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4.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(3)

4.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(3)

マルチン・ルター
ルッターの生涯
 ここでルタ-の略年譜をあげておきましょう(徳善1912参照)

1483年(0歳)アイスレーベンで誕生(11月10日)
1501年(18歳)エルフルト大学教養学部に入学
1505年(22歳)法学部に進む。落雷を受けたのを着にアウグスティヌス修道院入り
1507年(24歳)司祭となる。神学研究を始め、講義も一部担当とする
1507年(28歳)ヴィッテンベルクへ移る
1512年(29歳)神学博士、ヴィッテンベルク大学生聖書教授となる
1513年(30歳)第1回詩篇講義。塔の体験(1514年?)
1515年(32歳)ローマ書講義。[教皇レオ10世、ドイツでの贖宥状(しょくゆうじょう)販売を許可]
1517年(34歳)95箇条の提題(10月31日)
1518年(35歳)第2回詩篇講義、ハイデルベルク討論、アウグスブルクで異端審問を受ける
1520年(37歳)『キリスト教界の改善について』『教界のバビロン捕囚について』『きシルト者の自由について』など、宗教改革的著作を相次いで出版。教皇庁、破門脅迫の大教勅を発する
1521年(38歳)正式に破門される。ウオルムス喚問、帝国追放を宣告され、ワルトブルク城に保護
1522年(39歳)ヴィッテンベルク町教会で連続説教。新約聖書のドイツ語訳を出版
1523年(40歳)改革運動を開始
1525年(41歳)農民戦争。カタリーナ・フォン・ボラと結婚。『奴隷的意志について』を出版
1530年(47歳)アウグスブルク信仰告白を提出
1531年(48歳)ガラテヤ書講義
1534年(51歳)旧約聖書のドイツ語訳完成。『旧新訳聖書』として出版
1536年(54歳)創世記講義(~1545年まで継続)
1546年(63歳)アイスレーベンで死去(2月18日)

 ルタ-がドイツ語を作った
 ルタ-が聖書をドイツ語に翻訳した、というと、すでに共通のドイツ語があって、それへ翻訳したように思えます。しかし、じっさいには、大きくは低地ドイツ語と高地ドイツ語に分かれる、さまざまな方言がしゃべられていたのです(現在でもドイツのの方言はかなりの違いがあります)。文章語としては神聖ローマ帝国の公用語はラテン語でした。だからルターが高地ドイツ語で聖書を訳し、それが活字となって読まれることで、この高地ドイツ語がドイツの標準語となったのです。
ヴェーバーの論文との関連でいえば、ルターの生涯で大きなポイントは、ルターがもともとアウグスティヌス修道会の修道士だったという点です。
西洋キリスト教の歴史において、それまでのゲルマン人をキリスト教化する大きな推進力は、修道会と教会でした。
ローマの教会は当初はいつくかある大都市の有力な教会の一つにすぎませんでしたが、次第に力を強め、ローマ帝国の後継者としてゲルマンの王に皇帝の冠を授けるという役割を演ずることで、(ビザンチン帝国のギリシャ正教をのぞく)いわゆるカトリックの世界において頂点に立ちます。
 このいわば、体制側とでも言うローマ教皇を頂点としたカトリック教会は、領民から10分の1税を徴収する、教会が属するピラミッド型の組織でありました。
 かたや、修道会運動は初期キリスト教の理念の従った清貧と信仰の集団として、民衆の尊敬を受けていました。(修道会はどうじに学問と技術革新の場でもありました。ルターは修道会で学問をまなび聖書教授となりましたし、たとえばシャンパン・ワインというのは修道士が発明したものです)。教会の腐敗と堕落が蔓延するたびに、キリスト教内部からはいくつもの修道会運動がおこります。修道会は、禁欲的に労働と祈りをもっぱらとする集団として現れました。しかし、それは時にはあまりに極端となると、ローマ教皇を頂点とするカトリックの教会組織を脅かしかねない存在として現れます。カトリック教会は極端でないものは、正統としてのお墨付きを与えて、自らの組織のなかに組み込みますが、極端なものは異端として弾圧しました。
修道士たちの良き行いによる業績は「教会の宝」としてプールすることができるとしました。このプールされた「教会の宝」としてローマ教皇の裁量でほかの人々に分け与えることができるとされました。教皇から宝を分け与えれられた人は、罪の償いを免じられる。こうして教皇が教会の宝を与える証明書が「贖宥状」でした(徳善2012,p.64)
 しばしば「免罪符」と呼ばれますが、ただしくは「贖宥状(しょくゆうじょう)」が正しいのです。「贖宥」とは、カトリック教会で、「信徒が果たすべき罪の償いを、教会が免除すること」です。つまり、「罪を免じる」のではなくて、罪を犯した人がその贖(あがな)い(つぐない)をしなくてもいい、という証明書なのです。なぜなら、そのつぐないは、修道士たちがしてくれていてそのつぐないが教会にたくさん蓄えられていて、つぐないができない信者はお金を教会に払うことで、そのつぐないを代行してもらえるからです。
 もちろん、罪も盗みや殺人とか背信とかの大罪を犯した者は地獄に落ちるしかありませんが、償い可能な罪ならば、それは死後、「煉獄」という場所で神から与えられた苦しみに耐えるならば、最後に審判では天国にいくことができるとされました。
 「煉獄」というのは、それまでの、天国と地獄の2つの死後の世界に、あたらにつけ加えられた死後の世界です。「浄罪界」と呼ばれたこともあります。カトリックの世界観では、死後の世界は、地獄、煉獄、天国の3つです。この世界観をもっとも完成された形で表現したのが、ダンテの『神曲』という詩です。煉獄では人間は7つの大罪(傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲)を業火を受けながら浄化するのです。
 ルターは罪のつぐないをお金で他の人に代理になってもらうなどというのはとんでもないことだとしたのです。ではルターの思考はどのように生まれ展開されていったのでしょうか。
 徳善(2012)によれば、ルターの宗教思想の始まりは、聖書講義をしている時の躓(つまづ)きに始まります。
 ルターは大学で学生に講義をしている時に、聖書の『詩篇』第31編2節の「あなたの義によって私を開放してください」という一節にはたと行き詰まってしまいます。
 この詩句はダビデが神に訴えた歌とされています。普通に考えれば、「神が与えた律法を私たちはまもっているのだから、神さま、神さまに正義というものがあるなら、その正義にもとづいて私たちをこの困難から開放してください」という意味になるでしょう。別に「わからない」というほどのこともないように思えます。
 しかしルターは神の「義(正義)」というものをもっと厳格に考えていました。それは神の「怒り」「裁き」であって、「救い」と結びつくものではない。「わからない」。では、学生に教えられはしない。ルターはもがきます。
 ここでなぜルターは「わからない」と思ったのでしょうか。ふつうなら、「神が与えた律法(きまり)をちゃんと守っているよ、だから助けて下さいよ」、と読める部分が、ルターが「理解できない」と思ったのはなぜなのか。
 それは、神の与えた律法を自分がきちんと守っているという自信が持てないからです。なぜ自信がもてないのか。自堕落だからか、いやそうではなくて、自分にとても厳しいからこそ、自分のいたらなさをつねに感じているからこそ、真剣に信仰しているからこそ、自分は律法をちゃんと守っているぞ、というようなおごりと満足を得られない、自分は徹底的に罪深い存在なのだと自覚せざるをえないのです。「自分はそこそこいい人間だ、ちゃんとしている」という薄っぺらなおごり(驕慢)は、絶対の神のまえに打ち砕かれるのです。
 ではどう解釈すべきなのか。ルターは言語学的にこの部分を調べます。
 「神の義」というのは文法的には「所有者の属格」という用法が使われている。たとえば「お父さんの贈り物」という表現の場合、「贈る」という行為をする主体は「お父さん」である。「お父さん」が「贈る」という行為をすると、それは「お父さん」の手をはなれ、贈られた人のものとなる。「所有の属格」というのはそういう用法である。だから、「神の義」というのも、神から人間へと「贈り物」として与えられる、「義」はそれを贈られた人間の所有するものとなって人間は救われるのだる。ではその「贈り物」とは何か、それが神の子、イエス・キリストにほかならない(徳善2012,pp.37-40)。こうして、旧約聖書の「詩篇」のなかに、その後の「新約聖書」にかかれる救世主イエス・キリストの予告を、ルターは読み込んだのです。
 これによって、旧約聖書と新約聖書の関係もつきます。つまり旧約聖書は私たちに律法をあたえ、新約聖書はそれを守れない罪深き私たちを救う救世主イエスを与えるのです。
 ルターはこの着想を塔の中で得たといいます(塔の体験)。ルターはこの着想をさらに押し拡げ、「十字架の神学」というものを作り上げます。それは以下のような内容です(徳善2012,p.60)
1.律法とそれにもとづく人間の行いによっては、人間は救われないこと。
2.罪に堕ちた後の人間の自由意志とは名ばかりであって、これによるかぎり、人間は罪をおかすほかないこと。
3.神の恵みを得るには、人間は自己自身に徹底的に絶望するしかないこと。
4.神の救いの啓示(宗教的真理の人間への知らせ)は、キリストの十字架によってのみ与えられること。

「キリストの十字架」とは、神の子イエスが私たち人間の罪を背負って犠牲となって十字架にかけられたこと、そのことによって罪深き私たちは救われるということ、でキリスト教の根本的な教えです。この教えは、イエスが捕らえられ十字架にかけられるという「受難」(passion)の話として、キリスト教徒には繰り返し語られ、また絵画・彫刻・ステンドグラスなどで、字の読めない民衆にも分かるように教えこまれてきました。
(イエスの受難物語についてはhttp://www.jizai.org/wordpress/?p=405)
(十字架にいたる7日間についてはhttp://ebible.web.fc2.com/jujika01.htm)

 さてこうした神学を確立したルターにとって、聖書に書いてない煉獄という世界や金銭によって罪のあがないを免除されるとする贖宥状(しょくゆうじょう)というのは、許しがたい逸脱でした。そこで彼は学者としてこの問題を公開討論にしようと、質問状の形で、つまり95箇条の提題として提起したのです。
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by takumi429 | 2013-04-22 11:43 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

3.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(2)

3.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(2)

 基礎学力としての世界史
 みなさんのなかには、高校時代、世界史を選択しなかった人がいると思います。あるいは、授業はあったけど、受験科目には選ばなかった。だからほとんど勉強しなかったという人はいますね。
 正直に言いましょう。世界史を勉強しなかったあなたは、大学生になるための基礎学力がかけています。ちょうど、それは数学を選択しないで大学の理科系に進んだ(あるいは微分を学ばずに経済学部に進んだ)ようなものです。世界史を知らないと、海外のニュースを聞いてもほとんど理解不能です(そんなことはないという方、それはわかったような気になっているだけです)。
 また大学の学問の多くはもともとは西洋からの輸入学問ですから、その学問がうまれた背景となった西洋世界の歴史をしらないと、その学問の内容がいまいちよく理解できません。そんな高尚なことでなくて、たとえば海外を旅行したとしても、歴史を知らないと、何を見ても、「きれいだね」、「なんか壊れてるね」、というふうに表面的にしかものをみることができません。
 だから大学生になったら、世界史を勉強していなかった人は大急ぎで世界史の勉強をする必要があります。いちばん手っ取り早いのは、高校時代の教科書を読むことです。捨ててしまった人は、本屋で高校の教科書を書店に注文するとよいでしょう(微分をあんまりちゃんとやっていない経済学部の方、急いで数Ⅱ、数Ⅲの教科書を読みましょう)。税金がかからないので千円以下でカラー版の教科書が手に入ります(山川出版が有名ですが、個人的なおすすめは東京書籍の『世界史B』です)。

 なぜ世界史はむずかしいのか
 と、まあ、えらそうなことを言っていますが、私も、世界史を選択したものの、いつまでたっても不得意科目でした。どうにも頭に入っていかない。どうしてなのかのかな、と今になって考えてみるに、まず人名がやたら多い、しかもその人名の人物がどの国の人かよくわからない。ヘンリーがアンリになったり、フィリップがフェデリコになったり。いったいどっちが正しいんだ。スペイン王がオーストリア王をかねたり、シチリアの王がドイツに領地をもったり、王族たちが現在の国の枠を超えて移動したり結婚したりする。そもそも王様たちはどこの国の人間なのか。
 だいたい国の形が変だ。今と違う地域がひとつの国だったというのならまだわかります。ところが、歴史地図なんかをみると、たとえば「神聖ローマ帝国」なんていう国は、まだら模様になっていてどこからどこまでが国なのかわからない。第一、まだら模様の国って何なんだ、ということになります。
 このわけの分からなさを翻って考えてみると、実は私達がふつうひとつの「国」と考えているもののイメージがあって、それが通用しないから混乱もするし、理解できないし、その結果、覚えることもできないのだと気づきます。

 無自覚な前提としての独立国(国民国家)
 では私達が、「国」と考えるものはどんなイメージのものなのでしょうか。
 まず、国境によってはっきりと領土が区切られていています。地図で国が綺麗に輪郭をもって色分けできます。国境の内部は日本なら日本、韓国なら韓国、という具合に一つの国家に帰属しています。住民も一つの国に所属しています。
 国境で区切られた地域とその住民は、その国の政府によって支配されています。支配されるということは、税を徴収され、そのかわり、保護もされます。多くの国では徴兵もされます。こうした支配の実行はふつう行政官、つまり官僚(役人)によってなされます。役人は中央政府からの指示によって動きます。指示(命令)はふつう文書でなされます。そのためその文書用には統一した言語が必要です。おなじく、支配された住民を支配・保護するために法体系が必要とされますが、それも同じ言語で書かれ処理されるのが普通です。
 こうした中央政権とそれに支配される領域(領土)と人々(人口)からなる国を「独立国(主権国家)」(sovereign state)といいます。
 中国の標準語のことを、「マンダリン」といいます。「マンダリン」というのはもともとは「官僚」のことです。でも官僚は共通の言葉を使っていないと帝国が支配できない。だから官僚になるためには、官僚の共通言語に習熟しているか試験して(科挙)、それを各地に分配する。だから彼らの話す言葉も「マンダリン」と呼ぶわけです。それを「北京官話」と訳すのは、中央(北京)からの指令と中央への通報に使われる言葉だからです。
 官僚には給与を払わなくてはいけません。そのためには全国に流通する貨幣制度が必要です。それができていないと地元で税を徴収して官僚が取り、残りを中央に納めることになります。こうすると次第に地方はその官僚たちの領地のようになって、国は分裂してしまいます。    
 国境を超えて他国が侵略してきた時、それを異分子による侵入だととらえられます。逆に言うと、国境の内部の地域(国)はある種、同質の人々によって作られていると考えられています。では国の内部の人の同質性はなによって支えられるのでしょうか。それは「我々は同じ『民族』だ」という思い込みによって支えられています。
 では「民族」とは何なのでしょうか。生物学的な同一性でしょうか。たとえば「日本人」というのは、じつはDNA的には多様な人種を含んでいると言われています。「中国人」とされる、項羽の頃の中国人のDNAはヨーロッパ人と同じで、現在の中国人とはまった別だ、という話があります。同一の民族といっても、人種的・系統的に同じであるという保証はありません。
 では「日本人」としての統一を作り上げているのはなんでしょうか。もっとも重要なのは、「日本語」でしょう。日本語を母語として話す(何世代も前から日本に住むアジア)人、それが日本人だ、ということになりそうです。
 ともかく、同じ言語を話す同じ民族がまとまって占拠し、統一的な政府をもっている、それが「国」であると、なんとなく私達はイメージしているようです。
 主権国家が同じ民族によって構成されているとするのが「国民国家」(nation state)です。
 でもこの、民族がそのまとまりによって国を作る(国民国家)というのは、19世紀以降、近代になって生まれてきたものです。それ以前の国が、この国民国家(民族国家)と同じだと考えるのがじつは無理があるのです。

 封建制の下での国家
 近代以前では、農民などの住民を支配し、保護する見返りだと称して税を取っていたのは領主ですが、この領主はより力の強い領主のいうことを聞いていました。もっとも強い領主が王と名乗っていたでしょう。しかし、各領主は別の王が強かった、そちらに寝返ることもあるでしょうし、王が弱くなった、あるいは死んだなら、自分が王になろうとすることもあったでしょう。すると、A王とB王の支配する、A王国とB王国の領土はきれいに色分けできず、入れ子状態だったでしょうし、王に歯向かう領主もいたでしょうからまだら模様にもなったでしょう。
 東方からヨーロッパに移動してきたゲルマン民族の場合、ゲルマンの王が領地にいっしょに従軍してきた部下(従士)に、占領した土地(封土)を与えて配置しました。彼らはその見返りに王が戦争をするときには部下として従軍する義務を負います。しかし、それが何代か経つと、独立して、王に刃向かったり、別の王に寝返りしたりすることもありました。
 それで、部下のかわりに、跡継ぎができない僧侶を部下の領主として配置しました。もちろん、僧侶(聖職者)の任命権(叙任権)は国王にありました。これを「帝国教会政策」といいます。僧侶はもともとゲルマンの王が配置したのですけど、いちおうキリスト教会、とくにそのもっとも優位にたったローマ教会の支配下にあるということになります。
 西ローマ帝国が崩壊したあと、そのローマ帝国の後継者という名目でゲルマンの王はヨーロッパを支配することになり、領地に多くの僧侶を配置した手前もあって、ローマ教皇に、「皇帝」と認めてもらうという形をとりました。こうしてうまれたのが、「神聖ローマ帝国」という、おもにドイツやイタリアを支配したふしぎな帝国です。
 ローマ教皇はさらに、帝国の各地に皇帝が配置した僧院を自分の支配下に置こうとします。つまりその僧侶の任命を皇帝ではなく、教会が任命しようとします。ここにローマ教皇と神聖ローマ帝国の皇帝との対立抗争がうまれます。
 抗争を有利にするために、各地の領主を味方につけるべく、領主の独立権を大幅にみとめたために、群雄割拠(小国乱立)の状態になってしまい、帝国のまとまりはますますなくなりました。また、王の血筋が案外絶えやすいく(毒殺・暗殺が横行していたのかな?)、通婚によって支配関係に維持のために王や領主が通婚しているため、皇帝の継承権が錯綜します。。結果、皇帝を選挙によって選ぶ強い権力をもった領主(諸侯)たちまで生まれたのです(いやはやめんどくさい)。

 国語の成立
 また、さきほど「同じ言語」といいましたが、普段、住民が話すのはそれぞれの地域の方言であって、地域が違えばこの言語は違ってきます。国民国家をつくるには、その様々に異なった言語を一つの共通言語にまとめる必要があります。つまり、「日本語(標準語)」、「イタリア語」、「スペイン語」、「フランス語」、「ドイツ語」という、民族国家ごとの言語が生まれる(作られる)必要があります。いや生まれるだけでなく、それが子どもたちに教育されなくてはいけません。ともかく国民国家の形成にあたってはこの統一言語の形成がかならず伴わなくてはいけません。国民国家は、我らが独自の言語、を標榜します(じつはイタリア語とスペイン語の差は小さく、方言の違いのようなものです。ですからイタリア人とスペイン人はそのまま話してもだいたい意思疎通ができます。なのに、お互い別々の国であることを強調するために、別々の言語であると強調されます)。
 たとえば、セルビア語とクロアチア語はじつは同じ言語ですが、表記がセルビアがキリル文字、クロアチアがラテン文字で表し、1991年の旧ユーゴスラビア解体により、別々の言語であるかのように標榜しています。これはセルビアとクロアリアの両民族国家の構築のためになされたのです。
 現在でも、多くの異なる言語を話す民族を束ねた国家が存在します。たとえば、中華人民共和国がそうです。ここでは行政などには、「北京官話」(マンダリン)が使われますが、地域によってはまるで違う言語を話しています(たとえば、北京官話と広東語はまったく別の言語だそうです)。こうしたまるで違う言語を話す人達を同じ国家のうちに留めておくことができたのは、発音によって表記がかわる表音文字(アルファベット・アラビア文字など)でなく、漢字という表意文字(言語によってどう発音されようと見れば意味は通じる)の存在が大きいでしょう。
 「国民国家」とは、多くの場合、1つの民族が、1つの言語を使い、1つの国家をつくっている、という国家をいいます。この国民国家には、その「民族」の神話があります。またその成立存続には、共通言語の確立・教育が必要です。それにはメディアと教育システムの発達が不可欠なのです。
 ともかく、世界史の理解のあたって、私たちの、この、国といえば国民国家、という先入観が大きな障害となっていることは間違いありません。
 またその先入観を助長しているのが、世界史と日本史という区分です。日本では、「日本史」という区分があるために、ほとんど自動的に、日本という国が最初からまとまってあったような印象をもってしまい、その結果、世界史でも国といえばそういうまとまりがあるものだと思ってしまいがちです。また世界史も、東洋史と西洋史をくっつけたものです。中国史が、統一王朝の栄枯盛衰として語られがちなので、ますますそういうまとまりのあるのが国だというとらえかたにそまってしまいます。その結果、世界史の理解がすすまないということがあるように思います。

 歴史とは物語
「世界史は暗記科目だから嫌いだ」という理由をあげる人も多いと思います。高校では教科書を覚えさせてすぐにテストして頭を叩くような教育をしているので、残念なことに、世界史嫌いの人がとても多くなってしまっています。
でも、みなさんは子供の頃、昔話を読んだり聞かされたことがあるでしょう。あるいは、ハリッポッターのお話を楽しく読んだ人もいるでしょう。お話(物語)が嫌いな人というのはそんなにいないでしょう。
 ふつう私達は、歴史とお話(物語)とはまるで違うものだと思っています。英語では歴史(history)と物語(story)とは別の単語です。でも歴史(history)という単語のなかには、お話(story)という単語が含まれていますね。実はヨーロッパの言葉では、歴史と物語は同じ言葉なのです。フランス語ではhisoire、イタリア語ではstoria、スペイン語ではhistoria、ドイツ語ではGeschichte、どれも「歴史」とも「物語」とも訳せます。つまりヨーロッパでは、「歴史」というは、昔、本当にあったことのお話、なのです。歴史が好きな人はたいてい歴史が暗記科目だなんて思っていません。おもしろい話だから自然とおぼえてしまったという人がほとんどだです。
 だから、みなさんはもうテストする人もいないのだから、気楽に、物語だと思って読み流せばいいのです(だから読むなら、物語風に書いてあるものがいいかもしれません)。
村上春樹という作家は世界史で受験したけど受験勉強をしたことがなかったそうです。中央公論社『世界の歴史』(全16巻)というシリーズがものすごくおもしろかったので何十回と読んでいたので、わざわざ勉強する必要がなかったそうです。
「え、でもわたし/おれ、本読むのがきらいだから」という大学生にあるまじきことを思っている人もいるでしょう。わかりました。そんな人にとっておきの手があります。NHKの高校講座の世界史がそれです。NHK高校講座のサイトを開いてください。そこに昨年度放送された番組が保存されています。http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/
 世界史のさまざまなテーマを取り上げて20分で全40話。アシスタントの女の子(女の子はいつも無知だというきめつけ?、ちょっとジェンダー論的には問題がありますね)がさまざまなゲストを招いて歴史上の人物に歴史を語ってもらい、最後に大学の先生がコメントをして、さらにまとめがあります。映像がついているので、ものすごくわかりやすくためになります。

宗教改革とは
さてようやく今日の本題に入ります。
私達はヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文を読もうとしています。この論文を読むためには、まず、「宗教改革」と「資本主義」についてある程度、知らなくてはいけません。その前提知識をまずこの番組をみることで得ようというわけです。
ではまずは、2012年度NHK高校講座の第20回「ルネサンスと宗教改革」http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter020.html を見てみることにしましょう。


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 さて、NHK高校講座世界史の「ルネサンスと宗教改革」を見ていただきました。
 
 メディア革命としての宗教改革
 すごいですね。宗教改革が(第一次)「メディア革命」に乗っかっていたなんて。歴史学は昔のことをあつかうのだから、変化していない、進化していないなんて思っている人がいるかもしれないけど、今見た内容は、あきらかに私が高校時代やその後学んだ時には習わなかった内容です。歴史学ってじつは自然科学とおなじように日進月歩で進歩・進化しているんですね。
 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』という本があります。この本は、ナショナリズムは新聞などによってつくられた「想像の共同体」(民族国家)を信仰するものだ、ということを論じた本です。この本によれば、当時のドイツの出版物のなんと三分の二をルッタ-が書いていたといいます。ルッタ-は論争的な論説(パンフレット)の猛烈な書き手(パンフレッター)だったのですね。
ちなみに、グーテンベルクの印刷術の発明によって膨大に印刷物が流布するようになったのを「印刷革命」とよぶこともあります。

 聖書は何語で書かれていたのか
 でも、キリスト教なんだから聖書を読むのが当たり前だろう、なんでルッタ-の時にわざわざそんな当たり前のことを言うの、と思った人もいるかもしれません。いいポイントをついています。
 じつは、宗教改革以前、ふつうのキリスト教徒は聖書は読んでいなかった、いや読めなかったのです。
 キリスト教の聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。じつは「旧約聖書」というのはもともとはユダヤ教の聖典なのです。キリスト教はユダヤ教の分派(異端)ですから、この「旧約聖書」をそのまま頂き、それにちょこっと「新約聖書」という文書を付け足して、自分たちの聖典、「聖書」としたのです。
旧約聖書は、元々はヘブライ語という古いユダヤ人の言葉で書かれていました。イエスが生まれた頃はユダヤはローマ帝国の支配下にありました。そのころユダヤの民衆はヘブライ語ではなくてそれに似たアラム語という言葉を話していました。
 ローマ帝国は地中海沿岸をすべて支配し、その結果、戦争が終結し「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)とよばれる体制ができていました(これをアメリカの支配の下の平和、にあてはめたのが「パックス・アメリカーナ」という言葉です)。ローマは軍事的には優位でしたが、文化的にはギリシャ文明がいまだ優位でした。ローマ人は教養のたしなみとしてギリシャ語を話しました(シーザーの最後の言葉「ブルータス、おまえもか」もじつはギリシャ語だったそうです)。ギリシャの小国の王アレキサンダーがペルシャを打ち倒し、ギリシャから東方にかけて大帝国をつくり、その死後もその部下がエジプト、小アジアなどを支配時した時代をヘレニズムといいます。それらの国をローマが滅ぼし支配した後も、東地中海ではリンガフランカ(共通語)はコイネーとよばれるギリシャ語でした。「新約聖書」はこのコイネーで書かれました。
 このヘブライ語とギリシャ語で書かれた聖書は、のちにラテン語に訳されました。ラテン語はもともとはローマ人の言葉です。キリスト教の有力な教会はいくつもありましたが、いつしか、ローマのキリスト教会が最も有力となりました。ローマ帝国が分裂して、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と西ローマ帝国になりました。東ローマ帝国では皇帝がキリスト教の最高権力者をかねていました。ここからギリシャ正教がうまれました。他方、西ローマ帝国はゲルマン人によってすぐに滅ぼされ、群雄割拠の状態が続きました。西ローマ帝国だった地域(およびゲルマン人の支配した内陸ヨーロッパ)は政治的には分裂していましたが、宗教的・文化的にはローマ教会の支配するカトリックの世界となりました。カトリックの共通語(リンガフランカ)がラテン語でした。ですから当時ヨーロッパのインテリはラテン語をつかうことで地域の垣根を超えて話し合うことができ、ひとたびラテン語で書けばその文書はヨーロッパ中のインテリがよめたのです。パリの大学地区を「カルチェ・ラタン」(ラテン語地区)と呼ぶのは、そこではラテン語が公用語だったからです。
 でもカトリックの僧侶たちはラテン語で聖書を読めましたが、一般民衆はそれぞれの方言を話しており、ラテン語はできないので、もちろん、聖書は読めませんでした。だから教会では聖書の重要な箇所、とくにイエスの受難と復活(これをパッションといいます)は、ステンドグラスや祭壇画や彫刻などにして、ラテン語が読めない民衆にわかるように見せたのです。
 宗教改革以前は一般民衆は聖書を読まなかった、読めなかった、これは重要なポイントです。だからこそ、聖書を民衆の言葉に訳してそれを読めるようにしたというのが革命的なことだったのです。
 ちなみに、ヨーロッパではこの2つのリンガフランカで、哲学・文学・神学などが書かれてきたので、いまだにギムナジウムやリセ(高校と大学の教養課程が一緒になったような大学進学を前提とした学校、日本では旧制高校がこれにあたる。敗戦後日本を統治したアメリカが廃止した)では、ギリシャ語とラテン語が必修なのです。

 ただ、最後のところで、アシスタントの小日向えりさんが、「キリスト教のしばりがゆるくなって、そのおかげで科学とか技術とかが発達した」とコメントしていたのには、ちょっと注意が必要だと思います。たしかに結果としてはそうなったかもしれませんが、ルッタ-自身は、宗教を緩めようとしたのではなくて、むしろ、キリスト教をその原点である聖書にもとづいた厳格なものにしようとしたのです。
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by takumi429 | 2013-04-14 23:34 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

2.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1)

2.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1)

さて、これから、ヴェーバーの『宗教社会学論集』の出発点となった「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文を読んでみることにしましょう。

古典とは
この著作は、社会科学の古典とみなされています。
「古典」と聞くと、みなさんは「とっつきにくい」、「わかりにく」、さらには「つまらない」のではないか、というイメージ(先入観)をもつかもしれません。そのため、ついつい直接それを読むかわりに解説書を手にとったり、教科書の記述に頼ろうとします。
じつはそれが間違いの元なのです。
こと社会学に限って言いますと、解説書の解説はだいたい間違っています(橋爪1995)。百歩譲って、間違っていなくても、わかりづらいです。元の本が説明するために何百頁も使ったことを、解説ではがそれより短い頁で説明しようとするのですから、わかりにくくなっても当然です。たとえ万が一、わかりやすかったとしても、多くはつまらないです。漁港でとれた新鮮な魚も何人もの仲介業者を通おすと鮮度がおちてしまいますよね。おなじように、元の本が持っていた新鮮な驚きは、解説書や教科書からは抜け落ちてしまっていることがほとんどです。古典は、解説書など読まないで、ガツンと直接読んだほうがおもしろい。これは覚えておくいいことです(なかなか実行しづらいことではありますが)。
「新鮮な驚き」、と言いました。そうです。古典というのは、難しい、立派なことが書いてあるから、「古典」とみなされているのではなくて、おもしろい(知的好奇心をかきたてる)から、「古典」されているのです。
 というより、実は、多くの古典は、ちょっと変です。実際に読んでみると、「え、こんなこと書いてあるの?」とびっくりすることが多いです。

 カントの『純粋理性批判』
 たとえば、カントの『純粋理性批判』という西洋哲学の古典があります。カントの名前は聞いたこともあると思います。そのカントの主著というと、やたら難しくて、退屈な本な、本のような気がします。たしかに途中まで難解で面倒な本です。でも真ん中あたりの「純粋理性の二律背反」になると、印象はがらりと変わります。そこでは、カントは、本の左頁と右頁を対照させ、「純粋な理性」に一人二役をさせ、正反対なことを主張させます。左の頁で「純粋理性」氏は、「世界には最初の原因(第一原因)となるものがいる」と主張します。ところが右の頁では、おなじ「純粋理性」氏が「世界には第一原因なんてない」と主張します。
 「第一原因」というのは、トマス・アクィナスの『神学大全』という中世神学の基本書によれば、「神様」のことです。つまり、「純粋理性」氏は、見開きの左頁では「神は存在する」と主張していたかと思うと、右頁で「神なんていない」と主張しているのです。いや主張だけでなく、「理性」氏は、その正反対な主張を、背理法をつかって、「もし神がいないとすると・・・」、「もし神がいるとすると・・・」として、その結果矛盾が生まれるから、「神はいる」、「神はいない」と結論していくのです。一人二役、神様を支持する役と神様を否定する役、それを同じ「純粋理性」が演じているのです。これはまるで正気の沙汰ではありません。人間が純粋にその思考だけを展開していくと、そこにはこうした狂気が待っているのというのがカントが示そうとするです。
 カント、それも『純粋理性批判』の著者なんていうと、なんだか近代理性の立場に立つ落ち着き払った地味なおじさん、というようなイメージがあります。でも本当はこんなふざけた書き方をする洒落気のある、と同時に、人間がもつ狂気の淵をのぞき込んだ人だったのです。
 見開きページをつかっての一人二役の、ちょうど、法廷における、検察側と弁護側の陳述のような、しかもそこでは、検察官と弁護士は実は同じ人物の一人二役を演じている、というわけです。そして一人二役の対決から導きだされのは、「神はいるとも言えるし、いないとも言える」、という、キリスト教が支配していた当時のヨーロッパ世界にとって、とてつもなく危険な結論だったのです。
 ドイツの詩人、ハイネはフランス人にむけたドイツ哲学の紹介書『ドイツ古典哲学の本質』の中で、フランス革命でロベスピエールはルイ16世の首をはねた、カントはなんと神に対しておなじことをした、と書いています。カントの同時代の人たちにとって、カントのしたことは、まさに「神殺し」にほかならなかったのです。

 ドフトエフスキー vs. カント
 この「純粋理性の二律背反」を深刻に受け止め、その解決を小説世界において果そうと格闘したのがドストエフスキーでした(ゴロゾフケル1988)。彼の『カラマーゾフの兄弟』という小説で、理性の人である次男イワンは、この、神は存在する、神は存在しない、という二律背反の狂気と絶望の淵にあります。彼は無意識に、異母兄弟のスメルジャコフをそそのかし父殺しをさせ、同時に三男アリーシャにこの淵からの救済を求めます。
 ふつう、神と対立するのは悪魔です。悪魔はあくまでも神があっての悪魔であって、神の存在を否定したりはしません。というより、完全なる神がいるにもかかわらず不完全なこの世界を説明するために悪魔は必要とされるのです。つまり悪魔は神の補完物なのです。
しかし『カラマーゾフの兄弟』に登場する悪魔は、「神がいるかどうか、僕にもわからないんだよ」とうそぶくような悪魔です。つまりこの悪魔は神の敵対者ではなくて、信仰に対する敵対者、つまりカントの二律背反の、神が存在する、神が存在しない、という理性の二律背反(狂気と絶望)を体現した存在なのです。
「神がいなければあらゆることが許される」、ドストエフスキーはしばしばそう書きます。「あらゆることが許される」とは、倫理を支える神がいないことで、あらゆる悪行(犯罪)が許されてしまう、いうことです。「あらゆることが許される」という時の「自由」とは、「悪の自由」なのです。これがカント以来の「自由」のとらえかたです。私たちがふつう考える「自由」とはずいぶんちがう「自由」のとらえ方です。しかし神が造った楽園(エデンの園)で、うまれてはじめて神の命令に反して(自由な意志をもって)、知恵の木の実を食べ、その結果、楽園を追い出された人間にとって、つねに「自由」は、規範・規則からの逸脱(罪・犯罪)と裏腹なのです。
 では人間はなぜ犯罪を犯さないのだろうか。それは人間に、「自分だけ特別扱いするルールでなくて、だれにでも適応できるルールで行動しろ」、ということを肝に命じているからです。たとえば、俺だけは人殺ししてもいいと考えると、相手も同じように考えるから、殺されても文句は言えなくなっちゃうよ、だから「人は殺してもいい」というのはまちがっている、人は殺してはいけないのだよ、というわけです。
 この原理をカントは定言命法と呼び、つぎのように定式化しました。「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ(Handle so, das die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten konne.)」。
 人間のあらゆる道徳原理はここを出発点にして合理的に構成・説明することができるととカントは考えました。理性的に考えることが出来る人間は道徳的に正しく行動できるというわけです。
 この理性的に考えさせるという発想にもとづいて、近代の刑法(犯罪を扱う法律)では、あらかじめ、「これこれの罪を犯すとこれこれの罰があるよ」ということを人々に教えておけば、人は「そうか、犯罪は割に合わないな」と考えて、犯罪を犯さなくなるだろうと考えました。このあらかじめ罪と罰を決めて教えておくという考え方を「罪刑法定主義」といいます。
 ドストエフスキーは、政治集団に参加したため、銃殺刑を言い渡され、銃殺の直前に皇帝の恩赦でシベリアに流刑になり、そこで政治犯ばかりか多くの犯罪者を見、かつ交わるという経験をしました。この流刑地の体験以降、ドストエフスキーの作品の中心テーマは、悪の問題へと変わります。そのドストエフスキーにとって、この理詰めに計算すれば犯罪をしなくなるだろう、という発想はがまんならないものでした。多くの犯罪者を見た彼にとって、犯罪とは計算づくのものなどではなく、とどめがたい人間のどす黒い根元悪の噴出であり、そういう形でしかみずからの自由を表現することしかできない人間の最後の自己表現ですらありました。
 罪刑法定主義の古典、ベッカリーアの『犯罪と刑罰』とわざと同じような題名をつけた小説『罪と罰』では、彼は計算づくで金貸しの老婆を殺そうとする大学生を主人公に据えます。捕まったら割が合わない犯罪でも、ぜったい捕まらないなら割が合うではないか。金貸しの因業婆が死んで、若く有為な自分が勉学を続けることができるなら、それは社会的にも好ましいことだ。こうした理性的な計算に基づいて殺人を犯した大学生は、しかしそのとき犯行の計算違いから、金貸し婆の、信心深い、妹まで、殺してしまいます。彼の犯罪計算は狂ってしまったのです。このあと、計算づくではない、罪にたいする許しが、天使のような心をもつ娼婦の導きによって、主人公にもたらされるのです。
 カント倫理学は、理性の狂気を超えるために(神が命じ与えたであろう)原理からの理詰めの計算によって人間に道徳的にふるまわせようとします。この倫理学との対決こそ、ドストエフスキーの小説でめざしたものにほかなりません。
 と同時に、ドフトエフスキーは政治的党派がその独善性のあまり残虐な行動に走る姿を描きます。神が存在しないことで倫理が破棄され、党派の「正義」だけが突出するとき、目を背けたくなるような残虐な党派内部の粛正や党派による横暴がおこなわれます。『悪霊』という小説が描いたのはまさにそうした世界です。その射程は、連合赤軍事件、オウム真理教事件、など、現代まで届いています。
 ところでこの『悪霊』という小説ではくりかえし「ジュネーブ思想」という言葉が出てきます。「ジュネーブ思想」とは、スイスのジュネーブ出身の思想家ルソーの『社会契約論』のことをさしています。
(ちなみに、この『社会契約論』では、ロシア人は未発達な精神しか持っていない、とされています。ドフトエフスキーの『未成年』という小説の題名はこのルソーの批判からそのまま発案された題名だと思われます。つまり、「未成年」なのは主人公だけではなくて、ロシアの人々全体を指していて、主人公はそうしたロシア精神を代表しているのです)。

 ルソーの『社会契約論』
 ルソーの『社会契約論』というと、私たちは「倫理・社会」などで、民主主義の古典、と習ってきました。私もそう思いこんでいたのですが、大学卒業してから、はじめて読んでみて、びっくりしました。この本では、人民の「一般意志」を体現する立法者は独裁してもかまわない、とされているのです。つまり、人民の党による独裁が正当なものとされているのです。これは、(崩壊した)ソ連や中国共産党や北朝鮮の独裁を正当なものとする論理とそのままつながっています。ルソーの『社会契約論』というのは内部粛正と民衆の大量処刑を、「正しいこと」としておこなう党の論理を提示した本なのです。
 私見によれば、ドフトエフスキーはこの『社会契約論』の革命党による独裁の論理にあらがいつつも結局、乗り越えることができなかったように思えます。
 ところで、ルソーはどうしてこんな、人民を代表するがゆえに独裁できる党、という考えをもつようになったのでしょうか。
 理由はさまざまでしょうが、一つは彼の出身地にあるように思われます。彼の出身地、ジュネーブは、実は、カルヴァンという宗教改革者が独裁を敷いていた町だったのです。(ルソーは、立法者の独裁について述べているときに、注で、カルバンのジュネーブでの政治に言及しています)。
カルヴァンはジュネーブに人々に請われて指導・支配者となりました。しかしひとたび実権をにぎると厳しい規則を人々に強いて、違反者を処刑したりして、一種の恐怖政治をおこなったのです。ルソーはそうした、神の名のもとによる正義による、独裁政治の歴史をもつ町の出身者だったのです。
 
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
 話が脇道に行って長くなってしまいました。
 おそらくみなさんの中には、ヴェーバーについて解説書や教科書の記述を読んだ人もいらっしゃるかもしれません。その結果、みなさんの心のなかにはいくつかの紋切り型の先入観、とりわけヴェーバーは西洋の合理化を問題にした社会学者である、というようなイメージがすでに巣くっているかもしれません。そうした固定的なイメージからいったん自由になるために、この著作を解説していく前に、この『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかのある箇所をまず引用したいと思います。

 資本主義人の自問自答
 ヴェーバーはこの著作のなかで、「資本主義精神」にみたされた人々につぎのような(架空の)問いかけをしています。(正確にいうなら自問自答させています)。

「休みなく奔走(ほんそう)することの『意味』を彼ら(「資本主義精神」にみたされた人々)に問いかけて、そうした奔走のために片時も自分の財産を享受しようとしない態度は、純粋に現世的な生活目標から見ればまったくの無意味ではないかと問うとき、彼らは、もし答えうるとすれば、『子や孫への配慮』だと言うこともあるだろう。しかし、より多くは、---『子や孫への配慮』という動機は、明らかに彼らだけのものでなく、『伝統主義的』な人々にも同様にあるのだから---より正確に、自分にとっては不断の労働を伴う事業が『生活に不可欠なもの』となってしまっているからなのだ、と端的に答えるだろう。これこそ彼らの動機を説明する唯一の的確な解答であるとともに、事業のために人間が存在し、その逆でない、というその生活態度が、[個人の幸福の立場からみると] まったく非合理的だということを明白に物語っている。」(Archiv 54/RS・30/訳79-80頁。()は引用者挿入、[ ] は改定時(1920年)の加筆)。

この引用を問答形式に書き直してみましょう。

「なぜ楽しむことを知らずにそんなに休みなく働いているのです?」
「子どもたちに財産を残すためですよ。」
「でもそれは昔の人たちでも考えたことですよ。でも彼らはずいぶんのんびりと生活を楽しんでいきていました。決してあなたのようにあくせくと働いてはいませんでしたよ。」
「ええ、なるほどそうですね。」
「じゃ、なぜそんなに働くんですか。」
「まあ、働かずにはいられない、働いて事業を続けることが生活の不可欠なものになっているとでもいうですかね。」
「それじゃ、あなたという人間のために事業があるのではなく、事業のためにあなたは存在する、というわけですね。」
「まあ、そういうことになりますかね。」

 ずいぶん、意地悪な問いつめ方です。人が慣れ親しんで、すっかり同化していることを、ヴェーバーはことさら、あばきたてるように問いつめます。そうすることで私たちが、同化し慣れて「あたりまえ」に思っていることが、じつは倒錯した非合理なものにすぎないことが見えてきます。

 異化
 こうした技法をふつう「異化」と言います。「異化」(Verfremdung, differentiation)とは、「ロシア・フォルマリズムの芸術説で、日常見慣れた表現形式にある「よそよそしさ」を与えることによって異様なものに見せ、内容を一層よく感得させようとするもの」(『広辞苑』)です。
 演劇の世界で、これを中心的な手法としたのが、ブレヒト(Bert(olt) Brecht1898―1956)です。彼は「異化」について、「『三文オペラ』のための註」のなかでこう述べています。

「『三文オペラ』は、その表現する内容ばかりかその表現方法の点でも、市民的な物の考え方と密接に結びついている。それは劇場の観客がこの人生について見たいとのぞんでいるもののについての一種の講演である。だが同時に観客は、自分の見たくないものをもいくらか見せられる。つまり、自分の希望が実現されるのを見るだけではなく、それが批判されるのをも見る。(自分を主体としてだけでなく、客体としても見るのだ。)したがって、原則的には、演劇にある新しい機能を与えるようになる。」(『三文オペラ』165頁)

 さらにブレヒトはその演劇論でこう述べています。

「もはや観客は、自分の世界から芸術の世界へと誘い込まれるのではなく、むしろ反対に目さめた感覚をもって自分の現実的な世界に連れていかれねばならない。・・・その原理は感情同化のかわり異化を導き入れることである。
 異化とはなにか?
 ある出来事ないし性格を異化するというのは、簡単にいって、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。・・・異化するというのは、だから、歴史化することであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである。・・・劇場はもはや観客を酔っぱらわせたり、さまざまな錯覚を授けたり、この世界を忘れさせたり、自分の運命と妥協させたりしようとしない。これからは劇場はこの世界を、観客がそれに手を加えることができるような形で、観客に提供するのだ。」(『今日の世界は演劇によって再現できるか---ブレヒト演劇論集---』123-4頁)

 異化する精神
 すぐれた学者とはおうおうにして、驚くことの達人です。ヴェーバーはここで私たちが慣れきったことに、驚きかつあやしみ、そしてその懐疑へと私たちを誘おうとしているのです。
 このときヴェーバーは、いわゆる「合理化の社会学者」なのでしょうか。むしろ現代社会の人間の生き方の非合理性と倒錯性をあばきたてる「異化する精神」として私たちの前に登場しているというべきではないでしょうか。

 異邦人による異化
「ドワーズ」というロック・バンドの1967年の『まぼろしの世界』(Strange Days)というアルバムのなかに「まぼろしの世界」(People Are Strange)(作詞ジム・モリソンJim Morrison)という曲があります。その一節。

「きみが見知らぬひとであるとき、ひとびとは見慣れない奇妙なものになる」(People are strange when you're stranger.)

 ひとびとのまじめに働くそうしたあり方が「奇妙なもの」に見えるのは、それをみている彼がじつはそれまでの日常から外れて、異邦人のような存在になっているからです。逆にいえば、そうした異邦人の存在になったとき、はじめて日常世界のもつ倒錯性を見えてくるのです。

 ヴェーバーの生涯(異邦人への転落)
 ヴェーバーの場合、こうした「異化」を可能にしたものはなんだったのでしょうか。それは彼自身の失墜の経験です。
 ヴェーバーの生涯はその前半まではまさに順風満帆というしかないものでした。
 ヴェーバーは1864年4月21日にエルフルトというワイマールの近くの町でうまれたした。父は富裕な亜麻(アマ)布(リネン)商人の家系を引く国民自由党代議士、母は敬虔なピューリタンです。長じてハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律、経済、哲学、歴史を学びました。卒業後、一時司法官試補として裁判所に勤務したのち、学究生活に入りました。92年ベルリン大学でローマ法、商法を講じ、1994年に30歳の若さでフライブルク大学の国民経済学教授となり、1897年にはハイデルベルク大学の正教授となっています。
 今日の日本でも法学部などは25歳で助教授、35歳ぐらいで教授になったりします。ですからこの経歴は異例とまでは言えないでしょう。(ニーチェは22歳でバーゼル大学古典文学の正教授になっています。異例というならそういうのを指すべきでしょう)。しかしやはりきわめて順調な、まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」の出世ぶりだったことは間違いありません。同時代の社会学者ジンメル(1858-1918)がずっとベルリン大学の私講師にとどめおかれ、ストラスブール教授のなったのはその晩年(1914)だったこと。さらに当時からすでに社会学の古典的著作とみなされていた『ゲマンンシャフトとゲゼルシャフト』(1887)を書いたテンニース(1855-1936)がキール大学に教授になったのが1913年だったこと。どちらも50歳をすぎてようやく教授になったことを考えると、ヴェーバーの経歴がいかに恵まれていたかわかるでしょう。
 しかし1976年に母の財産処理について父を厳しく追求し、その直後に父親が旅行中に死んでしまってから、彼の運命は急に暗転します。それ以後彼は神経疾患に悩まされるようになり、やがて研究も教育もできなくなりました。1903年ついにハイデルベルク大学を辞めて形ばかりの「名誉教授」となり、遺産と年金によって暮らすことになります。活動はもっぱら友人と自分が編集している『社会科学・社会政策アルヒーフ』に論文を書くことと『フランクフルト新聞』(ドイツの主要新聞『フランクフルト・アルゲマイネ』の前身)に論説を書くことなどに費やされました。私たちが知っている彼の業績の主要なものはほとんどこの時期に書かれたものです。
 教職にもどるのは、第一次世界大戦がおわった1918年のヴィーン大学からで、よく1909年ミュンヒェン大学に就任します。しかし1920年6月スペイン風から肺炎を併発。14日に56歳で死去しています。
ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)を書いたのは、彼が社会的な日の当たる場所から完全に身を引いた後です。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、コースアウトしてしまった人間が、それまでコースのなかで必死に働いてきた自分を振り返り、あれはいったい何だったのだろうかと自問自答する、そうした作品になっているのです。ですからさきほど引用した自問自答はじつはヴェーバー自身の自問自答だったのです。

 当たり前を当たり前でなくする(異化する)社会学
 私見によれば、社会学とは、近代という時代を、そのなかに投げ込まれた個人の側から疑問を提示しつつとらえ返していく学問です。そのためにはこの社会で「当たり前」とされていることを、ある種の違和感をもって見つめ直すことが必要です。つまり日常のあたりまえと思われていることを異邦人のまなざしで異化するという性格を社会学は必然的にもたざるを得ないのではないかと私は考えています。
 じつはヴェーバーの社会学には、アメリカ流の社会学の内容は、まるでありません。ですからヴェーバーをいくら読んでもアメリカ的な社会学の教科書にのるような知識はほとんど増えません。またヴェーバーを読むのに必要な知識も、社会学の知識ではありません。むしろ歴史的な知識です。ですからヴェーバーが「社会学者」であるとされているのは、社会学が自分たちの権威づけのために偉い学者の名前を借りている、という面がかなりあるように思います。つまり社会学者は「虎の威を借りる狐」なのです。ヴェーバーの業績ははたしてアメリカ流の社会学のせまい枠に収まるものなのだろうか。私はしばしば疑問に思うことがあります。
 しかしすくなくとも、この「異化する精神」を持っているという一点だけでも、ヴェーバーは社会学者いがいの何者でもないといえるのではないか。わたしはそう思うのです。
 まえおきがたいへん長くなってしまいました。では『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の内容をみていくことにしましょう。
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by takumi429 | 2013-04-14 23:33 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

1.序

ヴェーバー宗教社会学講義

1.序
この講義は、ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバー(1864-1920)の書いた、『宗教社会学論集』全3巻、を読み解きながら、世界の諸宗教とそれを生み出した社会についての概観を得る、と同時に、西洋近代社会というものがいかなる原理を持つ社会なのか、を解明していこうとするものです。

『宗教社会学論集』の構成
ヴェーバーの『宗教社会学論集』は、以下のような構成をもつ論文集です。

序言
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
プロテスタンティズムの教派と資本主義の精神
世界宗教の経済倫理
 序論
 儒教と道教
 中間考察
 ヒンドゥー教と仏教
 古代ユダヤ教
 (付録:パリサイびと)

 この論文集は、キリスト教、儒教、道教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、ユダヤ教の諸宗教を考察するのみならず、中国、インド、東南アジア、中央アジア、極東、中近東、西洋の、社会と歴史を、その自然条件・経済・政治・文化などのさまざまな側面から考察し、かつそれを統一的な社会像として把握しようとするものでした。まさに社会をまるごと把握しようとする野心にみちた論文集であり、その把握の目指すものは、私達を今覆い支配している近代社会というものが何であるのか、という社会学固有の問いに答えようとする作品でした。
 ヴェーバー自身が後世に残そうとして、まとめた(まとめかけた)論文集はこの論文集だけでした。その作品の影響力、その透徹した視野、完成度において、マックス・ヴェーバーの最高傑作というだけではなく、社会学の歴史にそびえる巨大な壁のような古典的作品群であると言えると思います。
 私達は、この論文集がどのように書かれ作られていったのか、作品形成をたどることで、この論文集を貫く、ヴェーバーの問題意識を明らかにしつつ、この論文を読み解いていくことにします。その過程で、彼の教科書的な遺稿である『経済と社会』、とりわけ、その中の『宗教社会学』や、そのほかの論文を、あくまでもこの論文集のとの関わりにおいてではありますが、扱いたいと思います。

『宗教社会学論集』の成り立ち
作品の形成と言いましたが、この『宗教社会学論集』は次の順で書かれました。
まず、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が1905年にヴェーバーが編集する『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表されました。
つぎに11年のブランクのあとに、
「世界宗教の経済倫理」の「序論」・「儒教」・「中間考察」が1916年に、同じく『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表されました。
ヴェーバーは以上の論文を改訂して『宗教社会学論集第1巻』として1920年に発刊しました。その際、
この『宗教社会学論集』全体の「序言」が新たに書かれ、
また、
「プロテスタンティズムの教派と資本主義の精神」という論文が追加されました。
また、その他の論文も改訂されましたが、とくに「儒教」は大幅に増補改訂されて題名も
「儒教と道教」となりました。
「ヒンドゥー教と仏教」は1916-17年に『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表され、
「古代ユダヤ教」は1917-19年に『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表されました。
ヴェーバーが1920年に死んだために、この2つの論文は改訂されることなく、そのまま
『宗教社会学論集』の第2巻と第3巻となり1921年に発刊されました。
なお、第3巻には、遺稿であった「パリサイびと」が付録として追加されました。

では、ヴェーバーの最も有名でかつ影響力を持ち、この巨大な論文集の出発点ともなった論文、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をさっそく見ていくことにしましょう。
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by takumi429 | 2013-04-14 23:32 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)