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12.映像群のえせ物語(歴史)への回収

12.映像群のえせ物語(歴史)への回収

ベンヤミンは歴史の痕跡の集積の中から、歴史の向かうべき方向を示す風を受け取る「歴史の天使」を夢想した。つまり、映画は、映像を元ある場所から引き離なす。それはオーラを失なう。しかし、逆に視覚的無意識のもとにあったことを意識化させることができる。そして、痕跡としての映像(写真)を新たに集めつなぎ合わせ行くことで、新たな物語をえがくことができるのである。ベンヤミンはこの映画の手法を、歴史哲学の手法へと昇華させようとしたのだ。
写真は光の痕跡であり、その写った事物の指標(index)であるから、おなじく痕跡や指標となる事物ならば、写真同様に、その時代と社会の痕跡としてあつかうことができる。ベンヤミンは、こうした時代と社会の痕跡物が集められ陳列されている場所として、パリのアーケード(パッサージュ)を夢想した。どうじに、遺作となった『パッサージュ論』を、さまざまな文章から切り取られた引用(遺物)の集積として構想した。すなわち、作品がそれじたいひとつのパサージユにしようとした。読者(痕跡を読む者)は、みずから、その集積から、過去の歴史のあり方を発見して、そこから「時代の風」(世界の進むべき道)を、読み解き、さらには、新たな物語(=歴史)を構築していくこと、を期待したのである。
しかしベンヤミンの、この映画的手法への過剰な期待は裏切られた。
映画はたやすく人々を、英雄崇拝、ナショナリズムへの陶酔へと、引きずり込んだ。映画は、異化(脱オーラ化)した映像群を、観客がみずからの構想力・想像力でつないでいくのを待ってはくれない。むしろ、脱オーラ化した映像を、再度、安易な物語の連続性(コンティニュイティcontenuity)へと回収する。そのときもっとも力を持ったのは、(映画のコンティニュイティ編集もさることながら)、音楽である。
聴覚は視覚よりも、より時空間をつよく設定する。空間を認識する三半規管は耳に付随する。そして音楽は時間芸術である。音楽はひとつの時空間をもつ物語世界を、鑑賞者に錯覚させる。音楽をかぶせられた映像群はたやすくその異化作用を失い、再度、魔術をかけられて、心地よい物語(歴史)へまとめられていく。この音楽の再呪術化の作用のなかで、ベンヤミンの期待は裏切られていった。
しかし、安易な物語への回収を拒む(映像)作家と鑑賞者(読者)の協同は、こうした安易な物語(歴史)への回収を乗り越えて、時代と社会の、隠された意味を把握しつつ、新たな世界への構想を生み出しうることを、我々は信じたいと思う。


1)音が視覚にどんなに強い影響を与えるかの例としては、「マガーク効果」がある。
これは映像の中の自分物が、GA、と言っているのに、音がBAであるために、見ている人間には、DAと聞こえるというものである。
2)5秒間だけ目をつぶってみる。つぎに5秒間だけ耳をふさいでみる。これだけの単純な実験でも、視覚よりも聴覚の方が空間を認識させるということがわかる。
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by takumi429 | 2013-01-20 18:30 | メディア環境論 | Comments(0)

11.ゼーバルト『土星の環』 痕跡をたどる旅

11.M.G.セーバルト(Max Sebald 1944–2001) 『土星の環』(1995)
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イングランド南東部の海岸地方をめぐる、イラストと写真を多用した旅行エッセイ。
出版社の紹介文
「<私>はイギリス南東部を徒歩で旅し、過去何世紀にもわたる様々な破壊の跡を目にした。海辺で、資料館で、<私>の連想は、帝国主義時代のオランダの過去、ワーテルローの戦場跡を訪れた記憶、バルカン半島における虐殺の歴史、アフリカ大陸でのベルギーの搾取や略奪などへと続いていく。 
 <私>は旅先で多くの人びとと出会い、過去の様々な人びとを想起し、その生涯を辿る。コンゴで植民地主義の狂気を目の当たりにし、『闇の奥』を書いたコンラッド、「理想の国民」たる蚕を偏愛した西太后、フランス革命前後の激動をくぐり抜け、回想録『墓のかなたから』を書いたシャトーブリアン......。
 最後に<私>は、中国からヨーロッパにもたらされ、各国で国家事業として育成された養蚕に思いをはせる。養蚕を国家意識高揚に結びつける企図は、百年後ナチによっても鼓舞されていた......。
 思索や連想の糸がたぐられ、ヨーロッパ帝国主義による破壊と自然がもたらした災厄(さいやく)、古今の文人たちの生涯を辿っていく。誰も振り返らない往古の出来事、忘れられた廃墟が、時空を超えて呼び戻される。境界がなく、脱線と反復を真骨頂とする、ゼーバルト独自の世界。」

この作品を映像化したものが、PATIENCE (AFTER SEBALD)

今はさびれたイギリス南東部の海岸をたどり歩く<私>。
この南東部の海岸は、いわばヨーロッパ大陸に貼り付けられはがされたガムテープのようなものだ。大陸に起きた汚行・破壊のかけらが、この海岸に張り付いている。つまり、この地方は、世界の破壊と残虐の歴史を写し取ったネガのようなものだ。この細分化されたかけらは、かけらの集積ではあるが、土星の環が土星の重力を示すように、ひとつの環をつくっている。かけらの形をとった痕跡をひとつづつたどることで、そこから、人間の犯してきた残虐と汚行の歴史が、土星の環のように形あるものとして、<私>(痕跡を読む者)のまえに立ち現れてくるのだ。
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by takumi429 | 2013-01-20 18:11 | メディア環境論 | Comments(0)

10.『アメリ』 編集(モンタージュ)による人生の再構築

映画『アメリ』(2001)

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問い:主人公アメリはなぜ水切りをいつも(サンマルタン運河で)するのか。また水切りのための<いい>石をいつもひろうのか。

答え:水切りの石は、水面の何カ所をいわばピックアップしながら軌跡をえがいて飛んでいく。この映画は、人生という長大で膨大な映像の集積の中から、いくつかの映像をピックアップし直すことで、新たな人生へと多くの人々を旅立たせ、またみずからも旅立とうとする主人公アメリを描いた映画だから。アメリは水切りをし、あるいは水切り用の石を拾うことに、別の人生という物語を作り上げようする試みを、夢想しているのである。映像の集積の中から、いくつかの映像をピックアップし直すことは、フィルムのなかからいくつかの映像(カット)を抜き出し、それをつないで別の物語映画をつくる作業と同じである。つまり映画の編集と同じ作業であり、この映画は、映画の編集(モンタージュ)のもつすばらしさについて語った映画なのである。

例証:
①子どもの頃の宝箱をアメリに見つけられ贈られた初老の男。宝箱のなかの宝は、彼の幼年期の思い出の品、幼年期のその時々の「指標」(インデックス痕跡)である。その思い出の品から幼年期を思い返すことで、自分の人生の軌跡というものを改めて確認した初老の男は、別れて会っていない娘と孫に会うことで人生を軌道修正する(やり直す)決意をもつことができた。
②旅するドワーブ人形。妻を失った悲しみから立ち直れないアメリの父のドワーブ人形を、アメリは庭からはずし、スチワーデスの友人に頼んで、世界中のさまざまな名所に立たせて写真をとってもらう。そして、その写真を父親に送ってもらう。父親のもとには、世界中の名所に立つドワーブ人形の何枚もの写真が届く。その写真から、父親はドワーブが(じぶんで)世界を旅していると思う。これは写真の連続から物体の運動を観客に想像させる映画の基本原理の応用である。ドワーブの旅に励まされた父親は、亡妻の思い出にひたり家にこもることをやめて、みずから旅立つのだった。
③夫に捨てられ南米で死なれた、「マドレーヌのように泣く」アパート管理人マドレーヌ。アメリは、彼女の元にあった夫からの手紙から、いくつかのせりふを切り取り、並べ直し、コピーして紅茶に浸して、事故のために届かなかった手紙をねつ造する。30年後にようやく届いた手紙には、妻マドレーヌとやり直そうしていた亡夫の言葉がつづられていた。これはフィルムのなかから、適切なカットを選び、それをつなぎ合わせて、ひとつのストーリーとなる映画をつくる、という映画の編集の手法と同じである。手紙はアメリが作ったものだが、まったくのでたらめとはいえない。むしろ、本当に南米に逃げ客死した夫は本当に後悔し復縁をのぞんでいたのかもしれない。客死しなければ、アメリが作った手紙と同じような手紙を妻に書いていたのかもしれないのだ。映画のウソは「真実」を作り上げることもあるのだ。
④勤め先のカフェで、同僚と常連客とをくっつける。切り取ったフィルム(カット)とフィルム(カット)とを熱でくっつけつなぐ作業と同じ。
⑤街で困っている盲人に、街のさまざまな様子を声で伝えながら、駅まで案内するアメリ。街の様子はアメリによってピックアップされ語りによって構成され、それを聞いた盲人は、パリの街角の喧噪をひとつのまとまった情景として感受することができ感激して黄金色に輝く。編集によって退屈で当たり前にみえる情景が心をかき立てるシーンへと変化する、という映画編集の妙技、をイメージしたもの。
⑥自動写真機のゴミ箱に捨てられた禿頭の男の写真から、アメリの彼氏となる男ニノは、あやしい怪人をイメージしていた。断続的な写真の集積・連続から、不気味な人物の悪夢が立ち上がる。フィルムの中から勇ましい姿だけをピックアップしてつなぐことで、貧弱な劣等生男(ヒットラー)映像から民族の指導者(総統)が立ち上ってくる。レニ・リーフェンシュタールの映画の魔法と同じ作業。
⑦アメリの仕掛けた罠(サイズの合わない部屋履き、取り替えられたドアのノブ、水虫薬に取り替えられた歯磨き薬、未明に鳴るようにされた目覚まし、母親の電話から24時間心理カウンセラーの電話へと代えられた短縮ダイヤル)によって、自分が狂気あるいは神経衰弱に陥ったと錯覚する八百屋の店主。いくつかの映像をつなぐことで、おそろしい物語を作り上げる映画の手法と同じ。
⑧アメリは、出会ってたちまち恋に落ちた相手ニノに、落とした写真のアルバムを返すのに、地点と地点をつなぐようにして指示をし、写真と写真とつなぐようにしてメッセージを送った。水切りのように、破線を描いてつながっていくこの指示とメッセージは、映像をピックアップしてつなぐ映画をイメージしたものである。

結論:映画の手法を使ってまわりの人たちの人生を明るく、あるいは正しいものへと、変えていったアメリは、自分の人生も変えていったのである。
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by takumi429 | 2013-01-17 10:09 | メディア環境論 | Comments(0)

9.複眼の映像 黒澤明の方法

『羅生門』黒沢明監督、橋本忍脚本(1950年)
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原作『藪の中』芥川龍之介(1921年)
検非違使に問われた人物の証言だけから構成された歴史小説。
とくに、①盗賊多襄丸(たじょうまる)、②奪われ陵辱された女、③多襄丸にだまされ妻を陵辱され死んだ男(巫女の口を借りて語る)、の3者によって事件が語られるが、そのいずれもが一致せず、事件の真相はまさに「藪の中」のなかにあって不明のままとなる。
映画では脚本家の橋本忍は、事件を見ていた④木こりの証言、を付け加えることで、事件の真相を明らかにして、人間の欲望と矮小さとえがいた。
事件は、①盗賊多襄丸、②女、③男、④木こり、の4つの目から見た話として、4回、形をかえつつ反復される。
登場人物の目から事件をとらえる、というのは、複数の目(カメラ)から場面をとらえるということである。黒沢明はこの発想を展開して、シナリオの集団制作、マルチカム撮影方式へと発展させた。

シナリオの集団制作
複数の人間が協力してシナリオを書くというのは映画では別にめずらしいことではない。黒沢映画のシナリオの集団制作の際立った特徴は、机を中心に丸座になった脚本家たちが、同時に、同じシーンのシナリオを書く、ということにある。つまり脚本家の数だけの複数のシナリオができる。そしてそれをまわし読んでいちばんいいシナリオをえらび、そのシーンのシナリオの決定稿とするのである。
つまり同じシーンを複数の人間が描くのである。これは『羅生門』が同じ事件を複数の人間に語らせたのと同じ構造である。
丸座になった脚本家が同じシーンを対象にしてシナリオを書く、というのは、同じ対象をさまざまな方向から、複数のカメラで撮影するという、マルチカム撮影方式へと発展した。

マルチカム撮影方式
マルチカムとは、マルチ(複数の)カメラということ。つまりマルチカム撮影方式は、ひとつのシーンを複数のカメラで同時に撮影し、あとから一番いいカットを選んでつなぎ、そのシーンを構成する。原理としては、『羅生門』の、複数の人間の語りによって事件をとらえる、というのと同じ構造であることがわかる。

参考文献
橋本忍『複眼の映像 私と黒澤明』文藝春秋社(2005)

追記 写真はネット上から借りたもの。「RASHOMO「」が誤って「RAMONSHO」になっているが、写真の構成は優れているので、そのままお借りした。
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by takumi429 | 2013-01-11 18:40 | メディア環境論 | Comments(0)