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2.マルクス 資本主義としての近代(1)

 2.マルクス 資本主義としての近代

 私たちが生きているこの社会環境(近代社会)とはどんな社会なのか。その診断としてもっとも有名でかついまだ影響力の強いのは、カール・マルクス(Karl Marx 1818 - 1883)のくだした診断です。マルクスによれば、近代社会とは資本主義に支配された社会です。
 この資本主義においてはどのようなことが起きているのか。まず、ある短い小説を読んでみることにしましょう。

 セメント樽の中の手紙
 葉山嘉樹(はやまよしき)(1926年)
 松戸与三はセメントあけをやっていた。外の部分は大して目立たなかったけれど、頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽(おお)われていた。彼は鼻の穴に指を突っ込んで、鉄筋コンクリートのように、鼻毛をしゃちこばらせている、コンクリートを除(と)りたかったのだが一分間に十才ずつ吐き出す、コンクリートミキサーに、間に合わせるためには、とても指を鼻の穴に持って行く間はなかった。
 彼は鼻の穴を気にしながら遂々(とうとう)十一時間、――その間に昼飯と三時休みと二度だけ休みがあったんだが、昼の時は腹の空(す)いてる為めに、も一つはミキサーを掃除していて暇がなかったため、遂々(とうとう)鼻にまで手が届かなかった――の間、鼻を掃除しなかった。彼の鼻は石膏(せっこう)細工の鼻のように硬化したようだった。
 彼が仕舞(しまい)時分に、ヘトヘトになった手で移した、セメントの樽(たる)から小さな木の箱が出た。
「何だろう?」と彼はちょっと不審に思ったが、そんなものに構って居られなかった。彼はシャヴルで、セメン桝(ます)にセメントを量(はか)り込んだ。そして桝(ます)から舟へセメントを空けると又すぐその樽を空けにかかった。
「だが待てよ。セメント樽から箱が出るって法はねえぞ」
 彼は小箱を拾って、腹かけの丼(どんぶり)の中へ投(ほう)り込んだ。箱は軽かった。
「軽い処を見ると、金も入っていねえようだな」
 彼は、考える間もなく次の樽を空け、次の桝を量らねばならなかった。
 ミキサーはやがて空廻(からまわ)りを始めた。コンクリがすんで終業時間になった。
 彼は、ミキサーに引いてあるゴムホースの水で、一(ひ)と先(ま)ず顔や手を洗った。そして弁当箱を首に巻きつけて、一杯飲んで食うことを専門に考えながら、彼の長屋へ帰って行った。発電所は八分通り出来上っていた。夕暗に聳(そび)える恵那山(えなさん)は真っ白に雪を被(かぶ)っていた。汗ばんだ体は、急に凍(こご)えるように冷たさを感じ始めた。彼の通る足下(あしもと)では木曾川の水が白く泡(あわ)を噛(か)んで、吠(ほ)えていた。
「チェッ! やり切れねえなあ、嬶(かかあ)は又腹を膨(ふく)らかしやがったし、……」彼はウヨウヨしている子供のことや、又此寒さを目がけて産(うま)れる子供のことや、滅茶苦茶に産む嬶の事を考えると、全くがっかりしてしまった。
「一円九十銭の日当の中から、日に、五十銭の米を二升食われて、九十銭で着たり、住んだり、箆棒奴(べらぼうめ)! どうして飲めるんだい!」
 が、フト彼は丼の中にある小箱の事を思い出した。彼は箱についてるセメントを、ズボンの尻でこすった。
 箱には何にも書いてなかった。そのくせ、頑丈(がんじょう)に釘づけしてあった。
「思わせ振りしやがらあ、釘づけなんぞにしやがって」
 彼は石の上へ箱を打(ぶ)っ付けた。が、壊われなかったので、此の世の中でも踏みつぶす気になって、自棄(やけ)に踏みつけた。
 彼が拾った小箱の中からは、ボロに包んだ紙切れが出た。それにはこう書いてあった。

 ――私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器(クラッシャー)へ石を入れることを仕事にしていました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌(はま)りました。
 仲間の人たちは、助け出そうとしましたけれど、水の中へ溺(おぼ)れるように、石の下へ私の恋人は沈んで行きました。そして、石と恋人の体とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒(ふんさいとう)へ入って行きました。そこで鋼鉄の弾丸と一緒になって、細(こまか)く細く、はげしい音に呪(のろい)の声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントとなりました。
 骨も、肉も、魂も、粉々になりました。私の恋人の一切はセメントになってしまいました。残ったものはこの仕事着のボロ許(ばか)りです。私は恋人を入れる袋を縫っています。
 私の恋人はセメントになりました。私はその次の日、この手紙を書いて此樽の中へ、そうと仕舞い込みました。
 あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相(かわいそう)だと思って、お返事下さい。
 此樽の中のセメントは何に使われましたでしょうか、私はそれが知りとう御座います。
 私の恋人は幾樽のセメントになったでしょうか、そしてどんなに方々へ使われるのでしょうか。あなたは左官屋さんですか、それとも建築屋さんですか。
 私は私の恋人が、劇場の廊下になったり、大きな邸宅の塀(へい)になったりするのを見るに忍びません。ですけれどそれをどうして私に止めることができましょう! あなたが、若し労働者だったら、此セメントを、そんな処に使わないで下さい。
 いいえ、ようございます、どんな処にでも使って下さい。私の恋人は、どんな処に埋められても、その処々によってきっといい事をします。構いませんわ、あの人は気象(きしょう)の確(しっ)かりした人ですから、きっとそれ相当な働きをしますわ。
 あの人は優(やさ)しい、いい人でしたわ。そして確かりした男らしい人でしたわ。未(ま)だ若うございました。二十六になった許(ばか)りでした。あの人はどんなに私を可愛がって呉れたか知れませんでした。それだのに、私はあの人に経帷布(きょうかたびら)を着せる代りに、セメント袋を着せているのですわ! あの人は棺(かん)に入らないで回転窯(かいてんがま)の中へ入ってしまいましたわ。
 私はどうして、あの人を送って行きましょう。あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬(ほうむ)られているのですもの。
 あなたが、若(も)し労働者だったら、私にお返事下さいね。その代り、私の恋人の着ていた仕事着の裂(きれ)を、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがそうなのですよ。この裂には石の粉と、あの人の汗とが浸(し)み込んでいるのですよ。あの人が、この裂の仕事着で、どんなに固く私を抱いて呉れたことでしょう。
 お願いですからね。此セメントを使った月日と、それから委(くわ)しい所書と、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、御迷惑でなかったら、是非々々お知らせ下さいね。あなたも御用心なさいませ。さようなら。

 松戸与三は、湧(わ)きかえるような、子供たちの騒ぎを身の廻りに覚えた。
 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻(あお)った。
「へべれけに酔っ払いてえなあ。そうして何もかも打(ぶ)ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。
「へべれけになって暴(あば)れられて堪(たま)るもんですか、子供たちをどうします」
 細君がそう云った。
 彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。
(大正十五年一月)

 すぐれた作品なので、あえて全文を引用しました。この小説は教科書にも採用されているので、お読みになったかたも多いでしょう。プロレタリア文学の傑作と言っていい短編です。
 実際に、粉砕機のなかに人が飲み込まれてしまったら、コンクリートの質が落ちますから、機械を止めるにちがいありません。ですから、この話はあくまでもフィクション(作り話)です。にもかかわらず、読み手にずっしりとしたリアリティを感じさせるのは、作者の葉山嘉樹が実際にセメント工場で働き、その体験のなかで、資本主義における労働というものを、理屈だけでなく体で理解しているからです。
 労働者の命がセメントになるというのは、粉砕機に飲み込まれた青年だけではありません。鼻にコンクリートの粉がつまって徐々に鼻がコンクリートになっていく主人公もまたコンクリートへとその生命を変質させているのです。そして彼らの命はコンクリートにかえられ、それを生み出した労働者のあずかり知らぬところへと、商品として、売られていくのです。
 主人公が休むどころか鼻をかくひまもなく働いても、支払われるのは、自分と家族を維持するぎりぎりの賃金でしかありません。労働者は酒を飲んで余暇を楽しみむこともできません。わずかな賃金で、自らの労働力を再生産し、かつ子どもをつくることで、次世代の労働力を再生産するのです。

 こうした労働のあり方というのはもう過去のものなのでしょうか。いえ、そうとはいえないように思えます。森岡孝二の『過労死は何を告発しているのか 現代日本の企業と労働』(岩波書店2013年)を読んでみると、欧米先進国が週40時間ちょっとの労働時間に対して、日本の労働者は正社員で53時間も働いており、その中で、過労死や過労自殺に追いやられていることがわかります。この小説の現実は、こと日本に限ってみれば今だに続いていると言えるのです。
 ここで、「資本主義」というものを、すこしこの小説の読書感に近づけて定義してみましょう。
 資本主義とは、
 生産の現場で、労働者は命をけずって物を作っている。彼らの生命は生産物となる。だがその生産物は、すべて資本家のものとなり、市場で商品として切り売りされる。労働者がその品物にどんな思い入れを込めようと、それは商品となり、いくらで売れるか、お金(貨幣)で、その価値は計られる。こうして労働者の働きは、金(貨幣)で売り買いされる商品にされる。また資本家も、お金(資本)を増やすように命じられており、それに失敗すれば倒産するほかはない。つまり、資本家は、「人格化された資本」das personilizierte Kapital であって、拡大を続けようとする資本(お金)に操られた人形である。こうした、命をけずり切り売りするしかない労働者と、その労働者を雇い資本を増大することを絶対命令として経営する資本家との関係が、社会の支配的基調となっている社会、それを「資本主義」と呼ぶ。

 商品の世界 
 資本主義では、マルクスが『資本論』(第1巻1967年)の冒頭でいったように、社会の富は「とほうもない商品のあつまり」 として、現れます。みなさんも、巨大なショッピング・モールやデパートに行った時のことを思ってください。膨大な数の商品がきらびやかに輝きながら私たちを迎え、わたしたちに「豊かさ」の世界へと誘ってくれます。
 あらゆるものが、「商品」として現れる。その気になればそれを「買うことができる」。品物だけでなく、若さも美さえも、成長ホルモンなどのアンチエイジングの薬を買い、スポーツジムの会員になって加圧トレーニングを受ける、それでもだめなら整形手術を受ければ、手に入る。幸福さえ、金があれば手に入る。貧乏は体だけでなく心まで蝕みます。「良い性格」は豊かな恵まれた生活のなかで育まれます(それを理解できない人は苦労をしたことがない人です)。若さも美しさも幸せも健やかな生活も心も、すべて金さえあれば「手に入れることができる」。それがあらゆる「豊かさ」が「商品」として現れている資本主義の世界です。
 市場社会の奇妙な等号
 さてこの商品世界ではひとつの奇妙な等号があります。
 いま、あなたが、お父さんの形見の万年筆を、質屋かどこかで、売ろうとしたとします。あなたがお父さんの形見の万年筆を使っているといくつも思い出がよみがえってくることでしょう。少々引っかかりのあるその筆感さえ、味わい深いものであるかもしれません。しかし、それを売ろうとすると、とたんに、たとえば、「150円」というような値段が付けられます。思い出深い万年筆も、売りに出そうとすると、自販機のペットボトルのお茶と同じ値段のものでしかない。
 マルクスはここで、品物が2つの価値を持っていると言います。
つまり、使う者にとっての品物の価値、これを「使用価値」といいます。父の形見の万年筆は、思い出の詰まった品物です。しかしこれを売りに出した時には、たんなる「古いボロの万年筆」にすぎません。こうして売りに出そうとしたときの価値を「交換価値」、あるいは単純に「価値」といいます。つまりいわゆる「商品価値」です。
 ここではちょっと奇妙な等号(イコール)がみられます。つまり、使用価値はまったく異なっている物が、交換価値は同じだとされるのです。父の形見の万年筆は、もちろん自販機のペットボトルのお茶とは、別物です。でもその(交換)価値、商品価値においては、同じものだとみなされるのです。そしてこの(交換)価値を体現するものとして、お金(貨幣)が出現します。
 お金によるものの商品化
 お金はその商品価値を示すだけではありません。もしお金がない物々交換の世界では、万年筆とお茶の交換が成立機会というのはほとんどないでしょう。たまたま、いらなくなった古万年筆をもっていてお茶が飲みたくなった人と、たまたま、万年筆がほしくてしかもペットボトルのお茶をもっているけどいらない人、そんな二人が遭遇する、なんてことは万ひとつもあるものではありません。でも、お金を媒介にしすれば、べつにそんな特殊な欲望をもった人が遭遇する必要はありません。万年筆を売りたい人はそれを売ってわずかな金にかえる。ペットボトルのお茶を売る人は150円出してくれる人に売ればいいだけのことです。物々交換の同時性はなくなり、商品の交換はきわめてフレキシブルなものになり、より自由にたくさんのものがお金と交換されることで商品となることができるのです。つまり、貨幣(お金)の媒介によって、物々交換という限定された交換から、商品交換(市場)の世界が出現するわけです。
 お金(貨幣)は、品物と品物のたんになかだち(媒介)するものから、その品物の商品としての価値を示すものとなります。さらに、お金(貨幣)をなかだちすることで、交換物々交換のもっていた、互いに相手のものを欲しているひとが遭遇するという、制限から自由になり、交換は格段に拡大します。結果、それまで売りに出されそうもなかったようなものまでが商品へとなっていきます。そして、貨幣はあらゆるものを購買できることから、貨幣の所有はあらゆるものを購買し使用できる可能性を溜め込んだ(ストックした)ものとして現れるのです。そう、「金さえあれば何でもできる」のです。

 貨幣のブランウン運動
 商品交換(売買)によって、お金(貨幣)は人の手から人の手へと渡り歩いていきます。
市場における商品交換(売買)は、お金(貨幣)の動きとして現れます。それはちょうどブラウン運動に似ています。ブラウン運動とは、浮遊する微粒子がそれに衝突するいくつも分子のために、ふらふらと自分で動いているように見える現象をいいます。商品交換によってお金(貨幣)はまるで自律的に市場のなかを動き回ってみえるわけです。
 売り手も買い手もその品物にはさまざまな思い入れや来歴があるはずです。でも商品市場ではそういったことはいったん捨象して、品物と品物の交換、お金のやり取りだけが問題とされ、売り手と買い手は、金のやりとりしている「担い手」として現れてきます。
 マルクスはこう言っています。
「物の使用価値は人間にとって交換なしに、つまり物と人との直接的関係において実現されるが、物の価値は逆にただ交換においてのみ、すなわち1つの社会的過程においてのみ実現される・・・。ここ〔市場〕では、人々はただお互いに商品の代表者としてのみ、存在する。・・・人々の経済的扮装はただ経済的諸関係の人化Personifikationenでしかないのであり、人々はこの経済的諸関係の担い手として互いにに相対するのだ・・・。」
「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに逆に、商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみあらわれるのである。」
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by takumi429 | 2016-04-22 00:06 | 社会学史 | Comments(0)

2.マルクス 資本主義としての近代(2)

 金をやりとりする手
 そうした売り手・買い手の個々人の顔を見ないで、金のやり手としてだけ見る、というか、そのようにやり取りが現れてくるというのは、ちょうど、ステファン・ツヴァイク(1881-1941)の小説「女の二十四時間」のつぎのような箇所に似ているかもしれません。
「わたしは賭博場にはいり、自分では賭けずに机のあいだをぶらぶら歩きまわって いました。ごちゃまぜになった組の者たちを、特別な方法でながめていたのです。特別な方法で、と申しましたが、これは死んだ夫があるとき教えてくれたものなのです。・・・つまり、けっして人の顔を見ずに、四角四面な机の面(おもて)だけを見、さらにそこにのっている人間の手と、そのおのおの独自なしぐさだけを見るという方法なのです。・・・あの緑色の長方形の盤だけをです。そのまんなかで、珠がよいどれのように数字から数字へとよろめうごけば、まるで畠にたねでもまくかのように、うずまく紙幣やら、まるい金貨や銀貨やらが、四角にくぎられたかこいのなかに落ち、と、さっとばかり大がまで刈るように、それを管理人〔ディーラー〕の熊手がひっさらってゆき、あるいは、まるで穀物のたばのように、それを勝つた者のところにしゃくってやる、といったぐあいです。速近法的に焦点をあわせれば、この場合変化しうる唯一のものは、手なのです――緑色のテーブルのまわりにぐるりとならび、白くぬきでてものまち顔の、そわそわとおちつかないたくさんの手なのです。・・・実際この突発的な手の動作こそは、常に各種各様の気性を背おったものであり、それぞれがみんなことなったものである上に、また常に思いがけない意外なものでもあるのです。・・・実に幾千という各種各様の手があるものなのです。毛のはえたまがった指があり、卿蛛のように金をわしづかみ にする野獣のような手、靑ざめた爪がついて、金をつかむこともできなさそうな、ふるえる神経質な手、高貴な手、下賎な手、残忍な手、内気な手、狡猾な手、それからいわばロごもるような舌たらずの手――しかしそのどれもがことなった印象をあたえるのです。これらの一対の手が、どれを取りあげてみてもそれぞれの特殊な生活を表現しているからです。」
 ある日、この婦人はカジノで異様な手を見つけ、その手の持ち主をつい見てしまいます。。手の持ち主は、たまたま初めて立ち寄ったカジノで大当たりを取ってしまったために、賭け続けて破産しつつあった青年でした。異常な興奮状態の彼に巻き込まれて情事を重ねてしまった婦人は、帰るための旅費を彼に渡します。ところがまたカジノに行くと、その金をつぎ込んでいる青年をみつけます。婦人が叱責すると、青年は激昂して婦人を床に叩き伏せます。カジノを去った婦人は、風の便りに、数日後破産し破滅した青年が自殺したと知るのでした。

 ここでは、手は口ほどに物を言い、というふうに、手にその人間の本質が現れてくると婦人は語っています。でもたまたまビギナーズ・ラックで大当たりを取ってしまって、カジノにのめり込み破滅することになった青年の手は、彼の性格を現すというより、カジノのもつ魔力、金の魔力に魅入られた手だと言うべきでしょう。人びとは金をやりとりする担い手となり、その金によって底なしの欲望をいだき破滅していくのです。

 労働者の「搾取」とは
 さてこの資本主義では労働者は搾取されているとマルクスは言います。つまり、労働者が生産現場で生み出した「剰余価値」が、資本家によって奪われているというのです。剰余価値についての岩井克人の明快な説明を引きましょう。

「剰余価値とは、貨幣の蓄積を目標とする産業資本家と、自らの労働力を商品として自由に処分でき、同時に自らの労働力を生産物の形で実現するための生産手段から切り離されているという『二重の意味で自由な』労働者が、市場で接触することによって生じる…。具体的には、それは、産業資本主義経済における資本家は、労働市場で商品として購入した労働力を生産過程で使用することによって、労働力の再生産に必要な生活手段の価値(すなわち労賃の形で支払われる労働力の価値)と生産過程で消費あるいは減耗したさまざまな原材料および生産手段の価値との和以上の総価値をもつ生産物を生産することができる…。そして産業資本家自身のものとなるこの価値の剰余部分が「剰余価値」と呼ばれるのである。さらに詳しく言えば、産業資本主義社会において剰余価値は二通りの仕方で生み出すことができる。一つは労働者の労働時間の延長あるいは労働の強化であり、それによって発生した剰余価値は「絶対的剰余価値」と呼ばれる。もう一つは、労働時間あるいは労働の強化が固定されている中で、労働の生産性を一般的に高めることによって労働力の再生産に必要な生活手段の価値を相対的に低下させることであり、それによって発生した剰余価値は「相対的剰余価値」と呼ばれる」。
「いま、ある企業家が新たな技術の採用すなわち『技術革新』によって他の企業家に先がけて労働の生産性を高めることに成功したとしよう。この企業家が生産物を旧来の技術の下で成立していた市場価格で売るならば、彼は労働生産性の上昇分だけ他の企業家以上の利潤を獲得するはずである。マルクスの言う『特別剰余価値』とは、このようにして革新に成功した企業家の手元に残る超過利潤のことである」。

 つまり、剰余価値とは、生産物に込められた、労賃分の労働力と原材料生産手段の価値より以上の、労働力です。また絶対的剰余価値とは、労働者の労働時間の延長あるいは労働の強化で得られる剰余価値のことであり、相対的剰余価値とは、労働の生産性を一般的に高めることによって労働力の再生産に必要な生活手段の価値を相対的に低下させることによって発生した剰余価値です。また特別剰余価値とは、技術革新によって労働の生産性をあげることで獲得された剰余価値のことです。資本主義とは資本家がこの労働者のうみだした剰余価値を奪い、市場で金にかえて、それを自分の資本とし、それをさらに投入して生産していくしくみにほかなりません。

 システムとシステムの差異
 岩井克人は、さらにすすんで、あらゆる資本主義とは、価格システムと価格システム(等号の体系)との間の差異(ギャップ)を利用して儲けるものにほかならない、といいます。

「それでは、利潤とは、詐欺、ベテン、泥棒、掠奪といったまさに不等価交換がおこなわれている場 所でしかみ出されえないものなのであろうか?利潤とは、等価交換からはけっして生み出されないものなのであろうか?この問いにたいする答は、しかし、否である。実は、あくまでも等価交換の原則にもとつきながらも利潤を生み出すことのできる場所が、いわば場所ならぬ場所において存在するのである。
 ふたつの異なった価値体系の狭間—それが、そのょうな場所、いや非場所である。すなわち、おたがいに異なったふたつの価値体系のあいだを媒介して、ー方で相対的に安いものを買い、他方で相対的に高いものを売る—それが、等価交換のもとで利潤を生み出す唯一の方法である。利潤とは、価値休系と価値体系とのあいだにある差興から生み出される。利潤とは、すなわち、差異から生まれる。
 たとえば、遠隔地交拐に代表される『ノアの洪水以前から』の商業資本主義とは、地域的に離れたふたつの共同体のあいだの価値体系の差興を媒介して利潤を生み出す方法であり、いわゆる産業革命以降に確立した産業資本主とは、生産手段を独占している資本家が、労働力の価値と労働の生産物の価値とのあいだの差異を媒介して利潤を生み出す経済機構であり、いわゆるポスト産業資本主義的な形態の資本主義においては、新技術や新製品のたえざる開発によって未来の価格体系を先取りすることのできた革新的企業が、それと現在の市場で成立している価格体系との差異を媒介して利潤を生み出し続けている。突際、貨幣の無限の自己増殖をその目的とし、利潤の獲得をその動機としている資本主義にとって、差異さえあれば、それはどのような差異であってもかまわない。」

 商業資本主義は、遠隔地での価格システムの違いをつかって儲けます。たとえば、二束三文のガラス玉が、遠く離れたアフリカやアジアでは高値で売れる。遠隔地ではありふれたもの(例えば象牙や陶器)がヨーロッパでは高価なものとなる。二束三文の物(たとえばガラス球)を遠隔地に持っていてそこで高く売り、そこでは高くない物(たとえば象牙や陶器)に換えて、ヨーロッパに戻り、それを売って大儲けする。これが商業資本の利潤の獲得のしかたです。
 これに対して、産業資本主義は、生産過程における労働力商品の価格と商品交換(市場)のおける労働力商品の価格のギャップ(差異)を利用して資本家が儲けます。生産現場では労働者を一日こき使って商品を作ります。でもほんとうはその労働者の一日を養うのに必要なのは、市場ではその生産物の(たとえば)半分と交換される品物でしかない。生産現過程と流通過程での労働力の価値システムの差異を利用して資本家は利潤をあげる(もうけている)わけです。あるいは、技術革新によって他の生産現場にたいする優位(差異)を利用して利潤をあげるのです。これは現在と未来の生産力の違い(それによる労働力の価値の違い)という差異を利用して利潤をあげているわけです。
 つまり岩井によれば、資本主義とは、システムとその外にあるシステムとの差異によって動く熱機関のようなものなのです。だが、もし、システムがその外に別の差異のあるシステムをもたなくなったら、つまりシステムが拡大してその外部を持たなくなったら、どうなるのでしょうか。ものを生産する場とものを売買し消費する場が完全に一体化してしまったら、それは、石炭・石油や原子力で加熱しようにも外部が高温となって温度がなくなってしまった状態(熱死)の熱機関のようなもので、何の利潤も生み出すことができず、動きを止めてしまうでしょう。資本主義は、システムの外に差異ある外部をつねに必要としているわけです。

 史的唯物論
 こうした資本主義の社会は人類の歴史おいてどのような位置にあるのでしょうか。マルクスは『資本論』の前に書いた『経済学批判序言』(1859年)で次のような定式化をしています。いわゆる、史的唯物論の定式とよばれるもので、ちょっと長いですが、重要なので、全部引用しておきましょう。

「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
 社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
 このような諸変革を考察するさいには、経済的な生産諸条件におこった物質的な、自然科学的な正確さで確認できる変革と、人間がこの衝突を意識し、それと決戦する場となる法律、政治、宗教、芸術、または哲学の諸形態、つづめていえばイデオロギーの諸形態とを常に区別しなければならない。ある個人を判断するのに、かれが自分自身をどう考えているのかということにはたよれないのと同様、このような変革の時期を、その時代の意識から判断することはできないのであって、むしろ、この意識を、物質的生活の諸矛盾、社会的生産諸力と社会的生産諸関係とのあいだに現存する衝突から説明しなければならないのである。
 一つの社会構成は、すべての生産諸力がその中ではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる問題だけである、というのは、もしさらに、くわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから。
 大ざっぱにいって経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代ブルジョア的生活様式をあげることができる。ブルジョア的生産諸関係は、社会的生産過程の敵対的な、といっても個人的な敵対の意味ではなく、諸個人の社会的生活諸条件から生じてくる敵対という意味での敵対的な、形態の最後のものである。しかし、ブルジョア社会の胎内で発展しつつある生産諸力は、同時にこの敵対関係の解決のための物質的諸条件をもつくりだす。だからこの社会構成をもって、人間社会の前史はおわりをつげるのである。」

「史的唯物論」とはなにかという議論には入り込まないでおきましょう。ただここで確認しておきたいのは、マルクスは、生産力の発展が、生産関係の変革をもたらし、ひいては社会体制の変革をもたらす、と考えていたということです。
 たとえば、狩猟生活の段階では、人類はたまにしかとれない獣で生きていくことができませんから、木の実などを採取して生活していたと想像されます。栗などの木の実を女たちが採取して食事にしていました。木の実の量は限られていましたから、そのそばにはわずかな人々しか暮らせなかったでしょう。また採取し過ぎると餓死することいなるので採取の量と時期についての慣習や指導もあったでしょう。また狩猟においては男たちの共同作業の役割と序列があったことでしょうし、たまたまとれた獣をどのように料理し分配するかのきまりもあったことでしょう。
 農業生産ができるようになると、一粒の穀物からたくさんの穀物がとれるようになりました。たとえばメソポタミアでは1粒の麦から80粒の麦が育ったといいます。この飛躍的な食料生産力の増大は、大量の人口を可能にしました。集落は大きくなり余剰生産物をあつかう市場やそれを管理し他所から略奪から守る権力も必要になったでしょう。こうして農民とそれを支配する王権がうまれてきたでしょう。また天候と季節に左右される農業生産では、天文学が天候を操る神への信仰も生まれたでしょう。
 一年ごとの太陽エネルギーが蓄積されたのが穀物(農産物)だとするなら、有史以前からの太陽エネルギーが蓄積されたのが、石油や石炭などの化石燃料です。この化石燃料を燃やすことで、昼夜、天候や季節に左右されない生産(24時間の生産)が可能になりました。(化石燃料の利用には、蒸気機関と内燃機関の2つの発展方向がありましたが、人類は途中から内燃機関(いわゆるエンジン)を発展させる方向に進みました)。この生産力をつかって大量の製品が生まれました。その生産のための労働者と資本家の関係が社会の中心的な生産関係となりました。商品の売り買いを保護するために個人の所有権というものが基本的な権利となりそれをまもるために法律や政府が生まれました。労働と個人の所有というものを絶対視する考えが広がります。
 原子力という原爆転用の技術を内包した生産力の発見によって、原子力発電が生まれ、それを維持し配電しる電力会社、原子力発電所を受け入れる原発村などの関係がうまれました。原爆転用の技術を内包した発電技術は軍事力との密接な関係を裏にもっています。処理方法が不十分で兵器転用の可能な原子力をたえず安全だと言い続ける必要から、多くの助成金で学者が飼われ、メディアへの巨大な資金の投入から「安全神話」が歌われつづきてきました。
 こうして、生産力はそれに見合った生産関係をもち、そのうえにそれにみあった、政治や文化の形をもつことになります。
 支配というものは、そのたびごとにむち打ちするような非効率な支配よりも、支配されることが「あたりまえ」だと思うように人間を飼いならしていくことをめざします。
「働かない人間はダメな人間だ」、「残業して一人前」、「有給をとるなんてとんでもない」とかいう「空気を読めない」(KY)奴はダメだ、というような言い回しは、支配者や資本家にとって好都合な理屈を、「一般常識」のように思い込ませているだけです。あるいは「女は男と比べると劣っている」という「女ってさ・・・」という言い方は、女性を非正規雇用のパートの低賃金に押し込め正当化するための言い草でしかありません。
 マルクス主義では、こういう、支配者にとって支配されるもの信じこませると便利な、支配を正当化するような、ものの考えのことを「イデオロギー」といいます。また、人々におしつけられ、人々の真実の存在を隠すような意識のことを「虚偽意識」といいます。

 まとめ
 ではマルクスの近代のとらえ方をまとめておきましょう。
 マルクスによれば、近代社会とは資本主義が支配する時代です。
(1)そこでは使用価値が違う物が、等しい(交換価値)を持つものとして交換されます。交換の媒介(なかだち)をするにすぎなかったはずの貨幣(お金)が動きまわり、逆に人々の欲望をかきたて、あらゆるものが商品となっていきます。
(2)商品を生産し販売し資本を増大させる資本家は、資本主義の原則に則った形とはいえ、資本の人格化(金の亡者)として絶えざる資本増大を目指し、労働者を搾取し、他の資本家と弱肉強食の争いを繰り広げます。
(3)このマルクスの歴史観では、生産力が生産関係を規定しさらにその生産関係が、法・学問・文化・イデオロギーなどの上部構造を規定します
(4)資本主義はシステムとシステムとの差異から利潤(動力)を得ています。差異がなくなった時、利潤はえられず動力はなくなるとかんがえられます。資本主義はそのシステムの外部(システム)をたえず必要とするのです。
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by takumi429 | 2016-04-22 00:03 | 社会学史 | Comments(0)

1.近代とはなんだろうか

 近代(現代)とは何だろうか
1.社会学とはなんだろうか。
(1)社会学の非体系性
社会学とはなんだろうか?
「社会学」という名前を聞いて、私たちはすぐにそういう疑問に駆られます。
これが法学や経済学などであったなら、これほどの疑問はわいてこないでしょう。それはそれぞれ、法と経済を扱う学問に決まっているからです(もちろんそこから先は案外むずかしい関門が待ちかまえているのでしょうが)。
ところが「社会学」と聞いても私たちには何の具体的なイメージも湧いてきません。社会を扱う学問というなら、「社会科学」という、法学も経済学もその中にふくまれるような大きな学問の総称があります。あえて「社会学」というからには何か意味がありそうです。
しかたなく私たちは社会学の教科書を手に取ります。そこでは人間が文化を学びながら家族の中で成長して世の中にでてさまざまな活動の従事したり、そこから外れたりすることが、さまざまな社会領域について書かれています。そこから受ける印象はきわめて散文的のものです。
我慢強い人は社会学の古典とされる作品を勧められて手に取ることでしょう。そこで受ける印象は教科書とはまるで異なったものでしょう。確かにおもしろい、しかしこれが教科書でならった社会学とどう関係しているのかわからない。というよりそれぞれの作品がばらばらに存在していて、いっこうに関連しあっていないのにきづくことでしょう。
実は社会学の主要な業績は相互に密接な関連を持っていないことが多いのです。教科書をよく読むと、実はいろいろな学者のさまざまな業績がつなぎあわされているだけのことがわかります。
(2)社会学は落ちこぼれが作ってきた
なぜこんなことになってしまったのでしょうか。
それはじつは社会学の重要な業績をつくった学者たちが、じつは社会学なんてものを学んだこともない部外者だったからなのです。
こころみに、社会学の巨人と呼ばれる人とその出身学問を列挙してみましょう。
テンニースは古典言語学、ヴェーバーは法律学、ジンメルは哲学、デュルケームも哲学、
パーソンズは経済学、ハバーマスは哲学、の出身です。これら文句なく社会学の著名な学者とみなされている学者が、じつは学生時代に社会学なんて勉強していなかったのです。ところが自分の研究をしていくうちに、もともとの学問の枠を飛び出して、悪く言えば、落ちこぼれて社会学者になってしまったのです。つまり社会学は既存の学問からの落ちこぼれが作ってきたという歴史があるのです。
(ちなみに、社会学出身の著名な学者としては、マートン、(それから最近ではベック)という人がいますが、巨人と呼ばれるにはすこし粒が小さいように思います)。
社会学の主要な業績はこうしたよそ者の業績をのけると、ほとんど残りません。つまり社会学というのは、じつは、一個の学問として内在的に発展してきたのではないのです。他の学問領域をしている学者がその領域に収まらなくなって飛び出し、その業績が「社会学」と名付けられているだけといっても過言でないのです。
 ですから「社会学」というのは名の下にこれらの学者の業績がくくることができるとしたら、それは内容のつながりや共通性によるのではありません。では何が、これらの学者に共通なのでしょうか。
(3)「社会学」という名の問題意識
社会学の巨人が既存の学問枠組みを飛び越えざるをえなかったのはなぜか。その理由は彼らがかかえた問題意識にあります。彼らは、既存の学問枠組みで収まりつかない問題意識を抱えてしまったのです。それは、今自分が生きているこの時代、あるいは社会と言ってもいいですが、それはいかなる時代(社会)かという問いです。彼らはこの問いに答えるにあたって、自分がその社会(時代)の中に生きているときにわき上がってくる、違和感や肌触りを捨て去ることができませんでした。そうした時代と社会についての自分の心情を切り捨てずに、むしろ生かした形で時代と社会をとらえようとし、その結果、既存の安定した学問の枠を踏み越えざるをえなかった、そういう人たちなのです。
 つまり彼らには共通した問題意識がありました。すなわち、自分を取り巻く社会はどのように変わってきたのか、またこれから変わっていくのだろうか、という問いです。いいかえれば、自分を取り巻き支配しているこの時代(近代あるいは現代)とはいかなる時代なのかという問いです。これをひとまず、「近代とは何か」という問いとしてまとめることにしましょう。
 極言すれば、社会学には共通した体系だった内容などないのです。あるのは共通の問い、つまり、今自分が生きているこの社会とはどんな社会であり、それはどう移ろい行くのか、という問いなのです。
 ですから社会学の諸業績を振り返るためには、内容の共通性や体系的な連関からみるのでなく、この「近代とは何か」という問いに、これまで社会学者はどのように答えてきたのか、という観点からこそ振り返る必要があります。というより、そこにしか社会学者たちの共通性はないからです。
(4)講義の方針
ですから、この講義では、「近代とは何か」という問いにどのように答えているか、それによって社会学の古典的作品を見ていくことにします。また「近代とは何か」という問いに答えている業績ならば、一般には社会学者とみなされていない者の作品も見ていくことにします。具体的には、マルクス(哲学者・経済学者・革命思想家)、ポー(詩人・小説家)ボードレール(詩人・評論家)、ベンヤミン(文学者)、ゾラ(作家)、アンダーソン(東南アジア研究者)、の作品も見ていくことにします。


講義予定

1.社会学とは何だろうか。
 社会学とは自分が今生きているこの時代をとらえようとする試みである。
 社会学者たちは自分たちの生きている時代(近代)をどのような時代ととらえたのか。

2.資本主義としての近代---マルクス---
 プロレタリアート(労働者)とブルジョワ(資本家) 使用価値と交換価値 

3.ゲゼルシャフト化としての近代---テンニス---
  社会幾何学(ホッブス)の継承としてのゲマインシャフト論
  伝統社会の瓦解と社会の再構築
  ゲマインシャフト/ゲゼルシャフトという差異の形成運動としての近代

4.逆説としての近代---ヴェーバー---
 プロテスタンティズムの倫理の逆説的帰結としての資本主義の精神
  倒錯した形式合理性の支配拡大としての近代
形式合理性 法と貨幣による普遍性・交換可能性 映画『クレーマー・クレーマー』
 
5.遊歩者の近代---ジンメル、ボードレール、ベンヤミン---
 交換価値の世界
 貨幣の担い手として商品の世界を遊歩する人々

6.欲望の喚起装置としての近代---ゾラ、デュルケーム---
 ゾラ『ルーゴンマッカール叢書』
  欲望の装置としての鉄道、百貨店、炭坑、市場、レビュウー、投機市場・・・
 デュルケーム 
  アノミー論:欲望の逸脱的増大
 自由間接法による集団表象の想定
  田山花袋『重右衛門の最後』 「いっそ、殺してしまえ」民衆の声なき声(集団心理)
  柳田國男『遠野物語』民衆の深層心理  

7.臣民化と規律化としての近代---アルチュセール、フーコー---
 近代とは個人を呼びかけ、主体(臣民)とし、その欲望を喚起しながら巻き込む管理していく権力が作動する時代

8.フロンティアの喪失としての近代---アメリカ社会学--
パーソンズ :フロンティアの喪失による競争の激化を相互の役割を受け入れることで克服する社会
マートン アノミー論:アメリカン・ドリームの功罪をアノミー論として展開
エスノメソドロジー:既存の文化目標もそれへの手段も否定する(反抗する)若者たちの出現

9.公共性の変容としての近代---アーレントとハーバーマス---
  アーレント;近代とは、活動(語り演じる)世界=明るい公的空間が浸食された、暗い時代である。
  ハバーマス;システム的世界の生活世界への浸食

10.コミュニケーションの変容としての近代---オングとフルッサー---
 オング 近代:話言葉から書き言葉への移行
 フルッサー 画像→文字テキスト→テクノ画像
 マクルーファン:インターネットによる第二次メディア革命

11.ナショナリズムとしての近代---アンダーソン---
 メディアなどにより作られた人造物(ナショナリズム)によって人々は想像の共同体(国民国家)を形成する。

12. 社会関係の希薄化として現代---トクヴィルからパットナム 
 フランス人による民主主義の発見
 イタリアの地方自治をささるもの:ソーシャル・キャピタル(社交資産)
 「一人でボーリングにいく」:アメリカ合衆国のおけるソーシャル・キャピタルの減退
 ご近所の底力

13.リスク社会としての現代---ベック---
 外部の喪失としての現代:外部から取り入れ捨てていた近代の産業社会から、自己の内部へと危機を増幅させる再帰的な近代(危険社会)へと移行した。

14. 液状化する社会としての現代 バウマン
ナチス収容所による大量殺戮(ホロコースト)は近代合理性の極地である。
近代合理性の進展のなかで液状化する個人

15.まとめとテスト
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by takumi429 | 2016-04-18 10:33 | 社会学史 | Comments(0)