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9.「ヒンドゥー教と仏教」(1)

9.『ヒンデゥー教と仏教』
現世適応の官僚の合理主義(儒教)では、呪術の園となった世俗を、改革することはできなかった。では現世を否定するような宗教ではどうだろうか。そこで私たちはもっとも世俗(日常世界)を否定するような宗教を生んだインドをみてみることにしよう。

インド史 年表
前2500-2000 インダス文明
前2000頃  アーリア人、パンジャブ地方(西北インド)に侵入。リグ・ヴェーダ成立
前1000頃  アーリア人、ガンジス川流域に進出。
バラモン(僧侶)、クシャトリヤ(騎士)、ヴァイシャ(庶民)、シュード    ラ(隷属民)からなるヴァルナ制度、次第に確立。
       
 ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、アタルバ・ヴェーダの編纂
  リグ・ヴェーダ
ホートリ祭官に所属。神々の讃歌。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。
  サーマ・ヴェーダ
ウドガートリ祭官に所属。リグ・ヴェーダに材を取る詠歌集。
  ヤジュル・ヴェーダ
アドヴァリュ祭官に所属。散文祭詞集。神々への呼びかけなど。
  アタルヴァ・ヴェーダ
ブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。
前7-6世紀 初期ウパニシャド(ヴェーダの付随文献)
       業・輪廻(カルマ)の教説
       宇宙原理ブラフマンと個体原理アートマンの合一(梵我一如)説
前5-4世紀 〈都市発展時代〉古クシャトリア時代
       ジャイナ教・仏教、成立
前321頃   マウリア朝(-前187頃)インド統一 カウティリヤ『実利論』
        アショーカ王(前268-232)、仏教保護
前220-   アーンドラ朝(-後236)中南インド 
       バラモン教を保護   
        ナガール・ジュナ
インドの代表的仏教思想家。サンスクリット名はナーガールジュナ。「般若経」の「空」を継承発展させ、大乗仏教の根本思想として理論づけ、大乗仏教での最初の学派、中観(ちゅうがん)派の祖とされる。
空(くう):世界には現象はあるが実体はない、とする仏教の基本的でもっとも重要な概念。Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.

後45-   クシャーナ朝(-250)北インド
        カニシカ王の仏教保護
後1世紀  「バガヴァット・ギーター」最終成立(原型は前1世紀)。
       マヌ法典(インドの伝統的社会規範を説く聖典)(前2-後2世紀)
 250-320 分裂時代
 320-520 グプタ朝、インド統一 バラモン文化復興
 6-10世紀 ラージプート(戦士)時代)(分裂時代)〈中世〉
700-750頃  シャンカラ 
シャンカラの哲学もほかのインド諸哲学と同様に、輪廻からの解脱をめざしている。彼の説いた不二一元論は、宇宙の根本原理であるブラフマンと自己の中にあるアートマンは同一であり、したがってアートマンはブラフマンと同様、不変常住、常住解脱者、無欲、不老であるとするものであった。しかし現実には、人間はうつろいやすい個別的で物質的な世界しかとらえることができず、輪廻にくるしんでいる。シャンカラは、それは人間が無知(アビドヤー)のために、現象世界がじつは幻影のように実在しないものであり、ブラフマンとアートマンが不二であることに気づかないからである。この無知を滅することによって解脱が可能となるのだと説いた。Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.

11世紀-  イスラム教徒の侵入 〈近世〉
       セーナ朝(-12世紀)
        仏教、インドで消滅。
1206-1526 デーリー諸王朝時代
        北インドのムスリム諸王朝
        デカンの諸王朝
        南の半島南端の仏教の諸王朝
 14世紀    北インドのムスリム諸王朝
        デカンのムスリムのバフマニー朝
        南部のヒンデゥーのビジャヤナガル朝
 1526    ムガル帝国、成立
 1707    ムガル帝国衰退。 継承国家と分立国家(マラータ同盟、シーク教徒など)
        シーク教:ヒンドゥー教とイスラム教が融合した宗教
 1856    プラッシーの戦い イギリス、ベンガル徴税権を得る 〈近代〉

 1857-9  セポイの反乱 
 1858-1947 インド帝国 イギリス、インドを直接支配。

カースト制(バルナ+ジャーティ)
 バルナ 
  再生族(ドヴィジャ) 一定の年齢に達すると師について入門式(ウパナヤナ)を受け、聖なる紐(ひも)を受ける(第二の誕生) 
    バラモン(祭司)
    クシャトリア(騎士)
    バイシャ(庶民))
  一生族(エーカジャ)
    シュードラ(隷属民)
  不可触賤民

  ヒンデゥーの4住期(ヴァルーナスラマ・ダルマ)
   再生族のヒンドゥー男子に適応される古代インドにおいて成立した理想的人生区分
   (1)学生期(ブラフマチャルヤ) ヴェーダ学習
   (2)家住期(ブラフマチャルヤ) 家庭人として勤めを果たす
   (3)林住期(ヴァーナプラスタ) 引退して林の中に隠居する
   (4)遊行期(サンニャーサ)   聖地に巡礼して死を迎える

 ジャーティ 
  内婚
  水のやり取り・食事を共にする (他の者から受け取る/と食べる、のは不浄) 
  職業の継承
  男系

寡婦殉死(サティー) 夫に先立たれた妻が、夫の火葬の日に自らも飛び込んで自殺を図る行為。ヒンドゥー教の古い慣習にさかのぼる。
ヒンドゥー教によってこんな行為も正当化され温存された。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の記述の時に、
伝統主義的経済に対しては伝統主義、資本主義に対して資本主義の精神が対応していると考えたのと同じように、
カースト制に対してはそれを維持させる精神としてヒンドゥー教を考えている。

バラモン教の異端として生まれたジャイナ教と仏教は現世から逃避するばかりで現世を変革せず、バラモン教から生まれたヒンドゥー教が現世に適合し、現世のカースト制を正当化して温存するものとなった。

ウパニシャッド哲学にすでにみられたように、クシャトリアの哲学的思惟はバラモンのそれをしのぐようになっていた。みずからの宗教的権威を脅かされそうになったバラモンたちは、自分たちの呪術的な力を正当化しすべく思索を展開する

バラモン教の思想
アタルヴァ・ヴェーダの参入
呪術師であるフラフマン祭司が力を持ったことの現れ。
呪術師の自問自答
 なぜ私が唱える呪文が威力を持つのか。
 それは私(アートマン)が宇宙の原理(ブラーフマン)とじつは同じもの、一体だから ではないのか。「汝はそれである」→「梵我一如」の考え

輪廻転生説
霊魂輪廻(サンサーラ) 霊魂は絶えず生まれ変わっていく
業(カルマン) 前世の報いを現世で受け、現世の罪は来世で受ける 

ブラーフマンとの我(アートマン)との合一によって輪廻の輪から離脱できるとした。
呪術師としての修行(苦行)が、輪廻からの救済の修行へと発展していった。

ウパニシャッドにすでにみられたように、クシャトリアの宗教的思索がバラモンたちの思索を脅かし始めていた。それに対抗して、バラモンたちは自分たちの正当化のために教えを発展させた。しかし、それがかえって現世から逃避する(輪廻から離脱する)方向を示すこととなり、自分たちの敵対者である異端(ジャイナ教や仏教など)を盛んにさせることになってしまったのであった。

カースト
Iプロローグ
カースト Caste インドに古くからつたわる社会制度。個々人の階級を規定すると同時に、たずさわるべき職業をはじめ、結婚その他さまざまな社会生活のありようを決定する。子は親のカーストをかならず継承していくため、世代をこえてうけつがれることになる。
もともとインドではジャーティ(「生まれが同じ者」の意)という語でよばれているが、16世紀にインドにやってきたポルトガル人が、これに母国語のカスタcasta(階級、血筋)という語をあてたため、カーストとも称されるようになった。日本では一般に、カーストといえば、大きな4つの階級区分(4種姓)が想起されがちだが、これはカーストと密接な関係にあるものの、正確にはバルナというべきものである。
IIバルナ
バルナvarna(本来は「色」の意)は、前1500年ごろ、インド・ヨーロッパ語を話す遊牧民、いわゆるインド・アーリヤ人が北方からインドへ進入し、やがて農耕社会をきずきあげたころに成立した。インドの聖典文学によれば、アーリヤ人のバラモン教(→ ヒンドゥー教)司祭が社会を4つの階層にわけたとされている。前200年~後300年のある時期にアーリヤ人の司祭・律法者がマヌ法典を編纂したが、その中で世襲制の4つの階級区分を規定し、司祭階級自らをその最上位においてブラフマン(バラモン)と称した。そして2番目に王侯・武士のクシャトリヤ、3番目に農民や牧夫、商人のバイシャ、4番目に3つの階級、とくにブラフマンに隷属するシュードラをおいた(のちに農民や牧夫はシュードラにうつされる)。さらにその下、社会の枠組みのまったく外(アウトカースト)に、不浄な人々とみなす不可触民(アンタッチャブル)をもうけ、下賎とされる職業につかせた。
こうしてアーリヤ人の農耕社会のシステムにおさまらなかった先住部族民が不可触民とされたが、その後、ヒンドゥー教の戒律をおかしたり、社会の掟にそむいて4つの階級からしめだされた者もこれにくわえられていく。こうして司祭がつくったバルナの制度は、ヒンドゥー教の戒律と切りはなせないものとなり、神の啓示によってつくられたという大義名分のもとに、延々と存続してきたのである。
IIIカースト(ジャーティ)
バルナを大きな枠としながら、実際の社会で機能しているのがカーストである。ひとつの村に司祭、銀細工、大工、床屋、羊飼い、仕立て屋、洗たく屋、汚れもの清掃、乞食といった種々さまざまな職をもつカーストが、10~30程度あり、それぞれが村の中で近隣にあつまってくらしている。カーストの数は、インド全体で2000~3000あるといわれている。そしてこのカーストは、上にしるしたバルナの、不可触民もふくめた5つの階級のいずれかに属している。
カーストは、地縁、血縁、職能が密接にからみあった排他的な集団で、その成員の結婚や職業、食事にいたるまでをきびしく規制し、また自治の機能ももっている。
1結婚の規制
これは、個々のカーストの結束を強めるうえで、またカースト制度全体を維持強化するうえで、とくに大きな意味をもっている。カーストのメンバーは、自分と同じカーストの相手をえらばなければならず(→ 内婚)、しかし、同時に自分と同一のカースト集団のメンバーとは結婚できない。また、男性が自分より下のカーストの女性と結婚することはある程度許容されるが、その逆はタブーとされている。
2食事の規制
食事に関する規制は地域差が大きい。しかし一般に、ほかのカーストのメンバーと食事をともにしたり、下のカーストの者から飲食物の提供をうけることができないといった規制や、とくに上位カーストにきびしい、肉食の制限もある。
3職業
ふつう、カースト名から職業がわかるほど、カーストが特定の職業とむすびついていることが多い。そしてカーストが親から子へつがれていく以上、原則として子は親の職業を代々ついでいくことになる。カーストと職業の密接な関係はとくに職人カーストに顕著にみられるが、いっぽう同じカーストに属しながら、別々の職業にたずさわる例もめずらしくない。そしてまた、各カースト間の社会的・経済的な互助的関係が、近代化の波にあらわれてくずれはじめた今日では、カーストと職業の関係はうすまりつつある。
IVカースト制度と近代インド
カーストは、インドの社会の安定要因として機能してきた一面もあるが、いっぽうでインド社会の近代化をさまたげる要因にもなっており、今日ではカースト間の障壁がしだいにとりのぞかれようとする方向にある。
イギリスがインドを植民地支配していた時代に、カースト制度の規制はかなり大きく緩和された。そして第2次世界大戦後の1947年、インドの独立とともに、憲法でカースト差別は禁止され、49年の議会で不可触民制の廃止も宣言された。その間、不可触民の解放を強く主張してインド社会に大きな影響力をもった人に、ガンディーと政治家・社会運動家のアンベードカルがいる。ガンディーは、不可触民にハリジャン(神の子)の名をあたえた(今日では、不可触民は公式には指定カーストとよばれている)。そうした動きにもかかわらず、そして地方と都市の差はあるものの、今なおカーストは日常生活の面で強固に生きつづけているのが実態である。
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バガバッドギーター Bhagavadgītā 
サンスクリットで書かれた詩編で、「神の歌」を意味する。叙事詩「マハーバーラタ」の第6巻にふくまれ、たんに「ギーター」ともいう。18章700詩よりなる。ほとんどのヒンドゥー教徒にとって、信仰生活の真髄となる聖典で、宗派をこえてとうとばれてきた。古来、インドのすぐれた思想家が「ギーター」の注釈書を書いてきた。インド国外にも大きな影響をあたえ、今なお新たに翻訳され、さまざまな解釈がされている。
内容は、クルクシェートラの聖なる戦地でバラタ族の大戦争がはじまろうとしているときに、御者の姿をしたビシュヌ神の化身クリシュナと人間の主人公アルジュナ王子とが対話する形式をとっている。アルジュナは、友や親類を敵としてたたかうことにためらっていることを打ちあける。それに対してクリシュナは、戦士である以上、敵とたたかい、殺すという自己の本分をつくすべきであると、アルジュナを鼓舞激励する。その過程でクリシュナは、個我の本質、最高神に到達する最適の方法を説明する。
「ギーター」は、アートマン(個我)の永遠不滅、アートマンとブラフマン(最高神)の合一輪廻の過程、自己の行為の結果にとらわれないことなど、多くの教えをまとめている。「ウパニシャッド」やサーンキヤ哲学の思想の影響がこい。精神的原理としてのプルシャ(純粋精神)と物質的原理としてのプラクリティ(根本原質)はたがいに補足しあって完全になるとしている。また万物はプラクリティから由来し、純質・激質・暗質という3つの構成要素よりなるとしている。
クリシュナは、自己犠牲と世俗的な義務という相反する要求を、ひとつにはバクティ(神への信愛)によって、ひとつには瞑想することと、行為の結果を考えずに私心をすてさることによって、調和させるのだと説いた。クリシュナは、一時的に世にもおそろしい終末の日の姿となってあらわれてから、ふたたび情深い人間の姿にもどるのである。
ヒンドゥー教の聖典『バガバッドギーター』から、第11~12章の一部を紹介する。クルクシェートラの大会戦がせまっているのに、戦士アルジュナは悲しみにうちひしがれ、戦意をうしなっていた。親族や友を敵にまわし、殺すことなどできないという。そんな彼の前に聖バガバッド(クリシュナ)があらわれる。クリシュナは戦意をうながすために宗教的な教説をくりかえし、やがてアルジュナの懇望にこたえて、みずからがビシュヌ神の権化であることをしめす。そして、最高の解脱の道が神へのバクティ(誠信)であることを説くのである。この物語の起源はクリシュナを崇拝するバーガバタ教団の聖典とされ、クリシュナをビシュヌの化身とすることで正統バラモン教のなかに吸収されていったと考えられている。
[出典]宇野惇訳『バガヴァッド・ギーター』(『世界の名著』1)、中央公論社、1969年
アルジュナはいった。  ジャナールダナ〔クリシュナ〕よ、おん身のこのやさしい人間の形相を見て、いまわたしは心が落ち着き、本来の自分にたちかえりました。  聖バガヴァットはいった。  おまえが見たこの形相〔ビシュヌ〕は、非常に見がたいものである。天神でさえ、この形相をつねに見たいと願っている。  ヴェーダによっても、苦行によっても、布施によっても、また祭祀(さいし)によっても、おまえが前に見たようなすがたのわたしを、見ることはできないのである。  しかしながら、アルジュナよ、ひたむきな誠信(バクティ)によって、このようなすがたのわたしを如実に知り、見、またわたしに帰入することができる。パランタパよ。  パーンドゥの子よ、わたしのために行為をなし、わたしに専念し、わたしに誠信をささげ、執着を離れ、一切万物に対して敵意のない者は、わたしのもとに到達する。  アルジュナはいった。  このようにたえずつとめて、誠信をささげておん身を信奉する者と、不滅の非顕現者(を信奉する者)のうちで、より実修(ヨーガ)に通暁した者はいずれでしょうか。  聖バガヴァットはいった。  意(マナス)をわたしに向け、つねに実修を修めて、最高の信心をそなえてわたしを信奉する者は、最もよく実修を修めた者と、わたしには考えられる。  しかしながら、不滅、不可表現、非顕現、あらゆる場所に遍満し、不可思議、不変、不動、永遠なものを信奉する者、  すべての感覚器官を抑制し、すべての対象を平等に見て、一切有情の利益を喜ぶ者、—彼らは必ずわたしのもとに到達する。  心を非顕現なものに専念させる者の苦労は、さらに大きい。なぜなら、非顕現なものの境涯は、肉体をもつ者には到達しがたいから。  これに対して、すべての行為をわたしにささげて、わたしに専念し、ひたむきな実修をもって、わたしを瞑想しながら信奉し、  心をわたしにのみ向ける者を、プリターの子よ、わたしは死の輪廻海から、ただちに救い出す。  心をわたしにのみ向けよ。理性をわたしに専念させよ。そのあとで、おまえはわたしのなかに宿ることになろう。(これについては)少しも疑いはない。  ダナンジャヤよ、もしおまえが確固としてわたしに心を集中できないなら、反復的心統一の実修によって、わたしのもとに到達するように望め。  もし、おまえが反復的心統一さえできないならば、わたしのための行為に専念せよ。わたしのための行為を行なうだけでも、おまえは完成に到達しうる。  もし、わたしへの誠信によりながら、これさえおまえにできないならば、自己〔心〕を統御して、あらゆる行為の結果を捨離せよ。  なぜなら、知識は反復的心統一よりすぐれ、瞑想は知識にまさり、行為の結果を捨離することは、瞑想よりすぐれ、捨離からただちに寂静が生ずるから。  すべての有情に対して憎しみをもたず、友情に富み、あわれみの情にあふれ、苦楽に対して心を等しく保ち、忍耐強く、利欲と我執を離れ、  つねに心が満ち足り、実修を行ない、心を統一し、強固な決意をもち、意と理性とをわたしに向け、誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  世間からも嫌われず、また世間をもわずらわさず、喜びと怒りとおそれと悲しみを脱した者、彼はわたしにとって愛しい者である。  少しも期待をいだかず、清浄であって用意周到、公平であって動揺を離れ、すべての意図された行為を捨てて、わたしに誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  喜ばず、憎まず、悲しまず、期待せず、善行・悪行を捨離して誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  敵と友とに対して平等、名誉・不名誉とに対してもまた同じく、寒暑、苦楽に対して心を等しく保ち、執着を脱し、  非難と賞讃とを等しくみて、沈黙し、何ものにも満足し、住居(すまい)をもたず、堅固な心で、誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  しかし、いままで述べた不死の(状態に到達させる)この正法を信奉し、信仰心をもってわたしに専念し、誠信をささげる者、彼はわたしにとってとくに愛しい者である。
訳(c)宇野ヒロミ
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マハーバーラタ Mahabharata 
サンスクリットで書かれた壮大な物語。「バラタ族の戦争をものがたる大史詩」の意。「ラーマーヤナ」とともに古代インドの2大叙事詩である。「マハーバーラタ」も「ラーマーヤナ」も、基本的には世俗的な作品であるが、両者は宗教儀式で朗唱され、聴衆には宗教的功徳がさずかると考えられている。

「マハーバーラタ」は、前10世紀ごろ北インドにおこった2大部族の争いが、吟遊詩人などによってかたりつたえられるうちにおびただしい補足がおこなわれて、4世紀ごろ現行のような形になったと思われる。全部で18巻からなり、10万頌(しょう:1頌は16音節2行)をこす長大なものである。

「マハーバーラタ」の中心テーマは、2つの王族の争いである。名門バラタ族の王子ドリターシュトラには100人の王子があり、カウラバとよばれていた。また弟王子パーンドゥには5人の王子があり、パーンダバとよばれていた。この両者が王国の所有をめぐってあらそい、結局パーンダバの一族が勝利する。

この物語を軸にしてさまざまな神話や伝説、宗教、風俗などがかたられる。とりわけ第6巻にある「バガバッドギーター(神の歌)」は、ビシュヌ神の8番目の化身であるクリシュナが、パーンダバ一族の英雄アルジュナと人生についてかたるもので、ヒンドゥー教の聖書ともされている。

このほか、貞女の物語「サービトリー物語」や、夫婦愛をうたった「ナラ王物語」などがよく知られており、「一角仙人物語」は歌舞伎の「鳴神」の原型といわれている。また、後世のいくつかの付録のひとつである「ハリ・バンシャ(ハリ神の系譜)」は、クリシュナの生活と家系を詳細に論じている。

「マハーバーラタ」がのちのインド文化にあたえた影響ははかり知れず、「マハーバーラタ」に材をとった文芸・美術作品は数多い。また東南アジア各地にも多大の影響をおよぼしている。

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ラーマーヤナ Ramayana サンスクリットで、「ラーマ王の物語」を意味する。マハーバーラタとともに古代インドの2大サンスクリット叙事詩である。「ラーマーヤナ」は7編、2万4000頌(1頌は16音節2行)からなる。古代の英雄ラーマ王の物語が、前数世紀ごろからひとつのまとまった形をとりはじめ、多くの追加や補足がなされて、おそらく3世紀ごろに現在の形になったものと思われる。とりわけ第1編と第7編は後世の付加と考えられるが、これにより物語としての体裁がいっそうととのえられた。

「ラーマーヤナ」は、王子でありビシュヌ神の第7番目の化身であるラーマの誕生と教育の物語である。文武にすぐれたラーマ王子は、美女シーターを妻とするが、継母に王位継承をさまたげられる。ラーマは追放の身となり、シーターと弟のラクシュマナをともなって森にはいり、悪魔を退治する。しかし魔王ラーバナににくまれ、幽閉される。ラーマは猿の将軍ハヌマットと、猿と熊の軍隊の助けによって、長い探索のすえ、ラーバナを殺害し妻シーターをすくいだす。ラーマは王位につき、善政をおこなうが、国民は幽閉中のシーターの貞節をうたがう。シーターは潔白であったが、ラーマとの間の双子の息子を、この作品の著者であるといわれているバールミーキ仙人にゆだね、大地にのまれて世を去る。ラーマもやがて王位をしりぞき、天界にのぼる。

「ラーマーヤナ」は基本的には世俗の作品であるが、聖なるベーダ文献(→ ベーダ)との多くの混合がみられる。ラーマ、シーター、ラクシュマナ、ハヌマットは、それぞれ王侯にふさわしいヒロイズム、妻にふさわしい献身、兄弟の献身、忠臣としての任務の理想的具現者として、ひろくあがめられている。「ラーマーヤナ」の朗唱は宗教的行為とみなされ、その叙事詩の場面はインドや東南アジアの各地で演劇化されている。翻訳や校訂本(もっとも有名な版は16世紀のヒンドゥー詩人トゥルシーダース版である)をとおしてひろく知られているので、「ラーマーヤナ」はのちのインド文学に大きな影響をおよぼした。

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文献
長尾雅人編『世界の名著 バラモン教典・原始仏典』中央公論社、1979年
マーガレット・シンプソン編著、菜畑めぶき訳『マハーバーラタ戦記』PHP出版2002年
河田清史著『ラーマーヤナ インド古典物語』(上)(下)レグレス文庫1・2、第三文明社、1971年
上村勝彦訳『バガヴァット・ギーター』岩波文庫、1992年
上村勝彦著『バガヴァット・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済』ちくま学芸文庫、筑摩書店、2007年
# by takumi429 | 2013-06-10 08:42 | ヴェーバー宗教社会学講義

8.『儒教と道教』

8.『儒教と道教』
初版の雑誌掲載時の題名は『儒教』。官僚精神の典型である儒教を批判することで、官僚精神を批判することをねらった論文。儒教だけでなく道教を付け足したのは、正統と異端の両方をそろえるため。正統たる儒教だけでなく、異端たる道教も、呪術的世界を廃棄するどころか、助長し、呪術的世界そのものとなってしまったことを明らかにしている。

まずは中国史をざっとさらってみよう。

中国史年表

王朝・時代名       ポイント
殷    前16-11世紀   神権政治 王の卜占(甲骨文字)人身供養 羌族を捧げる
周 西周 前11世紀-B.C.771  封建制(各地に王族・諸侯を配置して支配させる)
  東周 B.C.770-256
春秋時代   770-476  都市発展時代 鉄器による飛躍的農業生産増大 孔子・墨子
戦国時代   475-221                        諸子百家
秦      221-206  始皇帝 家産制(国家を皇帝の家産として支配する)の始まり
前漢     202-A.D.8
新    A.D.8-23     儒教の官学化 体制を正当化するものであって行政の指 針とはならず
後漢     25-220   黄巾の乱184 ← 太平道(道教の一派) 華北・華中の人口激減
三国時代   220-280  北族(北夷)の流入
普      256-316
五胡十六国  316-439  遊牧民族の中国北部への流入・占拠
南北朝時代  439-589  
隋      581-618  新たな北族の勝利   選挙の制
唐      618-907             科挙の制
五代     907-960
北宋     960-1127  王安石の改革1069-76 科挙制度完備
南宋     1127-1279   士大夫 官僚=大地主=豪商の三位一体  朱子学の誕生
元      1271-1368  塩引(えんいん)(専売の塩の引換券)と商税(間接税)による財政 紙幣の発行
              ラマ教(チベット仏教)の王宮席巻
              紅巾の乱1351-66 ← 白蓮教(終末論的宗教結社)
明      1368-1644  漢人王朝 「海禁」朝貢外交への後戻り 宦官の暗躍
清      1644-1912  女真族支配 アヘン戦争1840-2 
              太平天国の乱1851-64(拝上帝会←キリスト教の影響)
中華民国   1912-
中華人民共和国1947-

ヴェーバーの世界史認識で特徴的なのは、封建制と家産制の区別です。
封建制(ヨーロッパのみに起きた)
 君主と騎士との間の自由な契約関係
 関係の隙間をぬって、誓約共同体としての自治都市が生まれ、ブルジョワジーと資本主義が孕まれた。

家産制国家
 国家は王や皇帝の家の財産の拡大とされた

中国では科挙制度によって、皇帝と対抗する貴族や領主が育たず、皇帝権力におもねることで、官僚利権をもとめる士大夫たちが育った。
官僚は基本的にほとんど無給だった(あるいはあっても薄給だった)。通貨の不足・取引の手間が大きすぎるため、税収をいったん国庫に納めてから官僚の給料が払われるのではなく、現地で徴収した税を一部だけを中央に上納して残りを公然と着服した。
3年ごとに任地を移動する。現場の実務は地方の実務官僚(「胥吏」しょり)が担った。
科挙制度によって、官僚は建前としてあらゆる階層から抜擢され、皇帝の臣下となるとされた。実際には富裕な「士大夫」とよばれる、官僚と土地所有者と商人の三位一体の階級が形成されていった。しかし皇帝に対抗する勢力とはならずあくまでも皇帝とその帝国に寄生する知識人=有力者でしかなかった。
科挙制度で重視されたのは、専門知識ではなく、詩作と文章の巧みさと儒教知識の豊富さだった。
試験の席次は発表され、とくに「殿試」での席次(トップは「状元」)はその後の出世のコースを決めた。

こうした経済・政治状況にたいして、中国の宗教・思想は、適応するだけで何ら変えることはなかった(現世適応)

儒家 人間関係調節的な教えの羅列 冠婚葬祭の集団(「葬式屋」)
 孔子 冠婚葬祭の時の音楽の調和を人間関係にあてはめていった?
   「仁」(人が二人):人間関係のみごとな調和
   「礼」:乱れのない人間関係の遂行 祭儀の破綻のない遂行
墨家 上帝(人格神)の下の平等を主張 防衛戦専門の戦争請負人集団(「工兵」)
 墨子 工具としての規矩準縄(きくじゅんじょう)(規はコンパス,矩は直角定規のことで,それぞれ円形と方形を作り出すための器具。準は水準器,縄は下げ振り縄のことで,それぞれ水平と垂直を作り出すための器具)から思索をめぐらす。とくに「準」(水準器)から平等論を発想している?

儒教は宗教的なことにはまるで言及しない(「鬼神を語らず」)。

荘子・老子 規則としての礼重視の儒家批判。「道(タオ)」の原理を主張。
      「道」(あらゆる現象に先立ち、その背後にあって、この世界を支配している原理)

道教 中国古来からある呪術的自然信仰
   現世の御利益(ごりやく)、とりわけ不老不死をもとめる。
  老子を教祖にし、仏教との対抗意識から体系化
  陰陽と5行(木・火・土・金・水)による循環原理

朱子学 道教の影響の下、理(世界の形成原理)と気(世界の実質原理)の絡み合いから世界を説明。
    理は人間に内在して性となり、仁義礼知となって発現して国家・社会にひろがっていく。
    儒教の古典を「四書五経」として整理。科挙試験の内容となって思想界を支配。

世俗適応の官僚の精神(儒教)は、現実的な合理主義にみえるが、呪術的な世界を放置したため、それは「呪術の森」たる道教となって肥大化して、中国民衆の世界を支配している。呪術からの解放(脱呪術化)は、現実適合の思想ではなく、宗教的な先鋭な思考による変革なくしては行われないのである。

参考文献
宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』中公新書15(1963年)
平山茂樹『科挙と官僚制』山川出版社(1997年)
宮崎市定『科挙史』東洋文庫470(1987年)
岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書1761(2004年)
杉山正明『モンゴル帝国の興亡』講談社現代新書1306・1307(1996年)
森三樹三郎『中国思想史』レグルス文庫 第三文明社(1978年)
アンヌ・チャン『中国思想史』知泉書房2010年
鯖田豊之『ヨーロッパ封建都市』講談社学術文庫1156
窪徳忠『道教の世界』学生社1987年
ヴァンサン・ゴーセール、カロリーヌ・ジス『道教の世界 宇宙の仕組みと不老不死』知の再発見双書150(2011年)
# by takumi429 | 2013-06-03 08:09 | ヴェーバー宗教社会学講義

7.漢字の呪術的世界

7.漢字の呪術的世界

NHKスペシャル 中国文明の謎 第2集 (2012年11月11日放送)
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1111/
http://v.youku.com/v_show/id_XNDc0ODI4NTQ0.html

漢字は殷の時代に占いのために発明された 甲骨文字 卜占 天と王とのコミュニケーションの手段
周の時代になって、行政のためのコミュニケーションの手段となった。
表意文字であるので、異なった言語体系の人々を束ねることが出来る。

白川静:漢字の持つ呪術的(まじないの)世界を解明

呪術的世界と宗教的世界

超感性的諸力(ふだんは目に見えないさまざまな力)
アニミズム:物の背後にあってその物を動かしている霊魂(アニマ)を信仰すること
プレアニミズム:見えない力(マナ)がさまざまな現象を引き起こしていると考えること

ヴェーバーの2類型(呪術と宗教のちがい)
神強制:目に見えない力に働きかけて自分の都合の良いように現実を変えようとすること=呪術
 例:丑の刻参り(丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜五寸釘で打ち込むことで恨む相手を殺したり危害を与えようとする呪い)
 直接、現実に力を行使するのでなく、超感性諸力に働きかけて、その感性的諸力の力で現実を変えようとする。
 例:雨乞いの祭り(天に犠牲を捧げて、雨を降らせようとする。犠牲は時には人間のこともある(人身御供))

神崇拝:人間によって神が動かせることをあきらめ、ひたすらその加護を祈ること=宗教

フレイザー(James Frazer1854-1941)の『金枝篇』(未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書)
共感呪術(sympathetic magic)
未開人の思考を支配している呪術(まじない)の原理
(1)類似の法則:類似は類似を生む、結果はその原因に似る
(2)接触の法則/感染の法則:かつてお互いに接触していたものは、空間を隔てて相互作用を継続する
類似の法則による呪術:類感(homoeopathic magic)/模倣呪術(imitative magic)
接触の法則による呪術:感染呪術(contagious magic)
例(1)ある人物をのろい殺そうとする時、その人物に似せた像を突き刺したり燃やして呪いをかける
 (2)ある人物をのろい殺そうとする時、その人物がかつて接してた物(髪の毛など)を焼いたりして呪いをかける。
 人形にその人間の爪や髪の毛を入れて、人形を刺したり焼く、という合わせ技がよく用いられる。
ロマン・ヤコブソンの指摘した
フレーザーの「類似」と「接触」/「連続」という呪術の二つの構成原理は、失語症の2つのタイプの見られる「隠喩的」および「換喩的」という表象作用の二つの軸に対応する区別である
(「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」ロマーン・ヤコブソン『一般言語学』(みすず書房1973収録))

ヴェーバーの「類感的性的狂躁道」(die homoeopathische sexuelle Orgie)
作物世界と人間世界の類似:作物の豊作と人間の多産
豊作を祈願するために、人間の交合を祝う(多産をもたらすべく乱交する)
映画『十戒』より、金の雄牛をあがめる狂躁道
http://www.youtube.com/watch?v=NEeHS1trNcQ
ヴェーバーの考えていた狂躁道とは、このイメージではないかと思われる。

例:小牧の田県神社の豊年祭 この祭りのニュース動画をみてみよう。
「くらやみ祭り」:豊年を祈って放逸な性交をする

フレイザー 呪術師としての王 王は天候調整(雨降らし)の呪術師である
ヴェーバー 「雨司」(Regemacher,rainmaker)としての中国の君主 
 これは、卜占をして、羌族の捕虜を殺して犠牲としていた殷の君子によく当てはまる。

認知意味論のメタファー理論
メタファーとはある集合からある集合への写像(mapping)である。
あるいはある集合の内容を別の集合を使って理解する試みである。

メタファー:「恋は旅である」 恋の経験を旅を通じて理解説明する。
人生の道の途中で僕たちは出会ったよね。それからいろんなことがあったね。晴れの日もあれば、雨の日もあった。すいすいと楽しくいけることもあったけど、つらい道もあった。笑ったり泣いたり怒ったりしながら、一緒に旅をしてきた。でもいま分かれ道に来たんだよね。君は右、僕は左。それぞれが目指している方へ別々に行く日が来たんだ。君の旅は素敵なものになることを祈っているよ、ありがとう、そして、さようなら」。

メタファーとは、二つの集合を(似たものとして)写像する(対応させる)ことである。

この写像の考え方は、類感呪術や漢字を考えるのに使えるかもしれない。

穀物の発芽と成長と豊穣な実り、を、男女の交合と出産、の世界に対応させる。
対応した部分を操作することで対応部分の変化を期待する。

類似の原則とは二つの集合の類似対応を意味し、
接触/感染の原則は、写像(対応付け)を意味する。

漢字は現実の事物の中から特徴ある部分を抽出して線画としたもの、つまりmapping地図化(写像したもの)。
漢字が刻まれた甲骨(亀の甲羅や動物の骨)は世界の写し絵となる。
熱した火箸を押しつけることは世界と、文字が刻まれた甲骨、とを対応させる(感染呪術)ことにほかならない。
世界を写し取った甲骨を読み解くことで、世界(天)の意志を読み解こうとする。
またしたことを甲骨に書くことで、天の下でおこなわれたことが、甲骨に写し込まれるわけである。

漢字とは基本的に似せ絵(像map)である。
それに対して表音文字はどのように世界を写し取り構築するのか、
その結果、どのような宗教世界の違いが生まれてくるのか。
そのことはさきの「古代ユダヤ教」で明らかになって来るであろう。
# by takumi429 | 2013-05-26 23:41 | ヴェーバー宗教社会学講義

6 の補足

6.補足

カルヴァンの生涯 (http://yokochu.seesaa.net/article/128978377.html 2013.5.20)
1509:フランスのピカルディーで誕生(ルターの26年後)。ドゥメルグによれば、ピカルディー人は自由解放の精神に富んだ船乗りたちで、「勇敢にして短気なピカルディー人」という慣用句がある。カルヴァンは怒りっぽい性格だったと言われるが、自身の多くの書簡に「私は短気であることを告白します」という文章がある。
1523:聖職登録し、パリへ遊学。
1529:父の意志により法律の勉強に転向。
1531:父の死により、生来の希望である古典文学研究者(ユマニスト)になり、文学、古典文学の研究に没頭。
1532:『セネカ寛容論の注解』を刊行。世に知られるようになる。
1533:友人ニコラ・コップ、パリ大学総長就任演説に際して福音主義を説き、教会を追われ亡命。この演説草稿を書いた疑いによりカルヴァンも亡命。
1534:回心を体験、福音主義陣営に入る。故郷に戻り聖職禄を辞退。パリで「檄文事件」(教皇のミサの誤謬を攻撃したビラが、国王の寝室にまで貼られた)が起き、数十人が処刑される。カルヴァンはバーゼルに亡命。
1536:バーゼルで『キリスト教綱要』初版本(ラテン語、全6章)を刊行。
   ついでフランス語版が刊行される。フェラーラからバーゼルへの帰途、
   戦乱のため道が通行止めになりジュネーブを経由。この地でファレルに引き留められ、ジュネーブの宗教改革のために働く。
1538:教会改革についてジュネーブの当局者たちと意見が合わず、追放され、ストラスブールへ。亡命者のためのフランス教会を建てる。
1540:3人の子を持つ未亡人イドレットと結婚。
1541:改革に失敗し、無政府状態となっていたジュネーブへ、再び招聘される。
1547:過労のため悪性気管支カタルを疾病。生涯過度の徹夜により体力を酷使。不断の偏頭痛のため口を開けられない状態が続く。
1553:三位一体を否定するセルベトスを告発。(市議会は火刑を宣告。
   カルヴァンは火刑を免れさせようと努力するが火刑が執行される)
1556:肋膜炎、肺結核に襲われる。
1559:ジュネーブ大学を創立。
1564:7つか8つの病気と戦いつつ死去。

4宗派について (ウィキペディアからの引用)

敬虔派
ルター派の刷新を目指した1宗派
宗教改革に端を発したルター主義も17世紀頃になると、教理の解釈や説教に耳を傾けるのみの受動的なものになっていた。正統主義に見られたこのような風潮に対抗したのがシュペーナーであり、一般の信者の積極的役割と、禁欲的な生活を説いた。1666年、フランクフルト・アム・マインのルター派教会の牧師になった彼は教会の改革に着手し、堅信礼の確立などともに、互いに信仰を深め合う目的で信者が定期的な集会を開くことを提唱した。1670年に「コレギア・ピエタティス」(「敬虔な者の集い」の意)の名のもとに集会を自宅で始め、週2回集って、祈ったり聖書を読み合ったりした。「敬虔主義」の名はこれに由来す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%99%94%E4%B8%BB%E7%BE%A9 2013年5月20日)

メソジスト(Methodist)とは、18世紀、英国でジョン・ウェスレーによって興されたキリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズム(Methodism)に生きた人々、および、その運動から発展したプロテスタント教会・教派に属する人々を指す。
特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。
メソジスト運動は、本国英国ではさほどの勢力にはならなかったが、アイルランド、アメリカ、ドイツなどに早くから布教し、メソジスト教団は、現在アメリカでは信徒数が2番目に多いプロテスタント教団である。ちなみに、一番多いのはバプテスト教会である。信条としてはルター派に近く、悔い改めによる救済を強調する。カルヴァンの説いた予定説的な考え方はとらない。
これゆえ、ヨーロッパ大陸におけるプロテスタントの二大潮流であるルター派と改革派教会は、イングランドと米国ではメソジスト派と長老派にほぼ重なる。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%88 2013年5月20日)
2013年5月20日

アナバプテスト(英語: Anabaptist、再洗礼派、さいせんれいは)は、キリスト教において宗教改革時代にフルドリッヒ・ツヴィングリの弟子たちから分派した教派
幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づくバプテスマ(成人洗礼)を認めるのがその教理的特徴の一つである。幼児洗礼者にバプテスマを授けることがあるため再洗礼派とも呼ばれる。ただし、彼らにとって幼児洗礼そのものが無効であるので再度洗礼を授けているという認識はない。従って「再洗礼派」を自教会の名称として用いることはない。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88 2013年5月20日)

バプテスト(英: Baptist、漢:浸礼教会、しんれいきょうかい)は、バプテスマ(浸礼での洗礼)を行う者の意味に由来しており、イギリスの分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派。個人の良心の自由を大事にする。
バプテストは17世紀頃にイギリスで始まり、現在ではアメリカ合衆国に最も多く分布している。アメリカ合衆国の宗教人口はプロテスタントが最も多いが、その中で最も多いのがバプテストである。アメリカNo.1と言われるこの保守派に属するバプテスト派、殊に南部バプテスト連盟は、アメリカ合衆国の非カトリック教派団体として最大の規模を誇る。
バプテスト派は、アルミニウスの流れを汲む普遍救済主義を支持するジェネラル・バプテストと、ジャン カルヴァン(カルヴィン)の流れを汲む予定説を支持するパティキュラー・バプテストとに分かれる。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A 2013年5月20日)

聖公会(せいこうかい、英語: Anglicanism, Anglican Church)は、イングランド国教会 (Church of England) の系統に属するキリスト教の教派。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%85%AC%E4%BC%9A 2013年5月20日)

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で言及されている
バニアンの『天路歴程』 The Pilgrim's Progressの
『天路歴程』は聖書についでプロテスタントに読まれたと言われる本。
これはまるで、「天路歴程すごろく」だ。
6 の補足_c0046749_91274.jpg

# by takumi429 | 2013-05-20 10:21 | ヴェーバー宗教社会学講義

6.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじ

 6.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の要約

まえおきがたいへん長くなってしまいました。では『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の内容をみていくことにしましょう。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじ
                            
 第1章 問題の提示
 第1節 信仰と社会階層
 統計をみると、資本主義に参加することと、プロテスタント(新教徒)であることとの間にプラスの(正の)相関関係がある。
 この関係に対して、一般的にはつぎのような説明が考えられる。(1)経済発展が改宗を引き起こした、(2)少数派は経済に専念する、(3)プロテスタントは世俗的だから、(4)営利活動の反動で宗教に向かった。
 しかしこれらの説明に対しては、(1)むしろ宗教性が経済志向を決定しがち、(2)ドイツではカトリックの方が少数派、(3)プロテスタントはむしろ非世俗的だった、(4)プロテスタントでは事業と信仰が仲良く同居していた、という反論が成立する。
 そこでむしろ、一見水と油のようにみえる、資本主義参加とプロテスタントであることが、じつは「親和的関係」(相性のいい関係)にあり、プロテスタンティズム(新教)から資本主義への参加、がじつは説明できるのではないか、と考えられる。それをこれから考察していくことにする。

 第1章第2節 資本主義の「精神」
 まず「資本主義の精神」を体現している思想として、(初期アメリカの文筆家・外交官)ベンジャミン・フランクリン(1706-90)の思想を彼の『自伝』を見てみよう。
 フランクリンは自伝でこう言っている。「時は金である。・・・信用は貨幣である。・・・貨幣は貨幣を生む・・・勤勉と質素を別にすれば、すべての仕事で時間の正確と公平を守ることほど、青年が世の中で成功するために必要なものはない。・・・正直な男であると人に見させよ」。
 彼の自伝にみられる精神は、営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなすような精神である。これに対して、ドイツの高利貸資本家だったヤーコブ・フッガー(1459-1525)引退も他人に儲けさせることもしないで「可能な限り儲けようと思う」と答えたという。フランクリンの精神は、フッガー(このフッカー家への借金を支払うために贖宥状販売がおこなわれた)のような単なる金銭欲とはちがう、ある種の倫理性をもっている。
 フランクリンの自伝にみられた資本の増大を志向する、この「資本主義精神」は、これまでどうり生きていければ良いする「伝統主義」とは対立する。
 ところで、ゾンバルトは経済の基調を、(1)「欲求充足Bedarfsdeckung」と(2)「営利Erwerb」とに分けている。
 ふつう、欲求充足には伝統主義が、営利には資本主義の精神が対応するように思える。しかしことはそんなに単純ではない。営利活動が伝統主義によって営まれていることもある。
 たとえば、19世紀半ばまでのヨーロッパ大陸の繊維工業前貸し問屋をみるならば、①生産過程は農家の裁量に委ねられ、②販売は仲介商人まかせで、③同業種間の反目も少なく、④営業時間も短くて生活のテンポはゆとりがあり、たまに羽目をはずした消費がなされるが、身分相応の生計の維持が目指されていた。
 ところがそこに資本主義的精神をもつ青年実業家(ヴェーバーの叔父がモデル、『伝記』136頁)が登場して変革が起きた。経営組織の形態は同じだが、経営者は、①生産過程の掌握、②販売の掌握をする、③同業者間の競争が生まれる。結果④ゆとりは消え、真面目いっぽうの生活となり、消費をおさえて営利のための資本の再投下がなされるようになる。
 ところでこの精神は、よく問うとみると、人のために事業Geschaeftがあるのではなく、事業のために人がいる、という、じつはきわめて倒錯的で非合理的なことになっている。
 けっして営利を追求する活動にあわせてそれに都合のよい精神が生まれてきた、とは思われない(それだったら、伝統主義のままだったはずである)。ではこの、営利活動を倫理的義務、すなわち「天職Beruf」とみなすようなこの思想はどこから来たのだろうか。

 第3節 ルッターの天職概念
 営利活動での資本増大を「天職」とみなすこの思想は、(聖書外典「ベンシラの知恵」で)世俗の労働を「天職Beruf」と訳したルッターの宗教改革の精神に由来する。つまり彼は修道僧にしか通用しなかった「天職」の論理を世俗の仕事に適用した。
 しかし世俗労働を「天職」とみなすだけでは、「資本主義の精神」がもつ、資本の増大をたえず求める、あの駆り立てられるような心のありかたは生まれない。絶え間ない資本の増大へひとびとを駆り立てた起動力(Antireb)はどこにあったのかを知るために、我々はプロテスタンティズムの禁欲思想にわけいることにする。

 第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
 第1節 世俗内的禁欲の宗教的基盤
 禁欲的プロテスタンティズムの、主な担い手は、(1)カルヴィニズム、(2)敬虔派、
(3)メソジスト派、(4)再洗礼派系の教派、に分けられる。
 とりわけ(1)カルヴィニズムの「予定説」、すなわち、人は救いと滅びのどちらかに予定されており、それは変更不可能であるという教えは、決定的な影響力をもった。
 ピューリタン革命時のイギリスでまとめられた「ウェストミンスター信仰告白」にはこの教えが明記されていることからも、この教えが一般信者にとっても周知の教えだったことは明らかである。
 自信のない一般の信者が、救いに予定されていることの「証し」を求めるのは無理もなかった。ルッターは世俗の労働も神から与えられた「天職」とみなしてよいとした。だから修道院でおこなわれた合理的な禁欲的主義で世俗の労働を行うことが可能になっていた。カルヴァン派の人々はこの合理的・禁欲的な世俗の労働で「神の栄光」を増大させることに「救いの証し」を見いだそうとした。
 こうした傾向は(2)敬虔派、(3)メソジスト派でも同様であった。ただ両派では感情的側面が強く、その分だけ合理的な禁欲が弱まっている。(4)再洗礼派系の教派の教義はこれとはちがう。彼らは心正しき者だけから構成された
「教会」を作り上げようとした。心正しさは精霊がその者に宿ることで証明される。だから精霊が宿るのを妨げるような、人間の本能的で非合理的なものを克服しようとした。その結果、合理的な禁欲主義をめざすことになったのである。
 こうしていずれの宗派の信徒も、神に召命された者であることの証しをもとめて、合理的で禁欲的な世俗労働へと駆り立てられたのである。

 第2節 禁欲と資本主義精神
 プロテスタントでは牧師が信徒の相談にのり指導することを「司牧」(Seelsorge)という。
 ここでは、この司牧の活動からうまれた神学書、とくにイギリスのピューリタンの指導者だったリャード・バクスターRichard Baxter (1615-91)の書いたものをとりあげる。この司牧(魂のみとり)が宗教的な教えが日常生活へ影響する際の仲立ちの役割をしているからである。
 プロテスタント、とくにカルヴェン派、の司牧では、「救いの証し」とされる「神の栄光」の増大は、有益な職業労働から生まれるとされた。そしてその職業の有益さは、結局、その職業がもたらす「収益性」(どれだけ儲かるか)で測かることができるとされるようになった。しかも楽しみ事は徹底的に否定された。その結果、儲けても、楽しみに使わず、さらに営利活動に投資してどんどん利潤を追求していくことが宗教的に奨励されたのである。しかもそうした経営者のもとには、仕事を「天職」とみなして必死になってはたらく勤勉な労働者さえも与えられた。
 しかし富が増大するにつれて宗教心はうすれていく。その結果、フランクリンにみられた、倫理的ではあるが宗教色の消えた「資本主義の精神」、つまり営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなす精神が生まれたのである。
 こうしてつぎのことがあきらかにされた。すなわち、資本主義を構成する要素のひとつである、「天職」という考えのうえにたつ合理的な生活態度は、ルッターの「天職Beruf」という考えを前提にしてプロテスタント(新教徒)がみずからの「救いの証し」を合理的な禁欲で追求したことから、もたらされた。
 しかし現代においては資本主義はすでに自律的な自動運動をしており、もはやそれを生み出した精神の支えを必要とはしていない。私たちは、生命のない機械と生きている機械(官僚制)の運動のただ中に、巻き込まれていくばかりである。

 さてこうして「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじをのべたわけですが、ここでもう一度この作品の内容を整理しなおしてみましょう。

 この著作はしばしば西洋的合理化を述べた作品であるかのごとく語られます。しかし内容を要約すると、解明はおもに経済的な側面に向けられていることがわかります。
 社会の主流である経済体制が、「欲求充足」の経済体制から「営利」中心の資本主義体制に移行する。その移行、あるいは転換はどのように起きたのか、それにたいする宗教の働きが問題とされています。

「欲求充足」の経済に適合的なのは「伝統主義」とよばれる、これまで通りの生活ができればいいとする精神です。それに対して、「営利」活動が中心となった資本主義は、もちろん伝統主義によって営まれることはあるにせよ、やはりそれに適合的なのは営利を自己目的とした「資本主義の精神」です。

 なお、ここでの資本主義とは、商人が地域による商品交換率の違いを利用してもうける商業資本主義や、金融市場を利用して(相場の時間による差をりようして)利益をあげる金融資本主義でもなく、いわゆる(労働者には精算して物の価値よりも少なく払うという、生産現場と市場との価格差を利用して利益をあげる)「産業資本主義」を指しています。(参照:岩井克人著『ベニスの商人の資本論』)
 産業資本主義の定義としてはつぎのものをあげておきましょう。
「資本主義 封建制度の次いで現れ、産業革命によって確立された経済体制。生産手段(生産過程において労働と結合して生産物を算出するために消費・使用される物的要素。労働対象(原材料・土地・樹木・功績など)と労働手段(道具・機会・建物・道路など)とからなる)を資本として私有する資本家が、自己の労働力以外に売るものをもたない労働者から労働力を商品として買い、それを上回る価値を持つ商品を生産して利潤を得る経済構造。生産活動は利潤追求を原動力とする市場メカニズムによって運営される」(『大辞泉』)。これは基本的にマルクスの定義する「資本主義」と同じです。

 しかしこの「資本主義の精神」はそれ以前の「伝統主義」からは生まれたとは考えられません。伝統主義が「今生きてあること」(dasein)を大切にするのに、「資本主義の精神」は現在を犠牲にして果てしない彼方にあるものへ向かって駆けていく、そうした倒錯した精神だからです。
 そうした精神の由来を、ヴェーバーは修道院の禁欲主義に求めます。世俗を離れ、ただ神のみを想い、厳しい労働によって自分たちばかりか俗人たちの救済を作り上げていた修道士の活動の論理。この論理はどのように世俗へともたらされたのでしょうか。
 神からの呼びかけによって与えられた使命としての職業(Beruf) はそれまで、聖職のみに限定されていました。ですから修道僧の禁欲もあくまでも世俗の外の修道院に限定されたままでした。
 しかしルッターが、世俗の一般の仕事も、神からのお召しによる「職業」であるとみなしたことで、この修道院だけにあった禁欲主義は世俗へともたらされました。ちょうどレールを切り替えることで電車が引き込まれてくるように、禁欲主義は世俗の労働に適用可能になりました。
 その意味で、ルッターはレールを切り替える人、つなわち「転轍手」(『宗教社会学論集』58頁)であるわけです。
 しかし世俗の仕事が「職業=使命」とみなされるだけでは、あの追いたれられるような、強迫的な労働は生まれません。
 それをもたらしたのは、カルヴァン派の宗教カウンセリング(「魂のみとり」)でした。彼らの「魂のみとり」(司牧)では、業績とか収益が「救いの証し」であるとみなされました。その結果、自分が救いに予定されているか不安な平信徒は、「救いの証し」をもとめて、いまや聖職と同格の「職業」と見なされるようになった世俗的労働にまい進することになったのです。

31.図にまとめるといかのようになるでしょう。

 修道院の禁欲--┐転轍
             ↓
伝統主義-→×  資本主義の精神   
   ∥         ∥ (適合)
欲求充足---→営利(資本主義的経営)

 ルッターの転轍       :仕事を「職業=使命」とみなす
         「意味連関」:修道僧の禁欲的労働の論理が世俗労働をつかむ
 カルヴァン派の「魂のみとり」:収益を「救いの証し」とみなす 
         「感情連関」: 不安→証しの追求 心理的起動力が生まれる

 ルッターの転轍により、世俗労働=「職業」とみなされたことにより、修道院の禁欲の論理が世俗の労働をつかみます。人々は日常の仕事を、神から与えられた、神の意にそった「使命」としてはげみます。つまりあたらしい意味の連なり(意味連関)が世俗の労働をとらえたのです。 
 カルヴァン派の魂のみとりは、収益・業績=「救いの証し」とみなしました。不安にあえぐ人たちは「証し」を求めて仕事(職業)にまい進しました。こうして禁欲的な労働の心理的な機動力がうまれたのです。収益をあげても救われるわけではありません。しかし一般の信徒は心理的に収益をあげて安心したいと思ったです。つまりここでは目的-手段の連関があるのではなくて、不安から労働するという、心理的な連なり(感情連関)があるわけです。

くり返しになりますが、ここでは二つの「解釈がえ」があったわけです。
 ルッターは日常的な労働が「転職」として解釈しなおしました。その結果、聖職者の世界と俗人の世界の区分の廃絶され、聖職者(修道士)の論理が俗界への侵入してきました。しかしそれだけでは社会資本主義へ転換するには不十分でした。
 カルヴァン派では収益・業績が「救いの証し」と解釈されました。その結果世俗的労働にまい進する心理的機動力が生まれました。そうして、伝統主義が支配していた経済は、資本主義が支配する経済システムへと移行したのです
 つまり、伝統主義と結合していた伝統主義的経済(単純再生産)を、宗教的な合理的禁欲思想が捉える。その帰結として、伝統主義的経済システムから資本主義的経済システムへの移行がうまれたのです。
 ここでは新しい社会科学のアプローチが生まれています。つまり行為をする人間がその行為をどのような意味づけをしているのか、その意味づけをちゃんと解釈し理解することで、その行為はどのように社会を作り上げていく、あるいは社会を変革していくのかを説明しようとするアプローチです。ヴェーバーはとりわけ後者の社会変革の方に関心があったように思われます。

後年、ヴェーバーは『社会学の基礎概念』(1920)でつぎのように書いています。「社会学とは、社会的行為を解釈しつつ理解し、そうすることによって社会的行為の経過や結果を因果的に説明しようとするひとつの学問である。」(WuG85頁)

もちろんカルヴァン派の平信徒のふるまいように、理屈では説明できないけど、感情としては説明つく場合もあります。そうしたことをふまえてヴェーバーは次のように書いたのです。「行為の領域についてみると、とりわけ、その行為によっておもわれた意味連関があますところなくはっきりと知的に理解されるならば、それは合理的な明証性をもつことになる。行為において、その体験された感情連関が完全に追体験されるならば、それは感情移入による明証性をもつわけである。」(WuG86-7頁) 
 私のみるところ、ヴェーバーの理解社会学は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を例にするともっともわかりやすい。というよりも、ヴェーバーはこの論文でおこなったことを学として成立させるために、「理解社会学」を構想したのではないかと思われます。
 その意味でもこの論文は、社会学者ヴェーバーの誕生を告げる論文でもあったのです。
# by takumi429 | 2013-05-18 18:04 | ヴェーバー宗教社会学講義