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11.携帯電話・インターネット

第11回 携帯電話・インターネット

移動体通信 いどうたいつうしん 移動通信ともいう。船舶、航空機、自動車や人など、固定されてない場所への通信の総称。陸上移動体通信には携帯・自動車電話、簡易型携帯電話(PHS:パーソナル・ハンディホン・システム)、ポケットベル(無線呼び出し)などがある。
携帯電話 けいたいでんわ Mobile Telephone セルラー電話(Cellular Radio)
電波で携帯端末と中継局との交信をおこない、さらに通話の相手先につなぐ。端末が移動していても、中継局は、自動的に隣接する中継局に通話をひきつぐので、通話は中断されない。一定の地域を区画して細胞(セルラー)のように通話を維持する。
1968(昭和43)年 日本電電公社ポケットベルサービス始める。
1985(昭和60)年
日本電信電話株式会社(NTT)発 足
ショルダーホン(車外利用型自動車電話)のサービス開始
フリーダイヤル0120、サービス開始
電話回線をつかってパソコン通信できるようになった。
1986(昭和61)年
伝言ダイヤル通話サービス開始
1987(昭和62)年
1987年9月
ポケットベルにNC C(新規第一種電気通信事業者)参入。
90年代前半にブームとなるが96年に登録台数頭打ちとなる。
携帯電話サービス開始
1989(昭和64・平成元)年
ダイヤルQ2開始
104番で全国の電話番号案内実施
1990(平成2)年
デジタル公衆電話機サービス開始
1994年には携帯電話の売り切り制が導入され
1995(平成7)年
PHSサービス開始
1996年
メールとしての文字サービスがPHSにおいて開始される.
1997年
PHSの加入者数がピーク
1998(平成10)年
携帯電話の世帯保有率が50%を越える
衛星携帯電話サービス開始

インターネット Internet 世界じゅうのコンピューターを相互接続したネットワークの総称。
1969年 インターネットは、ARPAネット(アーパネット)とよばれる、開設されたアメリカの国防総省のネットワークと、ほかのさまざまなネットワークを接続する目的をもったネットワークを基盤として70年代の末ごろ生まれた。爆撃といった軍事的理由でネットワークの一部が部分的に機能しなくなっても、ネットワーク全体におよぼす被害が最小限であるようなネットワークを実現するのが目的だった。その結果、目的のコンピューターにデータを確実におくる責任が、ネットワーク自体にあるのではなく、送信したコンピューター自身にあるというネットワーク・アーキテクチャーが実現するにいたった。
1984年には軍事利用は機密保持のためにMILNETとして分離され、ARPAネットは学術利用専用のネットワークとなった。
1990年代に入ってから、地域や民間のインターネット接続サービス提供事業者(プロバイダー)がサービスを開始し、一般の民間会社や個人にも爆発的に普及。
1984年 日本ではにJUNETという名のネットワークが大学を中心とする研究機関によって運営されはじめた。
1989年にインターネット上にWWWシステムが登場。
インターネットで利用できるサービス
FTP FTPはインターネット上のファイルを転送するためのプロトコルで、サービスの名前でもある。広大なインターネット上に散在するプログラムやデータを検索し、自分のコンピューターにデータを読みこむ、つまりダウンロードするのにつかわれる。
電子メール 文字どおり「電子化された手紙」をやりとりするサービス。個人に対するメールはもちろんのこと、複数の相手への通信も可能。また、文書だけでなくイメージなどのマルチメディア・データも添付して送信することができる。メーリングリストとよばれる電子メールの機能を利用した複数のユーザー間で情報を共有するサービスもある。SMTP(Simple Mail Transfer Protocol)というプロトコルがつかわれ、添付されるマルチメディア・データに関しては、MIME(Multi purpose Internet Mail Extensions)というプロトコルがつかわれる。
ネットニュース インターネット上にある電子掲示板サービス。世界じゅうに数多くのテーマ別の掲示板があり、多くの人がここに自分の意見を書いたり、他人の意見を読んだりしている。基本的に英語がつかわれるが、日本語だけのネットニュースもある。
WWW 1989年にCERN(ヨーロッパ素粒子物理学研究所)のティモシー・バーナズ・リーらによって開発されたサービス。研究者の間での効率的な情報共有が当初の目的だった。その後93年にアメリカのNCSA(National Center for Super computing Applications)でグラフィカルなブラウザ(→ ブラウズ)Mosaic(モザイク)が開発され一気に広まっていった。
WWWブラウザでWWWサーバー(Webサーバーともいう)にアクセスすると、文章やイメージや音などで構成されたハイパーテキストを参照できる。ハイパーテキスト同士はハイパーメディアとしてたがいにリンクされており、次々に関連の情報をさぐっていくことができる。このことを俗に「ネットサーフィン」(→ サーフ)とよぶ。各ハイパーテキストはHTML(Hyper Text Markup Language)とよばれる言語で書式などが指定されている。
WWWにはHTTP(Hyper Text Transport Protocol)とよばれるプロトコルがつかわれる。
インターネットとマルチメディア WWWを中心に、文章、画像、画、音といったマルチメディア・データが、インターネット上でつかわれるようになってきている。実際に日本でも、ミュージシャンのライブがインターネット上でリアルタイムに放映されたりしている。また、インターネット電話という名の、インターネットを利用して音声データをやりとりするサービスもある。
CMC(コンピュータに媒介されたコミュニケーション)
1985年 NTT電話回線をつかってパソコン通信できるようになった
1995年 日本でインターネットはじまる
メディアとしての電話にすでにヒントがある。
ポケベル文化→携帯メディア・インターネット
キーワード:
選択縁(地縁・血縁でなく自分で選択していくつながり)
番号告知→選択的コミットメント
「奥様は多重生活者だったのです」
メディアをつうじてさまざまな人間と選択的に多重的につながっていくことができる。
CMCは、公共圏(平等、公開、自立による民主的なつながり)の幻想が仮託されがち。

「制限メディア」
二世界問題(対面的世界とメディアの世界との関係)

制限されているからこそ、さまざまな束縛から解き放されてコミュニケーションできる。
顔の呪縛、職業の呪縛、年齢、学歴による先入観からの解放
制限された情報だからこそ想像によって展開できる、創造的展開(誤解)

対面的世界ははたして、メディア的世界よりも豊かで必ず真理なのか。
対面していても顔などみていない。記号と化した関係。
制限されたメディアによってはじめて見えてくることがある。
写真でとってみてわかる真実:「視覚的無意識」

対面的な現実を「至高の現実」とみなして、メディアの現実を「偽物」「仮のもの」と見なしていては解決しない。「至高の現実」をうたがってみよう。
メディアの現実によって私たちはさまざま現実をもち、そうして豊かな現実を取り戻しうるのである。
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by takumi429 | 2007-05-22 10:05 | メディア社会学 | Comments(0)

10.マンガ

10.マンガ
遊びの心や風刺の精神でえがかれた絵。ストーリー性のあるものはコマ漫画・劇画・コミックなどともよばれる。

日本の漫画
鳥獣人物戯画
高山寺につたわる白描による戯画絵巻で、甲巻は擬人化された動物たちが生き生きと描かれる。この部分図はカエルとウサギによる相撲の場面で、見物のカエルたちだけでなく、なげとばされるウサギ自身もわらっている。勝敗は二の次の相撲ごっこといったところか。「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻(しぎさんえんぎえまき)」「伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき)」とともに、日本四大絵巻にかぞえられる。12~13世紀中ごろ。
鳥羽絵 とばえ 江戸時代に流行した戯画で、人物を手長、足長に誇張して描く特徴をもつ。このスタイルは、月にてらされてできた人影からヒントをえたともいわれるが定かでない。鳥羽絵とは鳥獣人物戯画の作者といわれる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)にちなんでつけられた名称。
鳥羽絵はもともと京都を中心に、扇や袱紗(ふくさ:→ ふろしき)といった身近な持ち物に描かれていたが、その評判は大坂にもつたわり、鳥羽絵が版本として出版されたことによっていっそう広まり、江戸時代を代表する戯画のひとつとなっていった。
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黄表紙 きびょうし 江戸中期以降おもに出版された、絵入り本の草双紙の一ジャンル。子供向け絵本からはじまった草双紙は、1760年代から徐々に大人の嗜好(しこう)にあうものが出版されるようになった。それらは表紙の色から、黒本、青本とよばれ、5丁(10ページ)1冊を定型とした。やがて青本の中から、洒落や滑稽み、荒唐無稽な諧謔のより強い作品が登場し、のちに黄色い表紙がつけられて、それらを黄表紙とよぶようになった。

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1775年(安永4)に刊行された恋川春町作(画も)の「金々先生栄花夢」は、それまで子供向けの幼稚な絵本でしかなかった草双紙に、黄表紙とよばれる大人向きのしゃれた絵本文学のジャンルを切り開くことになった。
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明治の漫画
1862年(文久2)、横浜居留地でイギリス人チャールズ・ワーグマンによって漫画雑誌「ジャパン・パンチ」が創刊され、日本の漫画界に影響をあたえた。
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ワーグマンが創刊した「ジャパン・パンチ」の1869年1月号に掲載された作品。

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1879年(明治12)10月に発布された改正徴兵令を風刺した漫画で、その年の「団団珍聞」12月6日号に掲載された。旭日旗とラッパをもった徴兵令が獅子舞のようにねりあるき、子供たちはにげまわる。その後ろに270円をお盆にのせてさしだす親の姿が。国民皆兵が実現するのは10年後の89年。79年当時は270円で徴兵は免除された。
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ビゴー「芸者と西洋人」
1882年(明治15)に来日したフランスの漫画家、画家のビゴーは、その後、雑誌「トバエ」などを刊行して日本政府を風刺する漫画を発表。ユーモアと共感をまじえて日本人の生活を描いた作品も多い。
1901年(明治34)、宮武外骨(がいこつ)が大阪で創刊した雑誌「滑稽新聞」は、辛辣な反権力漫画や過激な風刺文で人気を博した。このころ「時事新報」で漫画をえがきだした北沢楽天は、この雑誌に刺激されて、05年「東京パック」を創刊。同誌は、全頁カラー印刷という豪華さと、藩閥政治への辛辣な風刺漫画で人気を博した。
大正の漫画
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昭和戦前の漫画
「のらくろ」(田河水泡)
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横山隆一「フクチャン」

昭和戦後の漫画
手塚治虫「新宝島」映画的と言われた手法。「ストリーマンガ」の誕生
それまでの漫画なら一こまですませる描写を細分化して生まれた新たな運動性
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「鉄腕アトム」
アニメーションにもなった手塚の代表作。
「ジャングル大帝」とともにアニメはアメリカでも放映された。「ジャングル大帝」はデズニーの「ライオンキング」のヒントになった。


1977年に漫画は日本の総出版物の28%に達した。
60年代から大学生がマンガを読むようになった。
劇画(虚構の世界を現実のように描出した、漫画による物語)ブーム
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白土三平の「忍者武芸帳」と「カムイ伝」(徳川幕府による厳しい身分制度下、権力の重圧にあえぐ者たち。多彩な人物群と雄大な構 想、透徹した歴史観で綴る)

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つげ義春「ねじ式」(昭和43(' 68)年 ガロ 6月増刊号)

『ガロ』:長井勝一の主宰した漫画雑誌(1964年9月創刊)


70年代から80年代にかけて少女漫画が創作の中心
池田理代子「ベルサイユのばら」
萩尾望都(もと)「ポーの一族」「トーマの心臓」
竹宮恵子「風と木の詩(うた)」
大島弓子「綿の国星」
樹村(きむら)みのり「菜の花畑のむこうとこちら」
山田紫「しんきらり」

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高野文子「絶対安全剃刀」(白泉社 1982年1月)
山岸凉子「日出処(ひいづるところ)の天子」
高橋留美子「うる星やつら」「らんま1/2」
 少女漫画のコマ割りなどの技法を少年漫画に導入。世界的作家となる。

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大友克洋「童夢」
それまで高校生や貧乏学生の日常やそこにひそむ狂気を多く描いていた大友克洋がはじめて手がけたSF長編がこの「童夢」。緻密で正確なデッサンと新鮮な構図、映画を思わせるコマ割りは漫画とその周辺の作家や評論家たちをおどろかせた。

江川達也「東京大学物語」 実験的画法と大衆性の結合

井上雄彦「バガボンド」 肉体の躍動の細部を拡大することで生まれるダイナックな絵とストリーの展開 筆による細密かつエネルギーの噴出を伝える絵
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巨大なメディアとしてのマンガ
日本の出版部数の4割はマンガ。
60代以下のあらゆる年齢層に読まれ、あらゆる題材を扱っている。
記号体系(世界)としてのマンガ
 マンガの絵は写実ではなく、絵文字(記号の一種である)。
なぜ日本でマンガがこれほど発展したか
 漢字(絵文字)とかな(表音文字)の併用が、絵と言葉との併用という表現体系を発展させるに適していた。
 マンガの絵は線によってさまざまな情感を付与される。
 吹き出しの形によって言葉はその情感と語り手を指示される。
 コマ割りによって時間と空間が圧縮されたり解放されたりする
      
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by takumi429 | 2007-05-16 00:26 | メディア社会学 | Comments(0)

9.テレビ

9.テレビ
テレビジョンTelevisionの略称。TVとも略称する。静止画や動画を電気信号にかえてケーブルや電波で遠隔地に伝送し、受信機で画像を再現するもの。テレビジョンによる放送。放送するための施設、制度、放送内容、放送の視聴の総体。

歴史
1884年にドイツの発明家P.ニプコーは、回転する円盤をつかって有線で画像を電送する技術を開発したが、実用化しなかった。
1897年ブラウン、ブラウン管を発明
1907年ボリス・ロージング、ブラウン管使用のテレビを開発
1911年スウィントン、送像用陰極線管発表。
1928年アメリカのWGY局、テレビ実験放送開始 
1936年アメリカでNBCがアイコノスコープ(走査線方式)カメラによる実験放送を開始。
   各国も続々放送開始。
第二次世界大戦による放送中止
1944年7月 アメリカ合衆国、NBC、CBS、テレビ放送再開
1945年フランス、ソ連、テレビ放送再開
1946年イギリス、テレビ放送再開
1953年日本2月NHK、8月日本テレビ、開局
 
早川電機(現・シャープ)から白黒テレビ第1号が 発売されたが、14インチ型が17万5000円もした。大卒の初任給が5000円くらいの時代であった

街頭テレビ時代
 街頭テレビに集まる人々は、力道山の活躍に熱狂した。



1959年(昭和34年)4月1日、この日に開局したテレビ局は8社もあった。それは4月10日に 行われる皇太子(現・天皇)成婚パレードに合わせようとしたためであった。この年、1年でテレビ受像機の台 数は2倍の200万台に増えた。
1950年代のテレビ
右は、1951~57年にアメリカで放映され、人気番組となった「アイ・ラブ・ルーシー」の一場面。
シチュエーション喜劇「アイ・ラブ・ルーシー」
エド・サリバン司会の「街の有名人」(日本の放送タイトルは「エド・サリバン・ショー」)
1958年ラジオ東京(現TBS)のドラマ「私は貝になりたい」(フランキー堺主演) 芸術祭賞受賞
アメリカのドラマ輸入 1956年にラジオ東京が放送した「カウボーイGメン」を皮切りに、続々とアメリカ物が登場した。「アイ・ラブ・ルーシー」「アンタッチャブル」「ペリイ・メイスン」「ガンスモーク」「サンセット77」などである。

1960年ニクソンとケネディ、両大統領立候補者、テレビで討論
日本でカラー放送はじまる。
『シャボン玉ホリデー』
放送期間:1961年6月4日~1972年10月1日。11年間592回続いた。
放送時間:日曜日、午後6:30~7:00
クレージー・キャッツとザ・ピーナッツが主演した人気テレビ番組。生放送だった。
放送局:日本テレビ
出演:ハナ肇とクレージー・キャッツ、ザ・ピーナッツ、スリーファンキーズ、布施明、小松政夫、 中尾ミエ、なべおさみ、他。
脚本:前田武彦、斎藤太朗、河野洋、青島幸男、景山民夫
ディレクター:秋元近史
提供:牛乳石鹸
定番コント「お呼びでない?」 父親(ハナ肇)が病気で寝ているところへ、娘(ザ・ピーナッツ)が入ってくる。
ザ・ピーナッツ「おとっつぁん、お粥ができたわよ」
ハナ肇「いつもすまないねー。 おっかさんが生きていてくれたらなー」
ザ・ピーナッツ「それは言わない約束でしょ」
そこへ突然植木等が登場して場違いの行動をする。一同、植木等をにらみつける。
植木等「お呼びでない? お呼びでない? お呼びでないね。 イッヒッヒッヒ。 こりゃまた失礼し ました」
一同ずっこける。

「ひょっこりひょうたん島」
動く島「ひょうたん島」に5人のこどもとさまざまな生い立ちの5人のおとなが、偶然の機 会から住みつくことになり、「ひょうたん島」とともに海上を流されながら行きついた、ライオン 王国や犬の国ブルドキアなどで、想像もつかない大事件に巻き込まれるという、夢と冒険の 物語。いろいろな事件を通して、こどもたちに正義や愛や勇気の本当の意味について理解 させ、人生に生き抜く力を育てることをねらいとしている。 NHK年鑑 '65
放映期間:1964年4月6日~1969年4月4日。1224回
放送局:NHK
放送時間:月曜日~金曜日、午後5:45~6:00
作:井上ひさし、山本護久
音楽:宇野誠一郎
アニメーション:久里洋二
人形:ひとみ座
島の案内 火山の爆発をきっかけに、突然大地から切り離され島となって漂流し始めた。島は全長 8000mのひょうたん形で、酸性土壌のため農作物を作るのには向かない。火山爆発前は人口564 人と伝えられる。島は徐々に独立国家としての形が整ってくる。
ひょうたん島は、三陸地方碁石海岸の蓬来島がモデルと言われている。

テレビドラマ
連続テレビ小説 (朝の連続テレビドラマ 新人女優の発掘と育成)
1966年「おはなはん」 41年4月4日~42年4月1日 作小野田勇 45.8% 樫山文枝、高橋幸治主演 
ホームドラマの時代 『ただいま11人』
1970年松竹の監督で名作『日本の悲劇』を撮った木下恵介がTBSに『木下恵介 人間の歌シリーズをはじめる

1972年 連合赤軍の浅間山荘事件を長時間中継。累積到達視聴率98.2%(ほぼ日本人すべてが見た計算)。

1977年 岸辺 のア ルバ ム77/ 6/24 ~9/ 30 作:山田 太一 脚本:山田 太一
演出:鴨下信一、 佐藤虔一、 片島謙二、 内野健
出演:八千草薫、杉浦直樹、中田喜子、国広富之、竹脇無我、風吹ジュ ン、沢田雅美
多摩川沿いにすむ一見平和そうな、中流家族だが実はバラバラ。妻(八千草薫)は日常に絶えきれずハン サムな男(竹脇無我)と互いの家庭を壊さないという約束で浮気、夫(杉浦直樹)は仕事のためならモラルも捨 てる会社人間、娘(中田喜子)はアメリカ人にだまされて犯され中絶、大学受験中の息子(国広富之)はそんな 家族の秘密を知り思い悩み、家出する。崩壊寸前の家族は、多摩川の氾濫によりローンで建てた家を流されて終わる。家族の再生をにおわせては いるが、根本的にはなにも変わっていない。

1980年 CNN 放送開始(Cable News Network  アメリカの実業家テッド・ターナーが、1980年に創設したはじめての24時間ニュース専門ケーブルテレビ(CATV)放送局。)
1985年ニュースステーション (月~金)21:54~23:06(10月7日放送開始)司会:久米宏 
 ニュースのバラエティ化
1991年 湾岸戦争 CNNの画像が世界中に配布される。現実感の喪失

もう一つの日常世界
(私たちはテレビと生きている)
テレビの時間量
(3曜日・男女層別・全員平均時間)
2000年国民生活時間調査(平成13 年2月NHK放送文化研究所)

この調査は5年に1回のもので、1995年の平日3時 間19分が6分増えて3時間25分に、日曜日は10分 増えて4時間13分となり、テレビ視聴時間は平日 と日曜日で過去最高を記録した。


行為者率と全員平均時間(国民全体)


考察
テレビは現実を映しているのではない。
テレビと共にあることが私たちの現実世界なのだ。
テレビのなかのドラマを現実と錯覚する人間はいない。ではそれが映し出していることを私たちはどうのようにとらえるのか。

手がかり
ニュース番組、スポーツ番組が増えた。
ニュース番組では無意味なのに現場から記者にしゃべらす。
ドラマはトレンド(流行)を取り込む
「今ここ」(現実性)の強調

映画は神話的スターを生んだが、テレビはスターを脱神話化してタレントを生む。
初期のテレビに比べてバラエティ番組がふえている。登場するタレントはほぼおなじ。
ニュースを題材にした一種のバラエティ番組が増えた。ニュースステーション
凝った作り物からばらけた生ものへと移行している。
もともとコマーシャルによる中断や映像の過剰な饒舌さはテレビの内容を一元的に解釈させようとする制作者の意図を裏切る。
視聴者もザッピング(チャンネルを頻繁に変える)や一緒に見ている者同士の間での容赦ない批判によって制作者の意図を乗り越えていく。

ドラマ→出演者をつかったらクイズ番組・バラエティ番組+パロディによるお笑い
本物を知らない人がみている物まね番組
批判的は解体をみずから実行している。

テレビは批判的なメディアである。
テレビの視聴者は映画の観客のように集中していないし、陶酔もしていない。
かつてのラジオの聴取者のように一対一のパーソナルな近親感をもっていない。
テレビの視聴者は画面からさまざまなことを読みとる批判的で創造的な人々である。
テレビの放送内容はいわば視聴者の態度にその番組内容を似せてきているのである。

テレビの送り手が見せかける、「これが現実だ」というメッセージをかいくぐって、さまざまな視聴者が多声的に多様な現実を読み解こうとする、そうした葛藤の場としてテレビはある。

参考文献
J.フィスク著(伊藤守 他訳)『テレビジョンカルチャー ポピュラー文化の政治学』(梓出版社)1996年
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by takumi429 | 2007-05-12 17:19 | メディア社会学 | Comments(0)

7. 規律化と臣民化としての近代---フーコー・アルチュセール---

7. 規律化と臣民化としての近代
---フーコー・アルチュセール---
 
 『カリガリ博士』
 結末の改訂:国家告発から全社会の収容所化の描写へ
 見せ物小屋で催眠術をつかって眠り男を操る怪しい老人。町にその見せ物小屋が現れるとおなじく、夜な夜な連続殺人が起きる。主人公はそれが見せ物小屋の老人の仕業であることをつきとめ、老人を追って彼が逃げ込んだ精神病院を訪れる。そこで彼は、殺人をかさねていた老人がまさにその精神病院の院長、カリガリ博士そのひとであることを知るのである。院長カリガリは催眠術をかけた眠り男ツェザーレをつかって次々に殺人を重ねていたのである。
 映画化にあたってこの元の話はすべて狂人の夢であったという話に改められた。
 すなわち、この話を語った青年はじつは狂人であり、この話はすべてこの狂人の夢物語であった。彼の話にでてきた町の人びとはすべて精神病院の庭で一同の会する、彼らはすべて狂人であったのだ。そこへまた何かを企てるような態度の病院長ことカリガリ博士が登場して映画は終わる。
 →社会全体が精神病院であり、収容所である。異常と正常を分かつのは知は一つの権力である。
 
  デュルケーム『社会分業論』
 近代以前の社会は同質性・類似性にもとづく連帯、すなわち「機械的連帯」を基本としていた。そのためその同質性からの逸脱に対して、体罰を与えたり成員としての資格剥奪をしたりした。その結果、近代以前の社会では、行為者当人に課せられる苦痛、地位引き下げを本質とする「抑圧的制裁」を伴う法規が中心であった。
 ところが近代になって社会は社会は社会的分業による連帯、すなわち「有機的連帯」を基本とするようになった。逸脱はその社会分業関係の破綻をもたらす。だから逸脱にたいする対応は人や物の関係の修復をめざすようになった。つまり諸事物を原状に回復し、阻害された関係の修復をめざす「復原的制裁」を伴う法規が主流となった。
 つまり前近代から近代への移行は、「機械的連帯」から「有機的連帯」への移行であり、それは法体系のおける「抑圧的法律」から「復原的法律」への移行と対応しているのである。
 このデュルケームの考えを私なりに読みかえてみよう。
 近代以前の共同体社会では逸脱には共同体の怒りと排斥が向けられた。しかし逸脱者たちは共同体のはざまにあって、ある意味で共同体と共存していた。逸脱者は共同体へ影響をおよぼしうる、時には危険な、しかし時には有益な存在としてあった。
 近代となって逸脱者への対応はより巧妙になった。逸脱した者は排除されるのでなく、おもてむき、社会へ回復することになる。社会は逸脱者を自己のうちに回収することで、逸脱者を無害なものとします。社会は逸脱者を「更生」・「治療」と称しつつ自分の管理下に集めるのです。社会はもはや逸脱者から脅かされることもなければそこから学ぶこともない。こうして社会にとって危険な逸脱者(犯罪者と精神病患者など)は、排除されるのではなく、社会の内に、しかしその周辺に集められ、包み込まれて無害なものとされる。
 
 フーコー
『監獄の誕生――監視と処罰―――』(1975年)
(起)第1部 身体刑
第1章 受刑者の身体
問題提示:身体への刑罰の対比
A)国王ルイ15世の殺害を企ててダミアンへの凄惨な八つ裂き刑(1757年)
B)4分の3世紀後の「パリ少年感化院」での規律正しい日課規則
AからBへの移行はいかにして生じたか、またそれはどんな意味があるのか。

第2章 身体刑の華々しさ
かつて身体刑は華々しいものであった。なぜならそれはつぎのようなはたらきをもっていたからである。
1) 尋問のための拷問:身体は真理を生み出す
2) 刑罰としての拷問:王の権力が身体の上に見える形で刻まれる
3) 祭典としての身体刑::犯罪によって傷つけられた王権を再興するための報復の儀式
として身体刑が行われる
4) 観客としての公衆:処刑はお祭り騒ぎとなり、しばしば罪人は英雄に転化した。

(承)第2部 処罰
第1章 一般化される処罰
18世紀になって身体刑の廃止と処罰の人間化が叫ばれるようになる。
王権から資本主義への移行は、君主による報復としての処罰から社会擁護のための処罰への変化をもたらした。
第2章 処罰のおだやかさ
処罰は
(1)王権に依拠した処罰(受刑者の身体に報復の烙印を押す祭式)から
(2)個人をふたたび法の主体として立ち直らせるための処罰、さらに
(3)受刑者の身体の訓育としての処罰へと、変わっていった。
つまり直接的な身体刑ではないが身体には働き書けてる監獄というものを使った懲罰が優勢となったのである。その理由には背景としての社会全般の規律化(第3部)という事態がある。

(転)第3部 規律・訓練
第1章 従順な身体
17~19世紀(古典主義時代)に、権力の対象としての身体が発見された。従順な身体を養成する必要がうまれ、とりわけ学校・施寮院・軍隊において規律=訓練が発達された。
規律=訓練は、≪独房≫・≪座席≫・≪序列≫を組織化することで、建築的・機能的・階層秩序的な空間を創りだし、そこに人間を配分する。人間の活動を体系化し、段階的なものにして、それらを相互に組み合わせる。
第2章 良き訓育の手段
規律=訓練が個々人を≪作り出す≫ようになる。
訓育の手段には(1)プラミッド状の階層秩序なす監視、(2)規格化をおこなう制裁、この両者を結びつける(3)試験、とがある。
第3章 一望監視方式
癩病患者の隔離(「大いなる閉じ込め」)とペスト流行の対する規律図式による取り締まりの結果、19世紀、排除された空間に対して、規律的な権力技術が適用された。
排除された異常者にたいする規律=訓練の装置として、もっとも典型的なのは、ベンサムの<一望監視施設>(パノプティコン)であった。
ここでは権力は、見せる権力ではなく見る権力に変わっている。また受刑者はたえず監視されていることを意識することで監視(権力)の目を内面化する。その結果、権力は自動化されかつ没個人化された。
この権力装置のあり方は、(受刑者などの)例外者から一般の者へ適用されるようになった。すなわたい監獄だけでなく、さまざまな機構(工場、学校、兵舎、病院)に用いられるようになり、さらにそれらの機構は国家によって管理されるようになった。まさに現代は監視の社会となった。資本主義は、最低のコストで、訓練され基準化された身体を手に入れることができるようになった。

(結)第4部 監獄
第1章 「完全で厳格な制度」
監獄は、個人を監禁することで、孤立化させ、強制労働によって矯正し、その態度によって刑期と待遇を調節することで、更正をうながすものとなった。
第2章 違法行為と非行生
刑法は犯罪者をその違法行為においてとらえるが、監獄の技術は囚人をその生活態度においてとらえる。前者では違法性が問題とされるが、後者ではその非行生が問題とされる。刑法の建前では、監獄は犯罪者を更正させることになっている。しかし実際には監獄はその特殊な環境によってむしろ「非行者」を生み出し、あらゆる違法行為の可能性を持つ者として社会に循環させている。それゆえ、監獄制度の真の意義は、違法行為を減らし、抑制することではなく、社会の転覆や不安につながるような犯罪の可能性を「非行性」として管理し安全なものとして閉じ込めることにある。
[それはちょうど、精神病院のありかたに似ている。精神病院はたてまえとしては精神病患者の治療をするためにある。しかし患者を閉じ込めることでかえって患者の社会への不適合を生み出してしまう。実際には精神病院は、社会不安を引き起こす者たちの閉じ込めと管理をしているというべきであろう]。
第3章 監禁的なるもの
監禁的なるものの社会全般への浸透している。すなわち、平準化、危険分子の囲い込み、規律=訓練的権力の普遍化、権力による規格化の推進、試験のかたちに適合した知のあり方、監獄的な権力にたいする抵抗の難しさ、が広がりつつあるのである。

 『性の歴史』「第一巻 知への意志」(1976)
 抑圧説
 古典主義の時代~19世紀)から20世紀にかけて[性にたいする]抑圧の時代があったという仮説がある。しかし実際には16世紀のなかばと19世紀の初頭を画期として、性についての言説ディスクール(discours言語による表現)の絶え間ない「増殖」がみられる。前段階における教会における告白(懺悔)、後段階での性についての性科学などの医学的テクノロジーの出現がその増殖をもたした。性は秘されたものという形をとりながら、じつはたえずそれについて語るように命じられていたのである。すなわち、性について知ろうとする「知への意志」が貫徹していたのである。(「真実の性を語れ」という命令が、「性の本質」「性の真理」なるものを一種の「虚像」として成立させている)。
 
 性的欲望の装置
 この「増殖」は19世紀のブルジョワジーが自分たちを対象とする形ではじえまり社会全般に普及した。それは別の言い方をすれば、「婚姻の装置」を「性的欲望の装置」が凌駕し、後者が前者を覆っていくことにほかならない。「婚姻の装置」とは親族関係を固定し展開する、名と財産のシステムであり、「生殖=再生産」をその重要な要素としてもっている。それに対して、「性的欲望の装置」とは、快楽をつうじて流動的かつ多形的かつ上京的な技術で身体を刷新し、併合し、発明し、貫いていくこと、そうして住民をますます統括的なかたちで管理していく装置である。
 性的欲望の装置が婚姻の装置を支配するようになったことで、女の体のヒステリー化、子供の性の教育化、生殖行為の社会的管理化、倒錯的快楽の精神医学への組み込みなど、新しい戦略はすべて「家族」を通じて成立するようになった。
 
 死にたいする権力と性にたいする権力
 「婚姻装置」と「性的欲望の装置」の対立は、それが結びついている権力のあり方の違いでもある。「婚姻装置」と結びついていたのは、法による禁止(「してはいけない」という否定)に基づく権力のあり方である。この権力は、王などの人格を中心とした、死刑を最終的な手段とするような権力であった。いわば「死にたいする権力」と言ってよいだろう。それに対して、「性的欲望の装置」が結びついているのは、あくまでも「生」を管理・経営していこうとする権力のあり方である。この権力は、禁止ではなく、そそのかし、管理し介入していくような、匿名の権力である。
 この「生にたいする権力」には2つの主要な形態がある。
 まずひとつは、17世紀にはじまる、人間の身体を規律によって訓練していく「人間の身体の解剖ー政治学」である。もうひとつは、18世紀なかばに形成された、身体の生命への介入と管理、すなわち「人口の生ー政治学」である。この身体の規律と人口の調節は、生にたいする権力の組織化が展開する2つの極である。性は、まさに身体の生と種の生の、両方の手がかりであるために、この「生にたいする権力」双方の組織化の対象となるのである。
 
 「「主体と権力」(1982)(『思想』№718)
 権力の系譜学:こうした生にたいする権力はどこから来たのか。
 キリスト教会における告白(懺悔)に由来する。すなわち「牧人=司祭型権力」
 「牧人=司祭型権力」:牧人(羊飼い)が羊の群の一頭一頭に心を配るように、各個人をその内面からとらえ、たえず監視しているような権力のあり方。この権力のあり方は、キリスト教の教会での告白(懺悔)を原型として、「近代国家」へと継承された。この権力は、上から個人を抑圧するのではなく、むしろ下から、すなわち個人に内面を語らせて、それを教え導くことで、個人を主体(subject臣民)として確立=服従さて、支配の関係のなかへ自発的に巻き込ませるのである。
 

 欲望を抑圧するのでなく、喚起しそれをまとめ上げることで成立する権力のあり方
 
  アルチュセール
 『イデオロギーーと国家イデオロギー装置』(1970)  
  生産関係の再生産はどのように達成されるのか
 イデオロギー(支配集団の利害を正当化するのに都合のよい、共有された理念ないし確信)
を人びとに植え付ける
  生産関係をすすんで形成する主体を再生産する場=国家イデオロギー装置
   政治、宗教、法律、家庭、学校、マスメディア、文化
 イデオロギーそのもの:人を呼びかけて答えさせることで主体にするもの

 結  
 近代と言う時代は、まさに個人を呼びかけることで主体(臣民)とし、その欲望を喚起し巻き込みながら管理していく、そういう権力が作動している時代である。  
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by takumi429 | 2007-05-11 00:23 | 社会学入門 | Comments(0)

8.フロンティアの喪失―――アメリカ社会学史への一視角―――

8.フロンティアの喪失―――アメリカ社会学史への一視角―――
 
アメリカ社会学の歴史をどのようにとらえたらいいだろうか。本稿は、それをフロンティアの喪失という観点からとらえてみることにしよう。
                            
1.ロック:新大陸開拓の承認
 イギリスの社会契約思想家ジョン・ロックはその主著『統治二論』のなかで、「土地の持つ潜在的能力を開花させるものがその土地を占有する資格を持つ」と説いた 。
 ロックのこの主張は、新大陸開拓の植民地の指導者たちを狂喜させた。なぜならインディアンを追いやって、土地を開拓していく彼らの行為がこの説によって正当化されたからである。
 
2.スペンサーの社会進化論:弱肉強食の承認
 弱者たるインディアンを攻め滅ぼし、アフリカから奴隷を連れてきて働かせる。こうした新大陸の論理をさらに正当化するものとして現れたのが、スペンサーの社会進化論である。彼の主張によれば、社会は動物の世界と同様に、弱肉強食であり、より進化しより適応力をもったものが、不適合な者を追い越して、繁栄していくのである(適者生存suvibal of the fitest) 。

3.スペンサーの死
 パーソンズ (Talcott Parsons 1902~79)はそのはじめての著作『社会的行為の構造』(1937)の冒頭で、「スペンサーは死んだ」と述べた 。それはすなわちすでにアメリカは社会ダーウィニズムの当てはまるような、外へ向かって膨張していく、またその膨張によって社会内部の対立矛盾が解消されるような社会ではなくなったことを意味していた。
すなわちフロンティアはもはや消えたのである。

4.ホッブズ問題
 フロンティアがなくなれば、いまやきまった土地のなかでお互いが取り分を求めて競い合うことになる。ひとつのパイを取り合うように、人は互いに敵対しあう。こうした問題をパーソンズは「ホッブズ的問題」と呼んだ。
 もしひとびとが自分の利益だけにはしって行為するなら、それはホッブズが『リヴァイヤサン』で描いた「人が人にとって狼であるような状態」になってしまう。そうして状態はどうしたら避けることができるのか、つまり「諸個人が功利的に行為する場合、どうすれば社会秩序は可能となるのか?」という問題、すなわち、彼が名付けるところの「ホッブズ問題」が生じることになる。
 この問題をパーソンズはどう解決しようとしたのであろうか。
 
4.1共通価値の受容
 パーソンズはこの問題を、「共通の価値の受容」ということで解決しようとした。「人が人にとって狼であるような状態」では、ひとはおたがいの出方(行為)を探り合い、結局、「両すくみ」の状態になって、身動きできなくなってしまう。この状態をパーソンズは「ダブル・コンティンジェンシー」と呼ぶ。ひとびとがたがいに、共通の価値と、それを実現するための様式(規範)受け入れることで、この「両すくみ」の状態は克服される、そうして社会の秩序は可能となる、そうパーソンズは考えた。 
 この共通の価値と規範の受容は二つの側面をもっている。ひとつは 共通の価値・規範を各人が自らのものとすること(内面化)、もうひとつは、共通の価値・規範が具体的な社会制度のかたちをとること(制度化)、である。
 
4.2 相補的役割関係
 共通の価値の受容は、パーソンズによれば役割というものが互いに支えあっていること、むずかしく言えば、一定の役割期待の相補性が成立していることを意味する。
 『社会体系論』(1951)の冒頭の献辞で、彼は妻に、病みがたい理論病患者にとって得難い均衡をもたらした、と感謝の言葉を述べている 。
 要するに、仕事をする「ぼく」、それを支える「君」というわけである。「君作る人、ぼく食べる人」というコピーがかつてあったが、それと大差はない。ともに「家庭は大切だ」という価値観を受け入れて、そのなかで補いあう(?)ような役割分担をしているというわけである(まあ男のかってな言いぐさといわれてもしかたないようなものである)。
 パーソンズはこうしたお互いに補いあうような役割関係が社会の大系を作り上げているとみる。たとえば、医師と患者もそうした相補的な役割関係である。
 
4.3 構造-機能主義
 パーソンズの描く社会は、地位-役割の体系としての社会である。地位の構造に埋め込まれた個人がその地位にふさわしい役割を演ずることで、社会の安定は維持されるのである。社会の構造に入れられた個人が、社会の安定に寄与する機能を果たすことで、社会の構造が維持されることを考察するのが、彼の「構造-機能主義」だったのある。
 
4.4幸福な社会=アメリカ
 こうした理論の背後には、50年代、世界でもっとも成功した社会としてのアメリカがある。つまりそれは「幸福な社会の完成体」としてのアメリカがある。しかしそれがたえず、自己を肯定しその価値観を宣伝し教え込まなくてはいけない社会でもある。じつはそれはそれを裏切る造反への不安がたえず抱えている、そうした社会でもあった。
 
5.1アメリカン・ドリームの功罪
 「アメリカ・ドリーム」と呼ばれるものがある。すなわち、アメリカではあらゆる人に成功の可能性がある、というものである。だがフロンティアの喪失の後、ある者の成功は他者の失敗を意味する。成功した者は他者に追いやられないために、その手段を独占しようとする。それでも成功しようとするものはその独占をうち破るか、あるいはまともではない手段を使ってでも成功しようとする。
 パーソンズの弟子のマートンが、デュルケームのアノミー概念を改変しつつ解き明かそうとしてのは、この問題である。
 
5.2 マートンのアノミー概念
 デュルケームのアノミー概念というのは、欲望の無制限な増大による無規範な状態を意味していた。彼のとらえた近代の病根はこの無制限な欲望の増殖という現象であった。
 マートンのアノミーのとらえかたはすこしちがう。マートンによれば、ある種の社)では「成功せよ」という文化的目標がつよく強調される。しかしそれを実現するための手段は問われない。その結果、人びとはまともな方法、すなわち、社会において制度的にきちんとみとめられ、できあがった手段をとらず、手っ取り早い手段をとるようになる。こうして生まれる無規制状態をマートンは「アノミー」と呼ぶのである
 アメリカは金銭的に成功するように人びとに圧力をかけている社会である。しかしそのための手段はあまり問われないため、人びとは非合法な手段を使ってでも成功しようとする。それがアメリカン・ドリームがもたらしている、アメリカの無規制状態なのである、とうのがマートンの考えていたことである。
 
5.3アメリカン・ドリームへの対応
 マートンは、文化的な目標とそれを実現するための(まともとされ、制度的にできあがっている)手段にたいして、どのような態度をとるかによって、人びとのあり方は5つの分類できるという 。
 Ⅰの「同調」は、社会が設定する目標をまともなやり方、つまり社会が認めた手段で達成しようとする人たちのありかたである。
 Ⅱの「革新」は、同じく社会が設定する目標を求めているが、まともではないやり方でそれを手に入れようとする人びとである。たとえば、ギャングのカポネのような人間を考えればいいだろう。
 Ⅲの「儀礼主義」の人びとは、もはや社会がいう目標を達成する気などなくなっている。しかし、社会的な決まりは守っていこうという人びとである。
 Ⅳの「逃避主義」の人びとは、社会的な目標も求めてはいないし、そのための努力も放棄してしまっている人びとである。
 Ⅴの「反抗」は、社会が標榜する目標もそのための手段にも疑問をもち、あらたな価値観によるあらたな目標とそのための手段を提示する。
 
     個人の適応様式の諸類型
  適応様式     文化的目標   制度的手段
 Ⅰ 同調        +       +     +は従う
 Ⅱ 革新        +       -     -は従わず
 Ⅲ 儀礼主義      -       +     ±は従わず別のものを提示
 Ⅳ 逃避主義      -       -
 Ⅴ 反抗        ±       ±
 
 マートンがいう「反抗」とはいかなるものなのか。それを具体化するような形でアメリカで現れたのが、「カウンター・カルチャー」と呼ばれる文化運動である。
 
5.1 カウンター・カルチャー
 60年代後半から70年代前半にかけてアメリカ西海岸では、「カウンター・カルチャー」(counter culture)と呼ばれる文化的運動が起こった。「対抗文化」とか「 反体制文化」とも訳されるこの運動は 、社会の既存価値観や慣習に反抗する若者の文化・生活様式であった。60年代末期のロック・ムーブメントは基本的にこの文化運動の影響下にあったと言ってよい。
 
5.2 映画『卒業』
 この時代のムードを先取りするように現れたのが、1967年ダスティン・ホフマンが演じた『卒業』という映画である。
 主人公の青年は東海岸の大学を優秀な成績で卒業し、家族のいる西海岸の家に帰ってくる。プールつきの立派な家に帰ってきた彼は、しかしどうもそこでの生活になじめなくなっている。やがて彼は幼なじみのエレインの母親と不倫関係になります。そして仲が良さそうにみえていたエレインの両親がじつは離婚寸前であることを知る。こうして彼は、日常生活の裏側を知り、そこに入っていく」。
 彼がかつてはなじんでいた家族との生活になじめず、まるで異邦人のような気分になっていることを表すシーンにこんなのがある。優秀な成績で卒業したことを祝って、彼の父親は息子に潜水服をプレゼントする。むりやりそれを着させられた彼の目に映る情景が潜水服の中からの視線で映される。8ミリをもってはしゃいでいる父と母。主人公は潜水服着せられ、ぎこちない動きでそれをみている。結局かれはプールに潜らされ、プールの底から水面を見上げ、「パパ・・・」とつぶやく。
 同じ年、「ドアーズ」(doors)というロック・バンドがアルバム『まぼろしの世界』(Strange Days)のなかの「まぼろしの世界」(People Are Strange)という曲でつぎのように歌っている(作詞ジム・モリソン)。
「きみが異邦人(stranger)であるとき、ひとびとは見慣れない奇妙なもの(strange)になる。」
 この詩で歌われたのと同じように、『卒業』の主人公はまさに異邦人の目でまわりの人びとを見、そのため日常生活を営むひとびとがまるで奇妙な存在に感じられる。
 主人公はやがて幼なじみのエレインと恋仲になるが、彼の不倫相手の母親とそれを知った父親は、急いで娘を別の男と結婚させようとする。結婚式に駆けつけた主人公は教会のガラス越しに、いままさに進行しつつある結婚式を見る。もう手遅れだ、と思った主人公は思わずガラスを手で打ち「エレイン」と叫ぶ。すると突然、式は停止し、彼女は彼を見つめ。それに勇気を得た彼は、式場から花嫁エレインを奪い去り、ふたりしてバスに乗り込み、映画は終わる。
「もう決まったことだ」、「動かしようのないことだ」と思われた日常は、じつは意外にもろいものだった。異邦人の目で日常生活を眺め、それを突き崩していく青年。まさに「反抗」のタイプの人間が登場しつつあったのである。

5.3 エスノメソドロジー
 同じ1967年に ハロルド・ガーフィンケル(Harold Garfinkel 1917-という社会学者の『エスノメソドロジー研究』(Studies in Ethnomethodology) という論文集が出版され。
 この「エスノメソドロジー」という奇妙な名前の学問は、ひとびとがどのように日常生活を作り上げていくか、その方法を、まるで異邦人のような違和感をもちながら、調べていく。
 
5.3.1 エスノメソドロジーによる実験
 ガーフィンケルは、たとえば、学生に「家にかえったら、下宿人になったつもりで、親と会話しろ」と言う。当然、親子の会話は齟齬をきたす。
 たとえば、
親:「あれどうだった?」
子:(下宿人になったつもりで)「あれって、なんですか。」
親:「だから今朝言ってたやつだよ。」
子:「おっしゃることがわかりません。」
親:「お前、どうしたんだ。熱でもあるのか。」
 こうした齟齬をきたした会話からわかるのは、なにげない会話でもじつはその前提となる共通の理解されたもの(「背後理解」)があることである。
 またガーフィンケルは、学生に、「お店で値切ってみろ」と指導する。
 定価販売になれたアメリカの大学生は値切ることなど思いもつかない。品物の値段は「決まったもの」だと思いこんでいる。しかし実際に店の人に、「もう少し安くなりませんか」と聞いてみると、じつはけっこう値引きしてくれるものなのである。
 つまり、日常のふつうに進行していることがじつはかなり込み入ったことを前提にしていたり、「決まりきったこと」だと思っていたことが、じつは案外「やわ」であることがわかる。このように、ひとびとが「あたりまえ」と思っていることを浮き出させ切り出していくのがこの学派のやり方である。またその根底には、社会はあるものではなく作り上げていくものである、という考えがある。
 この学派はまさにマートンが予感した「反抗」の季節の産物といってよいだろう。

6.まとめ
こうしてアメリカの社会学の歴史は、フロンティアの喪失という宿命的な課題との格闘を通じて展開されてきた。フロンティアとは外部への侵出する際の前線を意味する。すなわち、外部へと侵出することが不可能になったときフロンティアは失われる。その後のアメリカの政策は絶えず外部を作り上げそこへと侵略しつづけることで自己を維持していきたように思われる。その意味でアメリカの社会は社会学者たちが立ち向かった問題の解決を回避つづけてきていると言えよう。
 侵略すべき外部の喪失という観点でみるなら、それはけっしてアメリカ一国の問題ではない。それはむしろ私たちが解決すべき問題でもあると思われる。


1.ロック『統治論・第二篇』宮川 透訳、中央公論社、世界の名著、1968
2.コント 霧生和夫.清水禮子 コント・スペンサー 世界の名著36, 中央公論社1970
3.タルコット・パーソンズ著/稲上毅・厚東洋輔/共訳 社会的行為の構造木鐸社1976
4.タルコット・パーソンズ著,佐藤勉訳:社会大系論、青木書店1774
5.マートン(著)、森東吾ほか(訳):社会理論と社会構造、みすず書房1961
6.Harold Garfinkel : Studies in Ethnomethodology, Blackwell Pub.,1984
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by takumi429 | 2007-05-10 21:40 | 社会学入門 | Comments(0)

8.ラジオ

8.ラジオ
無線による音声・音響の放送,およびその受信機

歴史
1864年J. C. マクスウェルによる電磁波の存在の予言
1888年H. R. ヘルツによるその存在の実証
1895年イタリアの G. マルコーニが無線通信の基本技術を発明。
1904年J. A. フレミングの二極真空管の発明
1906年L. デ・フォレストの三極真空管の発明
第一次世界大戦 中無線電信・電話は,に急速に進歩。こうした技術の発達を背景に,一般公衆を対象とするラジオ放送が生まれた。
1920年11月2日、アメリカ,ペンシルベニア州ピッツバーグの KDKA 局が行ったハーディング大統領の選挙報告(世界最初の正式放送)。
1921年フランスでラジオの正式放送はじまる。
1922年イギリス、ソ連でラジオの正式放送はじまる。
1923年ドイツ、ベルギーでラジオの正式放送はじまる。
1924年イタリアでラジオの正式放送はじまる。
1925年3月22日(これがのちに放送記念日となる)日本でラジオの正式放送はじまる。
社団法人東京放送局が東京芝浦の仮放送所で放送を開始。翌26年8月,東京,大阪,名古屋の3局が合併,社団法人日本放送協会が設立され,日本のラジオ放送の普及が精力的にすすめられた。
1951年最初の民間放送のラジオ(中部日本放送と新日本放送(現,毎日放送))も開局された。

国民的同調装置としてのラジオ放送
1933年よりローズヴェルト大統領第「炉辺談話」(ファイアーサイドチャット)
1933年ドイツのナチ党のヒットラー首相になる
ラジオは宣伝省(大臣ゲッペルス)管轄下に
「国民受信機301」(フォククスエンプゲンガー)の販売普及につとめ、1938年には
世帯普及率は70%をこえる。
「強制的同一化」(Gleichschaltung)←「同調する」gleichschalten
1928年昭和天皇即位のラジオ実況
御大典記念事業として「ラジオ体操」始まる
「大本営発表」のラジオ放送
1945年8月15日「玉音放送」 敗戦を8月15日と錯覚。公式には9月2日降伏文書調印が終戦争であるべき。ラジオ放送の影響の大きさの皮肉な実証。
ラジオ・デイズ
1928年~アメリカのラジオの隆盛。アクション冒険物と芸人による寄席演芸風のコメディがラジオにあふれた。
1930年クロスレー聴取率会社が設立され、聴取率競争が進行。大恐慌による経済停滞から第2次世界大戦へと社会情勢が緊迫化していく中、ラジオはいぜん好調で、人々は夜は家庭でラジオの娯楽番組や冒険物語にくつろぎ、戦争と恐慌の時代の緊張から解放された。
日本では1950年の朝鮮戦争による好況とスーパー受信機の普及により、ラジオの成長がつづいた。庶民感覚の娯楽番組、地元密着の情報番組、在野ジャーナリズムにたったニュース報道番組など、民放ラジオは聴取者に好感をもってうけいれられた。一方、NHKもこれに対抗して「とんち教室」「20の扉」「陽気な喫茶店」「夢声百話」「社会の窓」など強力な娯楽情報番組をそろえ、大衆路線をひろげた。その中から「君の名は」の大ヒットが生まれた。

マス・パーソナル・コミュニケーション
1950年代テレビジョンの出現、ラジオは聴取者をテレビに奪われ,広告メディアとしての地位も急速に低下。
生放送を軸に身軽に動ける特性を生かした生活情報,音楽番組中心の番組編成,あるいは特定層を対象とした番組に活路を見いだす。
60年代後半 若者向け深夜放送 (森本レオも東海ラジオのパーソナリティだった)
90年~『ラジオ深夜便』高年齢層を対象としたラジオ番組

ラジオのもたらす世界
 考察の手がかり
1.オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』の放送を聞いた人々が本当に火星人が襲来してきたと思いこみ大混乱を起こした。

「オーソン・ウェルズ
アメリカの俳優、監督、プロデューサーとして活躍したオーソン・ウェルズは、はやくから演劇の世界に入り、斬新(ざんしん)な舞台づくりにとりくんだ。1938年にH.G.ウェルズ原作による「宇宙戦争」をラジオドラマ化した際、放送を聞いた視聴者が実際に異星人から攻撃されていると思いこんでパニックになったのは有名な話である。その後、映画史上の最高傑作にかぞえられる「市民ケーン」(1941)を製作し、監督、脚本、主演までこなしたが、そのとき彼はまだ25歳の若さだった。 」

2.満州国から日本住民を置き去りにして関東軍は逃げ去った。その際、逃走の混乱を免れるために住民にまだ安全だからとどまるようにと放送した。満州国内の日本人民間人はそれを信じたため逃げ遅れた。

人間は自分の声を聞いている。声を発するたびに自分へも語りかけている。外に向かう声を「外語」、自分にもどってくる声を「内語」とするなら、「外語」は絶えず「内語」へと重なってくる。
映画が「夢のすりかえ」をもたらすものだとしたならば、ラジオは「内語」(独白)のすりかえをもたらす装置なのかも知らない。
それに比べれば視覚というのは対象と距離をもちそれを突き放すかなり批判的な感覚である。
声の作り出す世界は一体感のある、包み込むような世界である。それは直接的で情動的ですらある。ラジオがもたらす世界は直接我々の情動に働きかけるような空気の波動のような世界であり、そこでは本来の場所の感覚が失われる。
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by takumi429 | 2007-05-09 23:59 | メディア社会学 | Comments(0)

7.映画

7.映画
スクリーンには1秒間に24コマが連続して映写される。人間の目がある映像をうけとって脳に情報をおくり、インプットされて1つの映像として理解するまでには0.25秒かかる。したがって、24分の1秒ごとに映像の情報をおくると、像がきえるスピードを上まわり、前の映像がのこったまま(残像現象)次の映像が重なる。その結果、スクリーンにうつった映像は1つになってみえ、人や物体の動きを連続してとらえた写真は、連続してうごいているような錯覚をあたえる。

歴史(以下他サイトからの引用による構成)
ソーマトロープ1825年、J・パリスとW・フィトンによって発表された。表と裏にちがった絵のかかれた丸い板で、両はしにつけられた糸の反動でくるくる回転するようになっている。
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フェナキスティスコープ1832年にベルギーの数学者プラトーが考案。同じころほとんど同じ道具(ストロボスコープ)をウィーンのシュタンプファーも作っている
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ヘリオシネグラフフェナキスティスコープを改良して、鏡を使わなくても見られるようにした道具。スリット(切れこみ)の入った板とは別に絵のかかれた回転ばんが取り付けてある。。この2枚の板を同時に回転させ、スリットからのぞくことによって鏡に映したのと同じように、動く絵を見ることができる。

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ゾートロープ
スリット(切れこみ)を使って残像現象(ざんぞうげんしょう)を作り出す装置。1834年にイギリス人のウィリアム・ホーナーが発明。回転するように作られたつつの内側にアニメーションのもととなる絵が同じ間かくでかかれている。つつを回転させスリットから中の絵をのぞくことによって、動く絵を見ることができる。

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プラクシノスコープ1877年、自然科学の教授だったエミール・レイノーが開発。ゾートロープはスリット(切れこみ)を利用した残像方式だったが、プラクシノスコープは、これを鏡を利用した残像方式に改良した道具。上からのぞきこめるので、ゾートロープよりさらに多くの人が一度に見ることができた。
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1882年、レイノーはプラクシノスコープを改良して投影式のプラクシノスコープを作成。鏡に反射させた映像をスクリーンに映し出した。
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テアトルオプティーク 1888年、エミール・レイノーが完成。投影式のプラクシノスコープをさらに発展させた物で、パーフォレーション(フィルムの穴)もつけられた、透明のフィルムを上映するという本格的なものだった。
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エジソンのキネトスコープ 1894年 エジソンのキネトスコープ kinetoscope 1893年のシカゴ万国博覧会でキネトスコープを発表。「のぞきからくり」とも呼ばれたように、拡大して映写することはできませんでしたが、アニメーションではない動く白黒の写真を見ることができた。エジソンは世界で最初の映画撮影スタジオを設立すると、エドウィン・S・ポーターらを配下に数多くの劇映画作品を生み出した。

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くしゃみの記録」(1894年)

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「アーウィンとライスの接吻」(1900年)

ビオスコープ bioscopeドイツのスクラダノフスキー兄弟によるふつうのロールフィルムで撮った連続写真をスクリーンに拡大映写した。シネマトグラフ 95年12月28日,パリのグラン・カフェの〈インドの間〉で世界最初の有料試写会が行われた。


リュミエール兄弟が発明した撮影機
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「工場の出口」(1895年)

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ラ・シオタ駅への列車の到着」(1897年)

フランスの奇術師ジョルジュ・メリエス ファンタジー「月世界旅行」(1902)
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ポーター監督の《大列車強盗》(1903) 〈ストーリー・ピクチャー(劇映画)〉05年- ニッケルオデオンと呼ばれる映画館(5セントのニッケル硬貨1枚で入場できたので〈5セント劇場〉)とも呼ばれた)
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グリフィス David Wark Griffith 1875~1948南北戦争(1861~65)をえがいた12巻の長編映画「国民の創生」(1915)
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サイレント・コメディ
マック・セネット Mack Sennett 1880~1960
チャップリン Charlie Chaplin 1889~1977 『街の灯』(1931)
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ヨーロッパのサイレント映画
ソ連 エイゼンシュテイン Sergei Mikhailovich Eisenstein 1898~1948 「戦艦ポチョムキン」(1925)
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ドイツ ウーファ(UFA)


初期のトーキー
ギャング映画とミュージカル映画
カラー映画の発達
イタリア映画の復活
フランス映画とヌーベル・バーグ
ニュー・ジャーマン・シネマ
アメリカの新しい映画監督


小括

残像効果による連続性の幻影のなかに垣間見られる世界
時間は細分化されたのちふたたび連続化される。
連続化においてカメラによってとらえられた時間と空間はさまざまな接合され構成さ
れなおす(モンタージュ)
切り取られ張り合わされた時空間によるもう一つの世界
世界としての統一性のために音楽がしばしば使われる
観客はその世界を享受する
それはしばしば夢にたとれられる世界
だがそれは基本的にアメリカの夢である。
映画は圧倒的にアメリカ映画である。
ハリウッドは世界中の映画の才能を自らのもとに集めて発信しようとする。
「夢のすり替ええ」がおきているのかも知れない。
黒髪の少女の手を握った学生服の少年の夢は
ブロンド娘を抱く毛唐の男の夢にすり替えられる
映画館の集中した雰囲気のなかで
監督が構成しなおした時空間の世界に浸りきる。
抵抗と批判はむずかしい。
茶の間で会話をしながらそれを解体する作業はテレビの出現を待たねばならなかった。
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by takumi429 | 2007-05-06 20:30 | メディア社会学 | Comments(0)

患者の語りにおけるメタファー

以下の内容は大阪の看護師たちの自発的勉強会「楽学舎」の10周年記念シンポジュウムで勝又が話した内容を増補改訂したものである。

 楽学舎のみなさん、お久しぶりです 。
 皆さんの前で看護理論について話してからもう8年が過ぎてしまいました。
 あれから今日に至るまで何をしていたかというとから、じつはこれと言ったこともせず、毎日ぼう然と暮らしていました。
 ですが、あえて何をやっていたかというと、「ナラティヴ・セラピー」というカウンセリングについての勉強会を名古屋でやっていました。
 ナラティヴというのは「物語り」のことです。心理の問題を抱えた人の多くが、自分を虐げるような物語の中に自分を置いていることがじつは多い。そういう人が生き生きと自分を解放できるようなのびやかな物語りを話し合いながら一緒に編み出していこう、あるいはクライエントが生み出すのを手伝っていこうというのが、「ナラティヴ・セラピー」に対する、私のつたない理解です 。
 そこで私が疑問に思ってきたのは、そういった新しい物語りはどんな風に生まれてくるのか、そのきっかけというか、端緒というものはどういうものなのか、ということです。
 そんなことを思っていたところ、たまたま知り合いの手術看護婦の方(Tさんとしておきましょう)からある話を聞きました。今日はその話でもしてお話に代えたいと思います。
 Tさんはもともとは病院の窓口で働いていたようで、30歳になってから看護婦に転身した人です。おかげでというか、どうも看護の空気になじめないでいるようです。
 ある日、初老の女性患者を術前訪問しました。彼女は糖尿病の悪化で片足を切断する手術を受けることになっていました。てきぱきと質問と説明をできないTさんに対して、患者は一時間の長きにわたって物語ったそうです。
 途中、師長から呼び出しがあり、師長いわく「遊んでいるかと思った」とのこと。「だって患者さんはやっぱり不安だからついつい長く話すでしょ」とTさん。
「なるほど、そうだろうね」と私。「でもそのひとは『不安』なんていう言葉をその人は使っていたの?」。「うん、たしかに『不安』ていう言葉は使ってなかった」。しばし考えていたTさん、「そういえば、『足に悪いことをした』って言ってたわ」。
 私は思わず、口をぽかんと開けてしまいました。でも気を取り直して、「それからどんなことを言ってたの?」。「ふん」とTさんは考えて、「『私は昔から病気と付き合ってきた、お父さんの看病や義理のお母さんの看病やら、ずっとしてきた』と言ってたわ」。「それで?」。「ふん」、Tさんはだまりこんでしまいました。「じゃ、思い出したらまた教えて」と私は言いました。 後日、Tさんからメールがありました。「あれからずっと思い出そうとしたんだけど何も思い出せません。私は一体一時間も何を聞いていたんでしょう」。
 この患者の話に私がこだわったのは「足に悪いことをした」という言い方の意外さでした。これはいったいどんな意味があるのでしょう。
 まず問題を外堀から埋めていくことにしましょう。
 Tさんを呼びつけて看護特有の嫌みを言った師長は術前訪問としてどんなことを考えていたのでしょうか。
 おそらく手術に関わるいくつかの質問項目をてきぱきと聞き出すということを考えていたのでしょう。同時にこの術前訪問は、「これからあなたはこれこれの手術を受けることになる、覚悟せよ」という宣告にもなっているのでしょう。
 患者の状態は質問の項目だけ切り取られ、後は手術の予告があるのであって、じつは「患者(うだうだした)話を聞く場ではない」とされているのでしょう。
 ここでは患者は、手術という、生物機械への「修理」の観点からだけとらえられ、そのための質問用紙に転写されているわけです。
 それに対してTさんはどうでしょうか。Tさんの頭の中には、「手術前の人間は不安のためにさまざまな訴えをするものだ」という考えがあります。ですから患者の訴えをみんな「不安」あるいは「不安のなせる業」という箱の中に放り込んでしまいました。
 よく外国語で話しかけられた時のことを思い出すと経験することなのですが、日本語ではなんと言ったかは言えるのだけど、その外国人が外国語で実際にはなんて言ったかは思い出せないということがあります。日本語に翻訳されると元の言葉は忘れてしまうのです。
 Tさんの話もそれに似ています。Tさんは患者の話した話を次から次へと「不安」という言葉に翻訳してしまったためにかんじんの元の「語り」を忘れてしまったのです。
 でもTさんが新米でしかも「看護ずれ」していない手術看護婦だったの幸いしたのかもしれません。患者の話を真に受けてしまう、そのナイーブさが、患者の「語り」を引き出すことに成功したのかもしれません。
 さて、患者が言った「病気とずっとつきあってきた」という言い方をしていました。ここでは病気はつきあう相手、つまり人間のようなものにたとえられています。すなわち擬人法というレトリックが使われているわけです。擬人法は、人でないものをひとのように見立てることです。似ているということをつかって、「見立てる」こと、つまり「~を・・・として見る」ということは「隠喩」(メタファー)と言います。だから擬人法は隠喩の一種です 。
 ここでは、これまで病人の看病をしてきたという経験と、これから糖尿病がもたらした片足切断によって障害者として生きて行かなくてはならないという未来とが、「病気とつきあう」という擬人化によってくくられています。つまり「病人の看護」と「障害を持ちつつ生きていく」とがともに「病気とつきあう」という言葉でくくられているわけです。
 こうすることで患者はこれまでの過去を、病気とつきあう人生という形で整理して、これからの障害者として生きていく未来とを連続するものとしてつないでいるのです。
 レトリックは言葉によって人を説得する術のことです。メタファーもそうしたレトリックのひとつです。しかしレトリックは他人を説得するだけではありません。この患者の場合には、自分を、今後の障害者としての人生を、自分に納得させるために、このレトリック使われているわけです。
 さて、問題の「足に悪いことをした」という表現はどうでしょうか。
「悪いことをした」とか「すまないことをした」とか言われるのは、あくまでも人間に対してです。ですから、ここでは足は人間のようにとらえられています。つまりここでも擬人化がなされているわけです。
「悪いことをした」というのはどういう意味でしょうか。おそらく片足切断という状況になるまで糖尿病の治療を十分にしてこなかった。だから今回の切断は、ある意味、自業自得なのだと、自分に納得させようとしているのでしょう。
 では、まるで人格があるかのように「足」について語るのにはどんな意味があるのでしょうか。
 実はここで私が思い出したのは、井上ひさしさんの「しみじみ日本・乃木大将」というお芝居です。このお芝居では、乃木大将の軍馬3頭と近くの牝馬2頭が、「人格」ならぬ「馬格分裂」を起こし、各々前足と後足に分かれて、乃木大将のその時々の場面を演じ、乃木大将という人物を語るという趣向になっています。「足に悪いことをした」と言った瞬間、足は別の人格を持つものとして患者に相対しています。それは患者とは別のものです。つまり患者はすでに、自分とは分離し別個のものとなった足のことを考えているのです。つまり、片足が切断された後の状態を患者はこの喩え(擬人化)で知らず知らずのうちに、先取りしようとしていたのもしれないと考えられるのです。
 こうして、片足切断の手術を直前に控えた患者は、「足に悪いことをした」というレトリック(たとえをつかった説得の方法)によって、片足喪失の状況を生き抜いていく自分の物語りを紡ぎ出していくのです。切断される自分の足を別個の意思をもつ者にたとえることで、足をこれからなくすという話から、足を喪失して後その状況を生き抜いていく話へと、患者をつつむ物語りは転換していき、足の擬人化(たとえ)はその転換の接続点となっているといえるでしょう。
 こうしてみると、私たちが自分を立て直す新しい物語りを作るとき、メタファー(見立て)はその新しい物語生成の核(種)となっていくのではないか、とも考えられるのです。
 ここですこし一般的な話をしてみましょう。
 私たちが事態のとらえ方は実はあまり多様ではありません。じつは自分の体で経験したわずかなパターンを使い回しているだけかもしれません。そのとき私たちは、慣れない事態を見立て(メタファー)によって慣れ親しんだパターンに還元していることがしばしばです。
 それがメタファーとも気づかないほど当たり前になって言い回しはいっぱいあります。
 たとえば、「男に捨てられた」というような言い回しはしばしばありますが、「捨てる」ことができるのは品物です。そこでは「私」は使い捨てされる「品物」に喩え(見立て)られています。さらに「捨てる」という言葉の連想から「さんざんいいように使っておいて、ボロぞうきんのようにポイと捨てた」という具合にどんどん隠喩の中で連想が展開していってお話を作っていきます(こういうメタファーの展開のことをアレゴリーといいます) 。「別れた」を「捨てられた」と見立てることで、男女の別れ話は、品物を使い捨てる話へと移しかえられていきます。つまり男女の別れの話(概念体系)が、ものを捨てる話(概念体系)へと写し取られています。その写し取り(写像)の端緒となったのは、「別れる」という事態を「捨てられた」というたとえ(メタファー)で語ったことにあります。そうすることで二人の別れの話は、ものを捨てる話へと写し取られて、ものを使い捨てる話(概念体系)のなかで理解されていきます。
 レイコフという言語学者はメタファー(隠喩)を「ある概念を別の概念と関係づけることによって、一方を他方で理解する」するという頭の働かせかたであるとしています。そしてAの概念体系の要素(たとえば「別れ」)をBの概念体系の要素(「捨てる」)に対応させ(写像し)、さらにその写像をさらにどんどんして、Aの概念体系とBの概念体系が対応されることを「概念メタファー」と呼んでいます 。
 私たちが実感を込めて経験的に理解できることというのは実は限られています。私たちはそのままでは理解しがたい事態を、すでに慣れ親しんだお話へと移しかえ、それを展開していくことで、そのままではなかなか理解できないような事態を、理解できるものへと変えていくのです。
 私たちが慣れ親しんでいる常套句(クリシェ)はこうした陳腐な喩えによるすり替えに満ちています。しかしこうした陳腐な言い回しによるありふれた物語りの圧政の下で虐げれている自分がいます。そのとき、それまでとは違う喩え(見立て)をすることで、自分を別の物語りへと解放していくことが求められるのかもしれません。
 しばしば「夫婦の絆」という言い方がされます。「絆」とはもともとは「動物をつなぎとめる綱」のことだったそうです。本来はメタファーです。でももうそれを意識しないほど当たり前になった言い方です。しかしその喩えで考えるかぎり、夫婦の関係は強固で、それを失った者は、まるで「糸の切れたたこ」みたいに思えてくるでしょう。でももしここで誰かが夫婦なんて「ポスト・イットみたいなもんよ」と言い出したらどうでしょうか。この喩えは夫婦に対するまるで違った見方をもたらすかもしれません。
 陳腐でそれだけに逃れがたい物語りのくびきから逃れるために、人はたとえ(メタファー)をつかい、それを種にして新たな物語りを生成していくのではないのだろうか。片足切断の手術を目前にした患者の一言から私はそんなことを考えます。
 ではこうしたメタファーについてナラティヴ・セラピーではどのようにあつかわれているのでしょうか。家族療法の代表的な学会誌『Family Process』 に「メタファーを聞く」という興味深い論文が載っています 。
 メタファーというのは、ホワイトが遺糞症をスニーキー・プーと名付けて外在化し有名な事例に見られるように、決して家族療法では注目されてこなったことではありませんでした。しかし家族員たちがみずから語るメタファーについてはこれまであまり注目されてきませんでした。しかし著者たちは言います。「私たちの考えでは、メタファーは、思考の物語様式の最も小さい単位であり、家族の「世界制作」の行為を定め保持する意味の多義性の織物への理想的な入り口点である。」(Fam Proc 36:341, 1997)
 そして著者たちは、「家族が生み出すメタファーを使ってカウンセリングしていく7つのステップ」なるものを提唱しています。そこでは患者が何気なく行ったメタファーにカウンセラーが気づき、それを押し広げて、家族員全体を巻き込んだお話へと展開していくことが提案されています。
これはまさにメタファーが概念体系から別の概念体系への写像であり、別の概念体系のなかでアレゴリーによって話を展開することを言っているにほかなりません。
レイコフと同じように、著者たちは言います。「物語りが作られるのは、そして私たちの文脈でいうなら、私たちの環境に人間的な形と意味が与えられるのは、おもに、メタファーをつうじてなのである。」
 ところで概念体系から概念体系への写像を考えてみると、それは必ずしも言語の概念体系から言語の概念体系への写像とは限らないでしょう。言語から絵画への写像もあるでしょうし、言語体系から身振り体系への写像もありえるわけです。
 そこで興味深いのは著者たちがあげている二番目の症例です。家族は、母エレンと娘7歳、11歳の息子と5歳の息子からなります。離婚した父は再婚。母親は自殺未遂で重傷し回復して退院しています。ここでは、メタファーは5歳の息子の絵です。その絵では、噴火する火山のふもとで助けてと叫ぶ怪獣がかかれています。この絵が家族と彼の言葉にしがたい状態のメタファーなわけです。カウンセラーはこの絵をめぐっての家族員に会話を展開させていきます。そうするうちに、この5歳の男の子は絵を書き変えていき、それはしだいに穏やかな絵へと変わっていったというのです。
 メタファーは言語的なものとはかぎらないのです。
 この症例を読んで、私はある修士論文であげられていた事例を思い出しました。その論文は保健婦について研究したものでした。保健婦が体験した事例として次のようなものがありました。まずそのまま読んでみましょう。
 「医療器具をつけている幼児のIちゃんは言葉で話すことはできないが、行動によって生命維持としての生活を表現する場面がみられた。
 アンパンマンのビデオを見ていた時のことである。急にIちゃんが倒れた。研究者はIちゃんの具合が急に悪くなったのかと驚き、「どうしたんですか?」と母親にたずねた。
 すると母親は『アンパンマンが倒れると、倒れて気管切開の所をはずすの。アンパンマンが助けられると(顔をつけかえてもらう場面)元気になるの。』と答えた。
 Iちゃんは気道が狭窄しており、吸引が必要なため、気管切開術を受けている。Iちゃんはアンパンマンが助けられると、母親に気管切開の所をつけてもらい、立ちあがり、ぱちぱちと拍手した。Iちゃんはアンパンマンが元気ない状態を、気管切開の所がはずれてしまい元気がないことにたとえて表現している。Iちゃんは、気管切開は生命を維持する大切な部分だと感じている。」
 ここではどういうことが起きているのでしょうか。呼吸器をはずして苦しくなるIちゃんの事態がアンパンマンの困窮に移しかえられています。なぜそんなことをIちゃんはするのでしょうか。Iちゃんは呼吸器をはずしては生きていけないかわいそうな子である、そういうお話がIちゃんに与えられています。しかしアンパンマンは顔を取り替えることで元気になりバイキンマンをやっつける英雄となります。こちらの話では(呼吸の)苦しみは次の復活と活躍の前段階でしかありません。呼吸器なしではいきられないというIちゃんのこれまでの否定的なお話は、苦しみから復活して活躍するという肯定的な勇気あるお話へと移しかえられているのです。つまりアンパンマンが苦しんでいる時に自分の呼吸器をはずすして、自分の苦しみとアンパンマンの困窮を対応させる、つまり自分の苦しみのメタファーとしてアンパンマンの困窮を対応させるという、ちょっと大げさ言えば命がけのメタファーがここでは行われているのです。
 もちろん、このメタファーは身振りとマンガの絵という、非言語的なものです。それはまだ物語にはなりきってはいません。あたらしい物語を作るには、その周りの人々が、アンパンマンが元気になったように、Iちゃんも呼吸器をつけて活躍するんだね、というようなことを言って、そのメタファーを物語として展開する必要はあるかもしれません。しかしともかくも新たな物語の種はIちゃん自身によって撒かれたのです。
 あたらしい物語はどのように立ち現れてくるのかというのが私の疑問でした。それは思いがけない隠喩(メタファー)の形をとって、それを種(核)として立ち現れてくるのではないのか。いま私が予想しているのはそんなことです。ひとまず私の話はここまでとします。
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by takumi429 | 2007-05-04 10:51 | 物語論 | Comments(0)

6.写真 Photography 

6.写真 Photography 

写真 しゃしん Photography 光によって、ひきおこされる化学変化で、感光面に恒久的な画像を記録する技術またはその画面のこと。

歴史

カメラ・オブスキュラ


「カメラ」という用語は、ラテン語で「暗い部屋」あるいは「暗い箱」を意味する「カメラ・オブスキュラ」に由来する。最初のカメラ・オブスキュラは、1枚の壁にごく小さな穴のある暗い部屋であった。この穴から部屋にさしこむ光は、反対側の暗くした壁に像を映しだす。この方法でつくられた像は上下が逆になり、ぼやけていたが、芸術家たちはフィルムが発明されるずっと以前に、小さな穴が投影する像を手でスケッチするために、この装置を使用した。初期のものから3世紀以上が経過して、16世紀にはカメラ・オブスキュラは手でもてる大きさの箱へと発達し、小さな穴には像をシャープにする光学レンズと絞りがとりつけられた。

ダゲレオイプ

1826年、フランスの発明家ニエプスにより「ヘリオグラフ」として知られる記録上のもっとも初期の写真は作成された。

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31年ごろにはフランスの画家ダゲールは、ダゲレオタイプという写真を発明。ダゲールの方法では露光をするたびに銀板上に像をつくりだすことはできたが、複製することはできなかった。
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カロタイプ

イギリスの発明家タルボットの考案した定着処理は、未露光のヨウ化銀粒子をとかし、銀板全体が黒くなるのをふせいだ。タルボットは何枚もプリントをつくることのできる紙のネガをつかう写真法を考えだした。
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マイブリッジ(米)
連続写真
瞬間の連続としての時間
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マルセル・デュシャン
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「階段を降りる裸体 No.2」1911年    
                 

肖像画写真
フェリックス・ナダール(Nadar)
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記憶の装置としての写真
都市の記憶
ウジェーヌ・アジェ
死んだように静止した都市の肖像
被写体との関係性が写し込まれる
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私写真
センチメンタルな旅・冬の旅 荒木経惟(あらきのぶよし) 新潮社 1991年

荒木「一回妻の死に出会えばそうなる。」 篠山「ならないよ。女房が死んだ奴なんていっぱいいるよ。」 荒木「でも何か を出した奴はいない。」 篠山「そんなもの出さなくていいんだよ。」 (中略)
荒木「虚実とかそういうのを超えちゃって、んなこと、ポンと忘れさせなきゃだめなんだよ。」 篠山「それで何を見ろって言 うの。」 荒木「純粋に写真を見るんだよ。」 篠山「そうじゃないじゃないか。ここにあるのは単なる陽子さんの死にすぎな いよ。彼女の死ということの悲しさが直截に伝わってくるだけじゃないか。」 荒木「それが写真なんだよ。」新潮社の雑誌「波」(1991年2月発行)より

この対談でじつは篠山は荒木に対して敗北宣言も同然の発言をしていることに気づいていない。「彼女の死ということの悲しさが直截に伝わってくるだけじゃないか。」 これ以降、ともに日本写真界を大きくリートしてきた両雄のバランスは荒木に大きく傾くことになった。


痕跡としての写真
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石内都
「石内都は1947年に生まれ、多摩美術大学で染織を学んだ後、 70年代半ばに写真と取り組み始めました。 街や 建物に視線を向けた初期の作品は高く評価され、 79年にはシリーズ「アパートメント」で女性としては初めて、 第 4回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。
1980年代末から90年代を通して、石内の仕事は、 自分と同年生まれの女性の手足を写した「1・9・4・7」など、 人 間の身体の表面を接写する一連の作品を中心に展開してきました。 同い年の同性の手足というモチーフから始 まったこの仕事は、 しだいに年齢や性別を越えて対象を広げて行き、 その過程で石内は傷痕というテーマに出会います。
街や建物を被写体としていた初期の作品でも、石内の写真には、 その場に残る人間の「生」の記憶や痕跡と いったものが色濃く捉えられていました。 人間の身体の表面である皮膚も、 その人の「生」を反映してさまざまな 表情を見せます。 傷痕はそうした身体の表面にあってとりわけ特別な、 時間や記憶の結節点ともいうべきものです。写真家はその特別な意味、 そこにある時間の重みを真摯に受けとめ、 丁寧に写真というもうひとつの表面 に移しかえていきます。 モノクロームの写真の表面に移しかえられた傷痕は、 個としての人の上に起きた出来事 の痕跡であることを超えた何かとして、 それを観る私たちの前に現れます。
「SCARS」を中心に、人間の「生」の記憶や痕跡、そしてそこ に流れた時間を、 さまざまなかたちで写真の表面に移しかえてきた。石内都の写真の本質とその魅力とは直接、モノクロームの印画紙から感じ取れます。」(サイトからの引用)


明治期の小説における家族写真
島崎藤村『家』 
一族の写真から死んでいく子供の写真へ
写真をめくっていくように進行する小説の時間
線状の時間の成立を支えているのが写真の連続である。


小括
写真は光の痕跡として生まれたものである。
記憶が痕跡として残される。
写真には撮る者と撮られるものとの関係性が取り込まれる。
写真的な時間によって我々の時間は細分化され、その連続として構成される。
私たちは決して経験することのない静止した時間のイメージに魅了されつづける。
そこには日常現実とは異なった静止した過去の時間の世界が広がっている。
私たちはそれらイメージの堆積した世界をみずからのなかに構築している。


文献
飯沢 耕太郎 『写真美術館へようこそ』(講談社現代新書)
http://www.masters-of-photography.com
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by takumi429 | 2007-05-02 22:14 | メディア社会学 | Comments(0)

5.電話

5.電話


1876年 アレキサンダー・グラハム・ベル 電話を発明

アレキサンダー・グラハム・ベルは、1875年にこの電話機をつくった。この電話機の仕組みは、導線をまいたコイルでできた電磁石の前に金属製の振動板をとりつけて、音声がその振動板にあたるようになっていた。そして、その振動に応じて導線の電流を変化させるのである。この電流が受信機にながれ、受信機の電磁石に電流の変化をおこして、振動板を振動させて元の音声を再生するものだった。


先行研究

1854年 フランスの発明家シャルル・ブルサールは、に音声によって振動する板を利用して、電気的に通話する方法を提案。

1855年 1861年 ドイツ人物理学者ヨハン・フィリップ・ライスがブルサールの提案を実験し、フランクフルトの物理学界で報告。

1860年 フィリップ・ライス 「テレフォン」:振動膜によって電流を断続させて離れた地点まで送信する装置


電信(文字や符号、あるいは写真などを電気的な符号に変えて隔たった場所で再現する通信)

1837年 アメリカの発明家モース、電信用電気装置を発明。


電話が発明された1876年当時、電信は8500カ所の電信局と21万マイルの電信線がアメリカ全土をおおっていた。

電話は電信のイメージに規定されていた

 想定された使用法:ビジネス用の通信
 当初の従業員:もと電信の従業員


 新しいメディアは古いメディアの内容を引き継ぐことからその歴史を始める

 
有線放送としての電話

 有線ラジオ的な娯楽メディア

1881年 パリ国際電気博覧会  オペラ座・テアトル・フランセの公演中継

1890年 パリの電話会社 市内劇場の公演の実況中継を始める

1896年 イギリスの電話会社 ロンドンの劇場娯楽の電話による送信を始める

1893年 ハンガリーのテレフォン・ヒルモンド 電話を使って方法を開始。以後20年以上にわたって6000世帯の加入者に放送を送った。



女性交換手の登場

 男性交換手(多くはもと電信従業員)の怠惰と粗暴
 女性交換手に切り替えられていった。
 男性が求める女性像に電話交換手は一致したという分析がある。

 
利用者が利用法を発明

 ビジネス中心の用件伝達メディアと開発者たちはみなしていた。
 都市中心、男性中心の拡張戦略
 実際には地方にひろがった。
 女性によるおしゃべりと社交に用いられるようになった。



電話は一日的な公的なメディアから双方向的な私的なメディアへと変化した。
そうした利用の仕方を発見したのはむしろ利用者だった。
日本でも昔は電話が玄関口にあった。それが次第に居間へ、さらに個々の部屋に、さらに携帯へと入り込んできた。


なぜそうした転換が生まれたのか。
聞くことと見ること 聴覚と視覚
聴覚のもつ空間性  包み込むような一体感
母語の担い手である女性が電話でもとめられたのではないか。


電話が作り上げる世界
安岡章太郎『ガラスの靴』(1951年)
村上春樹『若い読者のため短編小説案内』(1997年)の分析

(1)「ぼく」は現実を離れた悦子に惹かれ、彼女を追いかけている。追いかけないわけにはいかない。
(2)しかし「ぼく」が悦子に追いついてしまえば、「ぼく」は彼女を現実化してしまうことになる。現実化された悦子は「ぼく」の求める悦子ではない。
(3)しかし「ぼく」がひとたび悦子を追いかけることをやめたら、今度は現実が単純に「ぼく」に追いついてしまう。(106頁)
電話は現実とは異なるもう一つの世界へ通り道(メディア)として描かれている。

電話は目に見える世界とは異なる、声の親密な世界を作り上げている。そこではいわゆる有意義な情報の伝達は必要ない。

電話機はそうした親密な世界の入り口である。いったんそうした世界が作り上げられたならその世界の回路の上に、文字(メール)や写真(写メール)も伝達流布することができる。
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by takumi429 | 2007-05-02 22:09 | メディア社会学 | Comments(0)