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2. ゲゼルシャフト化としての近代 テンニース 

2.ゲゼルシャフト化としての近代 テンニース 


1.個体発生 は系統発生 を繰り返す(ヘッケルの反復説)
上京青年の経験
 親身な、しかし暑苦しくもある故郷の街から冷たい大都会へ
 カラスが舞い降りる朝、「ランチ」としか言わない一日、コンビニだけが救いの毎日
この個人的な経験は私だけのものだろうか。
ひょっとしたら社会のみんなが経験していることではないのか。
そう考えたとき、私たちはテンニースの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』という著作に出会うことになる。

2.『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』
テンニースによれば、
ゲマインシャフトとは肉親・家族や古くからの町などことであり、そこでは親身な関係が支配している。それに対して、ゲゼルシャフトとは、会社や大都会のような、欲得ずくの関係が支配している人びとの集まりである。

人間が作る結合体の二類型:
ゲマンシャフト:本質意志による 有機的な(organish) 結合体
ゲゼルシャフト:選択意志による 機械的な(mechanish) 結合体
本質意志:思惟をふくむ意志、生の統一性原理
選択意志:意志をふくむ意志そのものの産物
「思惟された目的すなわち追求されるべき対象とか望まれた事象によって、つねにまず尺度が与えら得れ、この尺度にしたがって、企画されるべき活動が規定され、方向を与えられる。否それどころか---完全な場合には---目的に関する考えが、他の一切の考えや、思慮、したがって任意に選択される一切の行為を支配するのである。これら一切の思慮や行為は、目的に役立ち、目的に通ずるものでなければならない」(196頁)。

私はゲマインシャフトの人間関係からゲゼルシャフトの人間関係の社会へと出てきたわけである。

3.『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の成立
資本主義が支配的になるにつれて社会関係も商品による売買の関係となり、人間関係も計算尽くの関係になってくる。
マルクス 資本主義 
「封建制度の後を継ぐ人類社会の生産様式、商品活動が支配的な生産形態となっており、あらゆる生産手段と生活資質とを資本[もとで]として所有する有産階級(資本家階級)が、自己の労働力以外に売るものをもたない無産階級(労働者階級)から労働力を商品として買い、その価値とそれを使用して生産した商品の価値との差額(剰余価値)を利潤として手に入れるような経済組織」
ホッブス 市場社会の社会幾何学
「万人の万人に対する戦争状態」(=所有的市場社会)
「所有的市場社会と呼ぶことによって私は、慣習や身分にもとづいた社会とのコントラストにおいて、仕事とか報酬とかの権威的割り当てのない社会を意味し、また市場で自分たちの生産物だけを交換する独立した生産者たちの社会とのコントラストにおいて、生産物と同様に労働にも市場が存在する社会を意味する。もし所有的市場社会の単一の基準が求められるならば、それは人間の労働が一個の商品であるということ、すなわち、人間のエネルギーや技術は彼自身のものであっても、彼の人格 (personality) の不可欠な部分とみなされるのではなくて、所有物として、その使用と処分は彼がある価格で他人たちに自由に手渡すことができるものとみなされるということである。私がそれを所有的市場と呼んだのは、完全に市場的な社会のこの特徴を強調するためである。所有的市場社会はまた、労働が一個の市場商品となった場合、市場関係がすべての社会関係を形成しもしくはそれに浸透するので、それはたんに市場経済ではなくて市場社会と呼ばれるのが適当であるという意味も含んでいる。」(マクファーソン『所有的個人主義の政治理論』60頁) 

テンニースはマルクスの資本主義論とホッブスの市場社会の社会幾何学を結合させて、ゲゼルシャフトの理論を構築した。そのうえで、それと対置されるべきゲマインシャフトの理論を、人間の本質意志から構築した。

資本主義化による社会の混乱を、資本主義=市場社会の原理とはことなる社会の構成原理(本質意志によるゲマインシャフトの関係)を提示することで、解決しようとした。

4.差異の形成
故郷は大都会から見るとき美化される。しかし現実の故郷は、それなりに世知辛いものだったりする。「故郷は遠きにありて思うもの」
ゲマインシャフトというのはじつはゲゼルシャフトの関係が支配的になることによってうまれてきたのではないのか。
たとえばゲマインシャフトの代表としてあげられる家族はきわめて融和的な関係にとらえられているが、実際にはもっと計算づくの関係ではなかったのか。愛情によって家族をとらえようとするのはきわめて近代的な発想ではないのか。
テンニースが掲げる、ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトという差異じたいが、じつは資本主義化の運動によってもたらされたのではないか、と思われる。そしてこのゲマインシャフト/ゲゼルシャフトという差異がもつ、いわば温度差が、資本主義のエネルギーとなっているのではないか。ちょうど親密性が支配する家族が市場的な資本主義関係を補完するものであるように。近代という時代は、計算尽くの関係を生み出すと同時に、計算尽くでないような欲得なしの親密な関係を生み出す。計算尽くの関係は計算尽くでない関係に補完されつつ存在しているのではないのか。

5.差異の消失:近代から現代へ
故郷に帰った私を待っているのは、東京と変わりばえしない安っぽい駅前の風景。故郷の人びとは車を飛ばし、カラオケに興ずる。美しかった田畑は休耕地となって雑草だらけ、魚が群れていた川は護岸工事のために排水路のようになり、裏山には産業廃棄物が山積みになっている。父の遺産のもとは二束三文だった山の土地はリゾート開発で高騰し、一家の者はそれを奪い合う。都会の我が家に帰ってみれば、そこはばらばらの食事と互いに向き合うことのないテレビ・ラジオ受信の場になっている。
 今日、顕著になっているのは、計算ずくの世界に疲れた我々が帰って行くべきとされ
た世界、ゲマンインシャフト的な世界が、次々と浸食され崩壊していく風景である。
 もはやゲゼルシャフトはゲマイシャフトの外部(他者)として存在するのではない。
ゲマンインシャフト的世界はゲゼルシャフトによって浸食され崩壊ししつある。
 二項対立の差異により維持された近代そのものが徐々に自らの足もとを堀崩してい
くというのが現代の基調であるように思われる。 
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by takumi429 | 2010-12-30 12:04 | 社会学入門 | Comments(2)

3.逆説としての近代 ヴェーバー(1)

3. 逆説としての近代 ヴェーバー(1)

1.マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
(マルクスのいうような)資本主義が成立するためには
①たえずもうけ(利潤)を資本として再投下するような(禁欲的な)資本家と
②その資本家のもとで文句もいわず働く勤勉な(禁欲的な)労働者とが
現れなくてはいけません。
 ではこうした禁欲的な資本家と労働者はどのように現れたのでしょうか。
 この問題に答えようとしたとき、私たちはマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著作に出会うことになります。
 まずこの著作の内容をみていく前に、この作品がどのような問いかけに支えられていたかをみていくことにしましょう。

(1)異化する問い(あたりまえを疑う)
この著作のはじめの方で、ヴェーバーは、つぎのような金儲けに精を出す資本家への問いかけ(自問自答)を提示しています。
「休みなく奔走(ほんそう)することの『意味』を彼ら(「資本主義精神」にみたされた人々)に問いかけて、そうした奔走のために片時も自分の財産を享受しようとしない態度は、純粋に現世的な生活目標から見ればまったくの無意味ではないかと問うとき、彼らは、もし答えうるとすれば、『子や孫への配慮』だと言うこともあるだろう。しかし、より多くは、---『子や孫への配慮』という動機は、明らかに彼らだけのものでなく、『伝統主義的』な人々にも同様にあるのだから---より正確に、自分にとっては不断の労働を伴う事業が『生活に不可欠なもの』となってしまっているからなのだ、と端的に答えるだろう。これこそ彼らの動機を説明する唯一の的確な解答であるとともに、事業のために人間が存在し、その逆でない、というその生活態度が、[個人の幸福の立場からみると] まったく非合理的だということを明白に物語っている。」(Archiv 54/RS・30/訳79-80頁。()は引用者挿入、[ ] は改定時(1920年)の加筆)。
 この引用を問答形式に書き直してみよう。
「なぜ楽しむことを知らずにそんなに休みなく働いているのです?」
「子どもたちに財産を残すためですよ。」
「でもそれは昔の人たちでも考えたことですよ。でも彼らはずいぶんのんびりと生活を楽しんでいきていました。決してあなたのようにあくせくと働いてはいませんでしたよ。」
「ええ、なるほどそうですね。」
「じゃ、なぜそんなに働くのですか。」
「まあ、働かずにはいられない、働いて事業を続けることが生活の不可欠なものになっているとでもいうですかね。」
「それじゃ、あなたという人間のために事業があるのではなく、事業のためにあなたは存在する、というわけですね。」
「まあ、そういうことになりますかね。」

 私たちがすっかりなじんでいる(同化している)ものを奇妙でよそよそしいものものに変えることで、それをはっきりと見えるものにすること、こうした技法を、芸術論では「異化」と言います。ヴェーバーはいわばこの「異化」の手法を用いて、日常当たり前に仕事に精出す資本家のあり方が、「人間のために事業があるのでなく、事業のために人間がいる」というきわめて倒錯したものであることをあばきたてるのです。
 日常のきわめて当たり前で理にかなったと思われる生活に潜む倒錯(非合理)。それをかぎ当てるヴェーバーの視点は特異なものだ。この視点をヴェーバーが得たのは、じつは彼自身が禁欲的な学者として勤勉に励んだあげくに精神的に疲れ果てはらゆる社会的地位を失うという経験をしたからにほかならないのです 。 
 この論文はこうした資本主義の精神に慣れっこになりそれに浸りきっている人びと、すなわち現代の私たちの倒錯した生活のあり方がどのように生まれたかを説明しようとする論文なのです。

(2)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」あらすじ                            
 第1章 問題の提示
 第1節 信仰と社会階層
統計をみると、資本主義に参加することと、プロテスタント(新教徒)であることとの間にプラスの相関関係があります。この関係に対して、一般的にはつぎのような説明が考えられます。(1)経済発展が改宗を引き起こした、(2)少数派は経済に専念する、(3)プロテスタントは世俗的だから、(4)営利活動の反動で宗教に向かった。しかしこれらの説明に対しては、(1)むしろ宗教性が経済志向を決定しがち、(2)ドイツではカトリックの方が少数派、(3)プロテスタントはむしろ非世俗的だった、(4)プロテスタントでは事業と信仰が仲良く同居していた、という反論が成立します。そこでむしろ、一見水と油のようにみえる、資本主義参加とプロテスタントであることが、じつは「親和的関係」(相性のいい関係)にあり、プロテスタンティズム(新教)から資本主義への参加、がじつは説明できるのではないか、と考えられます。それをこれから考察していくことにします。

 第2節 資本主義の「精神」
まず「資本主義の精神」を体現している思想として、フランクリンの思想を取り上げます。そこにみられる精神は、営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなすような精神です。この精神はフッガーのような単なる金銭欲とはちがう、ある種の倫理性をもっています。
 この「資本主義精神」は、これまでどうり生きていければ良いする「伝統主義」とは対立します。ゾンバルトは経済の基調を、(1)「欲求充足」と(2)「営利」とに分けています。しかし営利活動が伝統主義によって営まれていることもあります。ですから「資本主義精神」は経営組織のあり方から自然に生まれるものではないのです。むしろこの精神が入り込むと、(私の叔父の例にみられるように)経営組織の形態が同じでも、劇的な変化がもたらされます。
 この精神はよく問うとみると、じつはきわめて倒錯的で非合理的です。けっして世俗的な目的を追求する合理性からうまれたのとは思えません。ではこの、営利活動を倫理的義務、すなわち「天職Beruf」とみなすような思想はどこにその源泉をもつのでしょうか。

 第3節 ルッターの天職概念
営利活動での資本増大を「天職」とみなすこの思想は、世俗の労働を「天職Beruf」と訳したルッターの宗教改革の精神に由来します。つまり彼は修道僧にしか通用しなかった「天職」の論理を世俗の仕事に適用したのです。しかし世俗労働を「天職」とみなすだけでは、「資本主義の精神」がもつ、資本の増大をたえず求める、あの駆り立てられるような心のありかたは生まれてきません。絶え間ない資本の増大へひとびとを駆り立てた起動力(Antireb)はどこにあったのかを知るために、プロテスタンティズムの禁欲思想にわけいることにしましょう。

 第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
 第1節 世俗内的禁欲の宗教的基盤
禁欲的プロテスタンティズムの、主な担い手は、(1)カルヴィニズム、(2)敬虔派、(3)メソジスト派、(4)再洗礼派系の教派、に分けられます。
 とりわけ(1)カルヴィニズムの「予定説」、すなわち、人は救いと滅びのどちらかに予定されており、それは変更不可能であるという教えは、決定的な影響力をもちました。ピューリタン革命時のイギリスでまとめられた「ウェストミンスター信仰告白」にはこの教えが明記されていることからも、この教えが一般信者にとっても周知の教えだったことは明らかです。自信のない一般の信者が、救いに予定されていることの「証し」を求めるのは無理もないことでした。ルッターは世俗の労働も神から与えられた「天職」とみなしてよいとしていました。ですから修道院でおこなわれた合理的な禁欲的主義で世俗の労働を行うことが可能になっていました。カルヴァン派の人々はこの合理的・禁欲的な世俗の労働で「神の栄光」を増大させることに「救いの証し」を見いだそうとしました。
 こうした傾向は(2)敬虔派、(3)メソジスト派でも同様でした。ただ両派では感情的側面が強く、その分だけ合理的な禁欲が弱まっています。
 (4)再洗礼派系の教派の教義はこれとはちがいます。彼らは心正しき者だけから構成された「教会」を作り上げようとしました。心正しさは精霊がその者に宿ることで証明されます。ですから精霊が宿るのを妨げるような、人間の本能的で非合理的なものを克服しようとしました。その結果、合理的な禁欲主義をめざすことになったのです。
 こうしていずれの宗派の信徒も、神に召命された者であることの証しをもとめて、合理的で禁欲的な世俗労働へと駆り立てられたのです。

 第2節 禁欲と資本主義精神
プロテスタントでは牧師が信徒の相談にのり指導することを「司牧」(Seelsorge)といいます。ここでは、この司牧の活動からうまれた神学書、とくにバクスターの書いたものをとりあげます。この司牧(魂のみとり)は宗教的な教えが日常生活へ影響する際の仲立ちの役割をしているからです。
 プロテスタント、とくにカルヴェン派、の司牧では、「救いの証し」とされる「神の栄光」の増大は、有益な職業労働から生まれるとされました。そしてその職業の有益さは、結局、その職業がもたらす「収益性」(どれだけ儲かるか)で測かることができるとされるようになりました。しかも楽しみ事は徹底的に否定されました。その結果、儲けても、楽しみに使わず、さらに営利活動に投資してどんどん利潤を追求していくことが宗教的に奨励されたのです。しかもそうした経営者のもとには、仕事を「天職」とみなして必死になってはたらく勤勉な労働者さえも与えられたのです。
 しかし富が増大するにつれて宗教心はうすれていきます。その結果、フランクリンにみられた、倫理的ではあるが宗教色の消えた「資本主義の精神」、つまり営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなす精神が生まれたのでした。
 こうしてつぎのことがあきらかにされました。すなわち、資本主義を構成する要素のひとつである、「天職」という考えのうえにたつ合理的な生活態度は、ルッターの「天職Beruf」という考えを前提にしてプロテスタント(新教徒)がみずからの「救いの証し」を合理的な禁欲で追求したことから、もたらされたのです。
 しかし現代においては資本主義はすでに自律的な自動運動をしており、もはやそれを生み出した精神の支えを必要とはしていません。私たちは、生命のない機械と生きている機械(官僚制)の運動のただ中に、巻き込まれていくばかりなのです。

(3)内容の再整理
 さてこうして「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじをのべたわけですが、ここでもう一度この作品の内容を整理しなおしてみましょう。
 この著作はしばしば西洋的合理化を述べた作品であるかのごとく語られます。しかし内容を要約すると、解明はおもに経済的な側面に向けられていることがわかります。
 社会の主流である経済体制が、「欲求充足」の経済体制から「営利」中心の資本主義体制に移行する。その移行、あるいは転換はどのように起きたのか、それにたいする宗教の働きが問題とされています。
 「欲求充足」の経済に適合的なのは「伝統主義」とよばれる、これまで通りの生活ができればいいとする精神です。それに対して、「営利」活動が中心となった資本主義は、もちろん伝統主義によって営まれることはあるにせよ、やはりそれに適合的なのは営利を自己目的とした「資本主義の精神」です。
 しかしこの「資本主義の精神」はそれ以前の「伝統主義」からは生まれたとは考えられません。伝統主義が「今生きてあること」(dasein)を大切にするのに、「資本主義の精神」は現在を犠牲にして果てしない彼方にあるものへ向かって駆けていく、そうした倒錯した精神だからです。
 そうした精神の由来を、ヴェーバーは修道院の禁欲主義に求めます。世俗を離れ、ただ神のみを想い、厳しい労働によって自分たちばかりか俗人たちの救済を作り上げていた修道士の活動の論理。この論理はどのように世俗へともたらされたのでしょうか。
 神からの呼びかけによって与えられた使命としての職業(Beruf) はそれまで、聖職のみに限定されていました。ですから修道僧の禁欲もあくまでも世俗の外の修道院に限定されたままでした。
 しかしルッターが、世俗の一般の仕事も、神からのお召しによる「職業」であるとみなしたことで、この修道院だけにあった禁欲主義は世俗へともたらされました。ちょうどレールを切り替えることで電車が引き込まれてくるように、禁欲主義は世俗の労働に適用可能になりました。
 その意味で、ルッターはレールを切り替える人、つなわち「転轍手」であるわけです。
 しかし世俗の仕事が「職業=使命」とみなされるだけでは、あの追いたれられるような、強迫的な労働は生まれません。
 それをもたらしたのは、カルヴァン派の宗教カウンセリング(「魂のみとり」)でした。彼らの「魂のみとり」(司牧)では、業績とか収益が「救いの証し」であるとみなされました。その結果、自分が救いに予定されているか不安な平信徒は、「救いの証し」をもとめて、いまや聖職と同格の「職業」と見なされるようになった世俗的労働にまい進することになったのです。
 図にまとめると次のようになるでしょう。

修道院の禁欲--┐転轍
            ↓
伝統主義-→× 資本主義の精神   
∥        ∥ (適合)
欲求充足----→営利

 ルッターの転轍       :仕事を「職業=使命」とみなす
         「意味連関」:修道僧の禁欲的労働の論理が世俗労働をつかむ
 カルヴァン派の「魂のみとり」:収益を「救いの証し」とみなす 
         「感情連関」: 不安→証しの追求 心理的起動力が生まれる
 
ルッターの転轍により、世俗労働=「職業」とルッターがみなしたことにより、修道院の禁欲の論理が世俗の労働をつかみます。人々は日常の仕事を、神から与えられた、神の意にそった「使命」としてはげみます。つまりあたらしい意味の連なり(意味連関)が世俗の労働をとらえたのです。
 カルヴァン派の魂のみとりは、収益・業績=「救いの証し」とみなしました。不安にあえぐ人たちは「証し」を求めて仕事(職業)にまい進しました。こうして禁欲的な労働の心理的な機動力がうまれたのです。収益をあげても救われるわけではありません。しかし一般の信徒は心理的に収益をあげて安心したいと思ったです。つまりここでは目的-手段の連関があるのではなくて、不安から労働するという、心理的な連なり(感情連関)があるわけです。
 くり返しになりますが、ここでは二つの「解釈がえ」があったわけです。
 ルッターは日常的な労働が「転職」として解釈しなおしました。その結果、聖職者の世界と俗人の世界の区分の廃絶され、聖職者(修道士)の論理が俗界への侵入してきました。しかしそれだけでは社会資本主義へ転換するには不十分でした。
 カルヴァン派では収益・業績が「救いの証し」と解釈されました。その結果世俗的労働にまい進する心理的機動力が生まれました。そうして、伝統主義が支配していた経済は、資本主義が支配する経済システムへと移行したのです
 つまり、伝統主義と結合していた伝統主義的経済(単純再生産)を、宗教的な合理的禁欲思想が捉える。その帰結として、伝統主義的経済システムから資本主義的経済システムへの移行がうまれたのです。
 ここでは新しい社会科学のアプローチが生まれています。つまり行為をする人間がその行為をどのような意味づけをしているのか、その意味づけをちゃんと解釈し理解することで、その行為はどのように社会を作り上げていく、あるいは社会を変革していくのかを説明しようとするアプローチです。これがヴェーバーの「理解社会学」というものなのです。(ヴェーバーはとりわけ後者の社会変革の方に関心があったように思われます)。
 
 さてヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はプロテスタントの禁欲主義という、一見正反対のものから資本主義の精神が生まれたことを明らかにしました。それは彼の言い回しを使えばまさに「意図せざる結果」だったのです。ヴェーバーの発想は、資本主義を語る場合にも欲望や消費のだんだんに増大していくというような他の論者の発想とは異なります。いったんそれとは正反対の禁欲というものが張り込むことによって資本主義の発展は促進されたというのがヴェーバーの考えでした。ヴェーバーによれば近代とはこうした逆説的な逆転によってもたらされたのです。一見正反対なものがその発展をもたらす。惑星がいったん逆行してから順行していくようにヴェーバーのとらえる歴史発展は、ある傾向が順調に拡大発展していくのでなく、いわば逆説的な逆転が常にはらまれているのです。
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by takumi429 | 2010-12-15 01:59 | 社会学入門 | Comments(0)

4. 逆説としての近代 ヴェーバー(2)

補足:逆転の構図 言及された小説から
 その際この倒錯に至る逆説的な発展とでも言うべきものが、この著作で言及されている2つの小説を比較することでよく見えてます。
 この論文のなかではヴェーバーは、プロテスタントの精神をうまく表した小説としてヴァニアンの『天路歴程』(1678) という小説を挙げています。この小説は滅びに予定されている都市に住んでいることを知った信徒が救いを求めて遍歴を続け、さまざまな誘惑と困難を乗り越えて天国へと行くという話だ。途中、信徒は「正直」と言う名の者と知り合い、仲間となってともに天国へと向かう。 
 さてこの小説に関して、ヴェーバーはゴットフリート・ケラーという作家の「三人の櫛細工人」という小説を思い出すと言っています。
 ケラー(Gottfried Keller1819‐90)という作家はスイスのゲーテと呼ばれた作家です。。
「三人の櫛細工人」という小説はスイス人の生活をユーモアをこめて批判的に扱った短編集《ゼルトウィーラの人々》(第1巻1856,第2巻1874)に納められています。
 この小説ではあるごうつくばりの櫛細工の親方のもとにいる三人の櫛細工人たちのことを描いています。職人たちは動きが取れない冬が終わると、このごうつくばりの親方のもとを去って遍歴していくのが常でした。しかしここにきまじめな三人の職人が登場する。彼らは親方にこき使われてろくなものも食べされられなくてもただもうまじめに働き小金をため込んでいる。職人をこき使って儲け、図に乗ったあげくの果てに散財してしまった親方は三人に親方株を売ることを持ちかける。三人は親方株を買うために小金をもっている高慢なハイミスをめぐって争奪戦を演じる。結局だれが彼女をものにするか決めるために、町はずれから町の親方の家まで競争することになる。スタートの時にハイミスは勝ってほしくない職人をわざと誘惑して出遅れさせた。出遅れた職人はゴールに向かうより彼女をものにしてしまった方が早いことに気づき、そうする。それに気づきもせず先にスタートした二人はお互いに相手を引っ張ったりこづいたりあげくのはてに殴り合いながらゴールを通過してついには町はずれまで駆けていく。二人がゴールに気づかず去った後に、ハイミスをものにした職人が親方の家に勝利者として入っていった。敗者となった職人のひとりは首をつり、もうひとりは失踪。親方になった職人は女房の尻に敷かれた人生を送ることになった、そういう話です。
 ヴェーバーは『天路歴程』の巡礼者が二人して話しながら天国へと向かっていく箇所が、この「三人の櫛細工人」を思い起こさせると書いています。
 『天路歴程』では二人の巡礼者が協力しあって天国というゴールにたどり着きます。『天路歴程』の19世紀の版にはつぎのような双六の絵のようなものが付いています。巡礼は渦巻きになって、最後は中心の天国で上がりとなります。
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「三人の櫛細工人」ではどうでしょうか。二人の職人は町の中心の親方の家を目指しています。しかしお互い妨害しながら進んでいったために、ゴールを通り過ぎてしまい、町はずれまで行ってしまうのです。
 こうしてみるとこの二つの話が、まるで写真のポジとネガのような関係になっていることが分かります。『天路歴程』では宗教心にみちた二人が語り合って中心に向かっていくのに対して、「三人の櫛細工人」では目的、それも本当の目的から離れ手段を目的と勘違いした目的をめざして、互いに足を引っ張り合いながら駆けていく。
 『天路歴程』から「三人の櫛細工人」への転換。それはどうして起こったのか。この逆転を説明することにこの作品はじつはなっているのです。

2.非合理による合理化
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でヴェーバーは資本主義を構成する資本家と労働者の成立を語りました。しかし資本主義が支配的となった近代の社会生活全般を明らにしたわけではありません。それをどのようにヴェーバーはとらえたのでしょうか。
 
(1)使用価値と交換価値
近代生活全般をヴェーバーがとらえる時にヒントになったと思われるのは、私見によればまたしてもマルクスです。
 マルクスは商品交換が全般的になるにつれて、個々人にとってのものの価値、すなわち「使用価値」ではなく、そのものがどれくらいの金額で交換されるかという「交換価値」が品物の価値を決定するようになると言いました。すなわち個々人の価値(使用価値)とは別の価値(交換価値)の体系ができあがっており、その価値(交換価値)の体系があることで市場経済が成立しているのです。
 個人の観点からみたら、交換価値というのは、時には「理にあわない」(不合理)もののこともあります。例えば、先祖代々大事にしてきた掛け軸が、二束三文の値段しかつかないこともあります。農地改革 の時にただ同然で手に入れた土地が都市化で急に億の値段がつくこともあります。
 このように個々人や個々の場合から見ると「理に合わない」、「ぴったりしない」けれどもそれがあることでさまざまな処理ができるような体系として法律の体系があります。
Aさんが人を殺したのとBさんが人を殺したのとは、もちろん別の事柄です。それぞれ別の事情があるでしょう。個人の側からみると事情をよく吟味して罰するべきでしょう。いわば「大岡裁き」というのがそれです。でもそれは、Aさんの時は無罪放免、Bさんの時は磔獄門という結果を招きかねません。このようにいつもその事情ごとに罰し方が違っていたら、なんら規則や決まりというものが作れなくなってしまい、社会生活というものはずいぶん不安定なものになってしまうでしょう。ひとまずどちらも「殺人」という名でくくり、その罰則の幅を決めておいて、そのうえで事情を考慮するというのが、近代の法体系のあり方です。
 同じようにAさんとBさんが別れるのと、CさんとDさんが別れのとは、もちろん別の事柄です。しかしひとまず「離婚」という言葉でくくってそれから対応するのが法律のやり方です。(かつて『クレーマー・クレーマー』という離婚をあつかった映画がありました。圧巻は法廷の論争シーンでした。夫婦の個人的な悩みや問題が法律の「言葉」で表現されるとき、まるで身を切られるような残酷さを持っているのをそれはみごとに表していました)。
 掛け軸を持っているのと、金の延べ棒を持っているのとは同じではありません。しかしどちらも「所有」という見方でくくることでその権利を保障しているからこそ、人びとは安心して売買(交換)ができるのです。持っているものによって急に取り上げられてしまうようになったら不安で売買なんかできません。
 法律の体系は、社会のさまざま事柄を、法律の言葉でくくり、それを処理する体系です。
貨幣(交換価値)の体系も法律の体系も、個々の、本来ならば「同じ」とはみなすことのできない物事を、「同じ」とみなしくくることで、機能しているのです。
 ヴェーバーは、個々の事例にふさわしい「合理性」を「実質合理性」とよび、個々の事例を共通なものとして形式的にくくるような合理性を「形式合理性」とよびました。

(2)「音楽社会学」
この問題を集中的にヴェーバーが考察したのは、「音楽社会学」という論文です。
この論文は題名から想像されるような、音楽と社会の関係をあつかった論文ではありません。この論文では一貫して、音階の比例分割、つまり有理数(合理数)による分割という問題があつかわれています。
 もともと音楽は数学や天文学と同列の学問だとされてきました。それは音階というものが有理数(分数)で作られるからです。(たとえば、一つの弦を1/2にすると1オクターブ音が高くなり、2/3にすると、ドの音がソの音の高さになるのです)。
 ところがどの音から分数によって音階を作っていくかによって、じつは音階は微妙にずれてきます。出発点の音によって音階は本当はその度ごとに作り直さなくてはいけなくなります。弦楽器や管楽器ならばそれは微調整できます。しかしオルガンやピアノやギターなど音が固定された楽器ではそうはいかなくなります。転調のごとに別の楽器を使うわけにもいきません。(ピアノやギターがふつうオーケストラに入っていないのはおそらくそれが理由でしょう)。
 この問題を、西洋ではオクターブを一二等分することで解決しました。だがその際、音階を分割するのは、もはや分数(有理数)ではなく、無理数なのです。これを「平均律音階」といいます。ピアノやオルガンなどはこの音律に調律されています。これによって自由な転調ができるようになりました。つまりハ長調のラの音はヘ長調のレの音と同じとされるようになったのです。だがその結果、平均律音階の音はどれも、本来の有理数による音階から少しずつずれているのです。
 「有理数」(分数 a rational number)というのは直訳すれば「合理的な数」のことです。それに対して「無理数」(an irrational number) 、つまり「非合理な数」です。つまり西洋の音階は、無理数(非合理数)で音階を分割するという、「非合理性」の導入によって成立したのです。

(3)形式合理性の世界
 その本来の問題解決からみたら「非合理」と思えるものを導入することで西洋の「合理性」は成立し、各領 域は自律的(合理的)体系をなしているのです。たとえば貨幣の体系は、個々の「使用価値」を無視しそれからみたら「理に合わない」、「交換価値」の自律的体系としてたち現れています。また法体系は、個々の実状をいったん捨象することでその実律的、形式的かつ普遍的な体系となっています。たとえAの殺人とBの殺人は個別的なことなのに、ひとまず「殺人」としてくくります。それぞれに実状にあわせて裁判することを「カーディー裁判」といいます。しかしそれでは場合によって判決が違ってきて、計算(予測)可能性がなくなり、資本主義的経営がなりたたなくなります。
 おそらくマルクスの「使用価値」と「交換価値」に対応するものとして、ヴェーバーは「実質合理性」と「形式合理性」という言葉をつくりあげたと思われます。この合理性の体系でもっとも重要なのは、貨幣体系と法体系です。しかしそのほかの領域もそれぞれに自律的に(つまり他の領域や人間本来の目的からの合理性を無視して)展開され完結しているとヴェーバーはみていたようです。
 非合理性を媒介にして形式合理のさまざまな体系が自律的に展開する、それがヴェーバーの近代観です。そうしたばらばらになったさまざまな領域の体系のなかにあって、その分裂を一手に引き受けまとめ上げるべきものとされるのが、個々人の「人格」なのです。
 禁欲的に自分の幸福からみると非合理に過ぎない労働に邁進する近代人は、同時に分裂した近代にあって統合をめざす唯一の拠点として緊張にさらされているのです。
 宗教的禁欲主義が世俗的な資本主義を生み出し、非合理を媒介にして自律的形式的に合理化した諸領域が発展していく。ヴェーバーの近代とはこうした逆説的な発展が生み出したものにほかならないのです。
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by takumi429 | 2010-12-14 01:59 | 社会学入門 | Comments(0)

欲望の装置としての館

欲望の装置としての館

『ゴリオ爺さん』:ゾラが手本としたバルザックの『人間喜劇』の中の名編
主人公は南フランスからパリに上ってきたラスティニャック。
舞台はラステニヤックの下宿であるヴォケール荘に集中。
まさないバルザックはお芝居を手本にして小説を書いていた。
だから小説の冒頭に、舞台装置と登場人物の描写が延々続き、その後と小説の舞台場面は1つになる。
篠沢秀夫によれば、バルザックは古典悲劇を手本に小説を書いていた。

ゾラ『ごった煮』
主人公:成功を夢見てパリへ上京してきた青年オクターヴ・ムーレ
舞台はオスマン様式のアパート
ゾラは『ゴリオ爺さん』を手本にして、あえて小説の舞台をこのアパートに集中させる。たとえばオクターヴの不倫相手ベルトの夫のオーギュストの店をこのアパートの1階に設定して、小説の舞台をアパートに集中させている。

オスマン様式アパートでは以前のパリのアパートのように、階ごとに階層がはっきりとちがう、ということはすでにない。貧しい階層はすでにオスマン化(都市整備)で「パリのシベリア」(パリの北東部)に追いやられてしまっているから。
しかし、屋根裏部屋に女中が住んでおり、また台所や便所がアパートの内庭に面した端に追いやられている。だから表面的なきれいさとは対照的に「オスマン様式のアパートは臭い」(ロジェ=アンリ・ゲラン著 『トイレの文化史』ちくま学芸文庫)

ブルジョワ達が住む、一見、立派ですまして見えるこのアパートも、実はその内実は色と金への欲望でどろどろになっている。
女中達は内庭にゴミを捨てながら、それぞれの家庭の不倫・吝嗇・諍いごとの情報を洗いざらいぶちまけている。
きれいに見えるのは外側だけ、そのはらわたは腐りきっている、というわけだ。
ゴリオ爺さんに相当するのはガラス会社の実直な会計係ジェスランで、彼は娘の不倫騒動のあげくに死ぬ。
しかし、じつはその彼も、女中アデールと関係しており、アデールは密かに出産して、赤ん坊を新聞紙に包んで街角に捨ててくる。同じ時、サロンでは嬰児殺しをけしからんとブルジョワ達がほざいている。

ここでは舞台装置であるアパートは、欲望の館(装置)となっている。ここで女達を手玉に取り、この欲望の館を支配するのが主人公オクターブである。
さらに彼は、次の『ボヌール・デ・ダーム(婦人の幸せ)百貨店』で、百貨店という欲望の館(装置)の支配者となって、女達の欲望を操るのある。
工兵あがりのイタリア人技師を父にもつゾラは、絶えずこうした装置(メカニズム)に注目する。『ゴリオ爺さん』では舞台装置だったアパートは、『ごった煮』では欲望の装置となり、『ボヌール・デ・ダーム(婦人の幸せ)百貨店』では、「欲望の喚起装置」(鹿島茂)となるのである。
ゾラはこうした人々の欲望を喚起し巻き込む装置として、株式市場、鉄道、市場、炭坑、居酒屋、デパート、戦争など描いていく。バルザックでは舞台装置だったものが、それを手本にルーゴンマッカール叢書を書いたゾラにおいては、欲望の装置へと変貌しているのだ。
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by takumi429 | 2010-12-01 20:45 | ゾラ講義 | Comments(0)

自由間接話法

自由間接話法

直接話法:登場人物の発言・独白をそのまま、「」で括って書く。
Before her body, he said (to himself),“I am a fool!”
彼女の死体の前で、彼は(自分に)言った、「おれはバカだ!」

間接話法:登場人物の発言・独白の内容を、that(que)節で括って書く。
Before her body, he said that he was a fool.
彼女の死体の前で、彼は自分はバカだと(自分に)言った。

自由間接話法:「」
Before her body; he was a fool!
彼女の死体の前で。おれはばかだ。

ゾラの師ともいえるフローベルが多用した。
括りがなくなって、地の文のなかへ、思いが溶け込んでいく。

語り手を意識させない客観的な書き方の地の文章の中に、
登場人物の思いを展開していく。

例:萩尾望都『バルバラ異界』
吹き出しつきの言葉と、吹き出しなしの言葉
地の文の語りに登場人物の思いが重なって同一化される。

ゾラも多用。
『獣人』の中での使用例。
寺田光徳「ゾラ『獣人』における自由間接話法とポリフォニー」(熊本大学文学部論叢, 90(文学篇): 1-25-1-25)
『獣人』最後の使用例:
「機械の全能性を示しながら、こうした葛藤や犯罪には無視を決め込み、列車は無関心に、無情に走り抜けていった。見知らぬ人々が途中で倒れ、車輪の下でひき殺されるのがどうしたというのだ。」
機械(機関車)が思いを語る。←自由間接話法の技法の行き着く先

ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』での自由間接話法(抽出話法)の多用。
登場人物の「意識の流れ」が小説の地の文をつくっていく。
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by takumi429 | 2010-12-01 20:13 | ゾラ講義 | Comments(0)