 身体刑の華々しさ」
(A)にみられたように、かつて身体刑は華々しいものでした。なぜならそれはつぎのようなはたらきをもっていたからです。すなわち、(1) 尋問のための拷問(拷問された身体が真理を生み出す)、(2) 刑罰としての拷問(王の権力が身体の上に見える形で刻まれる)、(3) 祭典としての身体刑(犯罪によって傷つけられた王権を再興するための報復の儀式として身体への刑罰が執行される)、最後に(4) 観客としての公衆(処刑は公衆の前でおこなわれ、そのためそれはお祭り騒ぎとなり、しばしば罪人は英雄に転化しました)。

「第2部 処罰 第1章 一般化される処罰」
18世紀になって身体刑の廃止と処罰の人間化が叫ばれるようになりました。王権から資本主義への移行は、君主による報復としての処罰から社会擁護のための処罰への変化をもたらしたのです。
「第2章 処罰のおだやかさ」
処罰は(1)王権に依拠した処罰(受刑者の身体に報復の烙印を押す祭式)から(2)個人をふたたび法の主体として立ち直らせるための処罰、さらに(3)受刑者の身体の訓育としての処罰へと、変わっていったのです。
 つまり直接的な身体刑ではないが、身体には働きかける監獄というものを使った懲罰が優勢となったのです。その理由には背景としての社会全般の規律化という事態があるのです。
「第3部 規律・訓練」
ここで、フーコーは、直接的な身体刑から監獄への移行の背景として社会全般の規律化の歴史をたどります。
「第1章 従順な身体」
17世紀から19世紀(いわゆる「古典主義時代」)に、権力の対象としての身体が発見されました。従順な身体を養成する必要がうまれ、とりわけ学校・施寮院・軍隊において規律=訓練が発達しました。
 規律=訓練は、人を「独房」に入れ、「座席」させ、それを「序列」づけていくという、組織化をすることで、建築的・機能的・階層秩序的な空間を創りだし、そこに人間を配分します。そして、人間の活動を体系化し、段階的なものにして、それらを相互に組み合わせます。

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フレーヌ監獄での行動でのアルコール中毒の害悪に関する講演
『監獄の誕生』図版28


「第2章 良き訓育の手段」
こうして、規律=訓練が個々人を「作り出す」ようになります。訓育の手段には(1)プラミッド状の階層秩序なす監視、(2)規格化をおこなう制裁、と、この両者を結びつける(3)試験、とがあります。
「第3章 一望監視方式」
癩病患者の隔離(「大いなる閉じ込め」)とペスト流行の対する規律図式による取り締まりの結果、19世紀、排除された空間に対して、規律的な権力技術が適用されました。
排除された異常者にたいする規律=訓練の装置として、もっとも典型的なのは、ベンサム(Jeremy Bentham1748-1832 イギリスの哲学者・経済学者・法学者)の考案した「一望監視施設」(パノプティコン)でした。フーコーはこの「一望監視施設」という装置に近代の規律的権力技術の典型を見出します。
 一望監視施設というのは、中央に監視塔を置き、そこからすべての囚人の様子がみえるように円形に囚人たちの独房を配置する刑務所のつくりをいいます。囚人たちは中央の監視塔からたえず監視されています(正確に言うと、囚人からは監視塔の様子は見えないのに囚人の方は監視塔からは丸見えなので、囚人は絶えず監視を意識せざるを得ないのです)。

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J.ベンサム作、一望監視施設の設計図(『ジェレミー・ベンサム著作集』より)
『監獄の誕生』図版17
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      N・アルー=ロマン『懲治監獄の計画』『監獄の誕生』図版21
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アメリカ合衆国、ステイトヴィル懲治監獄の内部 『監獄の誕生』図版25
 ここでは権力は、見せる権力ではなく見る権力に変わっています。また受刑者はたえず監視されていることを意識することで監視(権力)の目を内面化します。この装置に入れられば、自動的に監視は意識され、権力は自動化されますし、また誰が監視しているかわかないけど誰が監視しようと同じことなので、権力が没個人化されることになります。
 この権力装置のあり方は、(受刑者などの)例外者から一般の者へ適用されるようになりました。すなわち、監獄だけでなく、さまざまな機構(工場、学校、兵舎、病院)に用いられるようになり、さらにそれらの機構は国家によって管理されるようになりました。(天安門広場に乱立する監視カメラはその典型例でしょう)。まさに現代は監視の社会となったのです。
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2.1666年、ルイ14世がおこなった第1回閲兵式の記念碑
3/4 P・ジファール『フランスの兵術』(1696)
図版3「銃を支えて安め」図版4「火縄をとれ」『監獄の誕生』図版2・3・4

 一望監視装置に代表される規律=訓練のあり方は、学校教育にも広がり、教師は教壇から生徒を見下ろし、また、生徒たちに「きちんとした」所作(しょさ)を叩き込みます。おかげで、資本主義は、最低のコストで、訓練され基準化された身体を手に入れることができるようになったのです。
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「第4部 監獄 第1章 『完全で厳格な制度』」
こうして社会全般の規律化を見た後、フーコーは、刑罰の世界に記述をもどします。
社会全般の規律化を背景して、監獄は、個人を監禁することで、孤立化させ、強制労働によって矯正し、その態度によって刑期と待遇を調節することで、更正をうながすものとなりました。

『監獄の誕生』図版10・11
「第2章 違法行為と非行生」
刑法は犯罪者をその違法行為においてとらえますが、監獄の技術は囚人をその生活態度においてとらえます。前者では違法性が問題とされますが、後者ではその非行生が問題とされます。刑法の建前では、監獄は犯罪者を更正させることになっています。しかし実際には監獄はその特殊な環境によってむしろ「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性を持つ者として社会に循環させているのです。それゆえ、監獄制度の真の意義は、違法行為を減らし、抑制することではなく、社会の転覆や不安につながるような犯罪の可能性を「非行性」として管理し安全なものとして閉じ込めることにあるのです。
[それはちょうど、精神病院のありかたに似ています。精神病院はたてまえとしては精神病患者の治療をするためにあります。しかし患者を閉じ込めることでかえって患者の社会への不適合を生み出してしまいます。実際には精神病院は、社会不安を引き起こす者たちの閉じ込めと管理をしているというべきでしょう]。
「第3章 監禁的なるもの」
監禁的なるものの社会全般への浸透しています。すなわち、平準化、危険分子の囲い込み、規律=訓練的権力の普遍化、権力による規格化の推進、試験のかたちに適合した知のあり方、監獄的な権力にたいする抵抗の難しさ、が広がりつつあるのです。
 
 こうして私たちは最初にみた、(A)ダミアンへの凄惨な八つ裂き刑から、(B)「パリ少年感化院」での規律正しい日課規則、への移行の背後には、監禁的なるものの社会全般への浸透、すなわち、社会全般の規律=訓練化があること、を私たちは知ったのです。

 ではこうした社会全般の規律化が進むと、人びとは、型にはめられたために、いじけた弱々しいものになりはしないでしょうか。じつはそうではないのです。そのことに答えてくれるのが、その後に書かれたフーコーの『性の歴史第1巻 知への意志』です。

 『性の歴史』「第1巻 知への意志」(1976)
 抑圧説
 古典主義の時代から19世紀にかけて[性にたいする]抑圧の時代があったという仮説があります。しかし実際には16世紀のなかばと19世紀の初頭を画期として、性についての言説ディスクール(discours言語による表現)の絶え間ない「増殖」がみられます。前段階では、教会における告白(懺悔)でいっぱい性的なことが語られ、後段階では、性についての性科学などの医学的テクノロジーの出現によっていっぱい性について語られることになったのです。性は秘されたものという形をとりながら、じつはたえずそれについて語るように、懺悔や性科学によって、命じられていたのです。すなわち、性について知ろうとする「知への意志」が一貫して現在まで貫かれているです。「真実の性を語れ」(「懺悔せよ!」とか「ほんとうのことをおっしゃい!」)という命令が、「性の本質」「性の真理」なるもの(「じつはぼく…しちゃいました」「私、ほんとうは…したいと思っているんです」などなどの「真実」)を一種の「虚像」として成立させているのです。
 
 性的欲望の装置
 この「増殖」は19世紀のブルジョワジーが自分たちを対象とする形ではじえまり社会全般に普及しました。それは別の言い方をすれば、「性的欲望の装置(しかけ)」が「婚姻の装置(しかけ)」を凌駕し、「性的欲望のしかけ」が「婚姻というしかけ」を覆っていくことにほかなりません。「婚姻の装置」とは親族関係を固定し展開する、名と財産のシステムであり、「生殖=再生産」をその重要な要素としてもっています。それに対して、「性的欲望の装置」とは、快楽をつうじて流動的かつ多形的かつ状況な技術で身体を刷新し、併合し、発明し、貫いていくこと、そうして人びとをますます統括的なかたちで管理していくそうして社会的なしかけ(装置)なのです。
 性的欲望の装置が婚姻の装置を支配するようになったことで、女の体のヒステリー化、子供の性の教育化、生殖行為の社会的管理化、倒錯的快楽の精神医学への組み込みなど、新しい戦略はすべて「家族」を通じて成立するようになった。
 
 死にたいする権力と性にたいする権力
 「婚姻装置」と「性的欲望の装置」の対立は、それが結びついている権力のあり方の違いでもあります
 「婚姻装置」と結びついていたのは、法による禁止(「してはいけない」という否定)に基づく権力のあり方です。この権力は、王などの人格を中心とした、死刑を最終的な手段とするような権力であった。いわば「死にたいする権力」と言ってよいでしょう。
 それに対して、「性的欲望の装置」が結びついているのは、あくまでも「生」を管理・経営していこうとする権力のあり方です。この権力は、禁止ではなく、そそのかし、管理し介入していくような、匿名の権力なのです。
 この「生にたいする権力」には2つの主要な形態がある、とフーコーはいいます。
 まずひとつは、『監獄の誕生』ですでにみた、17世紀にはじまる、人間の身体を規律によって訓練していく「人間の身体の解剖―政治学」です。
 もうひとつは、18世紀なかばに形成された、生命への介入と管理、すなわち「人口の生-政治学」です。(たとえば、あらゆる生活を医療が支配し、医療の観点から生活が評価される「医療化」という事態があります。そこでは「健康のために運動し健康ためによい食事をし健康のために結婚する(?)」とかいう言い回しが流布し疑問にも思われなくなってきます)。
 権力が私たちの生(いのち)を組織化していくとき、この身体を規律し、人口を調節するというは、生にたいする権力の組織化が展開する2つの方向です。性というのは、まさにこの身体の生と種の生の、両方の手がかりであるために、この2つ「生にたいする権力」の組織化の対象となるのです。
 
 ここで、フーコーは、私たちの生(いのち)そのものを支配の対象とする「生-権力」(bio-power)という画期的な考えを提起しました。
 ではこの生に対する権力はどこからきたのでしょうか。

 「主体と権力」(1982)(『思想』№718)(権力の系譜学)
こうした生にたいする権力はどこから来たのか。フーコーはそれは、キリスト教会における告白(懺悔)に由来する、といいます。教会に来た信者が牧師や司祭にみずからの罪を告白すること、つまり懺悔、ここに生-権力の起源があるというのです。この権力をフーコーは「牧人=司祭型権力」と呼びます。
 「牧人=司祭型権力」とは、牧人(羊飼い)が羊の群の一頭一頭に心を配るように、各個人をその内面からとらえ、たえず監視しているような権力のあり方です。この権力のあり方は、キリスト教の教会での告白(懺悔)を原型として、「近代国家」へと継承されました。この権力は、上から個人を抑圧するのではなく、むしろ下から、すなわち個人に内面を語らせて、それを教え導くことで、個人を主体(subject臣民)として確立=服従さて、支配の関係のなかへ自発的に巻き込ませるのです。
 
 こうして、欲望を抑圧するのでなく、喚起しそれをまとめ上げることで成立する権力のあり方というものがみえてきました。
 こうした抑圧ではなく、そそのかし喚起し、そのうえでそれをまとめあげる、そうした権力のあり方については、フーコーは高等師範学校(大学教員養成校)での先生であった、アルチュセール(Louis Pierre Althusser,1918-90)に大きな影響をうけています。最後にこのアルチュセールのもっとも影響力のあった論文をみておきましょう。
 
 『イデオロギーーと国家イデオロギー装置』(1970)  
 この論文で、アルチュセールは生産関係の再生産はどのように達成されるのか、と問うています。
 労働者にはいつまでも労働者であり続けさせ、さらにその子どもの労働者となるようにさせる。同様に、農民には農民であり続けさせ、その子どもたちにも同じく農民とならせる。同様に、鉱夫には鉱夫であり続けさせ、その子どもも鉱夫となりつづけさせる・・・。搾取され割が合わない仕事でも、それでもその仕事を続ける、そういう気にどうやったらなるようにできるのか。割り当が合わないからやめる、という人間の頭を叩いて強制的にやらせるというのは、もっとも効率のわるい支配の仕方です。たえず銃剣で背中をつつくような権力、つまりむき出しの暴力による支配体制の維持は、維持するための暴力をさらに維持するため、ぼうだいな人材と費用とエネルギーを必要とし、結果体制を維持できなくなってしまうからです。
 持続可能な体制はつねに、人びとに、支配集団の利害を正当化するのに都合のよい、共有された理念ないし確信を、植え付けさせます。これを「イデオロギー」と呼びます。
 俺は親も先祖もずっと労働者だったから、俺も労働者だ。これも立派なしごとだ。おやじも爺さんも炭鉱夫だった、俺もこの仕事に誇りをもってやっている。先祖代々、この土地を耕してきたし、これからも息子たちがそれをしてくれるだろう、・・・。
 体制をささえる生産関係をすすんで形成すような主体(人間)をくりかえし生み出す(再生産する)、つまりイデオロギーを人びとにうえつけ、子どもたちにもそれを継承させるような、そういった場所があるのです。そういう場所のことを、アルチュセールは「国家イデオロギー装置」と呼びました。
 具体的には、それは、政治であり、宗教であり、法律であり、家庭であり、さらに学校やマスメディア、文化も、そうしたイデオロギー装置なのです。
 とりわけ、学校が、子どもたちに国家を枠組みとした現状の体制と生産関係を、「いいものだ」、「正しいものだ」と思い込ませて、すすんでそのなかの成員へとなっていくようにするという働きを持っている、しかも、学校教育のなかで、エリートと非エリート、資本家と労働者と職人・農民などの仕分けがなされ、人材の配分がなされていく、ということを指摘したのは、青ざめるほどのあざやかなものでした。
 こうしたイデオロギー装置を指摘した後で、アルチュセールは、イデオロギーそのもののありようの根幹を、西洋文明の起源である旧約聖書の思想にもとめていきます。
 旧約聖書の世界において、神は人を呼びかけて答えさせることで人を主体(subject「臣民」という意味もある)にするものでした(すなわち、これがヴェーバーが問題とした神からの召命(呼びかけBeruf)です)。この神からの呼びかけに答えることで、自らを確固たる主体となるという、西洋文明特有の自我のあり方は、神からの呼びかけでそれを自分ことだと思い込んでしまう(誤認してしまう)ということにほかならならないのだ、とアルチュセールは言うのです。そしてそれこそが、国家体制のもといままでと同じ働き手となって生産関係を再生産させる欺瞞(イデオロギー)の根幹にある欺瞞(錯誤)なのだという言うのです。

 規律化と臣民化としての近代 
 フーコーは近代という時代が、規律化の進展していく時代であることを明らかにしました。しかし、それはたんに人びとを規制しているのではなく、個人に呼びかけることで彼らを主体(臣民)とし、その欲望を喚起し巻き込みながら管理していく、そういう権力が作動している時代なのです。 
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by takumi429 | 2016-06-24 12:00 | 社会学史 | Comments(0)

8.ナショナリズムとしての近代

8.ナショナリズムとしての近代社会

18世紀から21世紀の今日にいたるまで、ナショナリズムの時代であると言えます。
ナショナリズムとは「政治的な単位と民族的(文化的)単位とが一致すべきだとする政治的原理」です(ゲルナー)。
 たとえば、日本語を話す文化的なまとまりがそのまま「日本国」という政治的なまとまりをなしている日本という国家は、まさにナショナリズムを体現しているわけですし、朝鮮語を話す文化をもつ人びとが、朝鮮人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)とに分裂しているのはまちがっている、なんとしても統一されるべきだ、というのは、朝鮮のナショナリズムなわけです。
 このように文化的なまとまりを「民族」nationとよび、そのまとまりが国民となって、ひとつの国家stateを形成しているとき、それを「国民国家」nation-stateとよびます。
「民族」と呼ぶと、古来からあったもののように思えるが、それは国民国家を形成する過程で、形成するのに都合の良いものを、綿々と続いたもののであるように、過去に投影したものにすぎない、ナショナリズムはあくまでも近代のものだ、とする考え方を、ナショナリズム論では「近代主義アプローチ」と呼びます。
 近代主義アプローチのナショナリズム論の2つの古典が、同じ1983年に発表されました。
 アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』と、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』がそれです。

ゲルナー『民族とナショナリズム』
ゲルナーは、ナショナリズムをもたらしたのは、産業化だと考えています。
彼は人類の歴史を、前農耕社会、農耕社会、産業社会、3段階にわけます。
農耕社会において、はじめて、国家と文字が発明されます。社会は、支配層と農民とに分けられます。支配層は社会を横断的に支配しています。この支配層には、政治的な権力をもつ者と、読み書きの能力をもつ高文化の知識人、とがおり、両者は必ずしも一致はしません。この横断的な横断的な支配階層の下、農民は分断された農耕民共同体のなかにいます。彼らはその共同体のなかで暮らすために、読み書きの能力もそれを基礎とした高い文化も必要とはしていません。
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 ところが、産業社会に移行すると、社会的流動性が高まります。ひとびとはさまざまな場所と位置に移動することになり、そこでは知らない者同士がコミュニケーションをとれなくては仕事になりません。そのため、読み書き能力を中核とする高文化を社会の全メンバーが習得する必要が生まれます。それまでの教育は「実地教育方式」(見よう見まねで学ぶ)でした。それに対して産業社会では「集中方式(族外教育)」子どもを集めて集中的に教育する。こうした教育は国家しか担えないものです。結果、「国家がおおう政治的領域が、読み書き能力を基礎とした同質の高文化が流通している範囲とちょうど合致することをもとめる政治原理、ナショナリズムが、成立することになる」(大澤2006.p.267)
 ゲルナーはさらに、社会のありようを、権力者/非権力者、教育の機会がある/ない、文化的に同質/異質、軸をつかって、①権力者と非権力者の文化が同質か、あるいは異質か、②教育の機会があるか、あるいは、ないか、で分類します。
 ゲルナーによれば、ナショナリズムがうまれるのは次の3つ類型です。
Ⅰ古典的な西洋ナショナリズム。ここでは、権力者と非権力者の文化が異質で、しかも権力者だけでなく非権力者にも教育の機会があります。たとえば、統一前のドイツやイタリアは、各地を支配する支配者は、地元の人間ではなく、フランスやオースストリアなど別のところからの支配者でした。しかし政治的には分裂していても、ドイツ語やイタリア語という共通語によって高い文化があり、一般大衆はそれを学ぶことができました。その結果、外国支配を排除して「ドイツ人」・「イタリア人」という名の下に、国民を統一して国家を作ることが出来ました。
Ⅱ東欧型ナショナリズム。ここでは、権力者と非権力者の文化が異質で、しかも非権力者には教育の機会がありません。そのため、非権力者の文化を高文化へと練り上げ(捏造)していかなくてはいけない。東欧やバルカン半島などでみられたナショナリズムはこれだとゲルナーはいいます。
さらにこの分類から発見されるのが、
Ⅲディアスポラ(離散)・ナショナリズムです。ここでは、権力者と非権力者の文化が異質で、しかも権力者は教育の機会がとぼしく、非権力者がむしろ教育の機会をもっています。具体的には、世界のさまざまな帝国で、金融を独占的に担いながらも、卑しめられていたユダヤ人がこれにもっとも当てはまります。彼らは、所属していた国を出て、独自の国「イスラエル」を建国しようとしました。

ゲルナーはナショナリズムが産業化の結果であり、産業社会へ適合するために、読み書きできる高い文化とその習得が求められ、その単位として国家と文化とが一致させられるしました。しばしばナショナリズムが標榜する「伝統」や「民族」というのはこうした要請に答えるために過去からもちだされたあと付けのものでしかありません。
ゲルナーの近代主義的なアプローチをさらに展開しているのが、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』です。

アンダーソン『想像の共同体』
この本の冒頭でアンダーソンは次のように言います。
「わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成することと言ってもよいが、それがナショナリズム[国民主義]と共に、特殊な文化的人造物であるということである。・・・ナショナリティ、ナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に『交叉』するなかで、十八世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、『モジュール』[規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素]となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。そしてまた、この文化的人造物が、これほど深い愛着を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。」(14-5頁)
 アンダーソンによれば、「国民」とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体です。たとえば、ナショナリズムの祭典であるオリンピックで活躍する選手を、メディアによって知った他の国民はまるで選手を自分の親戚か知り合いであるかのように語ります(「柔ちゃん」とか「真央ちゃん」とか)。
そして、ナショナリズムは宗教的想像力が衰退した今日において、唯一、死を説明するものになっており、偶然を宿命に転じる力をもっている、といいます。たとえば、たまたま日本国に生まれ育ったために戦争で死んだ人間は、「お国のために死んだ英霊」として靖国神社に祀られるわけです。
 ところで、過去において、そうした働きをもっていた文化システムは、宗教共同体と王国でした。そこでアンダーソンは、この宗教共同体と王国を分析します。
「宗教共同体」とは、キリスト教カトリック教会に属する人びと、イスラーム教を信じ、毎日メッカに向かって礼拝し、一生のうち一度はメッカに巡礼する人びと、さらに、漢字を使用し中華思想を信奉する人びとたちをさします。そこでは「真実語」とよばれる、「真理」を語る言葉がきまっています。すなわち、カトリックではラテン語、イスラーム教ではアラビア語、漢字文化圏のおいては、中国語(北京官話)です。おのおの共同体は、この真実語によって結ばれた求心的・階序的秩序をなしています。
「王国」というのは王がいる居城から周辺にいくほど主権はあせ、境界が不明瞭となります。歴史地図では私たちは境界線のはっきりした王国を見るため、そうした袋のような輪郭のはっきりした王国をイメージしがちですが、実際には辺境にいけばいくほど、王権の力はよわく、そこがどの王国に属しているのかはあいまいでかつ流動的なものでしかありません。
 この宗教的共同体において、人びとは宗教のお話を、壁画や絵画などの視覚芸術と、説教や物語の聴覚的芸術によって、見たり聞いたりしていました。宗教的な出来事は昔のことでも未来(終末)のことでも、いま、そこに目に見え耳に聞こえる形であらわれるのです。たとえば、救世主(メシア)の登場は、その誕生が紀元元年の過去の話でもあり、その救済はその未来(終末)におけるものでありながら、見聞きする者にとって、今まさにここで、現れてあることでした。こうした過去と未来が現在において同時に出現するという形の、「メシア的時間」(即時的現在のおける過去と未来の同時性)が支配したのです。
 ところが18世紀ヨーロッパにおいて、小説と新聞が生まれることで、これとは全く異なる、「均質で空虚な時間」が生まれます。小説と新聞のもつ時間性では、登場人物、著者と読者、すべてを包括して暦の時間に沿って進んで行く、そうした単一の共同体が想定されます。まず小説の構造というのは、「均質で空虚な時間」における同時性の提示です。たとえば、男Aと女Bが夫婦で、男Aには愛人Cいて、その愛人Cには別に情夫Dいるというありふれた小説の場合、
時間Ⅰ
事件 AとBが口論する。 (この間(同時に)) CとDが情事をする。
時間Ⅱ
事件 AがCに電話する。(この間に)、Bは買い物する。(この間に)Dは玉突をする。
時間Ⅲ
事件 Dがバーで酔っ払う。(この間に)AとBは家で食事する。(この間に)Cは不吉な夢をみる。
この時間連鎖のなかで、いちども男Aと情夫Dは出会わないにもかかわらず、同じ社会のなかで共存し関連しあっています。
 また新聞は、その日に起こったさまざまなことがら(選挙、交通事故、催し物などなど)を一挙に紙面として提示します。結果、その紙面にあることが、ひとつの社会で同時に起きている事がらとして読者は意識するようになります。
こうして「十八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つに想像の様式、小説と新聞・・・これらの様式こそ国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提示した・・・」[44頁] のです。
 古来、三つの基本的文化概念が支配していました。その三つの基本的文化概念とは、
1)特定の手写本(聖典)語だけが真理への特権的手段を提供する
2)社会が高き中央のもとに自然に組織されている[という空間概念]
3)宇宙論と歴史との区別不能による、世界と人との起源は本質的に同一であるとの時間概念
 出版(資本主義)の発達により、古来の三つの基本的文化概念の支配力の低下します。そして、水平・世俗的で時間・横断的なタイプの共同体が想像される可能性がうまれました。

 ではそうした共同体のなかで、なぜ「国民」だけがかくもポピュラーとなったのでしょうか。

 国民意識の起源
 かつてヨーロッパでは共通語の働きをしていたのは、ラテン語でした。しかしそれはわずかな僧侶たちの秘儀と化してしまい一般大衆の共通のものとはなりませんでした。
 そこへ宗教改革が起こり、ルッター訳聖書などのベストセラー出現します。ラテン語ではない、大衆の言葉(俗語)による書籍が出版され流通します。たとえば、ルターはドイツの大衆が話す言葉からひとつの言葉を編み出してそれでラテン語の聖書を翻訳しました。その翻訳語が流通して「ドイツ語」となったのです。またイタリアではダンテがトスカーナ地方、とくにフィレンチェで使われていた言葉で『神曲』を書き、それがイタリア全土で読まれることで、この一地方の方言は「イタリア語」となりました。
 またそれぞれの宮廷では行政のためにラテン語ではない俗語を使用しており、それが国家が発展すると行政語としての地位をえました。どの言葉が行政語となるのかはまったくの偶然でした、ひとたびある言葉が行政語となるとそれは確固たる地位を占めることになりました。
 出版資本主義によって流通することになった特定の俗語(出版語)の流通は、その言葉によって「国民」というものが想像される基盤となりました。たとえばルターの翻訳と著作の流通は、「ドイツ語」をはなす「ドイツ国民」というものを想像させることになりました。ではこの共同体を想像させる基盤のうえにどのようにナショナリズムは展開していったのでしょうか。意外なことにその端初は新大陸にあったのです。

 ナショナリズムの変遷
ナショナリズムはまず最初、「クレオール・ナショナリズム」、として生まれました。クレオール(クリオーリョ)とは、新大陸生まれのスペイン人のことです。彼らは「本国人(イベリア半島人)」(ペニンスラール)とは常に差別されており、その差別からの撤回を求める運動からやがて独立を志すようになりました。その結果、18世紀後半から19世紀初頭にかけて南アメリカ諸国に新生共和国がいくつも独立することになります。ところで、これらの国はじつはかっての行政上の単位のうえに作られました。それはなぜなのでしょうか。
 それは人びとの移動(巡礼)がその想像力に影響するからです。
 たとえば、ムスリム(イスラム教徒)のメッカへの一生うち一度は巡礼します。この移動がムスリムとしての同一性とまとまりを作っています。
(たとえば、関東では電車も人の流れもすべて東京と住まいとの間の一点集中型の往復になっています。ですから関東ではみんなが「東京人」であるかのように振る舞います。しかし、関西では三都間の交通はあまり便利ではなく人の動きも関東に比べると少ないですし、一点集中ではなくて、三股四股の往復運動です。結果、京都人、神戸人、大阪人などのまとまりとプライドが生まれますし、総称する時も「大阪人」ではなく「関西人」となります)。
 スペインの植民地支配において、行政と教会の地位はほとんど半島からきた「本国人(ペニンスラール)」が閉めており、現地で生まれた支配者クレオール(クリオーリョ)は、行政区の中を移動するだけで、もっとも出世しても行政区の首都にたどりつくだけで、本国スペインに行くことはありませんでした。しかし、このクレオールの動きこそが、彼らに行政区を想像の共同体として想像させる基礎となったのです。ぎゃくに、本国との行き帰りをしている人間は、けっして新大陸「アメリカ人」にはなれっこないのだ、我々クレオールこそが「アメリカ人」なのだという、裏返しの「誇り高き」アイデンティティをもたらしたのです。そしてその誇りが独立戦争を戦いぬき、そのために死をも厭わぬ行動の起動力となったのです。
 また新聞はその行政区である地方クレオール印刷業者 によって担われ、紙面は植民地行政の報道するため、この植民地の行政区が1つの単位として人びとに受け止められました。
 こうしたクレオール・ナショナリズムの現象は、スペインの植民地だけでなく、ポルトガルの植民地(ブラジル)でも、そしてイギリスの植民地(アメリカ)でもまったく同様でした。
 イギリスの植民地アメリカの一新聞業者だったフランクリンが独立運動の立役者でもあったのは偶然ではないのです。かれはクレオールとして劣位におかれた植民人であり、植民地アメリカを1つの単位として報道することでそれを想像の共同体として人びとに提示していた新聞人だったのですから。
 こうして、植民地行政区のなかを遍歴するクレオール役人と、その地方のクレオール印刷業者は、この行政区が、想像の共同体となるにあたって決定的な役割を演じたのです。

 俗語ナショナリズム
 新大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。
まず最初に、地理上の発見によって、さまざまな人や言語があることが意識され、結果、ラテン語(真理語)の相対化がうまれました。その結果、言語学が活躍し、辞書編纂されるようになりました。結果、俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語が言語学者の活躍によって独立の言語として確立し、結果スペインという地域が確定されました。
(またたとえば、沖縄出身の言語学者、伊波普猷(いは ふゆう)は、「日琉同祖論」をとなえ、琉球の日本編入を正当化しました。言語学者の活動は国民国家の形成に重大な役割を果たすしたのです)。
 封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大をもたらしました。そこで使用される言葉に俗語(ドイツ語やイタリア語などなど)が採用されることで、俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命を「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。

 公定ナショナリズム
 こうしたナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれました。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に 追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦したのです。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合されます。
 たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けました。またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になりました。日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込みました。

 植民地ナショナリズム
 第1次世界大戦後の植民地において、「若き」現地エリートによるナショナリズムが生まれました。たとえば、ベトナム、インドネシア、アフリカの諸国。彼ら現地エリートは植民国をおこなった教育と官僚制度のなかで教育をうけエリート官僚となり、そうして独立の担い手となったのです。

 さらに、1991の増補版(『定本  想像の共同体』)では、アンダーソンは、地図や人口調査というものが、想像の共同体を生み出すことを指摘しています。


アンダーソンの手法を使ったナショナリズム研究の一例
 
「地図の上の主体――田山花袋作『田舎教師』を読む――」
(日本社会学会編『社会学評論』第49巻第1号、1997年、21-41頁)


日本自然主義文学の代表作、田山花袋の『田舎教師』には一枚の北関東の地図が添えられていた。この地図にはどんな意味があったのであろうか。
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当時、地図が担った意味を知るために、我々はいったん検定地理教科書から国定地理教科書への変遷をみてみる。検定時代の教科書は横からの視点による挿し絵が添えられ、記述も京都を出発点にしている。それに対して、国定教科書は、地形図を使って上から地域を把握し、記述も東京からはじめている。つまり教科書において、地理的な地図が、国家の上からのまなざしをもつものとして登場してきたことをうかがうことができる。
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博文館で『大日本地誌』の編集にもたずさわっていた花袋は、『田舎教師』でこのまなざしを採用したのである。彼は主人公を地図の上に置き移動させた。この操作がこの小説中の時間と空間とさらに描写を成立させている。
とくにモデルとなった青年の日記に欠落部分をうめるべく花袋が想像して書いた中田遊郭への往復の描写は、目的地までの距離、空間、風景、そこに映る主人公の影、主人公の内省、内面の欲望へと進む。花袋はこの描写を地図をみて、地図をたよりに書いている。読者が地図のうえでの主人公清三の足跡をたどることができるのは、まさに花袋自身が地図をなぞり、そこから風景を想像したからである。ここでの描写はじつは地図からの想像にうながされて生まれたものなのである。
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花袋はこの見方を日露戦争の従軍体験から得ていた。『第二軍従征日記』には陸軍司令本部もつかったであろう遼東半島に地図が添付され、その地図の上に書かれた線の上を、花袋は第二軍とともに進むのである。
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『田舎教師』では地図の上を移動するのは、花袋のかわりに主人公清三となり、地図を見下ろすのは、司令本部ではなく、作者の花袋である。国家が地理的平面の上で臣民を行軍させる、という『第二軍従征日記』の構図は、『田舎教師』では、作者が地図をつかって主人公を地理的平面の上で移動させる、という構図になっている。
 のちに戦争を描いた小説「一兵卒の死」では、主人公は「かれ」と書かれ、結末になって、ほかのだれでも同時代の日本人なら入り(代入)されうる形で、はじめて名前が明かされる。死んでいく兵士の名前に代入され得る人間が日本人であり、日本という想像の共同体をつくりあげているのである。
日本自然主義文学の代表作である田山花袋の『田舎教師』は日露戦争を遂行する国家の上からのまなざしを取り込むことでその作中の時空間を成立させている、と言える。またこの作品がもつ感動の源泉も、このまなざしがもたらす「日本国家」という(想像の)空間的なまとまりなくしてはじつは生まれなかったものなのである。この小説の巻頭に添えられた一枚の地図はこうしたまなざしの出現を示唆するものだったのである。
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by takumi429 | 2016-06-17 23:30 | 社会学史 | Comments(0)

7.欲望の喚起装置としての近代---デュルケームとゾラ---

アノミー概念の誕生
デュルケーム
 『自殺論』(1897)
 自殺は、個人的な理由により、自殺しようという心理の結果、生じる、と私たちは思いがちです。
ところが、デュルケームは各国の統計を使って、自殺率(10万人あたりの自殺者数)は、国ごとに安定しているということを示しました。(デュルケームがあげている統計は、ヨーロッパの民族国家の統計です。民族国家は同一の民族と言語からなる国家なので特有の社会的文化をもつと考えられました)。しかし人は自殺率を安定させるために死のうとするわけではないでしょう。ですからこの安定した自殺率、という「社会的事実」は、自殺する人間の個人心理からのでは説明できません。
そこでデュルケームは、国)ごとの「自殺率の一定比率」という社会的事実を説明するには、社会的な原因を挙げなくてはいけないとしました。彼が自殺の社会的原因だとしたのは次の4つです。
(デュルケームは当初の構想を改変しているので、『自殺論』の記述からはこの4つが見えづらくなっています。ここはベルナールらによる修正に依拠して4つの社会的原因をあげます)。(『デュルケムと女性、あるいは未完の『自殺論』: アノミー概念の形成と転変 』 フィリップ・ベナール著 ; 杉山光信, 三浦耕吉郎訳.新曜社, 1988.)

Ⅰ自己本位的自殺:社会の統合や連帯が弱まり、個人が集団から切り離されて孤立する結果として生じる自殺
例証としては、プロテスタントとカトリックを比べると、プロテスタントが自殺率が高く、カトリックが低い。また、未婚・やもめ、と、結婚している者を比べると、前者が後者より自殺率が高い。また平時と戦時を比べると、平時の方が自殺率が高い。つまり統合・連帯が弱い者の方が自殺率が高いというわけです。(こういう説明の仕方を「共変法」といいます)。

Ⅱ集団本位的自殺:社会が強い統合度と権威をもっていて、個人に死を強要したり、奨励したりすることによって生じる自殺
例としては、宗教による自殺や軍隊における自殺率の高さがあげられます(日本軍の集団自決などもこの例に入るでしょう)。

Ⅲアノミー的自殺:社会の規範が弛緩したり、崩壊したりして、個人の欲望への適切なコントロールが働かなくなる結果、際限のない欲望に駆り立てられた個人が、その結果、幻滅しむなしくなっておこす自殺
ここでデュルケームは、「アノミー」という概念を提示しました。アノミーとは、欲望の無規制な状態、欲望が螺旋状にどんどんと拡大していくありさまをいいます。(ちなみに、後にマートンは、目的と手段の枠組みをつかって、このアノミー概念を、適切な手段をもたない目的として定義しましたが、これはデュルケームの本来のアノミー概念からははずれています)。
例としてデュルケームは、経済アノミーというものをあげています。いわばバブル崩壊による自殺です。

Ⅳ宿命的自殺:欲望に対する抑圧的規制が強すぎるため、閉塞感がつのって生じる自殺。
ベルナール(1988)が挙げている例は、未婚・やもめの男性は結婚している男性よりも自殺率が高いのに対して、未婚女性あるいは寡婦は結婚している女性はよりも自殺率が低い、という例です。つまり、結婚は、男性によっては適度な拘束ですが、女性にとっては過度な拘束だというのです。

Ⅰ自己本位的自殺とⅡ集団本位的自殺を規定する社会的変数は「統合」(まとまり)であり、Ⅲアノミー的自殺とⅣ宿命的自殺を規定する社会的変数は「拘束」(しばり)である、とデュルケームはしています。
つまり、統合が弱いとⅠ自己本位的自殺が増え、統合が強いとⅡ集団本位的自殺が増えます。
また、拘束が弱いとⅢアノミー的自殺が増え、拘束が強いとⅣ宿命的自殺が増えるのです。
つまり適度な統合と拘束の時に自殺は少ないというわけです。

デュルケームはなかなかクールな社会観察者で、一定程度の逸脱が社会にあるのは、「正常」なことだと見なしています。だから、自殺率も一定しているなら、それはそれなりに「正常」なことだと見なします。しかし自殺率が安定しないで以上に増加しているなら、それは「異常」なことだとします。
現代において自殺率が異常に増加しているのは、まさに異常なことであり、その解決策として、統合の中間項として職業集団が活発になる必要があるとしました。
さて、デュルケームのみるところ、彼の時代、19世紀後半のフランスは、統合(まとまり)と拘束(しばり)がゆるんだ社会でした。かれは、社会の統合と拘束をもたらすのは、道徳と宗教だとしました。
『道徳教育論』では道徳のもつ統合性と拘束性を強調し、それを子どもに注入するのが教育の欠くべからざる働きだとしました。
また『宗教生活の原初形態』では、過去において道徳を規定していた宗教の原初的形態を社会学的に探ろうとしました。ドイツの哲学者カントは人間が物事を認識する図式は人間の中にあるとしました。またその道徳原理も人間の内なる精神の中に神から与えられてあると考えました。それに対して、デュルケームはそうした認識図式も道徳原理も人間のうちにあるのではなくて、むしろ社会の方にあるとしました。いわば「逆立ちしたカント主義」をとっています。(ちなみに、カントが人間の精神〈脳?)の中にあるとした認識図式を、すべて人間の身体から生まれたものとして、カントのあげた認識図式をすべて身体から説明するという離れ業の挑戦しそれをやりきっているのがメルロ=ポンティの『身体の現象学』です)。
デュルケームは緩んだ社会のまとまりとしばりを宗教と道徳で締めなおそうとしたわけです。すなわち、「デュルケームは第三共和政の法王たらんとした」(折原浩)のです。
ではデュルケームがなんとかしなくてはと思った、まとまりとしばりが緩んだ社会とは何だったのでしょうか。それは第三共和政の前、ナポレオン三世が支配した第二帝政の時代にほかなりません。ナポレオンの甥によるクーデター成功の後うまれた第二帝政期は、オフェンバックのオペレッタに沸き立たつどんちゃん騒ぎの、まさに際限ない欲望の時代でした。
 デュルケームの欲望論
 際限なく増大していく欲望。この欲望についてデュルケームが述べているのは、『社会主義およびサン-シモン』(森博訳恒星社厚生閣)という講義でです。
サン-シモンというのは、「空想社会主義者」として(マルクスの僚友)エンゲルスが区分した思想家です。彼は、「産業者」の活動によって社会が豊かに改善されていくべきだとしました。彼の言う「産業者」とは、資本や土地を所有している「ブルジョワ」ではなくて、直接、物づくりに携わっている技術者・労働者であり、また物を人々のもとに届ける流通に携わっている人々です。封建的な社会が去って、今やこの産業者が権力をもって、技術革新によって社会をより豊かなものにしていくべきだ、というのが彼の考えでした(172頁)(生産だけでなく流通にも技術革新はあるのは、もちろんです。銀行や鉄道の整備や、最近なら、宅急便のシステムなどをみてもわかることです)。
 しかし、デュルケームは言います。社会が豊かになると人々は満ち足りておとなしくなりはしない。動物には本能があって、欲望の歯止めがかかっている。しかるに人間にはそうした歯止めがない。豊かになり、欲望が満たされると、人間は「もっと、もっと」と求めるようになるだろう。そうして、限りない欲望の増大によって、人々は苦しみ、また闘うようになるだとう。それを抑えるためには、「道徳心」が必要となるのだ、と(231-3頁)
 ホッブスは、こうした人間の争いを、「狼が狼に対するように」と言って、動物的な争いであるかのようにとらえていました。しかし、デュルケームは、こうした闘争が、本能の抑えを失った人間固有の欲望の形であることを、はっきりと見すえています(このあたり、デュルケームはちょっと頭の出来がちがいます)。
 デュルケームは、晩年、サン-シモンもこうした問題に気づき、それゆえ、「新キリスト教」というものを提唱して、歯止めのなくなった欲望に駆られた人々の混乱を納めようとしたのだ、といいます。しかし、サン-シモンはあくまでも、産業者の活動によって豊かになるまとまりのある社会を夢見ていて、それをそのまま、「新キリスト教」の原理としていたために、豊かさがもたらす欲望の無限地獄に対して有効な対策とはならなかったのだ、欲望を抑えこむには欲望の拡大をもたらした産業者の原理とは別の道徳原理を持ってこなくてはいけない、デュルケームはそう批判するのです(267頁)。
 サン-シモンの死後、その思想の賛同者たちは、一種の教団を作り上げます。しかし、この教団の原理は、いわば「産めよ増やせ」なので、それを実践すべく、一種の乱婚制が提唱・実践されたため、多くの信者が離れていき、教団は瓦解しました。しかし、サン-シモンの考えにしたがって、生産と流通の革新によって社会を豊かな(産業)社会へと変えていこうとする人々はその後も続いていきました。彼らは、具体的には、株式会社、銀行、鉄道によって、金を集め、流通させ、物を流通させることで豊かな社会をつくりあげようとしました。
 このサン-シモン主義者の政策を積極的に支援し推し進めたのが、自らもサン-シモンの思想に深く共感していたナポレオン三世であり、サン-シモンの思想によって産業社会へと劇的にフランスが変貌したのが、第二帝政期だったのです(参照 鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会【サン-シモン鉄の夢】』(河出書房新社1992年)・『怪帝ナポレオン三世』(講談社2004年)・『渋沢栄一』(文藝春秋社2013年))。
アノミーの概念によって、際限のない欲望の拡大という事態をしてきしながら、その内実についてデュルケームがあれこれ言わず、すぐにそれを抑えこむ道徳と宗教について研究を向けたのは、そうした欲望の拡大が自明のものとして第三共和政の前にあったからです。
ゾラの「第二帝政期の人間喜劇」
しかし、こうした欲望の拡大がどのようにして生まれたのか、そのメカニズムは解明する価値のあることでした。その欲望のメカニズムを、いくつもの実地調査をして描いた人物がいました。それが作家エミール・ゾラでした。
彼は「第二帝政期の人間喜劇」を『ルーゴン・マッカール叢書』という全20巻の小説群で描きました。ゾラがそこで取り上げられたのは、地上げ、中央市場、アルコール中毒、百貨店、高級娼婦、鉄道、炭鉱、株式市場などなど、まさに人々の欲望の喚起する装置たちでした。これらまさに近代の欲望喚起装置(鹿島茂)を実地調査にもとづいてゾラは小説にえがいたのです。
ゾラはイタリア出身のナポレオン軍の工兵あがりの技術者を父に持ち、幼くして父をなくした彼は名門リセを卒後して、大学受験のときに急に理工系のグランド・ゼコールを受けて失敗してしまいます。しかし、技術者のむすこだったというプライドは絶えず持っていたようです。だから、バルザックがかならず小説を舞台装置から描いたように、小説の中心に社会的な装置(mecanisme)をおいてそのメカニズムを描いてみせました。
ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書』の巻数と題名、あららまし、そしてそこで描かれた装置を以下列挙してみましょう。

1『ルーゴン家の運命』ルーゴンとマッカールの家系のはじまり。
ナポレオン三世のクーデターによるプッサンの動乱。
少年シュヴェールと少女ミエットの愛し方さえ知らない幼い二人の悲劇。少女は流れ弾で死に、少年は憲兵に墓場でこめかみを打たれて死ぬ。
装置:プッサンという街。墓場(死者を飲み込む場)。

2『獲物の分け前』オスマン男爵のパリ大改造の下、地上げによって巨万の富を稼ぐアリスティッド・サッカール。若き後妻ルネは夫の連れ子マキシムと温室で不倫にふける。アリスディッドはルネから金を巻き上げて破産を免れ、ルネは若くして死ぬ。
装置:温室(人工楽園)。パリ(人工都市)

3『パリの胃袋』流刑地から逃げ帰ったフロランはパリの中央市場で働くが、そこの人々の讒言によってふたたび島が流しとなる。
装置:パリのレ・アールの中央市場

4『プッサンの征服』フォージャ神父はマルト・ルーゴンの家に住みこみ、いつしかその家ばかりかプッサン市をも支配するにいたる。しかし狂人となったマルトの夫の放火によって家もろとも焼け落ちる。
装置:王党派と共和派の両方が見下ろせるマントの家。

6『ムーレ神父のあやまち』マント・ルーゴンの息子で司祭になったムーレはパラデゥ館の秘密の庭に住むアプビーヌと、アダムとイブのように愛し合う。しかし、彼が庭から去ったため、娘は死に、その葬儀を司祭である彼が司ることになる。
装置:秘密の花園。

6『ウジェーヌ=ルーゴン閣下』ウジェーヌ・ルーゴンは第3帝政で失墜の危機の乗り切り副皇帝にまでなる。装置:政治

7『居酒屋』
『居酒屋』ジェルヴェーズ・マッカールはランチエに捨てられた後、トタン職人クーバーの結婚し、洗濯屋を開業するが、舞い戻ったランチエとクーボーの二人と関係し、アル中となって貧窮死する。
装置:蒸留酒製造装置・居酒屋洗濯屋。

8『愛の1ページ』エレーム・ムーレは娘ジャンヌを救ってくれた医師と不倫し、娘はそれに嫉妬して病死する。別の男と再婚した彼女は娘の墓を訪れ去る。
装置:バルザック邸のあったパッシーの高台から見えるパリ

9『ナナ』ジェルヴェーズの娘ナナは高級娼婦となって多くの男を破滅させるが、最後は天然痘となって死ぬ。
装置:ナナの肉体。

10『ごった煮』プッサンから出てきたオクターヴ・ムーレはアパートの女たちを意のままにあやつる。オスマン様式の表面はきれいなアパートは裏では汚物にまみれ、主人たちと女中との不倫と嬰児殺しが行われている。
装置:オスマン様式のアパート(欲望の館)

11『ボヌール・デ・ダム百貨店』 オクターヴの作った世界初のデパートは女たちの欲望をあおることで大繁盛するが、周りの商店は破産させていく。
装置:デパート(欲望の館)

12『生きる喜び』海辺の家にもらわれたポリーヌ・クニュは莫大な遺産を受け取るが、養い親子に財産をすり減らされる。しかも彼女の財産を散在した婚約者サザールを友人に譲ることになる。
装置:海によって浸食される岸辺の村。金をくすねられる遺産の入った引き出し。

13『ジャルミナール』炭坑に流れ着いたエチエンヌ・ランチエは最初の夜に会ったカトリーヌに強く惹かれる。彼女もランチエに惹かれているが、結局シャバルに暴力的に女にされてしまう。エチエンヌらが中心となって起こした炭坑ストライキは失敗する。炭坑事故で坑内に閉じこめられた二人はようやく愛し合うがカトリーヌは死に、エチエンヌは助かる。労働運動の芽生えを感じつつエチエンヌは炭坑を去る。
装置:炭坑

14『制作』:印象派絵画ジェルヴェーズの長男クロードは画家となって、嵐の夜に出会ったクリスティーヌに理想のモデルを見出し、結婚する。しかしパリを描いた大作は印象派風の絵から毒々しい象徴的なものへと変貌を遂げ、作品を完成できぬまま首をつって死ぬ。
装置:キャンバス

15『大地』兵隊くずれのジャン・マッカールは、農民となってまじめに働く。フーアン老夫妻の土地の生前分与が失敗し困窮する。土地の奪い合いの中でジャンは妻も土地もなくして、軍隊にもどる。
装置:土地(投資と生産の装置)

16『夢』シドニー・ルーゴンの私生児アンジェリックは刺繍細工人に拾われて見事な刺繍細工職人となる。いつか王子さまがと夢見る彼女の元にオートクール家の跡取りフェリシアンが現れ、身分を超えての結婚式で彼女は昇天する。
装置:夢を紡ぐ刺繍

17『獣人』駅助役のルボーは若妻セヴリーヌが養父の愛人であったことを知り、養父グランモランを列車内で殺害する。それをたまたま知ったジェルヴェーズの次男クロードはセヴリーヌと愛人関係になり、ルボー殺害を計画するが、狂った殺人衝動からセヴリーヌを殺してしまう。その後ペクーの妻とも不倫したジャックはペクーと走行中の機関車(ラ・リゾン)でもみ合いとなって二人とも転落死する。運転手のない機関車は兵士を乗せて闇夜を疾走していく。
装置:機関車・鉄道

18『金銭』 地上げの後、サッカールはユニバーサル銀行を設立して、株をつり上げ、空前のバブルを出現させる。しかし株価はついに暴落して、多くの破産者を生む。
装置:株式取引所

19『壊滅』兵士の戻ったジャンは、ブルジョワ階級のモーリスと戦友となる。フランス軍は大敗し捕虜となった二人は逃げ出して、モーリスの姉のアンリエットの元でジャンは療養する。その後、モーリスはパリコミューンに参加。また軍にもどったジャンは彼と知らず銃剣で刺し、モーリスは治療のかいもなく死ぬ。惹かれ合っていたアンリエットとジャンは別れる。ジャンはフランスの再生へと歩み出す。
装置:戦争

20『パスカル博士』パスカル・ルーゴン医師は年金生活をしながら、ルーゴンとマッカールの家系の遺伝を研究し、『ルーゴンマッカール叢書』の内容と同じ文書を残す。年の差をこえて結ばれ自分の子を宿した姪のクロチルドに文書を託して死ぬ。しかし一家の汚名をおそれた母フェリシテは文書をすべて焼いてしまう。唯一残った家系図を見ながら、クロチルドは生まれた息子シャルルに授乳するのだった。
装置:家系樹。遺伝要因が交錯・発現

ゾラがあげた装置のすべてが欲望の喚起装置とはかぎりません。しかし、鉄道、百貨店、炭坑、市場、レビュウー、投機市場、戦争、はまさに欲望の装置としての、人々の際限のない欲望を引き起こしていったのです。

第二帝政期という欲望の拡大の時代に対して、一方でデュルケームはそれを道徳と宗教で抑えようと道徳と宗教の研究をし、他方、ゾラはその欲望の装置のメカニズムを探ろうとした。つまり、デュルケームとゾラは第二帝政が生んだメダルの表と裏の関係になっているのです。
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by takumi429 | 2016-06-01 17:17 | 社会学史 | Comments(0)

6.ジンメルとヴェーバー 形式合理性の支配する時代

6.ジンメルからヴェーバーへ 形式合理性の時代としての近代

「普遍的文化」?
マックス・ヴェーバーは1920年出版の『宗教社会学論集』第1巻で、「どのような諸事態いの連鎖が存在したために、西洋にのみ、その発展傾向において普遍的な意義と妥当性をもつ文化諸現象が出現したのか」という問題提起をしています。
 これを読むと、アジアのかたすみにすむ私たちは、思わずむっとしてしまいます。「ヨーロッパ文化だけが普遍的だと?!」と腕まくりしたくなります。でも、西洋の「普遍的文化」というのはどういうものなのでしょうか。ここで文化の例として、西洋の時計と和時計を比較してみましょう。

 和時計と西洋時計
 和時計は、日々変化する日の出(明け六つ)と日没(暮れ六つ)に合わせて時を刻む時計です。それは時計の設置された場所における日の出と日没時間をすべて組み込んだ時計です。でも和時計は設置場所でしか使えない。「普遍的」(どこでも使える)時計ではありませんし、そんな「普遍性」を求めてはいません。和時計の背後にある時間の体系は、その時々と場所に合わせて時間がずれたり伸びたり縮んだりする。そうした柔軟な体系です。
 それにたいして、西洋の時計は、使用されている場所に関係なく時を24等分して刻みます。その地域の基準地を決め(たとえば明石)、その場所における太陽の南中時を正午とします。この時計は、どの土地にも適合していない、自律的な時計(自分勝手に動く単純な機械)であって、それをあらゆる場所で使い、その土地の人間を強引にそれに合わせさせています。このでの時間の体系は、その時々と場所にはまったく合わせない、硬直した固定的な時間体系です。
 普遍的などこでも通用する西洋時計と西洋の時間システムとは、じつは勝手に動く(自律的な)閉じた時間機械と閉じた(自律的)時間システムにほかならないのです。
 してみると、ヴェーバーの言う、西洋的な「普遍的」な文化いうのは、ひょとしたら、その時々、その場所、その事がらに、合わせて作るのではなくて、自律的に完結した(閉じた)体系を、強引に当てはめる(妥当させる・通用させる)文化なのではないでしょうか。

 ここで、この「序言」が書かれるまでの経緯を、学説史的年代記として列記してみましょう。

1900年 ジンメル『貨幣の哲学』初版出版
1905年 ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」雑誌発表
     注で、『貨幣の哲学』の最終章について言及。
1907年 ジンメル『貨幣の哲学』第二版出版
  ?年  ヴェーバー、『貨幣の哲学』第二版に書き込み。
     (書き込み本はアーヘンの教会図書館が所蔵)。
1911-12年 ヴェーバー、「音楽の合理的・社会学的基礎」Die rationalen und soziologischen Grundlagen der Musik(のちに『音楽社会学』と呼ばれ)るを執筆か。 
1911-15年 『宗教社会学』(『経済と社会』の一部分)執筆か。

1916-7年 「世界宗教の経済倫理」を雑誌に発表(のちに『宗教社会学論集』に収められる)。
1920年 『宗教社会学論集』第1巻 出版
     「序言」にて、西洋文化の「普遍性」はどこから来たのか、という問題提起。
     西洋文明のさまざまな領域における合理化について言及。

 ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で、すでに5年前に出版された『貨幣の哲学』初版について言及しています。そしてさらに、2007年に出版された『貨幣の哲学』第2版に、書き込みとアンダーライン・サイドラインをして読み込んでいます。
『貨幣の哲学』は「分析編」と「総合編」に分かれますが、「分析編」は、人間の営み、とくに交換から、どのように貨幣というものが生まれてくるかを描いています。反対に「総合編」は、この貨幣というものが人間の生活にどのような影響を与えるかを書いています。じつは、ヴェーバーの『宗教社会学』もそれに似た構成をしています。前半では、人間の行為から「超感性諸力」(目に見えない力)が生まれ、やがてそれが神概念となり、宗教の意味の体系(教説)を作り上げます。後半ではこうして生まれた宗教がその組織と人間を通して一般に人々の生活にどのような影響をもたらしたかを考察しています。
 ヴェーバーの『宗教社会学』は『貨幣の哲学』の影響を受けた可能性が大です。だとすると、ヴェーバーの『貨幣の哲学』への書き込みは、『貨幣の哲学』の出版(1907年)から『宗教社会学』執筆開始(1911年頃)のあいだになされた可能性が大です。

 ジンメル『貨幣の哲学』
 ではジンメルは『貨幣の哲学』でどんなことを言っているのでしょうか。ヴェーバーの書き込みに注目しながら、ヴェーバーと一緒に読んでみましょう。
 ジンメルはこの著作で、マルクスの労働価値説(貨幣によって示される交換価値はその商品にこめられた一般的な労働時間によってもらたされる)を否定しています。貨幣とは、(交換)関係が結晶化したもの(「形式」)(邦訳第2巻233-4頁)であり、貨幣によって現される価値は交換関係での価値です。 ですから、ある品物がある貨幣と同じ価値があり交換されるということの意味は、品物の実体的価値が貨幣(商品)の実体的価値と等しい、ということではなく、品物がそれを含む商品全体なかで占める割合(比例)で示される価値と貨幣がその全体の貨幣量のなかで占める割合(比例)で示される価値とが同じであることをしめす、言っています(邦訳第2巻172-4頁) 。
 商品と貨幣は、実質的な価値が対応し等しいとみなされるのではなく、その商品が商品体系の中でもつ(比例〕関係的な価値と、その貨幣が貨幣体系のなかで持つ(比例)関係的な価値、とが等しいみなされるのです。
 つまり、ここでは商品の交換の媒介となる貨幣が、閉じた体系を持っており、その閉じた体系の内部での関係(比例)値が、閉じた貨幣体系の外にある商品へと対応するのです。
 貨幣は広汎に普及することで、この交換関係の価値を普遍化するのです。

 ヴェーバー「音楽の合理的・社会学的基礎」
 さてヴェーバーは、同じ頃、西洋の、「平均律音階」の出現とその意味をさぐる論文、「音楽の合理的・社会学的基礎」を書いています。
この論文は後の題名(『音楽社会学』)から想像されるような、音楽と社会の一般的関係をあつかった論文ではぜんぜんありません。この論文は一貫して、音階の比例分割、つまり有理数(合理数)による分割という問題があつかっています。
 もともと音楽は数学や天文学と同列の学問だとされてきました。それは音階というものが有理数(分数)で作られるからです。(たとえば、一つの弦を1/2にすると1オクターブ音が高くなり、2/3にすると、ドの音がソの音の高さになるのです)。
 ところがどの音から分数によって音階を作っていくかによって、じつは音階は微妙にずれてきます。出発点の音によって音階は本当はその度ごとに作り直さなくてはいけなくなります。弦楽器や管楽器ならばそれは微調整で適応できます。しかしオルガンやピアノやギターなど音が固定された楽器ではそうはいかなくなります。転調のごとに別の楽器を使うわけにもいきません。(ピアノやギターがふつうオーケストラに入っていないのはおそらくそれが理由でしょう)。
 この問題を、西洋ではオクターブを12等分することで解決しました。だがその際、音階を分割するのは、もはや分数(有理数)ではなく、無理数なのです。人間の耳は周波数が2倍になると、同じ音に聞こえます。12回音を上げていくとちょうど上の周波数が2倍の音になるように音階を分解する。つまり2の12乗根づつ周波数があがるような音階(半音)を12回積み上げて、上の高い同音にいたるような音階をつくるのです。こうしてできた音階を「平均律音階」といいます。ピアノやオルガンなどはこの音律に調律されています。
 この音階によって自由な転調ができるようになりました。つまりハ長調のラの音はヘ長調のレの音と同じとされるようになったのです。だがその結果、平均律音階の音はどれも、本来の有理数による音階から少しずつずれているのです。
 「有理数」(分数 a rational number)というのは直訳すれば「合理的な数」のことです。それに対して「無理数」(an irrational number) 、つまり「非合理な数」です。つまり西洋の音階は、無理数(非合理数)で音階を分割するという、「非合理性」の導入によって成立したのです。
 この平均律音階の誕生の結果、それを内部に仕込んだ楽器(ピアノ)は、どの調の音階にも対応できるようになりました。しかし、それぞれの調の音階が、起点とする音からの比例分解によって音階をつくっているために、無理数で分節した音階は正確には対応しません。でもそれをいわば、無理矢理対応させる、というのが平均律音階の強みです。そうすればどの調の音も、いちいち調律をし直さなくても弾けるようになります。それはちょうど、1日を24等分するだけの時計でどこに行ってもそれですます、という西洋時計のシステムと同じです。本来は異なっているさまざまな調の音を、「異名同音」として同じ音だとしてくくってしまう。まだ日が高かろうとあるいは沈もうと「6時」だとし、太陽が南中していなかろうと「正午(12時)」だとしてしまうのと同じです。
 ヴェーバーが「普遍的文化」と言ったとき考えているのは、じつはこうした無理矢理あてはめていくような合理性をもった文化のことを考えていたとおもわれるのです。

 呪術からの解放から形式合理主義の世界へ
 ではヴェーバーは、その未完に終わった『宗教社会学論集』で、この「普遍的文化」の発生をどのように説明しようとしていたのでしょうか。残された文献から構成されるのはつぎのような展開です。

 呪術の園
 原生的共同体において、あらゆる生活諸領域は、その神話的呪術的な世界観(聖なる天蓋)の下にまとめられていました。芸術領域もその例外ではありません。芸術はこの世界観に文字通り呪縛されており、同時にその世界観に奉仕するものでした「正しい」とされた様式からの離脱は、呪術的な恐怖を伴うために忌避されました。
 たとえば、音楽を例にとるならば、ひとたび呪術的に効果ありとされた旋律は固定されがちであり、それからはずれた旋律は忌避されました。この固定された旋律から音階が形成されていのです。

 呪術的世界観の打破
 古代ユダヤの民が創出した一神教はこうした呪術的な神話的世界を打破するものとして働きました 。それまで各地の「高きところ」(聖地)でのおこなわれた祭礼はすべてエルサレムに集中され、各地の「八百万(やおよろず)」の神々は否定されました。ただユダヤ教はその民族的な紐帯を脱し切れてはいませんでした。しかし、その神を継承した、キリスト教、イスラム教ではその神観は普遍的なものとなりました。それによりそれまでの地縁・血縁による共同体の祭祀とその呪術的な信仰は打破されました。これをマックス・ヴェーバーは「呪術からの解放」と呼んでいます。 
 呪術的世界観の束縛から解放された文化諸領域はその独自な自律的な展開を見せ始めます。芸術もその例外ではありません。ここでふたたび音楽を例にしてみましょう 。
  
平均律の誕生
 脱呪術化した世界観の下で、音階はそれまでの固定的な旋律の呪縛から自由になりました。それまでの音階が旋律に拘束され、主音から音階形成がなされていたのに対して、音階内部の自律的で合理的な分節が目指されました。有理数(rational number直訳すれば合理数)によるさまざまな音階分節が試みられたが、二分の一、三分の二、四分の三、という有理数による音程の分節は相互に不整合をもたらします。結局、有理数による音程分節はあきらめられ、無理数(irrational number直訳すれば非合理数)による音程分節がなされることになり、それが「平均律」となったのです。この平均律は和声的には常にわずかながら不純であるが、自由な移調や転調を可能にし、その結果、西洋音楽は飛躍的発展を遂げることになったのです。
 平均律音階は、提示された主音から合理的の音階形成をしようとしない。すなわち音階の外から与え提示された音から出発して合理的な音階をその度ごと形成しようとはしません。すでにできあがった音階でそれに対応しようとします。ヴェーバーはその時々の現実に適合しようとする合理性を「実質合理性」と呼びました。しかし平均律音階では否定されています。平均律はあくまでも自分のなかの閉じた無理数による分節による音階をつくりあげ、それを適用します。外のものとの完全な対応を放棄することで、その内部の整合性・体系性を追求するこうした合理性を、ヴェーバーは「形式合理性」と呼びました 。
 
 形式合理性の支配
 ヴェーバーによれば、この形式合理性は、西洋音階のみならず、西洋の文化一般の性格でした。
 たとえば、西洋の線遠近法による絵画は、肉眼からみた像とはわずかであるが遊離した図学的体系による作図を基本にしています。ゴチック建築の登場する以前、たとえば、ロマネスクの教会は、建物の大きさごとに計算され調整されたそれまでの円形アーチとそれによる正方形の区画からの建築しようとしていました。ゴチック様式はその大きさとごとにつくりあげる試みを放棄して、尖頭アーチと長方形の区画の組合せで、教会の建築をしました。西洋の法体系は、事件ごとに人がらや事がらにそくした審議と判決をするのではなく、あらかじめ形式的につくられた法体系を事態に対応させることで審判を下します。さらに貨幣の体系は、個々人が品物にこめたさまざな思い(使用価値)を切り捨て、交換関係のなかでの価値だけで、品物の価値を決める、そうした自律的な体系となっています。

 貨幣と法体系
 マルクスによれば、商品交換が全般的になるにつれて、個々人にとってのものの価値、すなわち「使用価値」ではなく、そのものがどれくらいの金額で交換されるかという「交換価値」が品物の価値を決定するようになります。すなわち個々人の価値(使用価値)と
は別の価値(交換価値)の体系ができあがっており、その価値(交換価値)の体系があることで市場経済が成立しているのです。
 個人の観点からみたら、交換価値というのは、時には「理にあわない」(不合理)もののこともあります。例えば、先祖代々大事にしてきた掛け軸が、二束三文の値段しかつかないこともあります。農地改革 の時にただ同然で手に入れた土地が都市化で急に億の値段がつくこともあります。
 貨幣による交換はこうした交換価値によって、個々人の思い入れによる「使用価値」を押しつぶしていきます。
 このように個々人や個々の場合から見ると「理に合わない」、「ぴったりしない」けれどもそれがあることでさまざまな処理ができるような体系として、法律の体系があります。
Aさんが人を殺したのとBさんが人を殺したのとは、もちろん別の事柄です。それぞれ別の事情があるでしょう。個人の側からみると事情をよく吟味して罰するべきでしょう。いわば「大岡裁き」というのがそれです。でもそれは、Aさんの時は無罪放免、Bさんの時は磔獄門(はりつけごくもん)という結果を招きかねません。このようにいつもその事情ごとに罰し方が違っていたら、なんら規則や決まりというものが作れなくなってしまい、社会生活というものはずいぶん不安定なものになってしまうでしょう。将来のことを予測・計算することもできませんから、およそ計画的な経営というものは難しくなり、「越後屋」にでもなって「お代官様」に賄賂を贈ってお目こぼししてもらった方がよくなってしまいます。
 ともかく、「悪さ」や「非道」があったら、それに、犯罪名を適用し、さらい、その犯罪に対する処罰を適応する、たとえば、「人殺し」や「刃傷沙汰」があったなら、ひとまずどちらも「殺人」という名でくくり、その罰則の幅を決めておいて、そのうえで事情を考慮するというのが、近代の法体系のあり方です。
 同じようにAさんとBさんが別れるのと、CさんとDさんが別れのとは、もちろん別の事柄です。しかしひとまず「離婚」という言葉でくくってそれから対応するのが法律のやり方です。(かつて『クレーマー・クレーマー』という離婚をあつかった映画がありました。圧巻は法廷の論争シーンでした。夫婦の個人的な悩みや問題が法律の「言葉」で表現されるとき、まるで身を切られるような残酷さを持っているのをそれはみごとに表していました)。
 掛け軸を持っているのと、金の延べ棒を持っているのとは同じではありません。しかしどちらも「所有」という見方でくくることでその権利を保障しているからこそ、人びとは安心して売買(交換)ができるのです。持っているものによって急に取り上げられてしまうようになったら不安で売買なんかできません。
 法律の体系は、社会のさまざま事柄を、法律の言葉でくくり、それを処理する体系です。貨幣(交換価値)の体系も法律の体系も、個々の、本来ならば「同じ」とはみなすことのできない物事を、「同じ」とみなしくくることで、機能しているのです。
 このようにヴェーバーは、個々の事例にそれぞれふさわしい「合理性」を「実質合理性」とよびました。それに対して、個々の事例を共通なものとして形式的にくくるような合理性を「形式合理性」とよびました。

(2)形式合理性の世界
 その本来の問題解決からみたら「非合理」と思えるものを導入することで西洋の「合理性」は成立し、各領 域は自律的(合理的)体系をなしているのです。たとえば貨幣の体系は、個々の「使用価値」を無視しそれからみたら「理に合わない」、「交換価値」の自律的体系としてたち現れています。また法体系は、個々の実状をいったん捨象することでその実律的、形式的かつ普遍的な体系となっています。たとえAの殺人とBの殺人は個別的なことなのに、ひとまず「殺人」としてくくります。それぞれに実状にあわせて裁判することを「カーディー裁判」といいます。しかしそれでは場合によって判決が違ってきて、計算(予測)可能性がなくなり、資本主義的経営がなりたたなくなります。

マルクス 
使用価値 
交換価値(+労働価値説)

ジンメル 
内容 
交換価値形式(交換関係の結晶)としての貨幣

ヴェーバー
実質合理性
形式合理性(閉じた自律的システム)
 
 マルクスは『資本論』で、「使用価値」と「交換価値」の2分類を提唱しました。その際、マルクスは、「交換価値」は、「一般的な労働」の時間によって計られる、とかんがえていました(労働価値説)。ジンメルはこの労働価値説を切り捨て、貨幣が現しているのは、交換関係における価値であり、貨幣はこの交換関係が結晶化したもの、つまり関係が実体化したもの、つまり「形式」だとみなしました。
 ヴェーバーは、このジンメルの関係の結晶化としての「形式」という考えをつかって、「形式合理性」という概念を得たと思われます。この合理性は、交換や転用が可能な普遍的な合理性です。しかし、それがさまざまなものに交換・転用・適用できるのは、体系が柔軟性だからではなくて、むしろ反対に、他の領域からいったん離れて独立に自律的で、固定化した体系(システム)だからなのです。
 こうして、ヴェーバーは、ジンメルの形式社会学(関係の結晶化としての形式をあつかう社会学)、とりわけ『貨幣の哲学』を経由することで、マルクスの「使用価値」と「交換価値」に対応するものとして、「実質合理性」と「形式合理性」という概念をつくりあげたと思われます。
 この形式合理性の体系でもっとも重要なのは、貨幣体系と法体系です。しかしそのほかの領域もそれぞれに自律的に(つまり他の領域や人間本来の目的からの合理性を無視して)展開され完結しているとヴェーバーはみていたのです。
 非合理性を媒介にして形式合理のさまざまな体系が自律的に展開する、それがヴェーバーの近代観です。そうしたばらばらになったさまざまな領域の体系のなかにあって、その分裂を一手に引き受けまとめ上げるべきものとされるのが、個々人の「人格」なのです。
 禁欲的に自分の幸福からみると非合理に過ぎない労働に邁進する近代人は、同時に分裂した近代にあって統合をめざす唯一の拠点として緊張にさらされているのです。宗教的禁欲主義が世俗的な資本主義を生み出し、非合理を媒介にして自律的形式的に合理化した諸領域が発展していく。ヴェーバーの近代とはこうした逆説的な発展が生み出したものにほかならないのです。
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by takumi429 | 2016-05-26 21:53 | 社会学史 | Comments(0)

6bis  形式合理性とは

形式合理性とはなにか。
マルクスは、使用価値と交換価値という価値の2類型を資本論で提示した。しかし、交換価値に、マルクスはすかさず労働価値というしっぽをつけて、その内容を埋めようとした。
しかし生産現場(過程)と市場(交換過程)という2つのシステムがあり、そのシステムのおける交換比率の差異こそ、利潤を生み出すものであったはずである。交換過程(市場)における価格(交換価値)は、労働を製品の込める生産過程とは違うシステムのなかにある。市場においての価格は受容と供給の均衡によって決まる。商品交換を媒介する貨幣の登場によって交換は柔軟でより広がりのあるものとなった。
ジンメルは『貨幣の哲学』で、貨幣を労働価値説ではなく、人間の社会関係から説明しようとした。ジンメルによれば、貨幣を交換関係の結晶化した形式である。この書で、彼は、商品交換を媒介する貨幣の出現とその社会への影響を考察した。
初版を読んだヴェーバーは、この書の最終章にみられる、貨幣の近代社会への影響の考察を光輝あるものとみなした。大都市に典型的にみられる近代社会に対する貨幣という社会関係の形式の影響の大きさに注目した。
ヴェーバーは『貨幣の哲学』第2版が出版されると、この書を「をていねいに読み込むことで、(交換的)社会関係の「形式」(結晶体)である貨幣が、それぞれ商品の価値に対応しているのではなくて、むしろ、その商品がその商品体系のおいて占める比例(関係値)にたいして、貨幣の体系のおいておなじ比例(関係値)をもつ貨幣が対応する(ある品物Wがいくらの貨幣値段Gである、W=Gとされる)ことに着目する。商品を貨幣に代える、または貨幣を商品に代えるときにあらわれる等号は、個別の商品と貨幣についての等号ではなく、その商品と貨幣がそれぞれが属する商品システムと貨幣システムの中で占めている位置価の間に成立している等号なのである。つまり要素と要素の対応ではなく、システム内の位置価とシステム内の位置価との対応なのである。
貨幣が閉じたシステムを成していて、そのシステム内部での位置価でもって、貨幣システムの外(のシステム)のものに対応している、それが交換関係の結晶化として「形式」たる貨幣の、たどり着いた形であること、そしてそのシステム内での位置価は、もっぱら比例(ratio)によって表現されること。これがヴェーバーの考察の出発点となった。
 この出発点から、もっぱらある完結したシステム内部での比例によるシステム構造の構築されていく様のモデルケースとして選ばれたのが、音階であった。音階の分解を比例(有理数rational number)によって完成しようとする試みは結局成功せず、そこで導入されたのは無理数(irrational number非合理数)具体的には2の12乗根による音階分節であった。この非合理的な数(無理数)の導入によって平均律音階は完成し、さまざまな調の音を、異名同音として等号(=)で等しい音だとして扱うことができ、その結果、調から調への転調が可能となった。ここにヴェーバーは、貨幣形式の成立によって交換が用意に広汎に可能になった近代の現象と同様のものを見出した。ただし、ここの自律した平均律音階は、比例(合理数)ではなくによる構成は放棄され、無理数(非合理数)によって構成されている。個々のの基音(はじめてのドにあたる音)からの比例による音階構成は放棄され、無理数で構成された音が、多少のズレを含むにもかかわらず、同じ音として処理される。
 ジンメルが比例(合理)によってできているとおもった形式のシステムは、じつは非合理を使うことではじめて完結する。そしてそれは個々の対応を一旦断念して、システムとしての完結をしたうえで、ようやく外のものへと対応できるのである。
 この個々のものへの合理的(比例的)な対応を断念することではじめて問題を解決して完成できた体系として、ロマネスク様式の教会建築(正方形と円形アーチの組み合わせで作る)にたいするゴチック建築(長方形と尖ったアーチを使用する)や遠近法などの芸術形式をヴェーバーは考えていた。
 しかしもっと彼が重視したのは、法体系である。Aの人をあやめた事件と、Bのなぶり殺しの事件を、いったん法体系における「殺人」というもので等しいものとする(=をつける)、そのうえで差異を考慮する、という法体系のありかたは、まさに、Aという商品とBという商品を、「100円」とすることで等しいものとする貨幣体系と、パラレルなものとしてヴェーバーには映っていたのだ。もちろん、細かな差、ずれ、違和感はある。しかしそうした差やズレにいった目をつぶって、体系の内部での位置価を対応させることで、はじめて、広汎で平等な処理ができる。ちょうど平均律音階のもとに近代の西洋音楽が展開されていったように。
 このようにその内部にズレ(非合理性)をはらみながらも、完結した体系としてそびえ立ち、閉じた自律的体系として、個別的でなく、関係の内部での位置価でもって、外部に対応する、そうした合理性をヴェーバーは、(そのアイディアのもとになったジンメルの「形式」にちなんで)、「形式合理性」と呼んだのである。
 この形式合理性が支配する組織が、法文によって動く、官僚制にほかならない。それは、西洋時計や平均律音階で調律されたピアノと同じように、閉じているシステムだからこそ、さまざまなものに対応できる装置にほかならないのです。(この閉じたシステムによる外部対応、という考え方はルーマンの『法社会学』第二版序文を参照)。
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by takumi429 | 2016-05-26 21:51 | 社会学史 | Comments(0)

金色夜叉 あらすじ


金色夜叉(こんじきやしゃ)

尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説。

読売新聞に1897年(明治30年)1月1日 - 1902年5月11日まで連載。

作者が逝去したため未完。


前編

15歳で両親に死に別れた、間貫一(はざまかんいち)は、鴫沢(しぎさわ)家に引き取られ育ててもらい、高等中学生(ほぼ自動的に東大生になれる)となる。大学を卒業し学士となったら、鴫沢家の娘、宮、と結婚し、鴫沢家を継ぐとの約束である。

しかし、300円のダイヤモンドの指輪が自慢の大富豪の富山唯継は、かるた会で宮を見染め嫁に求め、鴫沢夫婦も宮もそれを了承する。

鴫沢隆三が宮をあきらめるよう貫一を説得するあいだ、宮と母親は熱海に来ている。そこへ富山がやって来て宮を散歩に誘う。ところがそこへ貫一もやって来たので、富山は東京に帰る(前編第7章)。夜となって熱海の海岸で、貫一は宮をなじり、翻意を乞うが、宮は富山と結婚する気であることを知り、宮を蹴飛ばす(第8章)。貫一はそのまま出奔する。
朗読https://www.youtube.com/watch?v=Nt2yBCJdRAQ

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中編

4年後、新橋のステーションから、貫一の親友で卒業のして法学士となった荒雄は愛知県参事官として赴任しようとしている。友人4人が見送りに来て話が盛り上がる。赤樫という60過ぎの高利貸しのところに借金のかたに奉公しているうちに手をつけられ妻にされ、いまはやり手となった「美人クリーム」とあだ名される美人高利貸し(満江)の話で盛り上がる(「高利貸し」(氷菓子)をもじったシャレ)。途中、荒雄は貫一を見かけたように思うのだが、すぐに姿はみえなくなる。

じつは、貫一は親友の旅立ちを見送りに来ていたのだが、気づかれまいと身を隠したである。貫一は鴫沢家を出てから、高利貸し鰐淵(わにぶち)の手代となって働いているのだった。赤樫満江はそんな貫一に独立を援助すると言う。わけは貫一にぞっこんだからというのである。宮に裏切られた貫一は女には興味がないと答える。

いまは、富山宮子となったお宮は、夫には愛情を持てず、産んだ子にすぐに死なれ虚しい生活を送っている。ある日、夫に連れられて田鶴見子爵邸を訪れる。子爵の双眼鏡というものをのぞかせてもらっている宮は、離れに貫一を見つける。じつは子爵は裏で高利貸しに資金援助をしており、そのため貫一が来ていたのである。すれ違いざまに二人は4年ぶりの再会をする。直後、写真撮影の途中で宮は気を失い倒れる。

他方、深夜、片側町の坂町の暗い道で、貫一は恨みをもつ2人組に襲われ、重症を負う。

後編

貫一の遭難は新聞に報道される。入院中の貫一を満江は頻繁に訪れている。そこへ貫一の育ての親ともいえる鴫沢隆三がやってくるが、貫一は顔を合わそうとはしない。

貫一の留守の間に、鰐淵の家に、鰐淵によって息子雅之が連帯保証人の公文書偽造の罪に落とし込められて刑務所にいれられた老女が、毎日のようにやって来て鰐淵の首を寄こせと言う。ある風の強い日、今日はあの気違いが来なかったと、安心して夫婦が寝込んだ夜に、老女の放火によって鰐淵の家は焼失し、夫婦は焼死する。


続金色夜叉

あいかわらず高利貸しをしている貫一は、義理ある人のために職を失い借金を背負った荒雄に会う。その後、荒雄が来たと言うので、迎えると、それは、久しぶりに会うお宮だった。お宮は自分の罪をわびるが貫一は許さない。お宮は貫一にすがりつく。そこに満江がやって来て、騒動となる。その夜、貫一は、お宮が自害して自分も死ぬ、夢をみて目が覚める。

続続金色夜叉

気分転換に那須に行った貫一はそこで借金のための心中しようとする男女を助ける。じつは、二人は、富山唯継に身請けされそうになった、お静と、それを救おうと大変な借金をせおってしまった狭山であった。貫一は二人の借財を代わりに払い、二人を引き取る。


新続金色夜叉

物語は、いきなり、お宮が貫一に宛てた候文の長い手紙の文章で始まる。お宮は後悔し許しを乞う。助けた男女を使用人にしている貫一は、お宮の手紙を読みながら思案に暮れる。さらにお宮の手紙が来て、お宮は自責の念から自分は死につつあるという(ここで作者の死により絶筆)。



金色夜叉 終篇 小栗風葉作 (1906年明治39年新潮社)
放火で死んだ鰐淵の息子直道と荒尾譲介の助言により、間貫一は高利貸しを辞める決意をする。一方、富山唯継は赤坂の10代の芸者を身請け新聞に報道される。富山との不仲と貫一への思いに、ついにお宮は発狂し、小石川脳病院に入院する。貫一の名だけをくり返し、自殺も試みるお宮を見た父隆三は、貫一にお宮に会ってもらうために、荒尾に間に立ってもらうよう頼み込む。唯継は宮のいなくなった本宅に見受けした芸者を入れ、ついに宮は離縁する。人妻に友を会わすわけにはいかないとしていた荒尾も、離縁したならばと、貫一にお宮に会うよう助言する。正気と狂気の間をさまようお宮は、一瞬正気にかえって貫一の名を呼び、貫一はお宮を許す。高利貸しで得た金で、貫一は荒尾の借金を返し、さらにフランスに洋行させる。さらに放火した老女の息子、飽浦雅之と、彼が公文書偽造罪で刑務所に入っていたために親がゆるさないために結婚できないお鈴、二人を、荒尾と同じ船で中国に駆け落ちせてやる。また残りの金は、直道が属する地学会の奨学金基金となった。高利貸しの夫の死により解放された赤樫満江も荒尾の待つパリへと旅立つ。貫一はまだ正気にもどらぬお宮と思い出の熱海の地で二人っきりで静かに暮
らす。


明治時代の1円はいまの2万円ぐらいか(http://manabow.com/zatsugaku/column06/ 2016年5月19日)
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by takumi429 | 2016-05-19 07:35 | 社会学史 | Comments(0)