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往来の芸術

「往来」の芸術

コンピュータ・アートの多くはいまだ閉塞された世界にとどまり、コミュニケーションの交流から世界を再構築するような作品を生み出すにはいたっていない。開かれたネット世界からの現実の再構築という課題はどのように達成されるのであろうか。私たちはそのありようを、日本の近世の文化と芸術のなかにさぐることにしよう 。

1.はじめに
インターネットはメールなど情報交換から出発してマルチメディアなホームページへと発展した。そしてそれはいまや巨大なサイバースペースを形成するにいたった。このインターネットの発展は予想外のものだった。ではこの発達は奇妙なものなのであろうか。
本論文で私は次のことを指摘したい。
(1)このインターネットの発展の先例として日本における「往来物」の発展がある。手紙の交換からマルチメディアの情報を盛り込んだホームページへの展開は、決して奇異なものでなく、むしろ自然な展開である。
(2)インターネットは、「往来物」と同様に、独白的テキストの下に潜在している対話性とマルチメディア性を復活させる。
(3)江戸期の「往来」の空間を旅した芭蕉の文学は、サイバースペースにおけるあらたな芸術と芸術家(主体)のあり方を示唆している。

2.「往来物」の発展
(1)「往来」から「往来物」
「往来」とは「交通」または「道」を意味し、さらにそこを行き来した「手紙」を意味した。またその手紙の模範文例集である「往来物」も意味した。
「往来物」とはも、ともとは手紙の模範文例集であり、室町時代から習字の教科書として使われた。さらに江戸時代には寺子屋で使われる教科書一般の名称となった。往来物は「候文」で書かれていた。それは手紙の文例集であるという性格によるが、同時に近代以前の日本において、候文が唯一の共通語であったからである。
 往来物は興隆を極め、2000種類以上の往来物が生み出された。明治になっても往来物は出版されていたが、国定教科書制度(明治36年)のもと、西洋的なスタイルの国定教科書に取って代わられた(明治37年)。

(2)『庭訓往来』の歴史
この往来物でもっとも普及したのが『庭訓往来』(ていきんおうらい)である。武士の日常生活に関する諸事実・用語を往復書簡の形式でまとめたものである。この『庭訓往来』はさまざまな版を重ねた。その様式はつぎのような発展をとげた(石川1988)。
(1)手本系 習字の手本としてもっぱら用いられたもの、
(2)読本系 ルビなどがついた読本的な性格のつよいもの、
(3)註本系 さらに読み方が表記され、註がついているもの
(4)絵抄系 註がさらに発展して絵入りとなったもの(「抄」とは「ある部分を抜き書きして注釈すること」)

 この分類にしたがって、膨大な『庭訓往来』の中から典型的なものをいくつかあげてみよう。
(1) 手本系
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12.『御家庭訓往来』
この本には読み順などを示す返り点が打ってあり、(2)読本系の性質もあるが、基本的には習字の為の手本とみてよいだろう。

(2)読本系
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13.『真艸両点庭訓往来』

行書体と楷書体の両方をあげ、そのそれぞれに両点をつけたもの。ちなみに漢文に返り点だけを付けるのを片点(かたてん)というのに対して、返り点と送り仮名を合わせ付けたものを「両点」という。江戸期の印刷である。

(3)註本系 
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14.『首書読法庭訓往来具註抄』

本文の読み方を頭註にし、本文の後に註釈をつけ、さらに欄外にも註がついている。

(4)絵抄系
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15.『校本庭訓往来(見返)』

この系統の本では、註が発展して絵が書き込まれるようになっている。
絵を入れることはさらに発展して、『庭訓往来』には葛飾北斎が挿し絵を描いているものがある。それが、つぎの『絵本庭訓往来』(えほんていきんおうらい)である。
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16.『絵本庭訓往来』

(1)手本系、(2)読本系、(3)註本系、(4)絵抄系の各種は必ずしも前者から後者へと完全に移っていくというわけではない。各種の庭訓往来が併存していた。しかし石川 (1988)の調査によれば、時代を経て後期にいたるほど、(1)手本系、(2)読本系から(3)註本系、(4)絵抄系の本が次第に多くなってくる。『庭訓往来』は単なる手本から次第に註をつける形でしだいに豊富な内容をもつにいたり、単なる文字からその読み(音)と註としての絵(映像)をも内容にもつようになったとみることができるであろう。
この展開は、(1)筆をつかう、(2)声をあげて読む、(3)単語の注の形で別のテキストにつなげる、(4)注を絵にしテキストをイメージにつなげること、による展開であった。すなわち、テキストを身体の動きへと戻す、テキストから別のテキストへつなげる、文字を音声や絵画という別のメディアへの接続すること、による展開であった。
 
(3) 江戸時代における「往来物」の発展
江戸時代、寺子屋での教育が盛んになるにつれて、多くの往来物が流布した。
『庭訓往来』の展開にみられるように、往来物にはしだいに文字だけでなく絵という別のメディアまでもが盛り込まれるようになった 。
往来物は註を付ける形で多様な内容が付加されていった。そうした例をすこし挙げてみよう。

17.『女庭訓往来』
『女庭訓往来』とは女性用の「庭訓往来」である。註に図版が多く盛り込まれている。

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18.『商売往来絵字引』
「商売往来」の定型的な内容にすべてに彩色された絵が付され、同時に講釈も付されているもの。幕末のものとされる(梅田2003)。

(4) 明治時代の往来物
往来物は明治になっても国定教科書が登場する(明治37年)まで、活況を呈している。たとえばつぎの『世界商売往来』という往来物では、テキストとその発音記号としての表音文字(カナ)と挿し絵というマルチメディアな表記方法を使うことで、外国の事物とアルファベットまでどん欲にその内容のもりこんでいる。
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19.『世界商売往来』
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(5) 情報冊子としての「往来物」
このように近世日本においてさまざまな情報を盛り込んだ往来物が生まれた。
それらは大量の図版と注を盛りこんでいた。往来物は教科書として寺子屋で使われただけでなく、どうやら一般にも一種の情報冊子として流布したらしい 。
その例として『名古屋往来』をあげてみよう。
『名古屋往来』は江戸後期の文政9年(1826年)に出版されている。「抑名古屋の御城は、昔日慶長年中に治国太平の印にて始て築き給ひけり」で始まる一通の手紙文の形式をとってはいる。だが内容はもっぱら名古屋の名所名跡の紹介である(『名古屋往来』1934)。これは手紙文の形を借りた情報冊子であったと見た方がよいと思われる 。

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20.『名古屋往来』 表紙(上)と本文(下)(名古屋往来』1934)

表紙は、現在も名古屋の象徴でもある、「金の鯱(しゃしほこ)」をいただく名古屋城である。この『名古屋往来』は、教科書とみるより、名古屋という街の情報冊子とみるべきであろう。

(6)往来物の発展
石川(1988)によれば、往来物は次のようなものへと発展分化している。(1)単語集、(2)手紙文例集、(3)道徳教育、(3)歴史、(4)地誌、(5)産業、に関するもの。そしてしばしばこれらの往来物は多くの図版を含んでいた。こうして往来物は情報を満載した冊子へと発展した。
この発展は同時に、(1)(表意)文字としてのテキスト、(2)声としてのテキスト、(3)テキストの注としてつなげられた別のテキスト、(4)注としての絵、という、文字・音・イメージというメディアを横断するものへの発展でもあったのである。
「往来」(文通)は、往来物(手紙の執筆のための模範文例集文)を生み出した。往来物は手紙の執筆の教科書から情報冊子へと発展した。生徒は、テキストを筆で書き、声を出してテキストを読んだ。注解は、多くのイラストを持つようになった。その結果、往来物はマルチメディアな内容を持つことができたのである。
この往来物の発展は、インターネットの発展に非常に似ており、その先駆的なものだと言えよう。ところでこうした発展はむしろコミュニケーションの普通の発展なのではないだろうか。それをつぎに見てみよう。

3.インターネットが復活させるもの
(1) 会話的コミュニケーションからモノローグの支配へ
われわれの五感はそれぞれの世界をもっている。耳に聞こえる世界、肌に感じる世界、においの世界、舌で味わう世界、見える世界、すべてはそれぞれ異なった世界である。われわれはこのその五感の異なる世界を一つの世界にまとめ上げ、そのなかで生きている。
他者との交流もこの五感によって認識される。また自分自身を認識するときもこの五感が働いている。この五感のなかで音感はもっとも再帰性が高い。声を発するとそれは自分の耳で認識されるからである。他者にむかって発した声は自分によって聞くことができる。
自分へ向けて発した声は実際の音に出さなくても頭のなかだけで話すことができる。これが内語(inner speech)である。この内語によって声による自我の形成が進む。身体をつかった他者との交流のなかで声による対話は特権的地位をえる。さらに内語は独白となって自己を統一する。
日常のコミュニケーションは、相互コミュニケーションから始まる。しかし、それが発展していくにつれて、モノローグあるいは、独白のテキストが支配的となる。われわれがテキストを書くと、そのテキストが本来持っていた対話性は潜在化して、独白的(monological)テキストとなる。だがモノローグの支配の下には、対話的な声と動きとイメージが存在している。

(2)インターネットにおける復活
 だが独白的なテキストに潜在していた対話性は「間テキスト性」(inertextuality) (クリステヴァ1983,p.61)として蘇る。インターネットにおいてそれは「ハイパーテキスト」(hypertext)(ネルソン1994)として実現する。
同時に対話のなかに潜在していた身体性は五感にうったえるさまざまなメディアの併存・連関、いわば「間メディア性」(iner-mediality)として現れる。それがインターネットのマルチメディアとして実現するのである。
往来物は、註という方法で、語句をもう一つの語句につないだ。それは、テキストを解釈して、テキストを他のテキストにリンクした。さらに語句あるいはテキストを、動きと声とイメージに接続した。このように、往来物は、マルチメディアとして、あるいは「間テキスト性」(intertextuality)として、対話をモノローグの支配から解放した。往来物の鍵となる方法は、「つなげること」あるいは、「接続すること」であった。
おなじように、インターネットもまた、対話をハイパーテキスト(hypertext)として復活させるだろう。さらにインターネットは、マルチメディアの内容を持つことで、独白的なテキストの支配を打ち破るだろう。

4.「往来」の詩人:芭蕉
私たちのアイデンティティは、これまで独白のアイデンティティであった。それは「大きな物語」で支えられていた。「大きな物語」の没落の後、私たちはアイデンティティの新しい方法を捜している。その新しい方法を提示した人物として私たちは一人の詩人を見つける。彼は、往来の空間を旅した詩人であった。その詩人こそ、江戸時代の俳諧師、松尾芭蕉(1644~94)である。

(1)俳諧の方法
芭蕉は「往来物」が最盛期を迎えていた江戸期にまさに往来を旅していた俳諧の詩人である。江戸期においては俳諧の爆発的な流行により、日本全国に俳諧のネットワークが成立していた。芭蕉はそのネットワークを利用することで旅を続けていた(田中1992)。
俳諧は現在では「連句」とよばれている。俳諧では、まず座というコミュニティをつくられる。そしてそのメンバーが相互に順番に句を詠む。最初の句は「発句」とよばれる。次の句は前の句に関連させて作られる。誰かは、5-7-5音節で韻文を作る。と次の者は、7-7音節で次の韻文(句)をつなぐ。さらに別の者が7-5-7音節で韻文をつないでいく。36句をつないで俳諧は完結する。
新しい句は前の句とつながり重なりながらもずれていきそれのもつ世界を変えていく。新しい韻文(句)は、前の韻文に結合され重なりながらもずれていく。新しい韻文(句)がつながれるたびに、俳諧の詩的な世界は変わる。この発展と飛揚の連なりこそが俳諧の核心であった。俳諧は共同制作の産物であり、
芭蕉は、俳人であると同時に、この共同製作のコーディネーターでもあった。彼は、発句を詠む俳人としてよりも、むしろこの俳諧のコーディネーターとしての力量に強い自負をもっていた。

(2)リアリティの多重化
俳諧を作る方法は芭蕉の旅の方法でもあった。廣末保(1993)によれば芭蕉の先駆者で連歌師だった宗祇の旅はあくまでも歌枕を訪ねる旅であった。宗祇は歌枕の世界を旅していた。それに対して、芭蕉は、歌枕などの古典的文学の世界と今ここにある現実とを接合させ、そこに新しい詩的世界を創出しようとした。
 たとえば
「夏草や兵どもの夢の跡」
ここでは藤原氏滅亡の合戦のイメージが今目の前にある夏草のイメージと重ね合わされている。その二重性においてその詩的世界が構築されている。いわば「複合現実」(mixed reality)から彼の詩的世界は出現してくるのである。
さらにイメージとイメージの重なりだけでなく、イメージと音との重なりも芭蕉の句では多用される。
「古池や蛙飛び込む水の音」
古池のイメージの広がりと水の音の広がりとが重なるときそこに新たな詩的世界がうまれている。

(3)俳諧的主体
 芭蕉は、旅をし移動することで、それまでの状況に新たな状況を付け加えていく。また現在を過去と結ぶことで新しい未来をつくっていく。つなぎ、重ね、ずらしていく、というのが俳諧のあり方である。旅することで自分の周りの世界の様相を変えていく彼の旅のあり方は、俳諧の手法を人生に適用したものだったのである。このつなぎ、ずらしていく、あり方こと、往来を旅する詩人としての彼の自我のあり方そのものだったのである。
「往来」の空間は相互的コミュニケーションの空間であった。芭蕉は往来の空間から新たな詩的世界を創り上げた。彼は独白の支配から逃れ、相互にはたらき合うような、主体性を創り上げたのである。

(4)ネット空間における芸術家
かつての主体とはモノローグによって規定支配された主体であった。ネット空間における主体とは、さまざまなテキストとメディアをつなぎながら、それを重ね、ずらしていく、そうした主体であろう。芭蕉の体現した往来的な主体こそが、ネットにおける新たな芸術家(主体)のあり方として立ち現れるだろう。と同時にそうした芸術家はコミュニケーションを媒介するコーディネーターという役割を演ずることになるだろう。

ネット空間もまた、相互的コミュニケーションの空間である。さまざまなテキストとメディアをつなぎ合わせながら、私たちは新しい世界を創造する。
ネット空間の中を飛び交うで多様な声、多様なメディアを一つの交響曲に変えるとき、あたらしい芸術の可能性がうまれ、私たちの新たな主体性が立ち現れるだろう。
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by takumi429 | 2005-05-29 21:53 | メディア論 | Comments(0)