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ケアにおける語りのメタファー

ケアにおける語りのメタファー

キーワード:物語り、メタファー、家族療法
Key words : Narrative, Metaphor, Family therapy

1.昨今、家族療法において、「ナラティヴ・セラピー」という動きが盛んになっている。ナラティヴというのは「物語り」のことである。心理の問題を抱えた人の多くが、自分を虐げるような物語の中に自分を置いていることがじつは多い。そういう人が生き生きと自分を解放できるようなのびやかな物語を、話し合いながら一緒に編み出していこう、あるいはクライエントが生み出すのを手伝っていこうというのが、「ナラティヴ・セラピー」である )。
 だがその新たな物語形成において、問題となってくるのは、そうした新しい物語はどんな風に生まれてくるのか、そのきっかけ、契機は、どういうものなのか、という問題である。
 本稿では、この物語の生成の契機となるものは何かという問題を考えるべく、いくつかの事例を考えてみることにする。

2.事例1:下肢切断の患者の語り
ある手術看護婦の話。
 看護婦Tはもともとは、病院の窓口で働き、30歳になってから看護婦に転身した。そのため、看護の空気になじめないでいる。
 ある日、初老の女性患者を術前訪問。患者は糖尿病の悪化で片足を切断する手術を受けることになっていた。てきぱきと質問と説明をできないTに対して、患者は一時間の長きにわたって物語った。
 途中、師長から呼び出しがあった。師長いわく「遊んでいるかと思った」。 
「だって患者さんはやっぱり不安だからついつい長く話すでしょ」とT。
「なるほど、そうだろうね」と著者(勝又)。
「でもそのひとは『不安』なんていう言葉をその人は使っていたの?」。
「うん、たしかに『不安』ていう言葉は使ってなかった」。
Tはしばらく考えてから、
「そういえば、『足に悪いことをした』って言っていたわ」。
 Tの話を聞いていた私は唖然とした。しかし気を取り直して、
「それから患者はどんなことを言っていたの?」。
「ふん」(うん)と関西人のTは考えてから、
「『私は昔から病気と付き合ってきた、お父さんの看病や義理のお母さんの看病やら、ずっとしてきた』と言っていたわ」。
「それで?」。
「ふん」。私の質問にTはだまりこんでしまった。
「じゃ、思い出したらまた教えて」と著者。 
後日、Tからメールがあった。
「あれからずっと思い出そうとしたのだけど何も思い出せません。私は一体一時間も何を聞いていたのでしょう」。

3.事例1の分析
この患者の話に著者がこだわったのは「足に悪いことをした」という患者の言い方の意外さである。この発言にはいったいどんな意味があるのだろうか。
まず問題を外堀から埋めていこう。
 Tを呼びつけて看護特有の嫌みを言った師長は術前訪問としてどんなことを考えていたのだろうか。
 おそらく手術に関わるいくつかの質問項目をてきぱきと聞き出すということを考えていたと思われる。同時にこの術前訪問は、「これからあなたはこれこれの手術を受けることになる、覚悟せよ」という宣告にもなっているのだろう。
 患者の状態は質問の項目だけ切り取られ、後は手術の予告があるのであって、じつは「患者(うだうだした)話を聞く場ではない」とされていると思われる。
 ここでは患者は、手術という、生物機械への「修理」の観点からだけとらえられ、そのための質問用紙に転写されている。
 それに対してTはどうだろうか。Tの頭の中には、「手術前の人間は不安のためにさまざまな訴えをするものだ」という考えがあったと思われる。ですから患者の訴えをみんな「不安」あるいは「不安のなせる業」という箱の中に放り込んでしまった。
 よく外国語で話しかけられた時のことを思い出すと経験することなのだが、日本語ではなんと言ったかは言えるのだけど、その外国人が外国語で実際にはなんて言ったかは思い出せないということがよくある。日本語に翻訳された瞬間に元の言葉は忘れて去られてしまうのである。
 Tの話もそれに似ている。Tは患者の話した話を次から次へと「不安」という言葉に翻訳してしまったため、かんじんの患者の元の「語り」を忘れてしまったのである。
 でもTが新米でしかも「看護ずれ」していない手術看護婦だったの幸いしたのかもしれない。患者の話を真に受けてしまう、そのナイーブさが、患者の「語り」を引き出すことに成功したのかもしれないからである。
 さて、患者は「病気とずっとつきあってきた」という言い方をしていた。ここでは病気はつきあう相手、つまり人間のようなものにたとえられている。すなわち擬人法というレトリックが使われている。擬人法は、人でないものをひとのように見立てる。似ているということをつかって、「見立てる」こと、つまり「~を・・・として見る」ということは「隠喩」(メタファー)と言う。だから擬人法は隠喩の一種である )。
 ここでは、これまで病人の看病をしてきたという経験と、これから糖尿病がもたらした片足切断によって障害者として生きて行かなくてはならないという未来とが、「病気とつきあう」という擬人化によってくくられている。つまり「病人の看護」と「障害を持ちつつ生きていく」とがともに「病気とつきあう」という言葉でくくられているわけである。
 こうすることで患者はこれまでの過去を、病気とつきあう人生という形で整理して、これからの障害者として生きていく未来とを連続するものとしてつないでいる。
 レトリックは言葉によって人を説得する術である。メタファーもそうしたレトリックのひとつにほからない。しかしレトリックは他人を説得するだけではない。この患者の場合には、自分を、今後の障害者としての人生を、自分に納得させるために、このレトリック使われているのである。
 さて、問題の「足に悪いことをした」という表現をみてみよう。
「悪いことをした」とか「すまないことをした」とか言われるのは、ふつうは人間に対してである。だから、ここでは足は人間のようにとらえられている。ここでも擬人化がなされている。
「悪いことをした」というのはどういう意味か。おそらく片足切断という状況になるまで糖尿病の治療を十分にしてこなかった。だから今回の切断は、ある意味、自業自得なのだと、患者は自分に納得させようとしているのであろう。
 では、まるで人格があるかのように「足」について語るのにはどんな意味があるのだろうか。
井上ひさしの戯曲に「しみじみ日本・乃木大将」という芝居がある。この芝居では、乃木大将の軍馬3頭と近くの牝馬2頭が、「人格」ならぬ「馬格分裂」を起こし、各々前足と後足に分かれて、乃木大将のその時々の場面を演じ、乃木大将という人物を語るという趣向になっている。
患者が「足に悪いことをした」と言った瞬間、足は別の人格を持つものとして患者に相対している。それは患者とは別のものである。つまり患者はすでに、自分とは分離し別個のものとなった足のことを考えている。つまり、片足が切断された後の状態を、患者はこの喩え(擬人化)で知らず知らずのうちに、先取りしようとしていたのもしれないと考えられる。
 こうして、片足切断の手術を直前に控えた患者は、「足に悪いことをした」というレトリック(たとえをつかった説得の方法)によって、片足喪失の状況を生き抜いていく自分の物語りを紡ぎ出していこうとしているのである。切断される自分の足を別個の意思をもつ者にたとえることで、足をこれからなくすという話から、足を喪失して後その状況を生き抜いていく話へと、患者をつつむ物語りは転換していき、足の擬人化(たとえ)はその転換の接続点となっているといえるだろう。
 こうしてみると、私たちが自分を立て直す新しい物語りを作るとき、メタファー(見立て)はその新しい物語生成の核(種)となっていくのではないか、とも考えられる。
 
4.概念図式としてのメタファー
ここでもうすこし一般的な考察をしてみよう。
 人間が事態のとらえるその有り様は実はあまり多様ではない。自分の体で経験したわずかなパターンを使い回していることがしばしばである。そのとき人間は、慣れない事態を見立て(メタファー)によって慣れ親しんだパターンに還元していることがしばしばある。
そのためメタファーとも気づかないほど当たり前になっている多くの言い回しがある。
たとえば、「目玉焼き」というのももともとはメタファーである。さらに「男に捨てられた」というような言い回しがある。だが本来、「捨てる」ことができるのは品物である。つまりこの言い回しでは「私」は使い捨てされる「品物」に喩え(見立て)られている。さらに「捨てる」という言葉の連想から「さんざんいいように使っておいて、ボロぞうきんのようにポイと捨てた」という具合にどんどん隠喩の中で連想が展開していってお話を作っていく(こういうメタファーの展開のことをアレゴリーという) )。「別れた」を「捨てられた」と見立てることで、男女の別れ話は、品物を使い捨てる話へと移しかえられていく。つまり男女の別れの話(概念体系)が、ものを捨てる話(概念体系)へと写し取られていく。その写し取り(写像)の端緒となったのは、「別れる」という事態を「捨てられた」というたとえ(メタファー)で語ったことにある。そうすることで二人の別れの話は、ものを捨てる話へと写し取られて、ものを使い捨てる話(概念体系)のなかで理解されていく。
 レイコフという言語学者は、メタファー(隠喩)を「ある概念を別の概念と関係づけることによって、一方を他方で理解する」するという頭の働かせかたである、と言っている。そしてAの概念体系の要素(たとえば「別れ」)をBの概念体系の要素(「捨てる」)に対応させ(写像し)、さらにその写像をさらにどんどんして、Aの概念体系とBの概念体系が対応されることを「概念メタファー」と呼んでいる )。
 人間が実感を込めて経験的に理解できることの範囲というのは実は限定されたものである。私たちはそのままでは理解しがたい事態を、すでに慣れ親しんだお話へと移しかえ、それを展開していくことで、そのままではなかなか理解できないような事態を、理解できるものへと変えていくのである。
 私たちが慣れ親しんでいる常套句(クリシェ)はこうした陳腐な喩えによるすり替えに満ちている。しかしこうした陳腐な言い回しによるありふれた物語りの圧政の下で虐げれている自分が存在する。そのとき、それまでとは違う喩え(見立て)をすることで、自分を別の物語りへと解放していくことが求められるのかもしれない。
 しばしば「夫婦の絆」という言い方がされたりする。「絆」とはもともとは「動物をつなぎとめる綱」のことであり、本来はメタファーである。だがもうメタファーであるを意識しないほど当たり前になった言い方である。しかしその喩えで考えるかぎり、夫婦の関係は強固で、それを失った者は、まるで「糸の切れたたこ」みたいに思えてくる。でももしここで誰かが夫婦なんて「ポスト・イットみたいなもんよ」と言い出したらどうだろうか。この喩えは夫婦に対するまるで違った見方をもたらすかもしれない。
 陳腐でそれだけに逃れがたい物語りのくびきから逃れるために、人はたとえ(メタファー)をつかい、それを種にして新たな物語りを生成していくのではないのだろうか。片足切断の手術を目前にした患者の一言から著者はそうしたことを考える。
 
5.家族療法におけるメタファー
ではこうしたメタファーについてナラティヴ・セラピーではどのようにあつかわれているのだろうか。家族療法の代表的な学会誌『Family Process』 に「メタファーを聞く」という興味深い論文が載っている。 )
 メタファーというのは、ホワイトが遺糞症をスニーキー・プーと名付けて外在化し有名な事例に見られるように、決して家族療法では注目されてこなかったわけではない。しかし家族員たちがみずから語るメタファーについてはこれまであまり注目されてこなかった。だが論文の著者たちは言う。「私たちの考えでは、メタファーは、思考の物語様式の最も小さい単位であり、家族の「世界制作」の行為を定め保持する意味の多義性の織物への理想的な入り口点である。」
 そして著者たちは、「家族が生み出すメタファーを使ってカウンセリングしていく7つのステップ」なるものを提唱している。そこでは患者が何気なく行ったメタファーにカウンセラーが気づき、それを押し広げて、家族員全体を巻き込んだお話へと展開していくことが提案されている。これはまさにメタファーが概念体系から別の概念体系への写像であり、別の概念体系のなかでアレゴリーによって話を展開することを言っているにほかならない。
レイコフと同じように、著者たちは言う。「物語りが作られるのは、そして私たちの文脈でいうなら、私たちの環境に人間的な形と意味が与えられるのは、おもに、メタファーをつうじてなのである。」
 ところで概念体系から概念体系への写像を考えてみると、それは必ずしも言語の概念体系から言語の概念体系への写像とは限らない。言語から絵画への写像もあるし、さらに言語体系から身振り体系への写像もありえるだろう。
 そこで興味深いのは著者たちがあげている二番目の症例である。家族は、母エレンと娘7歳、11歳の息子と5歳の息子からなります。離婚した父は再婚。母親は自殺未遂で重傷し回復して退院している。ここでは、メタファーは5歳の息子の絵である。その絵では、噴火する火山のふもとで助けてと叫ぶ怪獣が描かれている。この絵が言葉にならない、家族と彼の状態の、メタファーとなっている。カウンセラーはこの絵をめぐっての家族員に会話を展開させていく。そうするうちに、この5歳の男の子は絵を書き変えていき、それはしだいに穏やかな絵へと変わっていったというのである。つまり、メタファーは必ずしも言語的なものとはかぎらないのである。

6.事例2:福祉の現場における
 ここでさらに福祉の現場における事例をみてみよう。ある保健婦は訪問先の家庭で次のような事例を見た。
「医療器具をつけている幼児のIちゃんは言葉で話すことはできないが、行動によって生命維持としての生活を表現する場面がみられた。アンパンマンのビデオを見ていた時のことである。急にIちゃんが倒れた。研究者はIちゃんの具合が急に悪くなったのかと驚き、「どうしたんですか?」と母親にたずねた。すると母親は『アンパンマンが倒れると、倒れて気管切開の所をはずすの。アンパンマンが助けられると(顔をつけかえてもらう場面)元気になるの。』と答えた。Iちゃんは気道が狭窄しており、吸引が必要なため、気管切開術を受けている。Iちゃんはアンパンマンが助けられると、母親に気管切開の所をつけてもらい、立ちあがり、ぱちぱちと拍手した。Iちゃんはアンパンマンが元気ない状態を、気管切開の所がはずれてしまい元気がないことにたとえて表現している。Iちゃんは、気管切開は生命を維持する大切な部分だと感じている。」 )
 ここではどういうことが起きているのだろうか。呼吸器をはずして苦しくなるIちゃんの事態が、アニメのなかのアンパンマンの困窮に移しかえられている。なぜそんなことをIちゃんはするのか。
Iちゃんは呼吸器をはずしては生きていけない、かわいそうな子なのだ、おそらく、そういう物語りが、Iちゃんに与えられていると思われる。しかしアンパンマンは顔を取り替えることで元気になりバイキンマンをやっつける英雄となる。こちらの話では(呼吸の)苦しみは次の復活と活躍の前段階でしかない。呼吸器なしではいきられないというIちゃんのこれまでの否定的な物語りは、苦しみから復活して活躍するという肯定的な勇気ある物語りへと移しかえられている。つまりアンパンマンが苦しんでいる時に自分の呼吸器をはずして、自分の苦しみとアンパンマンの困窮を対応させる、つまり自分の苦しみのメタファーとしてアンパンマンの困窮を対応させるという、ちょっと大げさ言えば命がけのメタファーがここでは行われているのである。
 もちろん、このメタファーは身振りとアニメという、非言語的なものである。それはまだ物語にはなりきってはいない。新しい物語を作るには、その周りの人々が、「アンパンマンが元気になったように、Iちゃんも呼吸器をつけて活躍するんだね」、というようなことを言って、そのメタファーを物語として展開する必要はあるかもしれない。しかしともかくも新たな物語の種はIちゃん自身によって撒かれたのである。
 
7.結語
 新しい物語はどのように立ち現れてくるのかというのが我々の疑問であった。それは思いがけない隠喩(メタファー)の形をとって、それを種(核)として立ち現れてくるのではないのか。ケアの現場における二つの事例を考察することで、このような仮説を我々は得ることができたのである。

文献
1)McNamee, S., Gergen, J.: Therapy as Social Construction, 野口裕二・野村直樹訳,ナラティヴ・セラピー,社会構成主義の実践, 金剛出版,東京,1997.
2 ) 野内良三 : レトリック辞典, 国書刊行会, 東京,1998.
佐藤信夫 : レトリック感覚, 講談社, 東京, 1992.
佐藤信夫 : レトリック認識, 講談社, 東京, 1992.
瀬戸賢一 : メタファー思考,意味と認識のしくみ, 講談社, 東京, 1995.
3) 佐藤信夫 : 隠喩と諷喩と書物, 叢書 文化の現在10 書物, 世界の隠喩 (大江健三郎・中村雄二郎・山口昌男編), 91-137, 岩波書店, 東京, 1981.
4) Lakoff, G.: The Contemporary Theory of Metaphor, Metaphor and Thought (In Andrew, O.Ed.), Cambridge University Press., Cambridge,1993.
松本曜 : 認知意味論, 大修館書店, 東京, 2003.
5) SIMS, P. A., WHYNOT, C. A.: Hearing Metaphor: An Approach to Working with Family-Generated Metaphor. Family Process, 36, 341-355, 1997.
6) 勅使河原薫 : クライエントとその家族・保健婦が捉える生活についての記述的研究, 家庭訪問を通して, 日本赤十字看護大学大学院看護学研究科修士論文,1999.
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by takumi429 | 2008-03-15 12:36 | ナラティヴ | Comments(0)

『物語の森へ 物語理論入門』のレジメ

マティアス・マルティネス/ミヒャエル・シェッフェル著
『物語の森へ 物語理論入門』(法政大学出版)
(ナラティヴ研究会での報告)

物語はつぎのABに分けられ、さらにそれは6つに分けられる。
A語られる(架空の)物語世界(筋)
(1)出来事(モチーフ):筋立ての基本単位
(2)事件:出来事が時間的継起の順に並べられたもの。
(3)お話:出来事がさらに因果的関連をもって並べられたもの。
(4)筋の図式:お話の大まかな図式。
B物語ること(呈示)
(5)物語:テキストの中の順番でならべられた出来事。時間順とはちがう構成をもつ。
(6)物語行為:お話の呈示と特定の言語による提示方法と手法(たとえば語りの状況・文体)

呈示の三つの範疇(ジェネットによる)
 時間:物語の時間と事件の時間との関係
 叙法:媒介性の度合いと語られるものの視点設定。
 態(voix声):物語るとい行為。行為は物語る主体と語られるものとの関係、ならびに物語る主体と読者との関係を含む

1時間
物語られるお話の時間と物語の時間との関係は、いかなる順序で、どのくらい長、何度という三つの問いでの意味で体系化できる。
a 配列(いかなる順番で)
錯時法(Anachronie):出来事の順序の時間配列( A B C)が物語の中では変更されていること。
後説法 B A C
先説法 A C B
射程:挿入部が関連する時間と、現時点との間の時間的な距離。
規模:挿入されたお話の長さ
b持続(どのくらい長く)
場面:時間の一致した語り
拡大的語り:時間を引き延ばす語り
縮約:時間を縮約するかたり・要約的語り
省略法:時間の飛躍
休止:事件は静止したまま語りが進行。
c頻度(何度)
単起法(1対1の語り):1度起こったことを1度物語る。
反復的:1度起こったことを繰り返し物語る
括復法的:繰り返し起こったことを1度物語る

2叙法(いかなる媒介性をもって、物語れたものが呈示されるのか)
物語的叙法(距離あり)/演劇的叙法(距離なし)
a1出来事の物語 演劇的叙法→現実性の効果/物語的叙法
a2言葉の物語  演劇的叙法/移調された作中人物の発話/物語的叙法
b焦点化(どの視点から物語れるのか)
1ゼロ焦点化:語り手>作中人物 俯瞰視点 語り手は作中人物より多くを語る。
2内的焦点化:語り手=作中人物 共有視点 語り手は作中人物が知っている以上のことを語らない。
3外的焦点化:語り手<作中人物 外在視点 語り手は作中人物が知っているよりもわずかしか語らない。
複数視点の物語:移ろう内的焦点化・複数の内的焦点化

3態 物語る行為と語り手の人物、語り手と語られたものの関係、語り手と読者・聞き手
「作者は、作り出す、そして語り手は起こったことを物語る。作者は語り手と語り手のものである物語の様式を、作り出す」(サルトル)。
a物語行為の時点(いつ物語られるのか)
物語行為と物語れたものとの時間的隔たりにより、後の/同時的な/先行の語りがある。
b語りの場(どの次元から物語られるのか)
物語世界外的:物語世界の外側から語られる
物語世界内的:物語世界の中の人物が語る。「千夜一夜物語」のシエラザードの語り
 語られる物語はメタ物語世界的
c語り手の事件に対する位置(語り手はどの程度事件に参与しているか)
異質物語世界的(三人称/語り手は物語れた世界の人間ではない)
1参与しない語り手
等質物語世界的(一人称/語り手は物語られた世界の人間
2参与しない観察者
3参与する観察者
4副人物
5主要人物の1人
6中心人物(自己物語世界的)
事実の物語の場合と異なって、虚構の物語の場合には作者と語り手の間の非同一性がある。
作者は考えだし、語り手は、起こったことを物語る。
d物語行為の主体と名宛人(誰が誰に語るのか)
物語世界内的語り手の場合には物語世界内的な聞き手がいる。
物語世界外的な発話状況
「誰が誰に物語るのか」という問いを、作者と読者の歴史的な役割との関連において考察すると、・・・物語論的アプローチを、社会史・文化史的な問題提起と実り多い形で結びつけることができる。

物語の〈何〉 筋と物語られた世界
1 筋の諸要素 
a出来事――事件――お話
出来事は主語と述語からなる。
状況を変化させる/させない=(1)動的な機能/(2)静的な機能
(1a)事件 (「ベニスに死す」からの例:コレラの伝染)
(1b)行為 (例:主人公が腐りかかった果物を食べた)
(2a)状態 (例:蒸し暑さが小路に満ちていた)
(2b)特徴 (例:主人公の特徴)
(3a)結合されたモチーフ(例:アッシェンバッハは苺を食べた)
(3b)孤立したモチーフ(例:アッシェンバッハは背が低めだった)
「1つの主体が、次々に多くの出来事に出会うと、これらの出来事が〈事件〉になる。事件のなかで次々に継起する出来事は、それらが単に(時間的に)〈前後して〉起こるのみならず、ある規則や法則性にしたがって、ある出来事が他の出来事の〈原因となって〉継起する場合にのみ、まとまりのある〈お話〉になる。・・・事件は、提示された変化が動機づけされたものである場合に、お話になる。動機づけは、さまざまな出来事を、説明可能な関係性の中へ組み入れる」。
b動機づけ
(1)因果的動機づけ:ある出来事を因果-結果-関係へ組み込むことによって説明する。
(2)結末からの動機づけ:筋の経過は始めから固定されており、一見偶然と思われるものも、神の摂理や運命であることが判明する。
(3)構成的・審美的動機づけ:後の出来事を、隠喩的・換喩的に想起させるような出来事の配置。
すべての出来事が動機づけされるわけではなく、機能的には余分な細部が、現実性を増す効果を持っている場合がある。
c物語の2重の時間的遠近法(物語における時間の2つの現れ方)
「読者は、叙述された事件を、開かれた現在のこととして〔はらはらどきどきしながら〕、また同時に、閉ざされたもの、過去のもの〔もう終わってしまっているからこうして語られているのだ〕として受け入れるのである。・・・物語テキストは、二つの異なる認識論的な視点、作中人物たちの生活圏的・実践的視点と、語り手の分析的・回顧的視点を併せ持つ。読者にとって物語テキストを理解するとは、この両方の視点を知覚することである。」

2 さまざまに物語られた世界
物語テキストを理解するために、われわれは、読書行為によって物語れた世界の総体を構築する。〔その世界には書かれていないこともふくまれる〕。・・・読者は不断に、物語れた世界を1つの安定した、一貫した全体として構築しようとしている。」
複合的に物語られた世界
(1)等質的世界 対 異質的世界 (例:カフカの「変身」)
(2)単一領域的世界 対 多領域的世界
(3)安定した世界 対 不安的な世界 
幻想文学とは、不気味さ(説明された超自然的なもの)と不思議なもの(受け入れられた超自然的なもの)の間を動揺している文学(トドロフの定義)
(4)可能な世界 対 不可能な世界

3 物語の意味――筋の構造と深層構造
a筋の図式:多くの物語テキストに共通する筋の経過
  中世・近代初頭のドイツ文学で影響力が大きい筋の図式:〈危険な求婚〉
bウラジーミル・プロップの形態学
「プロップは100篇のロシア魔法昔話を調べ上げた結果、これらすべての昔話が1つの共通の抽象的な筋の構造に還元できるという洞察に至った。」
「機能(関数)」:人物が異なっても同じことをしている
31の機能の連続から昔話は成り立っている。
7つの行為項(31の機能をさらに抽象化したもの):敵対者(危害を加える者)、贈与者(伝達者)、助力者、探されている人物、とその父、派遣者、主人公、偽の主人公
cユーリー・M・ロトマンの空間意味論
主人公が世界を二分する空間の境界を越えることから、物語の1つの主題が生まれる。

4展望――文芸学以外の物語理論的な筋のモデル
a社会言語学(日常の語り)
ウィリアム・ラボフとジョシュワ・ワレツキーの60年代のスラム住人の物語態度の研究
物語の最小構造(時間順の出来事が文の連続として同じ順番で語られる)が実際の物語態度は、純粋の形では見いだせない。最小構造は、その完全な形態では、より複雑な構造の中に埋め込まれており、それは、1要約(何が問題になるか)、2定位(どこで誰がいつ)、3紛糾を引き起こす行動「葛藤」、4評価(それがどうした)、5結果・解決、6結末、6つの段階から成り立っている。実際に満足させる物語は、評価なしでは成り立たない。
b認知心理学(スクリプトと感情操作)
コンピューターに人間と同じことをさせる人工知能の研究から始まった認知心理学では、「鉛筆を買ってこい」とコンピューターに命じても、コンピューターが動かないことから、「鉛筆を買う」ということはじつは、どこに行って、何を選び、何を買うか、などの一連の動作を含んでおり、とくに買う場面では、レジに行く、レジの台に品物を置く、お金を置く、おつりと品物を取る、など、言われていないけど当然のこととしていることが「鉛筆を買う」ということのなかに台本(スクリプト)として含まれており、それをコンピューターに覚え込ませなくては、鉛筆を買うことができないということが明らになった。このように、明示されていなくても当然の前提としてその命令遂行の場面に含まれているような一連の動作や知識をスクリプトと呼ぶ。これと同様に、テキストの表層のさけがたい空白部分も同じように読者によって埋められているのである。
一定の物語図式には、読者側の一定の感情的反抗が関連している。この感情構造には(1)不意打ち、(2)緊張、(3)好奇心
c人類学(探索の筋のモデル)
プロップの31の機能にみられる円環的な筋の図式(家郷からの出発、異国で課題を果たすこと、帰還)は、食物探求の実践的・生物学的必然性からもたらされたものである。
d歴史学(「プロット化)による説明)
単なる年代記から歴史を分かつのは、歴史が次の説明をもっているから。
(1)プロット化による説明
(2)形式的な結論づけによる説明
(3)イデオロギーてきな含みによる説明
語られた物語の種類を特定することによって、ある物語の「意味」を規定することをプロット化による説明と呼ぶ。
物語の種類(ノースロップ・フライによる)
(1)ロマンス:救済物語 障害を克服し、経験世界から自らを解放する主人公の自己発見を描く
(2)風刺(茶番):不利な状況、邪悪な力、死、による主人公の避けがたい敗北を描く
(3)喜劇:敵対する力との融和と周囲の世界に対する主人公の一時的勝利
(4)悲劇:主人公の破滅の犠牲を払ってのみ得られる葛藤の解決
史料的テキストを物語る話を理解するとは、それをある元型的な筋の図式(プロット)の下に包括することである。
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by takumi429 | 2008-03-15 12:21 | 物語論 | Comments(0)

ジュネット『物語のディスクール』要約

ジュネット『物語のディスクール』要約 (『物語の詩学』訳者による)

物語内容/物語言説/語り(historie/récit/narration)
ジュネットの物語論の基礎となる概念。一般に物語(レシ)と呼ばれているものについて区別するべきその三つの相。物語内容は、物語によって報告された内容、すなわち語られた出来事の総体を指し、物語世界(diégèse)という概念もこれとほぼ等しい意味で用いられる。物語言説はそれらの出来事を喚起する言説(テクスト)を指す。語り(もしくは物語行為)は物語言説を生じさせるところを語るという行為そのもの、さらにこの行為が行われる状況全体を指す(15-17ページ)。物語言説の分析を構成するのは、それゆえ以下に列挙する時間・叙法・態の三つの範疇である。
1時間(temps)。物語言説の時間(書かれたテクストの場合は、それの読みから換喩的に描き出される擬似的な時間)と物語内容の時間の諸関係を扱う範疇(22-23,27-29ページ)。この範疇は、以下の三つの下位範疇からなる。
a順序((ordre)。語られたさまざまな出来事の、物語世界における継起順序と、物語言説においてそれらの出来事が語られる順序の諸関係を扱う(29ページ)。この二つの順序のあらゆる不一致の形式を総称して錯時法(anachronie)という。その主なものとしては、「物語内容の現時点にたいして先行する出来事」を回顧的に喚起する後説法(analepse)と、逆に、物語内容の現時点からすれば「あとから生じる」出来事をあらかじめ喚起する先説法(prolepse)とがある。物語内容の「現在の」時点と錯時法に置かれた部分との時間的距離を射程(portée)、錯時法に置かれた部分が語る物語内容の時間的持続を振幅(amplitude)と呼び、この二つの弁別特徴によって、後説法・先説法はさらに細かく下位区分される(30ページ以下)。錯時法の下位範疇としては他に、出来事を、物語世界におけるいかなる時間的な位置づけにもそれを与えずに喚起する空時法(achronie)や、さまざまな出来事をそれらの継起順序とは無関係に寄せ集めて喚起する共説法(syllepse)などがある(104-106ページ)。
b持続(durée)。物語内容における時間的持続と物語言説におけるそれ(テクストの長さによって示される)との諸関係を扱う。言い換えれば、ある一定の物語言説が、どのくらいの時間的な幅を持つ物語内容かという速度(vitesse)を扱う範疇である(29ページ)。テンポ(movement)とは物語言説が採る速度の規範的な型で、休止法/情景法/要約法/省略法(pause/scene/sommaire/ellipse)の四つのタイプに区分される。物語言説のある時間的持続(TR)に対して物語内容の時間的持続(TH)がゼロであり、したがって速度がゼロになる形式が休止法――描写に代表される形式――である。逆に、THに対してTRがゼロであり、したがって無限大の速度を持つ形式が省略法である。右の極限的な二つのテンポの中間に、THとTRが一種の相等性を保つ情景法――対話に代表される形式――と、TRがTHより小さく、物語言説が物語内容をいわば圧縮=簡略化して語る要約法が位置づけられる(104-106ページ)。
C頻度(fréquence)。物語世界における出来事の反復と物語言説における叙述の回数との関係を扱う(29ページ)。頻度の観点から、物語言説は単起的/反復的/括復的(singulatif/repetiti/iterative)という三つのタイプに分けられる。出来事が生起した回数と物語言説がそれを語る回数が等しいのが単起的物語言説(単起法)であり、とりわけ、一回ではなく数回生起した出来事をその回数だけ語る形式を対応的な(singulatif anaphorique)という。一度生起した出来事をn度語るのが反復的物語言説、逆に、n度生起した出来事をただ一度だけ語るのが、括復的物語言説(括復法)であり、これは一種の共説法ともいえる(129-133ページ)。括復法は、それが覆う時間域が、その括復法が挿入されている単起的な情景の持続を越えて外へはみ出すか否かによって、外的括復法と内的括復法に区別される。またある物語言説が括復的な体裁を採っていても(たとえば叙述が詳細をきわめているなどの理由から)文字通りに括復法だとは受け取れない形式を疑似括復法(pseudo-itératif)と呼ぶ(135ページ以下)。
 2叙法(mode)。物語言説における、物語内容の「再現」(ルブレザンタション)の諸様態(そのさまざまな形式と度合)を扱う範疇。言い換えれば、「物語情報の制禦」の諸形式を扱う範疇である(22-23,187-188ページ)。この範疇は、以下の二つの下位範疇を持つ。
 a距離(distance)。情報量の調節およびそれに伴う語り手の介入の度合による物語情報の制禦の仕方を扱う。従来、ミメーシス(模倣による物語言説)/ディエゲーシス(純粋な物語言説)、あるいは示すこと(ショウイング)/語ること(テリング)の対立として研究されてきた領域である(188-189ページ)。物語言説が出来事を報告する場合にはミメーシスの可能性は排除されており、ディエゲーシスのさまざまな度合いが見出されるだけだが、物語言説が作中人物の言葉を報告する場合は、ミメーシス性が高く距離のちいさい再現された言説(discourse rapporté) ――直接話法の形式――、中間的な距離を保つ転記された言説(discourse transposé) ――間接話法の形式――、語り手の介入の度合がもっとも大きくミメーシス性の低い語られたまたは物語化された言説(discourse raconté,ou narrativisé)という三つのタイプが区別される(198ページ以下)。
 bパースペクティヴ(perspective)。制限的に作用する「視点」を採用すること(あるいは採用しないこと)による物語情報の制禦の仕方を扱う。従来、「 視 点 (ポワン・ド・ヴュ)」あるいは「視野(シャン)」、「視像(ヴィジョン)」などの述語を用いて説明されてきたこの種の限定関係を指示するにあたって、角の「視覚性を払拭すべく」ジャネットは焦点化(focalization)という述語を提案する(217-221ページ)。物語言説には、いかなる制限的な視点も採用しない焦点化ゼロ(focalisation zero)のタイプ、あるいは作中人物の視点を通して物語世界が喚起される内的焦点化(focalisation interne)のタイプ、そして物語言説の対象(となる作中人物)が外部の証人の視点から語られる外的焦点化(facalisation externe)のタイプが区別される。さらに内的焦点化は、ある作中人物の視点を一貫して守る固定焦点化(focalisation fixe)、視点を移動させながら物語内容を語り進める不定焦点化(focalisation variable)、同一の出来事を異なった視点から語り直す多元焦点化(focalisation multiple)に下位区分される(221ページ以下)。またひとつの叙法の姿勢を維持していると見做なされる物語言説のある切片において生じる、焦点化のコードに対する一時的な侵犯を変調(alteration)という。変調には、支配的な焦点化のコードからすれば、当然報告すべき情報を看過する黙説法(paralipse)と、本来看過すべき情報を報告する冗説法(paralepse)とがある(228ページ)。
 3態(voix)。物語状況ないし語りの審級、および語り手と
聞き手が物語言説に含まれているその仕方を扱う範疇。それゆえ態は、一方では語りと物語言説の諸関係を、他方では語りと物語内容の諸関係を、示すことになる。つまりここでは、「物語言説の生産の審級」の解明が、中心的な課題とされるわけである(22-23,250-252ページ)。この範疇は、主として以下の三つの下位範疇によって構成される。
 a語りの時間(temp de la narration)。語りの審級の時間的限定は、物語内容に対するその相対的な位置によって、後置的/前置的/同時的/挿入的(ultérieur/antérieur/simultané/intercalé)という四つのタイプに分かれる。後置的なタイプとは、過去時制の使用を特徴として、もっとも古典的かつ一般的なものである。前置的なタイプとは、通常、未来時制によって語られた物語言説のそれであり、いわゆる予報的な物語言説(récit prédictif)の場合がこれにあたる。同時的タイプとは物語られた行為と物語る行為とが同時的なタイプであり、通常、現在時称が用いられる。最後の挿入的なタイプとは、物語られた行為の諸時点の間に語りの時点が混入する場合である(253ページ以下)。
 b語りの水準(niveaux narratifs)。この概念は語りの審級の空間的現的(もちろん比喩的な意味で)にもとづくと言える。ジュネットによれば、語りの水準の差異とは「一種の閾」であり、次のように定義される――「ある物語言説によって語られるどんな出来事も、その物語言説を生産する語り行為が位置している水準に対して、そのすぐうえの物語世界の水準にある」。それゆえ、水準の数はもちろん理論的には無限であるが、ジュネットは、順次、基本的な三つの水準――物語世界外的/物語世界(内)的/メタ物語世界的(extradiégétique/(intra) diégétique/métadiégétique)――を区別する(266ページ以下)。また、原理的にはそれらの水準間の移動を保証しうるのは語り以外には存在しないが、その語りという移行手続きによらない――つまり読み手には多少なりとも「違犯」として関知される――水準間の移動を、ジュネットは語りの転位法すなわち転説法(métalepse)と呼ぶ(274ページ以下)。
 c人称(personne)。語り手と物語内容との関係を規定する。ジュネットは「語り手はいつでも語り手として物語言説に介入できるのだから、どんな語りも、定義上、潜在的には一人称でおこなわれていることになる」という理由から、一人称/三人称という伝統的な対立は有効でないと考える。重要なのは、むしろ「自分の作中人物の一人を指し示すために、一人称を使用する機会が語り手にあるかどうかを知ること」なのであって、そこからジュネットは、以下の類別を提案する。すなわち、語り手が作中人物として物語内容に登場するか否かによって、物語言説を等質物語世界的(homodiégétique)なタイプと異質物語世界的(hétérodiégétique)なタイプとに区別し、次に等質物語世界的なタイプのうち、とくに語り手=主人公の場合を自己物語世界的(autodiégétique)なタイプと呼ぶのである。
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by takumi429 | 2008-03-15 03:45 | 物語論 | Comments(0)