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3.ヴェーバー

3.  近代とは倒錯した精神が支配する社会である ヴェーバー


(1)異化する問い

 マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1905)のなかには次のような問答があります。


「なぜ楽しむことを知らずにそんなに休みなく働いているのです?」

「子どもたちに財産を残すためですよ。」

「でもそれは昔の人たちでも考えたことですよ。でも彼らはずいぶんのんびりと生活を楽しんでいきていました。決してあなたのようにあくせくと働いてはいませんでしたよ。」

「ええ、なるほどそうですね。」

「じゃ、なぜそんなに働くのですか。」

「まあ、働かずにはいられない、働いて事業を続けることが生活の不可欠なものになっているとでもいうですかね。」

「それじゃ、あなたという人間のために事業があるのではなく、事業のためにあなたは存在する、というわけですね。」

「まあ、そういうことになりますかね。」

 

 元の文章は、つぎのようなものです。

「休みなく奔走(ほんそう)することの『意味』を彼ら(「資本主義精神」にみたされた人々)に問いかけて、そうした奔走のために片時も自分の財産を享受しようとしない態度は、純粋に現世的な生活目標から見ればまったくの無意味ではないかと問うとき、彼らは、もし答えうるとすれば、『子や孫への配慮』だと言うこともあるだろう。しかし、より多くは、---『子や孫への配慮』という動機は、明らかに彼らだけのものでなく、『伝統主義的』な人々にも同様にあるのだから---より正確に、自分にとっては不断の労働を伴う事業が『生活に不可欠なもの』となってしまっているからなのだ、と端的に答えるだろう。これこそ彼らの動機を説明する唯一の的確な解答であるとともに、事業のために人間が存在し、その逆でない、というその生活態度が、[個人の幸福の立場からみると] まったく非合理的だということを明白に物語っている。」(Archiv 54/RS30/79-80頁。()は引用者挿入、[ ] は改定時(1920年)の加筆)。


 私たちがすっかりなじんでいる(同化している)ものを奇妙でよそよそしいものものに変えることで、それをはっきりと見えるものにすること、こうした技法を、芸術論では「異化」と言います。ヴェーバーはいわばこの「異化」の手法を用いて、日常当たり前に仕事に精出す資本家のあり方が、「人間のために事業があるのでなく、事業のために人間がいる」というきわめて倒錯した、「非合理」なものであることをあばきたてるのです。彼はその有名な著作を、この日常のきわめて当たり前で理にかなったと思われる生活に潜む倒錯(非合理性)をあばき立てる問いから始めるのです。

 この倒錯した非合理性は資本家だけでなく、一所懸命働いてあげくの果てに、資本家からの「搾取」をゆるしてしまう労働者にもあてはまります。

 ヴェーバーによれば、近代資本主義社会とは倒錯した非合理的な精神が支配する社会なのです。 


(2)「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

 ではこの今生きることを楽しむのでなく、仕事や事業を至上の目的とするような倒錯した精神はどこから来たのでしょうか。ヴェーバーはそれをキリスト教の禁欲思想に求めます。修道士は神の栄光のために、ひたすら労働と祈りの日々をすごしていました。彼らの仕事は、神から呼びかけによって与えられた「使命」(ドイツ語ではBeruf、英語ではcalling)なのです。

 1517年に宗教改革をはじめたマルチン・ルター(Martin Luther 1483 - 1546)とその後継者たちは、 修道士や司教たちの聖職だけでなく、一般の仕事もこうした「使命」であるとみなしました。さらに宗教改革のもうひとりの大立者であるカルヴァンは(Jean Calvin1509 - 1564)は「絶対の神は人間をあらかじめ、救いに予定されている者と滅びに予定されている者とにわけている」という「予定説」を主張しました。信者はたいへんな不安にさいなまれました。しかしカルヴァンの後継者たちはその宗教的なカウンセリング(魂のみとり)で、「神があなたに与えた使命=仕事に励みなさい、そしてそこに大きな成果がうまれるなら、あたなは神に選ばれ救いに予定されている者であるにちがいありません」と助言しました。自分の救いの証拠を仕事の成果や収益に見出した信者たちは、ひたすらまじめに働き、収益をあげ、もうけを使って楽しむこともなく、さらに働き収益をあげようとしたのです。その結果生まれたのが、「搾取される」労働者と、「搾取」によって得た利益をさらに資本投下して資本の自己目的化した増大にはげむ資本家、とがつくる資本主義、が支配する近代社会なのです。

 


(3)ヴェーバーのとらえた近代社会

 資本主義がそれとはまった反対に見える禁欲思想によって生まれた。ヴェーバーはこの逆説的な発展を西洋社会の発展のなかに見出したのです。

 ヴェーバーの時代診断はすなわち、つぎのようになります。

 近代社会は逆説的にうまれた「非合理的」なものをはらむ倒錯した社会である。


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by takumi429 | 2017-10-20 19:33 | 近代とは何だろうか | Comments(0)

2.テンニース

 2.テンニース 近代社会とはゲゼルシャフトが支配する社会である

 恩賜の銀時計
 お祖父さんがなくなった。遺品の一つは、お祖父さんが東京大学首席卒業の記念に頂いた「恩賜の銀時計」。二人の孫がいる。占部(うらべ)くんと、財全(ざいせん)くん。
 占部くんは小さいころからおじいさんにこの懐中時計をみせてもらっていて触ったりしていた。小さなへこみ、ねじを巻くときの微振動、すべてやさしいが凛とした祖父の姿を思い出せる。コチコチを時を刻む音は、祖父の心臓の鼓動のように感じされ、占部くんの思い出のなかでは今も、おじいさんは生きている。
 財全くんは、おじいさんとは、生前、ほとんど会うこともなかった。この恩賜の時計をネットで調べたら、15万円で販売されていた。ただすこし凹んだところがあり、箱もないので、それほどの高値にはならないだろうが、なんとか形見分けしてもらい自分のものにしたい。占部が自分のものだというなら争ってでも手に入れるつもり。そしてネットオークションですぐに売って、新型のiPadを買う。お金が余ったらフレンチでも食べに行こう。
 占部くんと銀時計の関係は、「何にも代えがたい」関係である。それに対して、財全くんの銀時計との関係は、代替可能な、売ることができる関係である。だが売るためには、まずは所有しなくてはいけない。所有のためには他人がそれを所有することを排除しなくてはいけない。そこには所有をめぐる争いがある。

 1.テンニースの時代診断
 本質的な「何にも代えがたい」関係は、人とものだけでなく、人と人との関係でもある。こうした「本質的な意志」(思い)によって結ばれている人間関係が形となったものを、テンニース(Ferdinand Tönnies1855-1936)は、「ゲマインシャフト」とよんだ。ゲマインシャフトとは、たとえば、肉親・家族や古くからの町のことで、そこには親身な関係が支配している。
 他方、取りかえ可能でその中のどれかを選んでいるような人と物との関係、さらにその欲得づくで選ばれている(「選択意志」による)関係が形となったものを、テンニースは「ゲゼルシャフト」とよんだ。ゲゼルシャフトとは、会社や大都会のような、欲得ずくの関係が支配している人びとの集まりである。
 テンニースによれば、近代社会とはゲゼルシャフトが支配的となった社会である。しかし、いやそれだからこそ、ゲゼルシャフトとは異なるゲマインシャフトが重要となる社会でもある。

 2.ホッブズ研究者テンニース
 テンニースはもともとホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679)の研究者として出発しました。
ホッブズは『リヴァイアサン』(1651)の述べた〈服従契約としての社会契約説〉はつぎのような三段論法からできています。
(1)人間には自分を守ろうとする、おのずからそなわった権利がある(自己保存への自然権)。しかしそうして自分を守ろうとする人間は自分を守るために他人を傷つけ殺すこともいとわない。その結果、放っておけば、人間が人間に対して、まるで「狼が狼に対するような」殺し合いの状態になってしまう(〈暴力的死の恐怖〉の中で向き合う自然状態)。
(2)これでは人間同士討ちになってしまいかねない。そこで人々は、自分を守るための手段(暴力・武器など)を、ある特定に人間に預けることにし、それを互いに約束(契約)して、そうしてこの同士討ちをさけようとする。
(3)その特定の人間は、暴力手段を預けられることで、人々を自由に支配する力(主権 sovereignty)を持つ。主権をもつ人間へ服従することで、ひとびとは互いに殺し合うことなく、自分たちを守ることができるようになる。ここに、特定の人間にひとびとが服従している状態、つまりひとつの国家ができあがる。
 
 3.所有をめぐる争い
 ホッブスは、17世紀、近代が立ち現れようとする時、人と人の争いを暴力の独占で調停する国家を、一種の「思考実験」によって正当化しようとします。ではこの時、「人と人の争い」とは具体的には何をイメージしているのでしょうか。
 それは品物を排他的に所有しようとする人間同士の争いにほかなりません。自分の所有物であるとした上で、はじめてそれを売って別の物を得ることができる。労働者を働かせてできた品物を我が物とした資本家は、それを売ってもうけ、資本を増大する。
 経済活動における資本主義は、物を所有する権利を国家が認め守ること、を前提にしている。所有権こそが、近代のもっとも基本となる法的権利である。資本主義と所有権を軸とした法体系の結合。そこに近代社会ができあがるのです。

 4.近代社会の幾何学
 ホッブズの社会哲学にたいしてテンニースはその処女作『ホッブズ哲学注解』(Anmerkung ueber Philosophie des Hobbes)のなかでテンニースはつぎのように述べています。
「定義と公理から推論され証明される幾何学とその確かさにおいて同等になること、それは学問に可能だろうか、あるいはどうしたら可能であろうか。これが認識理論の中心問題であった。トーマス・ホッブズは新しきヨーロッパでこの問題を解こうと努力した最初のひとりであった」(Vierteljahrsschrift fuer Wissenschaftliche Philosophie 3 (1879) S.461)。
 ユークリッド幾何学は23の定義と5つの公理からその全体系を論理的に構築する。こういう理論体系を「公理系」といいます。テンニースによればホッブズの哲学は、このユークリド幾何学的な構成をもつ社会哲学です。 
 
 5.ゲマインシャフトの幾何学
 資本主義と所有権の法体系による社会はゲゼルシャフトです。しかしそうした社会が優勢になればなるほど、それとは異なる、「本質的な意志」による人間の結びつき、すなわち、ゲマインシャフトが決定的に重要になってきます。
 テンニースは、このゲマンイシャフトの理論を、ホッブスのように、幾何学的に構築しようします。すなわち、本質意志を原理として、出生、母子関係、夫婦関係、兄弟、父子関係、享楽と労働。場所のゲマインシャフト、精神のゲマンイシャフトへと積み上るのです。
 その際、決定的に重要なのは、ナショナリズムのように、国家を、家族・民族の展開、つまり、ゲマインシャフトとするのではなく、あくまでもゲゼルシャフトとみなしていることです。国家のうちにある矛盾・葛藤を、「民族=国民」の名の下に「国民=国家」として覆い隠すのがナショナリズムであるなら、テンニースの、ゲマインシャフトの幾何学は、それとは決然と袂を分かつものだったのです。


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by takumi429 | 2017-10-18 21:03 | 近代とは何だろうか | Comments(0)

1.資本主義としての近代 マルクス

1.マルクス 資本主義としての近代


 ――私はNセメント会社の、セメント袋を縫う女工です。私の恋人は破砕器(クラッシャー)へ石を入れることを仕事にしていました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌はまりました。

 仲間の人たちは、助け出そうとしましたけれど、水の中へ溺おぼれるように、石の下へ私の恋人は沈んで行きました。そして、石と恋人の体とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒(ふんさいとう)へ入って行きました。そこで鋼鉄の弾丸と一緒になって、細こまかく細く、はげしい音に呪のろいの声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントとなりました。

 骨も、肉も、魂も、粉々になりました。私の恋人の一切はセメントになってしまいました。残ったものはこの仕事着のボロ許ばかりです。私は恋人を入れる袋を縫っています。

 私の恋人はセメントになりました。私はその次の日、この手紙を書いて此樽の中へ、そうと仕舞い込みました。

 あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相かわいそうだと思って、お返事下さい。

 此樽の中のセメントは何に使われましたでしょうか、私はそれが知りとう御座います。

 私の恋人は幾樽のセメントになったでしょうか、そしてどんなに方々へ使われるのでしょうか。あなたは左官屋さんですか、それとも建築屋さんですか。

 私は私の恋人が、劇場の廊下になったり、大きな邸宅の塀(へい)になったりするのを見るに忍びません。ですけれどそれをどうして私に止めることができましょう! あなたが、若し労働者だったら、此セメントを、そんな処に使わないで下さい。


 葉山嘉樹の小説「セメント樽の中の手紙」(1926年)の主人公の松戸与三は、セメントあけの作業中、樽の中から小箱に入った手紙を見つける。手紙は続く。


 

 いいえ、ようございます、どんな処にでも使って下さい。私の恋人は、どんな処に埋められても、その処々によってきっといい事をします。構いませんわ、あの人は気象(きしょう)の確

(しっ)かりした人ですから、きっとそれ相当な働きをしますわ。

 あの人は優(やさ)しい、いい人でしたわ。そして確かりした男らしい人でしたわ。未まだ若うございました。二十六になった許(ばかり)でした。あの人はどんなに私を可愛がって呉れたか知れませんでした。それだのに、私はあの人に経帷布(きょうかたびら)を着せる代りに、セメント袋を着せているのですわ! あの人は棺(かん)に入らないで回転窯(かいてんがま)の中へ入ってしまいましたわ。

 私はどうして、あの人を送って行きましょう。あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬

(ほうむ)られているのですもの。

 あなたが、若(も)し労働者だったら、私にお返事下さいね。その代り、私の恋人の着ていた仕事着の裂(きれ)を、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがそうなのですよ。この裂には石の粉と、あの人の汗とが浸しみ込んでいるのですよ。あの人が、この裂の仕事着で、どんなに固く私を抱いて呉れたことでしょう。

 お願いですからね。此セメントを使った月日と、それから委(くわ)しい所書と、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、御迷惑でなかったら、是非々々お知らせ下さいね。あなたも御用心なさいませ。さようなら。


(葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000031/files/228_21664.html2017年10月9日)


(1)資本主義社会

カール・マルクス(Karl Marx 1818 - 1883)は、私たちが生きているこの近代社会を、資本主義が支配する社会である、としました。      

 資本主義とは何か。冒頭に見た、葉山嘉樹の小説にひきつけて、まとめてみましょう。


 生産の現場で、労働者は命をけずって物を作っている。彼らの生命は生産物となる。だがその生産物は、すべて資本家のものとなり、市場で商品として切り売りされる。労働者がその品物にどんな思い入れを込めようと、それは商品となり、いくらで売れるか、お金(貨幣)で、その価値は計られる。こうして労働者の働きは、金(貨幣)で売り買いされる商品にされる。命をけずり切り売りするしかない労働者と、その労働者を雇いその労働が物となった商品を売ることで資本を増大させる資本家との関係を「資本主義」とよぶ。そしてそれが支配的基調となっている社会、を「資本主義社会」とよぶ。


(2)商品世界における奇妙な等号

 私には祖父からもらった万年筆がある。この万年筆には祖父の思い出がつまっている。その価値は何にも代えがたい。だが、金に困った私は万年筆を質屋に持って行く。「300円」。値踏みをした質屋の主人が言う。思い出の品が自販機のペットボトルのお茶2本分の価値しかないという。金に替え、さらにその金で別の物を買う。その時の価値が、300円。思い出にひたっている時の価値は何にも代えがたい。だが何かに代えよう、交換しようとするなら、それは300円の価値しかない。その交換の価値において、万年筆=300円=ペットボトルのお茶×2という等号がなりたつ。似ても似つかない、万年筆とペットボトル茶2本が等号で結ばれる。

 その品物それぞれがもつ固有の価値をマルクスは「実質価値」とよびました。だが実質価値に固執するかぎりそれは交換できません。交換するためには、それがお金で「なんぼのものか」を計らなくてはならない。その時、お金(貨幣)で表わされている価値をマルクスは「交換価値」とよびました。すなわち、交換価値の成立は貨幣による交換経済の成立でもあります。

 もし物々交換のレベルにとどまっているなら、お互いの持っているものをお互いに欲していいなくては交換できません。たとえば、Aが古万年筆をもち、Bがペットボトル茶2本をもち、しかもAはペットボトル茶2本を、Bはフル万年筆を欲していなくては交換できなくなります。もちろん、こんなことはめったにあることではないです。そこでいつでも人が欲している、しかも小分けすることができるような品物、たとえばタバコとか塩とかにいったん交換しておき、こんどはその品物で、別の物と交換するということがおきます。このいつでも交換され小分けできる特殊な商品としてお金(貨幣)が選定されます。このお金のおかげで、物々交換の等価性・同時性がのりこえられ、広範で活発は商品交換(売買)が生まれるわけです。そしてこの商品世界においてはあらゆるものが商品としてお金で価値が計られることになるわけです。

 この商品世界ではお金(貨幣)によって商品が交換され流通します。その結果、「貨幣運動はただ商品流通の表現でしかないのに逆に、商品流通がただ貨幣運動の結果としてのみあらわれる」のです(『資本論1』大月書店文庫版151-2,206頁)。


(3)マルクスの歴史観

 マルクスの世界観(史的唯物論)では、物を作り売り流通させる関係が社会の基盤となって、その上にそびえる法律、政治、文化(これを「上部構造」といいます)のありようを決めます。

 たとえば、資本主義では誰のものか(誰がその品物を所有するのか)ということはきわめて大切です。所有が決まらなくては交換もできません。ですから、資本主義社会において、所有権をめぐる法律がもっとも重要なものとなります。またその所有権を守るように政治体制がつくられます。 

 また、資本主義では労働というものが社会の基盤となりますから、労働というものを尊ぶ文化が生まれます。「仕事ができない奴はだめだ」といった言い回しがさかんに言われ信じられることになります。こうした体制のありようを肯定する思想のことを「イデオロギー」といいます。

 資本主義も、またそれ以前の、狩猟社会、農耕社会、封建社会も、それぞれそれにふさわしい法律・政治・文化をもっていた、とマルクスは考えました。


 まとめましょう。

 マルクスによれば、近代社会とは資本主義が支配する時代です。

(1)そこでは使用価値が違う物が、等しい(交換価値)を持つものとして交換されます。交換の媒介(なかだち)をするにすぎなかったはずの貨幣(お金)が動きまわり、逆に人々の欲望をかきたて、あらゆるものが商品となっていきます。

(2)商品を生産し販売し資本を増大させる資本家は、資本主義の原則に則った形とはいえ、資本の人格化(金の亡者)として絶えざる資本増大を目指し、労働者を搾取し、他の資本家と弱肉強食の争いを繰り広げます。

(3)このマルクスの歴史観では、物を生み出し交換する関係が社会の基盤となり、その上にそびえる、法・学問・文化・イデオロギーなどの上部構造を規定します。



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by takumi429 | 2017-10-11 18:10 | 近代とは何だろうか | Comments(0)

はじめに

社会学講義(近代とは何だろうか)


はじめに

本講義は、「近代とは何か」という問題意識のもと、社会学のさまざまな古典的作品をとらえなおすことをめざします。


1)社会学のとらえどころのなさ

 社会学を学びはじめて、私たちがまず当惑するのは、その体系性のなさです。

 古典的とされる作品は、自殺、プロテスタンティズム、貨幣、監獄など、あつかっている対象もばらばらなだけではなく、その手法にもおよそ共通性が見当たりません。

 教科書の多くは、家族・成長・役割・地域・国家・国際社会、などといった、一見、体系性があるかのような配列になっています。しかしこの見せかけの体系性は文化人類学などからの借用でしかありません。細かくみるとかっちりしたまとまりがあるわけでなく、しまりのない内容の羅列です。その内容は社会学の古典の内容とは連続していません。

 また最近よく見られるのが、いわゆる「科研費社会学」とでもいうべき、わい小な「社会学」の席巻です。「科学研究費補助金」などの助成金を獲得するために、いかにも「お役に立ちますよ」、「社会の実情を調べていますよ」といった感じの、役人からの下請け仕事、賞味期間の短い、じつは役にも立たない、しかも致命的なことにまるで面白くない、「社会学」研究が量産されています。しかし実はこれらの研究手法は社会学とは別のところから来ており、その「社会学」なるものは、社会学の古典とは関係がありません。


(2)古典社会学のネガティヴな共通性

 社会学の古典の内容がばらばらなのは、実はそれを書いた社会学者が実は社会学の出身ではなく、学生のとき社会学を学んでいなかったからです。あるいは学ぼうにも社会学がまだ学問として確立していなかったからです。

 社会学の古典を書いた、いわゆる社会学の「巨人」としては、テンニース、ヴェーバー、デュルケム、ジンメル、少し下って、(やたら大作主義だけどつまらない)パーソンズ、(「大山鳴動して鼠一匹」の)ハバーマスなどが挙げられるでしょう。また、最近、社会学者が勝手に社会学の巨人ということにしているフーコーも入れることにしましょう。

彼らの出身学問をあげると、テンニースは古典学、ヴェーバーは法学、デュケムは哲学、ジンメルも哲学です。またパーソンズは経済学、フーコーは哲学です。

 社会学の巨人はいずれも出身学問から外れた学者なのです。社会学は、既存学問から外れた「落ちこぼれ」が作った「学問」なのです。


(3)古典的社会学のポジティヴな共通性

 社会学の巨人が、なぜ既存の学問から「落ちこぼれ」てしまったのか、それを考えることで、古典的社会学のポジティヴな共通性が見えてきます。

 社会学の巨人たちはなぜ既存の学問のワクから外れてしまったのか。それは彼らが、既存の学問の枠組みには収まりきらない問題意識をかかえていたからです。彼は、日々生きている感覚、違和感や「温度差」といった感覚をも含めて、その感覚を捨て去ることなく活かしながら、自分を包みその中で自分が生きている、今ここにある社会を、まるごととらえようとしたのです。今生きているこの社会を、「近代社会」と呼ぶなら、彼らの問いは、この近代社会とはどんな社会なのか、それはどこから来てどこにむかって行くのか、という問いです。短く約めるなら、「近代とは何か」という問いです。

 この「近代とはないか」という問いこそが、古典的社会学の根本問題です。そしてその後に発展して来た学問として「社会学」をとらえる最もよい立ち位置を提供してくれる問題です。


(4)この講義の予定と特徴

 この講義では、「近代とは何か」という問いのもとに、古典とされる社会学者の業績を見ていきます。また社会学以外のものでも、この「近代とは何か」という問いに答えようとしている作品もなら、おなじくあつかうことにします。




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by takumi429 | 2017-10-04 14:12 | 近代とは何だろうか | Comments(0)