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映画とは何だろうか (映画『アメリ』に学ぶ)

講義ノート 映画とは何だろうか

1.
みなさん、この講義ではウォーレン・バックグランド著(前田他訳)の『フィルム・スタディーズ入門』(晃洋書房)を教科書にして、映画研究(フィルム・スタディーズ)について、ご一緒に勉強していくことにします。
「フィルム・スタディーズ」(映画研究)と言うからにはその研究対象である、「映画とは何か」という問題がでてきます。この教科書では「はじめに」にあたる部分です。しかしこの部分はあっさりと書かれています。ですから今回はもっぱら映画とは何かということについての私の考えを述べることにしましょう。でもこれは大きな問題なので、今回私がお話するのはあくまでも暫定的な答えだと思ってください。

2.
ご存じの方も多いかと思いますが、映画とは、1秒間に24コマ/秒の静止画の連続して銀幕(白い幕)に投影するものです。サイレント時代は1秒間に約16コマ、投影していました。(サイレント映画がちょこまかちょこまかと早く動いて見えるのは、現代の映写機で昔のフィルムを投影するためです)。
投影されたものはあくまでも静止画なのですが、あまりに早くそれが連続して投影されるために、目の錯覚によってそれが動いて見えるわけです。

では、ここでひとつ、短い映画を見てもらいましょう。
クリス・マルケル脚本・監督の『ラ・ジュテ』(1962年)という映画です(映画上映)。

この映画は、映画というものがもともと静止画の連続にほかならないのだから、思い切って静止画(スチール写真)だけで映画を作ってみよう、という実験的試みをした映画です。
舞台は未来の地球でそこでは世界戦争のために世界は崩壊し人類は地下で暮らしています。破滅した地球を救うべく主人公の男が過去と未来へと送り込まれます。ところでこの主人公は少年期に飛行場のタラップで一人の男が殺されるのを目撃しています。過去の世界に滑り込んだ主人公はそこで一人の女性に出会い恋に落ちます。任務を解かれた主人公は過去へと逃亡します。しかし、飛行場のタラップで、まさに彼女の目の前で処刑されます。少年時代の主人公がみたのはまさにその情景だったのです。主人公の少年期の不思議な記憶の中で殺された男こそ、主人公その人だったのです。こうしてひとつの円が閉じられ、映画は終わります。

さてこの映画はすべて静止画からできています。その結果、まるで写真の束を一枚一枚めくっていくように映画が進行していきます。つまり、切れ目なく続く時間と空間が、ここでは写真の集積に置き換えられています。
ちょうど図書館の図書カードをめくっていくように、私たちは一枚一枚とそれをめくっていくわけです。主人公の時間移動は、この静止画の連続の中に別の静止画をすべりこませる、そうした形になっています。

3.
切れ目なくつながった時間と空間とその中での運動は、映画の中では静止した写真の連続の置き換えられます。そしてその写真の連続がフィルムとなってつながり、巻かれてロールとなっています。つまり時間はフィルムのロールの形をとっています。
映画の中で主人公と彼女の2人が木の年輪を見つめるシーンがあります。このシーンは、じつは、ヒッチコックの監督作品『めまい』(Vertigo)(1958年)のシーンを借りてきたものだと言われています。
そこでヒッチコック『めまい』を見てみることにしましょう(映画上映)。

この映画の主人公は高所恐怖症の元刑事です。彼は友人に依頼されて自殺願望のある友人の妻を護衛します。しかし、愛する人妻は鐘楼から身を投げて自殺し、高所恐怖症の彼は彼女を助けられませんでした。しかしその後、彼は町でその人妻そっくりの女を見つけます。じつはその女は人妻と同一人物で、人妻の夫から依頼されて主人公をだまし、鐘楼から飛び降りたふりをしただけで、鐘楼から落とされたのが依頼者の実の妻だったのです。主人公は彼女を鐘楼に連れてのぼり、真実を暴きます。しかし彼女はあやまって鐘楼から落ち、主人公はふたたび鐘楼から愛する女が落ちるのを見ることになるのです。

ここでは女が鐘楼から落ちることが二度繰り返されます。つまり時間は回帰し反復されるのです。こうした回帰し反復される時間とは、映画において時間が写真の連続のロールの形をとっていることから生まれたものなのかもしれません。だから、主人公と人妻は、映画のロールに似た年輪を二人で見つめるシーンがこの映画の中にでてきたのです。
(映画というのはこのようにとても互いを言及しあうものです。「ラ・ジュテ」はさらに
テリー・ギリアム監督「12モンキー」(1995年)でリメークされます)。

4.
映画が静止画の連続でしかないのに、私たちはそれが連続しているもののように錯覚します。そこで映画「ラ・ジュテ」は、思い切って静止画だけで映画をつくってみたわけです。しかし、よく考えてみると、映画における錯覚にはじつは二つの種類の錯覚があります。

まずは、すでにのべたように、静止画の連続が動いて見えるという視覚上の錯覚があります。
しかし、映画における錯覚にはもう一つあります。たとえば、二人の男女がまず映し出されるとしましょう。次に、女性が話している情景が映し出され、さらに男性が話している情景が映し出され、それが交互に映し出されます。そうして最後に二人がキスしている情景が映し出されたとしましょう。
私たちはこうした映像の連続を見て、二人の男女が近づき言葉を交わし気持ちが高まってキスするという一連の動きを想像します。
しかし実際の撮影はこの一連の二人の動きとはまるで違うものです。まず二人の男女の情景を撮り、つぎに女が話している情景をいくつも撮り、つぎに男が話している情景をいくつも撮り、最後に二人のキスシーンを撮ります。次にこうして撮られた映像をそれぞれ断片(カット)をつなぎ合わせます。まず二人のカット、男と女のカットを交互につなぎ合わせ、最後に二人のキスシーンをそこに付け加えます。
あるまとまった写真の連続(カット)をつないでいくこと(編集)で、観ている者がそこに連続した物語を見つけ出すわけです。
こうしてみると映画にはつぎの二つの錯覚があるわけです。
(1)動画的な錯覚(幻影)。これは静止画の連続によって生まれます。
(2)物語的な錯覚(幻影)。これはひとまとまりの写真の連続(カット)をつなぎ合わせること(編集)で生まれます。

『ラ・ジュテ』では、写真の連続であるカットはその最小単位である1枚の静止画に縮められています。その結果、人物や情景が動いて見えるという動画的な錯覚はなくなりました。しかし、カットとカットをつないでみせることで、物語が進行しているように見えるという錯覚(幻影)は残されたのです。
たとえば、『ラ・ジュテ』の中で1ヶ所だけ動画になっている場面があります。ベッドに横たわる主人公の恋人の瞳のまばたきが動画になっています(映画のことをflickers(明滅する光)ということがあります。この場面は、彼女の瞳が開いたり閉じたりする、つまりまなざしの明滅を、光りの明滅である映画(flickers)にひっかけているのかもしれません)。
この場面はカメラにむかって女性がいるだけですが、私たちは彼女の視線は主人公にむけられたものつまりこの場面は主人公の視線からみた映像(主観ショット)だと思いこみます。それは前後の静止画カットの組み合わせによって私たちがそう想像するだけです(もちろん撮影の現場では彼女はカメラを見ているのであって主人公を見ているのではありません)。カットの組み合わせ(編集)によってベッドの上で見つめ合う二人という想像による物語上の幻影が生まれているわけです。
(1)の動画(アニメーション)的錯覚(幻影)はほぼ生理的に起きてしまうものです。しかし(2)の物語的な錯覚(幻影)は、観客の想像力によって生まれるものです。
映画が映画として成立するためには、こうした物語的な幻影が成立するために、観客の想像力を必要としているわけです。
しかしこの観客の想像は、その想像のあり方に大きく左右されます。それは文化によっても違ってくるでしょう。また観客の願望によっても大きくちがってくるでしょう。
近寄ってくる二人のカットの後、女性のカットになっても、その女性を美人だと思わないような人たちは、その女性を主人公が激しく求める気持ちで見ているのだとは想像しないでしょう。結果、そのショットは主観ショットとしては成功せず、その後の展開も観客にはしらじらしいものになるでしょう。
ぎゃくにその女優が観客の好みに合っている場合、観客は主人公の主観ショットに激しく同調して、まるで自分がその女優の前にいるような気持ちになり、その女優と接吻するような気持ちになるでしょう。映画のスターに観客が熱狂するのは、こうした観客の想像による登場人物への同一化(感情移入)をそそることで映画の物語ができあがっているからです。映画が観客の願望の投影となるのはこのためです。

5.さて、一続きの写真の連続(カット)を組み合わせることで映画ができあがっているということをそのまま映画のテーマとしているような映画を見てみましょう。それがこれから見るジャン=ペエール・ジュネ監督作品『アメリ』(2001年)(原題:Le Fabuleux Destin d'Amelie Poulain 「アメリ・プーランの素晴らしい運命」)です(映画上映)。

この映画はうっかりすると、とりとめもないちょっといい話を集めただけの映画に見えるかもしれません。しかしよく見ると映画というものの論理が一貫して貫かれた作品だと思われます。
まずこの映画のあらすじを見直してみましょう。
主人公アメリは父親を早くになくし父親との暖かい気持ちのやりとりももてずに育ちました。父親は妻を亡くしてずっと思い出に引きこもっており、アメリは家を出てパリのカフェで勤めていますが、恋人さえつくれずにいます。
人間の自我というものはその人間が自分の過去をどのような物語にしているかによって形作られます。回想というのは過去の全体ではなくてその中の重要と思えたエピソードをつないでいったものです。どんなエピソードを選びつないでいくかによって、現在の自分のありようは悲惨なものであったり、滑稽なものであったり、すばらしいものであったしします。
ある日アメリはアパートの壁の中から、以前そこに住んでいた少年(現在は中年男性)のブリキの宝物箱を発見します。箱の中には少年がその時々に胸躍らせた宝物が入っていました。アメリはその元の持ち主に返してあげることでその男に娘や孫に対する優しい気持ちをよみがえらせることに成功します。彼は忘れていた少年時代のいくつかのシーンを思い出すことによって、優しい気持ちをもった自分を取り戻したのです。
人間は過去のいくつかのエピソードを縫い合わせて物語にして自分を作り上げています。だがそれが悲惨なものでしかないとき、別のエピソードを拾い上げ縫い合わせ自分の過去の物語を作り上げことが必要とされるでしょう。過去の人生の痕跡としていくつかのエピソードが生まれるともいえます。ですが、ぎゃくにいうと、いくつかのエピソードがあって過去の人生はそれを貫くように動いてきたというふうに考えられているともいえます。
ここで気づくのはアメリが運河に石を投げ水切りするのを趣味にしているということです。石は水面の上を何度も飛び跳ねながら、水面に波紋を作っていきます。ぎゃくにいえば波紋の中心をつなぐ形で石の軌跡が描かれます。投げるたびに石が接し波紋を広げる水面の点もちがってきますし、それを結ぶ石の軌跡もちがってきます。
深読みすぎといわれるかもしれませんが、私はここに写真の連続によって運動を想像させる映画のあり方を思い起こします。写真は光の痕跡であって、それは石がぶつかってできる波紋に似ています。石の軌跡はいくつかの波紋(痕跡)すなわち写真の連続から推定されます。過去のどのエピソードを選びそれをつないでいくかによってその人間の人生の軌跡はちがったものとして現れてきます。アメリはなんども石を投げて水切りをしながら、別の波紋とそれをつなぐ別の軌跡を見つめている。それは自分の人生の軌跡をとらえ直そうとする彼女の願望がなせる業なのではないでしょうか。
映画のストーリーに戻りましょう。宝箱を返してあげてから、彼女はちいさな善行とでもいうべきことをし始めます。盲人に街の様子を報告しながら目的地まで連れて行ってあげたり、意地悪な八百屋の主人を小さないたずらを積み重ねてノイローゼだと思いこませて、その主人にいじめられていた片腕の青年を助けたりし ます。さらに亭主に逃げられた管理人に死んだ夫からの手紙を書いてやり、さらに父親の持っていたドワープの人形をフライト・アテンダントの友人に頼んで世界中の名所の前に立たせてその写真を父親に送りつけます。これらはみな同じ映画の論理に基づいています。
まずわかりやすいのはドワープの人形の写真です。世界の名所・遺跡の前に立つドワープ人形の写真。その写真が何枚も送られてきたことで、父親はドワープが世界を旅していることを想像します。つまりドワープの静止画の連続が旅行という運動を想像させたのです。つまりここでは動画的錯覚(幻影)が生まれています。父親はこの「旅するドワープ人形」にうながされて、亡妻を思う隠居から出て外の世界へと旅立ちます。
アメリ盲人に街の様子を教える時、街のすべてを語ることはできません。アメリが見た活気ある街の様子がいくつかの断片的情報の組み合わせとして盲人に伝えられ、そうして盲人は今まで知ることもなかったパリの下町の全体というものを想像することができるようになりその姿は喜びに輝きます。また八百屋の意地悪な主人を困らすためにアメリは靴ひもを切る、トイレの取手を取り替える、歯磨き粉を洗顔クリームとすり替える、目覚ましの時計を進めておく母親への電話の短縮ダイアルを精神相談窓口へと変更しておく、などなど、細かな細工をし、それが全体として、「自分は精神を病んでいる」という八百屋の主人の妄想(想像)を生み出すことになります。これらはすべて映画の編集が受け手に物語を想像させるのと同じ手法です。
そしてもっとも重要なのは、夫に捨てられた管理人への手紙です。アメリのアパートの管理人は若い頃夫からもらった熱烈な愛の手紙をいまだに大切に持っています。夫は秘書と南米に駆け落ちしそこで交通事故に遭って死んだのです。彼女はこの悲しみの淵から立ち直ることもできず泣き暮らしています。たまたま新聞でアメリはアルプスの山中に墜落した飛行機から何十年後もたって発見された手紙の話を知ります。そこで管理人の手紙を盗み出しそれをよく読み、その中からいくつかの言葉を組み合わせて、別の手紙を作り上げます。そして何十年も昔の手紙であったように変色させて、管理人の元に届けさせます。手紙には彼女を置いてきたことを後悔しすぐに帰るという内容が書かれていました。管理人は、夫は自分のもとに帰ろうとしていた、事故さえなければ帰ってきていたのだと思い、深く慰められます。
アメリは管理人の夫の手紙をいくつかの断片にカットし、その断片をつなぎ合わせて新しい妻への愛の手紙を作り上げたのです。ではそれはまったくのでたらめだったのでしょうか。一つ一つの断片はまぎれもなくその夫の書いた文章です。そして、もしかしたら彼は本当に妻のもとに帰ろうと思っていたのかもしれません。手紙の断片(カット)をつなぎ合わせることで、そこには、ありもしない、でもあり得たかもしれない「現実」というものがうまれたのです。
さてアメリが思いを寄せた青年は駅にある自動写真機のゴミ箱に捨てられた出来損ないの証明写真を集めるのを趣味にしています。集められアルバムに貼られたそれらの写真はさまざまな人々の人生を見る者に思い起こさせるものになっています。しかしその写真の中には不思議なスキンヘッドの男の写真があります。パリの駅のあらゆる自動写真機に捨てられた男の写真。そこから青年はふしぎな怪人を想像しています。青年は証明写真機に残された写真から恐ろしい人物を構築していたのです。写真の連続から運動が想像されるように、ここでは写真の集積が怪人への想像をもたらしています。写真の連続は危うい想像をもたらすこともあるのです。それはちょうど過去の暗いエピソードだけをつないで閉じた人生の持ち主になっているアメリのあり方に似ています。
偶然、アメリは青年が想像している怪人が実は写真機の修理人にすぎないことを知ります。そのことをアメリは青年に知らせ、青年を怪人の想像から解放します。そしてこの青年とかかわることで閉じた自分の人生の軌跡をべつのものへと変えようとし、最後にそれに成功するのです。人々の人生を映画的手法によって幸せにした少女はみずからにその手法を用いることで過去から解放され新しい人生を歩み始めるのです。
5.
『アメリ』という映画は、映画というものがどのようなものかをまさに私たちに教えてくれる映画というべきでしょう。そしてそれによれば、映画とは写真の断片を拾い集め、つまり編集して、ありもしない、でもあり得るかもしれない想像の現実を作り上げるものです。つまり、映画とは、編集によって、観客の想像を誘うことで、新たな、見たこともないような、すばらしい、恐ろしい、すてきな現実を作り上げる、そうした芸術なのです。
では次回から、こうした映画をどのように観ていったらいいのかということを、映画研究から学んでいくことにしましょう。
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by takumi429 | 2008-10-25 23:37 | フィルム・スタディーズ入門 | Comments(0)