『田舎教師』を読む その2

主人公の中田遊郭往還
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想像で書いた 現地調査なし・清三の日記にもそうした事実なし
 しかし口絵にもなる重要なシーン
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 麦倉河岸には涼しそうな茶店があった。 大きな栃(とち)の樹が陰をつくって、 冷めたそうな水にラムネがつけてあった。 かれはラムネに梨を二個ほど手ずから皮をむいて食って、 さて花茣蓙(はなござ)の敷いてある樹の陰の縁台を借りて仰向けに寝た。 昨夜殆ど眠られなかった疲労が出て、頭脳(あたま)がぐらぐらした。 すずしい心地の好(い)い風が川から来て、 青い空が葉の間からチラチラ見える。 それを見ながらかれはいつか寝入った。 (『田舎教師』新潮文庫174頁)

「性欲が溜まっているだろう、遊郭に行ったあとはスッキリしただろう」 「溜まる性欲」とのとらえかた

どうやって書いたのか。
 地図を見ながら書いた。
 すでに『大日本地誌』のために調査したことのある上流の風景を借りてきた。
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書き方 すでに冒頭に見られる
 歩いた経路を地図に書き、そこからどのような風景が見えるか想像する。
 経路を歩くことで、小説の内部の時間と空間が生まれる。
 目的地との関係から主人公の内面がうまれる。
 赤い光に照らされることで主人公の内面(抑えた欲望)が浮かび上がる。

地図の上に経路を描いて人を見下ろすまなざし
 『第二軍従征日記』に添付された地図 参謀本部の直属の陸地測量部の作成した地図

NHK高校講座 日本史『日露戦争』
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日露戦争特別展 http://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html

「一兵卒」日露戦争に従軍し脚気発心で死ぬ主人公
  「彼」=国民の誰でも代入可能 一兵卒の彼に代入されうる者=日本男子(国民)

日露戦争の勝利のわきかえるなか、地方でひっそりと死ぬ青年教師
これが悲劇になりうるのは、「日本国」全体という地図のまなざしのもとに、
この一地方の青年がとらえられているからにほかならない。

日露戦争
 機関銃と要塞が本格的に使われた大消耗の国家総力戦
 人・武器・食料などの補給(兵站)に鉄道が大々的に使用された。
ロシアはシベリア鉄道、日本は山陽鉄道(のちの山陽本線)と広島から広島南部の宇品(うじな)港を結ぶ宇品線を使って、兵隊、物資の輸送を行った。
 もともとシベリア鉄道の支線としての東清鉄道と旅順港の要塞化が引き金。
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 (ウラジオストックは不凍港とはいえ真冬には凍るし、日本海でふさがれている。日本海を逆さにしてみるとそれがよくわかる)。
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 戦争の後半までシベリア鉄道はバイカル湖を湖面が凍る時は湖上に鉄道を敷き、溶ける夏は船で、物資を運んでおり、しかも単線だったために輸送力が低かった。
 しかし、バイカル湖を迂回する路線が開通することで満州の戦地への補給能力が飛躍的に高まった。
開戦前からこのシベリア鉄道開通まえに勝利しなくてはいけないと日本側はかんがえていた。
 日本もロシアも満州・朝鮮の地図作成に戦争前から努力した。
 日本はたまたま死んだロシア人将校のもっていた地図を利用して戦争を行うことができた。(横手慎二著『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』中公新書)

この鉄道について花袋はべつに小説「少女病」を書いている。つぎはそれを読むことにしよう。
近代と鉄道の問題を考えてみることにしよう。

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# by takumi429 | 2014-06-08 18:39 | 社会環境論 | Comments(0)

『田舎教師』その1

田山花袋 『田舎教師』(1909)
日露戦争の勝利に日本全国が沸き立つなか、北関東でひっそりと死んでいった小学校教師、その人生を描いた作品。

巻頭に北関東の知図が添付されている。

「巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が到らなかった青年の一生ということを思わせたいと思って挿んだのであった。」『東京の三十年』(岩波文庫257-8頁)。
(地図を小説に添えるという手法はすでに島崎藤村が自主出版した『破戒』明治38年1905年で試みていている。藤村が近体詩人から小説家への転身をはかって発表したこの『破戒』は文壇に大きな衝撃をあたえた。花袋の『田舎教師』はこの『破戒』への対抗から書かれている。しかし地図を添える手法がじつは、日露戦争に博文館の記者として従軍した記録『第二軍従征日記』1905年で花袋が使っている。このことについてはあとでまた検討するhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903488/218)。
本当にそうなのか。
そもそも地図というものがどんな意味を当時もっていたのか。
それを知るために、いったん、小説から離れて、当時の地理学教科書をみてみることにしよう。

日本の教科書の時代区分
 明治5年(1872年)「学制」
 明治14年(1881年)開申制度:小学校教科書について府県が一定の書式で文部省に届け出る
 明治16年(1883年)認可制度:小学校及び中学校教科書について府県が事前に文部省の認可を得なければならない
 明治19年(1886年)小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令
  教科書検定制:小学校,中学校教科書は,文部大臣が検定したものに限る
 明治35年(1902年)教科書疑獄事件:教科書の採択競争の激化に伴い多くの不正が発覚 
 明治37年(1904年)国定教科書:国語,書き方,修身,歴史,地理 
 明治38年(1905年)国定教科書:算術,図画
 明治44年(1911年)国定教科書:理科
 昭和24年(1949年)教科書検定制度:小学校,中学校,高等学校において文部省検定済教科書の使用
地理教科書 記述の順番・さし絵・地図などに注目してみよう。
明治13年文部省印行『小學地誌』
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、琉球へと記述が進む。出発点に「京都市中図」がそえられれている。
 各地方は京都からのアクセスの仕方でとらえられている。地域は、領域(面)としてとらえられるのではなく、京都からの行き方(アクセスの仕方)でとらえられている。
明治34年文学者編輯へんしゅう所編纂へんさん『修正新定地誌』
「第二篇 日本地理各道誌」
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、臺たい湾わん、へと記述をすすめる(沖縄は南海道に含められている)。
「第一 畿内」「京都」から始まる。

明治33年普及社編輯所編集『小學地理』
「第一章 第一 東京(東京府上)」から始まるが、「第二 小笠原島(東京府下)」、「第三 利根川(千葉懸)」、「第四 水戸(茨城懸)」という風に、地点を名所案内のように取り上げていく記述の仕方で、さし絵も名所案内の趣きである。
これに対して初の国定地理教科書
明治36年文部省著作『小學地理 一』は、
附圖に色刷り「日本交通全圖ず」’日本の領土を赤くぬったた地図)をつける。
記述は、「第二 関東地方」から始まるが、まず各地方は必ず地図のなかでその領域を確定する。さらに府・懸の地図を載せて、そこでも府・懸の領域を白抜きしてい確定する。
日本の諸地域は、それまでの点と点や、京都からのアクセスの仕方で把握されるのでなく、あくまでも固有の領域(領土)をもつものとして把握される。その際、そうした国土の把握を目に見える形にしたものが地図であった。ここでは名所案内の水平のまなざしではなく、上から垂直に見下ろすまなざしがうまれている。そしてそのまなざしは東京(中央)からのまなざしであったといえよう。
 地図のまなざし:地域の領土的把握・上(中央)からの把握
田山花袋は、どのようにして地理学的な地形図(地図)に親しむようになったのか。
博文館で、『大日本地誌』の編集を手伝った。
「『大日本地誌』の編輯の手伝いを私は明治三十六年から始めた。山崎直方君、佐藤伝蔵君が主任で、私と他に若い文学士一名、理学士一名が手伝った。私は山崎君、佐藤君から地理に対する科学的研究の方法を教えられたことを感謝せずにはいられない。」(『東京の三十年』239頁)
山崎直方http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9
(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)日本の地理学者。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。1895年、26歳の時、帝国大学理科大学(現東京大学)で岩石学を専攻し、地質学科を卒業する(同じ門下生に京都大学の地理学教室創設者の小川琢治がいる。佐藤伝蔵と同級生)。1897年、28歳の若さで第二高等学校(現東北大学)の地質学の教授に就任。文部省から1898年から1901年まで3年間ドイツ・オーストリアへ地理学研究のため留学。地理学者のJ・J・ライン[3]やペンク[4]に指導を受ける。当地から当時先端の地理学を学ぶ。帰国後、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現筑波大学)の地理学教授に就任。1911年には東京帝国大学理科大学教授に就任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9#cite_ref-2
佐藤 傳藏(さとう でんぞう、明治3年4月15日(1870年5月15日) - 昭和3年(1928年)8月26日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱物学。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BC%9D%E8%94%B5
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者、地理学者。物理学者湯川秀樹は三男。
1886年 16歳で第一高等学校に入学。
1893年 24歳で同校を卒業し、帝国大学理科大学地質学科に入学する[1]。
1894年 小川家の長女の小川小雪と結婚式を挙げる。
1896年『台湾諸島誌』東京地学協会
1897年 東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。
1891年 紀州旅行の準備中(10月28日)に、濃尾地震に遭遇。被災地を見たのち帰省し、地学の研究を志すようになる[1]。
1908年 農商務省地質調査所退官、京都帝国大学文科大学教授、地理学講座担当。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%90%A2%E6%B2%BB
日本の地理学前史
福沢諭吉 『世界国尽』1869年(明治2年)
 七五調の世界地理案内書。アヘン戦争や各国の歴史・政治形態についてもふれている。
 さし絵がふんだんに掲載。しかし地図は巻頭のみ。とにかくとてもためになる啓蒙書。

札幌農学校出身者 アメリカのピューリタン(新教徒)精神
 志賀重昂『日本風景論』1894年(明治27年) 科学的知識と日本精神論の奇妙な合体
  「日本ライン」を提唱。
 内村鑑三『地理学考』(のちに『地人論』と改題)1894年(明治27年)
  世界の地理現象に神の摂理を見る。

東京大学 地質学科出身者 小川琢治・山崎直方
 植民地経営(支配)に役立つ学問としての地理学
 台湾1895~1945年 日本統治。
 小川琢治『臺湾諸島誌』1996年(明治29年)
 山崎直方・佐藤伝蔵『大日本地誌 第十(琉球・臺湾)』1915年(大正4年)博文館
 

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# by takumi429 | 2014-06-01 23:30 | 社会環境論 | Comments(0)

田山花袋 年譜

田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日(明治4年12月13日) -1930年(昭和5年)5月13日)

本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生れ。

1890年(明治23年)柳田國男を知る。

1891年(明治24年)尾崎紅葉のところに入門

1899年(明治32年)大橋乙羽の紹介で博文館に勤務し、校正を業とする。

1902年(明治35年)『重右衛門の最後』を発表

1904年(明治37年)日露戦争第二軍の写真班で従軍記者

1906年(明治39年)博文館『文章世界』編集主任

1907年(明治40年)『蒲団』を発表。


重右衛門の最期(1902)
蒲団(1907)
少女病(1907)
田舎教師(1909)
時は過ぎ行く(1916)
一兵卒の銃殺(1917)
従軍記『第二軍従征日記』(1905)
評論『露骨なる描写』(1904)
回想集『東京の三十年』(1917)


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# by takumi429 | 2014-05-26 03:28 | 社会環境論 | Comments(0)

天皇の肖像

イスラム教圏

メッカへの巡礼
 カーバ神殿を巡る巡礼者
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巡礼のメッカへの一点集中が「おなじイスラーム教徒」というイスラム教圏の一体感をもたらしている。

ペニンスラール
 本国と植民地を往復

クリオーリョ
 行政区の中だけを動き回る
 行政区が「国」の単位としてイメージされていく。

俗語ナショナリズム
 新大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。
まず最初に、地理上の発見によって、さまざまな人や言語があることが意識され、結果、ラテン語(真理語)の相対化がうまれました。その結果、言語学が活躍し、辞書編纂されるようになりました。結果、俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語が言語学者の活躍によって独立の言語として確立し、結果スペインという地域が確定されました。
(またたとえば、沖縄出身の言語学者、伊波普猷(いは ふゆう)は、「日琉同祖論」をとなえ、琉球の日本編入を正当化しました。言語学者の活動は国民国家の形成に重大な役割を果たすしたのです)。
 封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大をもたらしました。そこで使用される言葉に俗語(ドイツ語やイタリア語などなど)が採用されることで、俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命を「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。

公定ナショナリズム official nationalism

この人は誰?

(1)
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(2)
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(3)
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答え:明治天皇 睦仁(むつひと)
嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)

(1)束帯姿の明治天皇(明治5年(1872年)9月3 日、内田九一撮影)
明治天皇は20歳になるまで白粉で化粧していた。
(2)大元帥服を着た明治天皇(明治6年(1873年)10月8日、内田九一撮影)
(3)明治天皇 (明治20年(1888年)1月にイタリア人画家・キヨソネに描かせた肖像画の写真。「御真影」(天皇陛下の「お写真」)として各学校に下賜(かし)され、「奉安殿」に納められた。
明治天皇の「御真影」は、本人の写真ではなくて、肖像画の写真だった。
大元帥としての天皇をイメージさせるには現実の天皇の肖像は使えなくなっていった。
天皇の肖像は想像の姿へと変貌し配布され崇拝されることになった。

御真影:(明治・大正・昭和)天皇とその皇后の写真。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。四大節(元旦・紀元節・天長節・明治節)には講堂の正面に飾り、児童(生徒)・職員一同が遙拝し、教育勅語が校長によって読み上げられた(奉読)(Wikipedia参照)。御真影を守る(奉護)のために日直・宿直制度が導入された。

紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。(→建国記念日)
天長節:天皇誕生日
明治節:明治天皇の誕生日11月3日(→文化の日)

教育勅語
教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)は、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語。以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書となった。一般的に教育勅語(きょういくちょくご)という。1890年(明治23年)10月30日に発布され、1948年(昭和23年)6月19日に国会の各議院による決議により廃止された。(wikipedieaより)
 

奉安殿
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群馬県建築協会 編 『小学校に建つ御真影奉安殿』洪洋社1933年



公定ナショナリズム
ナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれた。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦した。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合される。
 たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けた。またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になった。日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込んだ。

NHK講座 日本史 大日本帝国憲法
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/nihonshi/archive/chapter028.html

日露戦争における 曰本の勝利
曰露戦争はその戦況が電信によって世界中に即時に伝えられた。「東洋」の曰 本が「西洋」の□シアに対してつぎつぎと勝利をおさめていくことが報道されると,オスマン帝国やエジプ卜,イランなどで日本への関心 が急速に高まり,曰本を紹介する本が刊行され,曰本をたたえる詩が発表された。そして曰本の立憲制度が注目され大曰本帝国憲法が ペルシア語やアラビア語に翻訳された。(東京書籍『世界史B』平成25年発刊,312頁)
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:33 | 社会環境論 | Comments(0)

環大西洋革命

環大西洋革命
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クレオール革命としての合衆国独立
 植民地生まれのイギリス人(クレオール)による独立運動
 なぜ合衆国のみが独立したのか、
 他の地域(カナダ・カリブ海諸島)は本国の力を当てにしていた。
 砂糖議員は不在地主となってイギリス議会を席巻して砂糖の関税を高くして自分たちの利益を守っていた。のちの合衆国のタバコは保護されていなかった。
 カナダは植民地人はフランス人・原住民を抑えるために英国本国の軍隊をあてにしていた。

フランス革命
合衆国の独立はフランス革命に飛び火(人権宣言はバージニア州憲法などを参考にした)
ナポレオンの帝政 ナポレオンのスペイン支配

ハイチ独立(1804) 黒人奴隷による独立
『NHKの高校講座世界史24アメリカの独立とフランス革命』

スペイン植民地人の不安(奴隷反乱への)から独立運動へ
 『NHK高校講座世界史25ラテンアメリカ諸国の独立』
 ペニンスラール(スペイン本国の半島生まれのスペイン人)
 クリオーリョ(植民地生まれのスペイン人)
 メスティソ(白人と先住民の混血)
 ムラート(白人とアフリカ系の混血)
 先住民
 アフリカ系自由民・奴隷

なぜラテンアメリカの独立国がスペインの行政単位を引き継いだのか。
 ペニンスラールはスペイン⇔各行政区を動いていたが、
 クリオーリョの役人は行政単位の中を動いていた。
 行政単位ごとに新聞が発行された
 クリオーリョ役人の遍歴とその地方のクレオール印刷業者は、この行政区が、想像の共    同体となるにあたって決定的な役割を演じた。

 
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:25 | 社会環境論 | Comments(0)

第3回

第3回 
俗語ナショナリズム
ヨーロッパの国民国家
 NHK高校講座世界史第24回 アメリカの独立とフランス革命
           第26回 19世紀ヨーロッパと国民国家

公定ナショナリズム
 ロシア・ドイツ・日本の上からのナショナリズム
 NHK高校講座 日本史 第25回 開国
             第26回 明治維新
             第27回 大日本帝国憲法

植民地ナショナリズム
 東南アジア諸国の独立
 NHK高校講座世界史 アフリカ史(3) 植民地から独立へ

『地図がつくったタイ』 
  タイの歴史
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:22 | 社会環境論 | Comments(0)

第2回

第2回

宗教共同体
ユダヤ教が一神教をつくった
イスラーム世界
 NHK高校講座 第9回 西アジア・中東史の新展開 ~イスラーム教の成立~

王国 周辺にいくほどぼけていく

メシア的時間 受難と救済の物語と現在との同時性
 受難物語 https://www.youtube.com/watch?v=Swrvmf-dEGc
  http://www.jizai.org/wordpress/?p=405


小説と新聞の登場による 時空間の変容

宗教改革による真理語の失墜と俗語の台頭
 ルターのドイツ語聖書 ZDF Die Deutschen Luther und die Nation

クレオール・ナショナリズム
 NHK 高校講座 第19回 大航海時代
          第25回 ラテン・アメリカ諸国の独立
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:21 | 社会環境論 | Comments(0)

第1回

第1回
自己紹介
講義の目的:本講義は、ベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論『想像の共同体』と、その日本への応用を試みた、拙論「地図の上の主体 田山花袋作『田舎教師』を読む」を解説をすることで、諸外国と日本における近代的国民国家の成立をみていく。
と同時に、世界史と日本近現代史の基本的な知識を学び直すことをめざす。

講義の手法
NHKの高校講座、東京書籍の世界史教科書、映画などのビデオ資料を積極的に活用して講義を進めていく。また講義の内容は、ブログ『社会学しよう!』にアップしていく。

ベネディクト・アンダーソン 『想像の共同体』
「国民」とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体
偶然を宿命に転じる力
 過去にその力をもっていたのは、宗教共同体と王国
宗教共同体真実語
カトリック世界 ラテン語
イスラーム世界 アラビア語
中華世界 北京官話・漢字
ラテン語(古代ローマ帝国の言語)がなぜカトリック世界の言語になったのか。
 NHK高校講座 世界史 第3回 ローマ帝国
             第11回 ビザンツ帝国
             第12回 西ヨーロッパ世界の成立
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:20 | 社会環境論 | Comments(0)

『想像の共同体』概要

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』

この本の冒頭でアンダーソンは次のように言います。
「わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成することと言ってもよいが、それがナショナリズム[国民主義]と共に、特殊な文化的人造物であるということである。・・・ナショナリティ、ナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に『交叉』するなかで、十八世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、『モジュール』[規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素]となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。そしてまた、この文化的人造物が、これほど深い愛着を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。」(14-5頁)
 アンダーソンによれば、「国民」とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体です。たとえば、ナショナリズムの祭典であるオリンピックで活躍する選手を、メディアによって知った他の国民はまるで選手を自分の親戚か知り合いであるかのように語ります(「柔ちゃん」とか「真央ちゃん」とか)。
 そして、ナショナリズムは宗教的想像力が衰退した今日において、唯一、死を説明するものになっており、偶然を宿命に転じる力をもっている、といいます。たとえば、たまたま日本国に生まれ育ったために戦争で死んだ人間は、「お国のために死んだ英霊」として靖国神社に祀られるわけです。
 ところで、過去において、そうした働きをもっていた文化システムは、宗教共同体と王国でした。そこでアンダーソンは、この宗教共同体と王国を分析します。
「宗教共同体」とは、キリスト教カトリック教会に属する人びと、イスラーム教を信じ、毎日メッカに向かって礼拝し、一生のうち一度はメッカに巡礼する人びと、さらに、漢字を使用し中華思想を信奉する人びとたちをさします。そこでは「真実語」とよばれる、「真理」を語る言葉がきまっています。すなわち、カトリックではラテン語、イスラーム教ではアラビア語、漢字文化圏のおいては、中国語(北京官話)です。おのおの共同体は、この真実語によって結ばれた求心的・階序的秩序をなしています。
「王国」というのは王がいる居城から周辺にいくほど主権はあせ、境界が不明瞭となります。歴史地図では私たちは境界線のはっきりした王国を見るため、そうした袋のような輪郭のはっきりした王国をイメージしがちですが、実際には辺境にいけばいくほど、王権の力はよわく、そこがどの王国に属しているのかはあいまいでかつ流動的なものでしかありません。
 この宗教的共同体において、人びとは宗教のお話を、壁画や絵画などの視覚芸術と、説教や物語の聴覚的芸術によって、見たり聞いたりしていました。宗教的な出来事は昔のことでも未来(終末)のことでも、いま、そこに目に見え耳に聞こえる形であらわれるのです。たとえば、救世主(メシア)の登場は、その誕生が紀元元年の過去の話でもあり、その救済はその未来(終末)におけるものでありながら、見聞きする者にとって、今まさにここで、現れてあることでした。こうした過去と未来が現在において同時に出現するという形の、「メシア的時間」(即時的現在のおける過去と未来の同時性)が支配したのです。
 ところが18世紀ヨーロッパにおいて、小説と新聞が生まれることで、これとは全く異なる、「均質で空虚な時間」が生まれます。小説と新聞のもつ時間性では、登場人物、著者と読者、すべてを包括して暦の時間に沿って進んで行く、そうした単一の共同体が想定されます。まず小説の構造というのは、「均質で空虚な時間」における同時性の提示です。たとえば、男Aと女Bが夫婦で、男Aには愛人Cいて、その愛人Cには別に情夫Dいるというありふれた小説の場合、
時間Ⅰ
事件 AとBが口論する。 (この間(同時に)) CとDが情事をする。
時間Ⅱ
事件 AがCに電話する。(この間に)、Bは買い物する。(この間に)Dは玉突をする。
時間Ⅲ
事件 Dがバーで酔っ払う。(この間に)AとBは家で食事する。(この間に)Cは不吉な夢をみる。
この時間連鎖のなかで、いちども男Aと情夫Dは出会わないにもかかわらず、同じ社会のなかで共存し関連しあっています。
 また新聞は、その日に起こったさまざまなことがら(選挙、交通事故、催し物などなど)を一挙に紙面として提示します。結果、その紙面にあることが、ひとつの社会で同時に起きている事がらとして読者は意識するようになります。
こうして「十八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つに想像の様式、小説と新聞・・・これらの様式こそ国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提示した・・・」[44頁] のです。
 古来、三つの基本的文化概念が支配していました。その三つの基本的文化概念とは、
1)特定の手写本(聖典)語だけが真理への特権的手段を提供する
2)社会が高き中央のもとに自然に組織されている[という空間概念]
3)宇宙論と歴史との区別不能による、世界と人との起源は本質的に同一であるとの時間概念
 出版(資本主義)の発達により、古来の三つの基本的文化概念の支配力の低下します。そして、水平・世俗的で時間・横断的なタイプの共同体が想像される可能性がうまれました。

 ではそうした共同体のなかで、なぜ「国民」だけがかくもポピュラーとなったのでしょうか。

 国民意識の起源
 かつてヨーロッパでは共通語の働きをしていたのは、ラテン語でした。しかしそれはわずかな僧侶たちの秘儀と化してしまい一般大衆の共通のものとはなりませんでした。
 そこへ宗教改革が起こり、ルッター訳聖書などのベストセラー出現します。ラテン語ではない、大衆の言葉(俗語)による書籍が出版され流通します。たとえば、ルターはドイツの大衆が話す言葉からひとつの言葉を編み出してそれでラテン語の聖書を翻訳しました。その翻訳語が流通して「ドイツ語」となったのです。またイタリアではダンテがトスカーナ地方、とくにフィレンチェで使われていた言葉で『神曲』を書き、それがイタリア全土で読まれることで、この一地方の方言は「イタリア語」となりました。
 またそれぞれの宮廷では行政のためにラテン語ではない俗語を使用しており、それが国家が発展すると行政語としての地位をえました。どの言葉が行政語となるのかはまったくの偶然でした、ひとたびある言葉が行政語となるとそれは確固たる地位を占めることになりました。
 出版資本主義によって流通することになった特定の俗語(出版語)の流通は、その言葉によって「国民」というものが想像される基盤となりました。たとえばルターの翻訳と著作の流通は、「ドイツ語」をはなす「ドイツ国民」というものを想像させることになりました。ではこの共同体を想像させる基盤のうえにどのようにナショナリズムは展開していったのでしょうか。意外なことにその端初は新大陸にあったのです。

 ナショナリズムの変遷
ナショナリズムはまず最初、「クレオール・ナショナリズム」、として生まれました。クレオール(クリオーリョ)とは、新大陸生まれのスペイン人のことです。彼らは「本国人(イベリア半島人)」(ペニンスラール)とは常に差別されており、その差別からの撤回を求める運動からやがて独立を志すようになりました。その結果、18世紀後半から19世紀初頭にかけて南アメリカ諸国に新生共和国がいくつも独立することになります。ところで、これらの国はじつはかっての行政上の単位のうえに作られました。それはなぜなのでしょうか。
 それは人びとの移動(巡礼)がその想像力に影響するからです。
 たとえば、ムスリム(イスラム教徒)のメッカへの一生うち一度は巡礼します。この移動がムスリムとしての同一性とまとまりを作っています。
(たとえば、関東では電車も人の流れもすべて東京と住まいとの間の一点集中型の往復になっています。ですから関東ではみんなが「東京人」であるかのように振る舞います。しかし、関西では三都間の交通はあまり便利ではなく人の動きも関東に比べると少ないですし、一点集中ではなくて、三股四股の往復運動です。結果、京都人、神戸人、大阪人などのまとまりとプライドが生まれますし、総称する時も「大阪人」ではなく「関西人」となります)。
 スペインの植民地支配において、行政と教会の地位はほとんど半島からきた「本国人(ペニンスラール)」が閉めており、現地で生まれた支配者クレオール(クリオーリョ)は、行政区の中を移動するだけで、もっとも出世しても行政区の首都にたどりつくだけで、本国スペインに行くことはありませんでした。しかし、このクレオールの動きこそが、彼らに行政区を想像の共同体として想像させる基礎となったのです。ぎゃくに、本国との行き帰りをしている人間は、けっして新大陸「アメリカ人」にはなれっこないのだ、我々クレオールこそが「アメリカ人」なのだという、裏返しの「誇り高き」アイデンティティをもたらしたのです。そしてその誇りが独立戦争を戦いぬき、そのために死をも厭わぬ行動の起動力となったのです。
 また新聞はその行政区である地方クレオール印刷業者 によって担われ、紙面は植民地行政の報道するため、この植民地の行政区が1つの単位として人びとに受け止められました。
 こうしたクレオール・ナショナリズムの現象は、スペインの植民地だけでなく、ポルトガルの植民地(ブラジル)でも、そしてイギリスの植民地(アメリカ)でもまったく同様でした。
 イギリスの植民地アメリカの一新聞業者だったフランクリンが独立運動の立役者でもあったのは偶然ではないのです。かれはクレオールとして劣位におかれた植民人であり、植民地アメリカを1つの単位として報道することでそれを想像の共同体として人びとに提示していた新聞人だったのですから。
 こうして、植民地行政区のなかを遍歴するクレオール役人と、その地方のクレオール印刷業者は、この行政区が、想像の共同体となるにあたって決定的な役割を演じたのです。

 俗語ナショナリズム
 新大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。
まず最初に、地理上の発見によって、さまざまな人や言語があることが意識され、結果、ラテン語(真理語)の相対化がうまれました。その結果、言語学が活躍し、辞書編纂されるようになりました。結果、俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語が言語学者の活躍によって独立の言語として確立し、結果スペインという地域が確定されました。
(またたとえば、沖縄出身の言語学者、伊波普猷(いは ふゆう)は、「日琉同祖論」をとなえ、琉球の日本編入を正当化しました。言語学者の活動は国民国家の形成に重大な役割を果たすしたのです)。
 封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大をもたらしました。そこで使用される言葉に俗語(ドイツ語やイタリア語などなど)が採用されることで、俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命を「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。

 公定ナショナリズム
 こうしたナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれました。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に 追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦したのです。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合されます。
 たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けました。またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になりました。日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込みました。

 植民地ナショナリズム
 第1次世界大戦後の植民地において、「若き」現地エリートによるナショナリズムが生まれました。たとえば、ベトナム、インドネシア、アフリカの諸国。彼ら現地エリートは植民国をおこなった教育と官僚制度のなかで教育をうけエリート官僚となり、そうして独立の担い手となったのです。
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:19 | 社会環境論 | Comments(0)

第二外国語学習について

第二外国語を前向きに勉強するために
逃げ腰で単位さえ取れたらいいと考えていると、
なかなか単位さえおぼつかないものです。
ここはむしろ攻めの気持ちで習うことにしましょう!

具体的に、たとえば、
フランスに旅行して美味しいものを食べたい、とか
(自転車でめぐるパリの旅とか)
ドイツで美術館や建築物を見たい、とか、
(病院と団地めぐりが穴場でねらいめでは)、
日僑、華僑に会いに行く、東南アジアめぐり、とか
目標をもってはいかがでしょうか。

NHKでは英語だけでなく諸外国語の講座があり、
しかもネットで前週の放送がストリーミングで聞けます。
https://cgi2.nhk.or.jp/gogaku/index.cgi
またcapture streamというソフト(無料)を使えば、
1週間分の放送が一気にダウンロードできます。
http://sourceforge.jp/projects/capturestream/
試してみてはいかがでしょうか。

第二外国語をがんばると
英語で受けた傷(?)が癒えることがあります。
(私だけかな)。
積極的に勉強してみてください。

それからドイツやフランスなどでは
夏休みに空いた教室と寮をつかって夏期講座が開催されています。
たとえばドイツの夏期講座はネットですべて申し込めます。
https://www.daad.de/deutschland/studienangebote/sommerkurse/de/?skid=369&skenter=81&skterm=&skchapter=0&sktown=Kassel&skstart%25255b%25255d=2012-08&skstart%25255b%25255d=2012-09&sksubject=0&skduration=0&stipendiate=&sk_akademie=&seite=1&ipp=15
十万円前後(学費・寮費)で好きな街に4週間滞在できます。
食事は学食で4ユーロぐらいで定食がたべられます。

(なんて言っているけど、
私が大学時代は第二外国語のドイツ語
惨憺たるものでした。
身につけたのは大学卒業後、
ドイツ語でドイツ語で教える学校でした。
反省をこめての助言でした。)
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# by takumi429 | 2014-04-29 01:07 | 社会環境論 | Comments(0)

補.世界システムの形成としての近代

11.世界システムの形成としての近代

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/resume030.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter030.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/resume001.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter001.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/resume027.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter027.html

 一杯の紅茶から
 イギリスと言えば、食事が美味しくないので有名です。あえて反語的に『イギリスはおいしい』(林望)という題をつけた本がありますが、あれはわざとそういう題をつけたのであって、そうい題をつけるのが意味があるほど、イギリスはまずい、というのが常識なわけで。
 でもなぜか、紅茶とそれと一緒にでてくる食べ物はおいしくて、さらに茶器なども立派です。ハイティーとかアフタヌーン・ティーと呼ばれる、ポットの紅茶と一緒に三段重ねで出てくる、スコーンやサンドイッチやケーキのセットは、見ているだけで心躍るものがあります。きれいな陶磁器のカップに、紅茶を注ぎ、お砂糖をいれ、食べ物をつまみながら、飲むのは、ほんとうに至福の時間と言ってもいいかもしれません。
  紅茶は最初は中国から、のちにはインドから、はるばる海を渡ってイギリスに来たものですし、砂糖は現在のアメリカ合衆国の南のカリブ海に浮かぶ島から来たものですし、陶磁器は英語でチャイナというぐらいですから、元来は中国から渡来したものです。こうして、一杯の紅茶に、西と東の物産が、イギリスで出会っているわけです。
 イギリスで紅茶を飲むのが一般になったのは19世紀からだそうです。では19世紀のイギリスでなぜ、こんな東西の産物の出会いである、砂糖入り紅茶が飲めたのでしょうか。
 川北稔さんの名著『砂糖の世界史』が解き明かしてくれるのはこのことです。答えは、簡単にいえば、19世紀、西と東の世界はイギリスを中心とした1つの経済世界を形成していたから、です。
 15世紀末ヨーロッパ人が「発見」した新大陸では、原住民は虐殺と伝染病で壊滅させられました。そこへアフリカから連れてこられた黒人奴隷がプランテーションで働かされて、砂糖・タバコ・綿花などの、の産物がヨーロッパにもたらされました。どこでも求められる「世界商品」として砂糖やカカオやタバコなどをうることで、新大陸のプランテーションの経営者たちは巨万の富を本国にもたらしました。そして流行により「世界商品」となった綿製品を作るために、新大陸から来る綿花を綿製品にする綿工業がイギリスで発展し、こうして産業革命が起きたのです。
 こうして新大陸の「発見」の後、16世紀から、世界が1つの経済的世界を形成していったのだ、と提唱するのが、「近代世界システム論」(theory of the modern world-system)です。川北稔さんの本はこの理論に基いているのです。
 この理論はアメリカの社会学者ウォラーステイン Immanuel Wallerstein らが1970年代半から提唱しています。この説では、近代世界が経済的には単一の,グローバルな分業体制に覆われており,諸国の経済は,この世界システムの構成要素としてしか機能しえない、とされます。
 この説は画期的な目の覚めるような理論だったのですが、どこが画期的だたのか、これまた川北稔さんの、ウォーラーステインの『近代世界システムⅣ』の訳者解説に基いて、みてみることにしましょう。

 経済発展はゴールにむかう駆けっこレース?
 経済発展についての理論では、それまで「一国発展段階論」が支配的でした。これは、単一の発展段階論を前提とする一国史観でした。つまり経済を一つ一つの国を単位にして見ていたのです。すべての国の経済は、大きなタイム・ラグを含みつつ,いずれは封建社会から近代資本主義社会へ移行していくというものです。たとえて言うなら、国々はそれぞれ距離走のランナーで、早いランナーはすでに近代資本主義のゴールに到達している、遅いランナーの頑張って走れば、いずれはこのゴールにたどり着く、というわけです。
 「プロテスタンティズムのテーゼ」
 ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』もこの理論で解釈されがちでした。ですから、西洋で資本主義が成立した。日本も資本主義化した。だから、日本にもプロテスタンティズムとおんなじような倫理があったにちがいない、あるいは、また遅れたアジアの諸国も西洋のようなプロテスタンティズムの倫理に似た倫理を持てば資本主義化できるのだ、というのです。まるでプロテスタンティズムを資本主義になるための薬みたいにとらえる考えです。
 ヴェーバー自身は、こうした資本主義化のドリンク剤みたいなプロテスタンティズムのとらえ方をしていたわけではありません。『ヒンズー教と仏教』で資本主義化に成功した日本について言及している箇所があるのですが、そこでは、諸外国が資本主義化していてそれに適応せざるをえなかっただけだと、みょうに冷たいのです。「適合」ではなく、これまでの世界を否定して自分の理念で支配していく(世界支配)というのがヴェーバーがもっとも重視した宗教理念のあり方で、彼がプロテスタンティズムにみたのはそうした精神のありようでした。後からみんなに合わせて資本主義化するのに、そうした誇り高い精神など必要ではない、そうヴェーバーは考えていたのです。資本主義化にはプロテスタンティズムが必要、というのは「プロテスタンティズムのテーゼ」といって公式のようにいわれることがありますが、じつはそれはヴェーバーの本意とはまったく別物です。

 「従属理論」
 さて、「一国発展段階論」は駆けっこレースのような経済発展のとらえ方でしたが、はたしてこれは真相をついているでしょうか。むしろ、経済というのは激しい格闘技のようなもので、相手の首根っこをおさえつけてのし上がった者が勝者となって、おいしいとこ取りしている、というイメージの方が、より的をえているのではないでしょうか。
 第三世界の歴史の研究で、 A. G. フランクや S. アミンらは「従属」派という人びとが言い出したのはこうしたイメージによる経済発展論です。つまり、資本主義というはもともと、独占的なものであり、まわりの地域から経済的な余剰を奪い取ることで、中枢の国の経済が発展し、その結果、まわりの周辺国が、「低開発」の状態にさせられたのだ、というのです。
 たとえば、イギリスの資本主義化は、新大陸での奴隷労働による生産物を安く輸入することができたからであって、その結果として、新大陸はプランテーションの農業国になってしまいました。
 資本主義の国々が、低開発の国々に、「がんばってここまでおいでよ」と言うが、「俺たちの国や地域が『低開発』になったのはおまえのせいだろう!」と言い返したわけです。
 さて、この理論では、資本主義と「低開発」とセットになって、相互に作用しあっています。たとえば、産業革命の時のイギリスの資本主義は、新大陸のプランテーションの綿花栽培、打倒目標であったインドの綿工業、近隣諸国からの農産物の輸入、などなどいう世界的な経済の絡み合いのなかで生まれてきたものです。
 こうしたさまざまな要素が相互に働きあって、一種の化学反応(ケミストリー)を起こし、ただあつめた以上のなにものかになる(これを「創発特性」をもつといいます)時、それは「システム」とよばれます。新大陸「発見」以降、ヨーロッパを中心としてアフリカ・アメリカを巻き込んだ経済のシステムがうまれ、それはその後、アジアも巻き込んでいったのです。
 こうした世界規模の経済のまとまりをフランスの歴史家 F.ブローデルは「経済世界」とよびました。ウォーラーステインはこの見方を踏襲して、16世紀以降生まれた世界規模の経済を「近代世界システム」と呼んだのです。

 近代世界システム
 ウォーラーステインによれば、大航海時代(15-17世紀、西欧人が新航路・新大陸を発見した時代)以後の世界は、ひとつの世界システムを形成しました。それは銀などの貨幣素材、砂糖、茶、ゴム、石油などの換金できる作物や製品などの大規模な分業システムとして成立しました。
 機能分化
 このシステムの内部の機能分化(はたらきのちがい)がうまれました。
〈中核〉地域は、自由な賃金労働を主体とする、地域です。それに対して、〈周辺〉は、これまでの歴史で何らかの〈強制〉労働が中心となってきました。さらに、中核のまわりには、〈半周辺〉その中間的な地域があります。
 近代世界システムは、新大陸の発見された後の16世紀に成立しました。この時の「中核」は、西欧です。「周辺」には、東欧やラテンアメリカがあたります。東欧ではいったん消えていた農奴制(農民を土地にしばりつけてはたらかせる制度)が復活します。これを「再版農奴制」といいます。ラテン・アメリカでは、人と土地を一括して委託するエンコミエンダ制度や黒人などの連れてきて家畜のようにはたらかせる奴隷制がうまれました。「半周辺」にあたる南欧では、地主と小作農民とが収穫物を半々に分け合う「折半小作制度」がうまれました。
 中核―周辺関係
〈中核〉は不等価交換などを通じてたえず〈周辺〉の経済的余剰を搾取します。これが、近代資本主義世界の根幹をなす構造で、つねに再生産され,解消されることはないんです。また個々の地域や国家がこのシステムの中での位置を変えることはあっても,すべての国が〈中核〉(つまり〈先進国〉)になることはありえないのです。
 世界システムは,つねに従属地域,つまり〈周辺〉を必要とするのです。

 ヘゲモニー国家
 中核諸国の中でも,時として際立って経済力を強めた結果,システム全体のヘゲモニー(主導権)を握る国を「ヘゲモニー国家」と呼びます。17世紀のオランダ、19世紀のイギリス、20世紀のアメリカ合衆国、がそれにあたります。

 強制的労働の正当化の論理としての「人種」・「民族」
〈周辺〉では、生産に従事する低廉な労働力の確保のための経済外的な強制
 が行使されます。それを正当化するための〈人種〉や〈民族〉の人為的に捏造されました。
 たとえば、アフリカ人の奴隷制や、中国人などのクーリー(苦役人)制度、アパルトヘイト(南アフリカの有色人種差別政策)などにこうした、「人種」による差別の正当化がみられました。
 同時に、世界システムの〈中核〉である西欧では、民族による〈国民国家〉の理念が標榜されました。
 
 対抗の論理としての「人種」・「民族」
 本来は擬制的につくられた〈周辺〉の〈民族〉や〈国民〉が,〈周辺〉の〈中核〉に対する対抗手段として積極的な意味をもちはじめた。「黒人人種」の名の下による連帯や独立や「アメリカ人」の名の下による新大陸ので独立などがその例です。
 
 世界システムの転換期としての現代
 ウォーラーステインによれば、現代世界はアメリカのヘゲモニーの衰退過程にあります。つぎのヘゲモニーはどこが担うのか、まだ見えていない状況です。


http://democracynow.jp/video/tag-ショックドクトリン
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# by takumi429 | 2013-12-08 08:11 | 社会学史 | Comments(1)

『白い蛇』 (グリム童話にもとづくミニフィルム)

『白い蛇』 
http://youtu.be/aW0oqfmBH_A
昨年、カッセルの夏期講座の映画ワークショップで作成したミニフィルム。
ようやく担任の金先生から入手できた。
グリム童話の「白い蛇」にもとづくミニ映画をみんなでそれぞれ作ったのだが、これは私が作ったもの。
白い蛇が権力の秘密であり、それを食べることで動物の声を聞き取れるということで情報を収集できる能力をももつ、それを得た主人公が権力を握る、という解釈で作った。
絵コンテ、小道具、ミザンセーヌまですべて私が作ったものだが、いまいちわかりづらいか。
あと音楽があるとやはり見ていてしっくりくるだろうなと思う。
もちろん、音楽があるとごまかせてしまうので、このワークショップではあえて音楽を付けないように指導されたのだけど。
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# by takumi429 | 2013-11-23 00:55 | 映画論 | Comments(0)

7.欲望の喚起装置としての近代---デュルケームとゾラ---

7.欲望の喚起装置としての近代---デュルケームとゾラ---

今回は、まず、19世紀末から20世紀初頭に活躍したフランスの社会学者エミール・デュルケーム(Émile Durkheim 1858 -1917)を取り上げます。社会学者の著作を理解するには、その社会学者が生まれ活躍した時代がどんな時代であったかを知ることはとても重要です。とりわけデュルケームを理解するには、彼が生まれた、フランスの「第二帝政」のという時代と、彼が大学人として活躍した「第三共和政」という時代について知ることがとても大切だと思われます。そこですこしめんどうですが、フランスの政治体制の変遷を表にして見ておくことにしましょう。

絶対王政1589-1789
ブルボン王朝による絶対王政 ルイ14世 絶頂期
フランス革命1789-921789年7月14日バスティーユ牢獄襲撃
1792年ルイ16世処刑。

第一共和政1792-98ロ
ベスピエールの恐怖政治
1794年テルミドールのクーデター、ロベスピエールが失脚
1799年、ブリュメールのクーデター、ナポレオン・ボナパルト、執政政府樹立。

第一帝政1804-15
1804年、ナポレオン1世が皇帝に即位。
ナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ1814年退位。
1814-5年ウィーン会議1814。ルイ18世王位につく。
1815年、ナポレオン、エルバ島から脱出、パリに戻り復位。ワーテルローの戦いで完敗し、退位(百日天下)。

王政復古
七月王政1816-481815年ルイ18世、復位。
1830年オルレアン家ルイ・フィリップ王位につく。

第二共和政1848-52
1848年二月革命。
1848年12月ルイ=ナポレオン大統領に選挙で選ばれる。
1851年ルイ=ナポレオン、クーデター

第二帝政1852-701852
ルイ=ナポレオン、皇帝に即位、ナポレオン3世となる。
1854-70年オスマンによるパリ大改造。
1870年普仏戦争。ナポレオン3世捕虜となる。

第三共和政1871-1940
1871年パリ・コミューン
1894年ドレイファス事件
1898年、ゾラ「私は弾劾する」発表。
1940年ドイツ、フランス侵攻。フランスは占領地域とヴィシー政権地域に二分される。

第四共和政1946-59
1954-62年アルジェリア戦争

第五共和政1959-現在
1959年ド・ゴール大統領となる。
 
 くりかえしになりますが、デュルケームが学者として活躍したのは、第三共和政の時代です。その前の、ナポレオン三世の支配した第二帝政期、この時代はフランスの産業は大いに発展し、社会が爛熟した時代です。今回の講義のポイントとなるのは、このナポレオン三世の支配した第二帝政期です。
 
 さて、まず、今日の社会学のスタイルを確立したと思われるデュルケームの名著『自殺論』(宮島喬 訳 中公文庫)を見てみることにしましょう。

アノミー概念の誕生
 自殺は、個人的な理由(彼女にふられた、リストラされた、病気になったなどなど)により、「死にたい」という個人心理の結果、生じる、と私たちは思いがちです。ところが、デュルケームは、その著『自殺論』(1897)において、各国の統計を使って、衝撃的な事実を私たちに突きつけます。
  デュルケームがあげている人口100万人あたりのヨーロッパ諸国の自殺率は以下のようです(『自殺論』邦訳31頁)。(ドイツは1870年まで統一していなかったので、バイエルン、プロイセン、ザクセンの各国があげられています)。

 ヨーロッパ諸国の自殺率(人口100万あたり)
   1866-701871-751874-78     順 位
    の期問    の期問の期問第一の 期問第二の 期間第三の 期問
イタリア   30     35     38       1       1    1
ベルギー  66     69     78       2       3        4
イギリス    67   66      69      3 2 2
ノルウェ—    76   73   71      4 4 3
オーストリァ   78   94   130         5 7 7
スウェ一デン  85  81 91       6 5 5
バイエルン   90   91   100        7 6 6
フランス     135   150   160     8 9 9
プロイセン    142   134   152     9 8 8
デンマーク    277   258   255     10 10 10
ザクセン     293     267 334        11 11 11
 

 ちなみに、最近の主要国の自殺率の推移は次のようです。
(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2774.html 2013年11月10日)


 この統計から、デュルケームは、自殺率(ふつうは人口10万人あたりの自殺者数で示す)は、国ごとにほぼ一定であり安定している、といいます。たしかに、デュルケームのあげた表によれば、自殺率はほとんど変わらないし、国ごとにその順位もほぼ同じです。また最近の統計をみても、大きく変化している国もあるものの、自殺率の推移自体は連続的ですし、イタリア、英国、米国はほとんど変わっていません。また、ドイツ、スウェーデン、カナダも安定してきています(しかも国によって自殺率はものすごく違っています)。
 しかし自殺率を安定させるために、個々人が「死のう」とする、とは考えられません。ですからこの安定した自殺率、という「社会的事実」は、自殺する人間の個人心理からは説明できません。
そこでデュルケームは、国ごとの「自殺率の一定比率」という社会的事実を説明するには、社会的な原因からでなくては説明できないとしました。
 彼が自殺の社会的原因だとしたのは次の4つです。
(デュルケームは当初の構想を改変しているので、『自殺論』の記述からはこの4つが見えづらくなっています。ここはベルナールらによる修正に依拠して4つの社会的原因をあげます)。(『デュルケムと女性、あるいは未完の『自殺論』: アノミー概念の形成と転変 』 フィリップ・ベナール著 杉山光信・三浦耕吉郎訳 新曜社1988.)

Ⅰ 自己本位的自殺:社会の統合や連帯が弱まり、個人が集団から切り離されて孤立する結果として生じる自殺
例証としては、プロテスタントとカトリックを比べると、(統合の度合いが低いと思われる)プロテスタントが自殺率が高く、(統合の度合いが高いと思われる)カトリックが低い。また、未婚者と寡婦・寡夫(やもめ)、と、結婚している者を比べると、孤立している未婚者と寡婦・寡夫の方が、結婚している者より自殺率が高い。また平時と戦時を比べると、(社会的な連帯が弱まっていると思われる)平時の方が自殺率が高い。つまり統合・連帯が弱い者の方が自殺率が高いというわけです。(こういう説明の仕方を「共変法」といいます)。

Ⅱ 集団本位的自殺:社会が強い統合度と権威をもっていて、個人に死を強要したり、奨励したりすることによって生じる自殺
例としては、宗教による自殺や軍隊における自殺率の高さがあげられます(日本軍の集団自決などもこの例に入るでしょう)。

Ⅲ アノミー的自殺:社会の規範が弛緩したり、崩壊したりして、個人の欲望への適切なコントロールが働かなくなる結果、際限のない欲望に駆り立てられた個人が、その結果、幻滅しむなしくなっておこす自殺。
 ここでデュルケームは、「アノミー」という概念を提示しました。アノミーとは、欲望の無規制な状態、欲望が螺旋状にどんどんと拡大していくありさまをいいます。(ちなみに、後にアメリカの社会学者マートン(Robert King Merton,1910-2003)は、目的と手段の枠組みをつかって、このアノミー概念を、適切な手段をもたない目的、と定義しました。いうまでもなく、これはデュルケームの本来のアノミー概念からははずれています)。デュルケームは、例として経済アノミーというものをあげています。いわばバブル崩壊による自殺です。

Ⅳ 宿命的自殺:欲望に対する抑圧的規制が強すぎるため、閉塞感がつのって生じる自殺。
ベルナール(1988)が挙げている例は、未婚・やもめの男性は結婚している男性よりも自殺率が高いのに対して、未婚女性あるいは寡婦は結婚している女性はよりも自殺率が低い、という例です。つまり、結婚は、男性によっては適度な拘束ですが、女性にとっては過度な拘束だというのです。
Ⅰ自己本位的自殺とⅡ集団本位的自殺を規定する社会的変数は「統合」(まとまり)であり、Ⅲアノミー的自殺とⅣ宿命的自殺を規定する社会的変数は「拘束」(しばり)である、とデュルケームはみなしています。
つまり、統合が弱いとⅠ自己本位的自殺が増え、統合が強いとⅡ集団本位的自殺が増えます。結果、統合が弱すぎても強すぎても自殺率は高くなります。
 また、拘束が弱いとⅢアノミー的自殺が増え、拘束が強いとⅣ宿命的自殺が増えるのです。結果、拘束が弱すぎても強すぎても自殺率は高くなります。
 つまり適度な統合と拘束の時には、自殺は少ないというわけです(グラフ参照)。
 

 
 デュルケームはなかなかクールな社会観察者で、一定程度の逸脱が社会にあるのは、「正常」なことだと見なしています。だから、自殺率も一定しているなら、それはそれなりに「正常」なことだと見なします。しかし自殺率が安定しないで以上に増加しているなら、それは「異常」なことなのです。
 デュルケームは、現代において自殺率が増加しているのは、まさに異常なことであり、その解決策として、統合の中間項として職業集団が活発になる必要があるとしました。
 さて、デュルケームのみるところ、19世紀後半のフランスは、統合(まとまり)と拘束(しばり)がゆるんだ社会でした。かれは、社会の統合と拘束をもたらすのは、道徳と宗教だとしました。また『道徳教育論』では道徳のもつ統合性と拘束性を強調し、それを子どもに注入するのが、教育の欠くべからざる働きだとしました。
 さらにデュルケームは『宗教生活の原初形態』で、過去において道徳を規定していた宗教の原初的形態を社会学的に探ろうとしました。ドイツの哲学者カントは人間が物事を認識する図式は人間の中にあるとしました。またその道徳原理も人間の内なる精神の中に神から与えられてあると考えました。それに対して、デュルケームはそうした認識図式も道徳原理も人間のうちにあるのではなくて、むしろ社会の方にあるとしました。いわば「逆立ちしたカント主義」をとっています。
  デュルケームは緩んだ社会のまとまりとしばりを宗教と道徳で締めなおそうとしたわけです。すなわち、「デュルケームは第三共和政の法王たらんとした」(折原浩)のです。

 ではデュルケームがなんとかしなくてはと思った、まとまりとしばりが緩んだ社会とは何だったのでしょうか。それは第三共和政の前、ナポレオン三世が支配した第二帝政(1852-70)の時代にほかなりません。ナポレオンの甥によるクーデター成功の後うまれた第二帝政期は、オフェンバックのオペレッタに沸き立たつどんちゃん騒ぎの、まさに際限ない欲望の時代でした。
 アノミーの概念によって、際限のない欲望の拡大という事態をしてきしながら、その内実についてデュルケームがあれこれ言わず、すぐにそれを抑えこむ道徳と宗教について研究を向けたのは、そうした欲望の無限増大が、自明のものとして第三共和政の前の時代、第二帝政期にあったからです。

 デュルケームの欲望論
 際限なく増大していく欲望。この欲望についてデュルケームが述べているのは、『社会主義およびサン-シモン』(森博訳恒星社厚生閣)という講義でです。
サン-シモンというのは、「空想社会主義者」として(マルクスの僚友)エンゲルスが区分した思想家です。彼は、「産業者」の活動によって社会が豊かに改善されていくべきだとしました。彼の言う「産業者」とは、資本や土地を所有している「ブルジョワ」ではなくて、直接、物づくりに携わっている技術者・労働者であり、また物を人々のもとに届ける流通に携わっている人々です。封建的な社会が去って、今やこの産業者が権力をもって、技術革新によって社会をより豊かなものにしていくべきだ、というのが彼の考えでした(172頁)(生産だけでなく流通にも技術革新はあるのは、もちろんです。銀行や鉄道の整備や、最近なら、宅急便のシステムなどをみてもわかることです)。
 しかし、デュルケームは言います。社会が豊かになると人々は満ち足りておとなしくなりはしない。動物には本能があって、欲望の歯止めがかかっている。しかるに人間にはそうした歯止めがない。豊かになり、欲望が満たされると、人間は「もっと、もっと」と求めるようになるだろう。そうして、限りない欲望の増大によって、人々は苦しみ、また闘うようになるだとう。それを抑えるためには、「道徳心」が必要となるのだ、と(231-3頁)
 ホッブスは、こうした人間の争いを、「狼が狼に対するように」と言って、動物的な争いであるかのようにとらえていました。しかし、デュルケームは、こうした闘争が、本能の抑えを失った人間固有の欲望の形であることを、はっきりと見すえています(このあたり、デュルケームはちょっと頭の出来がちがいます)。
 デュルケームは、晩年、サン-シモンもこうした問題に気づき、それゆえ、「新キリスト教」というものを提唱して、歯止めのなくなった欲望に駆られた人々の混乱を納めようとしたのだ、といいます。しかし、サン-シモンはあくまでも、産業者の活動によって豊かになるまとまりのある社会を夢見ていて、それをそのまま、「新キリスト教」の原理としていたために、豊かさがもたらす欲望の無限地獄に対して有効な対策とはならなかったのだ、欲望を抑えこむには欲望の拡大をもたらした産業者の原理とは別の道徳原理を持ってこなくてはいけない、デュルケームはそう批判するのです(267頁)。
 サン-シモンの死後、その思想の賛同者たちは、一種の教団を作り上げます。しかし、この教団の原理は「産めよ増やせ」なので、それを実践すべく、一種の乱婚制が提唱・実践されたため、多くの信者が離れていき、教団は瓦解しました。しかし、サン-シモンの考えにしたがって、生産と流通の革新によって社会を豊かな(産業)社会へと変えていこうとする人々はその後も続いていきました。彼らは、具体的には、株式会社、銀行、鉄道によって、金を集め、流通させ、物を流通させることで豊かな社会をつくりあげようとしました。
 このサン-シモン主義者の政策を積極的に支援し推し進めたのが、自らもサン-シモンの思想に深く共感していたナポレオン三世であり、サン-シモンの思想によって産業社会へと劇的にフランスが変貌したのが、第二帝政期だったのです(参照 鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会【サン-シモン鉄の夢】』(河出書房新社1992年)・『怪帝ナポレオン三世』(講談社2004年)・『渋沢栄一』(文藝春秋社2013年))。

 ゾラによる「第二帝政期の人間喜劇」
 このフランス第二帝政期に、新しい小説の可能性を感じ、この時代と社会をまるごと小説によって描こうとした作家がいました。エミール・ゾラ(Émile François Zola,1840-1902)が、そのひとです。
 ゾラは「第二帝政期の人間喜劇」を『ルーゴン・マッカール叢書』という全20巻の小説群で描きました。ゾラがそこで取り上げられたのは、地上げ、中央市場、アルコール中毒、百貨店、高級娼婦、鉄道、炭鉱、株式市場などなど、まさに人々の欲望の喚起する装置たちでした。これらまさに近代の「欲望喚起装置」(鹿島茂)を、実地調査にもとづいてゾラは小説にえがいたのです。
 ゾラはイタリア出身のナポレオン軍の工兵あがりの技術者を父に持ち、幼くして父をなくした彼は名門リセを卒後して、大学受験のときに急に理工系のグランド・ゼコールを受けて失敗してしまいます。しかし、技術者のむすこだったというプライドは絶えず持っていたようです。だから、バルザックがかならず小説を舞台装置から描いたように、小説の中心に社会的な装置(mecanisme)をおいてそのメカニズムを描いてみせました。
 ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書』の巻数と題名、あららまし、そしてそこで描かれた装置を以下列挙してみましょう。

1『ルーゴン家の運命』ルーゴンとマッカールの家系のはじまり。
ナポレオン三世のクーデターによるプッサンの動乱。
少年シュヴェールと少女ミエットの愛し方さえ知らない幼い二人の悲劇。少女は流れ弾で死に、少年は憲兵に墓場でこめかみを打たれて死ぬ。
装置:プッサンという街。墓場(死者を飲み込む場)。

2『獲物の分け前』オスマン男爵のパリ大改造の下、地上げによって巨万の富を稼ぐアリスティッド・サッカール。若き後妻ルネは夫の連れ子マキシムと温室で不倫にふける。アリスディッドはルネから金を巻き上げて破産を免れ、ルネは若くして死ぬ。
装置:温室(人工楽園)。パリ(人工都市)

3『パリの胃袋』流刑地から逃げ帰ったフロランはパリの中央市場で働くが、そこの人々の讒言によってふたたび島が流しとなる。
装置:パリのレ・アールの中央市場

4『プッサンの征服』フォージャ神父はマルト・ルーゴンの家に住みこみ、いつしかその家ばかりかプッサン市をも支配するにいたる。しかし狂人となったマルトの夫の放火によって家もろとも焼け落ちる。
装置:王党派と共和派の両方がみおろせるマントの家。

6『ムーレ神父のあやまち』マント・ルーゴンの息子で司祭になったムーレはパラデゥ館の秘密の庭に住むアプビーヌと、アダムとイブのように愛し合う。しかし、彼が庭から去ったため、娘は死に、その葬儀を司祭である彼が司ることになる。
装置:秘密の花園。

6『ウジェーヌ=ルーゴン閣下』ウジェーヌ・ルーゴンは第3帝政で失墜の危機の乗り切り副皇帝にまでなる。装置:政治

7『居酒屋』
『居酒屋』ジェルヴェーズ・マッカールはランチエに捨てられた後、トタン職人クーバーの結婚し、洗濯屋を開業するが、舞い戻ったランチエとクーボーの二人と関係し、アル中となって貧窮死する。
装置:蒸留酒製造装置・居酒屋洗濯屋。

8『愛の1ページ』エレーム・ムーレは娘ジャンヌを救ってくれた医師と不倫し、娘はそれに嫉妬して病死する。別の男と再婚した彼女は娘の墓を訪れ去る。
装置:バルザック邸のあったパッシーの高台から見えるパリ

9『ナナ』ジェルヴェーズの娘ナナは高級娼婦となって多くの男を破滅させるが、最後は天然痘となって死ぬ。
装置:ナナの肉体。

10『ごった煮』プッサンから出てきたオクターヴ・ムーレはアパートの女たちを意のままにあやつる。オスマン様式の表面はきれいなアパートは裏では汚物にまみれ、主人たちと女中との不倫と嬰児殺しが行われている。
装置:オスマン様式のアパート(欲望の館)

11『ボヌール・デ・ダム百貨店』 オクターヴの作った世界初のデパートは女たちの欲望をあおることで大繁盛するが、周りの商店は破産させていく。
装置:デパート(欲望の館)

12『生きる喜び』海辺の家にもらわれたポリーヌ・クニュは莫大な遺産を受け取るが、養い親子に財産をすり減らされる。しかも彼女の財産を散在した婚約者サザールを友人に譲ることになる。
装置:海によって浸食される岸辺の村。金をくすねられる遺産の入った引き出し。

13『ジャルミナール』炭坑に流れ着いたエチエンヌ・ランチエは最初の夜に会ったカトリーヌに強く惹かれる。彼女もランチエに惹かれているが、結局シャバルに暴力的に女にされてしまう。エチエンヌらが中心となって起こした炭坑ストライキは失敗する。炭坑事故で坑内に閉じこめられた二人はようやく愛し合うがカトリーヌは死に、エチエンヌは助かる。労働運動の芽生えを感じつつエチエンヌは炭坑を去る。
装置:炭坑

14『制作』:印象派絵画ジェルヴェーズの長男クロードは画家となって、嵐の夜に出会ったクリスティーヌに理想のモデルを見出し、結婚する。しかしパリを描いた大作は印象派風の絵から毒々しい象徴的なものへと変貌を遂げ、作品を完成できぬまま首をつって死ぬ。
装置:キャンバス

15『大地』兵隊くずれのジャン・マッカールは、農民となってまじめに働く。フーアン老夫妻の土地の生前分与が失敗し困窮する。土地の奪い合いの中でジャンは妻も土地もなくして、軍隊にもどる。
装置:土地(投資と生産の装置)

16『夢』シドニー・ルーゴンの私生児アンジェリックは刺繍細工人に拾われて見事な刺繍細工職人となる。いつか王子さまがと夢見る彼女の元にオートクール家の跡取りフェリシアンが現れ、身分を超えての結婚式で彼女は昇天する。
装置:夢を紡ぐ刺繍

17『獣人』駅助役のルボーは若妻セヴリーヌが養父の愛人であったことを知り、養父グランモランを列車内で殺害する。それをたまたま知ったジェルヴェーズの次男クロードはセヴリーヌと愛人関係になり、ルボー殺害を計画するが、狂った殺人衝動からセヴリーヌを殺してしまう。その後ペクーの妻とも不倫したジャックはペクーと走行中の機関車(ラ・リゾン)でもみ合いとなって二人とも転落死する。運転手のない機関車は兵士を乗せて闇夜を疾走していく。
装置:機関車・鉄道

18『金銭』 地上げの後、サッカールはユニバーサル銀行を設立して、株をつり上げ、空前のバブルを出現させる。しかし株価はついに暴落して、多くの破産者を生む。
装置:株式取引所

19『壊滅』兵士の戻ったジャンは、ブルジョワ階級のモーリスと戦友となる。フランス軍は大敗し捕虜となった二人は逃げ出して、モーリスの姉のアンリエットの元でジャンは療養する。その後、モーリスはパリコミューンに参加。また軍にもどったジャンは彼と知らず銃剣で刺し、モーリスは治療のかいもなく死ぬ。惹かれ合っていたアンリエットとジャンは別れる。ジャンはフランスの再生へと歩み出す。
装置:戦争

20『パスカル博士』パスカル・ルーゴン医師は年金生活をしながら、ルーゴンとマッカールの家系の遺伝を研究し、『ルーゴンマッカール叢書』の内容と同じ文書を残す。年の差をこえて結ばれ自分の子を宿した姪のクロチルドに文書を託して死ぬ。しかし一家の汚名をおそれた母フェリシテは文書をすべて焼いてしまう。唯一残った家系図を見ながら、クロチルドは生まれた息子シャルルに授乳するのだった。
装置:家系樹。遺伝要因が交錯・発現

 ゾラが描いた装置のうち、鉄道、百貨店、炭坑、市場、レビュウー、投機市場、戦争、はまさに「欲望の喚起装置」としての、人々の際限ない欲望を引き起こしていったのです。

 第二帝政期という欲望の際限のない増大の時代に対して、一方でデュルケームはそれを道徳と宗教で抑えようと道徳と 宗教の研究をし、他方、ゾラはその欲望の装置のメカニズムを探ろうとしました。つまり、デュルケームとゾラは第二帝政期が生んだメダルの表と裏、といってもいい関係になっているのです。
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# by takumi429 | 2013-11-10 23:59 | 社会学史 | Comments(0)

まとめ

まとめ

カントの『純粋理性批判』。純粋な理性は左頁では「神はいる」と言う。そして右頁ではこう言う、「神はいない」と。純粋な理性というものが、そうした自己分裂、いわば「狂気」におちいっていることを、カントはこの『純粋理性批判』のなかでえがきました。
理詰めだけで考えていくと、神の存在さえどうにでも言える、つまり無根拠なものになったしまう。それが私たち近代人のおかれた精神的状況です。あらゆる道徳倫理の根拠だった神が空位となった時代。それが現代です。
テレビの番組での「人を殺して何が悪いのですか」という子どもの問いかけに絶句し答えられない識者を、もはや誰も笑うことはできないのです。

かつて「神はいる」と信じた人たちがおり、その人たちはこの世界をたしかに変えて来ました。しかし、世界はどう変わったのでしょうか。人を殺してはいけない、その理由をはっきりと言うことができない、そうした世界に変わったです。
宗教が宗教の欠落した世界を生んでしまった、この恐るべき逆説(パラドックス)。この逆説的発展の帰結としての近代社会において、それでもなお、もはや唱えるべき神の名を持たないにもかかわらず、ひとびとに声をあげ訴えようともがく人間、そういう人間として私たちはマックス・ヴェーバーをとらえたいと思います。

宗教と世俗の世界との逆説的な関係は、彼の最初の宗教社会学的論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、すでに明らかです。

教皇庁が発行している贖宥状を批判することで宗教改革をはじめることになったマルチン・ルターがその職業概念(職業のとらえかた)において、宗教者の仕事(聖職)ばかりか、いっぱんの仕事まで、聖職と同じ「ベルーフ」(Beruf)(神から与えられた使命)だととらえようとしたことで、一般の仕事、とくに営利活動(金もうけ)も、けっしていやしい仕事ではないのだとされました。
ジュネーブで厳格な宗教政治をおこなったカルヴァンは人間は救いに予定されている者と滅びに予定されている者に分けられるとしました。カルヴァン派の人々は、その仕事の成果、具体的には、その営業成果(もうけ)が多ければ多いほど、自分は救われる予定にある、と思いこみ、そうした「救いの証し」を求めて、金儲けの仕事を神からの使命だとおもって一生懸命にするようになりました。あるいは、雇われ仕事を使命だと思ってまじめに働くようになりました。そうして営利活動をする資本家と労働者が生まれ、資本主義が成立しました。
しかしいったんこの資本主義が生まれると、こんどはそれ以外の生活態度は許されなくなります。私たちは信仰のためではなく、社会から脱落しないために、必死になって働くしかないのです。

硬直したシステムが支配する現代にあってそのシステムを打ち壊し刷新していくにはどうしたらいいのか。そうした革新と刷新をおこなえる人間はどのような思想を持っているのか。
ヴェーバーはそうした人間像を過去の宗教のなかに探ります。それがかれの『宗教社会学論集』です。この書はヴェーバーの模索の書、いわばこれは「精神の遍歴」なのです。

硬直したシステムとしてヴェーバーが問題視したもののひとつが官僚制でした。
官僚の精神を体現しているのが、孔子を開祖とする儒教です。冠婚葬祭の業者だった孔子とその弟子によるこの思想は、つつがなく破綻なく祭り事がおこなわれることを目的としており、そうしたうわべの端正さ(礼)に至上の価値をおきます。
中国歴代王朝が採用した人材登用試験(科挙)の試験内容にこの儒教が採用されることで、この儒教は中国の政治・知識エリートの哲学となったのです。
しかし、一般の人びとは、まじない(呪術)を信じていました。
呪術には、似た動作や、似たものに加えた行為は同じ効果をもたらすという原理にもとづく、類感呪術と、いちどふれあったものや、体の一部は、本体と離れたのちも、本体に影響を及ぼすという原理にもとづく、感染呪術があります。
宗教は神に懇願・崇拝するのに対して、呪術は神的な力に操ろうとします。
中国では呪術や占いは道教としてまとめられました。儒教はそうしたまじないなどを軽蔑しながらも改めることはありませんでした。こうした役人根性の哲学は世俗に適合することはできても世俗を変えることはできなかったのです。もちろん、そうした精神風土のなかでは資本主義は生まれることもありませんでした。

ではそうした世俗世界を否定するような宗教思想はなかったのでしょうか。
ヴェーバーはそれをインドの宗教思想に見ます。
インド古来のブラスマン教(バラモン教)では、人間の霊魂は、業の輪廻(めぐり)によって永遠に生まれ変わるとされます。生き物は前世におかした罪(業)を引き継ぎ現世に生まれ変わり、現世に犯した罪を、来世に生まれ変わって背負う。こうして因果応報をうけつつ転生を重ねていくというのです。
この輪廻転生からの離脱こそ、インドの宗教思想がめざしたもののです。
ブッダは、こうした輪廻転生をとげていく人生そのものが苦にほかならないとしました。これが「一切皆苦」の教えでです。そのことを知って正しく実践することで、この苦の連鎖から離脱する、すなわち涅槃にいたるのだとしました。
しかしブッダの教えは現実世界から離脱していく修行僧の宗教でした。
それにたいしてブッタの骨をおさめた仏塔を礼拝する在家信者たちからうまれたのが大乗仏教でした。大乗仏教は、現実世界から逃避することができない一般の人びとはどうすれば救われるのかという問題にこたえようとしました。仏となるために修行している人で、人びとを救うために力をつくす人を菩薩と呼びます。大乗仏教では菩薩はブッダだけではなく、たくさんおり、人びとを救うのだとしました。つまり、菩薩とは大衆を救うためにあえて仏となって涅槃に行けるのを思いとどまっている、一種の救世主なのです。
この菩薩の考えかをを全面にだすことで仏教は大衆救済宗教となりました。
さらに仏教は呪術や民間信仰をとりいれインドのあった性力(シャクティ)の秘儀をとりいれることで密教となりました。しかし、その結果、一般大衆の性的・呪術的な信仰のなかに飲み込まれてしまいました。
この後期密教は、唯一、チベットに伝来することで、人間の心身と清濁のすべてをとらえるチベット密教として現在まで生き残ることになりました。
世俗否定的でかつ世俗から離脱しようとした仏教は、結局、一般世界を変えることはできず、それに向きあうとそれに迎合(適合)するしかなかったのです。

もともとのインドの宗教であったバラモン教は、仏教やジャイナ教などの異端を生み出した後、ヒンドゥー教として復興しました。
ヒンドゥー教の神はブラーフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神の3つです。とりわけ、ヴィシュヌ神とシヴァ神が信仰されました。
ヒンドゥー教では、行為の成果を思わず、義務ダルマをたんたんとおこなうことで、輪廻の輪にまきこまれず離脱できる、とされました。それを特に説いたのが、叙事詩『マハーバーラタ』のなかの「バァガット・ギーター」です。しかし結果を思わずというだけでは心の持って行きように困ります。そこで、ヴィシュヌ神あるいはシバ神のことを激しく思って行為することが勧められました。こうした神への激しい信仰(信愛バクティ)が推奨されることになりました。

こうして世俗に迎合する宗教思想も世俗を否定しそこから離れていく宗教思想も、一般世界(世俗)を変えていく力にはなりませんでした。いまある世界(世俗)を否定しつつそれに激しく関わりそれを変えていくような宗教思想。そうした世界を支配する宗教思想としてヴェーバーがたどり着いたのが古代ユダヤの宗教、とりわけその預言者の思想でした。

都市の王や貴族によって抑圧され奴隷にされることに抵抗し都市から逃げ出したカナンの人びとは、同じようにエジプトの王の元から逃げてきたモーゼがもたらしたヤハウェという神を受け入れ、このヤハウェの名の下に立ち上がり、イスラエル人を名乗り、王侯貴族を打倒しました。ところがみずからの国をつくるとふただび王がうまれ人びとを搾取し隷属させようとします。王制を批判する人びとは、人びとを開放した戦争神ヤハウェを持ち出すことで王制を批判します。イスラエルがその両側にある大国によって滅ぼされると、民衆解放の神ヤハウェをないがしろにしたからであると預言者は訴えました。預言はさらに、ヤハウェはエジプト、アッシリア、新バビロニアの帝国をも操って、自らの神殿さえ壊して、イスラエル(のちにユダヤ)の人びとを罰するのだと訴えました。その結果、ヤハウェ神は、世界を支配する神となり、バビロン捕囚後には、唯一絶対の神となったのでした。こうして、ただ1人の神を崇拝する一神教がうまれました。

ユダヤ人やアラビア人などのセム族には、神の言葉を預かる預言者の系譜がありました。その系譜の最後に立ち、ユダヤ教・キリスト教の神観の元に新しい宗教をたちあげたのがマホメットでした。マホメットはユダヤ教・キリスト教の一神教を受け入れ、より簡単にしかしより力強いものとしたのでした。

ヴェーバーが、『古代ユダヤ教』を書いていた時、ドイツ帝国は第一世界大戦のさなか、亡国の危機にありました。その時、あえて亡国の危機にあることを告げる預言者となろうとヴェーバー自身はしていたのです。それはまさに「神なき時代の預言者」たらんとした英雄的で悲劇的な生き様だったのです。
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# by takumi429 | 2013-07-02 09:40 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

11.「古代ユダヤ教」

11.『古代ユダヤ教』
仏教はインドにおいてタントラの影響をうけて密教となり、インド大衆の呪術的な密儀のなかに溶けていってしまった。現世逃避的な知的宗教である仏教は、現世に向かう時、それと適合(迎合)することになり、その呪術の絡み合った密林のような園を切り開くどころか、そのなかに埋没していったのである。インドで途絶えた密教はチベットに伝わり、遊牧民たる吐蕃の気高さのなかで命を与えられ、現代まで生き続けることになった。
他方、インド大衆は、変幻自在に生まれ変わり顕現するヴィシュヌ神とシバ神への強烈な信仰(バクティ)を、性交を奉るリンガ崇拝に織り交ぜつつ、ヒンドゥー教を復興させることになった。大衆の呪術的・性的信仰は否定されることなく、続いてきたのである。
さて、役人根性(官僚の精神)たる儒教は、世俗を軽蔑しつつ結局はそれに迎合するしかなかった、知的修行僧の宗教たる仏教は、世俗から逃避したために世俗を変えることがなかった。また世俗大衆を救う宗教として生まれ変わった大乗仏教も、さらに性的密儀をとりいれた密教も、結局、世俗に迎合し飲み込まれ、呪術にそまった世俗大衆を変えていくことはなかった。
こうした世俗迎合(適合)的な宗教とはちがい、今ある現状(世俗の状況)を厳しく否定しつつ、それを支配し変えていった宗教として、私たちは古代ユダヤの宗教を取り上げることにする。

ユダヤ民族は、古代において、周辺の弱小民族でしかなかった。
にもかかわらず、それは消滅することもなく現在まで確固と存続している。いやそればかりか、その弱小民族の信奉する神(YHWH )は、世界3大宗教のうちの2つ、キリスト教の神、イスラームの神となり、今なお、世界の多くの民を支配している。
このパラドックス(逆説)はいかにして生まれたのか。
『古代ユダヤ教』という論文は、この謎を解明しようとする論文にほかならない。

地政学上の位置
イスラエルの民が暮らしたカナンの地というのは、メソポタミアとエジプトの両大帝国に挟まれた地域であり、そのためつねに双方から侵略され支配される運命にあった。

カナンの地理
イスラエルの内部は、北の肥沃は農耕地と、南の荒涼たる砂漠とステップ、とに二分される。北には農民が住み、南には家畜飼育者(牧羊者)が定住する。
古代の国家の発展方向
ヴェーバーは古代において国家の発展には2系列があったと考えていた(『古代農業事情』)。
(1)ギリシャ・ローマ型発展系列:城砦王制から民主的ポリスの形成に向かう
(2)オリエント型の発展系列:城砦王制から君主政国家へと発展していく
古代における階級対立
都市貴族が交易によって得た貨幣を農民に貸し、その結果、農民が都市貴族の債務奴隷に転落する。都市貴族⇔債務奴隷(農民)
(1)の場合は、一般市民が自分武装することで、政治的権利を得て民主化する。奴隷は征服地から補給される。
(2)の場合は、官僚制をもった絶対的な王制(帝国)が生まれて、王は国家を自分の家として支配し、人民全体が王の家僕(奴隷)となる。旧約聖書のなかで、「エジプトの家」と言う時には、地域的なエジプトではなくて、人民が奴隷状態にあることを指している。
イスラエルは、(1)と(2)の発展方向のはざまにあってもがき葛藤する。

年表 (Metzger1963訳書参照)
前19-17世紀 <族長時代>
前13世紀  <モーゼ時代>
前13世紀後半 イスラエル諸民族カナン侵入・定着(?) 「契約の書」
前12-11世紀<士師時代>部族連合、戦時における大士師の指導 「デボラの歌」
       ペリシテ人(鉄器を持った海の民)の東進、シロの神殿を破壊 契約の箱
      <王国時代> サウル、王権樹立
前1000頃  ダビデ即位
       エルサレムへ遷都
前961    ソロモン即位
       王宮・神殿の建設 「ヤハウィスト」(J)
前926    王国分裂
      <南北分裂王国時代>
       南(ユダ)王国           北王国                                  
前900頃 ヤラベアムⅠ世、ベテルとダンに金の牛の像を起き、聖所とする。
オムリ王、サマリアに遷都。
カナン宗教蔓延 預言者エリア
前850頃 「エロヒスト」(H)
王母アタリアの独裁と死        預言者エリシャ
840祭司による宗教粛正  ←845エヒウ革命(預言者エリヤとエリシャに指導された抵抗運動の指導下に,エヒウが〈ヤハウェ主義革命〉を起こし,オムリ家を打倒)
前800        両王国の繁栄と社会的退廃
ヤラベアムⅡ世 預言者アモス
        預言者ホセア
前733       シリア・エフライム戦争
アッシリアに従属    ⇔反アッシリア同盟に属する
前721アッシリア軍によりサマリア陥落
北王国の崩壊(上層民の流刑)と異民族の移住
    <単一王国時代>
    ヒゼキア王 宗教粛正 アッシリアへの反乱   
前721 アッシリア軍、エルサレム包囲 アッシリアへの従属 預言者イザヤ(後期)
                           「エホウィスト」(J+H)
    アッシリアの衰退 ユダ王国の一時的独立      
ヨシア王(前640-609) 申命記改革 ヤハウェ原理主義 エルサレム礼拝独占
                            「申命記」(D) 成立
前609 メギドの戦い ヨシア王の死         預言者エレミア(前期)
    エジプトの支配
    新バビロニアの支配               預言者エレミア(後期)
前597 新バビロニア王ネブカドネザルの軍、エルサレム包囲 
     第一次捕囚 (上層民をバビロンに連行)
前578 新バビロニア軍によりエルサレム陥落、神殿崩壊 第二次捕囚 預言者エゼキエル
    <捕囚時代>
    捕囚地バビロンで「神聖法典」(レビ記17-26章)「祭司文書」(P) 成立
                            預言者第二イザヤ
前539 ペルシャ軍によりバビロン陥落
    <ペルシャ時代>
前538 ペルシャ皇帝キュロスⅡ世の勅令により第一次帰還
前515 サマリア人の援助を断り、その妨害に耐えて神殿を再建。
前458 ネヘミア、ユダヤ州の知事として着任。城壁再建、社会改革。
前430 エズラの宗教改革進展。
     エルサレム神聖共同体を確立。大祭司・長老組織による行政
     「モーゼ五書」(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の最終編集
前331 アレクサンダー大王によりペルシャ滅亡


ヴェーバーが取り入れた聖書学の内容
4資料仮説(ユリウス・ヴェルハウゼン)
旧約聖書の律法(トーラー):モーゼ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)はさまざまな文書から成り立っている。
文書名略号成立期成立場所特徴など
ヤハウィストJ前10世紀統一王朝時代のユダ神名ハヤウェYHWHを使用
エロヒストE前9世紀分裂時代の北王国神名エロヒーム「神」を使用
申命記D前7世紀北王国崩壊後のユダ捕囚期に増補改訂
祭司文書P前6世紀バビロニアとユダ教団祭司が作成
エホゥスト  JE        北王国崩壊後のユダ  JとEを結合

生の座(Sitz im Leben) (ヘルマン・グンケル)
編集された文書には、以前からのさまざまな伝承(法律集をふくむ)が含まれている。文章の様式から、そうした伝承がおこなわれた場(生の座)を探らなくてはいけない。

共感呪術的狂騒道
フレイザーの金枝篇から共感呪術の思考がもたらす、多産を願っての性的な狂騒道が、農耕民において繰り返されるとした。具体的には北王国に頻繁にみられた金の牛の崇拝やバール神への崇拝を指している。


社会対立の構造 
王権以前の社会構成 農民・土地所有の氏族(ヤハウェの名のもとに集う連合軍の担い手)
          牧羊者の氏族(ヤハウェ連合軍の担い手)
          客人氏族(手工業者・楽人など)

王権後の社会構成  都市居住地主貴族(軍事的担い手)
          都市デーモス
           非軍事化・無産化したイスラエル人(←農民・牧羊者)
           改宗した寄留者(←客人氏族)

          
イスラエル内部の階級対立
イスラエル誓約連合は、ヤハウェの名の下に、カナンの都市貴族への反乱解放の軍事同盟として生まれた。ヤハウェは誓約連合のためにモーゼからイスラエルの民が受け入れ契約を結んだ戦争神だった。都市貴族への隷属は、エジプトの王制の下の屈従にたとえられた。だからそこからの解放は、「エジプトの家」からの解放にたとえられ、モーゼの「エジプト脱出」(出エジプト記)の記憶が、誓約連合の民衆全体の記憶となった。
にもかかわらず、王制が生まれると、今度は都にいる王と貴族が、かつての都市貴族と同じく、民衆を搾取し債務奴隷にしようとする。イスラエル内部には、解放のための連合から生まれた王制が大衆に隷属をもたらしていることへの不満と批判がたえず渦巻いていたのである。

ユダヤ教発展の担い手:祭司・知識人・預言者
レビ人祭司(一般大衆を相手にする祭司)
宗教的カウンセリング(魂のみとり)での質問
「どうしてこんな苦しい目にあうのでしょうか?」
「あなたはものを盗んだりしませんでしたか?」
この質問を肯定形にすると
「あなたは盗んではならない」という戒律になる。
レビ人のもとに来たのは都市貴族によって債務奴隷にされたりしている都市無産階級や地方の搾取されている農民たちであった。彼らの質問に答えるにつれて、レビ人の宗教の内容は、もともとは誓約同盟の同胞であった民衆を無産化させ隷属させている王制への批判と、もともとの解放の同盟であったイスラエルへと立ち返るべきだ、という内容になっていった。
ヴェーバーは律法の生まれた「生の座」をレビ人の宗教的カウンセリングにみたのだ。
知識人
バビロニアやエジプトの神話を脱色して多くの神を削り、循環する時間感から直線的な時間を導き出して、ユダヤの知識人(上層祭司)はユダヤ教を一神教として精錬していった。
たとえば、ティアマートという(海水の)原母神の殺害から世界が創造されるネヌマ・エリシュ神話を換骨奪胎して、創世記の世界創造神話がうまれた。その際、ティアマートは「水」になっている。
だが多神教の世界から一神教の世界へと神話を書き換え、ユダヤ教の純化と体系化をはかるには、その前提として、ヤハウェ神の絶対性が確立していなくてはいけなかった。それはどうやって生まれたのか。
預言者
ヤハウェの絶対性を確立してそれを民衆に告げたのは預言者たちだった。
預言者とは予言者とはちがう、神と民衆をつなぐ仲介者を言う。神の言葉を預かり民衆に伝える。「主はこう言われる」。当時、主人の言葉を預かった僕(しもべ)は、相手方に到着すると「私の主人はこう言った」と語り始めて、自分の主人の言葉をそのままオウム返しした。その習慣を預言者と神との間に適応したものである。つまり預言は、将来の予告よりも、神の言葉の宣布にあった(雨宮慧著『図解雑学旧約聖書』ナツメ社(2009年)180頁)。
ユダヤの預言者は、敵の帝国による北王国とユダヤの滅亡を、ヤハウェが敵国をあやつって下した、イスラエルへの罰だと解釈した。それまでの解釈は、民族の敗北=国の神の敗北である。しかし、預言者の解釈は、ユダヤ民族の敗北=背信のユダヤ民族にたいするヤハウェの罰である。その際、ヤハウェは敵の帝国軍をも操れる絶対的な神へと昇格している。この卓抜した解釈と宣告によって、ヤハウェは絶対の世界神となり、その絶対神の与えた命令(律法)を守るユダヤ民族には必ず救済があるはずだとの強烈な信仰がうまれたのである。
その際、イスラエルが犯した罪として挙げられたのは、ヤハウェ以外の神への崇拝へと、同胞を債務奴隷として隷属させる罪である。
イスラエルには、北と南の対立、都市の貴族と(債務奴隷としての)農民と定住した牧羊者との対立があった。
農耕地が多い北では、農耕の多産を祈願するバールなどにたいする信仰と祭儀が盛んであった。北王国の預言者はこのヤハウェ以外の偶像崇拝による祭儀を激しく弾劾し、それが北王国滅亡の原因だったとした。
南のユダ王国の預言者は、さらにエルサレムの神殿の崩壊さえ預言するに至った。同胞を搾取隷属する驕慢な王国に対して、ヤハウェはアッシリアや新バビロニアをもあやつって罰を与えるのである。ユダヤが崩壊したのは、エジプトやアッシリアや新バビロニアの神が、ユダヤの神ヤハウェより強かったからではない。ヤハウェがエジプトやアッシリアや新バビロニアのような強大な世界帝国までも、あやつるような唯一絶対の神だからである。
祭司・知識人・預言者の三つどもえの働きによって、ユダヤ教はやがて一神教へと純化・体系化され、捕囚後ユダヤはその信仰による神政政体となった。
ユダヤの崩壊と捕囚というもっとも宗教的な危機でもありえた事件が逆にヤハウェの信仰を強靭なものにし、それは一神教として確立したのである。まさにこの逆説こそ、西洋社会とイスラム世界を支配する一神教をもたらした逆説なのである。

預言者の2類型
ヴェーバーの預言者類型では、模範預言と使命預言が有名である。模範預言は信徒に自らが手本となってみせるような預言者あり、ブッダなどがその例である。使命預言とは信徒に神の命令を伝える預言者である。古代ユダヤの預言者がまさにそれにあたる。
さてこの「古代ユダヤ教」では、ヴェーバーは預言者を、イメージを幻視する視覚的な預言者と、神の声を聞く聴覚的な預言者とに分けている。
視覚的預言は、集団的な狂騒と関連があるとヴェーバーはみなしている。それはちょうど、ニーチェが『悲劇の誕生』で、コロスの音楽によるディオニソス的原理と彫刻的なアポロ的原理が、ギリシャ悲劇のなかで交互に現れると説いているのと照応する。この視覚的預言は音楽にひたりながら幻影を見る満ち足りた至福の状態をもたらす。
それにたいして、聴覚的預言はあくまでも預言者を突き動かしてやまない。それは人を突き動かし続ける命令の預言なのである。
このセム族に見られる聴覚的な預言者の系譜の最後にある者として、私たちはイスラーム教の開祖マホメットへと話を進めなくてはいけない。

      
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# by takumi429 | 2013-06-24 02:49 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)