カテゴリ:映画史講義( 11 )

講義で紹介した映画 

講義で紹介した映画 (監督名と題名)

1.クリス・マイケル「ラ・ジュテ」
スチール写真の連続という手法を使った映画。映画は写真の連続であり、写真の連続のなかに別の写真を滑り込ませること(モンタージュ)でそのどこにもない、しかしあり得るかもしれない、世界を観客に呈示するのだということを示している。残された手紙、足跡、写真を貼り合わせることで、あり得た世界へと人を誘う、という手法は「アメリ」にも活用されている。

2.リュミエール兄弟「工場の出口」・「赤ん坊の食事」・「ラ・シオタ駅への列車の到着」・「港を出る小舟」
見世物を撮る必要はない、映画自体が見世物となりうる。
  ジョルジュ・メリエス「月世界旅行」マジックとしての映画 
 フェルディナン・ゼッカ「或る犯罪の物語」

3.デビット・W・グリフィス
クローズアップ、クロスカッティング、切り返しなどほとんどの映画の手法を生みだした映画の父
「国民の創生」
「イントレランス」

「東への道」

4.セルゲイ・エイゼンシュタイン「戦艦ポチョムキン」
モンタージュ理論と実践
フセボロド・プドフキン「母」
「東への道」の流れる氷のシーンへの言及が楽しい。象徴的モンタージュと思わせて、そこに登場人物を出現させて、現実のシーンであることを示す、愉快なひねり。
カール・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」
クローズアップの極地

5.バスター・キートン「将軍」
行って戻ってくる列車と映画のフィルムによる時間逆行の対応関係
「キートンの探偵学入門(忍術キートン)」 映画のスクリーンから抜け出す人物 
ハロルド・ロイド「要心無用」アメリカ映画のアクションの基本形
チャーリー・チャップリン「黄金狂時代」
            「街の灯」

世界言語としてのサイレント映画 言葉を使わないからこそどの世界にも通用する。

6.フランク・キャプラ「在る夜の出来事」

7.オーソン・ウエルズ「宇宙戦争」(ラジオ劇)
           「市民ケーン」
音は一度流れたら消えてしまう、映像だとつねに同時に表示されている。
これは「お芝居だよ」という声のコメントは消えてしまうが、映画だと俳優の顔によってつねに「これはお芝居だよ」というメッセージを受け取ることができる。ラジオ劇が大パニックをもたらしたが、後者はあくまでも芝居としてみることができた。
「市民ケーン」は映画というおもちゃ箱で天才青年オーソン・ウエルズ徹底的に遊んでみせた作品。

8.フリッツ・ラング「メトロポリス」

  レニ・リーフェンシュタール「民族の祭典」・「美の祭典」
オリンピックを撮った映画というより、映画のためのオリンピックをやったというべきかも。「美が正義だ」という主張さえ感じられるが、それはほんとうにナチズムと無縁なのだろうか。
なおナチズムによってドイツ映画は衰退したというのはウソで、ナチズム映画にはとてもレベルが高く、おもしろいものがある。

9.エリア・カザン「波止場」
  フランシス・コッポラ「ゴッド・ファーザー」
            「ゴッド・ファーザーⅡ」

 マーロン・ブランドは「自然な演技のために」セリフを覚えず、そこらじゅうにセリフを書いてそれを盗み読みして演じていた!映画の裏舞台を書いたハーラン・リーボ/著 河原一久/監修 鈴木勉/監修『ザ・ゴッドファーザー』(ソニーマガジンズ)(品切れ)は、おすすめ。
  ベルナルト・ベルトルッチ「ラスト・タンゴ・イン・パリ」
  マーティン・スコセッシ「タクシー・ドライバー」


10.ジャン・リュック・ゴダール「勝手にしやがれ」
君にも映画は撮れる!
フランソワ・トリフォー「アメリカの夜」
映画の撮り方、教えます!


  
  
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by takumi429 | 2007-07-09 15:17 | 映画史講義 | Comments(0)

10.ヌーベル・バーグ

10.ヌーベル・バーグ
アンリ・ラングロワが中心となって企画運営していたシネマテーク・フランセーズに通い詰めていた若きシネフィル(映画おたく)たちが、映画評論家アンドレ・バザンが中心となった『カイエ・デュ・シネマ』で映画評論を書くようになり、さらに実作家へと転身していき、1950年代末にヌーベル・バーグという映画潮流を生んだ。
映画オタクらしく、過去の映画への言及が著しい。映画の自己言及性が高まっている。
いわゆる職人的監督を作家として評価し直す「作家主義」、素人でも映画はできるという感覚、難解(そうな)な思想性など、その後の映画青年のスタイルを決定した運動であった。
ゴダール(Jean-Luc Godard 1930~) 『勝手にしやがれ』、トリフォー(François Truffaut 1932~84)『大人はわかってくれない』など。
なおトリフォーがヒッチコックにインタビューしてヒッチコック自身に彼の全作品を語らせた『映画術 ヒッチコック/トリフォー』(山田宏一 蓮實重彦 訳、晶文社)は読んでほんとうに楽しい映画論である。(以上、勝又記述)
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by takumi429 | 2007-07-09 14:41 | 映画史講義 | Comments(0)

9.メソッド演技と映画

9.メソッド演技と映画
クローズアップを多用する映画では、舞台のような身振りが大きく透る声での演技よりも、役柄になりきった内面的な演技が求められる。そうした要求にまさに応えたのが「メソッド演技」であった。
メソッド演技はロシアの演出家スタニスラフスキー提唱した俳優養成システムををアメリカの演劇界が導入し発展させたものである。そこでは「心理的リアリズム」の演技が重視された。
メソッド演技でもっとも有名なのがNYのアクターズ・スタディオである。演出家でのちに映画監督となるエリア・サガンたちは俳優マーロン・ブランドを育てる過程で、メソッド演技論を確立していった。
メソッド演技はマーロン・ブランドの成功とともに大きな影響をおよぼした。同じスタジオの後輩でライバルのアンソニー・クィーン、ブランドの亜流とのコンプレックスで暴走死したジェームス・ディーンや、ポール・ニューマン、アル・パッチーノなどアメリカ映画界の演技派俳優のほとんどがこの演劇法の影響をうけている。ブランドの後、典型的メソッド俳優とされているのがロバード・デニーロである。彼は舞台には関心をもたず映画だけに出演している。日本でメソッド演技の訓練を直接受けたのは、オダギリジョーである。
映画「ゴッド・ファーザー」は、マーロン・ブランドの影響をうけた俳優と、ブランド自身が共演するという、メソッド俳優が一堂に会した映画ともいうことができる。(以上は勝又による記述)
ゴッドファーザーでのマーロン・ブランド
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by takumi429 | 2007-07-07 02:25 | 映画史講義 | Comments(0)

8.ドイツ映画(第二次世界大戦期まで)

ドイツ映画(第二次世界大戦期まで)
Ⅰサイレント期
ドイツで最初に映画が一般観客に対して上映されたのは1895年11月1日、ベルリンのミュージック・ホール「ウィンターガルテン」においてであった。スクラダノフスキー兄弟の発明になるビオスコープという装置がこの映写につかわれた。しかしこれより2カ月たらず後にパリで一般上映されることになるリュミエール兄弟のシネマトグラフにくらべて、これはおとった装置であったため、ビオスコープによる映画撮影と上映はその後長くは続かなかった。
1 ウーファの設立
ドイツ製の映画装置を改良し、ドイツに映画産業の基礎をきずいたのはオスカー・メスターである。19世紀末までに彼はすでに多くの映画を撮影しており、20世紀にはいるとヘンニー・ポルテンのようなスターをそだてあげ、また第1次世界大戦中は、戦争のニュース映画を組織的に製作するなど、初期のドイツ映画のあらゆる面において中心的な役割を演じた。
1917年にメスターをはじめとするいくつかの映画会社が合併し、ウーファ(UFA)という映画トラストが設立された。以降ウーファは、映画の製作、配給、上映のすべてを独占する、ドイツで最大の映画会社として世界に知られるようになる。

2 表現主義映画の開花
第1次世界大戦以前のドイツ映画は「プラーグの大学生」(1913)をはじめ、主としてドイツの幻想文学からの主題をもった映画が諸外国でも知られていたが、ドイツ映画が世界の映画市場をおどろかせるのは、第1次世界大戦がおわった後のことである。まずロベルト・ウィーネの「カリガリ博士」(1919)をはじめとする表現主義映画が、映画の新しい様式をしめすものとしてあらわれた。これは表現主義の芸術様式を映画によって創作しようという試みで、奇妙にゆがんだ舞台装置や俳優の誇張された演技などが世界じゅうの映画ファンの目をひきつけた。

3 ドイツ無声映画の黄金期
やがてドイツから生まれたすぐれた映画監督たちが、個性的な映画作品を次々に発表していった。まずエルンスト・ルビッチは「パッション」(1919)や「デセプション」(1920)のような大作歴史劇によって大掛かりな演出をみせ、また「花嫁人形」(1919)や「山猫リュシカ」(1921)では、グラフィックにデザインされた舞台装置の中で喜劇的演出が展開された。フリッツ・ラングは「死滅の谷」(1921)や「ニーベルンゲン」(1924)によって、ドイツのロマン主義をスクリーン上に再生させ、「メトロポリス」(1927)では未来社会の労働闘争を、巨大なセットの中でくり広げた。さらにF.W.ムルナウは「最後の人」(1924)や「ファウスト」(1926)で深い人間描写と巧みな映像技法をしめした。


フリッツ・ラング「メトロポリス」
オーストリア生まれのフリッツ・ラング監督のサイレント映画「メトロポリス」(1927)は、機械にこきつかわれる労働者と贅沢(ぜいたく)にくらすエリートに二分された不平等な未来社会をえがいている。収録部分は、科学者がロボットに生きた肉体をあたえてヒロインに変容させるシーン。現代文明の機械依存という映画の中心テーマが凝縮されている。「メトロポリス」は、現代を予見した独創的な視点、みごとな特殊撮影、スケールの大きさなどで、SF映画の不滅の金字塔とみなされている。

ムルナウ「ノスフェラトゥ」
F.W.ムルナウ(1888~1931)の「ノスフェラトゥ」はブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」(1897)をもとにした吸血鬼ものの怪奇映画の傑作で、1922年の公開時には観客をふるえあがらせた。ドイツ・ロマン派の系統のみごとな映像で、今日、ホラー映画の古典とされている。写真は吸血鬼に扮したマックス・シュレック。

これらの映画監督はいずれもハリウッドの映画会社にひきぬかれ、アメリカにわたってゆくことになる。

II トーキー期
1 ナチズムの拡大と映画人の流出
トーキーの時代にはいって最初の成功作は、アメリカで映画監督として活躍していたジョゼフ・フォン・スタンバーグがドイツでつくった「嘆きの天使」(1930)である。この映画でマルレーネ・ディートリヒという新しいスターが誕生し、彼女はスタンバーグとともに渡米する。1933年にナチス政権が誕生する前に、ドイツではフリッツ・ラングの「M」(1931)やG.W.パプストの「炭坑」(1931)などのリアリズム映画の傑作がつくられ、またポピュラーな音楽映画としては「会議は踊る」(1931)などの作品が人気を博した。しかしナチスが力をえると、ユダヤ系のすぐれた映画人はアメリカをはじめとする諸外国に亡命し、ドイツ映画界は多くの才能をうしなった。


フォン・スタンバーグ「嘆きの天使」
「嘆きの天使」(1930)は、ドイツの名優エミール・ヤニングスの要請をうけて、アメリカのフォン・スタンバーグ監督がドイツにきてとった作品。ハインリヒ・マンの小説「ウンラート教授」(1905)の映画化で、謹厳な老教授(ヤニングス。写真左)が、ディートリヒ演じる踊り子の奔放な魅力のとりことなり、地位も誇りもすてて破滅していく姿を描いた名作。

フリッツ・ラング「M」
ラングの「M」(1931)は、「デュッセルドルフの吸血鬼」として当時さわがれた連続殺人事件に想をえた作品だが、ラングとその妻で大衆小説家のテア・フォン・ハルボウ共同執筆のシナリオは、事件そのものではなく、むしろ、裁判をえがくことで善と悪のテーマを追究しようとした。警察、暗黒街、浮浪者グループそれぞれが犯人捜しにのりだし、やがてひとりの男の背中に、殺人者をあらわすMの記号がつけられる。ピーター・ローレ扮する殺人者Mの裁判の場面は、この映画の白眉(はくび)であり、組織された悪のメンバーが構成する法廷での裁判をナチの寓意と読みとる説もあった。
ナチス時代のドイツ映画は、とくに反ユダヤ宣伝や国粋主義的な思想の映画において特徴をしめした。レニ・リーフェンシュタールは、1934年のナチス党大会を記録した「意志の勝利」(1935)で際だった様式をみせ、その映像の造形的特徴は、ベルリン・オリンピックを記録した「オリンピア」第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」(1938)でも発揮された。


ほら男爵の冒険
(1942)
Munchhausen
製作: ウーファ映画
監督: ヨゼフ・フォン・バキ
撮影: ウェルナー・クライン
出演: ハンス・アルバース、ブリギッテ・ホルナイ
JVD-3036・カラー・トーキー・101分
18世紀中頃、永遠に青春を保つ方法を伝授された男爵が、ヨーロッパへ旅立つ。ロシアの女帝エカテリーナとの恋、大砲の弾に乗りトルコへ、さらに気球で月にまで降り立つが、魔法を解いて愛する妻と幸せな老後を送るという幻想冒険物語。
ドイツ映画。日本公開1952年。

マリア・レックのレビュー・フィルム『我が夢の乙女』
Die Frau meiner Träume
(D, 1944)
Regie:
Georg Jacoby
Darsteller:
Marika Rökk
Wolfgang Lukschy
Walter Müller
Länge:
94 Min.

ナチズムは敗戦の寸前まで映画を、それも娯楽映画を作り続けた。『ほら男爵の冒険』(1942年)(脚本は焚書にあっていたケストナー)やマリア・レックのレビュー・フィルム『我が夢の乙女』(1944年、ドイツの敗戦はy翌年4月)がその例である。(ナチ映画がレベルが低いというのは誤解。マリア・レックの踊りはフレッド・アスティアも裸足で逃げ出しそうなすごいレベルである)。
ナチズムはなぜこのように映画をどたんばまで作り続けたのか。
それはナチズムじたいが映画の上演と同じ性格をもつものであったからである。それは大衆の(悪)夢であった。
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by takumi429 | 2007-06-24 01:55 | 映画史講義 | Comments(0)

7.オーソン・ウェルズ

7.オーソン・ウェルズ

オーソン・ウェルズ
アメリカの俳優、監督、プロデューサーとして活躍したオーソン・ウェルズは、はやくから演劇の世界に入り、斬新(ざんしん)な舞台づくりにとりくんだ。1938年にH.G.ウェルズ原作による「宇宙戦争」をラジオドラマ化した際、放送を聞いた視聴者が実際に異星人から攻撃されていると思いこんでパニックになったのは有名な話である。(しかしそのときのラジオドラマの録音を今聴いてみると、これはドラマであるということわりの文句を聞き逃すとほんとうのニュースのように聞こえてしまうことがわかる。ウェルズはそのことを意識しており、たぶん確信犯だったと思われる。「市民ケーン」でも「宇宙戦争」のニュースに俳優を登場させてリアルに見せる手法が採られている)。。その後、映画史上の最高傑作にかぞえられる「市民ケーン」(1941)を製作し、監督、脚本、主演までこなしたが、そのとき彼はまだ25歳の若さだった。
オーソン・ウェルズ Orson Welles 1915~85 歴史的な名作「市民ケーン」(1941)の監督・主演で知られるアメリカの俳優・プロデューサー・監督・脚本家
ウィスコンシン州ケノシャで生まれ、大学を中退して世界旅行にでかけたが、1931~32年、アイルランドで俳優生活をはじめた。キャサリン・コーネルの一座とともにアメリカ各地をめぐり、フェデラル・シアター・プロジェクトでは俳優と監督を担当している。37年マーキュリー劇団を創設し、斬新な舞台やラジオドラマの製作をはじめた。38年にはH.G.ウェルズ原作による「宇宙戦争」をラジオドラマ化したが、表現があまりにリアルであったため、実際に異星人による攻撃がおこっていると信じた人が続出した。
25歳のときにはじめて映画を手がけ、映画史上の傑作として名高い「市民ケーン」を製作した。ここでは、共同で脚本を書き、主演・監督をつとめて、アメリカの新聞王の内面をさぐりだそうとした。斬新な表現主義的手法で映像と音声をあつかいながら、パン・フォーカスやモンタージュなどの技法をたくみにとりいれたスタイルは、のちの映画作家たちに多大な影響をあたえることになる。しかし、商業的には思わしくなく、その後の20年間をほとんどヨーロッパですごしながら、俳優・監督としての実験をつづけた。監督作は、スリラーからテレビ・ドキュメンタリー、シェークスピアの戯曲の映画化まで、広範囲におよんでいる。

オーソン・ウェルズの「市民ケーン」(1941)は、アメリカ映画史上の最高傑作ともいわれる。ウェルズが監督、脚本(共同)、主演のすべてをこなし、新聞界の大立者ランドルフ・ハーストをモデルにしたチャールズ・フォスター・ケーンの波乱の生涯をたどった。グレッグ・トーランドのカメラによって、きわめて表現主義的なイメージと斬新(ざんしん)な演出が生きている。映画は、ここに収録したように、ケーンが「バラのつぼみ」とつぶやいて死ぬ場面で幕を開ける。極端なクローズアップ、すばやい画面切り換え、通常ではありえないカメラアングルが、この重要な瞬間のミステリアスな雰囲気をもりあげている。この言葉の意味をもとめて記者たちがケーンの生涯をさぐっていき、最後の最後に謎(なぞ)が明かされる。

「市民ケーン」以後も自作に出演することが多く、主要な作品には、「偉大なるアンバーソン家の人々」(1942)、「ストレンジャー」(1946)、「上海から来た女」「マクべス」(ともに1948)、「オーソン・ウェルズのオセロ」(1952)、「黒い罠(わな)」(1958)、「オーソン・ウェルズのフォルスタッフ」(1966)などがあげられる。監督作にはこのほか、「恐怖への旅路」(1943)、「アーカディン氏」(1955)、「審判」(1962)、フランスのテレビ局のためにつくった「不滅の物語」(1968)、セミドキュメンタリー「オーソン・ウェルズのフェイク」(1974)がある。
死後、未完のまま公開された作品には、1955年から長期にわたって製作がつづけられた「ドン・キホーテ」と、42年に南アメリカで撮影された「イッツ・オール・トゥルー」がある。また、監督・俳優のジョン・ヒューストンが主演した自伝映画「風の向こう側」も70年から76年にわたる長期プロジェクトになったが、未完成のままいまだ公開されていない。ほかの監督の作品にも出演しているが、とりわけ「ジェーン・エア」(1943)や「第三の男」(1949)が有名である。75年にアメリカ映画協会の生涯業績賞を受賞した。

『市民ケーン』
新聞王ハーストとその愛人・女優のマリオン・ディビスのゴシップを種にして映画を作りあげている。しかしそれを知らない現代に我々にとっても、斬新な映像と語り口と特殊効果が詰まった画期的映画であることがわかる。
ハーストの圧力におびえた映画館と映画スタジオのためにこの映画はヒットできなかった。

ニュースに主人公のことを語らせる
 大パニックを引き起こしたラジオ劇『火星人襲来』での手法を踏襲。
撮影構想 (撮影監督 グレッグ・トーランド)
・ディープ・フォーカス 被写界深度を深くとること(ピントが手前から奥までずっと合っていること)
・長まわし
・慣例どおりにシーンをカットに割ることの排除。そのために、シーンをキャメラからみて複数の距離平面に分割することや、キャメラを動かすことなどの技法も使わない。
・キャメラ移動の大がかりな振り付け。
・コントラストの強い画面をつくる証明
・一部のシーンではいわゆるUFA(Universum-Film-Aktiengesselschaft1917年に設立されたドイツ最大の(独占的)映画会社、第二次世界大戦後解体、のち部門別に復活)スタイルの強烈な表現効果をつかうこと。
・ローアングルのキャメラ位置、そのためにモスリン布の天井つきセット。
・強烈な視覚効果を多用すること―――たとえば複合ディソルヴ(dissolve:ある場面から次の場面へ重なりながら映像が転換する)、極端に被写界深度の深い画面効果・光源に直接カメラをむけること、など。
ほとんどすべてが、当時の大手スタジオ調の撮影狩猟に反旗を翻すものだった。
(Carringer1985 邦訳118頁)。

ひとりの男の人生が複数の語りによって描かれる
→黒沢明『羅生門』:一つの事件がさまざまな人間の語り口で語られる「羅生門的現実」
プロット(映画での語られ方)とストーリー(語られる元のお話)

特殊効果 映画の80%に二重焼きなどの特殊効果が用いられている。

声の重なり (←→交互に話し声が入る)

映画にしかできないことをやってやろうという若々しい野心と創意に満ちた作品

語り口(plot)
C.クレジットタイトル(製作者名や配役などの字幕)
1.ザナドウ:ケーンの死
2.撮影室:
a.ニュース映画
b.「バラのつぼみ」をめぐる記者の会話
3.ナイトクラブ:トンプソンのスーザン取材
4.サッチャーの図書室:
a.トンプソンが入りサッチャーの草稿を読む
(第1のフラッシュバック[回想シーン])
b.ケーンの母が少年をサッチャーの元へと手放す
c.ケーンは成長し新聞社を買い取る
d.ケーンは新聞社を拡大する
e.ケーンは新聞社を手放す
(第1のフラッシュバック終わり)
f.トンプソンは図書室を出る。
5.バーンシュタインの事務室:
a.トンプソンはバーンシュタインを訪れる。
(第2のフラッシュバック)
b.ケーンは新聞社を買い取る。
c.モンタージュ:新聞社の発展
d.パーティ
e.ケーンの渡欧についての会話
f.ケーンがフィアンセ、エミィをつれて帰国
(第2のフラッシュバック終わり)
g.バーンシュタインは回想を終える。
6.養護ホーム:
a.トンプソンはルーランドと話す
(第3のフラッシュバック)
b.朝食のモンタージュ:ケーンの結婚生活の悪化
(第3のフラッシュバック中断)
c.ルーランドは回想を続ける。
(第3のフラッシュバック再開)
d.ケーンはスーザンと会い、彼女の部屋に行く
e.ケーンの政治キャンペーンのクライマックス
f.ケーン、ゲッティス、エミィ、スーザンの対面。
g.ケーンは選挙にやぶれルーランドは転勤したいと申し出る。
h.ケーン、スーザンと結婚。
i.スーザンのオペラ初日
j.酔ったルーランドの代わりにケーンがルーランドの劇評を書き上げる。
(第3のフラッシュバック終わり)
k.ルーランド、回想を終える。
7.ナイトクラブ:
a.トンプソンはスーザンと話す。
(第4のフラッシュバック)
b.スーザンの歌のリハーサル
c.スーザンのオペラの初日
d.ケーンはスーザンが歌い続けることを強要する。
e.モンタージュ:スーザンのオペラの経歴
f.スーザンの自殺未遂、ケーンはスーザンが歌を辞めることを許す。
g.ザナドウ:退屈するスーザン
h.モンタージュ:ジグソーパズルをするスーザン
i.ザナドゥ:ケーンはピクニックを提案する。
j.ピクニック:ケーンはスーザンを平手打ちする。
k.ザナドゥ:スーザンはケーンのもとを去る。
(第5のフラッシュバック終わり)
l.スーザン、回想を終える。

8.ザナドゥ:
a.トンプソン、レイモンドと話す。
(第5のフラッシュバック)
b.ケーンはスーザンの部屋をめちゃめちゃにして紙押さえを取り、「バラのつぼみ」とつぶやく。
(第5のフラッシュバック終わり)
c.レイモンドは回想を終え、トンプソンは他の記者と話し、全員が去る。
d.カメラはケーンの持ち物を次々と写し、雪車の名前を写し出し、さらに門、城を写し、終わる。
E.エンド・クレジット

編集 ロバート・ワイズ
朝食のモンタージュ・シーン

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文献
アメリカの映画評論家ポーリン・ケールは『スキャンダルの祝祭』(小池美佐子訳、新書館1987年)で、『市民ケーン』の脚本はほとんど忘れられた脚本家マンイーウィッツが書いたものであるとした。またその表現主義的映像は、『風とともに去りぬ』でアカデミー撮影賞を取った撮影監督グレッグ・トーランドが、ウーファの撮影監督だったカール・フォロイントの教えを発展させたためとした。
バランスのとれた記述としては
ロバート・L・キャリンジャー(藤原敏史訳)『『市民ケーン、すべて真実』(筑摩書房、1995年)がある。
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by takumi429 | 2007-06-22 00:39 | 映画史講義 | Comments(0)

6.スター star

6.スター star
星のようにきらめく輝かしい存在という意味でのスターは,映画,スポーツその他各界の〈花形〉のことをいう。映画におけるスターとは,映画の都ハリウッドにその原形および典型が見られるように,本来の才能あるいは演技力にはかかわりなく,ただスクリーンに存在すること(screen presence)によって大衆の人気を確実に得ることのできる女優なり男優なりのことであり,映画の興行的成功を最高度に保証する,すなわち最高の〈興行価値box‐office production value〉を誇る存在であり,しばしば映画そのものをしのぐ人気俳優のことである(スターの名まえだけが高くなって出演料のみ上がり,映画の興行成績が低下する場合もあり,そのようなスターはハリウッドでは〈映画興行のガン box‐office poison〉と呼ばれる)。それゆえに,スターは,まずシナリオがあって,一つの役を演ずるというのではなく,逆に,スターのために,スターに合わせて,映画が企画され,役が考え出され,シナリオが書かれ,映画がつくられることになる。
[スター誕生]
 映画スターの歴史はアメリカ映画の歴史でもあるが,エドガール・モラン《スター》(1960)やアレクサンダー・ウォーカー《スターダム――ハリウッド現象》(1970)によれば,映画の歴史の最初の約15年間は俳優の名まえがタイトルに使われることもなく,ただ製作会社の名まえによって〈バイタグラフ・ガール〉とか〈バイオグラフ・ガール〉,役柄によって〈かわいいメリー〉とか〈銀行家〉,あるいは肉体的な特徴によって〈巻き毛の娘〉とか〈デブの大男〉などというぐあいに記憶され,よびならわされていた。会社が特定の俳優の名まえを明かさず〈無名〉のままにしておいたのは,人気と名まえが結びついて名実ともに〈人気俳優〉になれば当然のこととして高い出演料を要求されることをおそれたことが一方にあり,また他方では,演劇に比べて映画を蔑視して名まえが知られるのをきらう俳優がいたためであったといわれる。
1909年,アメリカの映画産業が活況を呈してきて〈モーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(活動写真特許会社)〉というトラストに対抗して〈インデペンデント・モーション・ピクチャー・カンパニー・オブ・アメリカ(IMP)〉を設立した独立製作者カール・レムリは,当時〈バイオグラフ・ガール〉とだけ知られていた人気女優フローレンス・ローレンス(1886‐1938)を,バイオグラフ の週給25ドルに比べて破格の1000ドルを支払い,映画に名まえを出すこと(screen credit)を約束して引き抜き,彼女を〈IMP ガール〉として売りだすためにアメリカ映画史に残る伝説的な〈宣伝〉を行った。〈バイオグラフ・ガール〉のフローレンス・ローレンスがセント・ルイスの市街電車事故で死亡したというつくり話が報道関係者の間に流布したため,彼女の名まえと写真が新聞に一斉に発表され,とくに《セント・ルイス・ポスト・ディスパッチ》の日曜版は,〈バイオグラフ・ガール〉の死を悼む長い記事を載せた。約1週間後レムリは,業界紙《モーション・ピクチャー・ワールド》に半ページ広告をだして,〈バイオグラフ・ガール〉の死亡記事はトラストの陰謀による捏造であり,彼女は〈IMP ガール〉として健在ですでに次回作が決定していると発表。まもなくセント・ルイスに姿をあらわしたフローレンス・ローレンスは文字どおり熱狂的な歓迎を受けた。こうして,名まえが大衆に知られた最初の〈スター〉が誕生したのであった。
[スター・システム]
 1900年代の初めにフランス映画界の支配者となったシャルル・パテは,映画では俳優の頭から足まで全身がスクリーンに写るように撮影しなければならないと配下の監督たちに指示したと伝えられているが,アメリカのエドウィン・S. ポーター(1869‐1941)や D. W. グリフィスの実験的なクローズアップの使用は,演劇の伝統に固執するパテの考えをくつがえし,俳優の魅力を強調してその人気をさらに高めた。
 

“アメリカの恋人”
メアリー・ピックフォード

“快男児”ダグラス・フェアバンクス
「鉄仮面」(1929年)より

09年,バイタグラフ社の映画のスチール写真をいれてプロットやあらすじをよびものにした最初のファン雑誌《モーション・ピクチャー・ストーリーズ》が発刊されて,初めてメリー・ピックフォードの名まえが明かされた。続いて《フォトプレイ・マガジン》(1911発刊)その他のファン雑誌が登場してスターの略伝や日常生活にスペースをさきはじめ,14年には《ニューヨーク・ヘラルド》が日曜版にイラスト入りで映画に関するシリーズ記事を連載

「セダ・バラの話は、いつでも喝采ものだった。スフィンクスの呪いを受け、フランス人とアラブ人との間に生まれた混血女、官能の小悪魔、廃退の毒婦などと、お人好しが信じている彼女の正体は、本名セオドシア・グッドマン、オハイオ州チリコットのユダヤ人仕立屋の娘として生まれたおとなしい田舎者であることは、小さな王国の住人ならみな知っていた。」ケネス・アンガー著『ハリウッド・バビロンⅠ』(邦訳20頁)

してスターの動向もとりあげ,スターに対する興味と関心をあおった。こうして〈アメリカの恋人〉メリー・ピックフォード,〈花のような乙女〉リリアン・ギッシュ,〈喜劇の天才〉チャップリン,〈アメリカの快男子〉ダグラス・フェアバンクスなどの伝説的なスターが生まれた。そして,やがて〈ハリウッドの活力源〉といわれた宣伝によって〈妖婦〉セダ・バラ,〈禁じられたエロティシズム〉ルドルフ・バレンティノ,〈火の玉〉ポーラ・ネグリ,〈女王〉グロリア・スワンソンといったスターがつくられた。
スターは映画が〈企業〉になるとともに生まれ,アメリカばかりではなく,すでに第1次世界大戦前,チャップリンが師と仰いだフランスの喜劇王マックス・ランデル,ヨーロッパにおけるサイレント映画の伝説的なスーパースターであったデンマーク女優アスター・ニールセン(1883‐1972)やイタリア女優リダ・ボレリ(1884‐1959)やロシア人の俳優イワン・モジューヒン(1889‐1939)らがいたが,一般観客つまり小市民層の生活感情の中に潜んでいるロマンティシズム,英雄崇拝,恵まれない物質生活によって抑圧された性的欲望を利用して,スターを商品化して〈スター・システム〉をつくりあげ,企業の要求を満たしたのはアメリカ映画すなわちハリウッドであった。
スター・システムは,映画の内容すなわち芸術的な価値を人気俳優の価値,いわゆるスター・バリューにおきかえるものであったが,1910年代のなかばにはこのシステムが映画界を支配し,第1次大戦後の約10年間に世界映画市場の90%を占めたといわれるアメリカ映画の世界制覇の基礎となり,名まえが世界中に身近な存在として知れわたったスターがハリウッドを代表した。心理学者たちは,スターは一般大衆の欲望や夢や空想の反映であると分析したが,20年には毎週,約3500万人のアメリカ人が特定のスターを見るために映画館へ足を運んだといわれ,20年代はまさにスター崇拝の一つの頂点であった。映画の〈興行価値〉は即スターであったから,バンク・オブ・アメリカは,チャップリンが主演するというだけで《キッド》(1921)の製作会社ファースト・ナショナルに25万ドルを融資したほどであった。20年代の終りから30年代の初めにかけてスター・システムは商業主義でつらぬかれた撮影所システムと密接に結びつき,各社はそれぞれ巧妙な宣伝によってスターをつくり,とくに黄金時代を迎えた MGM は〈空の星より多いスター〉をスローガンとして掲げ,同時にシンボルとしてのスターのイメージが損なわれるのを防ぐため,飲食物から服装,恋愛に至るまでスターの私生活を管理した。スターの契約書に〈道徳条項 morality clause〉が付け加えられたことは,ハリウッドの伝説の一つになっている。

[1920年代、映画業界の垂直的統合が進み、映画会社は、制作、配給、上映のすべてをまるごと管理下におさめるようになる。
映画制作の主導権は、監督から、企画立案し制作全体を統轄するプロデューサーに移る。
映画制作はより計画的なものとなるために、シナリオが導入された。映画は制作されるものから製作(生産)されるものになる。生産から販売まで一貫したシステムとなった企業と同じものとなる。商品構成と同じように、映画もいくつかのジャンルをもち、そのジャンルにスタジオ専属のスターが入れ替わり立ち替わり登場することになる。
映画会社は他のメディアをも使ってスターの偶像化をすすめた。]

[スター時代の終り]
 第2次大戦後の1946年,アメリカ映画は史上最高といわれる興行成績をうたったが,3年後には急速に落ちこみ,1940年代の終りから50年代にかけて,商業映画製作の重要な要素であったスター・システムもゆらぎ始めた。映画を斜陽化させたテレビが,あこがれの象徴であり偶像であったスターを,習慣的視聴から生まれる親近感の中で日常的な存在にし,スターのイメージが変わり重要性も失われた。また,50年代には独立製作会社の活躍が目だち,各社がスターに高給を支払う余裕がなくなり,多くのスターが契約を解除された。60年代になってスターの時代は終わったといわれ,《メリー・ポピンズ》(1964)や《サウンド・オブ・ミュージック》(1965)の成功で,日常的,家庭的なイメージをもった,新しいタイプのスターの地位についたジュリー・アンドリュース主演の《スター!》(1968)の無残な失敗に象徴されるように,スターが映画を支える力を失う一方で,《卒業》(1968)や《2001年宇宙の旅》(1968)のようなスターなしで成功する新しい映画がつくられ,69年,カリフォルニアのバンク・オブ・アメリカの最高幹部は,スターはもはや映画製作になんの保証もあたえないと声明するに至った。 70年代になって,バーブラ・ストライサンド,ロバート・レッドフォードなど数少ないスターが興行成績を保証するといわれたが,《アメリカン・グラフィティ》(1973),《エクソシスト》(1973),《ジョーズ》(1975),《スター・ウォーズ》(1977)などはスターなしで記録的に成功し,ボストン・ファースト・ナショナル・バンクの副社長は,観客をよびよせるのはスターではないと断言した。しかし,それでもなお,ハリウッドの代表的なスターであったジョン・ウェインは,いまなお崇拝者をもっているといわれ,また1本の出演料200万ドルのチャールズ・ブロンソン,《スーパーマン》(1978)に10日間ゲスト出演して225万ドルを得たマーロン・ブランドのような〈スーパースター〉もいる。とはいえ,スターは大衆によってつくられるものであり,かつてサミュエル・ゴールドウィンは,〈スターはプロデューサーではなく神がつくるものであり,大衆は神のつくったものを認めるのである〉といったが,現在のスターは,華麗な生活の代償としてプライバシーと自由を犠牲にして商業主義に奉仕したかつてのスターと異なって,たとえばクリント・イーストウッドのように自分のプロダクションをつくり,あるいはプロデューサーを兼ね,さらには監督を兼ねるのが一つの風潮になっている。


映画の観客はなぜかくも映画俳優(スター)に思い入れたっぷりになるのか。

二つの同一化(観客の映画へののめり込み)
1)カメラの眼を自分の目のごとく思いこむ
2)登場人物への同一化、映画上の人物になる、あるいはその人に対面しているかのように思いこむ。
同一化の欲望があるからこそ、あえて観客と同じ人種によるリメーク版を作る必要がある。
カメラの視線→=観客の視線→=登場人物の視線

前エディプス期(2~3歳)
男/女の子=異性/同性の親に育てられる
男子 まず母親に同一化しようとし、その後母親を享受する存在(父)に同一化する。
女子 すぐ母親に同一化できる、母親の欲望の対象(男性)を自己の欲望の対象とする。
1)男性観客の視覚快楽嗜好(しこう)→女性ヒロイン(性欲の対象)
2)男性観客の同一化期待→男性ヒーロー(欲望対象の享受者)への同一化
1)女性観客の同一化期待→女性ヒロインへの同一化
2)女性観客の欲望→同一化したヒロインの相手としてのヒーローとの交歓
男性/女性観客の成長と権力の非対称はヒーロー/ヒロイン像の非対称となる。





観客の映画への巻き込みのために技法(ショットと編集)の例
1)視線ショット(登場人物の視点から撮られたショットで、映画はその登場人物が見ている光景を見ている錯覚を覚える)。
2)ショット=切り返しショット(二者の会話を交互に撮影する技法)
180度ルールと30度のルール
3)クローズアップ 人間は表情(顔)に強く情動を喚起される。




グリフィスの映画技法
180度ルール(180 degree system)
撮影現場で被写体に対して境界線を想定し、境界線の片方(360度中180度以内)から撮影するルール。

各数字のカメラからAとBの人物を撮影すると、ルールに従ったカメラ1~3からの映像はその位置関係がはっきりわかるけれど(Aが左、Bが右)、 境界線を越えたカメラ4からの映像を使うと、位置Aが右に立っているように映り、二人の位置関係がズレる。

こうした技法を駆使することで、グリフィスは、建物の中の部屋の位置関係を表現することに成功した。

ロング・ミドルショット、クローズアップ

左から、ロングショット、ミドルショット、クローズアップの映像。 ロングショットで周りの状況を映し、ミドルショットで登場人物を映す。 クローズアップは、重要な部分を説明する為にあり、この絵では、人物の表情を表している。

グリフィスは、超ロングショットの遠景からクローズアップ迄の流れで、シーンを詳しく説明を試みている。 なお、アップの絵に丸い黒枠があるのは、「国民の創世」の中の表現で、望遠鏡から見た映像のような効果があった。

ポイント・オブ・ビュウ(Point of view)

ポイント・オブ・ビュウはPoint of viewで、英語を直訳すると「視点」。 P.O.V.と略されたりもして日本語でもなじみある言葉だが、 もともと動かない観客の視点から劇場の芝居を撮影していたのが初期の映画なので、 カメラが動いて、カメラの視点がどんどん変わるというのが斬新なアイデアだった。

クロス・カッティング

編集技法の一つ。違う場所で同時に起こっている場面を交互に並べる編集で、 緊迫感を高めることができる。 また、時間と空間とを立体的に表現することができるようにもなった。

今でも、追う者と追われる者を表現する場合に頻繁に使われているが、 双方の緊迫した雰囲気を交差させることで、観る側にもその緊迫感が伝わり、 映画表現の幅が広がったことはいう迄もない。その後、エイゼンシュタインらによるクロスカッティングの更なる研究成果により「モンタージュ理論」が完成することになる。


以上のようなルールに基づきながら、崩すことで更なる効果を得ようとする表現方法が現在の映像技法だが、 最初に基本ルールを構築したグリフィスは、やはり「映画の父」なのである。


http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6721/mohis/a2.html(2004年11月16日)
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by takumi429 | 2007-06-22 00:30 | 映画史講義 | Comments(0)

5.世界言語としてのドタバタ喜劇

5.世界言語としてのドタバタ喜劇(slapstick comedy)
(以下は、百科事典からの引用。「映画の社会学」の他の章も同様である)。
ハリウッドへの移動
1915年から20年にかけて、アメリカの各地に豪華な映画館、ムービー・パレスがたてられた。映画産業はしだいに東部からハリウッドへとうつり、その地に根を生やすようになった。ハリウッドでは、トーマス・インス、セシル・B.デミル、マック・セネットのような独立したプロデューサーが、自分のスタジオを設立した。インスはユニット・システムを導入した。これにより映画製作は分業化され、各ユニットのマネジャーが同時に別々の映画を製作することが可能となった。年間に何百本もの映画がスタジオで製作され、しだいに高まる劇場の要求にこたえた。そうした映画の大半は、西部劇、スラプスティック(ドタバタ)喜劇、それにグロリア・スワンソンが主演し、デミルが監督した「男性と女性」(1919)など、上品でロマンティックなメロドラマだった。インスは動きのある非情な西部劇が得意で、とくに人気のあるカウボーイ・スター、ウィリアム・ハートの主演する作品を多く手がけた。
サイレント・コメディ
マック・セネットは、コメディの王様として知られるようになった。ひじょうに人気の高かった「キーストン・コップス(警察官)」(キーストンはセネットが設立した会社)を主役として、想像力あふれる一連のスラプスティック喜劇を製作したのである。
セネットの喜劇のスタイルはボードビル、サーカス、漫画、パントマイムの要素をかねそなえた、まったく新しいものだった。彼はタイミングをはかることがうまく、目のくらむようなスピードでフィルムをまわしつづけた。セネットはかつてこう語っている。30mたらずのフィルム、あるいは1分の間にギャグの種をまき、そだて、しあげることができる、と。セネットには、芸術家の素質をのばす環境をつくる才能もあった。彼のひきいる俳優の集団には、マリー・ドレスラー、メイベル・ノーマンド、ファッティ・アーバックル、それにイギリス人コメディアンのチャップリンがいた。

チャップリンの出演する映画は、ほとんどが成功をおさめた。チャップリンはまさに国際的な映画スターとよべる最初の人物であり、生きながら伝説の人となった。チャップリンの「小柄な浮浪者」のキャラクターは、まさにアイドルのような人気をあつめ、きわめて幅のひろい演技によって喜劇の中に風刺や悲哀、だれにもわかる人情などをえがいてみせた。この「小男」とよばれたキャラクターを、「チャップリンの浮浪者」(1915)、「チャップリンの勇敢」(1917)、「キッド」(1921)、「黄金狂時代」(1925)といった作品を通じてそだて、きわめて幅のひろいキャラクターとした。
チャップリンはトーキーの時代になっても自分の映画のプロデュース、監督、主演をつづけ、なかでも「街の灯」(1931)、「独裁者」(1940)、「殺人狂時代」(1947)、は注目すべき作品だった。1919年、チャップリンはグリフィスおよび人気スターのメアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクスとともに最初のユナイテッド・アーティスツ社を設立し、スター・システムの先駆けとなるとともに、アメリカにおけるサイレント映画の黄金時代をきずいた。
1920年代、コメディ映画は黄金時代をむかえていた。ハロルド・ロイドとバスター・キートンというアメリカの2人の主要なコメディアンの作品は、1巻ものの時代からスラプスティック喜劇の伝統を直接うけついでいた。そこにチャップリンがくわわり、このジャンルはますます人気になっていった。この期間、3人のコメディアンは独特のキャラクターをつくりあげ、演技に磨きをかけた。キートンはけっしてわらわず、「キートンの探偵学入門(忍術キートン)」(1924)などでは、無表情な顔と、おどろくほど敏捷な動きをする体との、視覚的ギャグのコントラストをみせた。ハロルド・ロイドは恐れを知らないコメディアンであり、「ロイドの人気者」(1925)などの作品では、いかにもアメリカ的で無邪気な少年を演じ、弱虫が自分の男らしさを証明するという役柄も多かった。


チャップリン Charlie Chaplin 1889~1977 
サイレント映画の創造力豊かな演技で世界的に名高いイギリスの映画俳優・監督・プロデューサー・作曲家。本名チャールズ・スペンサー・チャップリン。
ロンドンに生まれ、子供のときからミュージック・ホールでパントマイムを演じていたが、1910年にパントマイム一座とアメリカに巡業し、やがて同国で活動するようになった。14年にマック・セネット監督のキーストン社から「成功争ひ」でスクリーンに登場し、「ベニスの子供用自動車レース」(1914)では、だぶだぶのズボンに大きすぎる靴、山高帽子に竹のステッキといういでたちの放浪紳士をはじめて登場させた。いまでは世界じゅうに知られているこの古典的な役柄は、以後70本を上まわる彼の映画で演じられていく。
その後は、エッサネイ社、ミューチュアル社、ファースト・ナショナル社へと移籍したが、1918年にはハリウッドに自分のスタジオを完成。この間、放浪紳士のキャラクターを、陽気なドタバタ劇の類型的人物から、世界じゅうの人々に愛される心やさしい人間像へとかえていった。19年には、ユナイテッド・アーティスツの設立に協力し、同社とは52年まで関わりをもつようになる。
プロデュース・監督・主演をかねた代表作には、「キッド」(1921)、「偽牧師」(1923)、「黄金狂時代」(1925)、「サーカス」(1928)、「街の灯」(1931)、「モダン・タイムス」(1936)、「独裁者」(1940)、「殺人狂時代」(1947)、「ライムライト」(1952)、「ニューヨークの王様」(1957)などがあり、「伯爵夫人」(1967)では、脚本と監督を担当し、出演もしている。また、作品の映画音楽については、ほとんどみずからの手で作曲したものであった。
チャップリンは、サーカスの道化師とパントマイムからひきついだ曲芸的な優雅さをもち、そこに表現力のあるジェスチャー、豊かな表情、完璧なタイミングを加味して、独特の演技スタイルを完成した。彼の演じる小柄な放浪紳士は、逆境や個人をおしつぶそうとする力にけっしてまけない不滅のシンボルとして世界じゅうにみとめられ、チャップリンもまた悲喜劇を演じられる役者として高い評価をかちえていった。
しかし1920年代後半に映画がトーキーとなり、彼のアイディアの基本となっていたパントマイムが軽視されるようになると、時代を表現する重要なテーマに関心をいだくようになった。トーキー時代の最初の2本の映画「街の灯」と「モダン・タイムス」では、小柄な放浪紳士はほとんど無言であったが、その後は放浪紳士という型どおりの類型的人物ではなく、特定の役柄を演じるようになった。録音技術を駆使して生まれた「独裁者」は、このような移行をしめす作品である。チャップリンは題材を風刺とペーソスをまぜあわせて処理し、人間の愛と個人の自由を表現した。
チャップリン「黄金狂時代」
サイレント映画の傑作のひとつ。ゴールド・ラッシュにのってアラスカにむかう主人公は、途中さまざまな困難にであう。空腹のあまり靴をゆでて食べるシーンなど、チャップリンの鮮烈な才能がしめされている。

しかし、1940年代後半~50年代初頭には、左翼的な政治的見方を批判され、52年にアメリカをはなれてスイスに永住するようになった(→ レッドパージ)。72年短期間アメリカにもどり、映画界への貢献をたたえるアカデミー賞の特別賞をはじめ、いくつかの賞を受賞。75年にはナイトの称号がおくられた。
著書に「自伝」(1964。1982年には「初期の時代」として再版)と、「映画における人生」(1975)がある。1992年には、リチャード・アッテンボローによる伝記映画「チャーリー」が公開された。

バスター・キートン Buster Keaton 1895~1966 サイレント喜劇を代表するアメリカの映画俳優・監督・脚本家。ポーカーフェイスと絶妙な間合い、アクロバットのような身のこなしと才気あふれる視覚的なギャグで知られる。
本名はジョゼフ・フランシス・キートン。カンザス州ピクァで、ボードビルの旅芸人の家に生まれる。3歳のときから舞台にたち、ザ・スリー・キートンズの一員として20年をすごした。人気の喜劇役者ファッティ・アーバックルの脇役(わきやく)として「デブ君の女装」(1917)で映画界にデビュー。以後3年間で12本あまりの短編映画に出演した。1920年、アーバックルがパラマウント映画社と契約したため、プロデューサーのジョゼフ・スケンクと映画をつくりはじめた。スケンクから脚本・構成・監督の一切をまかされ、3年間に20本の短編映画をつくり、その多くが傑作だった。彼はこの時期に独自の個性を開花させ、危険を意に介さず、感情を表にださないで、どんな困難にもたえる物静かな表情を演じ、グレート・ストーンフェイスとよばれた。
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「馬鹿息子」(1920)ではじめて長編映画に挑戦したが、初期の作品では「滑稽(こっけい)恋愛三代記」(1923)や「荒武者キートン」(1923)が有名である。映写技師がいねむり中に映画にでる夢をみる「キートンの探偵学入門(忍術キートン)」(1924)を皮切りに、「海底王キートン」(1924)、「キートンの栃麺棒」(1925)、「キートン将軍」(1926)、「キートンの船長」(1927)と、次々と傑作を生みだした。なかでも、英雄物の体裁をとりながら、南北戦争のようすを忠実に再現した「キートン将軍」は、彼の最高作とする人が多い。28年にスケンクとの契約がメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)にうつってから、低迷期をむかえる。「キートンのカメラマン」(1928)はすぐれた長編だったが、会社からのきびしい要求に自由をうばわれ、過度の飲酒もわざわいして、作品の質はしだいに低下した。
[自分のスタジオを手放しMGMに契約したために、シナリオなしですべて自分で映画が作るそれまでのスタイルができなくなってしまった。またさらに離婚で財産をすべて奪われた。しかしトーキーの『ホリウッド・レビュー』では成功している。トーキーに乗り切れなかったと言うより、俳優契約をしたことで自分の持ち味のドタバタ喜劇がつくれなくなったことがその後の不遇を呼んだようである]。
1930年代はたび重なるトラブルにみまわれ、作品にもめぐまれず、端役か脚本の仕事をこなすしかなかった。しかし50年代のテレビの出現が、新たな活動の場を提供し、30分の連続物を担当、コマーシャルにも登場した。また、「ライムライト」(1950)や「八十日間世界一周」(1956)などの映画に特別出演した。59年には映画界への貢献に対しアカデミー賞特別賞がおくられ、「映画界に不朽のコメディをもたらした比類なき才能」がたたえられた。
1960年代にはいると、ふたたび注目をあつめ、多くの映画に実名で登場したり、俳優として出演した。「おかしなおかしなおかしな世界」(1963)や「ローマで起こった奇妙な出来事」(1966)などが有名である。
 長篇を作るときには、「不可能なギャグ」(物語についてきてくれた観客に「四月ばかだよ!」とか「間抜け!」と面と向かっていっているような、あり得ない事で笑いをとるギャグ)は避ける(自伝192頁)。さらに物語の本筋から横道にそれるようなギャグも受けないのでけずる(196頁)。
バスター・キートン&チャールズ・サミュエルズ (著), 藤原 敏史(訳)『バスター・キートン自伝―わが素晴らしきドタバタ喜劇の世界 リュミエール叢書 (28)』筑摩書房1997年
ハロルド・ロイド Harold Lloyd 1893~1971 
アメリカ映画の喜劇俳優。ネブラスカ州バーチャードに生まれ、父親の転職で各地を転々とする。サンディエゴにいた1912年からエキストラ稼業をはじめ、そのとき知りあったハル・ローチの下で、チャップリンを模倣した「ロンサム・リューク」という役柄の短編喜劇映画シリーズに主演。そして17年に「ロイド眼鏡」で知られることになるキャラクターを創造する。この、まじめでちょっとオッチョコチョイな、どこにでもいるアメリカ青年の役柄が生みだすコメディが大ヒットし、喜劇スターとしての地位を不動のものにした。

ハロルド・ロイド
『要心無用』
高いビルのてっぺんにある大時計にぶらさがるハロルド・ロイド。1923年につくられた「要心無用」(サム・テーラー監督)中の、映画史上にのこる名場面である。このときすでに、白塗りに黒縁眼鏡をかけた、気弱だが、いざとなるとがんばるアメリカ青年ロイドのキャラクターは定着していた。

サイレント喜劇の三大スター
1920年代の喜劇映画の黄金時代には、チャップリン、キートンとならんで三大喜劇スターといわれ人気をほこった。トーキー時代に入った30年代にも何本か主演したが、40年代初めに映画出演をはなれてプロデューサーに転向。46年に「狂った水曜日」(1950年公開)に久々に出演したが、かっての覇気はみられなかった。52年にアカデミー賞特別賞を受賞。また62年に「ロイドの喜劇世界」、63年に「ロイドの人気者」という昔の作品をあつめたアンソロジーが公開されている。おもな出演作に、「ロイドの野球狂」(1917)、「ロイドの水兵」(1921)、「要心無用」(1923)、「ロイドの人気者」(1925)、「ロイドの活動狂」(1932)、「ロイドのエヂプト博士」(1938)など。

講師のコメント
喜劇王3人のなかではもっとも評価が低いかもしれないが、現在のアメリカ映画はむしろロイドの主人公の問題解決にむかう集約性とテンポをもっとも受け継いでいるようにおもわれる。

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by takumi429 | 2007-06-12 20:11 | 映画史講義 | Comments(0)

4.モンタージュ理論

4.モンタージュ理論 Theory of Montage 
モンタージュとは「組み立てる」を意味するフランス語のmonterに由来し、一般に映画のショットとショットをつなぐ「編集」をさす技術的な用語である。ハリウッド映画でつかわれるエディティングと同義語であるが、おもにヨーロッパ映画で使用されている。もっとも、実際には個々のショットをつなぐためには多様な視点と水準―たとえば物語やリズム、あるいは造形的なフォルムなど―があり、そのため、時代やスタイルに応じて、歴史的にさまざまな意味と効果を生みだしてきた。

なかでも1920年代のソビエト・ロシアで生みだされたモンタージュ理論は、映画を最重要の芸術とする社会主義政権のもと、いかにイデオロギーや思想といったメッセージを伝達するかという観点からモンタージュを映画表現の最大の手段とみなして実践し、その後の世界の映画界に大きな影響をあたえることになった。

「弁証法的モンタージュ」ともよばれるソビエト・モンタージュ派の理論は、ショットとショットの結合によって、ショットの具体的な表象内容にふくまれていない新しい意味や観念を観客に提示することをこころみた。そのもっとも有名な例がレフ・クレショフ(1899~1970)による「クレショフ効果」とよばれる実験である。たとえば、1人の人物の無表情な顔のクローズアップと、食卓の上にあるスープ皿をつないで見せると、だれもが「空腹の人物」をみとめた。ここから人々はモンタージュによって抽象的な観念をえがくことができると確信し、それぞれがモンタージュの理論と実践をおこなった。セルゲイ・M.エイゼンシュテインは、「戦艦ポチョムキン」(1925)や「十月」(1928)などでショットとショットの衝突による新たな意味の表出をこころみ、またフセボロド・プドフキンは、「母」(1926)などでショットの具体性を尊重した感情の強調によるモンタージュを実践した。

ソビエト・ロシアのモンタージュ理論は、映画の意味作用のひとつの磁場となるショットの結合(つまり編集)に美学的で哲学的な考察をくわえることによって、映画表現に大きな影響をおよぼした。だが、その一方、彼らの理論は抽象的な観念の表出を追いもとめるあまり、ショットの具体的な表象内容を無視して映像を記号化する方向にむかうことになった。そのため第2次世界大戦後には、映像の生き生きとした写真的な性格を重視する「反モンタージュ」の考えから批判されるようになった。 

クレショフ効果
https://www.youtube.com/watch?v=4gLBXikghE0
「こうしてクレショフの眼鏡にかなった連中で、映画史に残る〈クレショフ映画実験工房〉なるワークショップが誕生する。・・・この時期クレショフらを苦しめていたのは、極度の物質的な窮乏である。映画制作の生フィルムが欠乏している時、実験用の材料の余裕があるはずがない。彼らは静止写真か、静止写真同様のみじかいフィルムの断片を使って、俳優の演技を撮影し、その組み合わせを試みた。クレショフが「映画なしの映画」と名づけた実験である。そんなとき、1921年3月、クレショフはモスクワ地方政治教育委員会の写真・映画部から90メートルのフィイルを受け取った。上演時間わずかに数分にしかあたらない断片だが、クレショフは直ちにこのフィルムでつぎのような実験計画を立てた。
(1)1つの一から撮影するダンス=10メートル
(2)モンタージュを使って撮影するダンス=10メートル。
(3)経験の違いによるモデル俳優体験の相互関連=(a)14メートル。(b)20メートル。
(4)さまざまなアクションのシーンを単一の構成に連結する=30メートル。
(5)人体の多様な部分の結合と、モンタージュによる希望するモデル俳優の創造。
(6)モデル俳優の目の動き=2メートル。
・・・とくに有名なのは、(4)と(5)。(4)は燃す楠のアルパート広場にあるゴーゴリー記念碑、ワシントンのホワイト・ハウスなど別べつの背景を前にした男と女のショットを連続してモンタージュすると、まるでその男女は同一場所で出会い、ホワイト・ハウスに向かっていくようにみえる。いわゆる〈創造的地理〉のモンタージュ。(5)は第1の女性の上半身、第2の女性の眼、第3の女性の脚など、別べつの女性の身体部分を撮影してつなぐと、実在しない女性像が誕生する。いわゆる〈創造的人間〉のモンタージュである。いずれもワン・ショットの表現だけでなく、複数のショットの組み合わせが映画独自の世界を創造し得るという〈モンタージュ〉的映画論の主張となる。」(山田和夫著『ロシア・ソビエト映画史』キネマ旬報社、1996年、70-1頁)。

「1920年、クレショフによって実現された実験の例は、二人のロシアの映画作家の以上のような考え方がまだ初期的なものにとどまっていることをしめしている。プドウキンの先生であり協力者であるクレショフは次のような場面を集めた。
1 1人の青年、左から右に行く。
2 1人の乙女、右から左に行く。
3 2人が出会って、手を握り合う。青年は手で空間の一点を指示する。
4 広い階段を持った白亜の大きな建物が見える。
5 2人の人物が階段をのぼっていく。
これらの断片の各々は、異なった一組のフイルムから引き抜かれたものであった。即ち最初の三つのカットはそれぞれ異なったロシアの街上で撮られたものであり、四番目のカットはアメリカの大統領官邸であった。しかし観客は、その場面をひとつの全体として知覚した。これこそクレショフが、観念的または創造的地理と呼ぶものである。」(アンリ・アジェル著『映画の美学』(岡田真吉訳)白水社1958年、92-3頁)。

クレショフ効果
「クレショフと私は、興味ある実験を行った。私達は、いろんな映画から有名なロシアの俳優モジューヒンの大写しをとりだした。私達は、静止的で、いかなる種類の感情も示していない大写しを選んだ。--動きのない大写しである。私は、三つの異なった結びつけ方に従って、映画の他の断片と、すべての点で同じ大写しとを結びつけた。第一のモンタージュでは、モジューヒンの大写しのすぐ後に机の上のスープ皿のカットを続けた、モジューヒンがその皿を見つめているという印象が、明瞭で、疑いのないものとなった。第二のモンタージュでは、モジューヒンの表情が、死んだ女が横たわっているクッションづきの長椅子を示す映像と結びつけられた。第三のモンタージュでは、その大写しに小さな熊の姿をしたおかしな玩具を弄ぶ小娘のカットを続けた。私達がその三つの結びつけたカットを、何にも知らされていない観衆に示した時、その結果は驚くべきことになった。観衆は、俳優の演技の前に熱狂して有頂天になった。観衆は、わすれられたスープを前にしたそのまなざしの重苦しい苦々しさを強調し、死んだ女を前にして示された深い悲しみに心動かされ、遊んでいる小娘を見詰める明るく嬉しそうな微笑に感嘆した。しかし、私達は、その三つの場合において、俳優の表情は全く同じものであることを知っていた。」(アンリ・アジェル著『映画の美学』(岡田真吉訳)白水社1958年、144-5頁)
 
ロシア・ソビエト映画の歴史(革命直後)
年事項
18965月4日、首都サンクトペテルブルクでシネマトグラフ国内初公開。
1908初の国産劇映画「ステンカ・ラージン」(ウラジーミル・ロマシコフ監督)
19198月27日、映画産業国有化宣言。世界初の国立映画学校(のちの全ソ国立映画大学)創立。
1920クレショフ、映画学校の教授に招聘。クレショフ、プドフキンらと「クレショフ映画実験工房」を作る。
1922~25ジガ・ベルトフら「映画眼」グループがドキュメンタリー映画「キノプラウダ」のシリーズを製作。
1924サイレント映画の黄金時代がはじまる。レフ・クレショフ「ボリシェビキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」レオニード・トラウベルグ、グリゴーリー・コージンツェフ「十月っ子の冒険」
1925セルゲイ・エイゼンシュテイン「戦艦ポチョムキン」
1926フセボロド・プドフキン「母」
1929ベルトフ「カメラを持った男」(旧邦題「これがロシアだ」)

1917年の革命(ロシア革命)で内戦状態になると、革命に賛同する映画人がいる一方で、多くの映画人がクリミアに疎開し、さらに欧米諸国に亡命していった。レーニンは「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから映画産業を国有化し、記録映画や宣伝映画に力をそそぎ、これらをプロパガンダ用の列車内や船上で上映した。ただし、当初は民間製作の余地ものこっていた。
1919年にはガルジンを中心に世界初の国立映画学校が設立され、レフ・クレショフら革命前からの映画人が指導した。クレショフのモンタージュ論は、セルゲイ・エイゼンシュテイン、フセボロド・プドフキンに発展的にうけつがれ、ロシア・アバンギャルドの絵画や演劇と合流しながら、24年以降のソビエト・サイレント映画の黄金時代を生みだした。「映画眼」を提唱したジガ・ベルトフの記録映画や、少しおくれて登場したアレクサンドル・ドブジェンコの詩的映像のモンタージュもふくめ、この時期の新しい映画言語をつくりだす試みは、現在にいたるまで世界的な影響をおよぼすことになる。

(以下はエンカルタからの引用)

エイゼンシュテイン
I プロローグ
エイゼンシュテイン Sergei Mikhailovich Eisenstein 1898~1948 創造的な映画編集技術と、モンタージュ理論などで世界的に評価される旧ソ連の映画監督、舞台演出家。対立するショットをつなげて新たな意味を生みだす編集技術によって、作品の中でみずからの理論を実践した。

II モンタージュ理論の構築
ラトビアのリガに生まれ、ペトログラード土木専門学校でまなんだが、赤軍でアマチュア演劇グループに参加したことをきっかけにして、演劇の道にすすむようになった。1920年ごろ、実験的なプロレトクリト(プロレタリア文化協会)劇場の美術担当者となり、国立高等演劇工房での勉強をへて、プロレトクリト劇場で演出を開始。対照的なイメージをみせることによって観客に怒りや驚きなどの感情的な反応をおこさせる独創的なアイデアをこころみ、のちのモンタージュ理論の基礎をきずいた。
1924年には、最初の長編映画「ストライキ」をプロレトクリトの仲間とつくり、労働者たちによる有名なストライキの場面では、屠殺(とさつ)される牛と、政府の兵士に射殺される労働者のシーンを交互に展開させた。

III 「戦艦ポチョムキン」
第2作の「戦艦ポチョムキン」(1925)は、1905年革命20周年記念のためにソビエト政府から依頼された作品で、サイレント映画の最高傑作のひとつにかぞえられる。05年におこった水兵の反乱をテーマにした群衆劇で、民衆の虐殺場面はとくに名高い。オデッサの長い階段を背景に、アクション場面と細部のショットを細かく交互につなぎ、銃や人の顔のクローズアップによって、にげまどう市民と攻撃する兵士を対照させながら、おどろくべき迫力を生みだしている。視覚的な構図を巧みにあつかう技術は、以後の世界の映画に大きな影響をあたえた。
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つづいて、革命10周年記念映画「十月」、社会主義的な農業のあり方をうたう「全線」をとりおえたが、前者は1927年公開にあわせ完成したにもかかわらずトロツキーの失脚により一部差し替えを余儀なくされて結局28年の公開となり、後者もまた完成後に政治的理由から大幅な改変を命じられて、タイトルも「古きものと新しきもの」とあらため、公開は29年になった(邦題は「全線 古きものと新しきもの」)。

IV 映画史にのこした偉大な足跡
フランスでつくられた短編トーキー映画「センチメンタル・ロマンス」(1930)では、グリゴーリー・アレクサンドロフが助監督をつとめた。1931~32年に手がけた「メキシコ万歳」は未完成におわったが、のちにアレクサンドロフによって再編集されて、79年に完成した。

ほかに、未完成の「ベージン草原」(1935~37)、壮大な歴史的叙事詩「アレクサンドル・ネフスキー」(1938)、「イワン雷帝」第1部(1944)、「イワン雷帝」第2部(1946年完成、58年公開)などがあり、その第3部は、製作が半分ほどすすんだところで当局から製作中止を命じられ、廃棄処分されたという。
映画の可能性に対する情熱と理解の深さにより、映画史上まれにみる革新者のひとりにかぞえられる。「映画感覚」(1942)、「映画の形式」(1949)など、著作は広範囲にわたり、日本では「エイゼンシュテイン全集」が刊行されている。

プドフキン,V.
I プロローグ 
プドフキン Vsevolod Pudovkin 1893~1953 ソ連時代のロシアの映画監督、俳優。ボルガ地方ペンザに生まれ、父親の仕事で子供のころにモスクワに移住、モスクワ大学で物理化学をまなぶ。第1次世界大戦に出征してドイツ軍の捕虜となったが、脱走して1918年にモスクワにもどった。アメリカ映画「イントレランス」(グリフィス監督、1916)をみて感動、レフ・クレショフのもとで映画製作の実際をまなぶ。20年からクレショフやウラジーミル・ガルジンの作品に俳優、脚本、美術、助監督などで参加、25年には短編喜劇「チェス狂」(共同監督)を発表する。その彼の名を世界的にしたのは、ゴーリキー原作による長編第1作「母」(1926)である。

「母」(1926年)ヴェラ・バラノフスカヤマクシム・ゴーリキー(1868~1936)の小説の映画化。力は強いが酔っ払いのヴラソフは酒屋で工場主からストやぶりを頼まれる。そして工場でストライキ中の息子パーベル(ニコライ・バターロフ)と対面するが、当然敵味方に分かれ、パーベルは逃げる。一方、ヴラソフは撃たれて死ぬ。その後、家にやってきた警察に、母ニーロヴナ(ヴェラ・バラノフスカヤ)。はパーベルを救おうと武器の隠し場所を白状するが、逆に息子は捕まってしまう。脱獄したハーベルはデモ隊に加わり騎兵隊の銃弾に倒れる。息子の死で革命に目ざめたニーロヴナは、地に落ちた赤旗を手に歩き出す…。
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[講師のコメント:この映画のなかでストライキする群衆と割れた氷が氾濫しながら流れるシーンが交互に映し出される。「戦艦ポチョムキン」の中で獅子の像が戦艦の砲弾が炸裂するシーンと交互に映し出され、その獅子が立ち上がるように見えることと、民衆の蜂起とが重ね合わされていた。それと同じように、観客は、流れる氷はストライキする群衆の蜂起を象徴するためのモンタージュかと思いこむ、と突然、逃げる息子が氷の上を飛び跳ねながら逃げていく。これのシーンは、象徴的なモンタージュと思わせておいて、実はそうでなく映画の話と連続したシーンであるというひねりになっている。またこれはグリュフィスの「東への道」で氷の上で気を失っているリリアン・ギッシュを主人公が氷の上を飛びながら助けに行くシーンを引用したものであろう。映画には相互参照が頻繁にみられるが、これもその愉快で興味深い一例であろう。それにしてもこの映画の母親を演じた女優の演技はすばらしい。]

II ソ連映画黄金期を現出
この「母」で、クレショフのもとでまなんだモンタージュ理論を実践。その後も「聖ペテルブルグの最後」(1927)、「アジアの嵐(あらし)」(1928)を発表し、エイゼンシュテインとならんでソビエト映画を代表する監督となった。1930年代に入り、社会主義リアリズム路線のもとに20年代のモンタージュ理論が批判されると、モンタージュ中心の演出論を俳優論で修正し、共同監督作をふくめて「脱落者」(1933)、「勝利」(1938)、「ジルムンカの饗宴(きょうえん)」(1941)、「ナヒーモフ提督」(1946)、「ワシリー・ボルトニコフの帰還」(1953)などを発表した。著作も多く、26年の「映画監督と映画材料」や34年の「映画俳優論」などは世界的に影響をあたえた。

ベルトフ,D.
I プロローグ
ベルトフ Dziga Vertov 1896~1954 ソ連時代のロシアの映画監督、映画編集者、理論家。本名はデニス・カウフマン。ポーランド(当時はロシア領)のビャウィストクに生まれ、第1次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で家族とともにサンクトペテルブルクに移住。最初は医学志望だったが、ロシア未来派のアバンギャルド芸術に魅せられて詩や小説を書き、また音のモンタージュに熱中した。このころジガ・ベルトフのペンネーム(ウクライナ語で「独楽(こま)よ、まわれ」の意味)をもちいはじめる。1917年のロシア革命によってモスクワ映画委員会の所属となり、18年からニュース映画「映画週報」の編集にたずさわる。翌19年から長編記録映画の製作をはじめた。

ベルトフ「カメラを持った男」ジガ・ベルトフは、映画のカメラだけがとらえうる客観的真実を重視して、「映画眼」の理論をうちたて、ソビエトだけでなく各国のドキュメンタリー映画に大きな影響をあたえた。写真は、ベルトフの映画理論の集大成である記録映画「カメラを持った男」(1929)のポスター。
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II 「映画眼」を主張
1922年に実験的な記録映画監督たちをあつめて「キノクス」グループを結成、「キノキ(映画眼)」理論を宣言する。これは、映画カメラのレンズが新しい知覚を生みだすという考えのもとに、俳優や撮影所などフィクションをいっさい排し、現実世界に映画カメラをむけることを主張したもの。その実践として、同年から「キノ・プラウダ」シリーズをはじめる。その後、映画論の集大成である「カメラを持った男」(1929。戦前公開時の邦題「これがロシアだ」)、ソビエト映画最初のトーキー「ドンバス交響楽」(1930)、あるいは「レーニンの三つの歌」(1934)などすぐれた長編記録映画を発表するが、30年代半ばに入ってスターリン体制の強化とともに形式主義(→ ロシア・フォルマリズム)と批判され、晩年はニュース映画の編集者として不遇のうちに没した。なお実弟のミハイル・カウフマン、ボリス・カウフマンともに著名な映画カメラマンである。

クローズアップ
グリュフィスが始めたクローズアップの技法はそれまでの舞台用の演技とはちがう演技を俳優に求めることになる。思うにのちのメッソッド演技(なりきり演技)はこのクローズアップの技法にふわさしい演技法だろう。またクローズアップによって観客は俳優の心情にきわめて感情移入するようになる。
映画史のなかでもっとも印象的なクローズアップがみられるのは『裁かれるジャンヌ』である。
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『裁かるるジャンヌ』La Passion de Jeanne d'Arc 1927年 97分(20コマ/秒)/81分(24コマ/秒) 
ジャンヌ・ダルクの裁判を歴史的資料に基づいて再現したカール・ドライヤー監督の代表作。
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ドライヤー,C.T.
I プロローグ
ドライヤー Carl Theodor Dreyer 1889~1968 デンマークの映画監督。コペンハーゲンに生まれ、2歳のときドライヤー家の養子となる。1910年ごろにジャーナリストとなり、13年にノルディスク映画社に脚本選別係として入社。15年に脚本家として自立し、「裁判長」(1919)で監督デビュー。次作の「サタンの書の数頁」(1919)では、グリフィスの「イントレランス」(1916)に影響をうけて4つの時代における人間の裏切りをえがいた。このころになるとハリウッド映画の攻勢で国内市場は狭まり、映画製作をつづけるには、デンマークをはなれざるをえなくなる。スウェーデンで「牧師の未亡人」(1920)、ドイツで「不運な人たち」(1921)や「ミヒャエル」(1924)、またデンマークにもどって「あるじ」(1925)を発表する。

II 人間の苦悩を追究
フランスでとった「裁かるゝジャンヌ」(1928)とトーキー第1作「吸血鬼—デイヴィッド・グレイのふしぎな冒険」(1932)は、彼の名を国際的にした。前者は、ノー・メーキャップの顔のクローズアップを中心に火刑に処せられるジャンヌ・ダルクの心理を映像化し、また後者は、幻想味と現実味をまぜながら超自然現象の視覚化をこころみた。ともに高い評価をうけたが、どちらも興行的には失敗し、デンマークにかえってジャーナリストの仕事にもどる。だが、第2次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)でナチス・ドイツがデンマークを侵略すると、中世の魔女狩り(→ 魔女)を題材とした「怒りの日」(1943)を発表。その後も「ふたり」(1945)、「奇跡」(1955)、「ゲアトルード」(1964)と話題作を発表し、寡作ながら、その独特な映像表現によって国際的に高い評価をうけた。
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by takumi429 | 2007-06-08 15:39 | 映画史講義 | Comments(0)

3.映画の父 グリフィス

3.映画の父 グリフィス (他のサイトより)

1912年にはイタリアで717本の映画がつくられ、世界でもっとも映画が発達した国だった。アメリカのプロデューサーたちは、イタリアに刺激されて活動しはじめた。彼らは長編映画の製作、監督の芸術的な自由、俳優の名前の表示などを要求した。俳優の中には、すでに大衆の人気を獲得しつつある者もいたのである。こうした要求がかなえられた結果、アメリカ映画は経済的にも芸術的にも大きく発展した。

D.W.グリフィス
D.W.グリフィス 草創期のアメリカ映画のプロデューサー、監督。D.W.グリフィス(1875~1948)は、映画といえば短編しかなかった1910年代に、意欲的な長編大作「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)を生みだし、映画の芸術的な発展の道を開いた。また、スター・システムの確立、クローズアップの創案、シーン単位ではなくカット単位の撮影・編集方法など、以後の映画のあり方を決定づける刷新をはたし、「映画の父」とよばれることになった。
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初期のサイレント映画の時代に映画の芸術性を高めるうえで大きな功績があったのは、アメリカのプロデューサー兼監督のグリフィスである。1908年にニューヨーク市のバイオグラフ・スタジオで撮影した「ドリーの冒険」で、グリフィスはそれまでに発達してきた映画製作の技術からの脱却をこころみた。カメラの機能を生かして、重要な演技になるとカメラをまわしはじめ、その演技がおわったとたん撮影をやめたのである。彼はまた、カメラを俳優に接近させることによって情感をもりあげた。当時は、画面いっぱいに2つの目や手がうつしだされると、観客はそれが何であるか理解できないと考えられていたが、グリフィスはその常識を無視し、強烈な印象をあたえるためにクローズアップを利用した最初の監督だった。

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"America's Sweetheart"Mary Pickford
グリフィスは自らやとった俳優の一団を訓練し、彼らの能力をのばした。その中には、メアリー・ピックフォード(Mary Pickford 1892~1979 初期アメリカ映画時代、少女役で人気を博したスター女優)、ライオネル・バリモア、リリアン・ギッシュのような後年のスターもいた。
さらにグリフィスは、ライティングやカメラ・アングルやフィルターなどで実験的な試みにも手をそめ、独特の効果をえようとした。また、1つのシーンをいくつかのショットに分解し、各ショットの時間を調節して徐々に興奮をもりあげたり、流れをリズミカルにするなど、それまでの映画にはなかった効果を生みだした。こうしてグリフィスは、映画による表現の基礎は編集であり、編集の単位はシーンではなくショットであることを明らかにしたのである。

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リリアン・ギッシュ Lillian Gish 1896~1993 アメリカの女優リリアン・ギッシュは、「国民の創生」(1915)や「イントレランス」(1916)をはじめD.W.グリフィス監督による数多くのサイレント映画に主演した。グリフィスは、彼女の表現力にとんだ表情をはっきりとらえるためにクローズ・アップ技法を完成させたといわれる。以後、ギッシュは、トーキー映画や舞台でも活躍し、映画「八月の鯨」(1987)では91歳で主役を演じて話題になった。

1913年、グリフィスは4巻からなる最初の大作「ベッスリアの女王」を完成させた。バイオグラフ社の重役たちはこの映画が長すぎるのに腹をたて、長編映画が普及した14年まで上映しなかったという。グリフィスはその間にバイオグラフ社をさり、カリフォルニア州ハリウッドのミューチュアル社にはいって、南北戦争(1861~65)をえがいた12巻の長編映画「国民の創生」(1915)にとりかかった。これは映画史において傑作の名に値する最初の作品であり、映画が芸術になったことをつげるものだった。
「国民の創生」はみる者を強くひきこむ力をもっており、観客はすっかり魅了された。戦闘のスペクタクルが、人間のおりなすドラマと融合していた。しかし、この映画ではクー・クラックス・クランが好意的にえがかれており、アフリカ系アメリカ人を揶揄(やゆ)した人種差別的な箇所があったため、当初から物議をかもした。封切りの際には暴動がおこり、今日でもなお論議の的となっている。
グリフィスの次の映画「イントレランス」(1916)は、しばしば映画史上の最高傑作といわれる。この壮大な歴史劇では、ことなる時代の4つの物語が同時に展開し、ほとんどほかに匹敵するもののない視覚的な効果によって観客の感情をゆさぶりながら、1つの物語から別の物語へと転換してゆく。

D.W.グリフィス (エンカルタより)

Iプロローグ
グリフィス David Wark Griffith 1875~1948 「映画の父」とよばれるアメリカの映画監督。映画作りの新しい基準を確立したことで知られている。
IIアメリカ映画の父
ケンタッキー州ラ・グランジに生まれ、地元の学校でまなんだのち、舞台俳優をへて、1908年にバイオグラフ社の映画俳優となった。やがて監督に転じて、ニューヨークやカリフォルニアで映画を制作。同社では450本以上の短編を監督し、メアリー・ピックフォード、ギッシュ姉妹、メイベル・ノーマンド、メエ・マーシュ、ウォーレス・リードなどのそうそうたる俳優や、監督のマック・セネット、シュトロハイムなど多くの人材を育成した。また伝説的なカメラマンのビリー・ビッツァーとも多くの作品をつくっている。
III本格的な長編劇映画の創造
1913年、バイオグラフ社からリライアンス・マジェスティック・スタジオにうつり、その後独立して「ベッスリアの女王」(1914)、「国民の創生」(1915)、「イントレランス」(1916)などの作品により、当時の第一線監督とみなされるようになった。
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http://chemistry.mtu.edu/~pcharles/GISH/dwg.html
「国民の創生」は長編映画というだけではなく、ハリウッドのスター・システムを確立した点で、映画史上に重要な意味をもつと考えられている。また、この作品は人種差別的な要素をもっていたために、抗議行動や暴動などをひきおこし、映画のもつ影響力の大きさをみせつけた。これを機に映画の検閲の法律がつくられるようになる。
4つの物語が並行的に展開される大作「イントレランス」は、興行的には成功しなかったが、その後の映画芸術の発展に大きな影響をあたえた。
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IV映画のテクニックを完成
グリフィスが登場するまで、1巻以上のフィルムをつかう映画はほとんどなく、エピソードをならべただけで筋もなく、撮影、演技、編集のどれをとっても貧弱なものだった。これに対してグリフィスは、数時間にもわたる長編作品を生み、劇的な状況や生き生きとした人物をとりいれながら、映画作りにかかせないたくみなテクニックを完成させた。たとえば、カメラを近づけて登場人物や事物を強調するクローズアップ、あるシーンを徐々に暗くしていきながら別のシーンにうつるフェイドの技法、過去のシーンをみせて筋立てや登場人物の心理をわかりやすくするフラッシュバック、同時におこっている出来事を並行的に編集してサスペンスをもりあげるクロス・カッティングなどである。
1920年には、映画俳優のダグラス・フェアバンクス、メアリー・ピックフォード、チャップリンとともに、長編映画を製作するユナイテッド・アーティスツを設立し、同社で「散り行く花」(1919)、「東への道」(1920)、「嵐の孤児」(1922)、「アメリカ」(1924)、「男女の戦」(1928)、「心の歌」(1929)などを製作した。「心の歌」をのぞいたすべてはサイレント映画であり、2本のトーキー映画「世界の英雄」(1930)と「ザ・ストラッグル」(1931)は、どちらもサイレント作品ほどの成功はみなかった。

参考文献
リリアン ギッシュ (著), アン ピンチョット (著), 鈴木 圭介 (翻訳)
『リリアン・ギッシュ自伝―映画とグリフィスと私』筑摩書房 (1990/08)
掛け値なしにおもしろい感動的な自伝。映画創世記の人々の意気込みがみごとに描かれている。グリュフィスたちが映画を世界言語とみなし、情熱を傾けていたことがわかる。
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by takumi429 | 2007-06-07 01:19 | 映画史講義 | Comments(0)

2.初期映画

Ⅱ 初期映画

前回の参照アドレス追加
http://web.inter.nl.net/users/anima/optical/index.htm
http://web.inter.nl.net/users/anima/chronoph/index.htm

覗き見と見せ物からの出発
1.エジソン
エジソンとイーストマンエジソン(右)の映画への興味は生涯つづき、現在35mmフィルムとよばれるものを開発したり、世界最初の映画スタジオも開設した。コダック社の創始者イーストマン(左)とともに、映画の技術的な発展をささえた。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2004. (C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved. Culver Pictures
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1880年代まで、科学者の関心は主として映画撮影技術よりも写真の開発にむいていた。しかし、アメリカの発明家エジソンは、ニュージャージー州ウエストオレンジの研究所の近くに、ブラック・マリアとよばれるタール紙の小屋をたて、そこを映画の実験所、および世界最初の映画スタジオとして利用した。のぞき眼鏡(めがね)式のキネトスコープを最初に考案したのは、一般にはエジソンだと思われているが、実際は、彼のアシスタントをつとめた発明家のウィリアム・ディクソンが実験のほとんどを担当したのである。
http://www.soi.wide.ad.jp/class/20010004/slides/06/13.html

ディクソンは今日でも使用されているスプロケットを考案した。これはフィルムのパーフォレーションとかみあい、フィルムをうごかす歯車である。また、彼はすでに1889年に、初期のトーキーの製造にも成功していた。91年にエジソンが特許をとったキネトスコープは、両端をつないでエンドレスにした約15mのフィルムをつかい、映像を拡大してスクリーンにうつしだしてみせる装置で、93年に完成、初上映している。94年、ニューヨーク市の店にコインで作動する映写機が導入され、その年のうちに、ロンドンとベルリンとパリに同じような店が登場した。
Black Maria

〈エジソン作品〉
「くしゃみの記録」(1894年)

「アーウィンとライスの接吻」(1900年)

(なおイギリスではウィリアム・フリース=グリーン(1855~1921)が1889年に撮影機を発明している)。


2.スクラダノフスキー兄弟
ドイツではマックス(1863~1939)とエミール(1859~1945)のスクラダノフスキー兄弟が1895年11月1日に「ビオスコープ」の上映に成功している。
http://www.acmi.net.au/AIC/SKLADANOWSKY_BIO.html http://www.preussen-chronik.de/person.jsp?key=Person_Max_Skladanowskyコダック社のセルローズのフイルムによって連続投射可能になった。スクラダノフスキー兄弟の作品は主に縁日やサーカスでの見せ物を撮ってみせていることに注意。

3.ルミエール兄弟
Association Frères Lumière世界初の映画「水をかけられた撒水夫」1895年12月28日、パリのグラン・キャプシーヌでリュミエール兄弟が上映した世界最初の映画のひとつ。この「水をかけられた撤水夫」は、ただ動きを記録しただけの実写ではなく、明らかに観客をわらわせることを意図した、世界で最初の喜劇映画でもある。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2004. (C) 1993-2003 Microsoft Corporation. All rights reserved.
エジソンのキネトスコープと幻灯機とをむすびつけて、うごく画像を投影し、一度に何人もの人がみられるようにする実験は、アメリカとヨーロッパで同時に進行していた。1895年に、フランスのリュミエール兄弟が、プリンター、カメラ、映写機をかねたシネマトグラフを発表した。

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リュミエール兄弟のシネマトグラフ
2人は続々と工場からでてくる労働者、岸にうちよせる波、芝に水をやる庭師など、人々の日常的な動きを撮影した短編映画で大きな成功をおさめた。2人の製作した映画で人々にもっとも強烈な印象をあたえたのは、郵便列車が観客のほうに突進してくる映像で、観客がおどろいて後ずさりしたという。
明らかに劇場向けの凝った映画が、アメリカのエジソンのスタジオで製作され、サーカスの芸人、ダンサー、俳優などがカメラの前で芸を披露した。このころになると装置の規格化がすすみ、こうした映画はたちまち世界じゅうでみられるようになった。

リュミエール兄弟作品
「工場の出口」(1895年) 「赤ん坊の食事」(1895年)(左はオーギュスト・リュミエール)
ルミエールの作品は見せ物でなく、日常生活を撮影し、それを上映する。
上映ではいったん静止画を見せてから動画に移行して観客の驚きをさそった。
「ラ・シオタ駅への列車の到着」(1897年) 「カード遊び」(1896年)http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/BIRTH%20OF%20MOVIE%201%20FATHER.htm

4.メリエス
1896年、フランスの奇術師ジョルジュ・メリエスは、映画がたんに生活を記録するだけでなく、作者の考えをつたえるものにもなることを証明した。彼が製作した一連のフィルムは、この新しい媒体による表現の可能性を探求するものとなり、やがて1巻ものの映画が誕生した。99年、パリ郊外のスタジオでメリエスは、フランス陸軍将校アルフレッド・ドレフュス(→ ドレフュス事件)の審理のようすを10のシーンにわけて再構成した映画と、20のシーンからなる「シンデレラ」(1900)をつくった。
しかし、彼の名を歴史にのこした代表的な作品は、ファンタジー「月世界旅行」(1902)である。この映画で彼は、トリック撮影の可能性を切りひらいた。撮影の途中でカメラを停止し、背景をかえてから撮影を再開すると、画面から物がきえたようにみえることに気づいた。また、フィルムを少しまきもどしてから次のシーンを撮影すると、重ね撮り、二重露出、ディゾルブ(ある場面がフェードアウトし、それと重なりながら次の場面がフェードインすること)ができることもわかった。こうした短編映画はたちまち大衆にうけいれられ、世界各国で上映された。今みると珍奇な作品でしかないが、初期の映画では、テクニックの面でもスタイルの面でも、先駆的かつ重要な作品であった。
参照 http://www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/MOVIE/BIRTH%20OF%20MOVIE%202%20MELIESS.htm

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奇術(見せ物)としての映画
メリエス Georges Méliès 1861~1938 
Ⅰ プロローグ
映画誕生期をかざるパイオニア。スクリーンに上映するかたちの映画を発明したのはリュミエール兄弟だが、その映画にさまざまなストーリーと撮影トリックを導入して現在の映画の原型をつくり、「光の錬金術師」(チャップリン)とよばれたのはジョルジュ・メリエスである。裕福な靴職人の次男としてパリに生まれ、家業をつぐことを期待されていたが、ロンドンへの留学がもとで魔術にのめりこみ、1888年には家業をすてて、ロベール・ウーダン劇場を買収し、魔術に専念した。
II 魔術を実現するための映画
メリエスにとっての映画は、みずから演じる魔術の限界をこえるものとして生まれた。1895年12月28日、リュミエール兄弟による最初の映画の商業公開に参加したメリエスは、自分の劇場の新しい出し物として映画を導入することを決心し、翌年から製作、監督、脚本、俳優、美術などを1人でこなすかたちで映画をとり、自分の劇場の出し物の一部として上映した。メリエスの映画が頂点をむかえるのは1900年から05年ごろである。「一人オーケストラ」「ジャン・ダルク」「蛹(さなぎ)と蝶」「ゴム頭の男」「月世界旅行」「ガリバー旅行紀」「音楽狂」「妖精たちの王国」などの傑作において、メリエス本人が主役を演じ、カメラ停止、二重焼き、多重露光、オーバーラップ、高速撮影などあらゆるトリックを発明した。
III 自作のフィルムを焼却
しかし1905年ごろから映画は産業へと移行し、パテやゴーモンはプロデューサーとして作品ごとに監督、俳優などを起用し、大きなスタジオで撮影する新しいシステムを導入した。内容的にも、人々の関心はメリエス流の魔術映画から、アクションやストーリーものにうつってきた。メリエスは経済的な危機をむかえ、12年にパテの資本で「極地征服」などをとるがまったく評価されず、映画活動を停止し、所蔵する映画をやきすてた。その後、一時期映画界からはわすれさられていたが、25年ごろから映画史家たちが彼の偉大さを再発見し、レジオン・ドヌール勲章をうけるなど、ふたたび世に知られる存在となった。製作した500本余りの映画のうち、現在のこっているのは断片もふくめて170本程度である。
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まとめ
映画は見せ物としてはじまった。見せ物であるためには、見せ物を撮る必要はなかった。映画装置を通じて日常が平面投影写真の連続として再現されることに人びとは興奮した。見せ物であることの追求としてさまざまな映画のテクニックが進化したが、やがて映画が物語の形式に移っていくとともに、そうしてトリック映画はおき去られた。トリックは、物語の自然さをこわさないように隠れたものになるようになる。映画の見せ物としての性格は今でものこっている。だが見せ物性でなく、見ることの驚きこそが、映画の根幹にあるものである。
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by takumi429 | 2007-06-04 01:16 | 映画史講義 | Comments(0)