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まとめ

まとめ

カントの『純粋理性批判』。純粋な理性は左頁では「神はいる」と言う。そして右頁ではこう言う、「神はいない」と。純粋な理性というものが、そうした自己分裂、いわば「狂気」におちいっていることを、カントはこの『純粋理性批判』のなかでえがきました。
理詰めだけで考えていくと、神の存在さえどうにでも言える、つまり無根拠なものになったしまう。それが私たち近代人のおかれた精神的状況です。あらゆる道徳倫理の根拠だった神が空位となった時代。それが現代です。
テレビの番組での「人を殺して何が悪いのですか」という子どもの問いかけに絶句し答えられない識者を、もはや誰も笑うことはできないのです。

かつて「神はいる」と信じた人たちがおり、その人たちはこの世界をたしかに変えて来ました。しかし、世界はどう変わったのでしょうか。人を殺してはいけない、その理由をはっきりと言うことができない、そうした世界に変わったです。
宗教が宗教の欠落した世界を生んでしまった、この恐るべき逆説(パラドックス)。この逆説的発展の帰結としての近代社会において、それでもなお、もはや唱えるべき神の名を持たないにもかかわらず、ひとびとに声をあげ訴えようともがく人間、そういう人間として私たちはマックス・ヴェーバーをとらえたいと思います。

宗教と世俗の世界との逆説的な関係は、彼の最初の宗教社会学的論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、すでに明らかです。

教皇庁が発行している贖宥状を批判することで宗教改革をはじめることになったマルチン・ルターがその職業概念(職業のとらえかた)において、宗教者の仕事(聖職)ばかりか、いっぱんの仕事まで、聖職と同じ「ベルーフ」(Beruf)(神から与えられた使命)だととらえようとしたことで、一般の仕事、とくに営利活動(金もうけ)も、けっしていやしい仕事ではないのだとされました。
ジュネーブで厳格な宗教政治をおこなったカルヴァンは人間は救いに予定されている者と滅びに予定されている者に分けられるとしました。カルヴァン派の人々は、その仕事の成果、具体的には、その営業成果(もうけ)が多ければ多いほど、自分は救われる予定にある、と思いこみ、そうした「救いの証し」を求めて、金儲けの仕事を神からの使命だとおもって一生懸命にするようになりました。あるいは、雇われ仕事を使命だと思ってまじめに働くようになりました。そうして営利活動をする資本家と労働者が生まれ、資本主義が成立しました。
しかしいったんこの資本主義が生まれると、こんどはそれ以外の生活態度は許されなくなります。私たちは信仰のためではなく、社会から脱落しないために、必死になって働くしかないのです。

硬直したシステムが支配する現代にあってそのシステムを打ち壊し刷新していくにはどうしたらいいのか。そうした革新と刷新をおこなえる人間はどのような思想を持っているのか。
ヴェーバーはそうした人間像を過去の宗教のなかに探ります。それがかれの『宗教社会学論集』です。この書はヴェーバーの模索の書、いわばこれは「精神の遍歴」なのです。

硬直したシステムとしてヴェーバーが問題視したもののひとつが官僚制でした。
官僚の精神を体現しているのが、孔子を開祖とする儒教です。冠婚葬祭の業者だった孔子とその弟子によるこの思想は、つつがなく破綻なく祭り事がおこなわれることを目的としており、そうしたうわべの端正さ(礼)に至上の価値をおきます。
中国歴代王朝が採用した人材登用試験(科挙)の試験内容にこの儒教が採用されることで、この儒教は中国の政治・知識エリートの哲学となったのです。
しかし、一般の人びとは、まじない(呪術)を信じていました。
呪術には、似た動作や、似たものに加えた行為は同じ効果をもたらすという原理にもとづく、類感呪術と、いちどふれあったものや、体の一部は、本体と離れたのちも、本体に影響を及ぼすという原理にもとづく、感染呪術があります。
宗教は神に懇願・崇拝するのに対して、呪術は神的な力に操ろうとします。
中国では呪術や占いは道教としてまとめられました。儒教はそうしたまじないなどを軽蔑しながらも改めることはありませんでした。こうした役人根性の哲学は世俗に適合することはできても世俗を変えることはできなかったのです。もちろん、そうした精神風土のなかでは資本主義は生まれることもありませんでした。

ではそうした世俗世界を否定するような宗教思想はなかったのでしょうか。
ヴェーバーはそれをインドの宗教思想に見ます。
インド古来のブラスマン教(バラモン教)では、人間の霊魂は、業の輪廻(めぐり)によって永遠に生まれ変わるとされます。生き物は前世におかした罪(業)を引き継ぎ現世に生まれ変わり、現世に犯した罪を、来世に生まれ変わって背負う。こうして因果応報をうけつつ転生を重ねていくというのです。
この輪廻転生からの離脱こそ、インドの宗教思想がめざしたもののです。
ブッダは、こうした輪廻転生をとげていく人生そのものが苦にほかならないとしました。これが「一切皆苦」の教えでです。そのことを知って正しく実践することで、この苦の連鎖から離脱する、すなわち涅槃にいたるのだとしました。
しかしブッダの教えは現実世界から離脱していく修行僧の宗教でした。
それにたいしてブッタの骨をおさめた仏塔を礼拝する在家信者たちからうまれたのが大乗仏教でした。大乗仏教は、現実世界から逃避することができない一般の人びとはどうすれば救われるのかという問題にこたえようとしました。仏となるために修行している人で、人びとを救うために力をつくす人を菩薩と呼びます。大乗仏教では菩薩はブッダだけではなく、たくさんおり、人びとを救うのだとしました。つまり、菩薩とは大衆を救うためにあえて仏となって涅槃に行けるのを思いとどまっている、一種の救世主なのです。
この菩薩の考えかをを全面にだすことで仏教は大衆救済宗教となりました。
さらに仏教は呪術や民間信仰をとりいれインドのあった性力(シャクティ)の秘儀をとりいれることで密教となりました。しかし、その結果、一般大衆の性的・呪術的な信仰のなかに飲み込まれてしまいました。
この後期密教は、唯一、チベットに伝来することで、人間の心身と清濁のすべてをとらえるチベット密教として現在まで生き残ることになりました。
世俗否定的でかつ世俗から離脱しようとした仏教は、結局、一般世界を変えることはできず、それに向きあうとそれに迎合(適合)するしかなかったのです。

もともとのインドの宗教であったバラモン教は、仏教やジャイナ教などの異端を生み出した後、ヒンドゥー教として復興しました。
ヒンドゥー教の神はブラーフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神の3つです。とりわけ、ヴィシュヌ神とシヴァ神が信仰されました。
ヒンドゥー教では、行為の成果を思わず、義務ダルマをたんたんとおこなうことで、輪廻の輪にまきこまれず離脱できる、とされました。それを特に説いたのが、叙事詩『マハーバーラタ』のなかの「バァガット・ギーター」です。しかし結果を思わずというだけでは心の持って行きように困ります。そこで、ヴィシュヌ神あるいはシバ神のことを激しく思って行為することが勧められました。こうした神への激しい信仰(信愛バクティ)が推奨されることになりました。

こうして世俗に迎合する宗教思想も世俗を否定しそこから離れていく宗教思想も、一般世界(世俗)を変えていく力にはなりませんでした。いまある世界(世俗)を否定しつつそれに激しく関わりそれを変えていくような宗教思想。そうした世界を支配する宗教思想としてヴェーバーがたどり着いたのが古代ユダヤの宗教、とりわけその預言者の思想でした。

都市の王や貴族によって抑圧され奴隷にされることに抵抗し都市から逃げ出したカナンの人びとは、同じようにエジプトの王の元から逃げてきたモーゼがもたらしたヤハウェという神を受け入れ、このヤハウェの名の下に立ち上がり、イスラエル人を名乗り、王侯貴族を打倒しました。ところがみずからの国をつくるとふただび王がうまれ人びとを搾取し隷属させようとします。王制を批判する人びとは、人びとを開放した戦争神ヤハウェを持ち出すことで王制を批判します。イスラエルがその両側にある大国によって滅ぼされると、民衆解放の神ヤハウェをないがしろにしたからであると預言者は訴えました。預言はさらに、ヤハウェはエジプト、アッシリア、新バビロニアの帝国をも操って、自らの神殿さえ壊して、イスラエル(のちにユダヤ)の人びとを罰するのだと訴えました。その結果、ヤハウェ神は、世界を支配する神となり、バビロン捕囚後には、唯一絶対の神となったのでした。こうして、ただ1人の神を崇拝する一神教がうまれました。

ユダヤ人やアラビア人などのセム族には、神の言葉を預かる預言者の系譜がありました。その系譜の最後に立ち、ユダヤ教・キリスト教の神観の元に新しい宗教をたちあげたのがマホメットでした。マホメットはユダヤ教・キリスト教の一神教を受け入れ、より簡単にしかしより力強いものとしたのでした。

ヴェーバーが、『古代ユダヤ教』を書いていた時、ドイツ帝国は第一世界大戦のさなか、亡国の危機にありました。その時、あえて亡国の危機にあることを告げる預言者となろうとヴェーバー自身はしていたのです。それはまさに「神なき時代の預言者」たらんとした英雄的で悲劇的な生き様だったのです。
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by takumi429 | 2013-07-02 09:40 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)