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都市の社会学 パリ 11

都市の社会学 パリ 11
『パリの社会学』 Ⅵ 混成への賭け
社会混成la mixité social (さまざまな職業・階層・民族の人々がともに生活すること)ということが盛んにいわれる。
夜と昼では混成の形がことなる。
映画『アメリ』ではモンマルトルの丘の下の18区西部の混成の様子がうまく描かれていた。
18区西部の就労人口の社会的構成の変遷
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社長・幹部    □
中間職      □灰色
勤労者・労働者 ■

大ブルジョワは仲間内だけで固まって住んでいる。
例:イル・ド・フランス内でのCercle de l'Union interalliée会員の住居の変遷

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Cercle de l'Union interalliée:1917年に第2大統領Ferdinand Fochフランスの元帥がパリ33 Rue du Faubourg Saint-Honoréに作った、排他的な社交・食事クラブである。排他的な3100人の国際的なメンバーが商談などに用いたりする。
クラブ Club 
政治、専門職業、特定のレクリエーションなど、共通の関心をもつ者同士の交流や社交を目的として、定期的につどう人々の集まり。また、その活動の場。個人ないし複数の人が営利のために設立・経営するクラブもある。クラブの会員は人数が限定され、その資格もしぼられてくる。新規の加入は、会員の委員会による審査をへて、会員の投票できめるのが通例である。
Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation.
Neuilly-sur-Seine

大ブルジョワは7,8,16,17区とお隣のNeuillyの狭い所にかたまって住んでいる。


中流の幹部や知的職業たちは、都心の住民が歳を取り商売などをやめてできた住宅にひっこしてくる。しかし学区の問題があって、レベルの低い、移民が多いため、外国語をむしろ生徒が話しているような学校ができたり、そうした学校に子供が通うことには大きな抵抗がある。

棲み分け
貧困層がHLM(habitation à loyer modéré低家賃住宅)などの公営住宅に住む。
都心から西にかけての高いアパートに富裕層が住む。
パリの公営住宅
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中古アパートの1㎡あたりの売値
パリの平均:3989ユーロ(≒664,567円) 
東京23区 平均       899.900円 (2003年)
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〈パリの遊歩者〉
モスク(フランス語ではモスケ la Grand Mosquée de Paris)
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M 7 Place Monge
向かいには植物園
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アラブ世界研究所
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 サンルイ島の対岸(左岸)
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by takumi429 | 2007-07-31 00:04 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 10

都市の社会学 パリ 10
(8パリの社会学 Ⅴ より)
パリはブルジョワの街、左翼の街か?首都の逆説的選挙
2001年市会議員選挙
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灰色:右派議員が多数
黒色:左派議員が多数

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赤が社会党、緑が緑の党、青が保守党 (ル・モンドより)
http://www.lemonde.fr/web/vi/0,47-0@2-823448,54-920934@51-921954,0.html
パリの東部と(HLM低所得者集合住宅の多い)郊外で左翼が強い。
パリはブルジョワ化しているが、それは資産家であるよりもブルジョワ自由民によるものであるために、政府批判と左翼的傾向が継承される。

〈パリの遊歩者〉
サクレクール教会(Basilique du Sacré-Cœur)

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パリ,モンマルトルの丘の上に建つ巡礼教会。普仏戦争の敗北,パリ・コミューンとうち続く社会的混乱からの回復を願った国家的行事として建設が企画され,アバディー Paul Abadie(1812‐84)によるロマネスク・ビザンティン様式の案(1874)が採用された。その範となったのは,アバディー自身その修復に携わった南仏ペリグーのサン・フロン大聖堂である。実際に着工したのは1877年で、約4000万フランの費用と40年の歳月をかけ、1914年に完成したものの、礼拝のために開放されたのは第一次世界大戦の終わり、1919年のことであった故に、この寺院は皮肉にも普仏戦争以来のドイツに対する復讐の象徴として多くのフランス人から捉えられた。建設中は,パリの景観を損ねる中世建築のまがいものと批判されたが,今日ではパリに欠かせない名所となっている。現在は観光地として人々を魅了している。映画「アメリ」の撮影場所としても知られている。(Wikipediaより)
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サンチエ地区(レ・アールの北)
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入り組んだアーケードに服飾業者の店が建ち並ぶ(→昔の岐阜駅前の問屋街)
パリの服飾業の中心←脱植民地化(北アフリカのユダヤ人社会がパリにもどってきた)
ユダヤ人の出もどりはピエ・ノワールの出もどりより前
ピエ・ノワール (Pied-noir) とは、かつてフランス領北アフリカ、特にアルジェリアにおけるヨーロッパ系住民で、これらの地域の独立後、フランス内地に引き揚げてきた人を指す。
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服飾業界
(1)生地の卸売業者
(2)製造業者(モデルを考案し卸売業者のところで生地を選び、その生地を自分の工房で截(たったり)、截らえたりする。服飾業界の中心)
(3)請負業者 
路上 仕事場かつ運搬場かつ一時的倉庫
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パリ全体よりも高い、サンティエの外国人率(%) (1994年資料)
         フランス人  欧州出身外国人 欧州外からの外国人
サンティエ地区   72.8     7.8      19.4
パリ         84.1     4.8      11.1

歴史の古い中心部へ元の階層がもどってくる流れ
1982年から1990年にかけて
中級および上級管理職の上昇率 パリ全体24%、サンティエ地区43%
中国人の進出がめだつ 中国で造ってパリの持ち込み売りさばく

サン・ドニ通りには娼婦が立っている。
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by takumi429 | 2007-07-24 14:26 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 9

都市の社会学 パリ 9

Ⅳ パリの「高級化」と脱プロレタリア化(「パリの社会学より」)

「ブルジョワ化」という言葉はほんとうは適切ではない。バスチーユやグット・ドールの労働者に代わって住み始めたのは、世襲財産を相続したブルジョワではなくて、「ブルジョワ・ボヘミアン(自由民)」とも呼ぶべき中間層である。

労働者と勤め人の退却
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パリの脱工業化  灰色が第3次産業部門労働者 白色が工業労働者
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上流・平均クラスの上昇
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パリの区ごとの就労人口の社会労働構造の変遷(1954年から1999年)

上級・中間管理職と社長の、1954年と1999年の区ごとの割合
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ベルシー地区 元はワインの倉庫が建ち並ぶ地区
90年代に再開発 経済財政産業省の移転 国立図書館の移転など

ベルシー地区の人口変遷
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17区
南西から北東へ
65番Ternes街
66番PlaneMonceau街
67番Batignolles街
68番Epinettes街
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17区全体がブルジョワ化している。
良くなる住宅状況
人口の減少とともにパリは庶民的でなくなっていく。
半世紀で725000人の減少。人口密度の減少と住宅状況の向上。
戦後の不快
戦後はスラムが多く、人口は過密だった。
1954年180000世帯(16%)が部屋の外の各階で、30000世帯(3%)が中庭で、2800世帯が(ポンプや給水所などの)別のところで水をくんでいた。
フランス全体でも52%しか水道を引いていなかった。
風呂かシャワーがあるのは19%の世帯。(フランス全体では10%)
洗面所だけというのが10%の世帯。
あとの71%はinstallations sanitaires衛生設備[給排水を行う器具・設備で,便所・浴槽など]をもっていない。
1954年 375000世帯が一部屋で、うち168000世帯(45%)が二人以上。2162世帯が4人以上。
今日の快適さ
今日、状況明らかによくなった。1999年、パリの住居の94,5%、が浴槽かシャワーをもつ。フランス本土では、浴室を持っている住居は97,6%に達した。うち10%は2つの以上の浴室をもっている。
人口密度は1954年に270人/ha、1999年は202人/ha。

〈パリの遊歩者〉

バスティーユ地区 
以前は「フォーブル・サンタントワーヌ」と呼ばれていた。
1657年の特令(ルイ14世治下) 労働者・職人が自由に仕事することを許可
多くの中央・北ヨーロッパの木工が移り住む 家具の街となる。
中庭・通路(パッサージュ)で木を乾燥させた。
オーベルニュ出身者 鍋釜製造業者、ブリキ屋、古鉄商人

ブルジョワ化
大量生産・装飾を排した家具の流行・プラスチックなどの新素材の普及→家具職人10の1
職人の去った後に、広いアトリエをもとめる若いアーティストが入ってきた。
近年地区がさらに高級化し不動産投機で住めなくなるのをアーティストの団体が抵抗。
ラップ通り もとはオーベルニュ出身者たちが踊りに行った活気ある場所だった
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オペラ・バスティーユ
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フランソワ・ミッテラン大統領の大建設計画の一部1989年革命200周年祭に落成。
パスティーユ広場の再編成とパリ東部全体の再構築を目的にしている。
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職業別労働人口増減の推移(%)1954~1990年(サント・マルグリット行政地区)
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by takumi429 | 2007-07-21 23:26 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 8

都市の社会学 パリ 8
富裕な都市パリ(『パリの社会学』より )
首都パリ
科学研究
パリは科学の発展と大学生活に適している。
国立科学研究センター(CNRS)の勤務員が働く場所がパリ地域の支配的地位を今一度示している。2002年で43.8%の研究者がイル・ド・フランスで働いている。
それでも確かに、地方分散への努力は効果があったのである。1992年には研究職員の半分以上がパリ地方に研究所があったの。

パリは並はずれた地位を活動において持っており、その活動は社会的な領域、すなわち、政治と文化での地位を確固たるものにしている。
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パリ 経済的首都
経済活動の空間的・地域的特徴
9区とグラン・ブルワール、さらにシャンゼリゼと8区、さらにパリ西部のNeuillyヌイイへと大企業のオフィスと銀行、少し遅れてブルジョワ家族が進出してくる。
地域の特化とイメージの定着
8区オートクチュール、9区銀行と保険会社

株式市場上場企業のパリ集中

パリは優越の極?
ビジネス部門:銀行、金融、企業サービス
伝統部門:宝石、既製服製造業、ホテル業
頭脳部門:編集、出版、テレビ、情報
三部門のパリ集中
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パリ、金持ちの街
ISF (Impôt de solidarité sur la fortune)
ISF(裕福連帯税):資産から負債を引いた純資産が750,000ユーロ(約1.2億円)を超える世帯に課せられる。
ISFを払う世帯がパリは多い。
しかしそれ地区の差がはげしい。パリの中心と西(7,15,16区)でパリの課税者の46%。それに対して、11,12,19,20区では8.7%にすぎなかった。富はパリの西の地区に集中している。
東西の差は郊外に行くともっと大きくなる。
ベルサイユがあるイヴリーヌ県(Yvelines)では、地域の24%の住民の24%が富裕税を課せられているのに対して、セーヌ=サン=ドニ県(Seine-Saint-Denis)では住民の4.3%しか課税されなかった。

良い地区に住む人間は良いパリ市民に良い地区には良い教育機関があり、進学もしやすい。
貧しい地区の学校は崩壊しつつあり、まともな教育もうけられない。(良い地区に住む金持ちの子供とうまく越境入学する手づるをもつ教育関係者の子供だけが良い教育を受けられる)。こうして社会的な格差が再生産されていく。

〈パリの遊歩者〉
パリの一戸建て邸宅街villa @16区
パリではめずらしい一戸建てが並ぶ私道。住民以外は進入禁止の場所もある。
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カステル・ベランジェ エクトル・ギマール設計 → アール・ヌーボー
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黄金の三角 シャンゼリゼ大通りとその南西の道とでできた三角形
高級ブティクが立ち並ぶ
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観光客や庶民の殺到による「大通り化」:マック・フナック(書店・デスク・家電店)などの大衆店の占拠
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サン・ジェルマン・デュプレ
学生の街から高級店の街へ
カフェ・フローラ
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サルトルが住んでいたカフェ、デュ・マーゴ、モーニングセットが18ユーロ!
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アール・ヌーボーはデザイン史のひとつとしてみることができる。デザインを考える時、私たちがおちいりがちなのは、デザインといのは表面的な見てくれの良さをでっちあげることだというような偏見にとらわれてしまうことだ(私みたいなつまらない人間だけのことかもしれないけど)。しかしデザインというのはもっと本質的な品物と人間との関係についてのコンセプトというかビジョンをその内にもっていて、それがなくては人の心をうつようなデザインにはならない。そのことをよく示しているのが次の工業デザインの定義だと思う。

「インダストリアル・デザインの定義
トーマス・マルドナード
「インダストリアル・デザインとは工業製品の形の質のを決定することを究極の目標とするひとつの活動である。ここで形の質というのは、外面的な特徴を指すのではなく、ひとつのモノを生産者並びにユーザーから見て、首尾一貫性のある統一体へと変えるような、構造的、機能的諸関係のことをいうのである。単なる外面的な特徴というものは、しばしばモノをうわべだけいっそう魅力的にしようとしたり、あるいは構造上の欠陥を偽り隠そうとする意図の結果であるにすぎず、したがってそれはモノと共に生まれ、モノと共に成長した現実をあらわすのではなく、偶然的現実をあらわすにすぎない。これに反して、ここでいうモノの形の質というのは、常になんらかの仕方で形態形成のプロセスに関与する諸要素、つまり機能的、文化的、技術的、経済的諸要素の調整および統合の結果である。形の質は、内部の組織に対応する現実、つまりモノと共に成長した現実を形づくることなのである。」(阿部公正監修『世界デザイン史』美術出版社13頁)

デボラ・シルヴァーマン『アール・ヌーヴォー フランス世紀末と「装飾芸術」の思想』
フランスのアール・ヌーヴォーの歴史・社会的背景
(1)自由主義的な第3共和制の、貴族的エリート層との妥協 と 
反社会主義の旗印の下への国民的連帯の追求を含めた 政治的再編
(2)激しさを待つ国際競争時代におけるフランス市場の優越をもたらす源泉として、最先端の産業技術から豪華な工芸への、支配エリート層による経済上の方向転換
(3)公的領域と私的領域の境界混乱をもたらす「新しい女」をめぐる社会問題
(4)視覚的形態の概念に深い含意をもたらす、現代性と新しいフランスの臨床心理学の関係
  
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by takumi429 | 2007-07-20 15:36 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学パリ 7

都市の社会学パリ 7
オルセー美術館と印象派

19世紀後半の消費革命により、フランス、とりわけパリの生活は、富裕な商工業者(ブルジョワ)とそれに付随する小経営者・上級官吏・給与生活者・年金生活者(プチ・ブルジョワジー)とその家族の生活を基調とするものになった。
フランス・ブルジョワ社会の成立をうながした第二帝政の崩壊直後のパリコミューンはフランス政府軍により壊滅させられ(約3万人の虐殺)、パリはよりいっそうブルジョワ社会として第一次世界大戦(1914年)までの「よき時代ベルエポック」を謳歌することになる。
印象派の絵画はこうしたパリを中心としたブルジョワの余暇社会をなかで生まれた視線をもちいてその社会や自然を描いたとみることもできる。

オルセー美術館
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王政が最終的に打倒された2月革命(1848年)から第一次世界大戦(1914年)までの美術品をおさめているのが、オルセー美術館である。(原則としてそれ以前の美術品はルーブル美術館、それ以後はポンビドゥー・センターにおさめられている)。オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設された鉄道駅舎兼ホテルであった。それを改修して1986年に美術館として開館した。駅舎だったために鉄とガラスでできた明るい建物は、建物の奥の5階にある印象派の多くのコレクションと見事に調和している。また19世紀の写真、グラフィック・アート、家具、工芸品なども展示されており、19世紀後半「世界の首都」とよばれたパリの文化を堪能することができる。
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ポンビドゥー・センター

ポンピドゥー・センター(Centre Pompidou)は、フランスの首都・パリにある総合文化施設で、正式名称はジョルジュ・ポンピドゥ国立美術文化センター(サントル・ナシヨナル・ダール・エ・ド・キュルチュール・ジョルジュ・ポンピドゥCentre National d'Art et de Culture Georges Pompidou)という。レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースが設計し、1977年開館。名前は、フランス第五共和政の第2代大統領ジョルジュ・ポンピドゥーにちなんでいる。ポンピドゥー・センターには国立近代美術館、産業創造センター、音響音楽研究所IRCAM、公共図書館が入っている。
美術館としては国立近代美術館に20世紀の美術が展示されている。現在は美術館の中の中二階にあたる部分にマチス、ピカソからボイスまでが展示されており、一階にあたる部分にはもっぱらビデオ・アートが展示されている。
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印象派
アカデミーとサロン
(Wikipediaより)
フランス学士院(-がくしいん Institut de France)は、フランスの国立学術団体。17世紀に絶対王政のもと、アカデミー・フランセーズなどの団体(王立アカデミー)が設立されたが、フランス革命後の1793年、いったん廃止された。1795年10月25日にフランス学士院として創設され、現在はアカデミー・フランセーズ及び4つのアカデミーで構成される。
•アカデミー・フランセーズ (1635年設立)
•碑文・文芸アカデミー (1663年設立)
•科学アカデミー (1666年設立)
•倫理・政治学アカデミー (1795年設立)
•芸術アカデミー (1816年設立)
芸術アカデミー
もともとアカデミーは、徒弟制のもとで工房、職人組合など属していた画家や彫刻家、あるいは音楽家達が、芸術は知的な学問分野であり旧弊な制度は廃されるべきだとして結成した自由な集まりであった。やがて彼らは国王直属の機関となり、ヨーロッパに冠たる芸術国家を作ろうという国家の芸術政策のもと、芸術家の育成・表彰・展示といった特権を独占する。フランス革命前に、芸術関係では次の3つの王立アカデミーがあった。
•絵画・彫刻アカデミー(1648年、シャルル・ルブランらにより設立)
•音楽アカデミー(1669年設立)
•建築アカデミー(1671年設立)
フランス革命議会により、1791年王立アカデミーは廃止されたが1795年に再興。王政復古期の1816年に「芸術アカデミー」に統合された。
アカデミー制度の中心になるのは、修業方式でない方法で芸術家を育てる教育機関(エコール・デ・ボザール)、若手の芸術家から優秀な者を選びイタリアなどへの学習旅行を贈るコンクール(ローマ大賞)、自分達の発表の場を自分達で確保する展覧会(サロン)の3つである。
エコール・デ・ボザール(École des Beaux-Arts, École nationale supérieure des Beaux-Arts)は19世紀パリに設立されたフランスの美術学校である。
17世紀にフランス王立アカデミーの付属学校が設置された。1819年に、絵画・彫刻・建築の部門が統合され、国立の美術学校(エコール・デ・ボザール)となった。ボザールでの教育は伝統的、古典主義的な作品が理想とされた。(古典主義:動的で劇的で過剰な装飾性をもつバロック(語源は「ゆがんだ真珠」という意味のポルトガル語)に対して、ギリシャ・ローマの古典古代を理想とし、調和と均衡を理想とする)
1968年の5月革命をきっかけに大学の改革が行われ、エコール・デ・ボザールも分割されたが、パリのエコール・デ・ボザールとして続いている。
ローマ賞(Prix de Rome)は、芸術を専攻する学生に対してフランス国家が授与した奨学金付留学制度である。1663年、ルイ14世によって創設され、1968年廃止されるまで継続した。
1663年創設当初のローマ賞では建築、絵画、彫刻、版画の各賞が設けられ、王立アカデミーの審査により優秀者が選出された。このうち第一等、第二等受賞者が、コルベールによりローマ・ボルゲーゼ庭園(Villa Borghese)内のメディチ荘(Villa Medici)に設立された在ローマ・フランス・アカデミー(Académie de France à Rome)に送られ、彼らはそこで一定期間イタリア芸術勉学の便を得た。1803年の制度改革により芸術アカデミー会員の審査という形式が確立し、また音楽賞が追加された。
制度が確立した19世紀にあってローマ賞は各部門若手芸術家の登竜門として機能した。しかし、終身会員であるアカデミー会員がその出身分野を問わず全部門賞審査の投票権をもつことから、「旧い世代」に属する彼らの審査基準が保守的であり、新奇な芸術傾向に対して過度に敵対的であることへの批判、建築、絵画、音楽など他の芸術分野の審査を行えるのだろうかとの疑問、あるいは審査員は愛弟子を優遇しているのではないかとの疑惑がたびたび提起された。
受賞者中にはもちろん後世名を成した芸術家も多いが、必ずしも大成した者ばかりでないこと、一方で絵画部門でのドラクロワ、マネ、ドガ、作曲部門でラヴェルなど、ローマ賞にたびたび挑戦するも認められなかったが、後に名声を得た芸術家も多いことが、こうした権威批判を裏付けている。
フランスにおける反権威主義運動の頂点となった1968年のいわゆる五月革命後、ローマ賞はアンドレ・マルロー文化大臣により廃止されたが、1971年からは「奨学金給付生(pensionnaires)の選定」という形でなかば復活しており、この奨学金給付生も「ローマ賞受賞者」と呼ばれることが多い。現在、給付生は18か月ないし2年間メディチ荘への滞在が認められる。ただし現在の運営主体は芸術アカデミーでなく、フランス文化省管轄下の法人組織として財政上の独立性を担保された在ローマ・フランス・アカデミーである。

サロン(仏:Salon)とは、もともと応接室などの部屋を意味する言葉である。
1.応接間、談話室など。
2.フランス語で宮廷や貴族の邸宅を舞台にした社交界をサロンと呼んだ。主人が、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しんだ。
3.(フランスで)展覧会のこと。元々芸術アカデミーが開催する美術展(官展)がルーヴル宮殿の大サロンで開催されていたことに由来する。ディドロの「サロン評」は美術評論の始まりといわれる。
高階秀爾『フランス絵画史 ルネッサンスから世紀末まで』講談社学術文庫
アカデミーの美学 は、絵画を、何よりもまず理性に語りかけるものとする考えにもとづいている。・・・理性に語りかけるということは、絵画のびを支えるものとして、合理的な基準を重んずるということである。画家は事故の絵画表現を、感覚的なものではなく、合理的な基準にしたがわせなければならなかった。このようにして、遠近法、数学的人体比例、幾何学的な安定した構図、正確な明暗表現などがアカデミーの絵画の基礎となった。・・・そのような規則や基準を学ぶための手段としてアカデミーが画家たちに要請したのは、優れた範例、すなわち古代(ギリシャ、ローマ)やルネッサンス(特にラフェエロ)の作品の模写ということであった。これらの範例を学ぶことによって、画家は正しい基準を養うことができる。もちろん、アカデミーの理論も現実のモデルの写生を否定するものではない。・・・しかしながらアカデミーの理論家たちによれば「模倣」すべき対象は「ありのままの自然」ではなく「あるべき自然」であった。人間にしても風景にしても、現実の姿は不完全であり、正しい基準にしたがってはいない。それ故に、まず優れた先例に学んで、そこから得られた正しい基準にのっとって自然を修正することによって「真の理想」が達成されることになる。・・・
また、その同じ合理主義的な美学は、デッサンを色彩よりも優位に置く考え方を生み出した。デカルトが語った通り、この現実の世界の本質は「広がり」であり、色のない「広がり」はあっても、「広がり」のない色はあり得ない。したがって、線や形は色彩よりいっそう本質的なものであり、それ故に絵画においてもいっそう重要なものと考えられた。このようにして、過去の優れた範例を手本としてまずデッサンの習練を積み、正しい基準に基く形態の把.握や正確な陰影法を十分に身につけ、次いで人体モデルなどの現実の対象を「正しく」写し出す訓練を重ね、最後に色彩の表現を学ぶという、今日にまで続いている絵画修業のプログラムがこの時期に確立されたのである。
 さらに、絵画は理性に語りかけるものであるから、当然ある明確な主題ないしは内容を持たなければならない。単に感覚的な表現だけでは絵画として不完全なものと考えられ、いかに技術的に優れていても、格が低いものと見倣された。この考え方によれば、神話的主題や宗数的主題も含めて、ある物語的(あるいは寓意的)内容を持つ「歴史画」こそが、最も高貴な絵画ということになる。歴史画以外のものも、描き出される対象によって、肖像画、風景画、静物画などに分類されるが、人間を描く肖像画は、自然を描く風景画よりも格が上であり、無生物を対象と寸‐る静物画は風景画よりも一段と下のものだと見倣された。すなわち、ジャンルによる絵画の価値の序列が成立したのである。(106-9頁)
藝術家の養成においても、アカデミーの役割は決定的であった。当時の画家にとって、正規にモデルを使って勉強できる場所はアカデミー付属の王立絵画学校しかなかった(もちろん、人間のモデルを使うことができるのは、範例の模写や石膏デッサンなど、必要な課題を終えてからである)。そしてアカデミーに正式に入会を認められるためには、普通には「大賞」受賞、資格認定、入会作品の審査という三つの段階を経なければならなかった。いずれの段階においても、審査するのはアカデミーの会員たちである。
「大賞」というのは後に「ローマ賞」と呼ばれるようになるもので、絵画学校の課程を終えて優れた卒業作品を提出した生徒に与えられる。「大賞」を得るとイタリアに留学する資格が得られ、普通の場合ならローマのフランス・アカデミーで学ぶことになる。後には、この「大賞」受賞を目指す学生だけを待別に教育する特待生教育の学校まで創られた。イタリアから帰ってその成果を示す作品が十分に優れたものと認められれば、アカデミー会員への有資格者(準会員)として承認され、入会作品の課題が与えられる。課題作制作の期限は普通一年で、その入会作品が審査を通って受け入れられれば、やっとアカデミーの会員になれるのである。もちろんこれは一般的な場合で、時には例外もあり得る。(134-5)
 ルーブル宮殿の「サロン・カレ」(方形の間)で開催されたため、1737年以降「サロン」と呼ばれるようになった公式の展覧会も、やはりアカデミーが主宰するものである。18世紀の「サロン」は、19世紀のそれとは違って公募せいではなく、出品はアカデミーの正会員、準会員にかぎられていたから、自分の作品を世に知らしめるためには、やはりまずもってアカデミーに入る必要があった。(136)
アカデミーが主宰する官設の展覧会であるサロンも、19世紀になってその性格を大きく変えた。旧体制の時代においては、サロンに出品できるのはアカデミーの会員(正会員、準会員)にかぎられていたのに対して、革命後は、自由と平等の理念に基づいて、サロンは万人に開かれたものとなったからである。もっとも万人に開かれたと言っても、現実問題としては誰でも作品を並べることができるというものではない。主として実際の会場の都合から、特に応募者が急増した1830年代以降、作品を提出するのは誰でも可能だが、それが展覧会場に並ぶかどうか審査という厳しい関門を通らなければならないという事態が生じてきた。

1863年ナポレオン3世が(サロン)落選者展の開催を命ずる。マネ『草上の昼食』
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ボードレール『現代生活の画家』
「群集こそが彼の領域である。大気が鳥の領域であり、水が魚の領域であるように。彼の情熱にして職業であるもの、それは群集との婚姻である。完全な遊歩者、情熱的な観察者にとって、数の中、揺れ動くものの中、運動の中、束の間と永遠なものの中に住居を定めることは広大な喜びである。我が家の外にいながらにして、どこにいても我が家にいるように感じる、世界を見る、世界の中心にいる、世界に隠れ続ける、そのようなことが、こういった自由で、情熱的で公平な精神が持つ、言語によってでは不器用にしか定義し得ない、慎ましやかな喜びの幾つかなのである。観察者とは、どこにいても自己の無意識を享受する王族なのである。生命の愛好者は、世界を己自身の家族とする。あたかも美しい性の愛好者が、既に見つけだした美女や、これから見つけ出す、もしくは見つけ出すことの出来ないであろう美女たち全てを、彼の家族とするように。もしくは絵画の愛好者が、キャンバスに描かれた夢によって魔法をかけられた社会の中で生きているように。そのようにして、普遍的な生を愛する者は、電気の巨大な貯蔵庫の中に入るように群集の中に入っていく。この人物を、群集と同じくらいに巨大な鏡にたとえることが出来るだろう。もしくは意識を授けられた万華鏡にたとえることが出来るだろう。その万華鏡は、動きの一つ一つにおいて、多様な生と、生の持つあらゆる要素の動的な魅力とを体現するのである。それは非我に飽くことのない自我である。瞬間ごとに非我を、生そのものよりも生き生きとした、常に定まらることのない束の間の姿に変えて表現するのである。ある日G氏は、力強い眼差しと、喚起力を持った仕草とでとある会話を輝かしながらこう言った、「あらゆる能力を飲みこむような、実に明確な性質の怒りに苦しまないような人間は、群集の懐で退屈するような人間は、皆愚か者である!そして私はそのような愚か者を軽蔑する!」と。・・・
そのようにして、彼は行く、走る、そして探す。何を探しているのだろうか?間違いなくこの人物は、つまり私が描いてきたような、活発な想像力を授けられ、常に人間たちという大きな砂漠を横切って旅を続ける孤独者は、単なる遊歩者よりも高尚な目的を持っている。その場の状況次第の束の間の快楽とは異なる、より全般的な目的を持っている。彼が探しているその何かを「現代性」と呼ぶことをお許し願いたい。というのも、問題となっている観念を表現するのに、これ以上に相応しい言葉が存在しないのである。彼にとって重要なのは、流行の中から、流行が歴史性のうちに持ちうる詩的なものを取り出すこと、移り変わり行くものの中から、永遠を引き出すことなのである。今日の絵画の展示会に目を向けた時、我々が驚かされるのは、あらゆる主題に過去の衣装をまとわせようとする、芸術家たちの一般的な傾向である。ほとんど全ての芸術家たちがルネッサンスの流行や家具を取り入れているのは、ちょうどダヴィッドがローマ時代の流行や家具を用いていたのに似ている。しかしながら、そこには一つの違いがある。それは、ダヴィッドはとりわけギリシャ・ローマ的な主題を選んだので、そこに古代の衣服を着させるしかなかったのに対して、昨今の画家たちは、あらゆる時代に当てはまるような一般的な主題を選びながらも、中世やルネッサンスやオリエントの衣服をそこにまとわせることに固執しているという点である。これこそ疑いようのない怠惰の証である。というのも、ある時代における衣服に関するあらゆるものが醜いと宣言してしまうことは、そこに含まれる不思議な美を、たとえどれだけそれが小さく微かなものであろうとも、抽出しようと努力するよりも、ずっと都合が良いのであるから。現代性とは即ち、移り変わり行くもの、束の間のもの、偶然のものである。これが芸術の半分を占め、残りの半分が永遠なもの、不動なものである。古代の画家たちにも、それぞれの現代性があった。古代から我々の手元に残されている大多数の美しい肖像画には、その時代の衣装が着せられている。そういった肖像画が完全なまでの調和を得ているのは、衣装や、髪型や、更には仕草や、眼差しや微笑みさえもが(各時代には、それぞれの仕草と眼差しと微笑みがある)完全な生命力を持った一つの総体を作り上げているからである。この移り変わり行く要素、束の間の要素は、その変容が実に頻繁ではあるが、この要素を軽蔑したり、それ無しで済まそうとしたりすることは出来ない。この要素を消し去ってしまえば、原罪を犯す前の唯一の女性が示していた美のような、中傷的で定義しがたい美に陥らざるを得ないだろう。その時代が要求する衣装を、別のものによって代替してしまうのは、それが流行の求める仮装であるというような場合を除けば、言い訳の出来ない過ちを犯すことである。それゆえに、18世紀の女神や妖精やトルコ王妃の肖像画は、精神的に似通っているのである。」
遊歩者(Flâneur) この言葉(「散策する」という意味のフランス語のflânerに由来)は、シャルル・ボードレールが用いて、他人を観察しながら群衆のなかを歩き回ることを楽しむ都会人を指した。ボードレールは『現代生活の画家』のなかで、親密でありながら冷淡で、社会階層の相違に非常に敏感な現代の眼差しを示すものとして「遊歩者」という語を使用した。芸術ではコンスタン・ギースの作品に見られるような風俗スケッチがこれに対応し、すばやいスケッチと鋭い観察とが結びあわされている。それは印象主義によっって形をとることになる自然主義的な様式のための新たな公式となった。(ジェームズ・H.ルービン著/太田泰人訳『岩波世界の美術 印象派』427頁)
1864年エドゥワール・マネ『オアランピア』をサロンに出展。
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アレクサンドル・カバネルの代表作『ヴィーナスの誕生』との比較。
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奥行きの欠如(否定):平板な塗り方、歴史(物語)性の否定。アカデミーの美学の否定。
現代の生活の諸相を描く。
そのために同一のモデルにいろんな衣装を着せて使うこともいとわない。(バルザックの人物再登場法を想起させる)

クロード・モネ「タンタドレスのテラス」
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「このようにモネの作品は、近代的商業の富とそれがもたらす余暇とを、最新の趣味による明快な線と実用的な読解性(さらには魅力的な色彩)をもった視覚的な形式に統合することによって、自分が生きている時代の一貫したヴィジョンを表現しているのである。彼は知らず知らずのうちに、領有する豊かな領地の前でポーズをとる荘園領主を表した記念的、祝賀的絵画の、資本主義的現代版を作っていたといえる。(ルービン103)
「この画家に確実に見いだされる1つの特徴は、世界を視覚的なスペクタクルとしてあらわすことによる遠隔化の効果である。」(ルービン121)
観光ガイドにのっているような景勝地を描く。余暇社会がもたらす視線。
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エドガー・ドガ
「ドガは、同時代の余暇生活にたいする鋭い観察を基盤とした、印象主義的の都会的次元を明確にした。その独創的なな空間構成や実験的な技法は、自然主義的な効果の背後に計算された人工的な手段があることを強調しており、それによってドガの作品に自覚的で主知的な調子を与えている。」(ルービン179)
古典的手法で現代の都会生活を描き出すことからドガは「現代生活の古典画家」と自らを位置付けた。
身体のねじれや開きの方向によって空間の構成がいかに変わっていくかを、バレリーナや娼婦をつかって実験的に研究する。
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競馬はイギリスに亡命した貴族たちが持ち帰った上流階級の新風俗であった。
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カメラのスナップショットから影響うけた斬新な画面の切り取り
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パトロンである紳士がバックステージに立っている。この頃、踊り子は金持ちをパトロンをもつのが当たり前となっていた。

ケルボット

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オスマンのパリ改造後の都市風景

ピエール・オーギュスト・ルノワール画
「La Loge(桟敷席)」1874年
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オペラ座の風景 観客席をながめて女を物色する男

デュマ・フィス『椿姫』
「〔高級娼婦〕マルグリッドは芝居の初日にはきっと欠かさず見に行った。そして毎晩、劇場や舞踏場で夜をふかした。新作が上演されるたびに、きまって彼女の姿が見られたが、そういうときには、必ずといっていいほどに、1階の桟敷の前には、三つの品がそえらえてあった。観劇眼鏡と、ボンボンの袋と、椿の花束が。この椿の花は、月の25日のあいだは白で、あと五日は紅だった。」(新潮文庫21頁)。
劇場の桟敷で、「店を張る」高級娼婦。椿の花は「開店」・「閉店」の札代わり。
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by takumi429 | 2007-07-18 14:29 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 6 

都市の社会学 パリ 6 
〈パリの遊歩者〉
消費の殿堂 デパート
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ボン・マルシェ百貨店(-ひゃっかてん、Le Bon Marché)はフランス、パリ7区のバック通りにある世界最初の百貨店である。もともとはパリの流行品店のひとつだったが、1852年にアリスティッド・ブシコー(Aristide Boucicaut)によって買い取られ、夫人マルグリット(Marguerite)とともに、バーゲンセールなどの百貨店としてのシステムを確立、発展していった。
1869年、店舗を改装するもブシコーは気に入らず、新たに建築家L. A. ボワローとギュスターヴ・エッフェルを雇い入れ、パリのオペラ座をモデルに再改装を行い、1887年に完成した。
ブシコー夫妻のボン・マルシェ百貨店における派手なショーウィンドウと大安売りの季節物で客を呼び込む手法は、パリ万国博覧会を参考にしたと言われている。巨大で立派な店舗に毎日客が押し寄せるさまを、作家エミール・ゾラは百貨店をモデルにした小説の中で「消費信者のための消費の大伽藍」(« Une cathédrale de commerce pour un peuple de client »)と呼んだ。
1984年、百貨店はLVMHグループに買収。セレクティブ・リテーリング部門の傘下となった。
本館と食料品館に分かれている。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ボン・マルシェの食料品館はすばらしい。料理を作らない私でもうきうきしてきます。

マガザン・デュ・プランタン(Magasins du Printemps)は、フランスのパリの本店を置く百貨店。プランタンはフランス語で春の意。
オ・プランタンはギャルリ・ラファイエットのように、他の百貨店を備えたパリ9区のオースマン大通りに本店がある。また、支店としてはフランスのいたる所や、海外にもアンドラと日本の東京(プランタン銀座)、韓国のソウル、サウジアラビアのジッダにもある。かつてはアメリカ・デンバーにも店舗があったが、閉鎖された(現在はクエスト・ダイアグノスティックスのオフィスになっている)。現在はグッチの親会社であるピノー・プランタン・ルドゥート社(PPR)が運営されている。
歴史
オ・プランタンはポール・セディーュの設計とジュール・ジャリュゾにより1865年に完成。ガラス工芸のアール・ヌーヴォーの丸い屋根に囲んだ近代建築な百貨店に仕上げた。1975年には、建物と丸い屋根が歴史上の記念碑として登録された。
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ギャラリー・ラファイエット(Galeries Lafayette) 1895年創業。オペラ座の裏
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オペラ座を意識した内装建築

産業革命
機械の発明などの技術革新を原動力とし、手工業から機械制大工業への移行を中心とした、その国全体の経済的・社会的大変革。これにより、資本主義的生産様式が確立。〔狭義では、十八世紀後半から十九世紀初めにかけて イギリスで行われたものを指す。日本では、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて行われた。industrial revolution の訳語。「工業革命」の方が原義に近い〕

消費革命 consumer revolution
大量生産の随伴現象としての大量消費mas consumptionが世界全般に広く行き渡るようになること。ロザリンド・ウィリアムによれば、19世紀後半のフランスこそが、購買力の展でも商品の多様性の点でも、消費革命の時期である、とされる。この時代にフランスでは万博博覧会が連続的に開催され、デパートが興隆し、映画が発明され、電気照明が発達して、商業がこれらがもたらしたファンタジーを利用することで、大衆消費という新しい消費モデルが形成されたという。

ロザリンド・H. ウィリアムズ『夢の消費革命―パリ万博と大衆消費の興隆』 (吉田典子訳),工作舎、1996年)

国際博覧会(万国博覧会)
国際博覧会条約によれば、国際博覧会とは、「複数の国が参加した、公衆の教育を主たる目的とする催しであり、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは複数の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう」とされている。

1851年 ロンドン万国博覧会(第1回):ロンドンのハイドパークで開催。クリスタル・パレス(水晶宮)は鉄とガラスで造られた当時の画期的な建造物であった。

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1855年 パリ万国博覧会(第1回):入場者数500万人。
1867年 パリ万国博覧会(第2回):幕府及び薩摩藩・佐賀藩が出品。水戸藩の徳川昭武、渋沢栄一らがパリに赴く。
1878年 パリ万国博覧会(第3回):シャイヨー宮が建設。エジソン(米)の蓄音機や自動車が出品。
1889年 パリ万国博覧会(第4回):フランス革命100周年を記念するエッフェル塔が建設され、後にパリのシンボルとなる。
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1900年 パリ万国博覧会(第5回):過去を振り返り新しい20世紀を展望することを目的とした。 展示会場としてグラン・パレ、プチ・パレがつくられた。
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グラン・パレの内部 鉄とガラスの輝ける商品の空間
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デパートは博覧会での商品を輝かせる手法を屋内に取り込むことによって成立した。


「消費の殿堂」「恒常的祝祭空間」としての百貨店の登場
ボン・マルシェ アリステッド・プシコーとその妻マルグリット 1972年第1期工事完成
                              全館完成は1887年
販売技術革新
入店自由/定価明示/大量陳列/返品自由/現金販売/カタログ通信販売
薄利多売方式の徹底
古い商業慣習の打破
経営革新者としてのブシコー
低収益高回転の営業方針
バーゲンセールの発明
目玉商品の導入
返品制
[経営技術革新]
売場主任による独立売店管理
歩合給システムの採用
昇進システム・社員教育の導入
退職金・養老年金制度の導入
社員持株制度の導入

資本主義社会を支える社会制度としての百貨店
近代的経営の基礎づくり
消費を創造する欲望喚起装置
都市生活文化の伝道者
(小川周三『現代の百貨店』日経文庫)

世界最初のデパート小説
エミール・ゾラ作、吉田典子訳『ボヌール・デ・ダム百貨店 — デパートの誕生』 藤原書店 2004年 ISBN 4894343754(原題 Au Bonheur des Dames, 1883年)
デパート(ボン・マルシェ、ルーブル、プランタン)を調査して執筆
あらすじ(以下のあらすじは、ルーゴン・マッカール叢書についてすぐれたサイトhttp://syugocom.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/germinal/lecture/rougon-macquart/volume11/ SYOUGO.COM 2007年5月24日からの引用させていただいた)

両親を失った後、叔父を頼ってヴァローニュから二人の弟を連れてパリへ出てきた少女ドニーズ・ボーデュは、周囲の小さな老舗を押しのけて華々しく発展しているデパート「ボヌール・デ・ダーム」に圧倒される。叔父の店への就職を断られたドニーズは「ボヌール・デ・ダーム」の女店員となり、つつましく働き始める。
 ドニーズは、求職の日に偶然出会ったボヌール・デ・ダームの支配人、オクターヴ・ムーレに対して言いしれぬ畏れを抱く。オクターヴは打算にたけた世俗的な男で、その才能によってボヌール・デ・ダームを大商店に発展させたのだった。オクターヴは銀行家に人脈のある貴婦人アンリエット・デフォルジュの愛人となり、事業拡大資金の調達を画策していた。
 垢抜けないドニーズは、はじめ女店員たちの間でいびられて苦しむが、友人ポーリーヌに支えられて懸命に働く。同郷の青年アンリ、ドニーズが密かにあこがれるユータン、ドニーズを敵視する女店員クララたちとの関わりを交えながら、ドニーズの生活は続いていった。しかし、彼女によこしまな欲望を抱く守衛のジョーブを拒んでその反感をかったドニーズは、ジョーブの密告がもとで解雇されてしまう。
 解雇されたドニーズは洋傘商ブーラの店で働きながら、廉価多売型のデパートの登場によって経営を圧迫され、破産に追い込まれてゆく小商店の実態について知る。これらの小規模経営者の間ではボヌール・デ・ダームに対する反感が高まり、形勢逆転のための廉価競争をしかけることが目論まれていた。
 やがてオクターヴのはからいでドニーズは新装したボヌール・デ・ダームに復帰する。次第に都会に慣れ、女店員としても力量を発揮しはじめたドニーズをオクターヴは軽い気持ちで誘惑しようとするが、貞淑観念の持ち主であるドニーズはこれを拒む。オクターヴの心に、巨万の富をもってしても言うなりにならない女への戸惑いが生じ、オクターヴはドニーズに本気で恋するようになった。
 オクターヴに裏切られたアンリエットはドニーズに敵意を抱き、さらにオクターヴを恨む。アンリエットは、ボヌール・デ・ダームの重役で独立して競合店を建てようと企んでいるブーテマンと結託し、新しいデパート「四季」のほうに出資するようアルトマン男爵を説き伏せようとする。
 ボヌール・デ・ダームでのドニーズの地位は順調に向上し、やがてライバルの店員たちを差し置いて子供服売場の主任にまで昇進する。ボヌール・デ・ダームはオクターヴの廉価多売の戦略で小商店との価格競争に勝ち、ライバル店「四季」の火災事故も幸いして驚異的な売上げを達成する。しかしデパートの経営がどれほど成功しても、オクターヴのドニーズへの恋は一向に報われず、オクターヴはドニーズが別に愛人を持っているのだろうと誤解する。オクターヴに対して大きな発言力を持つようになったドニーズは、ボヌール・デ・ダームの店員たちの待遇に同情し、オクターヴに提案して労働環境の改善を実現させる。同時に彼女は、オクターヴへの畏れが、オクターヴへの愛情であったことに気づく。
 ボヌール・デ・ダームは第二次の拡張工事を迎える。オクターヴの求愛をしのぎきれないと感じたドニーズは新装開店大売り出しの日を最後に退職する決意を固める。貴婦人たちの欲望をあまねく刺激した大売り出しは大成功に終わり、ボヌール・デ・ダームは未曾有の売上高を計上するが、オクターヴはドニーズとの別れを思って打ちひしがれる。その姿に打たれたドニーズはついに屈し、オクターヴへの愛を告白して結婚を承諾するのだった。

『ボヌール・デ・ダム百貨店』作中人物紹介 (邦訳付録)
オクターヴ・ムーレ この物語の主人公。ボヌール・テ・ダム百貨店の社長で、アイデアに富んだ野心家のプレーボーイ。大量の魅惑的な商品と近代商法でパリ中の女|生を誘惑し、店舗の拡張を図るが、そのために近隣の小さな商店は衰退の一途をたどる。
ドウ二ーズ・ボーデュ この物語の女主人公。両親の死後、二人の弟とともにパリにやってきた20歳の貧しい娘。ボヌールの既製服売場で売り子として働き、さまざまな苦労を経るが、忍耐力と勇気、優しさと賢明さを兼ねそなえ、しだいに社長のムーレから愛
されるようになる。
アンリエツト・デフオルジュ夫人 上流ブルジョヮ階級の未亡人でムーレの愛人。やや小太りの美人だが、嫉妬深い性格。自宅でサロンを開いており、元愛人の銀行家ァルトマン男爵にムーレを紹介する。
アルトマン男爵「不動産銀行」頭取の全敗奥書。ボヌづレが進出をもくろむ新街路の工事を請け負っており、沿道の所有権を有している。ムーレはデフオルジュ夫人を介して、事業の提携を持ちかける。
ポール・ド・ヴァラニョスク ムーレの高等中学時代の友人。没落した貴族の末裔。内務省の小役人で、すべてに無間心な悲観論者。ジヤンとペペ ドゥニーズの弟たち。
《界隈の小さな商店の人々》
ボーデユ  ドゥニーズの叔父。ボヌールの向かいにある古くからのラシャ[地が厚くて織り目がはっきりせず、けば立っている毛織物]とフランネル[紡毛糸を主として織った、柔らかで厚い毛織物]専門店「エルブフ本舗」の店主。頑固で古い商法に固執し、百貨店によって次第に客を奪われる。
エリザベツト・ボーデュ夫人 ドゥニーズの叔母。生まれ育ったエルブフ本舗が衰退するのを嘆き、ボヌールに絶望的な恨みをいだく。
ジユヌヴイエーヴ・ボーデユ ボーテュ夫妻の娘でドゥニーズのいとこ。母親と同じ貧血症。小さい頃からの許婚の店員コロンバンが、ボヌールの売り子クララに夢中になっていることに気づき、絶望して病気になる。
コロンバン エルブフ本舗の主任店員。働き者で従順に見えるが、根はずる賢い。
ブーラ 傘屋の老人。怒りっぽいが、根は親切な職人肌の芸術家。店舗拡張の邪魔になるために立ち退きを迫るボヌールに対し、断固戦いを挑む。
ロビノー 元ボヌールの絹売場副主任。妻の全てヴァンサールから絹物専門店を買い取り、リヨンの製造奏者ゴージャンを後ろ盾にして、ボヌールに絹地の安値競争を挑む。
《百貨店の人々》
プルドンクル ボヌールの重役の一人で、ムーレの右腕。監視全般を担当し、従業員には厳しい。女性を嫌悪し、とりわけドゥ二ーズを忌み嫌う。
ブートモン 絹売場主任。モンペリェ出身の陽気な男で、仕入れには優れた腕前を持つ。独立してライヴァル百貨店キャトル・セゾンを設立する。
ユタン 絹売場の店員。愛想のよい優秀な店員だが、出世故が強い。ドゥ二ーズは最初彼に親切にしてもらい、好感をいだく。
オーレリー夫人 既製服売場主任。商才はあるが、虚栄心が強く、お世辞のうまい売り子を厚遇し、はじめのうちドゥ二ーズに厳しくあたる。
クララ・プリュネール 既製服売場の女店員。素行が悪く、仕事に不熱心で、ドゥ二一ズをいじめる。一時ムーレの愛人になる。
ポーリーヌ・キュニヨ 下着売場の女店員。ドゥニーズに親切で、お互いに心を打ち明ける親友。
ドロツシユ  レース売場の店員。不器用で出世できず、いつも不運をかこつ。ドゥニーズと同郷で、彼女に想いを寄せる。
《その他百貨店の人々》 ロム(会計係主任、オーレリー夫人の夫で恐妻家)、アルベール・ロム(会言刊系、ロム夫妻の息子で放蕩者)、ジューヴ(監視員、好色な退役軍人)、ファヴィエ(絹売場の店員)、ミニョ(手袋売場の店員)、リエナール(毛縦吻売場の店員)、マルグリット・ヴァドン(既製服売場の女店員)、フレデリック夫人(既製服売場の副主任)、カンピオン(配送部主任)、ルヴァッスール(通信販売部主任)、ジョゼフ(梱包係のボーイ)、ボージエ(ボン・マルシエの店員でポーリーヌの恋人)
《百貨店の客たち》
プルドレ夫人 バーゲンを上手に利用する堅実な主婦だが、3人の子供の母親で、子供を介して母親を征服するムーレの作戦にひっかかる。
ギバル夫人 目を楽しませるだけで満足し、ほとんどの品物を返品する返品魔。ボヌづレの読書室を愛人のド・ボーヴ氏との連絡場所に使う。
マルティ夫人 誘惑には抵抗できない買い物狂で、夫を破滅させる。
ド・ボーヴ伯爵夫人 貧乏貴族の妻で、ぜいたくな品物への欲望が高じて万引きを働く。
《その他百貨店の客たち》 ド・ボーヴ伯爵(種馬飼育場の視察長官)、ブランシュ(ド・ボーヴ夫妻の娘)、マルティ氏(リセ・ボナパルトの教師)、ヴァランチーヌ(マルティ夫妻の娘)、ブータレル夫人(地方からボヌールに買い物に来る婦人客)

注目すべきことにひとつに、デパート商法により客が自由に商品を手に取れるようになったことで、万引きというものが発生してきたこと。
また、ゾラの小説をなぞってぎゃくにデパート建築がされたことも注目に値する。
(鹿島茂 『デパートを発明した夫婦』 講談社<現代新書>、1991年)

エレイン・エイベルソン『淑女が盗みにはしるとき ヴィクトリア朝アメリカのデパートにおける中流階級の万引き犯』
アメリカの事例ではあるが、デパートの登場とどうじに万引きが起きている。
中流階級の女性の万引きは「病的盗癖症」というレッテルを貼られ、女性特有の病いとされ、下層階級の万引きとは区別された。

日本のデパート
勧工場という小さなアーケード売り場→百貨店
呉服店 越後屋 1673年すでに店頭売り・現金販売・正札→三越
歌舞伎「白波三人男」 すでに万引きがあった!(日本は進んでる)

小林一三 阪急百貨店
鉄道とデパートと住宅開発とレジャー
三越少年音楽隊に対抗して温水プールのアトラクションとして始まった宝塚少女歌劇団
関東で阪急の手法をまねしたのが東急
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by takumi429 | 2007-07-18 01:32 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 5

都市の社会学 パリ 5
『パリの社会学』「Ⅲ 首都パリ 」より引用
パリ、政治的首都
世界では、政治的首都が、経済や文化の領域では主要な都市ではなく、もっとも人口の多い都市でもないことがまれではない。
合衆国、ブラジル、オランダ、インドがその例である。フランスでは、政治権力機構が、もっとも大きな都市に集中し、それがまた首都でもある。同様に、外向的代表であり、行政的中心でもある。
国家の官邸の大部分、共和国大統領官邸(エリゼ宮)や首相官邸(マティニオン邸)や国民議会(ブルボン宮)や元老院(リュクサンブール宮殿)は、人民に選ばれた者が住む前は、大貴族の住まいであった。革命の最中に、国外亡命者の財産は没収され、省庁や大使館がフォブール・サン・ジェルマンに置かれた。ブルボン家による王政復古[1814-30]もこの動きを反転させることはなかった。むしろ、生活様式が変わるにつれて、この動きは加速された。理由のひとつとしてはこのような大邸宅にはたいへん大勢の召使いがおり、その費用が高くなったということがある。高貴な資産家や大ブルジョワは、管理するのがむずかしくなった豪邸の荘厳さよりも、広大なアパートの快適な生活をしだいに好むようになった。
しかし、パリは同時に、現存の権力の異議申し立ての、特別の場所でもある。19世紀の革命的新聞や20世紀の社会運動はしばしばここパリで始まった。

パリ、文化と科学の首都
文化領域におけるパリの例外的地位により、作品が生み出され、市場に出されると、地方人や外人にまでそれが及ぶことになる。なぜなら彼らはパリに観光でたいへんしばしば訪れるからである。2003年、800万の外国人の到着がパリのホテルに記帳された。他方、フランス人は600万人に達するにとどまった。エッフェル塔、ルーブル、ポンビドーセンターはそれぞれ5、600万人の訪問客を受け入れた[パリ観光局 2004].創造と伝播の多くの手段が集中しているため、首都の文化的役割は、フランスの中央集権化のもっとも目に見える形のものであり、そのためもっとも批判されるものでもある。

文化創造
1999年、56194人の労働者が「情報、芸術、興業の職業」に属している。これらの職業は、「知的上級職および幹部」のカテゴリーに属している、すなわち、出版のサラリーマン、自営者、雇用者(ジャーナリスト、編集デスク)、作家、シナリオ・ライター、興業(劇場、映画テレビ)の芸術的あるいは技術的幹部、ショーの現場の芸術家(俳優、ダンサー、歌手)、造形芸術家、音楽家、である。パリはフランスにいるこの種の職201925の27.8%を集めている。しかるにこの種の職業は調査された全職業の7%にすぎない。
したがって、この過剰なありようは著しいものである。この職業はパリの職業の3.5%に相当するが、パリの外ではフランス全体の0.7%にしかならない。もし、興業の技術者・労働者、工芸職人も、秘書や会計係も含めるなら、文化的職業の45%はイル・ド・フランスで働いている。この地域の職はフランスの雇用の22%に相当する。比較として、この部門の労働者は、ローヌ=アルプ地域圏では8%、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏では7%しかいない。パリ地域の支配的地位は圧倒的である。映画やテレビのいくつかのポストでは80%を超える。出版の領域では70%あるいはそれ以上に達する[文化省2004]。この圧倒的な有り様は、クリエターの仕事に対してはっきりと見てとれる。作家の地位(文筆家、ドラマ作家、音楽作曲家、映画監督、イラストレーター、写真家)6000のクリエーター)をもつ6000のクリエーターと、彼らに許可された保護の特殊な領域から利益を得るのに十分に職業化された者のうち、75.5%がパリ都市圏に住み、同じく、51%がパリに住んでいる[Menger, 1993.]。
 新しいクリエーターもまた大いに住んでいる。調査によるとマルチメディアの編集者356人のうち、260人、すなわち、74%がイル・ド・フランスに住んでおり、うち176人がパリに住んでおり、これはイル・ド・フランスの67%、フランス全体の49%にあたる。
[Jocelyn, 2002].

文化の伝播
伝播させる重要な装置が、この活動する創作者に同伴している。そこでもパリの重さは大きい。出版部門のイル・ド・フランスのポテンシャルは70%である。首都の美術館誌の供給は詳しく述べることができないぐらい豊富である。週刊紙「パリスコープPariscope」には100以上の美術館が載っており、それはルーブルからエロティズム美術館 、さらにカンナヴァル美術館、ピカソ美術館までいたる多様なものがある。ギャラリーに関しては、数えるのが容易でない、なぜなら、この部門の境界がはっきりとはせず、流動的であるからだ。美術ギャラリー職業委員会は127のメンバーがパリにあり、ひとりがパリ郊外、22人が地方にあると述べている。美術学校とマティニョン通りの周辺を美術商が独占し、開かれたいくつものパーティを組織している。パーティの間、シャンパングラス片手に、買い手は、あるギャラリーからまた別のギャラリーへと、そぞろ歩く。サン・プレ通りからバック通りの古美術商の一画では高価なものが展示され、同様の種類のパーティが催されている。
図書館、劇場、コンサート会場は多数ある。2004年4月の21日から27日の一週間、映画館は297の異なる映画を上映した。シネマテックや映画監督、俳優や特集として劇場でおこなわれたフェスティバルでプログラムされたものは数えなくて、この数なのである。
地方の映画の供給とは比較にならない多さである。
映画館はパリの空間の中で、さまざまな社会カテゴリーの人間がもっともよく見に行きやすいように、分配されているわけではない。16区はとりわけ映画館がすくない、8区のシャンゼリゼが映画愛好家のたまり場であるのに。18区にはもはやほとんどクリシーとその周辺にしか映画館はない。区の東は、人口が多いにもかかわらず、映画館はなく、それは19区、20区もそうである。
この分布は両大戦間にはちがっていて、映画館はパリ中に散らばっていた。たとえば、バルベ交差点には二つの映画館、ロクソールとバルベ・パテがあり、二つとも立派な外観をもち、ロクソールはエジプトの神殿を模倣し、バルベ・パテは劇場の構造をもち、バルコニーがあり、肘掛け椅子は赤いビロードでおおわれ、緞帳(ドンチョウ)と俳優の楽屋があり入り口は人の活気でいっぱいであった。
この別の時代の二つの証言は思い起こさせる。日曜日、昼興行(マチネー)には家族づれが切符売り場におしかけ、夜の部は土曜から活況を呈し、多少とも合法的な男女が会うのであった。郊外とおなじく、郊外もかつてはもっとたくさんの映画館があったのだが、この二つの映画館もその輝きを失ってしまった。ルクソールも何年も前から使われなくなり、その建物の独自性ゆえに保護委員会があったが、区役所が買い取り、すでに姿を消した。
パリの映画の12の中心地は5つのゾーンにまとめることができる。左岸の中心、右岸の中心、徴税請負人の壁の跡地に作られた、南北の、大通り(外周道路)の映画館、最後に、セーヌの両岸に最近つくられ周辺地域までいたる、12区と13区の隙間をうめている二つの中心地、である。これは、首都の東部、ベルシイ地区とセーヌ左岸の再開発に参与した活動のひとつである。
南の区(13区、114区、15区)とベルシーの中心をのぞいて、周辺の地区には映画館はない。もしMK2(フランスの映画配給会社)の映画館が19区、20区やなシオン広場に開店することがなかったら増えもしないだろう。パリ周辺部での、この映画館の希薄化、消滅は、郊外で映画館はほとんどないことの前兆となる。しかし、供給だけが問題なのではない。近くにあるか遠くにあるかは実際上は、影響ない。週末ともなると、大勢の人がシャンゼリゼや、文化的場所や余暇を備えた他の街をそぞろ歩く。彼らの大半は、「街に」来たパリ郊外の住人で構成されている。それはまるで、そこだけが都市の雰囲気を味わうことができる、地方都市か中心地にいるみたいなものだ。
この文化的提供への、隔たった、空間的に隔たり、そしてそれはしばしば社会的隔たりでもあるのだが、そうした関係は、同様に、権力と社会的卓越の場所への関係によって排除されているとの感情を強化するものである。[サラリーマンの単調な生活を、「メトロ、仕事、おねんねMétro, boulot et dodo」、とよく言うが]、郊外の住民もまた、支配的社会地位を表現し象徴しているもの、とくに文化の普及の場から遠く離れて、メトロ、仕事、テレビMétro, boulot et télocheという生活をしているのである。」

〈パリ散策〉
情報誌はPariscopeがおすすめ。住所が載っているので地図で確認できます。L’officiel des Spectaclesは住所が載っていなくて大変苦労する。

ルーブル美術館
宮殿の南東の端にある入り口Porte de Lionから入ると並ばずにすむ。
西洋の美術館はフラッシュをたかなければ写真は大目にみてくれる。
名画が目白押しでそれを見て回るだけで大変。一日、せめて半日はとっておくこと。
今回の訪問で印象的だったのはラ・トゥールGeorges de La Tour
「ラ・トゥール Georges de la Tour 1593~1652 宗教画と風俗画をえがいたフランスの画家。ろうそくの光でてらされた暗い室内をあつかった夜の絵がよく知られている。」
http://www.salvastyle.com/menu_classicism/latour.html
http://fr.wikipedia.org/wiki/Georges_de_La_Tour
イタリアのカラバッジョ(Caravaggio 1571~1610 イタリアの画家。光と影を強調した劇的な画法で知られ、17世紀バロック絵画の先駆者とされる。本名ミケランジェロ・メリージ)は明暗のコントラストを強調し、照明のような光のもとで登場人物たちを劇的に浮かび上がらせる。これにたいしてラ・トールは光源を絵の中に取り込み人物を闇の中でうかびあがらせるのだが、あくまでもその姿は静謐なものである。昼間の風俗画は登場人物の視線の交差がおもしろい。夜の光源からの光の線と、昼の人物の視線。どちらも、見える・見ることの線のなかでうかびあがる絵画である。


聖マタイの召命(せいまたいのしょうめい)
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ミケンラジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョによって1592年から1602年にかけて製作された絵画であり、ローマのフランス人管轄教会サン・ルイージ・デイ・フラチェージ教会内のコントレー聖堂に掲げられている。

大工の聖ヨセフ (Saint Joséph charpentier) 1640年頃137×102cm | 油彩・画布 | ルーヴル美術館(パリ)
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透けるろうそくの光が透けるイエスの手の描写と光がもたらす静謐な緊張感がすばらしい。


いかさま師 (Tricheur )1635-1638年頃
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登場人物たちの視線の交差がゆかい。

〈その他の美術館〉
オルセー美術館 駅舎を改築して作った鉄とガラスの光に満ちた美術館
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ポンピドー・センター(国立近代美術館)現代絵画、最近はビデオアートが多い。

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ロダン美術館 フォーブル・サン・ジェルマン(パリのお屋敷街)の邸宅を改装した美術館
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ピカソ美術館 ユダヤ人街もある人気スポットのマレ地区のお屋敷を改築。

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ジャック・マール アンドレ美術館 
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ミッキー・マウス展 
シャンゼリゼ、フランクリン・ルーズベルト駅のそばのギャラリー
http://www.mickfinch.com/expodoc/mickey/PR.html
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by takumi429 | 2007-07-17 18:25 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 4 

都市の社会学 パリ 4 

『パリの社会学』(より引用) パリの引力 (2)
外国からの移住
構成の多様化した移住
20世紀の初頭から、新たな貧困層として、ヨーロッパの国出身者が、フランス地方の移住者に合流した。最初は、ベルギー人とポーランド人、つぎに、イタリア人とスペイン人。
第一次世界大戦の後、アフリカやアジアの植民地国出身の労働者が、移民の動きを再浮上させた。それでも、ヨーロッパの移民はまだ良い時代を、ポルトガルの移民とともに知っている。その後、移民の大部分がアフリカ人となり、マグレブ(リビア、チェニジア、アルジェリア、モロッコなどの北西アフリカ諸国)から、ついでサハラより南のブラックアフリカからやって来るようになった。彼らの国を荒廃させた紛争の結果、東南アジアやクルドからあるいはさらにタミール人の移民がどっとなだれ込んだ。今日ヨーロッパは東の国の在外自由民が大量にやってきている。パリもまた、この世界中の惨事と惨劇が引き起こした移民の波を受け入れることを止めたことは決してなかった。
13区の中国ブティックやスーパーマーケットからグット・ドールの活気あるアフリカ人の路地まで、多様性は絶大である。パリでは、外国労働者、いろんなレストラン、世界中のさまざまな音楽があるおかげで、1つの大陸から別の大陸へいくことができる。
かつては地方がしたように、今日では、世界が数え切れないほどのものを提供することでパリを豊かにしている。調査によれば200近くの民族がいる。多文化併存はもう既成事実である。
しかしまたパリはこの観点から見ても、特殊な都市である。外国人の存在が他の地域よりも多い。1999年、調査によれば、フランス国内に320万人の外国人がいる。うち130万人がパリ地域圏(イル・ド・フランス地域圏)に住んでいる。すなわち40%が、フランスの人口の18.7%でしかない地域にいる。パリへの外国人の集中はより強い。なぜなら、外国人の9.4%がパリに住んでいるが、パリ市民の人口212.5万人はフランスの人口の3.6%にすぎない。
イル・ド・フランスの規模でも、パリはいぜん、いちばん外国人が集まっている地域である(308266人、すなわち、全1301386人のうちの4分の1がいる)。パリの北東のセーヌ・サン・ドニ県は外国人の20%が住み、第2位である。
このまさにイル・ド・フランスの内部での変化は不動産価格の上昇と空き物件の不足という事態に見合っている。低い階層の人間、外国人の大多数がそれにあたるのだが、にとって、パリに住むことはますますむずかしい。中流の社会階層やフランス国籍の世帯がベルヴィーユやグット・ドールのような地区にすむようになったために、移民はこの地区から排除されつつある。
パリで暮らす移民には二種類がある。ひとつは、一部の外国人は、厳密に言えば、移民ではなく、高い職業的地位を持っている。もう一つは、社会分布の最下層で、たいへん貧しい一部の外国人がパリで何とか暮らしている。彼らは、古い社会住宅、すなわち、事実上の、福祉住宅に住む。それは家具付きの宿や使用人部屋や破損しさらに非衛生的な部屋などである。区の外国人の分布はこの二極化を明るみに出す。

パリの外国人分布の不均等
1999年、外国人の比率が平均以上だった区は、3つのグループに分けられる。予想どおり、北東の大衆的な区(18、19、20区)と、中心と東の区(2、3、10、11区)と、逆説的に、もっとも上流な区、8区と16区、とにである。
区ごとの差異にもかかわらず、パリ市内の外国人の割合は、イル・ド・フランスの平均の比率(11.9%)を上回るか実際上は同じであったし、フランス全体の平均比率(5.6%)をはっきりと上回っている。
8区と16区の外国人の割合の高さはこの人口の特殊な構成に対応している。「管理職および知的職業」の20.5%が外国人であった。これに対して18区では、このカテゴリーにあてはまるのは、外国人労働者の9.8%にすぎなかった。「個人に直接サービスする使用人」は8区では外国人労働者の33.9%、18区では20.6%。そのうえ、外国人の国籍構成が同じではない。8区では欧州連合の外在自由民が全外国人人口の57.4%であるが、18区では19%である。8区ではスペインとポルトガルの労働人口の50%より少し多くが、そしてモロッコ人の35%が、特定の仕事(アパートの管理人、掃除婦)をしている。しかし18区ではこの数字は、23%、36.4%、24.7%である。職業と国籍と同時に考慮すれば、豊かな地区の外国人人口の特殊な性格が明らかになる。
外国人の空間的な分布はしばしば共同体に印づけられた様相を帯びている。


パリ、活発な都市
パリの人口増大と地方人と外国人に対する吸引力は、まず第一に、この都市と地域の構成をつくりあげている大きな雇用の受け皿というものに密接な関係がある。1999年、2125千人の住民と1114千人の労働力人口に対して、パリは1656千人の雇用を持っていた。70万人のパリ人が同じくパリで働いているのに対して、30万人は郊外で仕事に就いている。100万人のパリ郊外の住人が毎日パリに働きに来ている。行って帰る交互の移動はこの都市を造ってこわし、昼と夜の二つの顔を与える。
 しかし、他の首都とは異なり、雇用数は減少した。1990年から1999年の間に214530人減少。国勢調査の補足的に利用することで、職場について、しらみつぶしに調べるよりもより正確にわかる。納税額のこの期間の11.8%の減少は、原則として、工業での雇用低下によるものである。
パリの雇用の発展はまた、ブルジョワ化の過程と不動産の高騰の要因の1つでもある。パリの首都としての役割はそのため強固になっている。生産活動では、公害(騒音、煙、トラックの交通)が、部分的に少しの有資格の職人の作業の存在とともに生じるのだが、その生産活動を遠ざけることが、第3次産業を冶金業や木材業よりも価値があるもののように見せることを助長している。カナル・プルスとフランス・テレビジョンができてからのアンドレ・シトロエン河岸通りと、バスチーユ・オペラ劇場ができてからのフォーブール・サン・タントワーヌの変わりようはその目覚ましい例である。公的な第3次産業部門のいくつかの分散は、国立行政学院[高級官僚養成のグランドゼコール]のストラスブールへの移転のように、実人員において、多くの職場を提供してきた工房や工場の閉鎖や移転に比べて、わずかな重みしか持っていない。ポンビドー・センターができる前は、メル通り、グラヴィエリエル通りには、家具装具金物専門の冶金の工房を見ることができた。ここは、ボブールから目と鼻の先の所だった。
12区、13区、20区だけが雇用数の増加をみた。12区は15908、他の二つの区はより控えめの増加(13区は1434、20は2889)にとどまった。残りの区の中では、8区が一番、雇用が減少し、53335の減少。他の区は、差し引きしてマイナス(15000以上の雇用の減少)なのは、1区、2区、6区、10区、16区である。ローラント・ダヴズが強調したように、中心部と西部の雇用の減少と東部の増加(とはいえそれはつつましいものなのだが)による「パリの活動の再均衡化の始まりがみられる」[Davezies, 2002, p. 102].
ルーブルからベルシーへの大蔵省の移転[パリ市東部副都心開発部の12区リュ・ド・ベルシー139番地にあるベルシー庁舎(89年6月に改築)にルーブル宮リシュリュウ翼から中央省庁として移転、現在は経済・財政・産業省] は、この再均衡化の意志の公然たる、もっとも人目をひく宣言のひとつであり、都市計画の地図に書き込まれ、パリの空間を再構築するものである。たとえ、パリの都市原理が再構成から守れようとも(変わらないとしても)、それは低-利用の、いわば、工場の荒れ地や放置された倉庫で台無しにされ、庶民的な地区まじりの、東部地域を再開発するという二次的効果をもたらす。
人々を引き寄せているパリというのは、時期が来れば、最も貧しい者、住民の中でもっとも支払い能力のない者を排除していくパリでもある。管理職の雇用を美化し、設け、作り上げ、グット・ドールのような通りをもってして、創造活動の出現をうながし、物質的、あるいは文化的な資源において、新しい都市環境に弱く不適合な人口を支えるというようなことは、一度にはできない。」

〈パリ散策〉
『パリ万華鏡』の記述による
中華街(13区)
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1960年からはじまった都市再開発プロジェクト「レゾランピアド地域開発プロジェクト」「マナセ地域開発プロジェクト」
もともと13区は労働者が多くを占める街。自動車産業のパナール社・ルヴァソール社の工場。職人も多くいた。
プロジェクトの目標:劣悪な状態にある地区にもっとも貧しい庶民層が集中してしまうような格差を生むプロセスの解消。
スポーツ施設や商業施設、文化活動といった郊外に住む富裕層が手に入れることができるような利便性を享受しながら、同時にパリに住めるという利点、さらにこの地区のモダンさによって引きつけられるであろう中級あるいは上級管理職の若い層を潜在的顧客としてねらっていた。しかし肝心のターゲットである管理職の人々は、あたかも郊外にある低家賃住宅地に住むことを提案されているような印象をもってしまった。かわりに中国系のベトナム人、カンボジア人、ラオス人といった東南アジアからの難民が住み着くようになった。
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多くを占めるのが次の中国人
温州(上海の南)出身者:第一次世界大戦出兵で不足した労働力を補うために動員された者。さらに中国での共産党政権奪取後に無一文で逃げてきて、さきに住み着いた同郷人を頼って来た者。
潮州(香港の北・広東州東部)出身者:フランスの植民地開発にともなってインドシナに定住した。東南アジアにおける華僑。ベトナム、カンボジア、ラオスの共産党政権から逃げ出した。
この地区にあったよそ者を受け入れる伝統。労働司祭[修道院などにこもって修行する司祭ではなく、社会に出て労働をとおして布教する司祭たち]の活動が盛ん。
ユダヤ人のゲットーのように閉じたものではなくて、ここ中国人街は開かれたゲットーと言える。
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国立図書館周辺
セーヌ川の水上プール:ジョセフィン・べーカー
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図書館の隣にある映画館
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ジョセフィン・ベーカー Josephine Baker 1906~75 
アメリカ出身のシャンソン歌手・ダンサー。スペイン人の父と黒人の母のもとにセントルイスで生まれる。1925年、黒人レビュー団ブラック・バーズにくわわってフランスにわたり、大胆なヌードと奔放なチャールストンの踊りでセンセーションをまきおこした。その後フランスに定住し、「二つの愛」「可愛いトンキン娘」などのヒットをはなつ。第2次世界大戦には空軍中尉として従軍、フランスの対独レジスタンスに協力した。戦後、中部フランスの古城に孤児養育施設を開設、世界各地から養子をむかえる。54年、混血孤児救済活動の一環として日本のエリザベス・サンダース・ホームを訪問。施設運営資金をえるため高齢をおして公演中、パリで急逝した。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft
Corporation. All rights reserved.
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 Paul Colin
You Tube (http://www.youtube.com/) で映像検索するとさまざまなジョセフィン・ベーカーのステージが見ることができる。
ジョセフィン・ベーカーはアール・デコのシンボルでもあった。
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アール・デコ Art Déco 
1920~30年代に流行したデザイン様式。滑らかな流線形のフォルムに洗練された気品が感じられ、主として家具、宝飾品、織物、室内装飾にもちいられた。この様式は1910年ごろからあらわれたが、「アール・デコ」の名称でよばれるようになったのは、25年パリでひらかれた「現代装飾・工業美術国際展」(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)、略してアール・デコ展以後のことである。
アール・デコは凝りすぎる傾向のあった世紀末のアール・ヌーボー様式の単純化をめざした動きにはじまり、その新しい美学は、時代の機械化の歩調に即して急速に発展した。産業化の進展の中で生まれたアール・デコは、簡潔な線、空気力学、シンメトリーを特質としている。その製品の大半は量産されなかったが、量産品の本質を特徴づける単純さ、単調な反復性、幾何学的パターンをもっていた。
アール・デコの最初の実践者は、洋裁師ポール・ポワレと、宝飾やガラス細工で知られるルネ・ラリックの2人であった。そのデザインは繊細でのびやかな、ながれるような線を特徴としていた。東洋風な舞台装飾と色彩感覚で知られたディアギレフの「ロシア・バレエ団」(1909年創設)、エジプト風モティーフの流行を生んだ「ツタンカーメン王墓」(1922年発掘)、優雅な幾何学的フォルムをもとめたキュビスムなどからも、アール・デコは大きな影響をうけた。1920年代、30年代を代表する美術家には、家具師リェルマン、漆細工師デュナン、銀細工師ピュイフォルカ、宝飾細工師ラリックらがいる。
作品がますます大量生産され、この運動の中心がフランスからアメリカにうつるにつれて、アール・デコ様式はいっそう幾何学的、直線的傾向を強めていった。アメリカでは、蒸気機関車、高層ビル、ドライブイン、ラジオのキャビネット、ジュークボックス、広告などにこの様式がとりいれられた。
Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.

セーヌ川上流の13区と12区の両岸の再開発
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ベルシー庁舎:「経済・財政・産業省は、パリ市東部副都心開発部の12区リュ・ド・ベルシー139番地にあるベルシー庁舎(89年6月に改築)にルーブル宮リシュリュウ翼から中央省庁として移転した。ミッテラン大統領自ら採択したといわれる、ロシア系フランス人のシュミノフとウイドブロの両建築家のプロジェクトに基づいた典型的なポストモダン建築である。」http://www.jetro.be/jp/business/eurotrend/200111/200111-3.pdf

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by takumi429 | 2007-07-17 17:45 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 3

都市の社会学 パリ 3

『パリの社会学』Ⅱ パリの引力

パリは政治権力を集中し、フランスの富と可能性の本質部分に相当する人口と資産を集中させている。街のほんのわずかな限られた空間の中に、政府機関や記念建造物や美術館が集まり、物質的かつ象徴的な富を集約している。
この集中化は過去2世紀の歴史の所産である。この2世紀の間に、パリは田舎よりずっと早いリズムで成長した。地方人を引きつけ、さらにますます遠い国の出身の移民を引き寄せた。
人口の増加
パリには、1801年の、55万人の人口があり、1856年の国勢調査では117.4万人の人口がすでにあった。半世紀の間にその人口は2倍になった。1860年の周辺の合併吸収によりパリの人口は50万人増え、1861年の国勢調査では169.6万人になった。1921年にパリの人口はピークとなった。290万の人口となりもうすこしで300万人となるところであった。それから1954年までは人口は安定していた。この時にはパリの人口は285万人であった。その後、人口の減少が来た。1954年から1999年の間、パリは72.5万人の人口減少した。人口は212.5万人どまりとなったが、これは1801年の人口のほぼ4倍であった。
他方、フランス全体の人口は、19世紀の初頭から2930万人から5850万人に増えた。首都の人口が4倍になったのに、2倍になったにすぎない。1801年、現在のイル・デュ・フランスになった3県の人口は135.5万人であった。それが1999年には1095万人に達している。200年の間に、この地域の人口は8倍にもなった。
フランス本国、イル・ド・フランス、パリの人口増加率の変化

パリは人口減少に転じているが、イル・ド・フランス(パリ周辺)の人口増加は以前、フランス本国全体よりも高く、この地域がいまだ多くの人口を引き寄せているのがわかる。

パリに来る移民の変遷 地方人から外国人へ
19世紀にパリにやって来たのは地方出身者であった。すなわちリムーザン(中央山塊北西部の地方)、ブルターニュ、オーヴェルニュ(フランス中央部,中央山塊の主要部を占める地方)の出身者たちだった。地方人はかたまって住み、特徴ある地区を作り上げた。ブルターニュ出身者はモンパルナスの駅の近くに、オーヴェルニュ出身者はファーブル・サンタントワヌに。(ルイ14世の自由化施政によりファーブル・サンタントワヌは家具や冶金の工房がたくさんでき、それにオーベルニュ出身者が従事した。彼らはコミュニティを作り、独自の祭りをおこなってきた。)
1886年、パリはフランス最大の都市であったが、パリ市民の36%しかそこで生まれた者でしかなく、56%はセーヌ県やその他の地方出身者であり、8%は外国人であった。1999年には、パリ出身のパリ市民の数はさらに減って、31%がパリ生まれ、14.5%が残りのイル・ド・フランス生まれにすぎない。よそ者(32%)は地方生まれである。とくに23%は外国生まれである。
移民にたいしては絶えず、差別的イメージが、政治家やジャーナリストによって作られてきた。
ブルターニュからの移民がより多くなった1930年代、共同体の行列が毎年モンパルナスの道を席巻した。同時に、排斥されたブルターニュ人とそのアイデンティティの誇りを統合しようという意欲がみられた。
今日、もはやブルターニュ人の行列行進はない。しかし何年も前から、13区の中国人コミュニティがパリの「チャイナ・タウン」の道を旧暦の正月にねり歩く。フランス当局によって認められた統合の意欲は、2004年のフランスの中国文化年の機会に認められ、シャンゼリゼを行列が練り歩くことが認められた。
中国人だけがパリの路をねり歩くことが許可された移民ではない。スリランカの内紛のために多くのタミール人がパリに移住している。スリランカ出身のタミール人のコミュニティも数年前から、9月に、ヒンドゥ教の神々の1人で像の頭をもつ、ガネーシャの祭りをたたえて行列がねり歩く。腰巻きだけ身につけた上半身裸で裸足の男たちに引かれた花車が10区と18区の路、北駅と東駅の間の道をねり歩く。地面にまかれたクルミとココナツの破片の中を、女性たちのきらびやかなサリーとあっけにとられたパリ人のカメラのレンズとの間を、祭りの行列は進む。
パリのガネーシャの祭り(Wikipediaより引用)
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「グット・ドール:パリの移民史の縮図
地下鉄バルベス・ロシュアール駅の近く、シャペル大通りの北の、18区にある、この地区はいくつもの移民の波を経験してきた。この土地もまたパリの外側に位置しており、たいへん質素な賃貸アパートが、1860年のすこし前に、ここに建てられて以来のことである。
ゾラは小説『居酒屋』の筋建てをここに置いた。登場人物のランチエとジェルヴェーズは、マルセイユ地方から、仕事を見つけようとして、パリに上がってきてここに住んでいる、とされる。フランスの、とくに田舎からの、この移民に取って代わって、次、ヨーロッパ人、スペイン人とイタリア人が移民してきた。1920年から、カビリー人[アラブと混血化しなかったベルベル人でアルジェリアからの移民]が、それに取って代わった。彼らはこの地区にマグレブ(モロッコ・アルジェリア・チェニジア)の色調を与え、それは1990年まで続く。次に、バルベルのカフェはアフリカレストランに取って代わられた。織物商人は徐々に、金銀のラメの代わりに、ブラック・アフリカのろうけつ染めやバザン[縦糸が麻糸で横糸が綿糸の綾(あや)織物]を商うようになってきた。このアフリカ相互の競争は今日、アジアや東ヨーロッパからの到来者の新しい波に直面している。この人口の動きは、歴史のレベルに置き直すと、結局、人々をつかってのたえまない型の練り直しでしかない。そしてその運命は、異種交配の運命なのである。」

セネガルのろうけつ染め(wax)
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〈パリの遊歩者〉

グット・ドール
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バルベス・ロシュアール駅の入り口
(左に焼きとうもろこし売り)
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高架下の市場
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モスク
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by takumi429 | 2007-07-16 18:30 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 2

都市の社会学 パリ 2
現在のパリの形を作り上げたのは、第二帝政期におけるオスマンの都市改造であった。その都市改造を、松井道昭『フランス第二帝政下のパリ都市改造』(日本経済評論社1997)に依ってみてみることにしよう。

1789フランス大革命
1804皇帝ナポレオン1世、載冠聖別式
1814王政復古
1832パリでコレラ大流行、死者19000人。
1848第二共和政
1951ナポレオン3世、クーデタにより帝政開始。
1852-1870 ナポレオン3世がオスマン男爵をセーヌ県(パリとその周辺)知事に任命。オスマンの監督下で大規模な都市改革が実施さる。中央市場、駅、ビュット=シューモン公園、ブーローニュの森、ヴァンセンヌの森、オペラ座、下水道が誕生。ルーブル宮改修工事完成。グラン=ブルヴァールが建設される。パリは20の区に分割。
1955パリ万国博覧会。
1867パリ万国博覧会。
1870普仏戦争。スダンの闘いでプロイセン軍の捕虜となる。第3共和政発足。
1871パリコミューン、ヴェルサイユに鎮圧される。

オスマンによるパリ改造
1.街路整備
シテ島の切開 パレー大通り、貧民街の撤去
パリの十字路 リヴォリ通り(コンコルド広場-バスティーユ広場)・セバストポール大通り(東駅-セーヌ川)。密集街区アルシス街区の一掃。
セーヌ左岸 セバストポール大通りとパレー大通りの延長=サン=ミッシェル大通り、サン=ジェルマン大通り(コンコルド広場-バスティーユ広場)、ポール=ロワイヤル大通り・サン=マルセル大通り(環状路)
鉄道駅への連絡 パリ北駅へのラ・ファイエット通りの延長:オスマン式斜行路の代表格。
ロータリーとしての広場 マドレーヌ広場。オペラ座。シャト=ドー(現レビュグリック)広場。エトワール広場(凱旋門)。
2.近隣市町村の合併
3.公共設備
①公園 小公園(square):家屋取り壊しでできた辻公園。計24ヶ所。旧市内で現存する小公園のほとんどが第二帝政期につくられた。
公園(parc) ビュット=シューモン公園。
        モンスーリ公園。
        モンソー公園。入り口にルドー設計の徴税請負人の関門
②森(bois) ブーローニュの森:ロンドンのハイドパークを模す。ロンシャン競馬場。
ヴァンセンヌの森。
  ③上水道 金持ちの住宅には直接水道が引かれ、家庭風呂が流行。
   下水道 第1下水管:歩道下に埋設される高さ230㎝以上、幅130㎝以上。
第2下水管:高さ240~390㎝、幅150~400㎝。
第3下水管(アニエール集合管):パリの下水をすべてコンコルド広場下に集め、パリ北西郊外のアニエールで放流する。
      下肥 以前はすべて汲み取り。浄化槽にしばらくためてから下水坑道に排出。
4.公共施設
  区役所の新築・増改築
市場 ラ・ビレット:屠殺場・家畜市場
   中央市場(パリの胃袋):鉄とガラスの建築物
5.公共輸送機関
乗合馬車
市内環状鉄道:市内に散らばった鉄道駅をつなぐ。最初は貨物用。

財政 「生産的支出の理論」「良き種は収穫において多くを産する」
  事業のうち公的性格の強いものには全額公的支出。
  その他の事業には、必要な経費を起債(主に市債)で捻出し、のちに不動産を再売却することで償還する。(安く収用して高く分譲する)。→ゾラ『獲物の分け前』
  パリ公共土木事業金庫・不動産銀行:土地の「譲渡証書」(債券)による融資
  →議会での指弾を受け、オスマン退任(1970)

功罪
1.建設ラッシュによる地方からの移民。さらに外国人移民。
2.家賃高騰:70~80%前後。賃金20~30%上昇。
3.セグレガシオン(ségrégation オランダ語のアパルトヘイトと同義):階層別棲み分け。
   立ち退かされ、あるいは家賃の上昇から逃げ出した貧民は市の北東(「パリのシベリア」)に追いやられた。←諸階層の混住
   新興ブルジョワは市の西部に住むようになる。

オスマンの都市改造は、貧民も貴族・上流階級にとって益は少ない。むしろ勃興しつつあったブルジョワにとって大いに歓迎されるものであった。→「パリのブルジョワ化」
パリ中心部に富裕な層が住み、北東部に貧しい層が住むという構造は今日ににまで引き継がれている。

<パリの遊歩者>
『パリの社会学』のなかのコラム「モンソーからエピネットへ」にしたがって、17区のモンソー公園から北東のエピネット地区へ環状高速道路まで歩いてみよう。
このルートを歩くと、まるでジェットコースターで駆け下りていくように、パリのもっとも豊かな地区から貧しい地区へと移動することになる。

モンソー公園Parc Monceau
もともとはオルレアン公の庭園だったこの公園を、財界人ペレールは一部を豪邸用に区画分譲した。その結果、公園を囲むように豪邸が建ち並んでいる。エミール・ゾラの小説『獲物の分け前』はオスマン都市改造のさなか地上げで巨万の富を得る者たちを描いているが、主人公サッカールの邸宅のモデルの1つになった、ムニュ邸がこの公園に面している。
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Sainte-Marie-des- Batignolles教会
このあたりはポルトガル人の大きなコミュニティがある。
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低家賃団地(HLM)
外見はきれいだが、その前の道は未舗装で犬の糞が散乱していた。
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ティレーヌの城壁の外側にあったZone(軍事用の空き地)跡に立てられたスポーツ施設
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by takumi429 | 2007-07-16 12:44 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)