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社会システム論  (要約)

以下に載せるのは、1998年に私(勝又正直)が名古屋市立大学看護短期大学部で講義した「社会システム論」をまとめたものです。まず最初に全体の要約から掲載することにします。

社会システム論 (要約)

序.社会学の課題としての社会システム
近代社会学の始祖のひとりであるデュルケームは、社会学の対象として、「社会的事実」という概念を提示しました。「社会的事実」とは、個人意識には還元されず、個人にとって外在的であり、かつ個人を強制するものです。(言語学者ソシュールは言語をこの「社会的事実」として考察しました)。
一般に相互に作用しあう要素の集合をシステムとよびます。要素から構成された全体は、個々の要素にはみられない特性をもっています。これを「創発特性」といいます。デュルケーム の「社会的事実」の概念はこの「創発特性」の内容をすでに示唆するものでした。ですから近代社会学はそのはじまりから社会システムを対象としていたのです。 しかし社会システム論が確かな理論のかたちをとるには、自然科学のシステム論のモデルの導入が必要でした。それらのモデルは、大きく分けて、 機械的均衡モデル、 有機体的ホメオスタシス・モデル、 サイバネティクス・モデル、 自己組織化モデルの四つの分けられます。

 機械的均衡モデル
最初のシステム論のモデルとなったのは、物理学の力学的均衡でした。これを経済学に導入したのが、パレートでした。かれは交換による財の分配において、他人の満足度を下げずには自分の満足度をあげることができないような分配の均衡点が存在することを明らかにしました。これを「パレート最適点」といいます。すなわち各人が自分の満足度を上げようとするとき、その力の均衡点が「パレート最適点」であるわけです。
 しかし社会政策的提言をするためには各人の満足度についての比較をせねばなりません。こうしてパレートは価値の問題から自由である経済学から価値をあつかう社会学へと移行します。そうしてかれは、合理的な利益追求からだけでは説明しきれない人間の要素である「残基」の概念を提起するのです。かれは、社会のシステムは、この 残基と 利益、それと 残基による行為を正当化する派生体、さらに、 人間の異質性の、四つ要素の相互作用によって形成される、としました。
 
 有機体的ホメオスタシスのモデル
機械的均衡モデルについで社会学に大きな影響をもたらしたのが、キャノンの「ホメオスタシス」の概念でした。かれは多細胞生物における体液をベルナールにしたがって「内的環境」とよび、この内的環境が正常な状態で維持される現象のことを「ホメオスタシス」とよんだのでした。
 キャノンのこの考えは、システムと環境との関係の着目し、システムが正常な状態を維持する仕組みをもっているという指摘することで、システム論におおきな転機をもたらしました。
 社会学者ホーマンズが『ヒューマン・グループ』で提示した社会システム論は、パレートの社会システム論を、このキャノンのシステム論の枠組みの中に置いたものといえます。 ホーマンズは、集団行動というシステムを、 活動、 相互作用、 感情、 規範、の諸要素の相互依存関係から成るものしました。集団は環境のなかにある有機的全体ないし社会システムです。かれは、環境によって決定されるシステムの部分を「対外体系」とよび、環境の影響から自由な内的発展をみせるシステムの部分を「対内体系」とよびました。 ホーマンズと同様に社会学において社会システム論を展開したのがパーソンズでした。 パーソンズが解決しようとした根本問題は、「ホッブズ問題」とよばれるものでした。これは、諸個人が功利的に行為する場合いかにして社会秩序は可能か、という問題でした。『社会体系論』においてこの問題は「ダブル・コンティンジェンシー(二重の条件依存性)」の問題へとおきかえられました。自我と他我の行為がお互いの行為のいかんに依存しているとき、どうしたら安定した相互行為がうまれるのか、というのがこの問題の内容でした。
この問題にたいしてパーソンズの出した解答は、共通の価値の受容、ということでした。共通の価値の受容は、 共通の価値の内面化と、 共通の価値の制度化によって支えられます。これは具体的には、 ’社会化と、 ’地位-役割体系の成立、を意味します。
地位-役割の体系は社会の構造を成しています。社会的な動き(過程)はこの構造を維持するように機能している(働いている)か、いないかによって測られることになります。こうした考え方を「構造-機能主義」といいます。
 『社会体系論』ではパーソンズはこの価値のありかたを5つの二者択一のかたちに整理し、それを「パターン変数」とよびました。すなわち、普遍主義/個別主義、業績本位/帰属本位、感情中立性/感情性、限定性/無限定性、集合体志向/自己志向、の5つです。 その後パーソンズは、社会システムが存続するためには、A適合、G目標設定、I統合、L潜在的パターンの維持と緊張緩和、の四つの機能をはたさなくてはならない、と考えるようになりました。これをAGIL図式といいます。社会はこの四つの機能ごとに分化していきます。分化した部分システムをつなぐのは、「シンボリック・メディア」とよばれる媒介です。具体的には、貨幣、権力、影響力、委託、がこれにあたるとパーソンズは考えました。
パーソンズは自分の社会システム論を積極的に展開していきました。しかしかれの社会システム論が支配的であったために、システム論におけるあらたな展開は社会学には十分にはつたわらなくなってしまいました。しかしそのあいだに他の社会科学では積極的にシステム論の導入が試まれていたのです。

 サイバネティクス・モデル
サイバネティクスとは応用数学者ウィナーによって提唱された制御理論です。主力の一部が入力にもどり、それによって出力が増大することを、ポジティブ・フィードバックといい、出力がおさえこまれることを、ネガティブ・フィードバックというます。サイバネティクス的システム論は、このネガティブ・フィードバックによってシステムの状態が一定に保たれることに着目するシステム論です。
 またサイバネティクスをシステム論に体系化したアシュビーは、システムが複雑に変化する環境にたいしてシステムが自己を維持するためには、環境のもつ多様性に打つ勝つだけの多様性をもたねばならない、という原理を提唱しました。これを「最小多様度の原理」といいます。
サイバネティクス・モデルはイーストンによって大胆に政治に適用されました。かれは政治を、支持と要求という入力と、政策という出力をもつシステムであるとし、たえず政策は支持と要求へとフィードバックされる、と考えました。
 また経営学では、組織の有効性はその環境との関係を問わなくては判断できない、というコンティンジェンシー理論がうまれてきました。この理論によれば、タテの関係が支配的で専門分化が進んだ「機械的組織」は、安定した環境と例外が少ない技術に適合的です。これに対し、ヨコの関係が支配的で専門分化がゆるやかな「有機的組織」は、不安的な環境と例外の多い技術に適合的です。トンプソンやウェイクといったコンティンジェンシー論者は、積極的にサイバネティクス・モデルを導入しました。
社会学においてサイバネティクス・モデルを導入したのはドイツの社会学者ルーマンでした。
ドイツ系の哲学的人間学では、人間は本能を失ったために、いかに行動すべきか、いかに環境を対応すべきかという不確定性に悩まされており、制度をつくることでこの負担からみずからを免除するのだ、と考えられてきました。ルーマンは、アシュビーの「最小多様度の原理」をこの「制度化による負担免除」の考えを通じて社会学に導入しました。社会システムは「意味」によって環境の多様性を減らしつつ、かつみずからの多様性を保持するのです。これをかれは 「意味」による「複雑性の縮減」と「複雑性の維持」とよんでいます。ルーマンは、この環境の多様性を減らすようにシステムはみずからの多様性を増大させる、という観点から、パーソンズの社会システム論を改めていったのでした。

 自己組織化モデル
サイバネティクス・システム論の構図は、形なき物質に出来合いのパターン(情報)を押しつけることで秩序を形成し、ネガティブ・フィードバックによって安定的に制御していく、というものでした。これにたいして、ゆらぎをはらんだ物質の広がりのなかからポジティブ・フィードバックを通じて自ずと秩序が形成されダイナミックに変容していく、という構図をもつ自己組織化システム論が生まれてきました。
 この転換の端緒となったのが、丸山が提唱した「セカンド・サイバネティクス」でした。「セカンド・サイバネティクス」とは、ポジティブ・フィードバックによる逸脱増幅的な相互因果過程(形態生成)をあつかうサイバネティクス論です。
 しかしこの自己組織化モデルには、アシュビーがすでに指摘した「純粋な自己組織化の論理的不可能性」という問題があります。プログラムするものとされるものが一致する限りあらたな組織化はありえず、そのためにはたえず外からあらたな指示と介入が必要とされる、というのがその内容でした。
この問題を解決するために、いままではシステムにとってじゃまなものとして切り捨てられてきた外からの撹乱要因(ノイズ)に注目する理論がでてきました。それが、フェルスターの「ノイズからの秩序」の理論であり、またアトランの「ノイズからの複雑性」の理論です。
 また自分で自分を産出していくという循環の輪こそ創造的な進化をもたらす、というマッラナ・バァレラのオートポエシス論も注目されています。
これらの理論の社会科学への導入はまだ過渡期の段階です。既存の再生産論などとの接合が期待されるところです。
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by takumi429 | 2005-02-04 15:34 | 社会システム論 | Comments(0)

社会システム論(1)

社会システム論(1)

 序 社会学の課題としての社会システム
近代社会学の始祖の一人である、エミール・ディルケ-ムは、1895年の『社会学的方法の基準』において、社会学の対象である「社会的事実」なるものを提言した。かれによれば、それは、個人の意識を超えた外在的なものであり、かつ個人の意識にたいして強制的な作用をもたらすものである。そしてこの社会的事実を説明するには、個人の心理に還元して説明してはならない。社会においては、個人と個人の結合により、あらたな「社会的事実」が生まれている、というのである。
 (かれはこの方法的基準にしたがって、『自殺論』において自殺率を扱い、それが個人意識には還元されない社会的事実であることをみごとに描き出している。またデュルケームの影響は言語学にもおよんでいる。スイスの言語学者フェルディナンド・ソシュールは、晩年おこなった講義において、まさに言語がこの「社会的事実」にほかならないことをあきらかにし、その共時的な構造を分析へと言語学をさしむけたのであった。彼の言語学は、構造主義をつうじて今日の思想におおきな影響をあたえている、)
一般に、システムとは相互に作用しあう要素たちの集合をいい、システム論はこの要素たち全体の関係をとらえようとする。その際、重要なことは、要素から構成された全体にはその要素たる部分にはみられない特性があらたにそなわっている、と考えられることである。このあらたにうまれた特性を「創発特性」とよぶ。
デュルケームの個人意識に還元されない社会的事実の特性とは、まさに社会がシステムとしてもつ「創発特性」を示唆したものにほかならない。近代社会学はその出発から、その中核にシステム論的発想を有していたのである。(さらにさかのぼってそれ以前の社会学の歴史もみるならば、すでにスペンサーにおいてシステム論的発想があったことを指摘すべきかもしれない)。
ただ初期においてはこうした社会システム論的な発想は、もっぱら有機体(生物)とのアナロジー(類推)によっておこなわれていた。この発想がより科学的な装いをまとうには、自然科学における成果を導入し、みずからを社会科学へと陶冶していかねばならなかったのである。われわれは、社会学およびそれに隣接する社会科学が導入・適用した自然科学のシステムのモデルをまず、 機械的均衡モデル、 有機体的ホメオスタティク・モデル、 サイバネティクス・モデル、 自己組織化モデル、の4つに分けよう。そしてこれとの関連から、これらのモデルの影響を受けたり、あるいはこれらのモデルを導入・適用した、社会学者や隣接の社会科学者の業績をみていくことにしよう。

  機械的均衡モデル
19世紀までの西洋科学にとって模範とされたのは、ニュートン(古典)力学の体系であった。1970年代経済学において展開した「限界革命」はその古典力学の方法、すなわち微分法の経済分析への全面的展開にほかならなかった。若き日に、「解析力学を最高の発達段階にまで引き上げた」とされるラグランジュの『解析力学』に感激し、後に経済学者となったパレートは、まさに力学的均衡として経済的交換の均衡(パレート均衡)を構想したのであった。かれは、力学から経済学、さらに経済学から社会学へと研究を広げ、その結果、経済学と社会学における社会システム論に多大な影響をおよぼした。そこでわれわれは、かれパレートの思索の内容とその展開をみてみることにしよう。

 (1)パレートの社会システム論([松嶋1984]参照) 
パレート(Vilfedo Federico Danaso Pareto 1848-1923)は、一般均衡理論および新厚生経済学の開拓者的地位をしめるイタリアの経済学者、社会学者である。かれの名を最も不朽ならしめたは、「パレート最適」なる理論の構築であった。
 その理論によれば、自由競争の市場で各人がそれぞれの持ち物(資源)を持ち寄り、自分にとってより満足度(効用)が高くなるように交換しあうならば、その交換による資源配分において、相手の満足度を下げずに自分の満足度をもうこれ以上は上げることができないという配分が存在する。こうした資源配分の状態を「パレート最適」という。各人が自分の満足度を最大にしようとするなら、交換はパレート最適の点における交換になる。つまり各人が満足度の最大をもとめる力の合成の結果として、交換がパレート最適の均衡点に落ち着くわけである。すなわちここでは経済的な均衡が力学的な均衡としてとらえられているわけである。
 パレートは、かれの経済学(およびそれによって説明されるパレート均衡)の客観性を、個人の主観(満足の価値づけ)の学問体系からの排除することによって達成したと信じた。かれは、この個人の満足度(効用)が量的に表される必要がなく、どっちが良いか、どっちでも良い(無差別)かさえわかれば、経済理論にとっては十分であることを明らかにした。もともと経済理論においては個人の満足度は個人の主観にゆだねられており、その個人にとってどっちも同じだけの満足度であることをしめす無差別曲線さえ得られれば、パレート最適の均衡が求められる。つまり経済学は各人の満足度が、いかなる目的・価値・感情から導き出されているかを問わないのである。それら目的・価値・感情は互いにきわめて異質なものである。経済学はただ満足度をもとめるという利害だけを問題とすることによって、みずからの価値中立性すなわち科学性を保持することができるのである。
 しかしパレート最適点はじつはひとつではない。無差別曲線どうしがふれあう点はすべてパレート最適点なのである。(その軌跡を契約曲線という)。では契約曲線上のどの点が最も望ましい点であろうか。すなわち資源配分のもっとも望ましいありかたはどれであろうか。しかし契約曲線上の点を比較しようとすると、交換する各人の満足度を比較する必要にせまられる。たとえばあるパレート最適点Aから別の最適点Bへ移動すると、X氏の満足度は上昇しY氏の満足度の低下する。その際、パレート最適点AよりBの方が望ましいと言うのには、X氏の満足度の上昇はY氏の満足度の低下より望ましいといういうことができなくてはならなくなる。要するに各人の満足度を比較し、価値判断する必要にせまられる。例えば、一部の金持ちが世の中の資源のほとんどを独占し、多くの貧乏人がわずかな資源の配分しか受けていない状態があるとしよう。そうした状態でも、資産家が文句を言わない限りにおいて貧乏人の満足度を最大にする分配の仕方、すなわちパレート最適点は存在する。こうした配分に仕方をやめて、平等な配分をしようとするなら、つまり金持ちの満足度が減っても、貧乏人の満足度が増えるならその方がが望ましい、との判断がなされなければならない。しかしそれは個人の満足度にたいしていかなる価値判断もしないという経済学からははずれることになる。政策的・実践的な提言のためには、効用の価値がふたたび問題とならざるをえない。パレートはこうした判断の学として「社会学」を構想する。
 こうした判断のために要請される概念が「社会のための効用」と「社会の効用」である。「社会のための効用」とは、本来別々で異質な個々人の満足度を、同質なものとして見なして、集計し、その増減から分配についての判断をするための概念である。たとえば、金持ちの満足度は減ったが、より多くの貧乏人の満足度が増したから、「社会のための効用」は増大し、分配の平等への移行は正当化される。これにたいして「社会の効用」とは社会を一つの「統一体」とみなし、個人の満足度とは異質の社会の満足度のことである。たとえば、社会主義下では平等な分配がなされているが、経済的な富(GNPなど)は、不平等な資本主義社会の方が大きい。ゆえに少々不平等でも資本主義的な分配の方が望ましい、とするならば、それは経済的な豊かさの享受を「社会の効用」とみなして、資本主義下の不平等を正当化していることになる。
 だがそこから、つぎのようないくつかの問題が生じる。すなわち、 この「統一体」としての社会とはどのようなものなのか。 個々人によって異なる効用を同質化したり、社会全体の効用というものを個々人に信じさせたりするのは誰であろうか、という問題である。
この解決策としてかんがえられたのが、かれの社会システム論とエリートの周流論にほかならない。
 まずかれの社会システム論をみてみよう。かれによれば、「統一体」としての社会は一つのシステムをなす。その要素は(a)残基、(b)利益、(c)派生体、(d)異質性であり、それらは相互に依存はしあっている。(a)残基とは、人間の行動を生み出す、理性外的、非論理的な感情、本能である。(b)利益とは、論理的行為である経済的行為の動因となる感情出ある。(c)派生体とは、残基によって引き起こされた行為を正当化、「論理化」するための理論、観念、理念などである。残基は派生体によって表現され、かつ推定される。最後に、(d)異質性とは、社会を構成する個人はそれぞれにその階級、階層、職種などによりもたらされるものである。個人はこれらの要因によりその満足のしかたも相互に異質なのである。かれによれば、この異質性は残基の社会的布置の違いとして説明される。かれはこの四つの要素の相互依存によって社会はひとつの「統一体」をなしていると考えた。(ここで注意しなくてはならないのは、パーレートが社会システムの要素として個人をあげていない点である。社会システムにとって、個人とはあくまでもシステム外的な要因なのである)。
 つぎにかれのエリート論をみてみよう。かれによれば、エリートこそ、異質な個人からなる社会において、人々に同一の効用(「社会のための効用」)、「社会(全体)の効用」を信じ込ませ、人々を統治する者たちなのである。そして社会を統治するエリートには二種類の人間類型がある。すなわち、社会革新をおこなう者と社会維持をおこなう者とである。それは交互に交替している。それをかれは「エリートの周流」とよぶ。この二類型は、残基のなかの、「結合の残基」(結合によって新たなものを作り出す本能)と「集合体維持の残基」(今あるものを守る本能)によって規定されるのである。
こうしてパレートは力学的=機械的な均衡のモデルから、変動をふくんだモデルへと移行した。それは社会変動をもたらす要素と社会安定をもたらす要素としてのエリートを構想することで、つぎにわれわれがみる、ホンメオスタック・モデルやサイバネティクス・モデルへとつらなる社会システムのモデルを提起したのであった。かれの影響は、あとでみるパーソンズの社会システム論や、とりわけホーマンズの社会システム論に色濃くみられる。

  有機体的ホメオスタティク・モデル
アメリカの生理学者キャノンW.B.Cannonは、その著作『からだの知恵』[Cannon 1932]で、「ホメオスタシス homeostasis」なる概念を提唱した。この言葉は、「等しい」・「同一」 を意味するhomeo と 「平衡状態」・「定常状態」を意味するstasisからつくられた合成語である。生物の生理系には、たとえば血液などの体液などには、みずからを正常な状態に維持しようとする現象がみられる。こうした現象をキャノンは「ホメオスタシス」と呼んだのである。フランスの生理学者C.ベルナール、(かれはデュルケームにも多大な影響をおよぼした)は、多細胞生物における体液を「内部環境」とよび、その恒常性の維持が多細胞生物の細胞にとってきわめて重要であることをすでに指摘し、内部環境の固定整を生物の独立生活の条件とみなしていた。キャノンはこの「内部環境」の概念をホメオスタシスという語で生体の一般原理として発展させたのであった。
 多細胞動物は、血液(体液)の性状(酸素、二酸化炭素、塩類、ブドウ糖、各種タンパク質などの濃度やpH、粘度、浸透圧、血圧など)を一定の範囲に保つ調整能力をもっている。また定温動物は、体温を調節する機構をもっている。このような調節は、一般に神経とホルモンによって行われ(神経性調節と液性調節)、中枢神経系の中に特別の調整中枢が存在する場合が多い。調整の機構はつぎのようにおこなわれる。まず特定の受容器で血液の物理的・科学的性状の変化を検知され、自律神経系や神経-内分泌系によって、定常状態に戻す方向の指令を発する。その結果、血液に生じた効果は再び中枢にフィードバックされて、指令が調整されるのである。ふつうこの調整には複数の神経やホルモンが関与することが多い。(たとえば、血糖濃度の恒常性維持の場合、インシュリンとアドレナリンという複数のホルモンが分泌される)。
キャノンは『からだの知恵』の「エピローグ」において、大胆にもこのホメオスタシスの考えが社会にも適用できるのではないかとしている。社会も生物と同様にその安定性を維持する原理が必要であり、社会組織の恒常性維持こそ自由の基盤であるという。また生物の体液にあたるものとして貨幣による流通をあげている。
キャノンのホメオステタシスの考えは、つぎにみるウィーナーの「サイバナティクス」に大きな影響を与えている。また外的環境の変動にたいする「内的環境」の恒常性の維持という構想は、機械的な均衡論が単にシステム内の均衡を問題としているのにたいして、外的環境との関係という、あらたにシステム論に視界を広げさせるものとなった。システムとその環境という図式のうえに、パレートの社会システム論をすえたのが、つぎにみるホーマンズの社会システム論であるといえよう。また社会の恒常性維持の重要性という発想はパーソンズの社会システム論にも色濃くみられるものである。さらに貨幣を社会システムの内的環境(体液)とみなし、各組織をつなぐものとして考えたのは、パーソンズの「シンボリック・メディア」(後述)の考えとあいつうずるものがあるといえよう。

(2)ホーマンズの社会システム論
ホーマンズ George Casper Homans(1910-)は、ハーバード大学の英文科を卒業の後、L.J.ヘンダーソン(Henderson)の主催するパレート研究会に参加し、社会学者としての道を歩みだした。彼の社会学上の主要な著作は、『ヒューマン・グループ』(1950)と『社会行動論』(1961)である。心理学的還元主義をとった『社会行動論』にたいして、前著『ヒューマン・グループ』はすぐれた社会システム論となっている。
 この『ヒューマン・グループ』において、ホーマンズはつぎのような作業仮説を提示した。
 (1) 集団行動は相互依存関係にある諸要素に分析される。その諸要素とは、 活動 activity(人びとの行う筋肉運動のすべて)、 相互作用 interraction(ある人が他の人の活動とかかわって刺激をうけること)、 感情 sentiment(人間の内的状態の総称)、 規範 norm(一定の状況下で若干の人びとに期待された行動を指し示す観念)の四つである。(なお 規範は行動からは直接観察できない)。
 (2) 集団は環境のなかに存続する有機的organic whole ないし社会体系social system として研究される。つまり、四つの要素は相互依存して社会体系を構成する。その体系の一部は環境によって決定される。この部分を彼は、対外体系external system と呼ぶ。
 (3)社会体系における要素間の相互依存関係は、時の経過につれて体系の進化evolution をもたらす。この内的発展をみせる部分を彼は、対内体系internal system と呼ぶ。
(4) その内体系は外体系に反作用して全社会体系total social system を形成する。
 ホーマンズはこの作業仮説にもとづき、五つの実地調査、すなわち ホーソーン工場の調査、 ホワイトの参与観察によるノートン街の不良団の調査、 フォースのポリネシアのチコピア島の家族の調査、 ニューイングランドのヒルタウンの社会史、 ある電気設備会社の組織についての調査、を理論的に分析し、そこから人間集団にかんする諸命題をひきだした。
 そこからもたらされた諸命題は12の主要命題とその下位命題からなっている。たとえば、  命題1:動機とそれにともなう活動とはともに持続し、両者ともたえず再形成されて  いるが、このいずれか一方の側に変化が起これば、他方もその影響を受けるであろう。  命題2:全体的活動の一部に参加する分業的活動が行われるところでは、これに関係  する人びとに間にコミュニケーション(相互作用)の図式が成り立っており、もし活  動の図式に変化があれば、一般に相互作用の図式も変化する。逆もまた真である。・・・といった具合である。
 さてこのホーマンズ・モデルの特徴と意義を考えてみよう。
 本質において、このモデルは機械的な均衡概念を中心としている。にもかかわらず、このモデルは、システムが現在均衡状態にあるかどうかを判定をする基準をもっていない。その意味でこのモデルは機械的均衡モデルの社会システム適応として位置づけられると同時に、その問題点をあらわにしている。このモデルでは社会変動はあくまでの均衡を基準点にしてとらえられている。
 しかしながら、この社会システム論は単なる機械的均衡モデルの適用を超えた側面ももっている。
 まずホーマンズは集団行動を、諸要素の相互依存関係からとらえた。しかもその要素は個人ではなく活動、相互作用、感情、規範である。なぜなら生物体としての人間は集団行動にとってその環境に属するものだからである。これはパレートの社会システム論と基本的に同じである。だがホーマンズの社会システム論では、集団の「対内システム」は環境との関係である「対外システム」から影響を受ける。そればかりか、「対内システム」から「対外システム」および全システムへのフィード・バックさえ指摘されている。つまりホーマンズの社会システムは環境へと開かれているのである。(そこにはキャノンの影響がみられると同時に、マルクス主義的史的唯物論への対抗意識がみられるようにおもわれる)。ともかくその意味でパレートのモデルを超えた面をもっている。
さらにかれの社会システムは、その均衡概念にもかかわらず、構造生成を着目している点が注目されてよい。つまり変動論へ開かれたシステム論なのである。つぎにみるパーソンズに比べて、ホーマンズではシステムの外部環境がはっきりと意識されかつ理論化されいる。またパーソンズのように「社会の存続」のための機能といった機能主義的説明をとっていない。
こうしてホーマンズの社会システム論においては、均衡論を出発点としながらも、社会の変動と生成へと開かれた社会システム論への可能性がはらまれていた。しかしこの可能性はホーマンズにおいてもアメリカ社会学においても十分展開されなかった。
 その理由はおそらく二つあろう。ひとつには、1950年代から60年代にかけて、要素還元的な思考法による均衡概念をその中心におく新古典主義の経済学が、北米においてめざましい隆盛をほこり、経済学はもっとも成功した社会科学として他の社会科学がめざすべき規範とされたという事情がある。ホーマンズの心理還元主義的な『社会行動論』はこの事情なくしては考えられない。
 もうひとつは、アメリカにおいておなじく1950年代から60年代にかけて規範となったのが、パーソンズの社会システム論およびその構造-機能主義であったという事情である。パーソンズの社会システム論は、自然科学のシステム論の適用といったものではなく、きわめて自生的なものである。それは「ホッブス的問題」(後述)と呼ばれる社会科学固有の問題にたいする答えとして展開していった。その意味でそのことはきわめて称賛にあたいすることである。しかしながらパーソンズの社会システム論の影響があまりに巨大だったため、自然科学のシステム論におけるキャノン以降の展開は、社会学には十分には伝わらなくなってしまった。つまりことシステム論に関しては社会学における学際性は、(かれの学際的な行動科学への貢献という外見とはうらはらに)、パーソンズによってきわめて風通しの悪いものになってしまったのである。たとえば、あとでもみるのだが、パーソンズは自己の体系に固執するあまり、サイバネテックス・モデルを受容しそこなっており、そのことも社会学者のサイバネティクス・モデルの理解を混濁させる原因となっているのである。
 そこで、われわれは良きにつけ悪しきつけ、社会学のおける社会システム論のイメージを決定してきた、パーソンズの社会システム論をつぎにみてみることにしよう。
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by takumi429 | 2005-02-03 15:39 | 社会システム論 | Comments(0)

社会システム論(1)(続き)

(3)-1 パーソンズの社会システム論
パーソンズ Talcott Parsons (1902-79) の社会システム論はその名もずばり『社会学体系』The Social System (1951)という著作においてまず展開された。われわれはまずこの作品からみていくことにしよう。
パーソンズのこの難解な大著を理解するための鍵はその献辞にある。そこにはこうある。  ヘレンに捧ぐ
  彼女の健全で実際的な経験主義は、これまで長いあいだ、不治の理論病患者のための  是非とも必要な平衡論であった。」
 この献辞から読み取れることはつぎのことである。まずここでは、夫と妻との関係が、すなわち二者関係 (dyad)がとりあげられていること。つぎに、理論病患者たる夫(パーソンズ)のかたよりは経験主義者たる妻(ヘレン)によってバランスがとられている、すなわち、この二者関係には相補関係による平衡=均衡 equilibrium(つりあい)が保たれているということである。またさらに読み込めば、両者は夫としての役割と妻としての役割をたがいにはたしており、両者の相互関係は役割として結晶化・安定化しているのである。先取りしていえばここには、バランスのとれた役割の相補関係から社会とらえていこうとする、パーソンズの志向が現れているのである。
 ところでこの『社会体系論』が解決しようとした問題(課題)は何であったのだろうか。 それが有名な「ホッブズ問題」とよばれるものである。この問題をパーソンズは『社会的行為の構造』(Parsons 1937)で提示している。「ホッブズ問題」とは、「諸個人が功利的に行為する場合、いかにして社会秩序は可能か?」という問題である。パーソンズによれば、トマス・ホッブズはこの問題は諸個人が社会契約することで解決するとした。しかしパーソンズはこれを功利(合理)概念の過大な拡張であり、実際には解決できていないとした。
 『社会体系論』においては「ホッブズ問題」は「ダブル・コンティンジェンシー(二重の条件依存性)」の問題へとおきかえられている。その「ダブル・コンティンジェンシー」とは、自己と他我(相手)の欲求の充足がそれぞれ相手の行為に依存するのだが、この相手の行為がこちらの行為のいかんに依存していること、を意味する。こうして社会秩序の問題は、二者関係における相互行為の安定性条件の問題へとうつしかえられる。
 この問題に対してパーソンズが提示した解決は、共通の価値の受容ということであった。すでにみたようにパレートにおいては、財の分配をめぐる闘争、すなわち契約線の上のどこのパレート均衡点を選ぶか、という問題は、エリートが大衆に特定の分配状況を「正しいもの」と信じこませること、つまり「派生体」(正当化の論理)のはたらきによって解決された。パーソンズの場合、パレートの「派生体」は共通の価値におきかえられているのである。
 共通の価値の受容は二つの面をもつ。ひとつは、 共通の価値の内面化であり、もうひとつは、 共通の価値の制度化である。では価値受容が具体的にはどのようなものとなるかというところで、パーソンズはアメリカ人類学が生んだ役割理論を採用する。「ダブル・コンティンジェンシー」における不安定性は、具体的には両者のあいだで一定の役割期待の相補性が成立することによって解消される。それは、 ’役割を演ずるべく人が動機づけられること、すなわち「社会化」と、 ’役割-地位の体系として社会が形成されるということ、から成立する。
 では行為を方向づける価値のパターンにはどんなものがあるのか。パーソンズはこの価値のパターンを、5つの二者択一のかたちに整理し、それを「パターン変数」と呼んだのである。すなわち、普遍主義/個別主義(どんなものに対しても同じか/特定のものにだけか)、業績本位/帰属本位(業績によるか/生まれによるか)、感情中立性/感情性(感情をおさえるか/感情をこめるか)、限定性/無限定性(相手の特定の側面に反応するか/多くの側面に反応するか)、集合体志向/自己志向(みんな(集団)のことを考えるか/自分を利害関心を優先するか)、の5つである。
 『社会体系』のおいてもっとも有名となったのは、このパターン変数の考えである。パーソンズはこのパターン変数を第 章「社会構造と動態的過程--近代医療の事例」で医師-病人の関係において適用している。しかしじつはむしろこの医師-病人関係を理解するために、テンニースのゲマイシャフト-ゲゼルシャフトの図式を修正・解体することで、このパターン変数は得られた。その際パーソンズに重要な影響をあたえたのが、L.J.ヘンダーソンの「社会システムとしての医者と患者」という論文[Henderson1935]であった。
 医師・生理学者であったヘンダーソンはパレート研究会を主催し、さらに『パレートの一般社会学』という著作も書いている。そのかれがパレートの残基の考えを医師-病人関係に適用したのが、この論文であった。その内容をみてみよう。
 ヘンダーソンによれば、医学は応用自然科学であるが、医師と患者との関係は人間関係の学を用いるべきである。人間は感情をもつ。医師と患者はひとつの社会システムをなしており、そこでは感情とその相互関係が最も重要である。患者はおそれなどの感情に動かされている。医師は患者の感情に動かされることなく、患者の感情に働きかけなくてはならない。医師は、精神分析理論の助けも借りて、患者の言うこと、言わないこと、言えないことを聞こうと努めなくてはならない。患者の感情を知り、患者をはげまさなくてはいけない。自然科学のように、真実をそのまま述べることは、患者に対しては望ましくない。たとえば「これはガンである」などと真実をありのまま宣告することはのぞましくない。医師は、患者に、医師は患者の幸福 welfare を願っているのだという信念を呼び起こさ
なくてならない、というのである。
 医師と患者とのあいだには、たんなる利害をこえたものがある。そしてそれが両者の関係を潤滑に運ばせるものなのである。パーソンズはそれを、患者が医師を父親と同一視する過程(それは同時に治療の過程でもある)と、両者の行為を方向づける価値のパターンの受容であるとみた。癒す者と癒される者は、特定の価値のパターンをうけいれ、たがいに相補的な期待をいだくことによって、医師と病人との安定した役割の関係を形成するのである。
『社会体系論』では、このパターン変数をめぐる細かな(病的ともいえる)議論がなされる。それと対照的に、社会構造についての記述はまだ抽象的なレベルにとどまっている。(そのくどさという点ではどちらもいい勝負ではあるが)。
 ここではパーソンズは、ラドクリフ=ブラウンの構造-機能主義[Radcliffe-Brown1952]をほぼそのまま踏襲して、それを前提にして議論をすすめている。すなわち、社会構造は地位を単位として構成され、地位にはそれにふさわしい役割があるとするのである。(ただしラドクリフ=ブラウンの場合は社会構造の単位をそのまま人間としているに対して、パーソンズの場合は、地位ー役割が単位となっている)。社会体系がおける過程がこの構造の維持にとって有益な場合、それは「機能」しているとみなされるのである。
さて『社会体系論』の内容はこのくらいにして、づぎにこの著作の問題点をみてみよう。
まずパーソンズははたしてかれのいう「ホッブス問題」の解決に成功したのか、という問題がある。これにたいしては、D.ロングの有名な批判がある(Wrong 1961)。かれは言う。パーソンズらは共通価値を内面化する過程(社会化)を、フロイドの「超自我」(規範の内面化されたもの)と結び付けている。しかし、フロイドにおいては「超自我」は、自我とイド(欲望)との三者関係のおいて位置づけられており、人間は完全には社会化され尽くされ得ないというところにこそ、この概念の眼目があったのである。それにパーソンズらのように社会化された人間観からは、およそホッブズ問題のもつ現実性は失われてしまう。また人は他者の承認をかちとることでよき自己像を達成しようするというのは、一面的な人間観である。こうした過剰に社会化された人間観は、過剰に統合された社会観の裏返しなのである。社会学者はご都合主義のおわつらえむきの人間の概念ではなく、もっとも複雑で弁証法的な人間の概念を作り上げていくべきである、と。
 まことにもっともな批判である。パーソンズはコント以来の社会秩序の再建という社会学固有の問題にあまりに性急に答えようとしたため、ダーレンドルフが指摘するように、かえって非現実的なユートピア的な静止した世界をつくりあげてしまったのである。
これに関連して、パーソンズはこの『社会体系論』で「社会過程の第一法則」なる法則を提唱している。すなわち、役割期待の相補性の維持はひとたび確立されると、その後問題化されることなく、相互行為過程を維持する傾向がある、いうのである。いわば社会の慣性の法則とでもいうべきものを提唱しているのである。
 これにたいしてはすぐさまつぎのような批判が生まれよう。この法則は、まず役割遂行をする成員を社会化する際に生じる逸脱の可能性を無視している。さらにある社会体系とその環境との関係(たとえば医師-病人の関係にたいする他の社会事情、および医療技術の進歩、他の医療スタッフとの関係などの影響)も無視している。
 こうした問題点は結局、パーソンズの社会体系論のつぎのような根本的問題へと帰するといえる。パーソンズの社会システム論とは、行為者が共通の価値のパターンを受け容れることで、相補的な(均衡状態にある)役割関係が成立し、役割-地位の体系としての社会が形成される、ということであった。つまりパーソンズ社会体系論の根本的な問題とは、かれの体系論が生物学的な構造-機能(ホメオスタシス)モデルと機械(均衡)モデルの融合によって作られており、実質的には孤立システムにおける均衡概念を用いている点にあるのである。
パーソンズはその後社会構造について理論的内容を充実させるとともに、社会進化論について語ることでこの欠陥を埋めようと努力した。それにたいする評価は(3)-2で述べることとしよう。
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by takumi429 | 2005-02-03 05:41 | 社会システム論 | Comments(0)

社会システム論(2)

  サイバネティクス・モデル
サイバネティクスは、アメリカの応用数学者ウィナーNorbert Wiener(1894-1964)によって提唱され、シャノン Claude E.Shannon (1916-) の情報理論をとりいれて、医学・生理学者のアシュビ- William R.Ashby (1903-)によってシステム論として体系化された。(以下の記述はおもにアシュビ-の定式化[1967a]にしたがう)。
サイバネティクスははじめ制御理論として構想された。この理論では、システムは環境から入ってくるもの(入力)を変換して環境へとはきだす(出力)ところの変換装置(機械)=暗箱(ブラック・ボックス)とみなされる。
 中心となる概念は「フィードバック」の概念である。「フィードバック」とは、出力(結果)にふくまれる情報が入力(原因)に反映されて、それによってまた出力(原因)が左右されること、を意味する。「フィードバック」には、「ポジティヴ(正の)・フィードバック」と「ネガティヴ(負の)・フィードバック」がある。ポジティヴ・フィードバックとは、出力の一部が入力側にもどり、それによって出力が増大する、フィードバックのことである。ネガティヴ・フィードバックとは、出力の一部が入力側にもとり、それによって出力が押さえ込まれる、フィードバックのことである。
ポジティヴ・フィードバックの例としては、ターボ・エンジンを考えてみればよいであろう。ターボチャージャー付きのエンジンでは、エンジンから吐き出された排気ガスがガスタービンを回し、その力で過度の空気を吸入することで、エンジンの回転がさらに高くなっていく。
だが制御理論であるサイバネティクスが重視するのは、むしろネガティヴ・フィードバックのほうである。簡単な例としては、こたつなどに用いられるサーモスタット装置があげられよう。いまこたつを一定の温度になるようサーモスタットを調節しておく。外気の寒さで温度が下がると、サーモスタットは発熱体のスイッチをオンにする。温度が上がり過ぎると、こんどはサーモスタットは発熱体のスイッチをオフにする。こうしてこたつの温度はほぼ一定の範囲のあいだに保たれるのである。
 サイバネティクス的システム論とは、このネガティヴ・フィードバックによって、システムの状態が一定に保たれることに注目するシステム論なのである。
いま例としてこのシステム論を社会システムに単純に応用してみよう。たとえば、逸脱行動によって社会システムの均衡が危うくなったとする。するとそれに対してサンクション(罰)が与えられ、その逸脱行動をおさえこまれ、社会システムの安定を維持する。あるいは、病人(健康からの逸脱)に対して、治療があたえられることで健康人にもどされ、その結果、健康な社会が維持される、といった具合である。(パーソンズの逸脱論・医療社会学にもこうしたネガティヴ・フィードバックの考えをみてとることもできよう)。
このネガティヴ・フィードバックによる制御の考えは、アシュビィの「最小多様度の原理」によってより洗練され、かつ影響力の強いものとなった。「最小多様度の原理」とは、システムが複雑に変化する環境にたいしてシステム境界を維持しうるためには、システム制御の多様性を増大させなければならない、という考えをいう。つまり、制御の多様度だけが、環境からの外乱(ノイズ)の多様度を引き下げることができるというのである。
 これをエアー・コンディショナー(エアコン)を例にして説明してみよう。
 いま、温度を一定に保つ装置によって、あの部屋が、外界(環境)から守られている、すなわちシステムの境界が維持されているとしよう。
 この装置がおこなえるのは暖房だけだとする。温度は20度に設定してあるとする。季節は冬だとしよう。外界の温度は、つねに20度未満であるか、もしくは<20度/20度未満>であり、それゆえ外界温度の多様度は1ないし2である。それに対抗する保温装置の多様性は、<20未満なら発熱する/20度以上なら発熱しない>、の2つである。それゆえこの装置によって、室内の温度システムは、外界の変化に打ち勝ち、この装置によって設定した温度(20度)は守ることができる。
 しかし、さらに一年中のことを考えてみよう。その場合、外界のとる温度は、<20度未満/20度ちょうど/20度より高い>、であり、多様度は3つである。しかしそれに対抗するシステムの多様度はあいかわらず、<20未満なら作動して発熱/20度以上なら作動しない>、の2つであるから、保温装置は環境の変化(多様度)に打ち勝つことができず、結果として、室内(システム)には、<20度ちょうど/20度より高い>、という変化(多様度)がもたらされてしまう。
 もしこの外界(環境)の変化(多様度)に打ち勝とうとするなら、<20度より高温なら冷房する/20度以下なら冷房しない>という、新たな多様度を加える、すなわち冷房装置をつけ加えなくてはならないというわけである。
 こうしてシステムがその境界を維持するためには、環境の多様度と同じだけの多様度をもたなくてはならないのである。
この「最小多様度の原理」の考えは社会システム論にきわめておおきな影響をあたえた。とりわけ、社会の進化を、環境の多様性に対抗すべく社会がその多様性を増大させていくことととらえる、社会進化論をうみだした。(ベラーやルーマンなど)。
だがこの理論のもつ意義はそれにとどまらない。さきにあげたエアコンの例にもう一度もどってみよう。
 ここでは外界の多様度は、<20度未満/20度ちょうど/20度より高い>、の3つであった。しかしこの多様度は、室温を20度に保とうというシステムの働きによってもたらされた。もしこのエアコンが温度調節をより安定したものにしようと、たとえば、<10度未満/10度以上~20度未満/20度ちょうど/20度より高い~30度未満/30度以上>、によってそれぞれ、<強暖房/弱暖房/停止/弱冷房/強冷房>、5の多様度をもつとしたらどうだろう。環境の多様度はそれによって、おなじく<10度未満/10度以上~20度未満/20度ちょうど/20度より高い~30度未満/30度以上>、の5つとなるであろう。
 つまり環境の多様度は環境が決定しているのではなく、システムが感知する多様度によって決定されているのである。環境の多様度に追いつくべくシステムが多様度を増すのではなく、じつはシステムの多様度の増加によって環境の多様度も増加するのである。連続的な混沌(カオス)たる環境から多様度を導き出すのは、システムが環境に投げ込む差異の網の目なのである。このきわめてカント的構図においては、システムが認識する差異(多様性)は、システム自身の差異(多様性)にほかならないのである。こうしてシステム論は、環境とシステムという構造から、自己回帰的(自己言及的)な構図へと転換していくことになるのである。
 だがこうしたあらたなシステム論の展開にはいるまえに、このサイバネティクス的システム論の問題点をみておこう。
 サイバネティクス的システム論では、システムのまもるべき状態(目的)はあくまでもシステムの外から設定されるものであった。すなわち、サイバネティクス的システム論は、あくまでも自動制御機械のイメージに依拠している。だから、みずから成長したり進化したりする生物には適用しがたい。同様にこれを人間社会に適用する場合も、目的のはっきりした組織、例えば職場組織、官僚制などの一面をとらえることはできるが、自分で自分の目的を設定したり、変更したりしていく集団はとらえられない。
 このことをはっきりさせたのが、アシュビーの「純粋な自己組織化の論理的不可能性」[1967b]である。自己組織化とは、システムが自分自身の組織を形成し、変化させていくことをいう。サイバネティクス・モデルでは、プログラムするものとされるものが一致することはできない。だがらつねにSというシステム(機械)にαという機械が付け加えられねばならないのである。つまり、サイバネティクス・モデルに従う限り、自己組織的なシステム(生物や社会がその典型例)については語り得ないことになってしまうのである。
 システム論のその後の展開は、まさにこの「純粋な自己組織化の論理的不可能性」をどうこえるか、ということにかかっていた。だがそれについて述べる前に、サイバネティクス・モデルをが、社会学やその隣接学問にいかなる影響をあたえたかみていくことにしよう。

 (3)-2 パーソンズ理論の展開
『社会体系論』の後もパーソンズは積極的に自己の理論を発展・展開させた。それはあくまでも自生的な展開であり、サイバネティクス・モデルの適用とはいえないが、あえてここで取り扱うこととしよう。
 パーソンズ理論の展開において欠くことができないのが、「AGIL図式」とよばれるものである。
 ロバート・ベイルズの小集団研究において、小集団の課題解決するためにおこなう行動の分析をおこなった。それによれば、集団は、適応・道具的活動・統合・表出の四つの機能を果たさねばならないとされた。
 パーソンズはこの四つの機能は、あらゆる行為のシステム(個人の行為のシステムから大きな社会システムにいたるまで)にあてはまると考えた。つまり、あらゆる行為システム(秩序のもとで組織だてられた行為)は、それが存続するためには、づぎの四つのことを果たさねばならない。すなわち、
 適合(adaptation:A):適応によって、環境から充分な資源を確保し、これをシステ  ム全体に配分する。
 目標設定(goal attainment:G):システムの目標達成のために資源やエネルギーを  動員し、また、それらの間の優先順位を確立する。
 統合(integration:I):システムが機能するように、そのなかのさまざまな行為者  や構成単位の間の関係を結合させ、調整し、統合する。
 潜在的パターンの維持と緊張解消(latency:L):システム内の相互作用が中断して  いる間にも諸単位内にパターン行動のポテンシャルを維持する。すなわち内部の緊張  を処理しつつ、価値のパターンを維持し、システム内の行為者の動機づけをする。
だから、行為システムの一つである社会システムもそれが存続するためには、かならず以上の四つのことをしなくてはならない、というわけである。
具体的な社会はこのAGIL図式の四つの機能をおもに果たすつぎ4つの領域に分類された。A経済・G政治・I社会共同体・L社会化(教育・家族・宗教)、である。
 さらに社会の下位体系である、経済・政治・社会共同体・社会化は、それぞれインプット・アウトプット(入力-出力)をもち、それを相互に交換するネットワークを成している、とパーソンズは考えた。その交換のために必要とされたのが、つぎの4つの象徴的媒介(シンボリック・メディア)である。
  経済が他の体系に対してそれを機能させ、その成果を受け取り、かつ自らの成果を他の体系に渡す媒介が、「貨幣」である。
  同様に、政治が他の体系に働きかけかつ自ら機能するために媒介は、「権力」(power)である。すなわち、権力とは、意図された目的に到達するために社会的資源が動員されるように、社会の行為者たちを集合的目的によって彼らに課せられた責務を遂行するように強制する能力である。
  統治の体系すなわち社会共同体が通用させている媒介は、「影響力」(influence)である。すなわち、影響力とは説得の実行による同意、賛意、忠誠心を得る能力である。
  社会化の体系が通用させているのは、価値と規範への「委託」(commitments)である。すなわち委託とは、行為者が特定の文化の一定の規範と価値へとみずからをゆだねていることである。
 ところでサイバネティクス・モデルの影響を、パーソンズはあくまでも自己の枠組みで受容しようとした。その結果かんがえられたのが、「サイバネティック・ヒエラルヒー」という考えである。パーソンズはサイバネティクス・モデルは、情報によるエネルギーの制御であると解した。そしてAGILを、情報としての性格が高いものから低いものへならべてできるのを、「制御のヒエラルヒー」と名付けた。「制御のヒエラルヒー」は、Lパタ-ン維持→I統合→G目標達成→A適応、となる。反対にエネルギーといての性格が高いものからならべたのを、「条件のヒエラルヒー」と名付けた。「条件のヒエラルヒー」は、A適応→G目標達成→I統合→Lパターン維持、となる。情報による制御と、エネルギーによる条件づけとが、互いに相対して作用するというわけである。
 言うまでもなく、このサイバネティクス・モデルの理解は、環境からのフィード・バックが発想の中心となっているサイバネティックス・モデルの正しい適用とは言いがたいものである。パーソンズにおいては、システムと環境との関係が十分にとらえられていないと言わざるをえない。
パーソンズがこうしてサイバネティクス・モデルを受容しそこなっているのにたいして、その弟子であるベラー Robert N.Bellah(1927-) は、宗教社会学という範囲ではあるが、積極的にサイバネティクス・モデルを採用している。
 「宗教の進化」[ベラー1973.第二章]という論文で、ベラーは、「進化」を「有機体、社会体系、あるいは問題となっているどのような単位にもより大きな環境適用能力を付与するような組織の分化と複雑性の増大する過程」と定義し、「それによって、単位はある意味でふくざつでなかった前の状態よりもその環境との関係でより自律的となる」とした。これはまさに、システムの多様性が増すことで環境の多様性に打ち勝ち、より自律的・安定的な環境適合ができる、という「最小多様度の原理」を、進化論へ応用したものにほかならない。ベラーはこの理論にもとづいて、象徴体系としての宗教の進化を論じたのであった。(ベラー1973)
ベラーのたくみな社会進化論に比して、パーソンズの社会進化論はそのサイバネティクス・モデルの理解の不十分さにより、われわれからみると、ずいぶんごたついたものとなっていまっている。
こうしたパーソンズの欠陥を是正し、サイバネティクス・モデルとりわけ「最小多様度の原理」を大胆を社会学に導入したが、ドイツの社会学者ニコラス・ルーマンである。だがじつはサイバネティクス・モデルの導入は他の社会科学においてむしろ先駆けられていた。そこで他の社会科学におけるサイバネティクス・モデルの導入を、ルーマンのまえに、あつかうことにしよう。
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by takumi429 | 2005-02-02 15:45 | 社会システム論 | Comments(0)

社会システム論(2)(続き)


 (4) 政治学のおけるシステム論
サイバネティクス・モデルは政治学においても有望視されていたが、それをあきれるほど単純かつ大胆に適用したのが、カナダの政治学者イーストン David Easton (1917-)であった。
 かれは、まず政治を政治システムという、入力を出力へと変換するボックスとしてとらえた。そしてこの政治システムというボックスへの入力は、「支持」と「要求」のふたつである。また政治システムからの出力は「政策」である。ある政策がうまくいくなら、それは大衆やまわりの国際環境などの環境からの「支持」をとりつけることができよう。しかしその政策がうまくなければ、政策を改めたり、別の政策をするように、まわりからの「要求」が政治システムにたいしておこなわれるであろう。こうして政治システムがおこなう政策が環境からのフィードバックによって制御されるわけである。
イーストンの単純なモデルは、さらに他の政治学者によって精緻なものにされた。([山川1986]参照)。
 ドイッチュKarl W. Deutsch(1920-) は、政治システムをさらに、情報入力にかかわる構造と情報を政策に変換する機能にかかわる構造(記憶・計算・決定)と政策出力を遂行する構造とにわけた。またアーモンド Gabriel A.Almond (1911-) は、政治システムを「入力客体」(入力にかかわる政治体系)と「出力客体」(出力にかかわる政治体系)とに分けた。入力客体は、利益の表出・利益の総合・政治的通信・政治的社会化と補充をおこなう。出力客体は、ルールの作成・ルールの適用・ルールの裁定をおこなう。
 またイーストンのモデルは、山川雄巳によって政治変動論にも応用されている。かれによれば、政治システムに対する要求(入力)の増大に政治システムが政策出力によって応えられるなら、その政治システムは「安定的定常体系」と呼び得る。しかし政策出力がそれに対応できなくなったら政治システムは安定を失い、政治体制は変化する。つまりかれの政治システムの進化論は、入力と出力のバランスによる変動論なのである。かれは、「安定的定常体系」、すなわち入力と出力のバランスが取れている政治システムの類型として、 権威主義的入力制御体系(日本の幕藩体制、入力を極めて制限)、 自由主義的入力制御体系(18-9世紀のイギリス自由主義政府、市民の参加により入力は増大、しかし政策出力に期待は小さい政府、すなわち夜警国家)、 職能国家的入力制御体系(現代の北欧諸国、政策出力は多様かつ高い)、の三つをあげている(山川1958)。
こうしてサイバネティクス・モデルは大胆に政治学の理論へ導入された。政治学とならんで経営学においてもサイバネティクス・モデルの影響は大である。つぎにその経営学におけるシステム論の展開をみてみよう。

 (5) 経営学におけるシステム論([野中1974]参照)
経営学におけるシステム論は、およそ組織をたんなる目的遂行のための機械ととらえる「機械モデル」から、人間関係を重視し組織を協働によるシステムとしてとらえる「クローズド・システム論」へ、さらに組織と環境との関係を重視する「オープン・システム論」 へと発展してきた。
 機械モデルの典型は、ヴェーバーの官僚制論である。ヴェーバーによれば、官僚制は、つぎのような原則と特徴をもつ。 抽象的一般的な規則に基づく職務の遂行という原則。 職務は機能的に専門分化している。 職務活動のためには特殊な専門訓練と教育とが必要である。 職務上の人間関係は没人格的である。 権限ヒエラルヒーの明確化。単一支配の原則と、それに基づく命令服従の関係は、規則に基づき機能的に限定的である。 職務遂行者と職務遂行のために手段とは分離している。 文書を媒介にする職務遂行。
ヴェーバーによれば、官僚制:最も合理的・効率的な組織で、あらゆる合理的な経営において不可避となる組織である。
 ヴェーバーの官僚制論にたいしては多くの批判がある。最も有名なものは、マートンの批判である。かれは官僚制のもつつぎのような逆機能を指摘した。 規則の絶対化・神聖化による組織の硬直性。 規則厳守による臆病・保守性・技術主義。 組織の顧客や管理者よりも自らの集団の利益を守ろうとする。 非人格化によって、パーソナルな問題、緊急の問題に対応できない。 組織全体の権力・威光をかさに着た職員が顧客中心のサービスを忘れる。 本来非人格的な関係であるべきものに人格的な関係が入り込むと汚職、えこひいき、ごきげんとりなどの予期しない結果をもたらす。
ただここでヴェーバーの弁解をしておくなら、かれは官僚制の逆機能を知らなかったわけではなく、そうして官僚制の弊害、および官僚精神の腐敗を、『儒教と道教』で徹底的に暴露しているのである。そこでは組織の目的を忘れて保身とそのための人間関係の調節に汲々とする家産官僚の姿が描かれている。しかもかれはこの記述をけっして自分に無縁なものとして書いたのではなく、むしろおなじくプロイセン王をいだく家産国家であったドイツ帝国の官僚制批判として書いたのである。
 ただかれが理念型的には官僚制組織を目的遂行のための機械ととらえていたことに変わりない。かれは近代的な法行政の組織を、罪状を入れれば刑期が出て来る自動機械とみなしており、そこに近代の計算可能性の根拠をみていた。こうした目的-手段的合理性による機械のモデルを組織に単純に適用したところに、かれの近代にたいする過剰に悲観主義的な時代判断の一因があった。(目的-手段的合理性を組織に単純に適用することにたいする批判としてはLuhmann 1969を参照)。
こうした機械モデルからクローズド(閉じた)・システム論への移行は、「人間関係論」からはじまった。有名なホーソーン工場での実験(1924~32)により、作業能率・生産性が、物理的条件や作業方法によって一義的に作用されるのではなく、労働者に人間関係、とりわけ非公式の人間関係(インフォーマル・グループ)によって左右されることが発見された。このインフォーマル・グループの発見により、組織はたんなる機械としてとらえられのではなく、その内部に多様な人間関係をもつ相互関係的システムとしてとらえられるようになったのである。
 こうした観点をさらに押し進めたのが、バーナード Chester I.Barnard(1886-1961)にはじまる「近代組織理論」であった。バナードは、人間が個人として達成できないことを、他の人々との協働によって達成しようとしたときに組織が生まれるとし、そうした組織を「協働システム」と呼んで、組織の一般理論を構想したのであった。
 さらにサイモンHerbert A.Simon(1916-)は、「意志決定」の概念によって組織論を構想した。かれによれば、 人間はアリ(蟻)同様にきわめて単純な行動システムであり、その認知能力には限界がある、 それゆえ人間の意志決定decision making は、合理性を志向しながらも経済学で使用する極大化基準というよりは、満足化基準に準拠せざるをえない、 その範囲で最大の合理性を確保するために組織構造(階層的システム)を構築し、組織内情報処理を単純化することによって個人の認知能力を克服するのである。そして、組織の成功は、参加する個人にあたえる誘因(金銭的報酬、自己実現チャンス、所属感など)と引き換えに個人からの貢献(協働)をバランスよく巧みに引き出せるかにかかっており、組織はこのバランスを常に保つべく活動する、という「誘因-貢献バランス論」を提唱した。
こうして経営学は組織のシステム論とのしての充実度を深めていったのであるが、そこでは組織のまわりの環境が十分考慮されることなく、すぐれた組織のありかたとはなにかが探求されいた。すなわち組織はまだクローズド(閉じた)・システムとしてとらえられがちであった。それにたいして、あくまでも組織の優劣はあくまでもそれが直面する環境によってことなるとすることで、組織論を環境にひらかれたオープン・システムとしてみる観点を呈示したのが、コンティンジェンシー理論(contingency theory)であった。
 コンティンジェンシー理論の基本認識は、組織が直面する状況が異なれば、それに応じて有効な組織化の方法も異なる、というものである。
 たとえば、バーンズとストーカーは組織のありかたを、「機械的システム」と「有機的システム」という二つの類型に分けている。この2類型はつぎのような対概念である。
 機械的システムは、 専門化・分化が高く、 標準化が高い。 成員は組織を手段とみなしている。 コンフリクトの解消は上司の介入による。 権限、コントロール、コミュニケーションのパターンは、暗黙の契約関係にもとづくピラミッド型をとる。 支配的な権限は、組織のトップにある。 相互作用は、垂直的である、 コミュニケーションの内容は、もっぱら指示・命令である。 メンバーの忠誠は組織に向けられている。 権威は組織の地位からもたらされる。
 これにたいして、有機的システムは、 専門化・分化が低く、 標準化が低い。 成員は組織を目的とみなしている。 コンフリクトは相互作用によって解消されている。 権限、コントロール、コミュニケーションのパターンは、共通のコミットメントにもとづいた広いネットワーク型をとる。 権限は、知識と能力のあるところにある。 相互作用は、水平的である。 コミュニケーションの内容は、助言・情報提供である。 メンバーの忠誠は、プロジェクトと集団に対して向けられている。 権威は個人的貢献からもたらされる。
 バーンズとストーカーによれば、組織の環境が安定的なばあいは、組織は機械的システムをとるほうが有効である。しかし環境が不安定なばあいは有機的システムの組織のほうが有効である。
 また技術とは環境と組織をつなぐものであるが、この技術と組織との関係においても、づぎのようなことがいえる。すなわち、技術が例外が少なく、分析可能であるほど、機械的組織が適合的である。これにたいして、例外が多く分析不可能だと有機的組織が適合的である。
こうしてコンティンジェンシー理論においては、組織は環境にたいして開かれたシステムとしてとらえられ、さらにシステムと環境との関係が問われている。この組織論において、はっきりとサイバネティクスの発想を意識しかつ導入しようとしたのが、トンプソン J.D.Thommpson とウェイク karl Weick である。
 トンプソンは、組織は不確実性に対処しつつ、自己の確定性・確実性を維持しようとする、オープン・システムである、と定義する。またウェイクは、「最小多様度の法則」をふまえて、「組織化とは、条件付きで関連している諸過程にはめ込まれている連結行動によって、実現的環境のなかの多義性を除くことから成っている」と述べている。
 すなわち、組織の環境のもつ多様性を組織の多様性によって対応する。環境が確定的で多様性がとぼしければ、組織は確定的にふるまうことができる。環境が不確定で多様性と変化にとむものであるなら、組織はそれに備えるべく、自己の内に多様な可能性をもたなければならない、というわけである。
最近では、組織の環境適応の考え方は、さらに「ネットワーク組織論」というかたちをとるようになった。ウェイクによれば、「ネットワーク」とは「ゆるやかに結びついたシステム」のことをいい、それはつぎのような特徴をもつ。
(1) それぞれの単位組織が自律性を持ち、自らの環境を細かくみて適応するので、環境の変化に敏感に適応しうる。
(2) 各単位組織は独自に主体的に環境に対応していくので、適応の仕方に異質性、独自性を確保でき、どこかに創造的な解を生み出しうる可能性をもっている。
(3) 堅い連結の組織と比較して、単位組織間の相互負荷が軽いので、予期せざる環境の変化に対する弱性が小さい。
(4) 反面、環境の変化に対する適応が小域的なものにとどまり、大域的な計画性を導入しがたい。
 また今井賢一は最近、「ネットワーク編集」という考えを提唱している。「ネットワーク編集」とは、組織が内部資源と外部資源とを利用するにあたって、既存の構成要素を『引用』したり複合させ組み合わせたり、あるいはまったく新たな要素を導入したりして、それらの間に新たな動的協力性(シナジー)を生み出しうる場を設けること、である。
こうして経営組織論においては、環境の多様性がもたらす組織の不安定をおさえこむ、という制御的モデルから、みずからの内から多様性をうみだし進化する組織論のモデルへの移行がおこなわれつつある。しかしそうしたあらたなシステム論の展開をみるまえに、サイバネティクス・モデル、それも「最小多様度の原理」を積極的に社会学に導入した、ニコラス・ルーマン Niklas Luhmann (1927-) の、おもに初期(60年代から70年代)の社会システム論をみることにしよう。

 (6) ルーマンの社会システム論
ルーマンがサイバネティクス・モデルを社会学に導入したのは、じつはかれの属するドイツ語圏における人間学の系譜を通じてであったように思われる。
 オーストリアの動物学者J.v.ユクスキュル(1864-1944)は今世紀初頭つぎのような説をとなえた。すなわち、動物は自分の身のまわり、すなわち環境(Umgebung)のなかから、自分にとって意味あるもの選び出し、それを近くするとともに、それに働きかけつつ生きることによって、自分をとりまく世界を構築している。かれはこれを「環境世界」(Umwelt)と呼んだ。そうして生物体をあくまでもその環境世界との機能的円環のうちにとらえるべきことを提唱したのであった。
 現象学的哲学者シェーラーMax Scheler(1874-1928)は、その最後の著作『宇宙における人間の地位』において、かれの哲学的人間学をユスキュルの影響のもとに展開した。動物はその環境世界の構造に完全に閉鎖的に適合している。これをかれは動物の「世界繋縛性」とよんだ。それにたいして、人間は環境世界を独自の仕方で遠ざけ距離をとることによって、もっと広大な自由な場面としての「世界」に開かれている。これをかれは人間の「世界開在性」とよんだのであった。おなじく哲学的人間学を構想したプレスナーHermut Plessner (1892-)も、動物は環境に拘束され中心的に生きるのにたいし、人間のありようは脱中心的であり、世界開放性をもつとした。
 ポルトマンAdolf Portmann(1897-1982)は、その著『人間はどこまで動物か』で、人間は一種の早生児として出生し、確固たる環境適合本能をもたず、その代わりとなるべき文化を発達させるのだ、とした。
これら動物学的および哲学的人間学の流れを受けて、ゲーレンArnold Gehlen(1904-76)は、「負担免除説」という説を提唱した。かれによれば、人間は本能の後退により可塑的で未定形な自己の行動のありかたと(それと相関する)不確定な環境世界の現れ方という負担を課せられている。それにたいして人間は、固定的な文化様式を発達させること(制度化)で、その負担をみずから免除しようとする、というのである。
 ルーマンは人間におけるこの本能の後退がもたらす自己と環境の不確定で多様な現れという問題を、アシュビーの「最小多様度の法則」とむすびつける。本能の喪失によって環境世界は多様な不確定なものとして現れる。しかし人間は本能から解放されることでぎゃくにさまざまな多様性(複雑性)を編み出すことができ、それをもってして環境世界の複雑性に対抗してその複雑性を縮減するのである。
 だがその縮減は動物のような硬直的な行動と環境世界の把握をもたらすものではない。動物が環境世界に束縛されているのにたいして、人間は世界に対して開かれた可能性をつねにもっている。複雑性の縮減は人間にとっては固定的な行動や世界把握ではなく、つねにあるものを選択しつつも他の可能性へと開かれた、その可能性を保持しつづけたいるものでなくてはならない。つまりつねに「ほかでもありえたし、またありえる」ということをある選択がその背後にもっていなくてはならない。
 こうした環境世界の複雑性の縮減とそれに対応する人間の複雑性(多様性)の維持の機能をはたすのが、「意味」であるとルーマンは言う。
 人間は自己のまわりの混沌とした未分化な世界を、言語を使って、事分けしている。そして一つ一つの言葉の意味は、それ以外の言葉との差異によって決定される。(たとえば、虹は波長の短いものから長いものへと連続している。しかし文化によりそれを「七色の虹」、「六色の虹」、「三色の虹」と見たりする。すなわち言葉による連続的なものの不連続化(事分け)である。ある色(赤)は他の色との差異によって規定されるのである)。
 すなわち、意味は可能な体験・行為を統合し秩序化する。ある意味を選択することは、ある可能性を選択し他の可能性を否定することであり、「複雑性の縮減」をもたらす。しかし同時に、意味は他の意味を否定するというかたちでそれを保持している。たとえば、「勉強する」という選択は、「遊ぶ」・「寝る」などの選択の否定であるが、同時にそうした選択の余地があるということを前提として、かつ可能性として残している。このようにした「意味」は複雑性の縮減と維持と果たすわけである。
ではルーマンにおいてはシステムはいかに形成されるのか。
 ラドクリフ=ブラウン由来のパーソンズの構造-機能主義では、構造がまずあって、それを維持するような機能を構造の構成要素をおこなう、とされていた。これにたいしてルーマンは、構造というものを先に考えるのではなく、さまざまな機能の結果として考える、「機能主義」を提起する。つまり、さまざまな働きがおこなわれ、それがシステムの形成という観点から見ると、等しい機能をはたすことで構造が形成されている、というのである。ここでの「・・・という観点から見ると」という限定が重要である。なぜなら、実際の諸現象においては、これまでの理論が想定していたような一つの原因から一つの結果が生じるということは存在しないからである。実際にはさまざまな要因が相互に連関しあって作用しあっているのである。それを一定の観点から見るとき、はじめて等しい機能をはたしているものがみえてくるのである。これをルーマンは「等価機能主義」と呼んでいる。(これは一般システム論の「等終局性equifinality」の概念を言い換えたものにほかならない)。
 ルーマンの観点はあくまでもシステムと環境世界の関係にある。すなわちルーマンにおいてシステムとは、世界の複雑性を前にして、内-外の区別の安定化によって自己を維持していく統一体のことである。システムの内-外の区別は「複雑性の落差」によって設定される。システムは世界の複雑性を一定の適応能力(世界の複雑性を吸収する自己の複雑性)を高めていくことによって、縮減することで自己を維持するのである。(いうまでもなくこれはアッシビーの「最小多様度の原理」をいいかえたものにほかならない)。
では社会システムはいかに形成されるのであろうか。
 社会システムにとっての複雑性の根源は、パーソンズが考察した「二重の不確定性(ダブル・コンティジェンシー)」にほかならない。すなわち相互行為は互いに不確定な相手行為に依存しているということが、社会システムの解決しなければならない複雑性の根源である。この複雑性の縮減することで社会システムは形成されるのである。その縮減の仕方には、行為期待の一般化・安定化(規範化・意味的同定・制度化)があげられる。
そして全体社会システムは世界の複雑性にたいする適合能力をさらに高めるべく、分化していく。その典型的ありかたには、 分節化(同一統一体の構成による分化)、 階層(位階秩序の差異による分化)、 機能的分化(全体システムが解決しなければならない中心的問題に照らしての分化)がある。
機能的分化した場合、その部分システムには、 政治システム(拘束的な意志決定の確立)、 経済システム(欲求充足の時間的確保)、 科学(体験可能な複雑性の強化と伝達を通じてのその縮減)、 家族(人格形成と緊張の緩和)がある。(いうまでもなくこれはパーソンズのAGILのルーマン流の修正である)。
 さらにパーソンズが分化した部分システムをつなぐ「シンボリック・メディア」を構想したように、ルーマンもまた「コミュニケーション・メディア」を構想する。
 かれによれば、コミュニケーションとは一方の当事者が伝える選択についての情報を、もう一方の当事者が自己の体験や行為の前提として受け容れる、ということを意味する。この受け容れは受け容れる側での動機づけを必要とするが、この動機づけをひきおこす伝達の媒体がコミュニケーション・メディアである。上記の部分システムに対応するのは、 権力、 貨幣、 真理、 愛、の4つである。
こうしてルーマンは、ドイツ系の哲学的人間学とパーソズの社会システム論をサイバネティクス・モデルのシステム論によって統合したと言えよう。だが80年代にはいって、システム論のあらたな動向の影響をうけることによって、急速にその姿を変えつつある。そこでそのシステム論のあらたな動向をみてみることにしよう。
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by takumi429 | 2005-02-02 14:47 | 社会システム論 | Comments(0)

社会システム論(3)

社会システム論(3)
-- 自己組織化モデル--

 自己組織化モデル
サイバネティクス的システム論は、「形なき物質に出来合いのパターン(情報)を押しつけることで秩序を形成し、ネガティヴ・フィードバックによって安定的に制御していく」、というものであった。このサイバネティクス的システム論から、「ゆらぎをはらんだ物質の広がりのなかからポジティブ・フィードバックを通じて自ずと秩序が形成されダイナミックに変容していく」[現代思想1984.152頁]、という自己組織化システム論へと、システム論は近年転換しつつある。 このシステム論における転換の先鞭をつけたのが、丸山孫郎の「セカンド・サイバネティクス」である。
 かれはサイバネティクスにおいてネガティブ・フィードバックによる制御・統制のみが重視されのにつよい不満をもっていた。たとえば卵子の成長において構造は複雑化・発展するし、それがもつ情報量も増大する。しかるにネガティブ・フィードバックでは構造のもつ情報は維持、もしくは消失するのみで、けっして増大することはない。つまりネガティブ・フィードバックによるサイバネティクス・モデルでは、生物などにみられる構造生成はとらえられないのである。
そこでかれが構造生成にあたって目をつけたのが、ポジティブ・フィードバックである。かれは、ネガティブ・フィードバックによる逸脱解消的システムを「ファースト・サイバネティクス」とよび、ポジティブ・フィードバックによる逸脱増幅的な相互因果関係の研究を「セカンド・サイバネティクス」とよんだ。また逸脱解消的相互因果過程を「形態維持」とよび、逸脱増幅的相互因果過程を「形態生成」とよんだ。かれはポジティブ・フィードバックによって逸脱が増幅されることで、組織が複雑化し進化することを示唆し、あらたな自己生成的な、みずから生成し発展・変化していくシステムについての理論の可能性を示したのであった。
 だがこの外からの制御・介入によらない自己発展的なシステム論には、すでにみたように、アシュビーの「純粋な自己組織化の論理的不可能性」という問題がついてまわる。すなわち、システムが自分自身の組織を形成し、変化させていくことは、プログラムするものとされるものが一致することになり不可能である。Sというシステム(機械)が変化するには、つねにαという機械が付け加えられねばならないのである。つまり、サイバネティクス・モデルに従う限り、自己組織的なシステムについては語り得ないことになる。
 この問題を解決すべく考えられたのが、フェルスターの「ノイズからの秩序」およびアトラン「ノイズからの複雑性」である。かれらは、ネガティヴ・フィードバックによる閉じたサイバネティクス・システムの世界から脱出するために、プログラムの外のノイズ(外乱)のはたす能産的役割に注目した。
 また自分で自分を産出していくという循環の輪こそまさに創造的な進化をもたらす、という考えもある。それがマトゥラナとヴァレラのオートポエシス(自己産出)論である。かれらはみずからの神経組織の研究、およびイエルネNiels K.Jerneの免疫体系の研究からこの考えを引き出した。神経系のおいても免疫体系においても外部のものはそのまま認識されるのではなく、むしろ系のなかのネットワークのゆらぎとして認識される。われわれがすでにみたように、環境の多様性はシステム内の多様性を通してのみ把握される。いやより正確にいえば、このシステムはこれまで観察者によって決定されていた、環境とシステムとの境界をもたない。あくまでもシステム自体の自己再生産がその境界をうみだしていくのである。マトゥラナたちはこうしたシステムの自己言及性にシステムの展開の可能性をみるのである。
マトゥラナの定義によれば、「オートポエシス・システム」とは、
「次のような要素産出のネットとして定義できる。つまり、(1) 要素同士の相互作用をとおして、その要素自身を産出する当のネットを回帰的に生成・実現し、かつまた、(2)その要素自身が存在する空間において、そのネットの境界をも、その当のネットの実現に参与する要素として構成する、そういう要素の産出のネットとして定義できる。」 [Maturana1981.p.21]
ではこれらのシステム論は社会科学においていかに導入されているであろうか。
「ノイズからの秩序」という考えかたは、フランス系の学者によって受容されている。エドガール・モランは、『失われた範例』においてこの考えをかれの学問の主軸にすえ、さらにそれを『方法』という大著において展開しつつある。ジャック・アタリも『言葉と道具』においてこの概念を導入している。
ル-マンもオートポエシス論を積極的に自己の社会学に取り込みつつある。その際、マトゥラナやバレラが、社会システムの構成要素は個人というこれまたオートポエシスなシステムであるとする誤りを犯しているのにたいして、社会システムの構成要素はコミュニケーションであると規定している。彼によれば、このコミュニケーションは、伝達・情報・理解の統合体であるとされる。こうして社会システム論は、パーソンズの行為を構成要素する社会システム論から、コミュニケーションを構成要素とするオートポエシス的システム論への変革されるとしている。
ルーマンのこの大胆な提言はきわめて刺激的ではあるが、まだその成否を判断する段階ではないように思われる
日本においても、野中郁次郎『企業進化論』や今田高俊『自己組織性』などがこうしたシステム論の動向を取り入れようとしている。しかし前者は日本の経営者および経営学者の、何でも取り入れ使ってみよう、という貪欲さに感心させられるばかりである。後者は掛け声の大きさばかりが目立ち、実質的な理論の展開はほとんどみられない。
 またバレラのオートポエシス論をその源泉であるスペンサー=ブラウンの代数学にまでさかのぼって、社会システム論の刷新をめざしたのが、大沢真幸『行為の代数学』である。しかしそれは延々と自己言及・自己回帰性についてのべたもので、それが説く「第三の審級」の理論との接続が必然的なものとは思われない。(おそらく「第三の審級」の理論は、スペンサー=ブラウンの代数学を学ぶ以前に構想されたものであろう)。とにかく社会システム論としてはあまりに抽象的かつ無内容である。
 今後の我々の課題は、こうしたスローガンだおれにおわることではなく、社会の自己組織性に注目した社会システム論の可能性を、むしろ既存の諸理論との対話のなかから探ることにあると思われる。社会の自己組織化の理論として、われわれはすでに、マルクス主義的再生産論をもっているし、とりわけアルチュセール系のイデオロギー装置の理論をもっている。こうした理論とシステム論との対話から新しい社会システム論の可能性はうまれてくると思われる。
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by takumi429 | 2005-02-01 15:32 | 社会システム論 | Comments(0)

社会システム論 文献

文献

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by takumi429 | 2005-02-01 15:30 | 社会システム論 | Comments(0)