<   2012年 09月 ( 6 )   > この月の画像一覧

3.映画の構造

3.映画の物語世界がどのように構築されているか、まず具体的に

『パリ、ジュテーム』(Paris, je t'aime)(2006年)というオムニバス映画の、
モンマルトル(18区) Montmartre
監督:ブリュノ・ポダリデス/出演:ブリュノ・ポタリデス、フロランス・ミュレール
を見てみることにしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=EwOy9kfHZro

c0046749_153748100.jpg


まんぜんと見ていてもなかなか見えてこないものですから、問いをたててみることにしましょう。

まず次の問いに答えるよう、1回見てください。
問い1 主人公とヒロイン、この男女はこの後、どのようになるでしょうか。つぎのなか選びなさい。
①男は女性を医者に送っていって、それきりになる。
②男と女は恋人同士になる。
③男と女は結婚して子供をつくる。
④この映画だけからは何も言えない。

では次の問いに答えるよう、もう一度見てください。この問いに答えると、問い1の答えがわかってきます。

問い2
この映画ではちょっとおもしろい仕掛けがでてきます。それはなんですか。その仕掛けに映るものはなんですか。その仕掛けに映るものの前に見えたのは何ですか。それらはなぜその順番になっているのですか。

さらにもう一度見て、次の問いに答えてください。(これはむずかしい。私なりの解答を後で提示します。答えが不確定なのは、解釈がさまざまにあり得るからではなくて、私の読み(解釈)がまだ不十分だからにすぎません。みなさんのお力をお貸しください。じつは問い1も、以前見せた受講生の皆さんからの回答で気づいたものです)。問いはすべて、ある解釈へと導くようになっています。

問い3 自動車のなかに運ばれた女性は、なぜ「音楽を止めて」というのでしょうか。(あるいは監督はなぜ、そう言わせたのでしょうか。
問い4 主人公にとってこの車とは何なのでしょうか。(車は車だよ、という答えではだめです。あなたにとって、携帯とは何か、というのと同じ種類の問いだと思ってください)。
問い5 二人が話しだした後に、「チンチン」という音が鳴ります。これは何の音ですか。
問い6 車が走り出すと、以前、車内で流れていた音が、物語世界の外から流れてきて、映像全体をつつみます。これは何を意味するのでしょうか?
問い7 この映画の音に着目すると、この物語についてどんな事が言えますか。

私の回答は6行下を見てください。

なお、断片的なカットと写真を組み合わせて、音楽とナレーションをつけて、宝塚メディア図書館の習作CMを、仲間と作ったことがあります。参考までにアップしておきます。
http://www.youtube.com/watch?v=ZYyPI6v6Rus&feature=youtu.be

さて、私の回答
問い1 ③。①は「待つのはかまいません」という発言からありえない。あとの理由は問い2を見よ。
問い2 サイドミラーに女性が映らないので驚き車から出た。
車内から見えた通行人:①乳母車を押す母親、②妊婦、③恋人同士、④出会うことになる女性。
ミラーからは反対に映るわけだから、④→③→②→①の順になる。つまりこの出会いは二人が結婚して子供を作るというふうに進むことを暗示している。
問い3 ひとりぼっちの車をお気に入りの音楽で満たしている主人公に対して、その孤独に浸っていないで、私と話し合ってほしいという気持ちの表れ。
問い4 主人公の孤独な世界=車空間
問い5 モンマルトルの汽車の形をした観光バスの鳴らすベルの音。映画の最初にも、「道を空けてくれ」、という意味で鳴らしている。だが、そのときは主人公は駐車するのに必死でまったく聞こうともしなかった。
問い6 外の世界の音が、それまで閉じていた主人公の車の中に入り込んでくる。女性とであったことで、孤独な青年の外界との和解を感じさせる。

まだまだ、意味不明な所もあるけど、それはどのようにも解釈できるのではなくて、まだ私の解釈がゆきとどいていないだけのことです。より全体が明らかになり見えてくるような解釈(よりよい解釈)があったら教えてください。文化研究はよりよい解釈、より妥当する解釈を、厳密に(恣意的でなく)求めていく、まじめな厳格な学問です。文系学問を「好き勝手言っているだけ」と思っている人間は、単にものを知らない、それこそバカが好き勝手言っているだけのことです。
映画は、けっして「感じ」で作ったりはできません。全部、きちんと設計し計算して人や物やカメラを動かしカットを撮り、それをつなぎ合わせ、音をかぶせていきます。「感じ」ているだけでいいと思っているのは怠惰な鑑賞者だけです。
[PR]
by takumi429 | 2012-09-25 15:37 | メディア環境論 | Comments(0)

2.切り取りの美学(異化)

2. 切り取りの美学(異化)
カッセル ドクメンタ
c0046749_23342839.jpg

c0046749_23393396.jpg

Haus-Rucker-Co: Rahmenbau“, Friedrichsplatz, documenta 6 1977

源光庵
悟りの窓・迷いの窓
c0046749_23353146.jpg

圓光寺
c0046749_2335611.jpg

切り取られていないと単なる緑にしか見えない。
c0046749_23374994.jpg

南禅寺 大門
c0046749_23355390.jpg



なぜ、風景を切り取るとその美しさが際立つのか?

異化(同化の反意語)
ロシアフォルマリズムは、私たちはそこに日常文脈に埋没してなれっこになっている(同化した)ものを、その文脈から引きはがし、異形なものとして提示する(異化する)ことで、その美しさを、鑑賞者・読者に感受させるという、20世紀の美学を生み出した。劇作家ブレヒトがこの異化をつかって、観客にあらたな社会認識をうながそうとしました。
風景をそれがなじみとけ込んでいる周りから切り離すことで、その風景を正視させることができる。そのとき、その風景のもつ美しさが際立ってくる。
おなじように、日常の何気ない情景や場面を、日常から切り離すことで、その情景や場面のもつ意味が見えてくる。
写真や映画による、情景・場面の切り取りは、異化によって、その情景・場面の、慣れっこになっていることで見えなくなっていた意味に気づかせることができる。つまり、見ているけど意識されることのなかったもの(視覚的無意識)を意識化させることができるのです。

では、映画は具体的にどのように情景・場面を切り取り構成していくのか。それをみてみることにしましょう。
[PR]
by takumi429 | 2012-09-23 23:36 | メディア環境論 | Comments(0)

1.問題提起

1.問題提起
19世紀が「小説の世紀」だとしたら、20世紀は「映像の世紀」だったと言えるでしょう。写真と映画というメディアは、私たちを取り囲む、1つの環境となりました。ではこの複製可能なメディアはどのような論理を持ち、どのような思考の可能性を私たちに与えているのでしょうか。この講義では、写真と映画やその他の芸術を、ベンヤミンの複製芸術論を手がかりにして、横断的に取り扱いながらこの問題を考察していくことにしましょう。

講義予定

1.問題提起

2.ロシア・フォルマリズムの異化論

3.グリフィスの作品

4.ロシアにおけるモンタージュ理論

5. ベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品」

6.ナチスという「夢工場」

7.ボルタンスキーの作品

8.荒木経惟 『センチメンタルな旅・冬の旅』

9.ゼーバルト「記憶の遊歩者」

10.黒澤明『羅生門』、アラン・レネ『去年マリエンバードで』

11.クリス・マイケルの実験作『ラ・ジュテ』

12.ヒッチコック『めまい』、クリストファー・ノーラン『メメント』


13.萩尾望都 「グレンスミスの日記」『ポーの一族』

14.ジャンピエール・ジャネ『アメリ』

15.まとめ
[PR]
by takumi429 | 2012-09-23 23:32 | メディア環境論 | Comments(0)

0.2ユージン・スミス『水俣・トモコとお母さん』(イコノロジーの適用例として)

ユージン・スミス「水俣・トモコとお母さん」
c0046749_19355981.jpg

一見してわかることは、この写真が、聖母子像、を踏襲していることだ。
c0046749_19382560.jpg

だがマリアと幼子イエスの図像を踏襲しただけとするにはあまりに母親の顔は哀愁を帯びている。そこで鑑賞者は、死んだイエスを抱く哀悼(ピエタ)の像を思い起こす。
c0046749_19384557.jpg

その上で、この子供が母親の胎内の水銀をすべて負って生まれてきたおかげで、そのあとに生まれてきた子供が何の障害もなく生まれてきた。だからこの子は家の宝なのだ、とされていることを知る。つまりこの子は犠牲者となることで兄弟姉妹を救ったのだ。そう知ることで、公害をもたらした私たちの罪を負ってうまれてきたこの子供が、人類の罪を負って犠牲となることで人類を救済するイエスになぞらえられていることの意味を知ることになる。
西洋人なら常識として知っている図像的知識と、さらにこの水俣の家族の背景知識、によって、なぜこの写真がかくも感動的で荘厳なのかが、よりよく鑑賞者に理解されることになる。知識は偏見をもたらすどころか、写真のより深い理解をもたらすのだ。(写真の引用はhttp://photobra7.exblog.jp/i8 より。学術引用とします)。
[PR]
by takumi429 | 2012-09-23 19:36 | メディア環境論 | Comments(0)

0.1イコノロジー

図像学
西洋絵画では、絵は言葉であり、かならず、歴史・神話・聖書などの登場人物や物を意味するのが常であった。絵を見たときに、この絵はそうした物語の誰(何)にあたるのかを知らなければその絵の伝えようとすること(メッセージ)は理解できない。またそうした物語の人物や物の描き方にはそれにふさわしい様式があり、その様式を知らなくては、その様式をふまえつつもそれを超えて独自の創意工夫を盛り込もうとした作家の意図もわからない。こうした絵が何の絵であえい、どんなことを意味(象徴)しているのかを、記述・解釈する学問を図像学という。
たとえば、母親と赤ん坊が並んでいる絵があれば、それはほとんどが、聖母マリアと幼子イエス(聖母子像)を意味する。聖母子像には、(1)乳をあたえる聖母、(2)王座に座る聖母、(3)合掌する聖母、(4)書物を持つ聖母、(5)バラ園の聖母、などがあり、またその持ち物もオリーブ(平和の象徴)、星(マントにみられる)、エッサイの木などある(ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』)。そうした様式をふまえつつ、画家はその独自性を絵に盛り込む。
 エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)は、この図像学を、ひとつの文化研究の学に仕立て上げようとする。それが彼のいう「イコノロジー」である。パノフスキーによれば図像の解釈は、3つの段階をもつ。
(1)日常的レベルにおける対象の認識・記述
例:デューラーの作品のなかに、日常的常識にもとづいて「蛇のまつわる樹木をはさんで立つ裸の男女」をみる。
c0046749_19331984.jpg

(2)特定の歴史的・文化的条件の下で成立した図像の意味に分析・解釈。
例:同上の図像を西洋キリスト教世界において成立したものと現的し、旧約聖書の『創世記』のテキストにもとづいて、「アダムとイブ」であることを証する。
(3)図像の本質的意味に対する総合的直感の適用と、それによる文化の普遍的原理の把握。
例:デューラーがこれを制作した当時の文化的諸特徴にもとづき、デューラーの精神の規定を成す世界観を直感し、この作品を文化の普遍的原理の象徴と見る。
(参照・引用『平凡社大百科事典』「図像学」辻成史 著)
参考文献
若桑みどり『絵画を読む イコノロジー入門』NHKブックス
エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』(ちくま学芸文庫)
ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』(河出書房新社)
ミッシェル・フィエ『キリスト教シンボル事典』(クセジュ文庫 白水社)
[PR]
by takumi429 | 2012-09-23 19:34 | メディア環境論 | Comments(0)

0.知識は偏見から自由になるためにこそある

講義をはじめる前に、皆さんに課したレポートについてコメントする必要があります。

私は、一般教養の特色科目の受講生が毎回定員(140名)オーバーなので、選抜のために次のようなレポートを課しました。

特色科目10受講希望者へ
特色科目を受講希望の方は、次の課題をA4のレポート用紙1枚に書いて、提出してください。
いま、聖母子像(聖母マリアとおさな子イエスを描いた絵)の前に立っている人がいます。どうやらその人はその絵が、聖母子像であることを知らないようです。あなたはその人に、聖母子像であることを教えようとしました。
あるいは、いま、菩薩像(大衆を救おうとする慈悲の心をもった仏の像)の前に立っている人がいます。そのひとは、その像が、菩薩像であることを知らないようです。あなたは菩薩像であることをその人に教えようとしました。
すると、その人はあなたに、こう言いました。
「何も教えないでください。余計な知識があると偏見が生まれて目が曇ってしまいます。私はまっさらな曇りのない目でこの絵(像)を見たいのです。」
この人の発言についてあなたはどう考えますか?
聖母子像の場合と菩薩像の場合では異なる、という回答はしないでください。
あくまでも「知識は偏見を生むから知らないほうが新鮮な目で美術作品を鑑賞できる」という考えに対しての、あなたの考えを書いてください。


このレポート課題に対して97名の提出がありました。定員割れなので全員受講可となります。レポートのうち、なんと65名が、「知識は偏見を生むから知らないほうが新鮮な目で美術作品を鑑賞できる」という考えに対して、「賛成」、と答えていました。
「知識は偏見を生む」というのは、反対にいえば「無知は無垢な目をもたらす」というかんがえなのでしょう。こう考える人が、受講希望者のなんと3分の2なのです。実は、私はわざわざ、反対意見に誘導するように設問しました。にもかかわらずこの結果です。
無知な人間の方が無垢で新鮮な目で物を見る。みなさんはそう考えていらっしゃるようですが、ほんとうにそんなことがあると思いますか?
もし皆さんが、知らない街にぽんと連れてこられ、地図もその街についての情報もあたえられなかったら、みなさんはどうするでしょう。皆さんは道を聞いたりすることでしょうが、その知識も、偏見を生むからといって、道も聞かないのですか。もし道も聞かなかったら、何となくあっちの方向はやばい感じがするから行かないでおこうとか言って、ほとんど最初に来た場所をうろうろするだけでしょう。また思い切って動くことはたしかに危険なことになるでしょう。もちろん、みなさんはそんな愚かなことはしないで、地図を入手し、人に道を聞くでしょうし、観光ガイドなどを入手するでしょう。そうやって得た知識は偏見をもたらすのでしょうか。そうではないでしょう。なんとなくやばそうだ、とかいう感覚だけでうろうろする方がよっぽど思いこみや偏見にまみれていることでしょう。
いま、あなたが何かおいしい料理を食べたとします。たとえば焼き鳥だとしたら、そのなかにちょっとこうばしい味わいがあったとします。あなたはこの味は何なのですかと聞いたとします。料理した人が、「実はクルミの粉をちょっとだけまぶしてあるのです」と答えたとします。それにたいして、あなたはよけいなことを言うな、おかげで純粋に味わうことができなくなっただろう!と怒ったりしますか?さらにその鶏肉が名古屋コーチンだと教えられたら、そんなことは料理を味わうのによけいな知識だと怒りますか?なるほどねと思うことでしょう。またさらに、「じつはゆずをしぼってかけてあるんですよ」と言われたなら、なんとなく「うまい」としか思わなかったのが、このうまさはゆずの酸味が加わっているからなのかと、味覚はさらに鋭くなることでしょう。
料理のような味覚(感覚)の、味わいでさえ、知識は邪魔でなくて、知ればより料理が楽しく味わえるものです。まして、絵や彫刻ならさらにそうだとは思いませんか。
ところで、皆さんは絵は視覚(感覚)の領域のものだと思っていらっしゃるようです。でも古来、絵というのは文字が読めない人のためのに、文字の代わりにメッセージを伝えるものでした。
キリスト教の教会ではもっとも重要な、イエスの受難物語(イエスが捕らえられ処刑され復活する話)は、ステンドグラス、彫刻などで目に見える形にされて、信者に提供されていました。いわば、「絵はことば」だったのです。その絵や彫刻が何を意味するか、誰なのか、何なのか、ということはその絵を描く、その彫刻を作る、さらにその絵や彫刻を見る、うえでもっとも重要で、その絵や彫刻を見て鑑賞するうえの前提条件でした。
絵がことばであるという約束から自由になろう、絵は感覚の産物だ、として展開しようとしたのが、いわば印象派の絵画で、その延長線上に抽象絵画はあるわけです。しかしそれは「絵はことば」ということを前提にしたうえであえてそれに逆らってみせたものです。日本が開国して西洋美術にふれたとき、もっとも盛んだったのは印象派でした。ですから日本の近代美術はこの印象派の亜流として発展しました。アカデミックな本流を知らず、それに対する反主流ばかりを導入してしまったのです。そのことが日本の美術教育をゆがんだものにしたようです。
そもそも、ものを知らない人間が偏見をもっていない、なんてことがほんとうにあると思いますか?ひとは無知を偏見によって埋めようとするものです。ほんらい知識とは私たちを無知がもたらす偏見から解き放ってくれるものです。
だいたい、聖母子像を聖母子像と知らず、菩薩像を菩薩像と知らずに、ちゃんと作品が鑑賞できるわけがないじゃないですか。こんな知識は、背景知識でも作者の思いでもなんでもない、作り手・受け手の共通の常識にすぎないことです。そんな常識さえないほうがいいなんていうのは、無知が無知な状態に居直っているだけのことです。
[PR]
by takumi429 | 2012-09-23 04:06 | メディア環境論 | Comments(0)