カテゴリ:田山花袋研究( 4 )

地図の上の主体 田山花袋作『田舎教師』を読む(要約)

添えられた地図 ---問題の提示--- 
田山花袋は明治42(西暦1909)年10月に佐久良書房から書き下ろし作品『田舎教師』を出版した。花袋は『田舎教師』初版の巻頭に北関東の三色刷り地図を添えている。この地図にはどのような意味があったのであろうか。
 小説に地図を添えるというのは、明治39年(1906)3月発表の『破戒』で、すでに島崎藤村がおこなっている手法である。しかしじつはそれより早く花袋は、小説ではないが、明治38年(1905)1月に博文館から出版した日露戦争の従軍日記、『第二軍従征日記』で、遼東半島の地図を添えるという試みをおこなっている。

地図のまなざし
当時の地図が担った意味を探るべく、いったん地理の検定教科書から国定教科書への変遷を見てみてみよう。
明治37年に小学校の教科書は文部省検定から国定に切り替えられている。教科書検定制度は明治19年(1886)に始まっている。検定時代の教科書の挿し絵は横からの視点で描かれており、その記述も京都を起点としている。それと比べて、明治36年10月に発行された文部省の『小学地理』(第1期 国定地理教科書)は、地形図を使い、記述をすべて東京からはじめている。国定地理教科書は、諸地方を、東京を中心とした視線の下に、地理的な平面においてとらえる。すくなくとも国定地理教科書では、地理学的な地図は、こうした中央からの見下ろすまなざしをもつものとして、登場してきたのである。

地図の上を移動する主人公 
『田舎教師』という小説はやたらと主人公が歩いている小説である。同時に日記は主人公の内面世界をかいま見せる。花袋は、日記に肉付けすることで、小説の中の時間進行と主人公の内面世界を獲得する。その上を主人公が歩いていく。主人公の歩行が時間の進行を刻み、そして行程の上を移動する主人公の目に写る情景が小説の情景描写となりその空間に広がりを与える。このことは日記の中断による空白の一年をうめるべく、花袋が想像して書き込んだ主人公の「中田遊郭」行きの描写において顕著である。

小説の描写は、目的地までの距離、空間、風景、そこに映る主人公の影、主人公の内省、内面の欲望へと進む。我々はこの主人公の中田への往復の移動を、小林一郎氏がしたように、正確に地図の上でなぞることができる。それはなぜか。花袋がこの描写を地図をみて、地図をたよりに書いているからだ。 
読者が地図のうえでの主人公清三の足跡をたどることができるのは、まさに花袋自身が地図をなぞり、そこから風景を想像したからにちがいない。(花袋は執筆当時は行田にはいっていない)。花袋は博文館で『大日本地誌』の編集を助けており、地図を使うことになれていた。花袋は地図を見ながらその想像をふくらませ、見知った他の地域の情景を使いながら書いている。ここでの描写はじつは地図からの想像にうながされて生まれたものなのである。

『第二軍従征日記』
花袋が少女小説家から自然主義文学者へと転身したきっかけになった『第二軍従征日記』には、「第二軍進行経過地図」と題された測量にもとづくと思われる遼東半島の地図が添付されている。地図を見下ろし作戦をねり軍隊を進めるのは、国家的戦争を遂行させる日本帝国の国家のまなざしである。こうしたまなざしの下で日本帝国臣民たる田山花袋は第二軍とともに、いわば『日記』の地図の上を行軍していったわけである。
『田舎教師』では地図の上を移動するのは、花袋のかわりに主人公清三となり、地図を見下ろすのは、司令本部ではなく、作者の花袋である。国家が地理的平面の上で臣民を行軍させる、という『第二軍従征日記』の構図は、『田舎教師』では、作者が地図をつかって主人公を地理的平面の上で移動させる、という構図になっている。

『一兵卒』
 明治40年(1907)に花袋は『一兵卒』という短編を書いている(発表は『早稲田文学』明治41年1月号)。 
「かれは歩き出した」(田山1972:86)。 
この小説でも主人公「かれ」は歩いている。野戦病院から遼陽へ地図のうえで線を引く。この地理的な線の上を歩く彼の歩行によって小説のなかの空間と時間がまとめられ、小説のなかの描写は生まれる。つまり主人公の目的地への移動が小説の空間と時間をまとめるやり方である。 


『一兵卒』の主人公とおなじく、『田舎教師』の主人公、林清三も、一個の「主体」として我々の前に立ち現れる。だがこの主人公は、戦場において「臣民」を歩かせる、まなざしと同じまなざしが、上から把握することで、はじめて主体となったのである。二つの作品において、「主体」(subject)となることは「臣民」(subject)となることと同義なのである。
 個人を臣民として国家というものへとまとめあげていくまなざし。このまなざしの下にできあがった「日本」という空間において、見も知らぬ一兵卒や代用教師への読者の共感と同情が可能となったのである。

結論
 日本自然主義文学の代表作である田山花袋の『田舎教師』は日露戦争を遂行する国家の上からのまなざしを取り込むことでその作中の時空間を成立させている、と言える。またこの作品がもつ感動の源泉も、このまなざしがもたらす「日本国家」という(想像の)空間的なまとまりなくしてはじつは生まれなかったものなのである。この小説の巻頭に添えられた一枚の地図はこうしたまなざしの出現を示唆するものだったのである。
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by takumi429 | 2007-05-02 21:56 | 田山花袋研究 | Comments(0)

地図の上の主体3

 
5. 従軍記者としての体験
 明治37年(1904)、田山花袋は博文館から派遣され、第二軍私設写真班の主任として日露戦争に従軍した。ちなみに日露戦争では日本軍は、第一軍、第二軍、第三軍、に分かれ戦った。乃木将軍が率いる第三軍が旅順攻略で多大な戦死者を出したことは有名である。
 写真班の撮った写真は博文館から発行されたグラビア雑誌『日露戦争写真画報』に掲載され、花袋の観戦記など文章は同じく博文館の旬刊『日露戦争実記』に発表された。翌明治38年(1905)にこの観戦記はまとめられ、『第二軍従征日記』として博文館から出版された。この『日記』は作家田山花袋の転機となった作品である。それまでロマンチックな少女小説を多く書いていた花袋は、この作品以後、はっきりと自然主義作家の道を歩むことになった。
 すでにふれたが、この『第二軍従征日記』には「第二軍進行経過地図」と題された地図が添付されている(地図3)(田山1968b)。
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 これは測量にもとづくと思われる遼東半島の地図である。この遼東半島こそ、日露戦争の主戦場であり、また従軍記者、田山花袋が移動した場所であった。
 ちなみに『日露戦争写真画報』の創刊号にも遼東半島の詳細な地図が掲載されている(博文館1904)。おそらくこれらの地図はおなじ軍事的な目的のために作成されたものと思われる。もともと明治21年(1888)から第二次世界大戦終結まで日本の地図は(国内の地図もふくめて)すべて陸軍参謀本部の陸地測量部が作成していた(織田1974:165)。日露関係の緊張が高まるなか、日本陸軍はこの測量地図をすでに作っていたと思われる。
 ところで『第二軍従征日記』に添付された地図のほうには線が引いてあり、「凡例」には「吾等ノ進行セシ道路」と書いてある。この線は花袋たち写真班とかれらが従軍した第二軍の進行経路を示す線なのである。
 作品の本文はすべて日記の形式をとっている。たとえば、
「五月六日(金曜日)晴
 午前十一時 ---
 自分等は辛うじて本船に帰ることができた。 
 ・・・                           
 五月七日(土曜日)晴
 如何にしても上陸する覚悟で八幡丸を下りたのが、午前七時半。・・・
      上陸
した處は岩と波ばかり立っている荒磯で、路はうねうねと岩山の上に通じ、それを上り尽くすと、其處に一体の平地。・・・
 五月八日(日曜日)晴、風
 遼東の気候の変化の烈しいのは兼ねて聞いて知って居たが、しかも是程とは思ひも懸けなかった。・・・」(田山1968b:232-6)
 まず日付、曜日、天候が記され、その日の出来事が書かれている。記述の流れは常に一定に進行し、ほとんど逆行も飛躍もしない。花袋は標題(たとえば「上陸」)さえも文の一部(「上陸した處は岩と波ばかり・・・」)に流し込んで、文章の流れを切断しないように留意している。時を刻むのあくまでも日付であり、行軍と従軍の進行が記述の流れを支配している。そして遼東半島上陸後は、彼らの歩みは地図の上の「吾等ノ進行セシ道路」の線をたどることになる。読者はこの線をたどりながら、作中の花袋と第二軍がいまどこを進行しているか知ることができる。
 さて彼らが行軍した遼東半島はどのようなところだったのだろうか。
 明治38年2月20日博文館発行の『写真画報臨時増刊 征露第二軍写真帖』に納められた写真(写真2)を見ると、草木もまばらな裸の広野がひろがっている。
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 この写真は花袋たち写真班が撮影したものにちがいない。花袋たちはこうした何もないむき出しの裸の「平面」の上を行軍していったのである。
 裸にされたというのは外面的なことだけではない。『第二軍従征日記』にはつぎのような記述がある。
「以後二三日間の間に探った、此
     付近の地理
これはこれから記述する金州南山の戦いに非常に必要となるものだから、此處に詳しく記してみよう。                         
 金州へ通ずる街道、その重なのが二つ。一つは遼陽海城盖平を経て金州から旅順へ通ずるもの、一つは劉家店、亮甲店、轉角房を経て貔子窩に達するもの、はじめのは金州街道、後のは貔子窩街道と仮に名づけて置こうか。・・・貔子窩街道は我が軍の主力の行進路で、その二つの街道がちょうど十三里臺子の下の處の石門子付近で一緒になって、金州の盆地へと赴いて居るが、其一緒になろうとする少し手前、即ち不等辺三角形のその二角がまさに相合わせんとする處に、かの老虎山の山脈が波濤のごとき山塊を起している・・・」(田山1968b:247)。
 ここで使われている地名は地理上の地点と線と領域を指すだけである。場所を指定できるならば本当の地名である必要はなく、仮の名前でもかまわない(たとえば、「金州街道」、「貔子窩街道」)。地形はあくまでの戦略的な観点から把握され、その結果、場所はその歴史性を剥奪され、ただの平面になっている。
 この戦略的な 地平面の上を兵士たちは動いていく。
「俄に起こる敵兵敗走の光景。いよいよ陥落と言ふので、今迄頑強に抵抗した敵の歩兵は皆な一散に掩濠の中から飛出す。三面のわが兵は今ぞ時 --- と驀地に突進する。混乱狼藉のさまは鼎を覆へしたようで、山上の路を遁れ去るもの、山腹を這って走る者、旅順街道に出づる者、これが夕陽の明かな空気の中に手にとるように見える」(田山1968b:260)。
 透明な「空気」。むき出しになった地平面。その平面のうえを動く人間たち。それを照らし出す夕陽。さらに平面上の移動によって形成される、作品をつらぬく線条の時間。『田舎教師』で我々がみた小説作法は、この『第二軍従征日記』においてすでに確立されていたのである(注5)。
 ところで地図をつかいながら軍隊を進めさせたのは陸軍司令本部である。そのまなざしはまさに国家的戦争を遂行させる日本帝国の国家のまなざしと言える。こうしたまなざしの下で日本帝国臣民たる田山花袋は第二軍とともに、いわば『日記』の地図の上を行軍していったわけである。
 『田舎教師』では地図の上を移動するのは、花袋のかわりに主人公清三となり、地図を見おろすのは、司令本部ではなく、作者の花袋である。国家が地理的平面の上で臣民を行軍させる、という『第二軍従征日記』の構図は、『田舎教師』では、作者が地図をつかって主人公を地理的平面の上で移動させる、という構図になっている。しかしどちらも上からのまなざしが地理的平面の上で人間を把握し動かす、という構図においては同一なのである。

6. 主人公の主体(臣民)化
 明治42年11月7日の『読売新聞』に掲載された「『田舎教師』合評」で匿名評者「LMN」はつぎのように評している。
「前半はやや平坦すぎて、時々無理に挟んだようなシーンもあるが、後半はどこを攫えてもピチピチ活きて居る。息もつかずに読ませる。中でも僕の最も好きなのは主人公が病気になってからの後だ。
『清三はもう充分に起き上がる事は出来なかった。容態は日一日に悪くなった。昨日は 便所から這うやうにして辛うじて床に入った。でも其枕元には國民新聞と東京朝日新聞とが置かれてあつて、痩せこけた骨だった手がそれを取り上げて見る』
 殊にこの一節の如きは、印象描写の模範とすべき價がある。さまざまに胸に描いた希望も目的も戀も凡ては家庭の境遇に妨げられて、身は一個の田舎教師として、痛ましくも病死を遂げる。時恰も日露戦争が起り、世は挙って國家の運命のまにまに心奪われて熱狂する。その陰には寂しい田舎に、一個の田舎教師の見るかげもない一生の幕が閉ぢられる。かう云う全編の筋から見て、前に掲げた一節の如きは、如何に力強く、意味深いものであるか。ここまで来れば平面描写は平面描写に終わって居ない。僕は所謂平面描写の眞生命は、ここにあると思う」(吉田・和田編1972:437。「平面描写」については注5参照)。
 こうした評価はまさに花袋のねらったところであったと思われる。なぜなら花袋はこの小説のモデルとなった小林秀三の墓をはじめて見た時に、次のような感慨をもらしているからである。
「私は一番先に思った。『遼陽陥落の日に・・・日本の世界的発展の最も栄光ある日に、万人の狂喜している日に、そうしてさびしく死んで行く青年もあるのだ。事業もせずに、戦場へ兵士となってさえ行かれずに。』・・・私は青年--明治三十四、五年から七、八年代の日本の青年を調べて書いて見ようと思った。そうして、これを日本の世界発展の栄光ある日に結びづけようと思い立った」(田山1981:252)。
 国家存亡の戦い(日露戦争)とそれに関わることもできず死んでいく青年。匿名評者「LMN」の評に見られるように、この作品が読者たちにもたらした感銘には、日本が全体として日露戦争に邁進する中、その狂喜に参加することもできず死んだ青年、という構図がある。すなわち、日本全体がロシアと戦っているという一体感、その一体感のもとに、会ったことも見たこともない、地方の一青年の悲劇がまるで、知人や友人の悲劇のように感知されるのである。
 さらに『田舎教師』で花袋はこう書いている。
「日本が初めて欧州の強国を相手にした曠古の戦争、世界の歴史にも数えられる大きな戦争 --- その花々しい国民の一員と生まれてきて、その名誉ある戦争に加わることも出来ず、その万分の一を国に報ゆることも出来ず、その喜悦の情を人並みに万歳の声に顕すことすらも出来ずに、こうした不運な病の床に横って、国民の歓呼の声を余所に聞いていると思った時、清三の眼には涙が溢れた」(田山1980:236-7)。
 平岡敏夫はこの主人公の悲しみを「『国家』とともに在ろうとしながら、貧困と結核により、脱落して行かねばならぬ悲しみ」と解している(平岡1985:333)。すなわち、対外戦争により意識されるようになった「日本」という「国民国家」を背景にしてはじめてこの小説の主人公の悲劇は理解されるのである。
 しかしこうした作品の意図は、モデルとなった小林秀三の実人生をねじまげることになった。現実の小林秀三は、徴兵検査で「乙種合格」となって徴兵を逃れた折り、柏餅まで奢ってそれを喜んでいるのである(小林1978:118-9)。しかるに花袋は作中、主人公清三に
「自分も体が丈夫ならば--三年前の検査に乙種などという憐ぬべき資格でなかったならば満州の野に、わが同朋と共に、銃を取り剣を揮って、僅かながらも国家の為に盡すことができたであろうに」(田山1980:205)
 と、言わせているのである。
 主人公はあくまでも国家の忠実な臣民へとまとめあげられねばならなかったのである。
 明治40年(1907)に花袋は『一兵卒』という短編を書いている(発表は『早稲田文学』明治41年1月号)。この作品は、日露戦争に従軍しながらも遼陽攻略という決定的な場面に加わることもなく、脚気衝心でひとり死んでいく一兵卒を描いたものである。 
 「かれは歩き出した」(田山1972:86)。
 この小説でも主人公「かれ」は歩いている。野戦病院をひとり出て、本隊に追いついて遼陽での攻撃に参加しようと、「かれ」は歩く。しかし途中の村で脚気衝心で死ぬ。
 作品の構造は簡単である。野戦病院から遼陽へ地図のうえで線を引く。その線の上を「かれ」が歩いている。この地理的な線の上を歩く彼の歩行によって小説のなかの空間と時間がまとめられ、小説のなかの描写は生まれる。つまり主人公の目的地への移動が小説の空間と時間をまとめるやり方である。
 主人公「かれ」は遼陽攻撃という日露戦争のハイライトとでもいうべき場面で兵隊として活躍するのでなく、それをめざしながらもその途上で死ぬ。兵士として華々しい活躍を享受することなく、それをめざしながらも途上で死ぬ「かれ」。
 こうしてみるとまるで畑違いの作品にみえる『田舎教師』と『一兵卒』はじつは同じ構造をもっていることがわかる。
 柳父章は『翻訳語成立事情』のなかで、花袋の『一兵卒』のなかで使われる「かれ」が、西洋語の三人称とは異なり、あくまでも主人公のみを指していることを指摘している(柳父1982:205-9)。
 ここで我々が注目しなければならないのは、この「かれ」というものが、遼陽攻撃という国家の目的から逆に規定された主体を意味することである。「おれ」「おまえ」という関係から「かれ」という三人称の主体を生み出すのは、離れた目指すべき地点からの逆規定である。西洋ならこうした地点は「神」によって占められたかも知れない。しかし花袋の世界、すなわち日本では、この地点は帝国主義戦争を遂行する国民国家によって占められたのである。つまりここでの「主体」(subject)はあくまでも日本帝国の「臣民」(subject)でしかないのである。
 作中の「かれ」の名前は、第三者の兵士が軍隊手帳を読むことで、作品の最後にようやく与えられる。
「三河国渥美郡福江村加藤平作」(田山1972:106)
 こうして無数の「かれ」が国家の目的へとまとめられ死んで行ったことを我々は知る。この「かれ」の名前にはさまざまな者の名前が代入可能であった。そこに代入可能な者、およびその家族が「日本帝国臣民」と呼ばれたのである。
 『一兵卒』の主人公とおなじく、『田舎教師』の主人公、林清三も、一個の「主体」として我々の前に立ち現れる。だがこの主人公は、戦場において「臣民」を歩かせる、まなざしと同じまなざしが、上から把握することで、はじめて主体となったのである。二つの作品において、「主体」(subject)となることは「臣民」(subject)となることと同義なのである。
 個人を臣民として国家というものへとまとめあげていくまなざし。このまなざしの下にできあがった「日本」という空間において、すでにみたように、見も知らぬ一兵卒や代用教師への読者の共感と同情が可能となったのである。
 
7. 結論
 日本自然主義文学の代表作である田山花袋の『田舎教師』は日露戦争を遂行する国家の上からのまなざしを取り込むことでその作中の時空間を成立させている、と言える。またこの作品がもつ感動の源泉も、このまなざしがもたらす「日本国家」という(想像の)空間的なまとまりなくしてはじつは生まれなかったものなのである。この小説の巻頭に添えられた一枚の地図はこうしたまなざしの出現を示唆するものだったのである。

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by takumi429 | 2007-05-02 21:55 | 田山花袋研究 | Comments(0)

地図の上の主体2

4. 地図の上を移動する主人公
 『田舎教師』という小説はやたらと主人公が歩いている小説である。冒頭からすでにそうである。
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「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣根からは八重桜が咲きこぼれた。赤い蹴出を出した田舎の姐さんがおりおり通った」(田山1980:5)。
 家が没落したため進学を断念した主人公、林清三は小学校の代用教員となるべく、自宅から就職先の弥勒に向かう。この第一章の冒頭から第二章の弥勒の小学校にいたるまで、読者はずっと主人公の歩行(移動)に付き合わされる(注1)。
 小説の終盤で主人公が結核となり病床につくが、それまでこの小説は頻繁に主人公清三の移動、それもおもに歩行による移動を描いている。だから小説に添付された地図は、いま主人公がどこを移動しているのかを読者に確認させる働きをしている。 
 この小説での花袋の叙述を支えているのは、まずモデルとなった小林秀三の日記である。この日記を使ったおかげで小説内部の時間は一日一日と確実に進行していく。同時に日記は主人公の内面世界をかいま見せる。花袋は、日記に肉付けすることで、小説の中の時間進行と主人公の内面世界を獲得する。
 しかしそれだけでは小説は主人公の内的世界にとどまってしまいかねない。小説に外的な広がりを与えつつ、よどみない進行を与えるものとして用いられているのが、主人公の歩行(移動)とそれにつれて主人公の目に映る外界の描写である。このことは日記の中断による空白の一年をうめるべく、花袋が想像して書き込んだ主人公の「中田遊郭」行きの描写において顕著である(注2)。
 近所の女工たちに性的な挑発を受けた主人公は、その性欲を鎮めるべく「中田遊郭」に行くことを決め、河畔の道を歩く。
「路は長かった。川の上に簇がる雲の姿が変わる度に、水脈の穏やかに曲がる度に、川の感じが常に変わった。夕日は次第に低く、水の色は段々に納屋色になり、空気は身に沁み渡ように濃い深い影を帯びて来た」(田山1980:115)。
 冒頭と同様に、まず目的地までの行程の線が引かれ、そこまでの距離が語られる。その上を主人公が歩いていく。主人公の歩行が時間の進行を刻み、そして行程の上を移動する主人公の目に写る情景が小説の情景描写となりその空間に広がりを与える。
 目的地へ歩行が作品の時間と空間を形作るばかりではない。目的地への関係が主人公の内面的欲望を規定する。
「清三は自らの影の長く草のうえに曳くのを見ながら時々自ら顧みたり、自ら罵ったりした。立ち留って堕落した心の状態を叱しても見た。行田の家のこと、東京の友のことも考えた。そうかと思うと、懐から汗でよごれた財布を出して、半月分の月給が入っているのを確かめてにっこりした。二円もあれば沢山だということはかねてから小耳に挟んで聞いている。青陽楼という中田では一番大きな家だ、其処には綺麗な女がいるということも知っていた。足を留めさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力の方が一層強かった。心と心が戦い、情と意が争い、理想と欲望とが絡み合う間にも、体はある大きな力へと引きずられるように先へ先へと進んだ」(田山1980:155)。
 描写は主人公の目からみた川辺の情景から主人公の内省へと向い、さらに主人公の内面的な性的欲望をめぐる葛藤へといたる。この内面的欲望と葛藤はあくまでの目的地(中田遊郭)への空間的関係から規定されている。小説の描写は、目的地までの距離、空間、風景、そこに映る主人公の影、主人公の内省、内面の欲望へと進む。主人公の内面的欲望は、目的地から距離という地理的関係から導き出されている。
 描写はさらに続く。
「渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに坂東太郎の名に背かぬほど大河の趣を為していた。夕日はもう全く沈んで、対岸の土手に微かにその余光が残っているばかり、先程の雲の名残とみえるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上に覚束なく浮いていた。白帆がこころ懶(もの)うさそうに深い碧の上を滑って行く。
 透綾の羽織に白地の絣を着て、安い麦稈の帽子を冠った清三の姿は、キリギリスがないたり鈴虫が好い声を立てたり阜斯(ばった)が飛び立ったりする土手の草路を急いで歩いて行った。人通りのない夕暮れ近い空気に、広い漾々(ようよう)とした大河を前景にして、その痩削の姿は浮き出すようにみえる。土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆や豆やもろこしが豊かに繁った。ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い烟を立てて通って行くのが見えた」(田山1980:155-6)。
 ここでの夕暮れの赤い光を背景にして人物を浮き上がらせる手法についてはあとで触れることにしよう。
 中田遊郭に泊った翌日、主人公は知り合いに会うのをさけるため、利根川の対岸の、別の道を通って帰った。
「河岸の渡し場では赤い雲が静かに川に映っていた。・・・其処からは利根渡良瀬の二つの大きな河が合流するさまが手にとるように見える。・・・本郷の村落を通って、路はまた土手の上にのぼった。・・・麦倉河岸には涼しそうな茶店があった。・・・大きな栃の木が陰をつくって、冷たそうな水にラムネがつけてあった。彼はラムネに梨を二個ほど手ずから皮をむいて食って、さて花ござの敷いてある樹の陰の縁台を借りて仰向けに寝た。・・・涼しい心地の好い風が川から来て、青い空が葉の間からチラチラ見える」(田山1980:160)。
 初版本の巻頭には地図だけでなく、縁台に寝そべって川のほうを見ている青年を描いた口絵が添えられている(口絵1)。
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おそらくこれはこの場面を描いたものと思われる。それだけこの中田遊郭への行き帰りはこの作品にとって重要な場面だったのである。
 我々はこの主人公の中田への往復の移動を、小林一郎氏がしたように、正確に地図の上でなぞることができる(地図2)
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(小林1969:232)。
 なるほどできるわけである。なぜなら花袋はこの描写をおそらく地図をみて、地図をたよりに書いているからだ。
 花袋はこう書いている。
 「刀根(とね)の下流の描写は、--大越から中田までの間の描写は想像でやったので、後で行って見て、ひどく違っているのを発見して、惜しいことをしたと思った」(田山1981:258)。
 しかしもしかりに想像だけで書いたら、地名や河川や橋などの地理的関係を正しく把握することは困難だったであろう。しかるに花袋は、「渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに坂東太郎の名に背かぬほど大河の趣を為していた。・・・ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い烟を立てて通って行くのが見えた」と書いている。川の合流地点から鉄橋が見えるという記述は、想像だけでは無理である。地図の上で確認したとしか考えられない。読者が地図のうえでの主人公清三の足跡をたどることができるのは、まさに花袋自身が地図をなぞり、そこから風景を想像したからにちがいない。
 すでに述べたように、花袋は博文館で『大日本地誌』の編集を助けており、地図を使うことになれていた。たとえば、小説『蒲団』の中でも、花袋がモデルの主人公「時雄」は、手紙をよこした女学生の出身地、「新見町」を、『大日本地誌』の編集室にあった地図を使って調べている。
「・・・本箱の中から岡山県の地図を捜して、阿哲郡新見町の所在を研究した。山陽本線から高梁川の谷を遡って奥数里、こんな山の中にもこんなハイカラの女があるかと思うと、それでも何となくなつかしく、時雄はその付近の地形やら山やらを仔細に見た」(田山1972:11)(注3)。
 また花袋は明治41年(1908)に『読売新聞』で自分の家族をモデルにした『生』という小説を連載している。この小説のなかで自らをモデルとした「銑之助」についてこう書いている。
 「生活は矢張り苦しかった。月に、二十圓の収入を得るのが困難であった。・・・翻訳の安仕事、空想ででっち上げた紀行文。そんなものを賣って生活を續けた」(田山1966:309)。
「空想ででっち上げた紀行文」と言っても、まるっきりでたらめを書くわけにはいかなかったであろう。おそらく花袋はそれまでの旅行経験を使いながら地図をたよりにして空想の紀行文を書いたと思われる。
 ちなみに、『大日本地誌』第一巻(山崎・佐藤編1903)には写真銅版の第十二図として「上武の境川俣付近」という写真がおさめられている(写真1)。これは『田舎教師』の「中田遊郭」行きで描写された場所よりさらに上流の利根川河畔の写真である(注4)。
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 白い帆の船も写っているところや広々とした河原の様子なども、「渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに坂東太郎の名に背かぬほど大河の趣を為していた。・・・白帆がこころ懶(もの)うさそうに深い碧の上を滑って行く」という『田舎教師』のなかの描写とたいへんよく一致する。花袋はこの写真の情景を、小説中の下流の大越から中田までの利根川の描写へと、移しかえたのかもしれない。             
 ともかく花袋は地図を見ながらその想像をふくらませ、見知った他の地域の情景を使いながら書いているとみてまちがいがないだろう。
 ところでここでの風景描写はきわめて透明感にみちている。主人公の視線は遠くに達し、「空気」は澄み切った印象を与える。
 ここで我々が現実に歩いている時のことを考えてみよう。人は歩いている時じつはあまり遠くを見てはいないものである。遠くの風景ばかり見ていては道を踏み外しかねない。ふつう歩いている時には目の前の道や障害物などの近景に眼がいくものである。遠景は立ち止まった時にはじめて良く見えるものである。だからこの小説中の歩く主人公の眼からとらえられている遠景は、じつはふつうに歩いている人間が見ているものではない。
 だが歩いている人間の周りを地図をつかって想像する場合はどうであろうか。地図からは細かな近景は把握できない。むしろ山や川などの遠景の方が把握しやすい。つまりここでの遠景描写はじつは地図からの想像にうながされて生まれたものなのである。
 この中田への行き帰りの場面の透明で空虚な空間は、現実の人間が感じている空間であるというよりも、むしろ地図を見るときに想像される、仮想の空間なのである。
 まとめてみよう。
 地図は主人公の位置を読者に確認させるだけではない。架空の風景描写も、主人公の架空の内省も、その葛藤する心も、さらにはその欲望をも、成立させている。つまり、地図による上からのまなざしが、主人公のみる情景、小説中の経過する時間、さらに主人公の内面的欲望を、つくりあげているのである。
 ではこうした上からのまなざしを田山花袋はどこで獲得したのであろうか。

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by takumi429 | 2007-05-02 21:54 | 田山花袋研究 | Comments(0)

地図の上の主体1

地図の上の主体
---田山花袋作『田舎教師』を読む---
 勝 又 正 直
1. はじめに
 我が国のナショナリズム研究に大きな衝撃をもたらした『想像の共同体』(Anderson1983=1987)の中で、ベネディクト・アンダーソンはつぎのように語っている。
「十八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つの想像の様式、小説と新聞・・・これらの様式こそ国民という想像の共同体の性質を『表示』する技術的手段を提示した・・・」
(Anderson1983=1987:44)。
 これを承けて柄谷行人はつぎのように言う。
「明治維新は、ステートを作ったが、ネーションを形成しえなかった。・・・日本の明治において、本格的な意味でのナショナリズムを生み出したのは文学であり」、「ナショナリズムの中核は言文一致的な近代文学にある」(柄谷1994:23-40,240)。
 いわゆる「言文一致体」は、山田美妙や二葉亭四迷の先駆的試みのあと、田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学において定着した。「言文一致的な近代文学」を最初に担ったのはこれら日本自然主義文学であった。
 ではこれら日本の自然主義文学は、「日本」という「想像の共同体」を、その作品において、具体的にはどのように「表示」し「生み出し」ているのであろうか。本稿は田山花袋の一作品を取り上げることで、その答えの一端を探ることにする。

2. 添えられた地図 ---問題の提示---
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 田山花袋は明治42(西暦1909)年10月に佐久良書房から書き下ろし作品『田舎教師』を出版した。この作品は、日本全土が日露戦争に沸き立つ頃、立身の夢も恋にも破れ国家の大事に加わることもできず結核でひっそりと死んでいった一地方の小学校代用教員、林清三の人生を描いた作品である。小説のモデルは小林秀三という実在の小学校代用教員である。小林は、明治34年(1901)から明治37年(1904)に結核でなくなるまで、日記をつけており、花袋はこの日記に彼の想像を加えてこの小説を書き上げた。今日この作品は島崎藤村の『破戒』とならんで、日本自然主義文学の代表作とみなされている。
 作品の舞台となったのは北関東の利根川流域である。花袋は『田舎教師』初版(田山1968a)の巻頭に北関東の三色刷り地図を添えている(地図1)。
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 小説に地図を添えるというのは、明治39年(1906)3月発表の『破戒』で、すでに島崎藤村がおこなっている手法である。しかしじつはそれより早く花袋は、小説ではないが、明治38年(1905)1月に博文館から出版した日露戦争の従軍日記、『第二軍従征日記』で、遼東半島の地図を添えるという試みをおこなっている。だからこの文学における地図の添付という手法は花袋の創意によるものとみてよいだろう(紅野1992:116-7、『第二軍従征日記』については後述する)。
 この地図について、田山花袋は回想録『東京の三十年』でこう証言している。
「巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が到らなかった青年の一生ということを思わせたいと思って挿んだのであった」(田山1981:257-8)。
 しかしこの巻頭の地図の意味はどうもそれだけにとどまるものではないように思われる。むしろこの地図は、この小説を成立させている、ある視点(あるいはまなざし)を示唆しているように思われる。本稿では、この地図が小説の記述において、いかなる働きをしているのかを調べ、その意味を探りたい。
 だが作品の分析に移る前に、すこし回り道ではあるが、「地図」というものがいかなる意図をもつものとしてこのころ登場してきたのかを、おそらく小学校代用教員だった小林秀三も使ったであろうこの頃の小学校地理教科書の変遷から、探ってみたいと思う。

3. 地図のまなざし
 小林秀三が埼玉県の弥勒(みろく)の高等小学校に勤務していたのは明治34年から37年(1901-4)である。じつは明治37年に小学校の教科書は文部省検定から国定に切り替えられている。
 この検定時代の地理の教科書から国定地理教科書への、記述のあり方の変遷はたいへん興味深いものがある。
 教科書検定制度は明治19年(1886)に始まっている。検定時代のほとんどの教科書は、日本の各地の地誌を述べるにあたって、じつは東京からでなく、平安京(京都)のある「畿内」から記述を始めていた。そうしてそのあと「東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道」という具合に、京都からのびる道の区分でそのほかの地域を述べていくのが通例であった。
 たとえば、「明治30年代に入ってからの地理教科書を代表するものの一つ」(海後編1965:671)である、明治31年1月初版、明治34年11月改訂4版、同年12月文部省検定済の文学社の『修正 新定地誌』という教科書をみてみよう。
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 「第一篇日本地理総論」の「第四 一畿・八道・台湾」では、「山と海とのありさまによりて、全國を十部に大別す。畿内・東海・東山・北陸・山陰・山陽・西海・北海の一畿・八道と台湾とこれなり。而して、さらにこの一畿・八道を八十五國に分てり。その名左のごとし」として「畿内 五國 山城 大和 河内 和泉 摂津」といった具合に記述が進んでいく(海後編1965:279)。
 さらに「第五 道廳・府・縣」では「畿内・八道および八十五國の区分は、自然の地勢によりて定められたものなれど、別に府縣とて、政治上の便宜によりて定めたる区分あり」として、各道府県を列挙している(海後編1965:280-1)。
 つまり行政区分としての府県よりも昔ながらの國の区分のほうが自然とされ、行政区分の府県はまだ絶対視されていないのである。
 「第二篇 日本地理各道誌」では「第一 畿内」から記述は始まっており、そこから「第二 東海道」、「第三 東山道」と続いていく。東京はこの「第二 東海道」のなかの「都会」の記述の一部でしかない。つまり東京は、まだ畿内とりわけ京都を出発点とした東海道のなかの一点にすぎない。ここではまだ東京が日本の中心としての位置を与えられているとは言いがたい。
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 これが明治33年10月発行、同年12月改訂再版、明治34年1月検定済の普及舎の『小学地理』になると、記述は「第一章 第一 東京(東京府上)」から始まるようになる。東京の記述も「天皇陛下は、東京の宮城におわします」として、東京を帝都として位置づけ、その記述もより充実したものとなっている。
 しかしそのあとの記述は、各県の全体像を語るのではなく、その県の名所や旧跡や有名な山河を見出しにして並べている。「第二 小笠原(東京府下)、第三 利根川
(千葉縣)、・・・第十一 伊勢大神宮(三重縣上)、第二章 第一 京都(京都府上)、・・・第三章 第一 琵琶湖(滋賀縣)・・・」といった具合である。 さし絵も、東京の「二重橋」に始まり、名古屋の「金の鯱(しゃちほこ)」、京都の「金閣寺」といった、絵葉書に使われそうなものばかりである。

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『小学地理巻一』(海後1965:211
 記述の仕方は「生徒の興味を引くために旅行体の記述を試みている」(海後編1965:670)。すなわち東京から各地方へ旅行する記述のスタイルである。これは京都を出発点にして各道をたどって記述する以前のスタイルと大差はない。
 また本文の上には「上総」とか「武蔵」などの國の名前がつねに記してある。道府県という行政上の区分に対して、古くからの國の区分はまだ強く
残っているのである。
 こうした検定時代の教科書と比べて、明治36年10月に発行され(翌年4月から使われ)た文部省の『小学地理』(第1期 国定地理教科書)は画期的なものであった。
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 記述はまず「関東地方」からはじまる。つぎに、東海地方ではなく、「奥羽地方」、「本州中部地方」へと記述は進んでいく。
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 東京市のさし絵は、普及社の『小学地理』のさし絵のように宮城二重橋を描くだけでなく、この宮城二重橋からの天皇出御の行列の絵となっている。
 ちなみに明治になってから天皇は盛んに行幸した。とりわけ「六大巡幸」と呼ばれる明治5年(1872)から明治18年(1885)にかけての行幸は天皇の存在を全国に知らしめ、それまでの分権的封建国家から中央集権国家への転換を印象づけるものになった。
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 このさし絵の与えるイメージはこうした行幸が東京の宮城から出発しているというイメージである。つまり東京のもつ中心性は、行政のみならず、天皇を中心とした神聖性の中心として確固たるものとして、生徒の脳裏に刷り込まれていくのである。  以前の教科書にみられた旧来の「道」と「國」による地誌は、「府県をもとにした地誌に改められている。・・・府県の地誌は初めに位置を明らかにし、川や山の著名なものをあげ、鉄道をあげて都市に及び、交通路、産物、名所等について叙述してある」(海後編1965:674)。
 さてこの国定教科書の特徴は、なんと言ってもさし絵を減らして地図を多用したことであった。
「初めの総論のところではアジヤの近傍地域を入れた日本全図を掲げ、各地方総論のところにはその地方全図を入れ、各府県のところに府県地図を加えている。各地方全図においては濃淡をもって土地の高低を示し、主要な水系を記し、克明に府県庁所在地名と鉄道路線を記入してある。府県地図には本文に出ている地名をすべて入れ、河川、湖、山、鉄道路線を入れてある」(海後編1965:674)。
 従来の教科書のさし絵はその水平の視線で「お國」ごとの名所・旧跡・特産をしめしていた。それにたいして、国定教科書の地図は上からの見下ろす垂直の視線によって、中央からの行政単位(県や府など)の位置と領域を確定する。その視線は、それまでの「國」に分かれていた諸地域を、宮城のある東京を中心とした編成へとまとめあげる。国定地理教科書は、諸地方を、東京を中心とした視線の下に、地理的な平面においてとらえる。いわばここには諸地域を見るまなざしの転換、すなわちさし絵のもつ横からのまなざしから、地図のもつ見おろすまなざしへの転換、があったと言えよう。すくなくとも国定地理教科書では、地理学的な地図は、こうした中央からの見おろすまなざしをもつものとして、登場してきたのである。

 ところでこの国定地理教科書の編集を助言した人物に、山崎直方(なおまさ)という者がいる(海後編1965:673)。山崎直方(1870-1929)は1895年東京帝国大学理科大学地質学科を卒業後ドイツに留学し近代地理学を学び、帰国後、東京帝国大学理科大学の初代地理学講座の教授となった人物である。山崎はまた東京高等師範学校の佐藤伝蔵とともに『大日本地誌』全十巻(明治36年(1903)~大正4年(1915))という画期的な地誌を編纂したことでも有名である。
 この『大日本地誌』の第一巻は『関東編』(山崎・佐藤編1903)から始まっており、出版されたのが明治36年である。その後、第二巻『奥羽』、第三巻『中部』と続いて刊行されていった。この『地誌』の地域を扱う順番も国定地理教科書の地域を扱う順番とまったく同じである。
 この『大日本地誌』を出版したのは博文館という出版社であり、明治32年以来その編集部にいたのが、田山花袋であった(小林高寿1967)。花袋の自伝的著作『東京の三十年』にはこうある。
「『大日本地誌』の編輯の手伝いを私は明治36年から始めた。・・・私は山崎君、佐藤君から地理に対する科学的研究の方法を教えられたことを感謝せずにはいられない」(田山1981:239)。
では花袋が山崎たちから学んだと言う「地理に対する科学的研究の方法」とは、具体的にはどのようなものとして花袋の小説に現れているのだろうか。

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by takumi429 | 2007-05-02 21:53 | 田山花袋研究 | Comments(0)