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カント・ドストエフスキー・バフチン ――ドストエフスキーの作品理解のために――(1) 

カント・ドストエフスキー・バフチン ――ドストエフスキーの作品理解のために――   
報告者:勝又正直
2009年2月6日「ナラティヴ研究会」での発表レジメ
なおこの報告は2009年1月24日「ドイツ現代文化研究会」でしたものに、アレゴリー論を付け加えたものである。

この報告のためにドストエフスキーの全小説を読み、堪能しきったし、疲れ果てもし、今本当に言えるのは、「さあ、みなさんもどうぞお読みください」、ということだけなのだが、それでは報告にもなんにもならないので、しかたないので、以下のように報告していくことにする。

まず、1.カント哲学のアンチノミーのもつ斬新な構成と表現法、さらにその恐るべき帰結と深刻な影響を述べる。つぎに2.それと同じ問題構成をドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」はしているというゴロソフケルの説を紹介する。3.その説の有効性をバフチンの分析をつかってしらべる。4.ドストエフスキーの作品史を振り返って、彼の作品に顕著だった主人公の内部対話が、流刑後はもっぱら信仰と無神論の内部対話となり、さらにその対話に応じる形で外部に具体的な人物が現れるようになったことをみる。5.こうした内部対話の展開としての登場人物の対話的な対決はさらに発展してかれのポリフォニー文学の成立へといたることをみる。最後に、6.作品の中にもりこまれたアレゴリーは、作品の中にあるいくつもの話が互いにたとえ話(アレゴリー)として照応しあうという構造へと発展していることをみる。調停不可能にみえる対立はこのアレゴリーの構造のなかで解決されていくように思われる。

1.カント哲学の意外さと恐ろしさ
『純粋理性批判』 
純粋理性のアンチノミー(見開きの左右ページにテーゼとアンチテーゼが展開される)
テーゼ(独断論)アンチテーゼ(経験論)
1世界は時間的な始まりをもち、また空間的にも限界を有する。
1世界は時間的な始まりをもたないし、また空間的にも限界をもたない。即ち世界は時間的にも空間的にも無限である。

2世界においては、合成された実体はすべて単純な部分から成っている。また世界には単純なものか、さもなければ単純なものから成る合成物しか実在しない。
2世界におけるいかなる合成物も単純な部分から成るものではない。また世界には、およそ単純なものはまったく実在しない。

3自然法則に従う原因性は、世界の現象がすべてそれから導来せられ得る唯一の原因性ではない。現象を説明するためには、そのほかになお自由による原因性をも想定する必要がある。
3およそ自由というものは存しない、世界における一切のものは自然法則によってのみ生起する。(すべては因果関係によって支配されている)。

4世界には、世界の部分としてかさもなければ世界の原因として、絶対に必然的な存在者であるような何か或るものが実在する。
4およそ絶対に必然的な存在者などというものは、世界のうちにも世界のそとにも、世界の原因として実在するものでない。
(岩波文庫『純粋理性批判』篠田英雄訳)
『純粋理性批判』はこのアンチノミーを出発点として書かれた(石川文康『カント入門』)。

(参考)メンデルスゾーン『フェードン』:魂の不死性の証明
「魂は広がりをもたない、すなわち空間的に合成されたものではなく、単純な実体である。合成されていない単純なものは、分解されない、すなわち消滅しない。ゆえに魂は不死である。」(石川文康『カント入門』57頁)。第2のアンチノミーは「魂の不滅」の証明不可能を示唆する。

「理性の法廷」(石川文康)でのテーゼとアンチテーゼの闘い
経験の地平から遊離してしまった理性は、ある時はテーゼをあるときはアンチテーゼを弁ずる(理性の二枚舌、あるいは理性の狂気)。
人間には自由があるとも言えるし、ないとも言える(自由がない人間は(たとえば犯罪の)責任も問われない)。世界の第一原因たる神(トマス・アキナス)はいるとも言えるし、いないとも言える。

伝統的形而上学(物の背後にある原理を追求する学問)のテーマ:「神」、「自由」、「魂の不死性」
つまりこのアンチノミーは、伝統形而上学の破産宣告にも等しい。

「理性の深淵」
「いっさいの事物を究極的に担うものとして避けがたく必要とされる、無条件的な必然性は、人間の理性にとってほんとうの深淵である。永遠性でさえ、それをたとえハラーのようなひとが畏怖の念をおこさせるほどの崇高さをもってえがきとろうと、めくるめくような印象を、こころにそう長くは与えはしない。永遠は事物の持続を測るにすぎない。それは事物を担いはしないからである。われわれが考えることのできるもののうちで最高の存在が、「私は永遠から永遠にわたって存在する。私の外部にはなにも存在せず、私の意志によらずに、なにものかとして在るものはいっさい存在しない。しかし、その私はいったいどこからやってきたのか?」といわばひとりごとを言うとしよう。ひとはそのような思考を拒むこともできないが、とはいえ、その思考に耐えることもできはしない。ここですべてがわれわれの足もとに沈みこんでしまう。最大の完全性であれ最小のそれであれ、いっさいが思弁的な理性のまえで、ささえなく揺れうごく。思弁的な理性がはたらく余地すらなにもなく、あれもこれもなんの妨げもなく消失してしまうのだ(A版613ページ、B版641ページ)。(A版とは初版、B版とは第2版のこと)。(熊野純彦『カント 世界の限界を経験することは可能か』NHK出版2002年78-9頁)

このカントのアンチノミーのドイツ思想への深刻な影響
ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』(フランス人にドイツ哲学を紹介するものとして最初フランス語で書かれた)(伊東勤訳、岩波文庫、32刷2005年)
「ところで思想界の大破壊者であるイマヌエル・カントは、テロリズムではマキシミリアン.・ロベスピエールにはるかにまさっていたが、いろんな点で似ているところがあった。だから、このふたりの人物をくらべて見なければなるまい。まず第一にこのふたりには、容赦しない、するどい、雅趣のない、くそまじめな正直さがある。第二にこのふたりには、うたがいぶかい心がそなわっている。カントはそのうたがいぶかい心を「批判」と名づけて、思想にたいして発揮したし、ロベスピエールはその心を「共和国の徳」と名づけて、人間にたいして用いたのであった。第三にまたこのふたりには、ひとしく小商人根性が最高度にあらわれている。このふたりは元来、コーヒーや砂糖をはかり売りするように生れついていた。ところが、ふしぎなめぐりあわせで、ほかの物をはからねばならなくなった。ロベスピエールのはかりの皿には国王が、カントのはかりの皿には神がのせられたのである……そしてカントもロベスピエールも、てきとうな分銅をそのはかりの分銅皿にのせた!(167頁)。
私はただ、超越神はカント以後は思弁的理性の範囲内では、ほろびてしまったと断言するにとどめておく。この死のかなしい通知が世間ぜんたいにひろがるまでには、まだおそらく数百年はかかるだろう。――― けれども、われわれドイツ人はこの死をかなしんで、とっくのまえから喪服をきている。「主よ、我は深淵より汝をよばわる!」
「さあ、もうこれで芝居はおわった。うちへ帰ろう?」などと読者諸氏は思われるかも知れぬ。いや、とんでもないこと! もう一幕のこっています。悲劇のあとには茶番が上演される。イマヌエル・カントはこれまでは、きびしい哲学者の役を演じてきた。天国をにわかにおそって、そこの守備兵をのこらず斬りころしてしまった。神、つまり世界の最高の主人は、ついにその存在を証明されないで、血まみれでたおれている。神の大なる慈悲とか、父親らしい親切とか、この世でひかえ目にくらしたむくいをあの世でうけるとか、いうようなことはもうなくなってしまった。不滅のはずのたましいが、息をひきとりかけて、のどをごろごろならして、うめいている。――― さてれいのラムペじいさんが、いつものこうもり傘をこわきにかかえて、悲しげな顔つきでこの場面を見物していた。ひや汗となみだとがラムペの顔からぽたぽたおちた。そこでイマヌエル・カントはラムペじいさんをかわいそうに思った。そして自分がえらい哲学者であるばかりではなくて、やさしい人間でもあることを示そうとした。とくと考えたすえ、なかば親切な、なかば皮肉な口調でカントはこういった。「あのラムペじいさんは、神さまがなくてはこまる。あのあわれな人間は神さまがいないと、しあわせになれないんだ。―――さて人間はこの世でしあわせにくらさねばならぬ。これは実践理性の要求することだ。―――えい、かまわん。やっちまえ!――― この実践理性に神の存在を保証させよう。」こうした論法で、カントは理論的理性と実践的理性とを区別した。そして、この実践的理性を魔法の杖のように使って超越神の死体に活をいれた。超越神は一度は理論的理性に殺されていたのである。」(181-2頁)

人間の認識は時空間の図式の中にあり、その図式は人間が対象へ投げかけたものである。その時空間を超えた外にあるものは人間には認識出来ない。それは「物自体」とよぶしかないものである。しかし人間もまた自然法則の支配する認識の世界を超えた、自由をもつ存在である。そしてその自由によって行動するとき、「自分の行動原則がだれにとっても普遍妥当するように」(定言命法)、と思って行動している。道徳律を煮詰めてその純粋な核心をとりだすとこの原則になる。こうした道徳原則が人間に与えられていると言うこと、自由をもって人間がそれを尊敬して守ろうとするということ、それこそ、それを与えた神の存在が想起されることの根拠である。
しかし、あくまでも理性のうちでは神の存在は積極的には証明できない。しかし思っても見よう、ある物が美しいとかおいしいとか言う(判断する)とき、それは人の好きずきだと切ってすてられるだろうか。美しいもの、崇高なおそろしさをもつもの、それはだれにとってもそうなのではないだろうか。(たとえばうまいものはだれにとってもうまいと思わなくては、グルメ・ガイドなど意味がなくなってしまう)。また芸術作品を作るとき、人は自分の気持ちのままに自由に作っている。しかしそれが鑑賞者にとって「美しい」と判断されるためには、創作者はある普遍的な美の原理にふれていなくてはならない。自由に行動することが破壊ではなく普遍的な世界の創造と完成へとつながるかどうかは、その行動が美を体現しているかどうかで見極めることができる。悪をもなすことができる人間の自由が、神の与えた道徳律へと寄りそえるかどうか、人間の自由が自然界の秩序と寄りそえるかどうかは、ひとえにこの美の体現という基準にかかっている。普遍的な美の体現の向こうには、認識できないが、あきらかに神があたえた摂理が予感されるからである。
しかし、資本主義が誕生したイギリスでは、私利私欲による自由な活動が、公益の増大へとつながるという「神の見えざる手」(アダム・スミス)が想定されていた。しかるにドイツでは、自由な行動は美的領域においてようやく神の与えた普遍的原理へとつながるだけなのである。ここではドイツ思想における美学への過剰な期待とその奇形さがまさに顕著となるのである。

人間の自由は悪からはじまる  カント「人類の歴史の憶測的な起源」より
「人間の歴史の端緒についてのこうした記述から明らかになることがある。人間は理性によって最初の滞在場所として指定された〈園〉から外にでたが、それはたんなる動物的な被造物としての未開な状態から人間性へと進み、本能という歩行器に頼らずに理性に指導されるようになること、すなわち自然が後見する状態から自由な状態へと移行することだった。この変化が人間にとって利益となるものだったか、それとも損失となるものだったかは、人間の使命を考えてみれば、もはや議論の余地はない。人間の使命とは、完成に向かって進歩することにあるのである。この目的のために人類は一つの世代から次の世代へと、長い連鎖を結びながら試みをつづけているのであり、最初の試みが失敗したからといって、問題ではない。
このプロセスは、人類にとっては悪しき状態から善き状態への進歩であるが、個人にとってはそうではない。理性が目覚める前には、命令も禁止もなかったので、侵犯というものはなかった。しかしまだ微力ではあるとしても理性が働き始めて動物性と全力で闘うようになると、そこに諸悪が発生する。さらに悪いことには、理性が開化されたものとなると、無垢の状態ではまったく知られていなかったさまざまな悪徳が生まれるようになるのである。だからこの無垢な状態から脱出する最初の一歩は、道徳的には堕落であった。そして自然という側面からみると、この堕落から、それまで知られていなかった生活における多数の悪徳が生まれたのであり、これは人間に与えられた罰である。
このように自然の歴史は善から始まる。それは神の業だからである。しかし自由の歴史は悪から始まる。それは人間の業だからである。個人は、理性を行使する際にはみずからの利益だけを考えるのであり、この移行は個人にとっては損失であった。しかし類としての人間を目的とする自然にとっては、この移行は利益であった。個人としての人間には、自分のこうむるすべての悪と、自分の行うすべての悪を、みずからの責としてひきうけるべき理由がある。しかし全体の(類の)一員としての人間には、自然の配置の賢明さと合目的性に感嘆し、称えるべき理由があるのである。」(カント著中山元訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫83-5頁)
→シェリング『人間的自由の本質』(人間のもつ悪の誕生を神の自然からを論じる)

2.ゴロソフケルの『カラマーゾフの兄弟』の解釈(『ドストエフスキーとカント カラマーゾフの兄弟を読む』みすず書房)

『カラマーゾフの兄弟』あらすじ
講談社 世界文学全集19 (1968年発行) 北垣信行訳 …しおりより 全文引用
『 カラマーゾフ兄弟 』 あらすじ
 十九世紀の半ば過ぎ、ロシアの田舎町に住む強欲で無信心で淫蕩な地主フョードル・カラマーゾフの家に父親にほうり出されてよそで育った三人の息子が帰郷する。先妻の子のドミトリイと、後妻の子のイワンとアレクセイである。なおそこには町の白痴の娘に生ました隠し子のスメルジャコフが料理番として住みこんでいる。
 ドミトリイは自分の遺産を横領した父と、町の商人の妾グルーシェンカのことで張りあい、いいなづけカテリーナから送金を頼まれていた三千ルーブリを二度にわたってモークロエ村でグルーシェンカと遊んで使いはたし、彼女の愛情をかち得る。2度目の豪遊の直前、グルーシェンカを捜しに行ったドミトリイは父の家で下男グリゴーリイを誤ってなぐり倒して気絶させてしまう。かねて主人に深い恨みを抱いていたスメルジャコフはイワンの「すべては許される」という虚無主義的な考えに惑わされて、その晩癲癇の発作を利用して主人を殺し、金を奪って、その罪を巧みにドミトリイに転嫁する。ドミトリイは恋が成就した瞬間に嫌疑を受けて逮捕され、裁判に付される。イワンはスメルジャコフに教唆したという罪の意識から発狂する。発狂寸前に法廷に立った彼はスメルジャコフにその前日自白させて取り戻した金を証拠に提出して兄を救おうと自分の教唆の罪を自白するが、被告に恨みを晴らしたいカテリーナの反証が物をいい、名弁護士の奮闘も空しく被告はシベリヤ流刑を言いわたされる。

ゴロソフケルの解釈
父殺しをしたのはイワンの頭のなかにあったカントのアンチノミー(二律背反)である。

ゴロソフケルが想定するドストエフスキーにおける修正されたアンチノミー
テーゼアンチテーゼ
1 世界は創造され終末があるか?それとも世界は永遠で無限であるか?

2 不死はあるか?  それとも不死はなく、すべては分割され破壊されるか?

3 人間の意志は自由であるか? それとも 自由はなく、あるのは自然の必然性(自然の法則)だけか?

4 神と世界の創造者はあるか?それとも神と世界の創造者はないか?

(ゴロソフケル(木下豊房訳)『ドストエフスキーとカント カラマーゾフの兄弟を読む』67頁)

訳者による概要
「ゴロソフケルは『カラマーゾフの兄弟』における父親殺しの真犯人は誰かという推理小説風のテーマに絞りながら、それを通常の推理小説の筋立てのレベルではなく、イデーのレ
ベルで問題にしていく。つまり、理念上の犯人は誰かということであり、それを丹念な読みで追究するプロセスを通して、著者はこの小説の最も奥深い神秘的な本質に迫っていくのである。著者の入り組んだ推論をあえてかいつまんでいえば、カラマーゾフ老人殺しの真犯人はイワンの二律背反的知性に潜む「悪魔」である。その悪魔はイワンのカント的アンチテーゼ(無神論)の傾きにそって、スメルジャコフに身をやつして登場し、犯行におよぶ。スメルジャコフの自殺の後ではイワンの幻覚の中で悪魔自身が紳士の姿で現われ、イワンを嘲笑し、発狂させる。というのも、イワンはアンチテーゼの側に傾くと同じ程度にテーゼ(道徳、信仰)の側への強い渇望を持ち、テーゼとアンチテーゼの両端から成る天秤棒の上で、小止み無く揺れ動くカントのアンチノミー的主人公であるからだ。イワンのアンチテーゼの側面に連なる形象が、彼の傲慢な知性の幻影としての悪魔スメルジャコフであるとするならば、他方、彼のテーゼの側面に作用するのが、アリョーシャとゾシマ長老である。この両極の間での無限の往復運動からの脱出を、カントは道徳的裁判官の役割をもった理論的知性の定言命令によって図ろうとしたが、ドストエフスキーはイワン(知性)を発狂させる一方で、ドミトリイにおいて思弁と感性の二つの.深淵を同一瞬間に受容させることによって解決しようとした。いわば心情の知によって形式論理を破ろうとした。著者は小説の理念上の核心を以上のように明らかにしながら、最後にこう結論づける。ドストエフスキーは西欧の批判哲学の理論的知性に宿命的な悲劇性とヴォードヴィル(軽演劇)性を、イワン、悪魔スメルジャコフ、大審問官の形象において徹底的に描き出すことにより、カントに代表される西欧批判哲学との決闘をおこなったのである、と。」(「訳者あとがき」182頁)

ただしここでの悪魔は神を前提とした(神の正義・完全性を補完する)悪魔ではなく、無神論という名の悪魔である。
その証拠 悪魔とイワンの会話:
「お前だって神を信じていないだろう?」イワンは憎さげにせせら笑った。
「つまり、どう言えばいいのかな、もし君が真剣に・・・」
「神はあるのか、ないのか?」また有無をいわせぬしつこさでイワンが叫んだ。
「じゃ、君は真剣なんだね。ねえ、君、本当に僕は知らないんだよ、いや、たいへんなことを言ってしまったな」(16-332新潮社ドストエフスキー全集の巻数-頁、以下同様)
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by takumi429 | 2009-02-06 12:41 | 物語論 | Comments(0)

カント・ドストエフスキー・バフチン ――ドストエフスキーの作品理解のために――(2) 

3.バフチンの分析をつかって
イワンの中のアンチノミーがどのようにスメルジャコフへの殺人教唆になったのか。これについては、むしろバフチンの解釈を見てみよう。

「『カラマーゾフの兄弟』から、短いが非常に際立った対話を一つ引用しよう。
イワン・カラマーゾフはまだ全面的にドミートリーの有罪を信じている。しかし心の奥底
では、まだ自分自身からはほとんど隠したままで、自分自身の罪について自問している。彼の心の中の内的闘争は、極度に緊張した性格を帯びている。これから引用するアリョーシャとの対話がやりとりされるのは、まさしくそういう瞬間においてである。
アリョーシャはドミートリーの有罪を断固否定する。

「お前の考えでは、いったい誰が殺したんだい?」何だか冷ややかな様子でイワンは尋ね
たが、その語調には何か横柄な感じが響いていた。
「誰かってことは、あなた自身が知ってます」アリョーシャは静かに、心に染み透るような声で言った。
「誰なんだい?あの頭のいかれた白痴の癩痴持ちだっていう作り話のことかい?スメ
ルジャコーフの話のことかい?」
アリョーシャは突然、全身が震えているのを感じた。
「誰かってことは、あなた自身が知ってます」彼の口から力のない声が漏れた。彼は息が
詰まりそうだった。
「だから誰さ、誰なんだ?」もはやほとんど凶暴な声でイワンは叫んだ。堪忍袋の緒が突
然ぷつりと切れてしまった。
「僕が知っているのはたった1つです」相変わらずささやくようにして言った。「父さん
を殺したのはあなたじゃないってことです。」
「『あなたじゃない』だって!あなたじゃないとはどういうことなんだ」イワンは棒のように立ち尽くしてしまった。
「父さんを殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃないんです!」アリョーシャはきっ
ぱりと繰り返した。三十秒ほど沈黙が続いた。
「そうさ、俺自身だって、自分じゃないことぐらい知ってるさ、熱に浮かされてでもいる
のか?」青ざめた、歪んだ薄笑いを浮かべて、イワンは言った。彼の目はまるでアリョー
シャに吸い込まれてしまったかのようだった。二人はまた街灯の近くに立っていた。
「いいえ、イワン、あなた自身が何度か自分に言ったんですよ、あなたが殺したんだって
ね。」
「俺がいつ言った?……俺はモスクワにいたんだぞ……俺がいつ言ったというんだ?」イ
ワンはすっかり途方に暮れて眩いた。
「あなたはそのことを自分自身に何度も何度も言ったんです、この恐ろしいニヵ月の間、
一人きりでいるときにね」アリョーシャは依然として静かに、一語一語区切るようにして
言い続けた。しかし、彼の口ぶりは、あたかも我を忘れ、自分の意志ではどうにもならず
に、何か打ち勝ちがたい命令に従っているかのようであった。「あなたは自分自身を断罪
し、殺したのは他ならぬ自分なのだと自分に白状したんです。でも、殺したのはあなたじ
ゃありません、あなたは誤解しているんです、あなたは殺人者じゃありません、いいです
か、あなたじゃないんですよ!このことを言うために、僕は神様にあなたのところに遣わされたんです。」[『カラマーゾフの兄弟』第四部第一二編第五章]

ここでは内容そのものの中に、検討中のドストエフスキーの手法がものの見事にくっきりと浮き彫りにされている。アリョーシャが単刀直入に語っているのは、彼はイワンが自分で自分にその内的対話において課した問いに対して答えているのだ、ということである。この抜粋は、心に染み透る言葉と対話におけるその芸術的機能のもっとも典型的な例である。ここで非常に重要なのは次のようなことだ。つまり、他人の口から発せられた自分自身の心の奥深く秘めた言葉が、イワンに反抗心とアリョーシャに対する憎しみを呼び起こすが、それは、それがまさしくイワンの痛いところを衝いたからであり、それがまさしく彼の問いの答えに他ならないからなのだ。こうなればもはやイワンには、自分の内面の問題に対する他者の口出しを、全面的にはねつけるしかない。アリョーシャはそのことをよく心得ているが、それでも彼は、イワンが、この《深遠な良心》が自分自身に、遅かれ早かれ必ずや「俺が殺したんだ」という断定的な答えを突きつけるだろうことを予見しているのである。そうなのだ、自分自身に対しては、ドストエフスキーの構想によれば、イワンはそれ以外の答えを与えることはできないのだ。そしてまさしくそのときにこそ、アリョーシャの言葉は、他ならぬ他者の言葉として役立つはずなのである。・・・
《他者》としてのアリョーシャは、イワンが自分自身との関係においてはもちろん絶対に口にすることのできない、愛と和解の調子を持ち込むのである。アリョーシャの発話と悪魔の発話とは、双方とも同じようにイワンの言葉を反復しながらも、その言葉にまったく正反対のアクセントを付与しているのだ。一方がイワンの内的対話のある一つの応答を強調すれば、もう一方は他の応答を強調するのである。
これが、ドストエフスキーにとってもっとも典型的な主人公の配置法であり、彼らの言葉の相互関係というものである。ドストエフスキーの対話において衝突し、論争しているのは、二つの首尾一貫したモノローグ的な声ではなく、二つの分裂した声(少なくとも一つの声は分裂している)なのだ。一方の声の開かれた応答が、他方の声の隠された応答に答えているのである。一人の主人公に対して、それぞれがその第一の主人公の内的対話の正反対の応答に結びついているような二人の主人公を対置させること――これがドストエフスキーにとってもっとも典型的な組み合わせなのである。・・・
イワンとスメルジャコーフの相互志向的な関係は、非常に複雑である。すでに前述したように、父親の死を願う気持ちは、小説の初めの方のイワンのある種の発話を、彼自身には目に見えない、半分隠蔽された形で規定している。しかしこの隠されているはずの声を、スメルジャコーフは捉える、しかも、明々白々としていて疑いようのない形で捉えるのである。
ドストエフスキーの構想によれば、イワンは父親の死を望んではいるが、彼自身は外面的にはもちろん、内面的にもその殺人には加担しないという条件づきで望んでいるのである。彼は殺人が宿命的必然性として、彼の意志とは無関係であるばかりか、彼の意志に反して起ることを望んでいるのである。イワンはアリョーシャに言っている。
「いいかい、僕はいつだって親父を守ってみせるよ。でも、僕の望みについては、今度の場、完全な自由を確保しておきたいね。」[『カラ了ゾフの兄弟』第四部第3編第九章]

イワンの意志が内的対話において分裂している姿は、例えば次のような二つの応答の形で再現することができよう。
「僕は父親殺しを望んではいない。もしも父親殺しが起こるとすれば、それは僕の意志に反して起こるのだ。」
「しかし、僕は、父親殺しがこうした自分の意志に反して起こることを望んでいる。なぜなら、そのとき僕は内面的にはその殺人に加担しておらず、いかなる点でも自分自身を責めずに済ますことができるからである。」
イワンの自分自身との内的対話は、そんな風に構成されている。スメルジャコーフが見抜くのは、より正確に言えば、はっきりと聞き取るのは、この対話の二番目の応答に他ならないが、彼はその応答の中に埋め込まれた逃げ道を自分勝手に解釈してしまう。つまり彼はその逃げ道を、自分が犯罪の共犯者であることを示す証拠を何一つ彼に与えまいとするイワンの欲求として、自分を摘発し得るあらゆる直接的な言葉を回避しようとする《賢い人》の、したがって、ほのめかすだけで話を通じさせることができるがゆえに「ちっと話をするだけでもおもしろい」《賢い人》の、外面と内面双方の極度の用心深さとして理解するのである。イワンの声は殺人が起こるまでは、スメルジャコーフにとって首尾一貫した、分裂していない声である。父親殺しの願望も、彼にとってはイワンのイデオロギー的視点、イワンの「すべては許されている」という主張の、単純明快な当然の帰結なのである。イワンの内的対話の一番目の応答はスメルジャコーフの耳には入らず、イワンの第一の声が本当は父親殺しなどまったく望んではいないのだということを、彼は最後まで信じないのである。ドスエフスキー自身の構想では、この声は真剣そのものなのであり、この声こそがアリョーシャに――彼自身イワンの内なる第二の声、すなわちスメルジャコーフの声をしかと知っているにもかかわらず――イワンを正当化する根拠を与えてくれるのである。
スメルジャコーフはイワンの意志を、自信たっぷりにしっかりと握って放さない。より正確に言えば、イワソの意志に一定の意志表示のための具体的な形式を付与する。イワンの内的応答はスメルジャコーフを通して、願望から実践へと変貌を遂げるのである。」
(ミハイル・バフチン著、望月哲男・鈴木淳一訳『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫534-44頁)

ここであらためて注意すべきなのは、イワンの内的対話が、プロ・コントラ(テーゼとアンチテーゼ)のアンチノミーの形式を取っていることである。

理性の法廷
アンチノミーが理性の法廷であるとされていたように、『カラマーゾフの兄弟』でも肯定と否定の弁証は法廷の場面へと移される。カントのアンチノミーがまさに法廷の場面として展開されていっていると言える。

4.ドストエフスキーの作品史をふりかえって
流刑以前
ピョートル大帝が作った政治的人工都市ペテルブルグに生息する(常に他人の評価を気にせざるをえない)下級官吏をあつかったもの(ゴーゴリ時代)

処女作『貧しき人々』
他者の見る自分と自分の見る自分との分裂。ゴーゴリの『外套』を読んで自分のことを書いたと憤慨する下級官吏。自己の無限対話地獄の彼方にある救済としての少女への思慕
他の下級官吏ものでは少女は消え、分裂した意識が自己の分裂を生む
自己の中の他者との対話から自己の分裂していく(『分身』)
 
流刑後
悪への自由
「魂の不滅がなくなればすべては許される」
自己の中に無神論的な問いかけ(対話)を持った人物
自己の無限地獄のような内部対話は無神論と信仰との対話へと変わっている。
自己の分裂(分身)は無神論者(犯罪者・政治犯)と信仰を求める者の分裂になる

ドストエフスキーの作中人物はつねに人の反応を先取りしながら内的な対話を続けている。それは「出口のない無限循環」(バフチン472頁)を続けている。しかし、流刑以後の長編ではそれは肯定と否定の対話の形となり、さらに、『悪霊』のスタヴローギンと『カラマーゾフの兄弟』のイワンにおいては、無神論のアンチノミーとなっている。流刑前の作品に見られる「分身」は、流刑後の作品では思想的な内部葛藤による分身へと変貌をとげる。分身した閉じた自己の向こうに救済のようにあらわれた少女のイメージは、流刑後の長編では、大いなるロシアの大地による確固たる肯定の声へと変容する。

また長編ではつねに自由は悪とのつながりで語られる。さらに魂の不滅がなくなれば、すべては因果関係が支配することとなり、自由は消え、その結果、犯罪の責任は問えなくなり、すべてがゆるされてしまう。「心神喪失」というのは自由意志の喪失状態であり、それゆえ、犯罪の責任を問えないとすることである。『カラマーゾフの兄弟』ではこの心神喪失についての言及がくりかえしみられる(16-252-4,365,451)のもこの関連からである。

下級官吏の自己の対話がこうした無神論的対話へと変わったのには、流刑体験もおおきいだろうが、カントのアンチノミーの影響もあるとかんがえられないだろうか。時期的にはカントの言及からみて『地下生活者の手記』からこの影響があると思われる。ともわれ、すくなくともたとえカントの影響をうけなかったにせよ、ドストエフスキーの小説はまさにカントのアンチノミーの深刻な問題を小説のなかで展開したものとなっていると言えよう。

バフチンの『貧しき人々』分析 
「他者の言葉と他者の意識に対する人間の志向性そのものこそ、実はドストエフスキーの全作品を貫く根本テーマに他ならないのである。主人公の自分自身に対する関係は、彼の他者に対する関係および他者の彼に対する関係と不可分に結びついている。自意識はいつでも自分自身を、他者の意識を背景として知覚する、つまり、《自分にとっての私》は《他者にとっての私》を背景として知覚されるのである。したがって主人公の自分自身についての言葉は、彼についての他者の言葉の間断なき影響のもとで形成されるのである。
このテーマは様々な作品において、様々な形式、様々な内容、様々な精神的レベルで展開されている。『貧しき人々』では、貧しい人間の自意識というものが、彼についての社会的な他者の意識を背景として暴き出されている。そこでは自己主張が、間断のない隠された論争として、あるいは自分自身をテーマとした他者との隠された対話として響きわたる。・・・深遠な対話性および自意識と自己主張の論争性は、この処女作においてすでに見紛いようもなく鮮やかにその姿を現しているのである。
 
つい先だって二人きりで話をしたとき、エフスターフィー・イワーノヴィチが言ってましたが、市民としての最大の美徳は金をたくさん儲ける能力だということです。誰の厄介にもなるべからずという教訓を、彼は冗談めかして言ったのでしょうが(小生にも冗談だっていうことぐらいは分かります)、小生は誰の厄介にもなってはおりません! 小生のところにある一切れのパンは自分のものです。確かにそれは何の変哲もない一切れのパンで、時にはこちこちの場合さえありますが、それでもあることはあるんです。それは汗水たらして手に入れた、誰に非難されることなく堂々と食べることのできる代物なんです。いやはや、他にどうしろというんでしょうか! 小生だって、浄書するのは大した仕事じゃないことぐらい、自分でちゃんと心得てます。それでも小生は、その仕事を誇りに思っているんです。何と言ったって、働いて、汗を流しているんですからね。浄書しているからって、それが実際どうしたと言うんです! 一体、浄書するのが罪悪だとでも言うんですか。みんなは言います「あいつは浄書をしているんだ!」〈略〉でも、いったい全体それのどこが不名誉なんでしょうか。〈略〉だって、いまでは小生は、自分が必要な人間、不可欠な人間であることも、馬鹿げたことで難癖をつけられるいわれもないということも承知してますからね。でもまあ、ネズミだと言うんならそれでもかまいません。似ているところがあるんでしょうからね!それでもこのネズミは必要なんです、このネズミは利益をもたらすんです、人に頼りにされるネズミなんです、このネズミは報酬さえもらえるんです――ネズミと言ったって、こんなネズミなんです! でも、こんな話題はもうたくさんです。だって小生が話したかったのはこんなことじゃなかったのに、少しばかり興奮してしまったものですから。それでも、時々は自分を正当に評価するのも気持ちのいいことです。[同、六月一二日付の手紙]

マカール・デーヴシキンの自意識がもっと激しい論争の形で暴き出されるのは、彼がゴーゴリの『外套』の中に自分の姿を見出したときである。マカールは『外套』を自分自身についての他者の言葉として知覚し、その言葉を自分にはふさわしからざるものとして、論争によって葬ろうとするのである。だがいまは、この《人目を気遣う言葉》の構造それ自体を、もっと詳細に検討することにしよう。・・・
先ほど引用した箇所は、マカール・デーヴシキンと《他者》との間の、ほぼ次のような大雑把な対話の形にパラフレーズしてみることもできるだろう。

他者「金をしこたま儲ける腕が必要なのさ。そうすれば誰の厄介にもならなくてすむんだ。ところが、お前はみんなの厄介になっている。」
マカール「小生は誰の厄介にもなってはいない。小生のところにある一切れのパンは自分のものだ。」
他者「へん、いったいどんなパンだというんだ! 今日はあっても、明日にはないってやつだろう。しかも、その一切れだってこちこちのやつに違いない!」
マカール「確かに何の変哲もない一切れのパンで、時にはこちこちの場合さえあるが、それでもあることはあるんだ。それは汗水たらして手に入れた、堂々と誰に非難されることなく食べることができる代物なんだ。」
他者「いったいどんな汗水をたらしたんだか! やっていることはといえば、浄書だけじゃないか。それ以外のことは何にもできやしないんだ。」
マカール「それでどうしろというんだ! 小生だって、浄書が大した仕事じゃないくらいのことは、自分でもちゃんと心得ているが、それでも小生はこの仕事を誇りに思っているんだ!」
他者「誇れる何があるというんだ!浄書かい!いやはや何とも恥知らずなこった!」
マカール「浄書をしているからといって、それが実際どうしたというんだ!」……等々。

あたかもこうした対話の応答同士が一つの声の中で重なり合い、融合してしまった結果として、先の引用箇所におけるマカール・デーヴシキンの自己言表ができあがったかのようである。」(419-22,426-7頁)
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by takumi429 | 2009-02-06 12:30 | 物語論 | Comments(0)

カント・ドストエフスキー・バフチン ――ドストエフスキーの作品理解のために――(3) 

5.ポリフォニー(多声的)小説の創造者としてのドストエフスキー
「それぞれに独立してお互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それがれっきとした価値をもつ声たちによる真のポリフォニーこそドストエフスキーの小説の本質的特徴なのである。」(15)
「引用しようと思うのは、『未成年』からの抜粋であるが、そこを除けばドストエフスキーは自作においてほとんど一度も音楽に言及していないという点からも、なおさらに興味深い部分である。トリシャートフは主人公の未成年に向かってその音楽への愛情を語り、彼に一つのオペラの構想を展開してみせる。
「どうです、あなたは音楽が好きですか。僕は恐ろしく好きなんです。あなたのところへお邪魔したら、何か弾いて聞かせましょう。僕はね、ピアノがとても上手でしてね、ずっと長いこと習ったんですよ。真剣に習ったんですよ。もし僕がオペラを作るとしたら、そしたらですよ、題材は『ファウスト』からとりたいですね。このテーマがすごく気に入
っでるんです。僕はいつでも大寺院の場面を作っているんです、とは言っても、ただ頭の
中で空想しているだけですけどね。ゴチック様式の大寺院、その内部、聖歌隊、賛美歌、
そしてグレートビェンが登場するんですが、そこで、いいですか、聖歌隊はですね、即座
に十五世紀だということが感じ取れるように、中世の聖歌隊なんです。グレートヒェンは
ふさいでいて、初めに叙唱が静かに、しかし恐ろしくも悩ましげに響き、それから聖歌隊
の合唱が陰気に、厳粛に、非情にもこう轟(とどろ)きわたる――
『怒りの日よ、その日よ!』(Dies irae, dies illa !)
とそこに突然―――悪魔の声、悪魔の歌。悪魔の姿は見えず、ただその歌声だけが聞こえ、賛美歌と平行し、賛美歌と混じり合い、ほとんど賛美歌と一体になったりしながらも、同時、また賛美歌とはまったくの別物である――どうにかしてそんな風にしなければいけないんです。それは長く、倦むことを知らない歌で、テノールで歌われます。それは静かに、優しく、こう始まるんです。『グレートヒェンよ、お前は覚えているかな、まだ汚れを知らぬ子供の頃、母親とともにこの寺院を訪れ、古い本を頼りにおぼつかなげにお祈りしたことを?』しかし、歌声はどんどんと強く、熱を帯び、テンポは速まり、調子も高まってゆきますが、それは、そこには涙が、出口なしの倦むことなき憂愁が、そして絶望が含まれているからなんです。『許しはないのだ、グレートヒェン、この世にお前にとっての許しはないのだ!』そこでグレートビェンは祈ろうとしますが、その胸から吐き出されるのは叫び声なんです――ほら、泣き過ぎて胸が痙攣したときに出るでしょう、あれですよ――それでも悪魔の歌は鳴りやまず、棘のようにますます心の奥深くへと突き刺さりながら、なおもその調子を上げる、と、その瞬間、突如としてそれは、『すべては終わりだ、呪われたる女よ!』というほとんど叫びに近い語句とともに中断してしまうんです。グレートヒェンはくずおれて脆(ひざまづ)き、胸の前で堅く手を組み合わせ――と、そのときです、彼女の祈りが始まるのは。それは何か非常に短い、半叙唱のような、しかし素朴な、まるで飾り気のない、何か中世そのものといったような四行詩、そう全部でたったの四行の詩なんです――ストラデーラ[十七世紀後半のイタリアの作曲家・歌手]にそういったやつが何曲かありますよね――そして最後の音を出しきると同時に彼女は気を失うんです! そこで一同騒然。彼女は抱き上げられ、運び去られる――と、その瞬間、忽然(こつぜん)と湧き上がる雷鳴のような合唱。その合唱は――声の落雷とでも呼べそうな、霊感に満ちた、凱旋の、圧倒的な、どこか我が国の『ドリ・ノシ・マ・チン・ミ』を思わせるようなもので――ありとあらゆるものが根こそぎ震憾させられずにはいないような合唱なので、その結果ありとありとあらゆるものが『ホサナ!〔神をたたえる言葉〕』と叫ぶ全体的な感きわまりのない喚声へと移行してゆくことになるんです。それはあたかも全宇宙的な喚声のようであり、その中を彼女はぐんぐん運ばれてゆくわけですが、その瞬間に幕は下ろされなければならないのです!」[『未成年』第三部第五章三節]
 こうした音楽的構想の一部を、文学作品という形式においてではあるが、ドストエフスキーは紛れもなく実現した、しかも多様な素材を用いて一再(いっさい)ならず実現したのである。」(456-9)

6.アレゴリーの集合体としてのドストエフスキー小説
『カラマーゾフの兄弟』の中で、作者はさりげなく、ゴーゴリの小説はすべてアレゴリーの形をとっていると指摘する。
「ゴーゴリの場合、すべてがアレゴリーの形をとっておりますしね。なぜって人の名前がみんなアレゴリーですからな。ノズドリョフにしても、本当はノズドリョフ(訳注 鼻孔をもじった名前)じゃなく、ノーソフ(訳注 鼻をもじった名前)ですし、クフシンニコフ(訳注 水差しをもじった名前)になると、これはもうまるきり似てもいません、なぜって本当はシクヴォルネフという名ですからね。」(16-76)
たしかにゴーゴリは人名に意味をもたせる。しかしそれは同時に「ゴーゴリの再来」と呼ばれたドストエフスキー自身の小説法でもある。
江川卓によれば、ドストエフスキーの小説の人物名はその人物にふさわしい意味をもっている。『罪と罰』のマルメラードフ(甘井聞太)妻カチェリーナ・イワーノヴナ(甘井清子)、主人公の妹ドーニャ(悦子)の花婿、ピョートル・ルージン(溜水岩男)、社会主義者レベジャートフニコフ(相槌勇)、ザメートフ(目付護夫)、医者の卵ゾシーモフ(延命君)、『外套』アカーキイ・アカーキエヴィチ(沓履くつはき運五郎)、『貧しき人びと』マカール・ジェヴシキン(早乙女耕作)、『分身』ヤコフ・ゴリャートキン(裸坊踵はだかぼうずくびす)などなど
人物はさまざまな象徴としての意味を持ちつつ小説のなかで動いていく。
比喩の物語(アレゴリー)としての小説のあり方はさらに展開していき、小説のなかにいくつもの話がアレゴリー関係をもって組み合わせられて小説が構成されるようになる。

『虐げられた人々』:
A スミス老人の娘は、ワスコフスキー公爵に捨てられる。公爵は伯爵夫人と深い仲になる。彼女は娘ネルリとともに戻ってくるが、父に許されることなく極貧の中で死に、さらそれを後悔した老父も死ぬ。
B イフメーネフ老人の娘ナターシャは、ワリコフスキー公爵の息子アリーシャの元へと家出するが、アリーシャは伯爵夫人の継子カーチャへと心変わりする。
語り手でありもとナターシャの恋人であったイワンは、ネルリをイファメーネフの元にやり、娘を許させる。(2つの話が、悪の権化であるワリコフスキー公爵でつながる)。
2つの物語が相互に映し出すように併置され、一方が一方を救う。アレゴリー的に重層した物語。

『カラマーゾフの兄弟』
ミーチャの見た悲惨な童の夢が現実の童の話として出てくる(16-172,3)。イワンはアリョーシャを自分の無神論へと引き寄せることに失敗するが、童の世界ではイワンのような無神論に走りそうだった(二人ともヴォルテールの神が必要だから創案されたという説に言及1-228,2-223)コーリャ少年がアリョーシャの信仰運動へと引き寄せられる。
小説の中心となるイワンの暗黙の教唆による父殺しの話が、アリョーシャをつなぎ役として、少年イリューシャの死とその死を忘れずにいよういうアリョーシャ(「墓石」)(1-131)
の呼びかけのもとに少年たちが集う話へとつながっている。さらに少年たちの話は、イエスの受難とその復活を信じるものたちによる教団形成という福音書の話を思い起こさせる。(イリューシャはイエスのメタファーとなっている。だから遺体は臭わない(16-476))。
さらにこの小説にはいくつもの挿話がはいっている。しかしそのどれもが「小さな水滴にうつる太陽のように」(16-392)に小説のテーマを映し出しており、さらにどの物語もが聖書物語のアレゴリーとなっている。

作品の中にもりこまれたアレゴリーは、作品の中にあるいくつもの話が互いにたとえ話(アレゴリー)として照応しあうという構造へと発展している。調停不可能にみえる対立はこのアレゴリーの構造のなかで解決されていくように思われる。
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by takumi429 | 2009-02-06 11:42 | 物語論 | Comments(0)

参考 ドストエフスキーの全小説

ドストエフスキーの全小説

1.貧しき人たち
初老下級官吏と少女との書簡体小説。
少女は中年過ぎの地方地主の嫁に。
ゴーゴリの『外套』を読んで自分のことを書いたと憤慨する下級官吏
他者の見る自分と自分の見る自分との分裂。自己の無限対話地獄の彼方にある救済としての少女への思慕
窓辺の少しだけまくられたカーテン

2.分身 ペテルブルグ叙事詩
下級官吏が自分の分身に出し抜かれ精神病院へと送られる。
ペテルブルグはピョートル大帝によって作られた人工の政治都市。
ドストエフスキーももと下級官吏だった。
他者にとっての自分と自分にとっての自分の分裂。
ゴーゴリの「鼻」をさらにパロディ化。ドストエフスキーははじめ「ゴーゴリーの再来」と言われた。

3.プロハチン氏
窮乏生活のなかで節約を続けて死んだ老下級官吏は実は金貨を貯め込んでいた。

4.9通から成る長編小説。イワンの息子のピョートルとピョートルの息子イワンという名前の二人の交換書簡からなる小説。そっくりな二人は細君をめぐって嫉妬の応酬となるが、どちらの細君もべつの色男と浮気をしていた。
鏡像としての他我。

5.ペテルブルグ年代記
新聞掲載のフェリトン(時評風随筆)。ペテルブルグを歩き回る私の目に映った街のレポート

6.女あるじ
無職の元大学生が小部屋を又借りしようとした。元大学生は貸し主の老人の若い妻を救い出そうとするが警察に通報されべつの部屋を借りることになる。

7.ポルズンコフ
サロンの金持ちの前で道化を演じ金をもらう元地方都市官吏。

8.かよわい心
幸せな結婚を目前にして、与えられた清書の仕事が終わらず発狂する下級官吏。

9.他人の女房とベットの下の亭主
妻の浮気現場を押さえようとして知らない婦人の部屋に誤って乱入した主人公はあわててベットの下に潜り込むがそこにはすでに先客の男性がいた。
ボードビル(軽妙な通俗的喜劇)への志向。

10.正直な泥棒
酒飲みの浮浪者が死に際に恩人に自分の盗みを告白する。

11.ヨールカ祭りと結婚式
狡猾な高級官僚が5年前からの計画どおり持参金付きの16歳の少女と結婚する。

12.白夜
青年下級官吏が自分の恋する美少女が元恋人の元に行くのを助ける。

13.ネートチカ・ネズワーノワ
極貧のなかで両親を失って公爵家にもらわれる少女の自伝。未完。
シベリア流刑の前ではもっともすぐれた小説。
赤いカーテンの向こうにあるきらびやかな社交ダンスの世界。

14.幼いヒーロー
美しい人妻と恋人の駆け落ちを助ける少年。
政治運動で逮捕されペテロ・パウロ要塞監獄の中で執筆。
死刑執行直前に流刑宣告を受ける。

15.死の家の記録
流刑体験のルポルタージュ。
一時の散財によって自由を感じたいためだけに吝嗇に励む囚人たち。
「金は鋳造された自由である」(5-22)
一度殺人をしたら急に行き当たりばったりに殺人を重ねる人間の気持ちを推し量って、「一度禁じられた線を踏み越えたからには、もう神聖なものは何もないのだという思いを、たっぷり堪能しようとしているかのようだ。こうなったからには、一思いにすべての法律や権力をとびこえて、野放しにされた自由を楽しもう、自分で自分に感じられないではいられぬ恐怖からくる胸がしびれるようなこの快感を、心ゆくまで楽しもうという気持ちに突き上げられているようだ」(5-115)
犯罪と自由。悪と自由。
この作品以降、ドストエフスキーのパレットには「悪」の黒い色が加わる。

16.おじさまの夢
女主人公が遺産目当てに娘を老公爵と結婚させようとするがその約束は夢だったと言うことにされて結婚話は水泡に帰す。喜劇

17.ステパンチコヴォ村とその住人
村の温厚な地主宅に住み着く元道化のフェマーは地主の母親に気に入られ今や王や将軍のような独裁者になっている。地主は年若き家庭教師を愛しているが彼女を侮辱したフォマーをたたき出す。帰ってきたフォマーは二人の結婚を祝福して居候を続けた。喜劇。カントへの言及あり(3-268)
カーニバル小説
居候から成り上がる→カラマーゾフ兄弟の父

18.虐げたれた人たち
この作品で文壇に復帰をはたす。
A スミス老人の娘は、ワスコフスキー公爵に捨てられる。公爵は伯爵夫人と深い仲になる。彼女は娘ネルリとともに戻ってくるが、父に許されることなく極貧の中で死に、さらそれを後悔した老父も死ぬ。
B イフメーネフ老人の娘ナターシャは、ワリコフスキー公爵の息子アリーシャの元へと家出するが、アリーシャは伯爵夫人の継子カーチャへと心変わりする。
語り手でありもとナターシャの恋人であったイワンは、ネルリをイファメーネフの元にやり、娘を許させる。
2つの話が、悪の権化であるワリコフスキー公爵でつながる。
Aの話を通じてBが了解される。アレゴリー的に重層した物語。
ワリコフスキー公爵の悪の哲学の開陳。バルザックの『ゴリオ爺さん』のヴォートランの影響か。

17.いやらしい小咄
上級官吏が下級官吏の結婚式に飛び入りして結婚式と新郎の将来を台無しにしてしまう。

18.地下室の手記
元下級官吏の中年独身男の手記。
カントへの言及(6-95,112,114)

哲学教員鹿島徹への私の手紙から
「もくろみとしては、『カントとドフトエフスキー』の問題提起をうけて、カントのアンチノミーの解決として「カラマーゾフの兄弟」を、バフチンのポリフォーニー論をつかって読み解く、というものなのですが、はたして見込みがあるものかどうかまだ五里霧中です。
その関連で、『地下生活者の手記』をよみかえしたのですが、この作品はドフトエフスキーが兄に『純粋理性批判』を送ってくれ、と頼んだ後の作品で、読んでいると至る所でカント倫理学への当てこすりがあるように思えるのです。しかし訳注ではそれはすべてチェヌイシェーフスキー『何をなすべきか』に対する批判であるとされいます。まだ『何をなすべきか』を読んでいないのでなんともいえないのですが、どうも私には(あくまでもドフトエフスキーが理解した限りではありますが)カント批判があるようにおもえてならないのです。
2×2が4であるように、人間の道徳律が先天的なものだとしたら、人間はまるであらかじめ決められた音を出すだけの自動ピアノみたいなものになってしまう。そうではなくて、人間には自由がある、そう、悪への自由をもっている(当時ロシアではシェリングが大流行だったそうですから、それにひっかっけてさらに言うなら)、底なし(無底)の深淵から人間の自由が生まれてきたとき、人間の自由は悪への自由として与えられてきたのだ、というようなことを考えているように思えてならないのです。」
鹿島氏からの返事の一部
「こちらは体調をすっかり崩して、大学も休んでいます。まとまった読書をする気分になれず、『地下生活者の手記』を読み返す気力が出てきません。昔読んだ記憶を辿れば、確かにカント批判と受け取ることのできる主人公の言動があったように思います。ドストエフスキーが実際にカントを念頭に置いたかどうかは別問題として、事柄的に貴兄の勘は当たっているのではないでしょうか。」

第2章 娼婦を救うようなことを言って住所を教えるが結局行為をしただけでむなしく帰らせてしまう。
自問自答(自己内対話)の無限循環とその向こう側の手の届かない他者(女性)


21.鰐(わに)
官吏が見せ物の鰐に飲み込まれしまうが、鰐の中で彼は充足してしまう。

22.賭博者
口述筆記

23.永遠の夫
寝取られ亭主が妻の元相手に会いに来る。夜中に殺しに来る。
窓をあけて互いを見つめる二人。鏡像としての他我。

24.ボホーク
墓場で死者たちのおしゃべりを聞く。多声性。

25.おとなしい女
決闘を拒んで退役し質屋になった中年が若い娘をもらい妻にするが心を開くことなく妻は自殺する。その死体を見つめながらの手記。

26.おかしな男の夢
男の夢想。

27.罪と罰
選ばれた人間は他の者を殺すことさえできる自由をもつ。
ラスコーリニコフの殺人事件と少女娼婦ソーニャの家庭崩壊とスヴィドリガイロフの自殺の3つの話が絡み合う。対話はすばらしい緊張をはらんでくる。犯罪小説。

28.白痴

29.悪霊
スタボローギンの無神論的自己対話の一方だけを聞き取った政治集団によるリンチ殺人。

30.未成年
『作家の日記』(評論)に似た文体。
ルソーの『社会契約論』(ジュネーブ思想)への言及(13-127,257)
「ロシア人が真の意味で開化されることはないだろう。」(中山元訳98-99)
革命党員クラフトの唐突な自殺。
社会契約論:一般意志の名の下によるエリート独裁主義。
開化されていない未成熟なロシアを主人公にした小説の形を借りた政治評論?アレゴリー小説?
アレゴリー:抽象概念の擬人化 『薔薇物語』解説より

31.カラマーゾフの兄弟
講談社 世界文学全集19 (1968年発行) 北垣信行訳 …しおりより 全文引用
『 カラマーゾフ兄弟 』 あらすじ
 十九世紀の半ば過ぎ、ロシヤの田舎町に住む強欲で無信心で淫蕩な地主フョードル・カラマーゾフの家に父親にほうり出されてよそで育った三人の息子が帰郷する。先妻の子のドミートリイと、後妻の子のイワンとアレクセイである。なおそこには町の白痴の娘に生ました隠し子のスメルジャコーフが料理番として住みこんでいる。
 ドミートリイは自分の遺産を横領した父と、町の商人の妾グルーシェンカのことで張りあい、いいなずけカテリーナから送金を頼まれていた三千ルーブリを二度にわたってモークロエ村でグルーシェンカと遊んで使いはたし、彼女の愛情をかち得る。2度めの豪遊の直前、グルーシェンカを捜しに行ったドミートリイは父の家で下男グリゴーリイを誤ってなぐり倒して気絶させてしまう。かねて主人に深い恨みを抱いていたスメルジャコーフはイワンの「すべては許される」という虚無主義的な考えに惑わされて、その晩癲癇の発作を利用して主人を殺し、金を奪って、その罪を巧みにドミートリイに転嫁する。ドミートリイは恋が成就した瞬間に嫌疑を受けて逮捕され、裁判に付される。イワンはスメルジャコーフに教唆したという罪の意識から発狂する。発狂寸前に法廷に立った彼はスメルジャコーフにその前日自白させて取り戻した金を証拠に提出して兄を救おうと自分の教唆の罪を自白するが、被告に恨みを晴らしたいカテリーナの反証が物をいい、名弁護士の奮闘も空しく被告はシベリヤ流刑を言いわたされる。


ロシア
イワンの内部対話
法廷
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by takumi429 | 2009-02-05 22:37 | 物語論 | Comments(0)