映画による共存在の幻想

島崎藤村『家』
写真と映像をつなぐ形で構成された小説
 家→(不成功に終わった)「家族」→死んでいく子
 家の崩壊
 

時間と空間が、写真によって切り取られ、
その写真の連続・集積として時空間が再構成される。

新聞 おなじ世界(国民国家)の中での出来事

写真 おなじ空間に同時に存在したことの証

毎日発刊される新聞。新聞の集積がその社会の時間の集積とのイメージになる。
その集積のなかに存在するばらばらの人々が、ひとつの時間をもつ社会の成員、とのイメージをもたらす。

写真の集積は、それに写された者たちが同じ空間を共有して時間を経てきたというイメージをもたらす。

同じ写真には写っていないが、おなじ「時空間」のなかにいたように思い込ませることができる装置、それが映画である。

映画は、想像の同時空間性をねつ造できる。

 クレショフの「観念的(創造的)地理」
「1920年、クレショフによって実現された実験の例は、二人のロシアの映画作家の以上のような考え方がまだ初期的なものにとどまっていることをしめしている。プドウキンの先生であり協力者であるクレショフは次のような場面を集めた。
1 1人の青年、左から右に行く。
2 1人の乙女、右から左に行く。
3 2人が出会って、手を握り合う。青年は手で空間の一点を指示する。
4 広い階段を持った白亜の大きな建物が見える。
5 2人の人物が階段をのぼっていく。
これらの断片の各々は、異なった一組のフイルムから引き抜かれたものであった。即ち最初の三つのカットはそれぞれ異なったロシアの街上で撮られたものであり、四番目のカットはアメリカの大統領官邸であった。しかし観客は、その場面をひとつの全体として知覚した。これこそクレショフが、観念的または創造的地理と呼ぶものである。」(アンリ・アジェル著『映画の美学』(岡田真吉訳)白水社1958年、92-3頁)。

ショット・アンド・リバースショット
カメラの目によって物語世界の中に入り込んだ錯覚を生じさせる。
主人公は観客の乗り物(だから透明感のある演技が望まれる)

映画は国威高揚のもっとも重要な手段とみなされた。
とりわけナチスと共産主義によって重視された
 例:民族の意志

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# by takumi429 | 2014-07-13 21:35 | Comments(0)

家族写真という装置

 明治文学のおける写真
 1.はじめに
 明治後半になって日本は近代的な国民国家としての形をととのえる。明治近代は、鉄道、写真、地図などの さまざまな文明の利器(装置)をもたらした。そう した装置は人々の集団表象(イメージ)にどのような作用をもたらしたのだろか。そしてその作用は、国民国家としての「日本」の出現とどう関わっているのだろうか。
 この明治後半の時代にもっとも密着じたかたちで作家活動をしていた、当時の「前衛」作家であった、田山花 袋のいくつかの作品(および彼の同時代人の作品)を読 むことで、この問題について考えたい。
 具体的には、『田舎教師』のなかの「地図」の意味、「少女病」という作品のなかでの「市電」のもつ意味、『重右衛門の最後』におけるパノラマ的視線の意味、などを取り上げる。
 地理学的な「地図」が、国家のまなざしの下で従軍する臣民(主体)と、作家のまなざしの下で(地図の上を) 移動する小説の主人公(主体)、をつなぐ装置(しかけ) であることは、勝又[1995]とKatsumata [1995]で、明らかにした。
 本稿では、田山花袋の『生』と、花袋とともに自然主 義文学グルーブの一員でもあった島崎藤村の『家』とい う、二つの小説を、その作品の中に現れる家族写真に着目しながら、読む。そうすることで、「写真」という装置が人々の表象のありかたにいかなる影響を与えたのかを考える手がかりを得たい。

 2.小説『生』のなかの写真
 明治41年(1908年)、田山花袋は、『読売新聞』に「生」という小説を連載した。この小説は、花袋の母親(てつ)の死(明治 32年8月19日)にいたるまでに田山家に起きたできごと をほぼそのまま淡々と描いた作品である。小説の叙述は時 間の経過どうりに進む。おそらくたいていの読者は この小説のだらだらした進行にうんざりしてしまうだろう。しかしこの小説には、最後に、きわめて魅力的な場面が現れる。

「兄弟三人 三軒の家は一家のように睦しく往来した。…
今日は女達が三人お揃いで、九段の鈴木に行って記念の 写真をとらうといふのである。…
車なので、存外早く、午少し前には、三人は写真を撮っ てもう帰って来て居た。
写真屋の話が始まった。
一週間目に其写真が郵便で届いた。割合よく写って居 た。写真の話が一時三軒の家を娠やかにした。… 序に写真を蔵つて置く小箱が其処に届けられる。明治 の初年に大阪で撮ったといふ大小を差した父親の写真はもう黄く薄くなって居た。それに兄弟が三人揃って撮した少年時代の写真、誰れだか陥らぬ丸雷の女と一緒に撮った中年の頃の母親の写真、死んだ叔母の写真、嫂の 写真、総領の姉の写真は其頃はやった種板其まゝの硝子製で、木の框の壊れて取れたのを丁寧に母が白紙に包んで蔵つ置いた。其の他に昨年英男と一緒に寫した母親の写真が一枚あつた。兄弟は皆なそれを手に取って見た。「 (田山[1993:15-8])

 母親の死後、息子兄弟とその妻たちが一同に会する。 一週間前に「鈴木」という写真館でとった女達の写真が郵便で届き、それを見ながら、ふたたび「写真の話」が盛り上がる。それを機会に昔の家族写真が彼らの前に広げられる(相馬注[1972:379]参照)
 単調だった叙述に、映画のフラッシュ・バックのよう に、過去の家族写真が挿入される。そうして失われた 家族と失われた彼らとの時間が思い起こされる。

 3小説『家』の中の写真
 花袋の『生』とおなじように家の歴史を扱った作品 に、島崎藤村の『家』がある。明治43年(1910)から 連軟されはじめ、翌44年にまとめられた。この『家』という小説は、藤村自身の島崎家および彼の姉が 嫁いだ高瀬家という二つの旧家が崩壊していくことを描いた小説である。
 あらすじをみておこう。
 主人公三吉(藤村)は、旧家制度から自由な、恋愛結婚による新たな「家庭」homeを望んでいた。しかし彼と彼の妻は現実には見合い結婚であり、結婚後も三吉が望むように、恋愛結婚ではなかった。結婚前には、妻のお雪には勉、三吉には曽根という、それぞれ思いをかけた相手があった。盗み読みした手紙から偶然、お雪の勉へ 気持ちを知った三吉は、身を引いて、お雪と勉を「恋愛結婚」させようとするが果たせない。結局、勉はお雪の妹お種の夫になる。西欧流の「恋愛結婚」による家庭の形成という三吉の夢はもろくも崩れる。
 旧家から逃れ恋愛結婚による家庭をつくることに失敗した主人公三吉。彼の欲望は、三吉の家に手伝いに来ていた姪たちへと向かう。しかし姪たちは実家に帰り、近親相姦の危機を脱した主人公は安堵する。三吉が関係しそこなった姪のお俊は結婚する。橋本家の家長の達雄は出奔し、また跡継ぎの正太も死んで、この旧家は崩壊する。三吉の家は、旧家の重苦しさとは異なり、若人が集う家であったが、この三吉の家にしばしば来ていた正太も、死んでしまう。また三吉の3人の娘もすベて死に、さらに妻のお雪の死も暗示される。こうして旧家どうように、三吉の家庭も瓦解するのであった。
 この作品でも写真というものがきわめて重要な働きをしている。それを見ながらさらに写真というものの意 味について考えてみよう。
 島崎藤村の小説『家』ではすくなくとも十回、写真が登場する。それを以下一覧してみよう。カッコ( )は、モデルとなった実在の人物の名前。
(1)三吉(藤村)が橘本(高瀬)家を訪問したのを記念して、三吉と橋本家全員の記念写真が撮られる (上巻ニ)。
(2)橋本家から届いたその記念写真を小泉(島崎)家の人々が見ながら語り合う(上巻三)。
(3)三吉(藤村)とお雪(冬子)の新家庭のもとにお雪の妹お福が訪れる。三人でお雪の昔の写真と三吉の昔の写真を見る。その際、お雪の実家名倉家に奉 公人で、(じつはお雪が思いをかけていた)勉という青年の写真が出てくる(上巻五)。
(4)三吉の女友達の曽根について、三吉とお雪が語り合っている。三吉の話から彼が曽根の写真を見せてもらうような関係であることをお雪は知り、しおれる (上巻六)。
(5)三吉の姉お種(園子)が三吉の家を訪れ、お雪の実家の人々の写真を見る。その中には、かつてお雪 が思いをかけ、今は妹のお福の夫となって名倉家の養子となった勉の写真があった(上巻十)。
(6)妻の留守中の家事手伝いにきていた姪のお俊(いさ)に、叔父と姪の関係以上のものを求めそうになった三吉は、お俊が実家の兄の家から帰ってこないことに不安をおぼえつつ、死んだ娘のお房(緑) の写真をみる(下巻三)。
(7) 家事手伝いの姪二人が実家に帰り、三吉はほっとしながら死んだ娘のお房(緑)の写真をみる。写真のガラスに反射した彼自身の顔を見ながら三吉は内省する(下巻三)。
(8)三吉とお雪の家に姪や甥たちがあつまり、三吉は 記念に写真を撮ることを提案する。三吉は橋本家の跡継ぎの正太と写真におさまる(下巻七)。
(9)お雪がお俊の結婚写真を取り出す。三吉はお雪との夫婦生活を反省する(下巻八)。
(10)橋本家の跡継ぎの正太が死んだという電報が届く。お雪は、間近のお産に不安を覚えつつ、正太の 写真を取り出し、死んだ三人の娘の位碑の前において燈明をあげる(下巻十)。(お雪のモデルである藤 村の妻冬子は実際にこのあとのお産で死ぬ)。
 2つ旧家の崩壊は、記念写真をとる旧家全員(1)とそれを見る旧家の人々(2)から、跡継ぎの死(10)への移行によって語られる。
 こうして小説『家』のなかに出てくる写真の描写を取り上げてみると、じつはそれがそのままこの小説の概要 になっていることがわかる。
 ではなぜ写真の描写と取り上げると、それがそのまま 小説の概要になるのか。それはおそらく、藤村 がこれらの写真のいくつかを実際に時間順に並べ、そうしてこの小説を書いていったからだ、と思われる。だから小説の節目節目に藤村は写真の図像を織り込んでいる。 この小説の緊密な構成は、じつは写真という装置を活用したことから生まれている。

4.反復・回帰する時間から、行きて帰らぬ時間へ
写真の出てくる場面ををもうすこし詳しくみてみよう。
三吉(藤村)と橋本(高瀬)家全員の記念写真の場面(上巻ニ)。

「母親さん、写真屋が来ましたから、着物を着替えて下 さい。」
こう正太がそこへ来て呼んだ。
「写真屋が来た?それは大夕忙だ。お仙--峰の子は こうしておいて、ちゃっと着更えまいかや。お春、お前 も支度するがいい。」とお種は言った。
「嘉助 みんな写すで来いよ。」達雄は店の方を見て呼んだ。
記念のため、奥座敷に面した庭で、一同写真を撮ることになった。大番頭から小僧に至るまで、思い思いの場 処に集まった。達雄は、先祖の竹翁が植えたという満天星の樹を後ろにして立った。
「女衆は前へ出るがいい。」
と達雄に言われて、お種、お仙、お春の三人は腰掛け た。
「叔父さん、あなたはお客様ですから、もうすこし中央 へ出て下さい。」
こう正太が三吉の方を見て言った。三吉は野菊の花の 咲いた大きな石の側へ勤いた。
白い、熱を帯びた山雲のちぎれが、みんなの頭の上を 通り過ぎた。どうかすると日光が烈しく落ちて来て、撮影を妨げる。急に嘉助は空を仰いで、何か思いついたように自分の場処を離れた。
「嘉助、どこへ行くなし。」とお種は腰掛けたままで問いた。
「そこを動かない方がいいよ--今、大きな雲がやつて 来た。あの影になったところで、早速撮って貰おう。」と 正太も注意する。
「いえ---ナニ---私はすこし注文があるで。」
と言って、嘉助はみんなの見ている前を通って、一番日影になりそうな場所を択んだ。ちょうど旦那と大番頭 とは並んだ。待ち設けた雲が来た。若い手代の幸作、同 じく嘉助の枠の市太郎、みんな撮った。
(島崎[1967:254])

 大きな旧家というものは一種の経営体のようなものである。血縁者ばかりではなく、重要な使用人もその構成員である。だからのちに家長の達雄は出奔してしまった後、橋本家を支えるのこのは大番頭の嘉助である。こうした番頭までふくめた旧家の輪郭が写真によってくく られています。この場面にみられる華やいだ晴れがましさからわかるように、いわば写真撮影は一種の「祝祭」であり、それによって集団の結合の確認される。
 しかし家の「祝祭」には盆や正月などの儀礼もあった。かつての儀式はつねに反復され、反復 をされることで永遠へとつながっていました。家が永劫 に続くものとしてその同一性を確保するものであった。家族の統合を確認する機能は家族写真が果たすものになった。しかし写真に写された「今」という瞬間はたちまちのう ちに過ぎ去っていき、喪失惑をもたらす。儀式に よって反復される時間ではなく、つねに失われいく 「今』という瞬間の、その連なりとして、絶え間なく変化していく時間というものが、写真によって意識されるようになる。

 橋本から写真の着いた日は、実は用達に出て家にいな かったが、その他のものは宗蔵の部屋に集まって眺めた。
「達雄さんもフヶましたね。」とまたお倉が言った。… 故郷にあった小泉の家---その焼けない前のことは、いつまでもお倉にとって忘れられなかった。橋本の写真を 見るにつけても、彼女(お倉)はそれを言い出さずにいられなかった。
(島崎[1967:263])

「達雄さんもフケましたね」という言葉に現れたよう に、写真は見る者に時間の推移を鋭く突きつける。ここでは時間は反復されるものではなく、絶え間なく過ぎ 去っていく。さらに突きつけられた時間の推移 は失ってしまったものへの郷愁を呼び起こします。橋家の写真を見ながらお倉は失った「小泉の家」を思い出す。
 盆や正月の家族団らんや家と家との間にとりおこなわ れる結婚式などの「祝祭」儀礼はこうした喪失惑とは無縁である。それは年輪のように家の記憶を太くする。しかるに「家族写真」という「祝祭」は撮られた瞬間の「今」から絶えず遠ざかっていくことを意識させる。写真とは、「失われた時」を意識させる、そうした「装置」なのである。

 5.写真による小説の時間の形成
 この小説では、家族が経ていく「飴のようにのびた」時空間の流れを、瞬間において切断したその切断面が、写真となって最後に読者に提示されている。写真という装置によって、「失われていく今」の連続として家族の記憶はつくられていく。
 田山花袋の『生』での、「父親の寫真」、兄弟の「少年時代の寫真」、「中年の頃 の母親の寫真」、「死んだ叔母の寫真」、「嫂の寫真」、「総領の姉の写真」、「昨年英男と一緒に寫した母親の寫真」、これらはすべては失われた人々と失われた時間の記憶である。
 ほんらい、人間の記憶は、決して時間順の行儀よく。それも等間隔に整理されているわけではない。私たちは自分にとって重要なことなら、それがどんなにむかしのことでも昨日のように思い出す。そのかわり、さして重要でもないことはすぐに忘れる。
 だからこの花袋の『生』と藤村の『家』という小説のなかを流れている時間は、本来私たちが物事を思い出したり覚えている時間とは、異な形式の時間なのだ。そしてそうした時間を成立させているのが、この家族写真という装置なのである。
 この『生』の末尾で出てきた写真群全体をつなぐよう な、田山家の年代記とでもいうべき小説をのち(大正5 年)に花袋は書く。その小説の題名が『時は過ぎゆく』であるのは決して偶然ではないだろう。おそらく、この『生』でもちいた写真による過去の想起と写真による時間の配列・設定、その結果としての「ゆきてかえらぬ時の流れ」という小説のなかの時間性、の展開として小説『時は過ぎゆく』は位置づけられるだろう。


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# by takumi429 | 2014-07-13 21:26 | 社会環境論 | Comments(0)

少女病

「少女病」:電車という名の欲望

「少女病」明治4051日の『太陽』発表

あらすじ

小説は郊外の貸家から代々木の停車場に向かう主人公の描写から始まる。主人公、杉田古城(「過ぎた固執」?)37歳、小説家。もっぱら少女小説を書いている。かつ ては一世を風靡したこともある。しかし清純な少女へのあこがれに終始するその作風は飽きられ、いまでは雑誌の編集でなんとか生活をしている。盛りを「すぎた』彼の の唯一の楽しみは通勤電車で美しい女学生を見、妄想にふけることである。彼は停車場ですでに女学校出の娘や女学生の姿を物色する。知人たちのうわさ話から、どうやら彼は、妻子持ちであるにも関わらず、オナニス卜であるらしいことが知れる。甲武電車に乗り、さらに市電へと乗り換える。主人公は車中で女学生たちを見、接触しながらうっとりとする。出社すると少女趣味を編集長にあざけられる。夢のない仕事と 生活に死にたいように気持ちになりながら、杉田は帰宅の電車に乗る。東京博覧会帰リ の客のために市電はたいへんな混雑。しかたなく彼は電車のデッキの真鍮棒につかまって乗っている。そのときもう一度会いたいと思っていた美しい女学生をガラスご しに見つけ、心を奪われる。しかし電車の加速に手をすべらした彼は、線路上に転がリ、反対方向から来た電車にひかれ死んでしまう。

女一覧

この小説の中では8人の女が登場する。それをまず出てくる順に列挙しよう。

1 「二十二三」歳ぐらいの「庇髪の女」。

「鴬色のリボン、繻珍(しゅちん)の鼻緒、おろし立ての白足袋」代々木停車場から「すくなくとも五六度は其女と同じ電車に乗ったことがある」。主人公はこの女の家まで突き留めている。

2  いつも代々木から牛込まで同乗する娘。

留針(ピン)を拾ってやったことがある。「白いリポン」はでな縞物に、海老茶の袴を穿いて、右手に女持の細い蝙蝠傘、左の手に紫の風呂敷包。

3  妻

「二十五六」歳ぐらい。「旧派の束髪」木綿の縞物の着物。

4 5

代々木からの車中での二人の娘。

年上の方は、「縮緬(ちりめん)のすらリとした膝あた から、華奢な藤色の裾(そで)、白足袋をつまだてた三枚襲の雪駄(せった)、ことに色の白い襟首」。もう「一人の肥った方の娘は懐からノウ卜ブックを出して頻りにそれを読み始めた。」

6

千駄ヶ谷駅から乗った「不器量な、二目とはみられぬような若い女」

「反歯(そっぱ)、 ちぢれ毛、色黒」

7

「見慣れたリボンの色」「四谷からお茶の水高等女学校に通ふ十八歳位の少女

8

かつて信濃町から一度だけ同乗し、もう一度逢いたいと思っていた令嬢。

朝の電車では見あたらず。帰宅のお茶の水からの甲武線(現在の中央線)で車中に発見。

「白い襟首、黒い髪、鴛茶のリボン、白魚のような綺麗な指、宝石入りの金の指 輪」。この少女にみとれて主人公は轢死。

 疑問(1) なぜ妻(3)とたいして歳も変わらない女1がでてくるのか。女1はすでの223歳で、「少女」と呼ぶにはあまりにとうが立ちすぎている。しかも主人公の妻(女3)は256歳。たいして歳も違わない。それなのに女1 に主人公は欲情し、妻には関心を失っている。「ちょっと変ではないか」。読者がそう思うのも無理はないだろう。

じつはそこが作者のねらい目だったと思われる。

 この小説を書いた田山花袋は当時、少女小説家であり、年齢も主人公と同じ37歳。 代々木の郊外に住み、博文館の編集者として甲武線(現在の中央線)と市電を使って通勤していた。それゆえ主人公は花袋自身をモデルにしているといって良いだろう。

 しかし花袋の妻の里さはこの明治40年に28歳。それに対してこの小説の主人公の妻は256歳で、花袋の妻より23歳若く設定されている。

 なぜ主人公の年齢が花袋と同じなのに、妻の年齢は若く設定されているのか。それは 主人公が欲情している女1とあまり年齢差がないことを読者に気づかせるためにほかならあない。そもそも、女1じたいが妻の年齢に近い女としてあえて登場させられていると思われる。

 なぜそんなことをしたのか。

 それは主人公の欲情が、単に「若い女」に対する欲望ではなく、あくまでも「電車で 出会う女学生」に向けられたものであることを示したいからにほかならない。

答え:女の若さではなく電車という空間で出会うことが主人公の欲望を喚起していることをしめしている。

郊外の家 妻   日常  生殖(子作り)

電車空間 女学生 非日常 オナニー

疑問(2) 「女学生」にどうして欲望を喚起するのか。

女学生(女子大生o女子高生):記号をまとった存在 束髪(庇髪)、ノウトブック、本、袴・・・

「女学生」=「女」+「学生』=欲望の対象+禁欲的勉学

「女学生」は「女」+「学 生という記号は二つの相反する記号からなっている。「女」は男にとってつねに「性的対象」を意味する。反対に「学生」は禁欲のイメージをもっている。つまり「女学生」とは「誘いつつ拒む」あるいは 「拒みつつ誘う」存在という記号である。つまり「イエス』と「ノー」との間を振り子のように動くもの、すなわちジンメルの言う「媚態」(コケットリー)をあらわす記号である。

ガラス越しの女学生とは、欲望の対象の提示と遮断なのである。この欲望の喚起は、ショ一、ウンドウの中の商品にも似ている。

対照表への追加

郊外の家 妻  生殖(子作り) 自発的欲望(need 日常品 家庭

電車空間 女学生 オナニー    喚起された欲望(want) 商品 ターミナルデパー卜

疑問(3)主人公はなぜ廣突にも小説の最後に死んでしまうのか。

一般の評

「少女病Jについては、「主人公の生活が十分現れず、その性格が不分明なところから、単に一個の病理的現象を書いたものという感がある。主人公の年齢が三十七八で子供の二人ある人とは受け取りがたい。結末主人公が電車から落ち死ぬるのも作為にすぎる」(片上伸「田山花袋氏の自然主義J明治414月『早稲田文学』)との批評 がある。たしかにこの作品は書き込みが足らず、筆致があらく、とりわけ主人公の描写にはひとりのみこみのところがある。特に最後の死は突飛で「作為に過ぎる」といえるだろう。(『明治文学全集67田山花袋集』「解題」吉田精一388頁)

轢死の遠因は、東京勧業博覧会からの帰リ客がどっと乗り込んだこと

「お茶の水から甲武に乗換へると、をりからの博覧会で電車は殆ど満員、それをむりに車掌のいる所に割り込んで、兎に角に右の扉の外に立つて、確りと真鍮の丸棒をつかんだ。」

直接原因は、反対路線を走る電車。

真の原因は、電車(鉄とガラスの箱)のなかの女への欲望

「美しい眼、美しい手、美しい…白い襟首、黒い髮、鴬茶のリボン、白魚のような綺麗な指、宝石入りの金の指輪---乗客が混合つて居るのと硝子越になつて居るのとを都合の好いことにして、かれは心ゆくまで其の美しい姿に魂を打ち込んで了つた。」

答え:女たちを乗せる交通(Verkehr)によって喚起された欲望に翻弄された主人公 はまさにその交通によって殺される。

Verkehr -s /-e

1. 交際、っきあい、交流、交渉

2. 交通、運輸

3. (貨幣・切手などの)流通

4.《婉曲に》(Geschlechtsverkehr) 性交 [mit jm.] verehelichen Verkehr haben [ …と]婚前交渉を持つ。

例えば、小説『ソフィーの結婚』で、収容所長が、子どもを救うために誘惑するソフィーにたいして「君とVerkehrを持ちたい!」とうめくシーンがある。

疑問(4)なぜ人物の持ち物が列挙されるのか---ガラス箱の中の女たち---

主人公「かれ」の目に映る「少女』たち。それはさまざまな部分へと細分された存在である。

「少女Jたちの描写をみてみよう。「栗梅の縮緬(りちめん)の羽織をぞろりと着た格好の好い庇髪の女の後姿」。また「鴬色のリボン、繻珍(しゅちん)鼻緒、おろし立ての白足袋」。あるいは、「はでな縞物に、海老茶の袴を穿いて、右手に女持の細い蝙蝠傘、左の手に紫の風呂敷包」。

女たちはさまざまな衣服や持ち物へと分解され、人格でばなく、むしろそした衣服と小物を展示するための白いマネキンのようでさえある。

主人公を死にいたらしめる女の描写をみてみよう。

「お茶の水から甲武[電車]に乗換へると、をりからの博覧会で電車は殆ど満員、そを無理に車掌の居る所に割込んで、兎に角に右の扉の外に立って、確りと真鍮の丸棒 をっかんだ。ふと車中を見たかれははツとして驚いた。其硝子窓を隔ててすぐ其処に、信濃町で同乗して、今一度是非逢ひたい、見たいと願って居た美しい令嬢が、中折帽子や角帽やインバネスに殆ど圧しつけられるようになって、丁度烏の群に取巻かれた鳩といったような風。」

「美しい眼、美しい手、美しい髮…白い襟首、黒い髮、鴬茶のリボン、白魚のよ うな綺麗な指、宝石入りの金の指輪--乗客が混合つて居るのと硝子越になつて 居るのとを都合の好いことにして、かれは心ゆくまで其の美しい姿に魂を打ち込んで了った。」

 電車は鉄とガラスの箱である。その箱の中に「中折帽子や角帽やインバネス」とならんで「令嬢」がいる。しかしいまや主人公の眼には、彼女は一個の人間というよリも、「美しい眼、美しい手、美しい髮…白い襟首、黒い髮、鴬茶のリポン、白魚のよ うな綺麗な指、宝石入りの金の指輪」という欲望を喚起する物の集積として現れている。

 電車という交通の機関によリ次々と登場する女たち。しかもそれは一個の人間であるよりも、むしろ欲望を喚起するさまざまな部分部分へと細分化され、主人公のまなざしがその細分化した部分の集列をなめるように移動していく。

 オナニス卜直接的交渉よリも想像のなかで実物の代償となるものイメージによって

欲望を喚起している存在==記号による欲望の喚起

例:糸井重里の『コピー塾』の投稿作品:「ぼくのお兄さんは『女子大生』という字を見 ながらオナニーしています。」

品物がそれが意味するものでなく、それ自身が輝く世界

商品のコマーシャルのためを見せるためにドラマなどの番組を放送する-商品自体が. 番組となる。

記号としての物がそれ自体輝き人を魅了する世界

使用価値ではなく、商品がそれ自体で輝く世界=記号の乱舞による欲望の喚起 記号の集積=商品の集積

人物がすべて衣服や髪型や持ち物によって表現される。人を表す記号としての品物がガラス箱のなかに溢れんばかりになっている。ショーウンドウのなかの商品

補足 痴漢はむかしからいた

明治45128日東京朝日の記事

●婦人専用電車

▽不良少年の誘惑予防

乃木大将もかつて、学習院女学部の生徒が電車に乗ると、男子が兎角生徒の体に触れたがって困ると、電気局員に語られたと記憶するが、

▲花電車を狙う   近来不良学生が、山手線沿道より市内各女学校に通う女学生のいずれも同一時刻に乗車するを機とし、混雑に紛れて或いは附け文、或いは巧妙なる手段を以って誘惑し、しからずとも女生徒の体に触れ、その美しき姿を見るを楽しみとする風がある。彼等はこの女学生の満載せる電車を称して、「花電車」と呼んで居るが、今回中野、昌平橋間に各駅から婦人専用電車を、朝の八時半前後と午後の三時半前後に数回運転せしむることに決定し、この電車を女学生が利用するようにと、お茶の水付属女学校、女子学院、千代田女子学校、双棄女学校、三輪田女学校、精華女学校等に対し通知し、来る三十一日より実施することになった。

▲女学生客の減少   右に就き中部管理局員は語って曰く、「外国の例は知らぬが、日本ではこれが最初である。兎に角名案たるに足るだろうと思う。これを運転せしむるに至った動機は、従来男女学生間の風儀を乱すような事が少なからず、牛込や四谷駅長からの申し出もあり、調べて見ると、女学生の客は次第に減って居る。そして遠いのを我慢して、車や徒歩で通学して居るものがだいぶあると云うことが判つたからである。婦人専用電車と去うのは、二台連絡する後のに婦人専用と札を掛け、前車には男子を乗せることにするつもりだ云々」と語った。


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# by takumi429 | 2014-07-06 18:27 | 社会環境論 | Comments(0)

パノラマ的描写


『第二軍従征日記』記述
パノラマ
「殊に、自分等にべんりであったのは、其頂上に歩兵の掘った掩壕 (えんごう)が、さながら我々の為めにでもあるかの如く残し棄てられてあつたことで、自分は三浦くんと一緒に毛布(けつとう)を其底(そこ)に敷いて、芝居でも見る気で、じつとその前に展(ひろ)げられた大パノラマを望んだ。
 芝居でも見る気!いや、其時は左様でも無かった。
     初めて臨んだ戦争の大舞台
 凄まじい大砲の巨音(おと)が天地を震ふばかりに轟(とろどき)渡つて、曳火弾は白く、着発弾は黄く黒く爆発するを見ると、臆病のようであるが何となく氣がそはそはして、胸が妙にどきついて、かうしてじつとしては居られぬやうな仏地が爲る。頭を出すと、打たれる恐れがあるので、否、先日現に其經驗があるので、自分等は寧ろ小さくなつて、臥そべって、其前方の大景を望んだので。
 風は烈しいが、暖かい。空気の透明に澄んだ日で、南山の敵の陣地から 打出す砲はさながら取に指すかのやうに見える。わが砲共陣地は?と見ると、一番近いのが、自分等の萵地から約五百米ばかり離れた扁平な丘陵の上で、其處に野砲ばかり据えられているが、それょり猶五百米 を隔てて、十ニ三門並べた砲共陣地があるのが歴然見える。眉を舉げて望 むと、今朝の荒れ模様の名殘は猶金州湾から大連湾へと懸けて明かに其の痕跡を留めて居て、透徹し過ぎた空に、黑い凄い殘雲が砲烟(ほうえん)か柯ぞのやうにちぎれちぎれに飛んで、海の色の碧の濃さと言つたら……。岸には、 怒既の烈しく碎けるのが白く、白く。
『そら打つた!』
と言ふと、共に絶大なる響。続いてわが砲兵陣地からは、砲身がびかッと光ると同時に、砲彈は空気を裂いて嗚って飛んで行く。それと引違ひ に、敵の砲弾も音響と共に盛に炸裂して、最近いものは、自分等の高地の二百米ぱかりの下に来て、破裂して黑い凄まじい砂烟をニ三間ほど颱(あ)げた。その最も多く来るのは、第二番目の陣地で、一時は十五六発の敵彈が其附近に黑く白く落下するのを見た。下の砲共陣地には砲門が五ッ六ッ、其周囲もに五六の人の小さい影が人形のやうに見えて、瞳を凝すと、 打つ時に手を舉げて號令するのもありありと。」(「第二軍従征日記」『明治文学大系第67巻』253-4頁)

パノラマ〚英 panorama〛建物内に
パノラマ
イスタンブールのトルコのコンスタンティヌス攻略パノラマ
https://www.youtube.com/watch?v=D3tJ422N3Rg

パノラマ
建物内に、野外の高所から四方を展望するのと同じ感じを与えるように作った装置。建物の内部に円く絵画をめぐらし、中央の展望台から見回すと、視覚の錯覚によって完全な実景を見る感を与える。 画面には陰彩を生じないように反射光線を用い、また、絵画の前面には立体的実物を置き、両者の色彩・形状に注意して区別を不明瞭にしてある。わが国最初のパノラマ館は 明治二三年五月七日開場の上野パノラマ館、同年五月二二日開場の浅草の日本パノラマ館である。前者は戊辰戦争を、 後者は南北戦争のシーンであった。明治中・後期の見せ物。 また、一般に大景観の意味がある。

山花袋『田金教師』三七(明治四ニ)[上野の]東照宮の前では、女学生が派手な蝙蝠傘をさして歩いて居た。パノラマには、 古ぽけた日清戦争の画か何かがかゝつてゐた。

「東照宮とは、徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社です。日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、全国各地に数多くございます。 そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれておりますが、正式名称は東照宮でございます。」http://www.uenotoshogu.com/about/上野東照宮HP


パノラマ館の図
「かしこは弾丸も来たらず、見晴しは好し、戦闘視察には最も便りよからめ、あれへあれ
へ」この声に導かれて周囲を見渡せば、西も東も砲煙弾雨につつまれ、朦朧(もうろう)たる中に千軍万馬が馳駆する。破裂する栂弾地雷は地獄のような赤を発し、すさまじくも又おぞましい……。
 眼前に拡がるこの現実と紛う戦闘光景は上野公園のパノラマ。このパノラマ館は明治二十三年第三回内国勧業博覧会に白河戦争の図でもって開設されたが、その後いったん閉館。明治二十九年になって、図を旅順攻撃に代えて、上野公関内桜ヶ岡に設立された。戦闘の
すさまじさを如実に伝える妙画は、野村芳園、芳光両画伯の手になるものと伝う。
(山本松谷函)
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(『目で見る江戸・明治百科 第六巻 明治新東京名所、地方名所の巻』1996年国書刊行会)
『田舎教師』目的地から規定される欲望の担い手としての主体
近所の女工たちに性的な挑発を受けた主人公は、その性欲を鎮めるべく「中田遊郭」に行くことを決め、河畔の道を歩く。
「路は長かった。川の上に簇がる雲の姿が変わる度に、水脈の穏やかに曲がる度に、川の感じが常に変わった。夕日は次第に低く、水の色は段々に納屋色になり、空気は身に沁み渡ように濃い深い影を帯びて来た」(田山1980:115)。
 冒頭と同様に、まず目的地までの行程の線が引かれ、そこまでの距離が語られる。その上を主人公が歩いていく。主人公の歩行が時間の進行を刻み、そして行程の上を移動する主人公の目に写る情景が小説の情景描写となりその空間に広がりを与える。
 目的地へ歩行が作品の時間と空間を形作るばかりではない。目的地への関係が主人公の内面的欲望を規定する。
「清三は自らの影の長く草のうえに曳くのを見ながら時々自ら顧みたり、自ら罵ったりした。立ち留って堕落した心の状態を叱しても見た。行田の家のこと、東京の友のことも考えた。そうかと思うと、懐から汗でよごれた財布を出して、半月分の月給が入っているのを確かめてにっこりした。二円もあれば沢山だということはかねてから小耳に挟んで聞いている。青陽楼という中田では一番大きな家だ、其処には綺麗な女がいるということも知っていた。足を留めさせる力も大きかったが、それよりも足を進めさせる力の方が一層強かった。心と心が戦い、情と意が争い、理想と欲望とが絡み合う間にも、体はある大きな力へと引きずられるように先へ先へと進んだ」(田山1980:155)。
 描写は主人公の目からみた川辺の情景から主人公の内省へと向い、さらに主人公の内面的な性的欲望をめぐる葛藤へといたる。この内面的欲望と葛藤はあくまでの目的地(中田遊郭)への空間的関係から規定されている。小説の描写は、目的地までの距離、空間、風景、そこに映る主人公の影、主人公の内省、内面の欲望へと進む。主人公の内面的欲望は、目的地から距離という地理的関係から導き出されている。
 描写はさらに続く。
「渡良瀬川の利根川に合するあたりは、ひろびろとしてまことに坂東太郎の名に背かぬほど大河の趣を為していた。夕日はもう全く沈んで、対岸の土手に微かにその余光が残っているばかり、先程の雲の名残とみえるちぎれ雲は縁を赤く染めてその上に覚束なく浮いていた。白帆がこころ懶(もの)うさそうに深い碧の上を滑って行く。
 透綾の羽織に白地の絣を着て、安い麦稈の帽子を冠った清三の姿は、キリギリスがないたり鈴虫が好い声を立てたり阜斯(ばった)が飛び立ったりする土手の草路を急いで歩いて行った。人通りのない夕暮れ近い空気に、広い漾々(ようよう)とした大河を前景にして、その痩削の姿は浮き出すようにみえる。土手と川との間のいつも水をかぶる平地には小豆や豆やもろこしが豊かに繁った。ふとある一種の響きが川にとどろきわたって聞こえたと思うと、前の長い長い栗橋の鉄橋を汽車が白い烟を立てて通って行くのが見えた」(田山1980:155-6)。

夕陽を受ける人影
「俄(にわか)に起る敵兵敗走の光景?。愈々(いよいよ)陷落と言ふので、今迄頑強に抵抗した 敵の歩兵は皆な一散に掩壕の中から飛出す。三面のわが兵は今ぞ時――と驀地(まっしくぐら)に突進する。混乱狼藉のさまは鼎を覆えしたようで、山上の路を遁(のが)れ去るもの、山腹を這つて走る者、旅順街道に出づる者、これが夕陽(せきよう)の明かな空気の中に手に取るやうに見える。」(「第二軍従征日記」『明治文学大系第67巻』260頁)
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# by takumi429 | 2014-06-15 18:53 | 社会環境論 | Comments(0)

『田舎教師』を読む その2

主人公の中田遊郭往還
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想像で書いた 現地調査なし・清三の日記にもそうした事実なし
 しかし口絵にもなる重要なシーン
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 麦倉河岸には涼しそうな茶店があった。 大きな栃(とち)の樹が陰をつくって、 冷めたそうな水にラムネがつけてあった。 かれはラムネに梨を二個ほど手ずから皮をむいて食って、 さて花茣蓙(はなござ)の敷いてある樹の陰の縁台を借りて仰向けに寝た。 昨夜殆ど眠られなかった疲労が出て、頭脳(あたま)がぐらぐらした。 すずしい心地の好(い)い風が川から来て、 青い空が葉の間からチラチラ見える。 それを見ながらかれはいつか寝入った。 (『田舎教師』新潮文庫174頁)

「性欲が溜まっているだろう、遊郭に行ったあとはスッキリしただろう」 「溜まる性欲」とのとらえかた

どうやって書いたのか。
 地図を見ながら書いた。
 すでに『大日本地誌』のために調査したことのある上流の風景を借りてきた。
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書き方 すでに冒頭に見られる
 歩いた経路を地図に書き、そこからどのような風景が見えるか想像する。
 経路を歩くことで、小説の内部の時間と空間が生まれる。
 目的地との関係から主人公の内面がうまれる。
 赤い光に照らされることで主人公の内面(抑えた欲望)が浮かび上がる。

地図の上に経路を描いて人を見下ろすまなざし
 『第二軍従征日記』に添付された地図 参謀本部の直属の陸地測量部の作成した地図

NHK高校講座 日本史『日露戦争』
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日露戦争特別展 http://www.jacar.go.jp/nichiro2/index.html

「一兵卒」日露戦争に従軍し脚気発心で死ぬ主人公
  「彼」=国民の誰でも代入可能 一兵卒の彼に代入されうる者=日本男子(国民)

日露戦争の勝利のわきかえるなか、地方でひっそりと死ぬ青年教師
これが悲劇になりうるのは、「日本国」全体という地図のまなざしのもとに、
この一地方の青年がとらえられているからにほかならない。

日露戦争
 機関銃と要塞が本格的に使われた大消耗の国家総力戦
 人・武器・食料などの補給(兵站)に鉄道が大々的に使用された。
ロシアはシベリア鉄道、日本は山陽鉄道(のちの山陽本線)と広島から広島南部の宇品(うじな)港を結ぶ宇品線を使って、兵隊、物資の輸送を行った。
 もともとシベリア鉄道の支線としての東清鉄道と旅順港の要塞化が引き金。
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 (ウラジオストックは不凍港とはいえ真冬には凍るし、日本海でふさがれている。日本海を逆さにしてみるとそれがよくわかる)。
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 戦争の後半までシベリア鉄道はバイカル湖を湖面が凍る時は湖上に鉄道を敷き、溶ける夏は船で、物資を運んでおり、しかも単線だったために輸送力が低かった。
 しかし、バイカル湖を迂回する路線が開通することで満州の戦地への補給能力が飛躍的に高まった。
開戦前からこのシベリア鉄道開通まえに勝利しなくてはいけないと日本側はかんがえていた。
 日本もロシアも満州・朝鮮の地図作成に戦争前から努力した。
 日本はたまたま死んだロシア人将校のもっていた地図を利用して戦争を行うことができた。(横手慎二著『日露戦争史 20世紀最初の大国間戦争』中公新書)

この鉄道について花袋はべつに小説「少女病」を書いている。つぎはそれを読むことにしよう。
近代と鉄道の問題を考えてみることにしよう。

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# by takumi429 | 2014-06-08 18:39 | 社会環境論 | Comments(0)

『田舎教師』その1

田山花袋 『田舎教師』(1909)
日露戦争の勝利に日本全国が沸き立つなか、北関東でひっそりと死んでいった小学校教師、その人生を描いた作品。

巻頭に北関東の知図が添付されている。

「巻頭に入れた地図は、足利で生まれ、熊谷、行田、弥勒、羽生、この狭い間にしか概してその足跡が到らなかった青年の一生ということを思わせたいと思って挿んだのであった。」『東京の三十年』(岩波文庫257-8頁)。
(地図を小説に添えるという手法はすでに島崎藤村が自主出版した『破戒』明治38年1905年で試みていている。藤村が近体詩人から小説家への転身をはかって発表したこの『破戒』は文壇に大きな衝撃をあたえた。花袋の『田舎教師』はこの『破戒』への対抗から書かれている。しかし地図を添える手法がじつは、日露戦争に博文館の記者として従軍した記録『第二軍従征日記』1905年で花袋が使っている。このことについてはあとでまた検討するhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/903488/218)。
本当にそうなのか。
そもそも地図というものがどんな意味を当時もっていたのか。
それを知るために、いったん、小説から離れて、当時の地理学教科書をみてみることにしよう。

日本の教科書の時代区分
 明治5年(1872年)「学制」
 明治14年(1881年)開申制度:小学校教科書について府県が一定の書式で文部省に届け出る
 明治16年(1883年)認可制度:小学校及び中学校教科書について府県が事前に文部省の認可を得なければならない
 明治19年(1886年)小学校令,中学校令,師範学校令,帝国大学令
  教科書検定制:小学校,中学校教科書は,文部大臣が検定したものに限る
 明治35年(1902年)教科書疑獄事件:教科書の採択競争の激化に伴い多くの不正が発覚 
 明治37年(1904年)国定教科書:国語,書き方,修身,歴史,地理 
 明治38年(1905年)国定教科書:算術,図画
 明治44年(1911年)国定教科書:理科
 昭和24年(1949年)教科書検定制度:小学校,中学校,高等学校において文部省検定済教科書の使用
地理教科書 記述の順番・さし絵・地図などに注目してみよう。
明治13年文部省印行『小學地誌』
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、琉球へと記述が進む。出発点に「京都市中図」がそえられれている。
 各地方は京都からのアクセスの仕方でとらえられている。地域は、領域(面)としてとらえられるのではなく、京都からの行き方(アクセスの仕方)でとらえられている。
明治34年文学者編輯へんしゅう所編纂へんさん『修正新定地誌』
「第二篇 日本地理各道誌」
 畿内から始まり、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道、北海道、臺たい湾わん、へと記述をすすめる(沖縄は南海道に含められている)。
「第一 畿内」「京都」から始まる。

明治33年普及社編輯所編集『小學地理』
「第一章 第一 東京(東京府上)」から始まるが、「第二 小笠原島(東京府下)」、「第三 利根川(千葉懸)」、「第四 水戸(茨城懸)」という風に、地点を名所案内のように取り上げていく記述の仕方で、さし絵も名所案内の趣きである。
これに対して初の国定地理教科書
明治36年文部省著作『小學地理 一』は、
附圖に色刷り「日本交通全圖ず」’日本の領土を赤くぬったた地図)をつける。
記述は、「第二 関東地方」から始まるが、まず各地方は必ず地図のなかでその領域を確定する。さらに府・懸の地図を載せて、そこでも府・懸の領域を白抜きしてい確定する。
日本の諸地域は、それまでの点と点や、京都からのアクセスの仕方で把握されるのでなく、あくまでも固有の領域(領土)をもつものとして把握される。その際、そうした国土の把握を目に見える形にしたものが地図であった。ここでは名所案内の水平のまなざしではなく、上から垂直に見下ろすまなざしがうまれている。そしてそのまなざしは東京(中央)からのまなざしであったといえよう。
 地図のまなざし:地域の領土的把握・上(中央)からの把握
田山花袋は、どのようにして地理学的な地形図(地図)に親しむようになったのか。
博文館で、『大日本地誌』の編集を手伝った。
「『大日本地誌』の編輯の手伝いを私は明治三十六年から始めた。山崎直方君、佐藤伝蔵君が主任で、私と他に若い文学士一名、理学士一名が手伝った。私は山崎君、佐藤君から地理に対する科学的研究の方法を教えられたことを感謝せずにはいられない。」(『東京の三十年』239頁)
山崎直方http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9
(やまさき なおまさ、明治3年3月10日(1870年4月10日) - 昭和4年(1929年)7月26日)日本の地理学者。日本の近代期の地理学の功労者で、しばしば「日本近代地理学の父」として称えられている。1895年、26歳の時、帝国大学理科大学(現東京大学)で岩石学を専攻し、地質学科を卒業する(同じ門下生に京都大学の地理学教室創設者の小川琢治がいる。佐藤伝蔵と同級生)。1897年、28歳の若さで第二高等学校(現東北大学)の地質学の教授に就任。文部省から1898年から1901年まで3年間ドイツ・オーストリアへ地理学研究のため留学。地理学者のJ・J・ライン[3]やペンク[4]に指導を受ける。当地から当時先端の地理学を学ぶ。帰国後、東京高等師範学校(後の東京教育大学、現筑波大学)の地理学教授に就任。1911年には東京帝国大学理科大学教授に就任。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%9B%B4%E6%96%B9#cite_ref-2
佐藤 傳藏(さとう でんぞう、明治3年4月15日(1870年5月15日) - 昭和3年(1928年)8月26日)は、日本の地球科学者。専門は地質学・鉱物学。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BC%9D%E8%94%B5
小川 琢治(おがわ たくじ、明治3年5月28日(1870年6月26日) - 昭和16年(1941年)11月15日)は、日本の地質学者、地理学者。物理学者湯川秀樹は三男。
1886年 16歳で第一高等学校に入学。
1893年 24歳で同校を卒業し、帝国大学理科大学地質学科に入学する[1]。
1894年 小川家の長女の小川小雪と結婚式を挙げる。
1896年『台湾諸島誌』東京地学協会
1897年 東京帝国大学理科大学地質学科を卒業。
1891年 紀州旅行の準備中(10月28日)に、濃尾地震に遭遇。被災地を見たのち帰省し、地学の研究を志すようになる[1]。
1908年 農商務省地質調査所退官、京都帝国大学文科大学教授、地理学講座担当。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%90%A2%E6%B2%BB
日本の地理学前史
福沢諭吉 『世界国尽』1869年(明治2年)
 七五調の世界地理案内書。アヘン戦争や各国の歴史・政治形態についてもふれている。
 さし絵がふんだんに掲載。しかし地図は巻頭のみ。とにかくとてもためになる啓蒙書。

札幌農学校出身者 アメリカのピューリタン(新教徒)精神
 志賀重昂『日本風景論』1894年(明治27年) 科学的知識と日本精神論の奇妙な合体
  「日本ライン」を提唱。
 内村鑑三『地理学考』(のちに『地人論』と改題)1894年(明治27年)
  世界の地理現象に神の摂理を見る。

東京大学 地質学科出身者 小川琢治・山崎直方
 植民地経営(支配)に役立つ学問としての地理学
 台湾1895~1945年 日本統治。
 小川琢治『臺湾諸島誌』1996年(明治29年)
 山崎直方・佐藤伝蔵『大日本地誌 第十(琉球・臺湾)』1915年(大正4年)博文館
 

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# by takumi429 | 2014-06-01 23:30 | 社会環境論 | Comments(0)

田山花袋 年譜

田山 花袋(たやま かたい、1872年1月22日(明治4年12月13日) -1930年(昭和5年)5月13日)

本名、録弥(ろくや)。群馬県(当時は栃木県)生れ。

1890年(明治23年)柳田國男を知る。

1891年(明治24年)尾崎紅葉のところに入門

1899年(明治32年)大橋乙羽の紹介で博文館に勤務し、校正を業とする。

1902年(明治35年)『重右衛門の最後』を発表

1904年(明治37年)日露戦争第二軍の写真班で従軍記者

1906年(明治39年)博文館『文章世界』編集主任

1907年(明治40年)『蒲団』を発表。


重右衛門の最期(1902)
蒲団(1907)
少女病(1907)
田舎教師(1909)
時は過ぎ行く(1916)
一兵卒の銃殺(1917)
従軍記『第二軍従征日記』(1905)
評論『露骨なる描写』(1904)
回想集『東京の三十年』(1917)


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# by takumi429 | 2014-05-26 03:28 | 社会環境論 | Comments(0)

天皇の肖像

イスラム教圏

メッカへの巡礼
 カーバ神殿を巡る巡礼者
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巡礼のメッカへの一点集中が「おなじイスラーム教徒」というイスラム教圏の一体感をもたらしている。

ペニンスラール
 本国と植民地を往復

クリオーリョ
 行政区の中だけを動き回る
 行政区が「国」の単位としてイメージされていく。

俗語ナショナリズム
 新大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。
まず最初に、地理上の発見によって、さまざまな人や言語があることが意識され、結果、ラテン語(真理語)の相対化がうまれました。その結果、言語学が活躍し、辞書編纂されるようになりました。結果、俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語が言語学者の活躍によって独立の言語として確立し、結果スペインという地域が確定されました。
(またたとえば、沖縄出身の言語学者、伊波普猷(いは ふゆう)は、「日琉同祖論」をとなえ、琉球の日本編入を正当化しました。言語学者の活動は国民国家の形成に重大な役割を果たすしたのです)。
 封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大をもたらしました。そこで使用される言葉に俗語(ドイツ語やイタリア語などなど)が採用されることで、俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命を「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。

公定ナショナリズム official nationalism

この人は誰?

(1)
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(2)
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(3)
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答え:明治天皇 睦仁(むつひと)
嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)

(1)束帯姿の明治天皇(明治5年(1872年)9月3 日、内田九一撮影)
明治天皇は20歳になるまで白粉で化粧していた。
(2)大元帥服を着た明治天皇(明治6年(1873年)10月8日、内田九一撮影)
(3)明治天皇 (明治20年(1888年)1月にイタリア人画家・キヨソネに描かせた肖像画の写真。「御真影」(天皇陛下の「お写真」)として各学校に下賜(かし)され、「奉安殿」に納められた。
明治天皇の「御真影」は、本人の写真ではなくて、肖像画の写真だった。
大元帥としての天皇をイメージさせるには現実の天皇の肖像は使えなくなっていった。
天皇の肖像は想像の姿へと変貌し配布され崇拝されることになった。

御真影:(明治・大正・昭和)天皇とその皇后の写真。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。四大節(元旦・紀元節・天長節・明治節)には講堂の正面に飾り、児童(生徒)・職員一同が遙拝し、教育勅語が校長によって読み上げられた(奉読)(Wikipedia参照)。御真影を守る(奉護)のために日直・宿直制度が導入された。

紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。(→建国記念日)
天長節:天皇誕生日
明治節:明治天皇の誕生日11月3日(→文化の日)

教育勅語
教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)は、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語。以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書となった。一般的に教育勅語(きょういくちょくご)という。1890年(明治23年)10月30日に発布され、1948年(昭和23年)6月19日に国会の各議院による決議により廃止された。(wikipedieaより)
 

奉安殿
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群馬県建築協会 編 『小学校に建つ御真影奉安殿』洪洋社1933年



公定ナショナリズム
ナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれた。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦した。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合される。
 たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けた。またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になった。日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込んだ。

NHK講座 日本史 大日本帝国憲法
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/nihonshi/archive/chapter028.html

日露戦争における 曰本の勝利
曰露戦争はその戦況が電信によって世界中に即時に伝えられた。「東洋」の曰 本が「西洋」の□シアに対してつぎつぎと勝利をおさめていくことが報道されると,オスマン帝国やエジプ卜,イランなどで日本への関心 が急速に高まり,曰本を紹介する本が刊行され,曰本をたたえる詩が発表された。そして曰本の立憲制度が注目され大曰本帝国憲法が ペルシア語やアラビア語に翻訳された。(東京書籍『世界史B』平成25年発刊,312頁)
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:33 | 社会環境論 | Comments(0)

環大西洋革命

環大西洋革命
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クレオール革命としての合衆国独立
 植民地生まれのイギリス人(クレオール)による独立運動
 なぜ合衆国のみが独立したのか、
 他の地域(カナダ・カリブ海諸島)は本国の力を当てにしていた。
 砂糖議員は不在地主となってイギリス議会を席巻して砂糖の関税を高くして自分たちの利益を守っていた。のちの合衆国のタバコは保護されていなかった。
 カナダは植民地人はフランス人・原住民を抑えるために英国本国の軍隊をあてにしていた。

フランス革命
合衆国の独立はフランス革命に飛び火(人権宣言はバージニア州憲法などを参考にした)
ナポレオンの帝政 ナポレオンのスペイン支配

ハイチ独立(1804) 黒人奴隷による独立
『NHKの高校講座世界史24アメリカの独立とフランス革命』

スペイン植民地人の不安(奴隷反乱への)から独立運動へ
 『NHK高校講座世界史25ラテンアメリカ諸国の独立』
 ペニンスラール(スペイン本国の半島生まれのスペイン人)
 クリオーリョ(植民地生まれのスペイン人)
 メスティソ(白人と先住民の混血)
 ムラート(白人とアフリカ系の混血)
 先住民
 アフリカ系自由民・奴隷

なぜラテンアメリカの独立国がスペインの行政単位を引き継いだのか。
 ペニンスラールはスペイン⇔各行政区を動いていたが、
 クリオーリョの役人は行政単位の中を動いていた。
 行政単位ごとに新聞が発行された
 クリオーリョ役人の遍歴とその地方のクレオール印刷業者は、この行政区が、想像の共    同体となるにあたって決定的な役割を演じた。

 
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:25 | 社会環境論 | Comments(0)

第3回

第3回 
俗語ナショナリズム
ヨーロッパの国民国家
 NHK高校講座世界史第24回 アメリカの独立とフランス革命
           第26回 19世紀ヨーロッパと国民国家

公定ナショナリズム
 ロシア・ドイツ・日本の上からのナショナリズム
 NHK高校講座 日本史 第25回 開国
             第26回 明治維新
             第27回 大日本帝国憲法

植民地ナショナリズム
 東南アジア諸国の独立
 NHK高校講座世界史 アフリカ史(3) 植民地から独立へ

『地図がつくったタイ』 
  タイの歴史
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:22 | 社会環境論 | Comments(0)

第2回

第2回

宗教共同体
ユダヤ教が一神教をつくった
イスラーム世界
 NHK高校講座 第9回 西アジア・中東史の新展開 ~イスラーム教の成立~

王国 周辺にいくほどぼけていく

メシア的時間 受難と救済の物語と現在との同時性
 受難物語 https://www.youtube.com/watch?v=Swrvmf-dEGc
  http://www.jizai.org/wordpress/?p=405


小説と新聞の登場による 時空間の変容

宗教改革による真理語の失墜と俗語の台頭
 ルターのドイツ語聖書 ZDF Die Deutschen Luther und die Nation

クレオール・ナショナリズム
 NHK 高校講座 第19回 大航海時代
          第25回 ラテン・アメリカ諸国の独立
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:21 | 社会環境論 | Comments(0)

第1回

第1回
自己紹介
講義の目的:本講義は、ベネディクト・アンダーソンのナショナリズム論『想像の共同体』と、その日本への応用を試みた、拙論「地図の上の主体 田山花袋作『田舎教師』を読む」を解説をすることで、諸外国と日本における近代的国民国家の成立をみていく。
と同時に、世界史と日本近現代史の基本的な知識を学び直すことをめざす。

講義の手法
NHKの高校講座、東京書籍の世界史教科書、映画などのビデオ資料を積極的に活用して講義を進めていく。また講義の内容は、ブログ『社会学しよう!』にアップしていく。

ベネディクト・アンダーソン 『想像の共同体』
「国民」とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体
偶然を宿命に転じる力
 過去にその力をもっていたのは、宗教共同体と王国
宗教共同体真実語
カトリック世界 ラテン語
イスラーム世界 アラビア語
中華世界 北京官話・漢字
ラテン語(古代ローマ帝国の言語)がなぜカトリック世界の言語になったのか。
 NHK高校講座 世界史 第3回 ローマ帝国
             第11回 ビザンツ帝国
             第12回 西ヨーロッパ世界の成立
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:20 | 社会環境論 | Comments(0)

『想像の共同体』概要

ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』

この本の冒頭でアンダーソンは次のように言います。
「わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成することと言ってもよいが、それがナショナリズム[国民主義]と共に、特殊な文化的人造物であるということである。・・・ナショナリティ、ナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に『交叉』するなかで、十八世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると、『モジュール』[規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素]となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。そしてまた、この文化的人造物が、これほど深い愛着を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。」(14-5頁)
 アンダーソンによれば、「国民」とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体です。たとえば、ナショナリズムの祭典であるオリンピックで活躍する選手を、メディアによって知った他の国民はまるで選手を自分の親戚か知り合いであるかのように語ります(「柔ちゃん」とか「真央ちゃん」とか)。
 そして、ナショナリズムは宗教的想像力が衰退した今日において、唯一、死を説明するものになっており、偶然を宿命に転じる力をもっている、といいます。たとえば、たまたま日本国に生まれ育ったために戦争で死んだ人間は、「お国のために死んだ英霊」として靖国神社に祀られるわけです。
 ところで、過去において、そうした働きをもっていた文化システムは、宗教共同体と王国でした。そこでアンダーソンは、この宗教共同体と王国を分析します。
「宗教共同体」とは、キリスト教カトリック教会に属する人びと、イスラーム教を信じ、毎日メッカに向かって礼拝し、一生のうち一度はメッカに巡礼する人びと、さらに、漢字を使用し中華思想を信奉する人びとたちをさします。そこでは「真実語」とよばれる、「真理」を語る言葉がきまっています。すなわち、カトリックではラテン語、イスラーム教ではアラビア語、漢字文化圏のおいては、中国語(北京官話)です。おのおの共同体は、この真実語によって結ばれた求心的・階序的秩序をなしています。
「王国」というのは王がいる居城から周辺にいくほど主権はあせ、境界が不明瞭となります。歴史地図では私たちは境界線のはっきりした王国を見るため、そうした袋のような輪郭のはっきりした王国をイメージしがちですが、実際には辺境にいけばいくほど、王権の力はよわく、そこがどの王国に属しているのかはあいまいでかつ流動的なものでしかありません。
 この宗教的共同体において、人びとは宗教のお話を、壁画や絵画などの視覚芸術と、説教や物語の聴覚的芸術によって、見たり聞いたりしていました。宗教的な出来事は昔のことでも未来(終末)のことでも、いま、そこに目に見え耳に聞こえる形であらわれるのです。たとえば、救世主(メシア)の登場は、その誕生が紀元元年の過去の話でもあり、その救済はその未来(終末)におけるものでありながら、見聞きする者にとって、今まさにここで、現れてあることでした。こうした過去と未来が現在において同時に出現するという形の、「メシア的時間」(即時的現在のおける過去と未来の同時性)が支配したのです。
 ところが18世紀ヨーロッパにおいて、小説と新聞が生まれることで、これとは全く異なる、「均質で空虚な時間」が生まれます。小説と新聞のもつ時間性では、登場人物、著者と読者、すべてを包括して暦の時間に沿って進んで行く、そうした単一の共同体が想定されます。まず小説の構造というのは、「均質で空虚な時間」における同時性の提示です。たとえば、男Aと女Bが夫婦で、男Aには愛人Cいて、その愛人Cには別に情夫Dいるというありふれた小説の場合、
時間Ⅰ
事件 AとBが口論する。 (この間(同時に)) CとDが情事をする。
時間Ⅱ
事件 AがCに電話する。(この間に)、Bは買い物する。(この間に)Dは玉突をする。
時間Ⅲ
事件 Dがバーで酔っ払う。(この間に)AとBは家で食事する。(この間に)Cは不吉な夢をみる。
この時間連鎖のなかで、いちども男Aと情夫Dは出会わないにもかかわらず、同じ社会のなかで共存し関連しあっています。
 また新聞は、その日に起こったさまざまなことがら(選挙、交通事故、催し物などなど)を一挙に紙面として提示します。結果、その紙面にあることが、ひとつの社会で同時に起きている事がらとして読者は意識するようになります。
こうして「十八世紀ヨーロッパにはじめて開花した二つに想像の様式、小説と新聞・・・これらの様式こそ国民という想像の共同体の性質を「表示」する技術的手段を提示した・・・」[44頁] のです。
 古来、三つの基本的文化概念が支配していました。その三つの基本的文化概念とは、
1)特定の手写本(聖典)語だけが真理への特権的手段を提供する
2)社会が高き中央のもとに自然に組織されている[という空間概念]
3)宇宙論と歴史との区別不能による、世界と人との起源は本質的に同一であるとの時間概念
 出版(資本主義)の発達により、古来の三つの基本的文化概念の支配力の低下します。そして、水平・世俗的で時間・横断的なタイプの共同体が想像される可能性がうまれました。

 ではそうした共同体のなかで、なぜ「国民」だけがかくもポピュラーとなったのでしょうか。

 国民意識の起源
 かつてヨーロッパでは共通語の働きをしていたのは、ラテン語でした。しかしそれはわずかな僧侶たちの秘儀と化してしまい一般大衆の共通のものとはなりませんでした。
 そこへ宗教改革が起こり、ルッター訳聖書などのベストセラー出現します。ラテン語ではない、大衆の言葉(俗語)による書籍が出版され流通します。たとえば、ルターはドイツの大衆が話す言葉からひとつの言葉を編み出してそれでラテン語の聖書を翻訳しました。その翻訳語が流通して「ドイツ語」となったのです。またイタリアではダンテがトスカーナ地方、とくにフィレンチェで使われていた言葉で『神曲』を書き、それがイタリア全土で読まれることで、この一地方の方言は「イタリア語」となりました。
 またそれぞれの宮廷では行政のためにラテン語ではない俗語を使用しており、それが国家が発展すると行政語としての地位をえました。どの言葉が行政語となるのかはまったくの偶然でした、ひとたびある言葉が行政語となるとそれは確固たる地位を占めることになりました。
 出版資本主義によって流通することになった特定の俗語(出版語)の流通は、その言葉によって「国民」というものが想像される基盤となりました。たとえばルターの翻訳と著作の流通は、「ドイツ語」をはなす「ドイツ国民」というものを想像させることになりました。ではこの共同体を想像させる基盤のうえにどのようにナショナリズムは展開していったのでしょうか。意外なことにその端初は新大陸にあったのです。

 ナショナリズムの変遷
ナショナリズムはまず最初、「クレオール・ナショナリズム」、として生まれました。クレオール(クリオーリョ)とは、新大陸生まれのスペイン人のことです。彼らは「本国人(イベリア半島人)」(ペニンスラール)とは常に差別されており、その差別からの撤回を求める運動からやがて独立を志すようになりました。その結果、18世紀後半から19世紀初頭にかけて南アメリカ諸国に新生共和国がいくつも独立することになります。ところで、これらの国はじつはかっての行政上の単位のうえに作られました。それはなぜなのでしょうか。
 それは人びとの移動(巡礼)がその想像力に影響するからです。
 たとえば、ムスリム(イスラム教徒)のメッカへの一生うち一度は巡礼します。この移動がムスリムとしての同一性とまとまりを作っています。
(たとえば、関東では電車も人の流れもすべて東京と住まいとの間の一点集中型の往復になっています。ですから関東ではみんなが「東京人」であるかのように振る舞います。しかし、関西では三都間の交通はあまり便利ではなく人の動きも関東に比べると少ないですし、一点集中ではなくて、三股四股の往復運動です。結果、京都人、神戸人、大阪人などのまとまりとプライドが生まれますし、総称する時も「大阪人」ではなく「関西人」となります)。
 スペインの植民地支配において、行政と教会の地位はほとんど半島からきた「本国人(ペニンスラール)」が閉めており、現地で生まれた支配者クレオール(クリオーリョ)は、行政区の中を移動するだけで、もっとも出世しても行政区の首都にたどりつくだけで、本国スペインに行くことはありませんでした。しかし、このクレオールの動きこそが、彼らに行政区を想像の共同体として想像させる基礎となったのです。ぎゃくに、本国との行き帰りをしている人間は、けっして新大陸「アメリカ人」にはなれっこないのだ、我々クレオールこそが「アメリカ人」なのだという、裏返しの「誇り高き」アイデンティティをもたらしたのです。そしてその誇りが独立戦争を戦いぬき、そのために死をも厭わぬ行動の起動力となったのです。
 また新聞はその行政区である地方クレオール印刷業者 によって担われ、紙面は植民地行政の報道するため、この植民地の行政区が1つの単位として人びとに受け止められました。
 こうしたクレオール・ナショナリズムの現象は、スペインの植民地だけでなく、ポルトガルの植民地(ブラジル)でも、そしてイギリスの植民地(アメリカ)でもまったく同様でした。
 イギリスの植民地アメリカの一新聞業者だったフランクリンが独立運動の立役者でもあったのは偶然ではないのです。かれはクレオールとして劣位におかれた植民人であり、植民地アメリカを1つの単位として報道することでそれを想像の共同体として人びとに提示していた新聞人だったのですから。
 こうして、植民地行政区のなかを遍歴するクレオール役人と、その地方のクレオール印刷業者は、この行政区が、想像の共同体となるにあたって決定的な役割を演じたのです。

 俗語ナショナリズム
 新大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。
まず最初に、地理上の発見によって、さまざまな人や言語があることが意識され、結果、ラテン語(真理語)の相対化がうまれました。その結果、言語学が活躍し、辞書編纂されるようになりました。結果、俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語が言語学者の活躍によって独立の言語として確立し、結果スペインという地域が確定されました。
(またたとえば、沖縄出身の言語学者、伊波普猷(いは ふゆう)は、「日琉同祖論」をとなえ、琉球の日本編入を正当化しました。言語学者の活動は国民国家の形成に重大な役割を果たすしたのです)。
 封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大をもたらしました。そこで使用される言葉に俗語(ドイツ語やイタリア語などなど)が採用されることで、俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命を「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。

 公定ナショナリズム
 こうしたナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれました。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に 追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦したのです。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合されます。
 たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けました。またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になりました。日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込みました。

 植民地ナショナリズム
 第1次世界大戦後の植民地において、「若き」現地エリートによるナショナリズムが生まれました。たとえば、ベトナム、インドネシア、アフリカの諸国。彼ら現地エリートは植民国をおこなった教育と官僚制度のなかで教育をうけエリート官僚となり、そうして独立の担い手となったのです。
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# by takumi429 | 2014-05-22 09:19 | 社会環境論 | Comments(0)

第二外国語学習について

第二外国語を前向きに勉強するために
逃げ腰で単位さえ取れたらいいと考えていると、
なかなか単位さえおぼつかないものです。
ここはむしろ攻めの気持ちで習うことにしましょう!

具体的に、たとえば、
フランスに旅行して美味しいものを食べたい、とか
(自転車でめぐるパリの旅とか)
ドイツで美術館や建築物を見たい、とか、
(病院と団地めぐりが穴場でねらいめでは)、
日僑、華僑に会いに行く、東南アジアめぐり、とか
目標をもってはいかがでしょうか。

NHKでは英語だけでなく諸外国語の講座があり、
しかもネットで前週の放送がストリーミングで聞けます。
https://cgi2.nhk.or.jp/gogaku/index.cgi
またcapture streamというソフト(無料)を使えば、
1週間分の放送が一気にダウンロードできます。
http://sourceforge.jp/projects/capturestream/
試してみてはいかがでしょうか。

第二外国語をがんばると
英語で受けた傷(?)が癒えることがあります。
(私だけかな)。
積極的に勉強してみてください。

それからドイツやフランスなどでは
夏休みに空いた教室と寮をつかって夏期講座が開催されています。
たとえばドイツの夏期講座はネットですべて申し込めます。
https://www.daad.de/deutschland/studienangebote/sommerkurse/de/?skid=369&skenter=81&skterm=&skchapter=0&sktown=Kassel&skstart%25255b%25255d=2012-08&skstart%25255b%25255d=2012-09&sksubject=0&skduration=0&stipendiate=&sk_akademie=&seite=1&ipp=15
十万円前後(学費・寮費)で好きな街に4週間滞在できます。
食事は学食で4ユーロぐらいで定食がたべられます。

(なんて言っているけど、
私が大学時代は第二外国語のドイツ語
惨憺たるものでした。
身につけたのは大学卒業後、
ドイツ語でドイツ語で教える学校でした。
反省をこめての助言でした。)
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# by takumi429 | 2014-04-29 01:07 | 社会環境論 | Comments(0)

補.世界システムの形成としての近代

11.世界システムの形成としての近代

http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/resume030.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter030.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/resume001.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter001.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/resume027.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter027.html

 一杯の紅茶から
 イギリスと言えば、食事が美味しくないので有名です。あえて反語的に『イギリスはおいしい』(林望)という題をつけた本がありますが、あれはわざとそういう題をつけたのであって、そうい題をつけるのが意味があるほど、イギリスはまずい、というのが常識なわけで。
 でもなぜか、紅茶とそれと一緒にでてくる食べ物はおいしくて、さらに茶器なども立派です。ハイティーとかアフタヌーン・ティーと呼ばれる、ポットの紅茶と一緒に三段重ねで出てくる、スコーンやサンドイッチやケーキのセットは、見ているだけで心躍るものがあります。きれいな陶磁器のカップに、紅茶を注ぎ、お砂糖をいれ、食べ物をつまみながら、飲むのは、ほんとうに至福の時間と言ってもいいかもしれません。
  紅茶は最初は中国から、のちにはインドから、はるばる海を渡ってイギリスに来たものですし、砂糖は現在のアメリカ合衆国の南のカリブ海に浮かぶ島から来たものですし、陶磁器は英語でチャイナというぐらいですから、元来は中国から渡来したものです。こうして、一杯の紅茶に、西と東の物産が、イギリスで出会っているわけです。
 イギリスで紅茶を飲むのが一般になったのは19世紀からだそうです。では19世紀のイギリスでなぜ、こんな東西の産物の出会いである、砂糖入り紅茶が飲めたのでしょうか。
 川北稔さんの名著『砂糖の世界史』が解き明かしてくれるのはこのことです。答えは、簡単にいえば、19世紀、西と東の世界はイギリスを中心とした1つの経済世界を形成していたから、です。
 15世紀末ヨーロッパ人が「発見」した新大陸では、原住民は虐殺と伝染病で壊滅させられました。そこへアフリカから連れてこられた黒人奴隷がプランテーションで働かされて、砂糖・タバコ・綿花などの、の産物がヨーロッパにもたらされました。どこでも求められる「世界商品」として砂糖やカカオやタバコなどをうることで、新大陸のプランテーションの経営者たちは巨万の富を本国にもたらしました。そして流行により「世界商品」となった綿製品を作るために、新大陸から来る綿花を綿製品にする綿工業がイギリスで発展し、こうして産業革命が起きたのです。
 こうして新大陸の「発見」の後、16世紀から、世界が1つの経済的世界を形成していったのだ、と提唱するのが、「近代世界システム論」(theory of the modern world-system)です。川北稔さんの本はこの理論に基いているのです。
 この理論はアメリカの社会学者ウォラーステイン Immanuel Wallerstein らが1970年代半から提唱しています。この説では、近代世界が経済的には単一の,グローバルな分業体制に覆われており,諸国の経済は,この世界システムの構成要素としてしか機能しえない、とされます。
 この説は画期的な目の覚めるような理論だったのですが、どこが画期的だたのか、これまた川北稔さんの、ウォーラーステインの『近代世界システムⅣ』の訳者解説に基いて、みてみることにしましょう。

 経済発展はゴールにむかう駆けっこレース?
 経済発展についての理論では、それまで「一国発展段階論」が支配的でした。これは、単一の発展段階論を前提とする一国史観でした。つまり経済を一つ一つの国を単位にして見ていたのです。すべての国の経済は、大きなタイム・ラグを含みつつ,いずれは封建社会から近代資本主義社会へ移行していくというものです。たとえて言うなら、国々はそれぞれ距離走のランナーで、早いランナーはすでに近代資本主義のゴールに到達している、遅いランナーの頑張って走れば、いずれはこのゴールにたどり着く、というわけです。
 「プロテスタンティズムのテーゼ」
 ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』もこの理論で解釈されがちでした。ですから、西洋で資本主義が成立した。日本も資本主義化した。だから、日本にもプロテスタンティズムとおんなじような倫理があったにちがいない、あるいは、また遅れたアジアの諸国も西洋のようなプロテスタンティズムの倫理に似た倫理を持てば資本主義化できるのだ、というのです。まるでプロテスタンティズムを資本主義になるための薬みたいにとらえる考えです。
 ヴェーバー自身は、こうした資本主義化のドリンク剤みたいなプロテスタンティズムのとらえ方をしていたわけではありません。『ヒンズー教と仏教』で資本主義化に成功した日本について言及している箇所があるのですが、そこでは、諸外国が資本主義化していてそれに適応せざるをえなかっただけだと、みょうに冷たいのです。「適合」ではなく、これまでの世界を否定して自分の理念で支配していく(世界支配)というのがヴェーバーがもっとも重視した宗教理念のあり方で、彼がプロテスタンティズムにみたのはそうした精神のありようでした。後からみんなに合わせて資本主義化するのに、そうした誇り高い精神など必要ではない、そうヴェーバーは考えていたのです。資本主義化にはプロテスタンティズムが必要、というのは「プロテスタンティズムのテーゼ」といって公式のようにいわれることがありますが、じつはそれはヴェーバーの本意とはまったく別物です。

 「従属理論」
 さて、「一国発展段階論」は駆けっこレースのような経済発展のとらえ方でしたが、はたしてこれは真相をついているでしょうか。むしろ、経済というのは激しい格闘技のようなもので、相手の首根っこをおさえつけてのし上がった者が勝者となって、おいしいとこ取りしている、というイメージの方が、より的をえているのではないでしょうか。
 第三世界の歴史の研究で、 A. G. フランクや S. アミンらは「従属」派という人びとが言い出したのはこうしたイメージによる経済発展論です。つまり、資本主義というはもともと、独占的なものであり、まわりの地域から経済的な余剰を奪い取ることで、中枢の国の経済が発展し、その結果、まわりの周辺国が、「低開発」の状態にさせられたのだ、というのです。
 たとえば、イギリスの資本主義化は、新大陸での奴隷労働による生産物を安く輸入することができたからであって、その結果として、新大陸はプランテーションの農業国になってしまいました。
 資本主義の国々が、低開発の国々に、「がんばってここまでおいでよ」と言うが、「俺たちの国や地域が『低開発』になったのはおまえのせいだろう!」と言い返したわけです。
 さて、この理論では、資本主義と「低開発」とセットになって、相互に作用しあっています。たとえば、産業革命の時のイギリスの資本主義は、新大陸のプランテーションの綿花栽培、打倒目標であったインドの綿工業、近隣諸国からの農産物の輸入、などなどいう世界的な経済の絡み合いのなかで生まれてきたものです。
 こうしたさまざまな要素が相互に働きあって、一種の化学反応(ケミストリー)を起こし、ただあつめた以上のなにものかになる(これを「創発特性」をもつといいます)時、それは「システム」とよばれます。新大陸「発見」以降、ヨーロッパを中心としてアフリカ・アメリカを巻き込んだ経済のシステムがうまれ、それはその後、アジアも巻き込んでいったのです。
 こうした世界規模の経済のまとまりをフランスの歴史家 F.ブローデルは「経済世界」とよびました。ウォーラーステインはこの見方を踏襲して、16世紀以降生まれた世界規模の経済を「近代世界システム」と呼んだのです。

 近代世界システム
 ウォーラーステインによれば、大航海時代(15-17世紀、西欧人が新航路・新大陸を発見した時代)以後の世界は、ひとつの世界システムを形成しました。それは銀などの貨幣素材、砂糖、茶、ゴム、石油などの換金できる作物や製品などの大規模な分業システムとして成立しました。
 機能分化
 このシステムの内部の機能分化(はたらきのちがい)がうまれました。
〈中核〉地域は、自由な賃金労働を主体とする、地域です。それに対して、〈周辺〉は、これまでの歴史で何らかの〈強制〉労働が中心となってきました。さらに、中核のまわりには、〈半周辺〉その中間的な地域があります。
 近代世界システムは、新大陸の発見された後の16世紀に成立しました。この時の「中核」は、西欧です。「周辺」には、東欧やラテンアメリカがあたります。東欧ではいったん消えていた農奴制(農民を土地にしばりつけてはたらかせる制度)が復活します。これを「再版農奴制」といいます。ラテン・アメリカでは、人と土地を一括して委託するエンコミエンダ制度や黒人などの連れてきて家畜のようにはたらかせる奴隷制がうまれました。「半周辺」にあたる南欧では、地主と小作農民とが収穫物を半々に分け合う「折半小作制度」がうまれました。
 中核―周辺関係
〈中核〉は不等価交換などを通じてたえず〈周辺〉の経済的余剰を搾取します。これが、近代資本主義世界の根幹をなす構造で、つねに再生産され,解消されることはないんです。また個々の地域や国家がこのシステムの中での位置を変えることはあっても,すべての国が〈中核〉(つまり〈先進国〉)になることはありえないのです。
 世界システムは,つねに従属地域,つまり〈周辺〉を必要とするのです。

 ヘゲモニー国家
 中核諸国の中でも,時として際立って経済力を強めた結果,システム全体のヘゲモニー(主導権)を握る国を「ヘゲモニー国家」と呼びます。17世紀のオランダ、19世紀のイギリス、20世紀のアメリカ合衆国、がそれにあたります。

 強制的労働の正当化の論理としての「人種」・「民族」
〈周辺〉では、生産に従事する低廉な労働力の確保のための経済外的な強制
 が行使されます。それを正当化するための〈人種〉や〈民族〉の人為的に捏造されました。
 たとえば、アフリカ人の奴隷制や、中国人などのクーリー(苦役人)制度、アパルトヘイト(南アフリカの有色人種差別政策)などにこうした、「人種」による差別の正当化がみられました。
 同時に、世界システムの〈中核〉である西欧では、民族による〈国民国家〉の理念が標榜されました。
 
 対抗の論理としての「人種」・「民族」
 本来は擬制的につくられた〈周辺〉の〈民族〉や〈国民〉が,〈周辺〉の〈中核〉に対する対抗手段として積極的な意味をもちはじめた。「黒人人種」の名の下による連帯や独立や「アメリカ人」の名の下による新大陸ので独立などがその例です。
 
 世界システムの転換期としての現代
 ウォーラーステインによれば、現代世界はアメリカのヘゲモニーの衰退過程にあります。つぎのヘゲモニーはどこが担うのか、まだ見えていない状況です。


http://democracynow.jp/video/tag-ショックドクトリン
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# by takumi429 | 2013-12-08 08:11 | 社会学史 | Comments(1)