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都市の社会学 パリ まとめ

パリ
フランスの首都、パリは、フランスの北西部のわずか87k㎡の円形の(山手線の内側よりわずかに大きい)空間にすぎない。このわずかな空間に、政治・経済・文化・芸術などフランスのあらゆる中心が集中している。
パリはもともとセーヌ川の中州であるシテ島から発展していった。成長するカタツムリがその殻をしだいに大きくするように、パリも6度にわたってより拡がった城壁を築いてきた。現在のパリは、最後のティレーヌの城壁がこわされた後、その周りの軍用地帯(Zone)だったところを走る外環高速道路によって、まわりの郊外(banlieu)から区別されている。
セーヌ川の流れから見て右にあるセーヌ左岸は政治と経済の中心地であり、左にあたるセーヌ左岸はパリ大学がおかれた文教地区(カルチェ・ラタン)とお屋敷町(ファーブル・サンジェルマン)であった。権力の軸はルーブル宮殿からカルーゼルの凱旋門、凱旋門、さらにグランド・アルシュ(新凱旋門)へと伸びてきた。
今日のパリの構造を作り上げたのは、第二帝政期ナポレオン三世の命をうけたオスマン男爵によるパリ大改造であった。シテ島や市役所周辺などの貧民街を一掃し、直行・斜行する直線道路を縦横にめぐらし、その両側にアパートを造らせ、広場を作り、上下水道を整備し、公園を配置した。土地は高騰し地上げ屋が暗躍し、土木工事は多くの地方出身を引き寄せた。しかし立ち退かされた貧民たちは「パリのシベリア」と呼ばれた北東部へと追いやられた。生まれ変わった都市中心部には、豪邸よりも快適なアパートを好む新興ブルジョワたちが住み込んだ。こうしてパリの「ブルジョワ化」と北東部のクロワッサン状の貧民地域という、今日までつづくパリの構造を作られたのである。
オスマンの都市改造とともに、パリは消費革命を経験する。商品を見世物として大々的に展示する博覧会が19世紀後半に5度開催され、展覧会の展示方法をもちいたデパートの薄利多売が異常な(ときには万引きまでしかねない)婦人たちの購買欲を刺激し、高級娼婦がオペラ座で媚びを売り、パトロンがバックステージから踊り子の踊りに舌なめずりをし、鉄道が人々を観光地へと運び、大衆は郊外へ出かけての浮かれ騒いだ。アカデミーの歴史画に対抗して、印象派はこうしたオスマン以後の都市空間と消費生活の風俗画を積極的に描いたのであった。
パリへの移民は地方出身者からマグレブ人(北アフリカ人)、ブラック・ノワール(サハラ以南のアフリカ人)、アジア人へと変遷をとげてきた。彼らの多くは市の北東・南東部、さらに環状高速道路で隔てられた郊外(banlieu)に住み、地下鉄・RER(首都圏高速交通網)で都心に働きに出てパリを支えながらもその周辺にあって虐げられている。
パリはブルジョワ化して、カルチェ・ラタンには高級ブティックがならび、貧困街にも「ブルジョワ自由民」が進出する。他方、パリの高級街は観光客などの襲来でファーストフードや量販店が並ぶという「大通り化」に瀕している。
都市の風を受けて街を航海していく遊歩者は、街をスナップショットし、それを組み合わせ、パリという光と影が織りなす街のイメージを作り上げていこうとする。
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by takumi429 | 2007-08-05 16:30 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)

都市の社会学 パリ 12

都市の社会学 パリ 12
『パリの社会学』Ⅶより
パリ-郊外(banlieue):1つの都市圏?
パリとその周辺の郊外のもつ断絶
ティエールの城壁(1841~1844年)
城壁がなくなったパリは、対仏同盟軍による1814年、15年の攻撃に耐えることができなかった。1818年に組織された国防委員会は、1820年7月18日、「パリを防御体制下におく必要性」を認める決定をしたが、計画は何も実現しなかった。1830年に組織された要塞化委員会は問題の再検討を行なったが、パリ郊外を取り巻く大規模な城壁を作るべきだという人々と、「保安用の城壁」を伴った一連の要塞からなる防御陣地を、市門に沿って首都のまわりに配すべきだという人々のあいだで、意見の調整ができなかった。1836年に組織された新たな委員会(通称「王国防衛委員会」)が、これらふたつの方式を結びつけた計画を、1838年7月6日に採択した。そしてフランス、イギリス、ドイツ連邦の緊張が高まった1840年になって、ようやく首相兼外務大臣のアドルフ・ティエールが、新たな城壁の建設を公益認定し、ドッド・ド・ラ・ブリュヌリ将軍とヴァイヤン将軍の指揮のもとに行なう意向を示した。計画は両院で可決され、1841年4月3日に発布された。こうしてパリは全長34キロ近く(稜堅の凸凹部分を計算に入れれば三十九キロ)の巨大な楕円に囲まれることとなった。現在のマレショーの大通り〔歴代元帥の名を冠した大通り〕とパリの現境界線とのあいだに築かれたこの城壁は、世界最大規模のものである。城壁にともなって、堀の前250メ
ートルは、ラテン語でnon aedificandiと呼ばれる建築禁止区域(ゾ ン)になっていた。城壁そのものは幅140メートルあり、内側から外側に向かって次のような構成になっていた。幅2メー
トルの下水用排水溝。幅6メートルの砂利敷き車道(「城壁道」)。これはほどなく幅40メートルの軍用道路にとってかわられ、1861年以降はマレショーの大通りに補われた。またマレショーの大通りは、所々で内側30メートルほど私有地に入り込んでいた。高さ10メートル、厚さ3メートルの城壁平場。これは6メートルごとに控え壁で補強されていた。平場の頂上にある射撃用足場。40メートルほどの堀。堀の外岸と斜堤。これは1860年以降、パリの境界を示すことになっていた。
この大規模な城壁全体は、10の工兵管区ベルシー、シャロンヌ、ベルヴィル、オーベルヴィリエ、ラ・シャペル、バティニョル、ブローニュの森、ヴォージラール、プティーーモンルージュ、メゾンーーブランシューに分割されていた。総計94ある稜堡(りょうほう)には、658門の大砲が備わっていた。・・・
ティエール城壁は、1870年のプロイセン軍による攻囲のときにしか役立たなかった。1919年4月19日の法令により、城壁の取壊しが決まった。場末(ゾ ヌ)と呼ばれた地域に住み、おもに屑屋を営んでいた人々が立ち退いた後には、低価格住宅(HBM)や低家賃住宅(HLM)が建設され、首都のもっとも外側をとりまく環状道路である外周環状道路(プ ルヴア ルコペリフエリソク)がその近くをかすめるように走っている。『パリ歴史事典』352-4頁

ブルアージュの稜堡式要塞
ブルアージュは、フランス、ノルマンディ地方のサントンジュ海岸に面している。現在、町は大西洋からはなれた内陸部にあるが、中世のころは水路で海に出られる臨海都市であった。ブルアージュは、1571年に防備をほどこされ、プロテスタントの拠点であるラロシェルに対抗するため、1622年からリシュリューによって近代化された。その後、海軍基地にするためにボーバンによって全体の改築がおこなわれ、稜堡式要塞(りょうほしきようさい)となった。稜堡式要塞は、砲台となる稜堡、土塁(どるい)と堀などで構成され、稜堡はあらゆる方向からの攻撃に対処するために死角がないように配置されている。しかし、泥の堆積によって水路がうまってしまったため、ブルアージュは海軍基地としての機能をうしない、海軍基地はロシュフォールに移動した。
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ボーバン
セバスティアン・ル・プレストル・ド・ボーバン(1633~1707)。フランスの軍人、軍事技術者。砲台となる稜堡(りょうほ)、土塁(どるい)、堀などで構成される稜堡式要塞とよばれる築城術および、要塞を攻撃する際にもちいる塹壕の運用について体系化した。1703年には元帥となり、著書には「攻囲論」などがある。また、ボーバンは統計調査法の元祖、経済学の創始者のひとりともされている。
THE BETTMANN ARCHIVE
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パリの城壁 6ティエールの城壁

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ティエールの城壁とリニャンクール門の空間の利用
ティエールの城壁は幅が合計390m、円周が34km。首都の面積87km2 のうち15%にあたる13 km2 を占めていた。1926年にゾーヌには42000人が仮住まいしていた。

←パリ18区       城壁          ゾーヌ  郊外サントゥアン・サンドニ→   
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リニリニャンクール門とロピタル・ビショの間にあった第37,38,39稜堡の上に2700の低価格住宅(HBM)がが1926年から1931にかけて建設された。
[パリ周辺で40,000の低価格住宅、120,000人の住民]
サントゥアン門とリニャンクール門の間に818の低家賃住宅(HLM)が1958年から1959年にかけて建設された。
[パリ周辺 低家賃住宅、スポーツ施設、リセ、病院、15区のポルト・デュ・ベルサイユの展示場公園、14区のジャルダン大通りの大学都市などなど]


ゾーヌ(場末)ZONE
1841年から1845年にかけて、パリの周囲に「ティエールの市壁」と呼ばれる城壁が巡らされると、草地となっていた城壁の外側の緩衝地帯には早くからタール紙で覆った板張り
のあばら屋が建てられ、周りには小さな庭もしつらえられて野菜などが作られていた。この軍用地の最初の住人は屑屋で、やがて簡単な仕事場を建てるための敷地を捜していた下級職人層がこれに続き、その後古物商や家具職人、家具商などもここに住むようになった。付近に広い土地を取得して、倉庫や時には工場を建てる実業家もいた。こうした住人たちの喉をうるおすために「マストゥロケ」と呼ばれた飲屋も開かれた。アリスティッド・ブリュアンはこれらの貧民たちのことを「城壁(フオルテイフ)の文無しども」と呼んでいる。彼らは一八七〇年から七一年の攻囲戦の際にいったんその住みかを追われるが、1880年頃にはこの周囲35キロメートル、幅わずか250メートルの環状地帯(総面積444ヘクタール)にふたたび住み着いている。「ゾーヌ」と呼ばれたこの場末の人口を50万と見積もった途
方もない試算もあるが、1913年のセーヌ県の調査では2万人以下、1926年の別の調査では4万2300人という数字が挙げられている〔「ゾーヌ」の呼称は「軍用地」(ゾーヌ・ミリテール)に由来する〕。城壁の盛り土の上で草をはむ牛の様子や、ルヴァロワ〔パリ北西部、現在のルヴァロワロペレ〕付近のロバや山羊の群れは絵はがきにも描かれている。
「場末」の住人は危険な階層という評判が高かった。売春婦たちが客を取っているあいだ、「ビュット〔モンマルトルの丘〕の狼たち」とか「バティニョルの押し込み強盗」などとあだ名されたひも連中があたりを見張っていた。マスコミは彼らを「ならず者(アパッチ)」と呼んで民衆のあいだにその人気を広めたが、とくにそのなかのひとり、マンダの裁判(1920)は「カスク・ドール」〔「黄金の髪」の意。事件の中心となった娼婦のあだ名〕の伝説を生み、ジャック・ベッケルの映画〔『肉体の冠』〕によって不朽の名を留めることになった。だが住人の大半はその日暮らしで細々とした仕事を営んでいた貧民たちである。もっとも数が多かったのは屑屋だった。バトリス・ブーセルは『パリ事典』のなかで書いている。「市壁付近ではまだ、白皮なめしに使うために犬の糞を集めている姿が見られた。なかには場末の〈医者〉と呼ばれた屑屋もいて、彼はごみ箱で拾った本を読んでその知識を身につけ、無料で診察していた。箱形馬車で寝起きしながら子どもたちに道徳と読み書きを教えていたアンデルソン牧師もいた。」日曜になると、郊外に住んでいた労働者たちがピクニックにやってくる。1908年の警視庁の報告書によると、ジャガイモやムール貝を焼く匂いがたちこめるなか、この場所へ行楽に訪れたパリ市民の数は年間1万人にのぼっている。ジプシーたちはトランプで運勢を占い、手相を観ていた。歌を唄って小銭を集める旅回りの芸人もいた。飴やゴム風船売りの他、「プレジール」や「ウーブリ」と呼ばれた小型のワッフル(ウエハース)を売る姿も見られた。
1926年4月19日の法令により市壁の撤去が決められると、その跡地とゾーヌに分譲住宅地の建設が計画される。低価格の住宅が大量に作られ、敷地の一部には外国人学生のための大学都市も建設された。この地域を対象にした都市計画とその実際については、ジャンーールイ・コーアンとアンドレ・ロルティによる『城壁から周辺地区へ』のなかに詳しい研究がある。ウジェーヌ・ダビは、1933年の『パリの郊外』のなかで次のように書いている。「子どもの頃私がよく遊びにいったビュットーーモンマルトルや大採石場(グランドコカリエ ル)の空き地には、今では兵舎や町工場、銀行、自動車修理工場といった殺風景な厳めしい建物が立っている。まさに「土地は金なり」である。家と家は互いに接し、もたれ合い、垣根を立てて太陽を遮っている。」それでもわずかの土地は緑地や広場、公園、スポーツ施設として残された。1953年2月7日の法令は最後の空き地を一掃し、安価で粗末な建築の大量生産が始まる。住人たちはその後、環状自動車道の騒音と大気汚染に悩まされることになる。
 いったん姿を消すと「ゾーヌ」は一種の神話に変貌し、自由の空間、社会の周縁というイメージに彩られる。同時にそれは「貧困」を体現する場でもあった。パリの場末を舞台にした映画は数多い。ジョルジュ・ラコンブの『空の音楽家』(ミシェール・モルガン主演)や短篇のドキュメンタゾー『ラ・ゾ!ヌ』の他、ブリッツ・ラングは『リリオム』のためにスタジオのなかに「場末」を再現し、ルネ・クレールは1957年、ルネ・ファレの小説『環状地帯』をもとに『リラの門』を撮っている。セリーヌ、サンドラール、オーギュスト・ル・ブルトンらは、その作品の大部分に場末を登場させている。今日では、貧困と暴力と治安の悪さというかつてのブルジョワにとっての「ゾーヌ」の神話を、パリの郊外全体が体現するようになった。中流階級にとって、周りを場末に囲まれて暮らしているという意識は今も消えていない。 (『パリ歴史事典』427-9頁)

La zone des fortifs, à Saint-Ouen
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Neuillyなどの西南部の郊外は豊かでパリ市内と連続しているが、その他の北東部の郊外はパリ市内とは断絶した貧しい層がすむ荒廃した場所になっている。

郊外の風景
東京国立近代美術館 『写真の現在3 臨界をめぐる6つの試論』
Photography Today 3: Resolution/Dissolution  2006.10.31-12.24

小野 規 Tadashi ONO
1960年生まれ。1991年アルル国立高等写真学校卒業。90年代からパリを拠点に活動、19世紀の先駆的な写真を参照系とした、パリやエジプトの風景をめぐる作品を発表。現在、パリ郊外に在住。
「Fieldwork from Periphery(周縁からのフィールドワーク)」
http://onotad.free.fr/page-fieldwork/fieldwork%20menu.html 
は、「Street 2」「View(with the tower)」「Study of tree」「Study for a garden」の四つのシリーズにより構成される。パリ郊外というローカルな「周縁」から、歴史・移民・自然など、グローバルな問題系をも見通そうとする連作。
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小野規
《Fieldwork from Periphery より
Street (avenue Pablo Picasso), Paris,》
2002-2005年

小野規インタビュー  〈周縁からのフィールドワーク〉をめぐって
まず、パリ郊外についてちょっと解説しましょう。
パリ郊外は、20区から成るパリ市の周辺に円環状に展開する広大な地域で、一般的にイメージされるパリとはまったく異なった都市風景が広がっています。 そこにはパリ市の倍以上の人々が暮らし、多くは安価な労働力を提供してパリの社会活動を底辺から支えています。 西部、南西部の一部を例外として、一般的に生活水準はパリ市内より低く、反対に失業率は高く、移民労働者および移民出身者が多く住んでいます。
パリ郊外は一般に「バンリュー」と呼ばれていて、中心としてのパリから社会的にも映像的にも排除されている地域です。 すでに「バンリュー」という言葉のなかに、ある土地から除外される、という意味合いが含まれています。
5年前からパリ郊外の北東部にあるセーヌ・サン・ドニ県(昨年11月の暴動が始まったところです)に住み始めたのですが、あらゆる面でパリ中心部との連続性の欠如を実感すると同時に、この「パリではない」といわれている地域にこそ、パリ、あるいはフランス社会の、さらにはヨーロッパという文明の現在形が色濃く現れているのではないか、と考えはじめました。
一見平凡きわまりないローカルな空間、しかしここにはヨーロッパ植民地の歴史や移民、都市への人口集中といったグローバルな諸問題へと思考を展開していくきっかけになりそうな微小なささくれというかざらつきがあって、それがとても気になっています。
「周縁」としてのパリ郊外は「中心」であるパリによってつくられ、見られ、表象されてきました(同時に見えなくもされました)。 「見ること」と権力は深く関わっていて、その「見る側」に写真も発明以来ずっと加担している。写真家が郊外で好まれないのも故なきことではありません。
「周縁からの」という言い回しには、こうした中心的視線にたいするオータナティヴなまなざしの可能性について考えたい私自身の立ち位置を確認する、という意味合いが込められています。
自身がアジアからの移民、つまり周縁的な人間であるということ。 そして特権的な旅人ではなく、実際に周縁の土地、パリ郊外で暮らし、ローカルな日常から思考していること。 これらを包括する「周縁からの」フィールドワークによって、周縁の風景を自らの風景として引き受けていくことが可能になるのではないか、と希望しています。  
また、そうして獲得された周縁からのまなざしは、中心からのそれとは違う、より柔軟で多様なものであると思います。 
中心主義的まなざしによって構築された今のヨーロッパは、オータナティヴな視線を獲得することによってしか現在の問題を解決できないでしょう。 周縁を客体ではなく自らの一部として引き受けるということは価値観の転換による苦痛を伴うはずですが、同時に世界へのパースペクティヴを大きく変化させる可能性を手にすることだと思います。

参考文献:堀江敏幸『郊外へ』白水社

〈パリの遊歩者〉
地図を片手にパリをさまよっていると自分が事件を解決するべく捜査している刑事か探偵、あるいは機会をねらっている犯罪者になったような気分になってくる。
19世紀のパリ 大量に流入してくる人口の都市滞留により貧民層を「危険な階級」と呼ばれ、パリは犯罪都市の様相を呈していた。
フランソワ・ヴィドック(Eugène François Vidocq、1775年7月23日 アラス - 1857年5月11日)フランスの犯罪者で後にパリ警察の密偵となり、ついには国家警察パリ地区犯罪捜査局を創設し初代局長となる。退職後、私立探偵事務所開設。犯罪者にして刑事にして探偵。
バルザックの『人間喜劇』のヴォートラン 徒刑囚・犯罪者・警察勤務

世界最初の推理小説
アメリカのエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809- 49年)
5編のうち3編がパリを舞台にし、C・オーギュスト・デュパンが解決する。
「モルグ街の殺人」:パリのモルグ街の殺人の謎を解く
「マリー・ロジェの謎」:失踪し死体となったマリー・ロジェの謎を新聞記事だけから解く。安楽椅子探偵の元祖。
「盗まれた手紙」:盗まれた手紙をめぐる攻防
(その他:「黄金虫」:暗号解読、「おまえが犯人だ」:最後に人々が一堂に会した場面で犯人を名指しする。) (丸谷才一訳『ポー名作集』中公文庫)
C・オーギュスト・デュパン(C. Auguste Dupin)は、エドガー・アラン・ポーの短編推理小説に登場する架空の人物で、世界初の名探偵といわれる。登場する事件は、『モルグ街の殺人』『マリー・ロジェの謎』『盗まれた手紙』の3編。
五等勲爵士。フランスの名門貴族で、シュバリエであったが、いくつかの不幸な事件により財産をなくす。パリ郊外サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところ(パリ市、フォブール、サンジェルマン・デュノ街33番地)にある崩れかけた古い怪しげな館に、事件の記述者である「私」と同居。
昼は戸を閉め切った真っ暗な部屋で強い香料入りの蝋燭に火をつけ、読書と瞑想にふける。夜はパリの街を徘徊して大都会の闇と影を愛する。
趣味は「夜自体のために夜に魅了されること」("to be enamored of the Night for her own sake")。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%91%E3%83%B3
「ポーの有名な短編小説『群衆の人』は、探偵物語のレントゲン写真のようなものである。探偵物語を包む衣服、すなわち犯罪が、この短編では欠落している。残っているのは道具立てだけ、すなわち追跡する者と、群衆と、ひとりの見知らぬ男であり、この男は、つねに群衆のただ中にいるように道を選んでロンドン中を歩き回る。」(ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」233頁)
ロンドンのカフェのガラス窓から外をゆくさまざまな人々を見ている語り手。ふと異様な人物に見つけ、その人物の後をずっと追い続ける。男は群衆のなかを歩き回る。人がまばらになると元気をなくすが人が群れなす所では元気になる。丸一日の追跡の後語り手は追跡をあきらめる。
窓の外を行き交う人にさまざま想像をめぐらす語り手。
群衆の中をブラウン運動のごとき歩行をしめす男。
シャルル・ボードレール(1821-67): フランス近代詩の父とよばれる。『悪の華』・『パリの憂鬱』。フランスで精力的にポーの翻訳と紹介をした。1952年「エドガー・アラン・ポー、その生涯と著作」
散文詩「群衆」(『パリの憂鬱』収録)「魂の神聖な売淫」:通りすがりの群衆の誰にでも感情移入できる詩人の想像力
「ボードレールが「大都市の宗教的な陶酔状態」について語るとき、名指しされないままであるその主体は、商品かもしれない。そして「魂の神聖な売春」は、それが愛との対置が意味を持つものなら、実際商品の魂の売春以外のなにものでもありえない。」(ベンヤミン「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」245頁)
都市に押し寄せながれていくものに一瞬にして同価値となって、その流れとぶつかり合いによって大きくうごかされる、特殊な商品。交換価値の化身としての貨幣。

都会の中を歩き回る、遊歩者。彼が目にし、拾い集めた、さまざまな言葉、イメージ。その集積の中から、個々人では意識することができない、都市全体(社会全体)の姿が立ち現れてくるのではないか。街の風に吹かれながら、街を旅しながら、さまざまなイメージを切り取り拾い上げながら、それをつなぎ合わせて、街の全体の立ち上げることはできないだろうか。
ヴォルター・ベンヤミン(1892-1940)ドイツの評論家
彼の自伝的作品の痕跡を探ることで、彼の生まれ育ったベルリンというものを探ってみよう。どうようにパリという街をさまよい歩くことでパリという街の全体が現れるのを期待しよう。
ベンヤミン 水辺の記憶
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by takumi429 | 2007-08-05 16:28 | 都市の社会学 パリ | Comments(0)