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15.今敏『千年女優』(2001)

引退した藤原千代子(原節子がモデルか)を訪ね、彼女の映画人生を回想し、彼女が少女期に会った活動家の画家の幻をずっと追い求めてきたことを、彼女の出演作を回想・再現しつつ、描く。
日本がハリウッドに対抗できるのはアニメだけだとの確信を持っていた今敏の傑作アニメ映画。
繰り返し主人公が走るシーンがでてくるが、それは思う人のもとへと駆けていこうする千代子の生き様である。
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今敏のあまりに早い死がほんとうに惜しまれる。
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by takumi429 | 2012-01-15 01:59 | アニメ論 | Comments(0)

14.『時をかける少女』

『時をかける少女』 2006年
監督:細田守
原作:筒井康隆
脚本:奥寺佐渡子
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原作は短編。
アニメ作品はほとんどオリジナルな作品。
物語はほぼべつもの。
しかし設定(タイム・リープする女子高生、二人の男友達)は共通。
つまり物語世界を共有した、物語のべつのバージョン(変種)といえる。
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原作では少女(和子)は、時間跳躍と空間移動をする能力を、理科実験室でたまたま嗅いだ薬のよって得た。
二重存在の矛盾(過去に移動したらなもう一人の自分がいるはず)は解決されていたとされている(角川文庫77頁)(どう解決したかは述べてない)。
それに対して、アニメではこの二重存在の矛盾は問題になっていない。なぜなら、ここでのタイム・リープは、過去のある時点まで、時間の系をさかのぼり、そこからべつの時間の流れをつくる、つまり、別の時間の流れ(系)をつなげることがタイム・リープだから。
これはいわば、映画のフィルムをさかのぼって、その時点でフィルムを切って、つまり別のフィルムをつなげるという、映画(アニメ)の編集作業と同じ、時間のとらえ方なのだ。
時間はそこで二またになる。三叉路の標識の場所に何度も戻るのはこのパラレルな可能な時間系を示している。
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主人公真琴がバージョン2であるなら、主人公のおば(和子)がじつはバージョン1であることがわかる。
おばが高校時代の話をしているときに出てくる写真には、男子2人のはさまれた女子1人であるおばが写っている。筒井康隆の原作主人公の名前は「和子」である。つまり、原作の主人公は、おば和子であり、このアニメはそのめい真琴によるバージョン2なのである。

技術的には、イフェクトをつかって影をつけていないにもかかわらず、奥行きがあるように見えるのは、アニメーターの技術が高いから。とくにキャッチボールをするときの体の動きはみごと。
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繰り返されるモチーフ
キャッチボール:男女を意識する直前の少年・少女の心の通い合い。つみのない三角関係。
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三叉路のシーン:ある時点から、可能な時間がいくつも分岐していることをしめす。(映画的な時間系)。
土手のシーン:右から左へと人が移動。時間の流れ(時間直線)。
いったん時間直線を左(未来)に消えた千昭が、泣く真琴の元に戻ってきて「未来で待ってる」とささやき、真琴が「すぐ行く、走っていく」と答える。未来から過去につかの間やってきて真琴と恋をして去っていく千昭がこのワンシーンで集約されている。
平行関係:おば和子とめい真琴。おば和子が別れた相手とは会えないように、真琴も千昭とは二度と会えないだろう。しかし、千昭が見たかった絵(和子が修復)を、真琴は、千昭のいる未来へととどけるであろう。未来にもどった千昭が絵を探し行くと、その絵は存在し、その絵が真琴の努力によって消失を免れたことを知ることになるだろう。(ちなみに、真琴がおば和子を訪問した時に、絵が修復中であることの張り紙がある博物館のなかを、実は千昭のと思われる人物があるいているのが、後ろ姿が出てくる)。

なんといっても見事な脚本(オリジナル作品といっていい)。
脚本はきわめて自然な高校生の会話をとらえている(ようにおじさんには聞こえる)。
声優も登場人物の設定年歳とあまり年齢の変わらない仲里依紗、石田卓也らの起用が成功している。
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by takumi429 | 2012-01-14 01:30 | アニメ論 | Comments(3)

13.『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』

原恵一 監督『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』
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背景動画 普段は動かない背景を動かす手法
塔の階段を転げながら上るクレヨンしんちゃん
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背景が動く=背景が主役になる=時代背景がテーマとなる。
20世紀の行動成長期の昭和の時代が主役となる。
時代は動く、背景は動かない。ならば背景のように動かない時代があるならどうか。
静止した輝かしい時代、それへのノスタルジーに浸りきるオトナ。
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子供帰りした父親(パパ)の、足のくさいにおいで、正気にもどすクレヨンしんちゃん。
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高校時代の淡い恋い、失恋、上京、新米社員としての奮闘、働くお父さん、つつましい家族の団らん。
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記憶をよみがえらすことで、父であることを再びひきうけるパパ。
(それにしてもこのパパの回想シーンはなんてすばらしいんだろう。涙なしでは見ることができない)。
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by takumi429 | 2012-01-14 00:56 | アニメ論 | Comments(0)

おすすめの教科書

Anthony Giddens, Sociology
Atkinson & Hilgard's Introduction to Psychology
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by takumi429 | 2012-01-07 17:12 | 教科書・参考書 | Comments(0)

12庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』

物語論でいう「内的焦点化」とは
語り手は作中人物が知っていること以上のことを語らない。
レイアウトシステムは、たとえば、遠景・近景の移動指定をしたりするが、これは、限定された主人公の視点から風景(世界)を描くことになる。
こうした主人公からは見えない(背後)世界の構築をして、その世界を主人公の限定された視点からえがいているのが、 『機動戦士ガンダム』である。
さてこうした(背後)世界構築しきれない場合はどのなるのだろうか。
その典型例が『新世紀エヴァンゲリオン』であるように思われる。この作品では世界構築の破綻を、主人公の内的世界の投影としての「世界」として解決しているようにおもわれる。こうした内的世界の投影としての「世界」として物語世界の構築をかたづける一群のアニメが「セカイ系」と呼ばれる。
このセカイ系のアニメ、とりわけ「エバンゲリオン」と
自閉的で内的世界が肥大化したオタク世代との間には、過剰なシンクロが生まれた。
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歌舞伎の暫く
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by takumi429 | 2012-01-06 09:37 | アニメ論 | Comments(0)

11,押井守『攻殻機動隊』

押井守『METHODS 機動警察パトレイバー2 演出ノート』 より引用。
「一編の映画を構成するカットの中には、ストーリーの展開に全く貢献しないカットも必要です。それどころか、敢えて言うなら、「物語そのものを疎外し、異化するための意味不明なカットやシークエンスや設定」もまた必要となります。
 すべてのカットが〈物語〉を構成する部分として必要十分にその機能を果たし、かつ緊密な計算のもとに並べられているとすれば、それは演出家にとって理想といえるフィルムかもしれませんが、映画を構成するあらゆる要素が、ただ物語を実現するためだけに機能するのであれば、映画は所詮「物語の器」であるに過ぎないことになります。
 実際には映画は見られることで様々な解釈を海、演出家の思惑を越えた〈映画〉として体験されます。そしてそれこそが〈映画〉という自由で若い形式の特筆すべき長所であり、そして可能性でもあるのです。映画の演出という作業を、その最も本質的な部分まで射程に入れて考えるならば、こうした演出の限界はそのまま演出の可能性でもあります。
 映画は一般にどんな単純な作品でもこの種の読替の余地を残すものであり、量産による作品構造の単純化や撮影時の偶然、俳優との出会いなど〈偶然〉の介入によって、アクション映画が奇妙に普遍的な世界観を実現するような、そんな幸福な瞬間に出会うことがあります。一方でアニメは一般に実写作品に較べて情報量が圧倒的に少なく、(それゆえに表現や構造をコントロールしやすいというというメリットもあるのですが)この種の〈偶然〉と遭遇することは稀です。量産されるTVシリーズに較べて、謂わば一回勝負である映画作品の場合は特に〈偶然〉を孕みにくく、これがアニメ作品が同じ映画の構造を持ちながら、「所詮は漫画」であり、「底が浅い」という印象をもたらす原因のひとつになっています。
 実写作品がカットそれ自体の持つ情報量(意図せざるものをも含む)によって、易々と実現してみせながら、アニメ作品では常に欠如しているもの、それが世界観の基礎でありバックグラウンドでもある“世界の奥行”に、映画の現実(世界)にも必要十分以外の要素、不確定な情報=ノイズが必要なのです。そしてこのノイズこそが「意図したものしか描けない」アニメのもっとも苦手な描写であることは明らかです。アニメ作品の映像は原理的に二次映像そのものであり、現実を機械的に写し取る実写映像に較べて初めから抽象度が高く、明確な意図と方法なしには現実を繋ぎ止めておくことの困難な“記号”に過ぎません。ことが単に情報量の問題だけでないことは、情報量そのものをいくら上げても、それが意図された情報に過ぎないという限界からも明らかであり、作画された映像はどこまでいっても“ノイズ”を発生させることはできません。
 アニメがアニメであることの限界を抱えつつ、世界の奥行きを実現して〈映画〉に到達する方法とは何か?
 その試みが〔鳥のいる風景〕です。「P2」に登場する鳥たちにはどのような象徴的な意味もありません。強いて言うなら、それはこの作品で描かれた「世界」と「物語」に混入されたノイズであり、記号の体系を掻き乱すための異質な記号そのものに他なりません。本編の外側にあって物語りをアウトレンジし、作品を自律的に完結させようと目論む演出家の意図を長距離から射程に納め、射程に入れるそのことだけでこうとなる厄介な長距離砲。
 それがつまり“鳥”なのです。
 鳥をあちこちに出没させる作業にとって、レイアウトという工程が格好であることは言うまでもありません。

レンズの選択Lens
アニメのレイアウトは、画角や奥行(パース)、光源の設定など、幾つかのようそによって構成されますが、〝レンズの選択〟もまた最終的な画面を構成する上で重要な様相となります。
ワイドレンズの特有な画角の広さ、画面の歪みや奥行感の誇張、あるいは長焦点レンズ特有の〝立ち上がり〟やフォーカス震度などレンズの持つ光学的な特性を作画によって表現するという手法は、撮影の技法である〝段マルチ〟同様に、実写の映像感覚をアニメに持ち込むものであり、フレーム外投射光やレンズのゴーストなど、様々な演出上の試みの延長線上にあります。
アニメで実写映像を再現することにどんな意味があるのか?
それを考えることは、実はそのままアニメ映像の〝根拠〟について考えることでもあります。簡潔に言うなら、正統な〈アニメーション〉から派生した劇映画としての〈アニメ〉の映像は、その演出的基準を映画ではなく、むしろ実写映像の記憶に依存しており、そして(これが重要なのですが)実写映像そのものもまた、原理的にはレンズという物理的(光学的な)特性に依存しているだsけであって、決して美学的な概念や規範から生み出されたわけではないということです。人間の脳を介在させ、画布とイメージを直結してみせる絵画との決定的な違いがここにあります。一見すると、アニメーターが原動画を作成する姿は、絵画の制作過程に酷似して見えますし、作画作業の時点では同じ構造が存在するのですが、その本質は大きく異なります。アニメの作画はなによりもまず〝工程〟なのであり、それ自体で完結するものではありません。アニメの制作過程は全て最終画面から逆算され、必要とされる要素を積み重ねていくプロセスとして理解されるべきで、個々の作業の現場で実感(直感)される〝本質〟は、謂わばその局面に過ぎません。
こうした考え方は〝正統なアニメーション〟をもって任じる人々には受け入れ難いかもしれませんが、「広義の映画としてのアニメーション」さらには「特殊な劇映画の形式としての〈アニメ〉」という立場からは、ごく自然なものにすぎません。現在のアニメは作画は勿論のこと、CGやビデオワーク等、あらゆる映像の技術を駆使して制作されるものであり、この傾向はかつて映画が音声や色彩を導入した歴史と同じく、決して押し留めることができないものです。「可能な技術はそれがなんであれ必ず導入し、人間の脳裏に宿った映像は全てこれを実現する」ことが映画の取り敢えずの本質であり、映画の欲望そのものといっても過言ではありません。世界的にも類をみない〝特殊な劇映画の形式である日本のアニメ〟は、限られた制作環境のなかでこの欲望を実践しているのであって、そのかぎりにおいて、現在の映画の動向の先端に位置するものです。〝映画の欲望〟そのものの是非について---それはここでは語り尽くせない問題であうが、演出家(監督)が考えるべき最終的な課題であることは間違いありません。

奥行きの演出Perspective 解放空間-閉鎖空間
映画空間という言葉はあくまでも概念に過ぎず、スクリーンに映された空間はどこまでいっても平面に過ぎません。実写映画はその平面内にフォーカスというレベルを持ち込み、情報量の粗密によって、ごく自然に擬似的な奥行感を成立させていますが、(特殊な技法を除いて)線と面の表現でしかないアニメはただレイアウト上の工夫によってこれを獲得するしかありません。勿論、全てのアニメ作品が奥行感を必要とする訳ではありませんが、平面的構成を基調とする古典的、もしくは芸術的な〈アニメーション〉でなく、劇映画としての〈アニメ〉を目指すなら、これは避けて通ることのできない課題となります。レイアウトの目標、その努力の大半はじつはこの「奥行の演出」に向けられていると言っても過言ではありません。」

『攻殻機動隊』
モチーフ:物語の中心的なテーマにかかわる繰り返し。
ネット世界へのダイブ(飛び込み)
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by takumi429 | 2012-01-06 09:36 | アニメ論 | Comments(0)

10.宮崎駿『風の谷のナウシカ』

宮崎アニメにおけるグロテスクなるもの
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宮崎アニメほどグロテスクなものをたくみに取り込んでいるアニメはないのではないだろうか

高畑勲があくまでの原作をふくらまして物語りを作るのに対して、
宮崎駿の物語はいつも一つの物語の亜流にすぎない。
それもウラジーミル・プロップの『昔話の形態学』にでてくる、
主人公が出かけていき戻ってきて救われる、という物語のさまざまなバリエーションにすぎない。
そのパターンは『未来少年コナン』で確立していて、
この『風の谷のナウシカ』も同じ話のパターンを繰り返しているにすぎない。
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by takumi429 | 2012-01-06 09:22 | アニメ論 | Comments(0)

9.笹川ひろし他『タイムボカンシリーズ ヤッターマン』

日本アニメでは絵の節約のために止め絵が多用される。
観客がそれをあまり異質なもとの感じないのは、
歌舞伎の見得を切るときのスローやストップモーションになれているからである。
『水戸黄門』や『東山の金さん』のようなマンネリな時代劇は、
じつは、見得のポーズがきまっている。
「この印籠の紋所が目に入らぬか。ここにおわすは先の副将軍、水戸光圀公なるぞ」、
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「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」
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その見得へと話を落とし込むために話がワンパターンになるのである。
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(お約束の由美かおるの入浴シーン)

止め絵を多用するアニメも、だから、決めのポーズへと落とし込む、ワンパターンなマンネリな話がなんども再現されることになる(べつに批判するつもりはない、個人的にはヤッターマンのマンネリは大好きである)。
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by takumi429 | 2012-01-06 08:48 | アニメ論 | Comments(0)

8.AKIRA

大友克洋『AKIRA』1988年 同原作のマンガのアニメーション。
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1990年から海外でも公開され、日本のアニメーションへの海外の注目をもたらした。
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最終兵器による世界の破滅、超能力をもつ少年少女、軍隊としての自衛隊の描写など、その後のSF終末的なアニメの原型となっている。
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by takumi429 | 2012-01-06 08:24 | アニメ論 | Comments(0)