『白い蛇』 (グリム童話にもとづくミニフィルム)

『白い蛇』 
http://youtu.be/aW0oqfmBH_A
昨年、カッセルの夏期講座の映画ワークショップで作成したミニフィルム。
ようやく担任の金先生から入手できた。
グリム童話の「白い蛇」にもとづくミニ映画をみんなでそれぞれ作ったのだが、これは私が作ったもの。
白い蛇が権力の秘密であり、それを食べることで動物の声を聞き取れるということで情報を収集できる能力をももつ、それを得た主人公が権力を握る、という解釈で作った。
絵コンテ、小道具、ミザンセーヌまですべて私が作ったものだが、いまいちわかりづらいか。
あと音楽があるとやはり見ていてしっくりくるだろうなと思う。
もちろん、音楽があるとごまかせてしまうので、このワークショップではあえて音楽を付けないように指導されたのだけど。
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# by takumi429 | 2013-11-23 00:55 | 映画論 | Comments(0)

7.欲望の喚起装置としての近代---デュルケームとゾラ---

7.欲望の喚起装置としての近代---デュルケームとゾラ---

今回は、まず、19世紀末から20世紀初頭に活躍したフランスの社会学者エミール・デュルケーム(Émile Durkheim 1858 -1917)を取り上げます。社会学者の著作を理解するには、その社会学者が生まれ活躍した時代がどんな時代であったかを知ることはとても重要です。とりわけデュルケームを理解するには、彼が生まれた、フランスの「第二帝政」のという時代と、彼が大学人として活躍した「第三共和政」という時代について知ることがとても大切だと思われます。そこですこしめんどうですが、フランスの政治体制の変遷を表にして見ておくことにしましょう。

絶対王政1589-1789
ブルボン王朝による絶対王政 ルイ14世 絶頂期
フランス革命1789-921789年7月14日バスティーユ牢獄襲撃
1792年ルイ16世処刑。

第一共和政1792-98ロ
ベスピエールの恐怖政治
1794年テルミドールのクーデター、ロベスピエールが失脚
1799年、ブリュメールのクーデター、ナポレオン・ボナパルト、執政政府樹立。

第一帝政1804-15
1804年、ナポレオン1世が皇帝に即位。
ナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ1814年退位。
1814-5年ウィーン会議1814。ルイ18世王位につく。
1815年、ナポレオン、エルバ島から脱出、パリに戻り復位。ワーテルローの戦いで完敗し、退位(百日天下)。

王政復古
七月王政1816-481815年ルイ18世、復位。
1830年オルレアン家ルイ・フィリップ王位につく。

第二共和政1848-52
1848年二月革命。
1848年12月ルイ=ナポレオン大統領に選挙で選ばれる。
1851年ルイ=ナポレオン、クーデター

第二帝政1852-701852
ルイ=ナポレオン、皇帝に即位、ナポレオン3世となる。
1854-70年オスマンによるパリ大改造。
1870年普仏戦争。ナポレオン3世捕虜となる。

第三共和政1871-1940
1871年パリ・コミューン
1894年ドレイファス事件
1898年、ゾラ「私は弾劾する」発表。
1940年ドイツ、フランス侵攻。フランスは占領地域とヴィシー政権地域に二分される。

第四共和政1946-59
1954-62年アルジェリア戦争

第五共和政1959-現在
1959年ド・ゴール大統領となる。
 
 くりかえしになりますが、デュルケームが学者として活躍したのは、第三共和政の時代です。その前の、ナポレオン三世の支配した第二帝政期、この時代はフランスの産業は大いに発展し、社会が爛熟した時代です。今回の講義のポイントとなるのは、このナポレオン三世の支配した第二帝政期です。
 
 さて、まず、今日の社会学のスタイルを確立したと思われるデュルケームの名著『自殺論』(宮島喬 訳 中公文庫)を見てみることにしましょう。

アノミー概念の誕生
 自殺は、個人的な理由(彼女にふられた、リストラされた、病気になったなどなど)により、「死にたい」という個人心理の結果、生じる、と私たちは思いがちです。ところが、デュルケームは、その著『自殺論』(1897)において、各国の統計を使って、衝撃的な事実を私たちに突きつけます。
  デュルケームがあげている人口100万人あたりのヨーロッパ諸国の自殺率は以下のようです(『自殺論』邦訳31頁)。(ドイツは1870年まで統一していなかったので、バイエルン、プロイセン、ザクセンの各国があげられています)。

 ヨーロッパ諸国の自殺率(人口100万あたり)
   1866-701871-751874-78     順 位
    の期問    の期問の期問第一の 期問第二の 期間第三の 期問
イタリア   30     35     38       1       1    1
ベルギー  66     69     78       2       3        4
イギリス    67   66      69      3 2 2
ノルウェ—    76   73   71      4 4 3
オーストリァ   78   94   130         5 7 7
スウェ一デン  85  81 91       6 5 5
バイエルン   90   91   100        7 6 6
フランス     135   150   160     8 9 9
プロイセン    142   134   152     9 8 8
デンマーク    277   258   255     10 10 10
ザクセン     293     267 334        11 11 11
 

 ちなみに、最近の主要国の自殺率の推移は次のようです。
(http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2774.html 2013年11月10日)


 この統計から、デュルケームは、自殺率(ふつうは人口10万人あたりの自殺者数で示す)は、国ごとにほぼ一定であり安定している、といいます。たしかに、デュルケームのあげた表によれば、自殺率はほとんど変わらないし、国ごとにその順位もほぼ同じです。また最近の統計をみても、大きく変化している国もあるものの、自殺率の推移自体は連続的ですし、イタリア、英国、米国はほとんど変わっていません。また、ドイツ、スウェーデン、カナダも安定してきています(しかも国によって自殺率はものすごく違っています)。
 しかし自殺率を安定させるために、個々人が「死のう」とする、とは考えられません。ですからこの安定した自殺率、という「社会的事実」は、自殺する人間の個人心理からは説明できません。
そこでデュルケームは、国ごとの「自殺率の一定比率」という社会的事実を説明するには、社会的な原因からでなくては説明できないとしました。
 彼が自殺の社会的原因だとしたのは次の4つです。
(デュルケームは当初の構想を改変しているので、『自殺論』の記述からはこの4つが見えづらくなっています。ここはベルナールらによる修正に依拠して4つの社会的原因をあげます)。(『デュルケムと女性、あるいは未完の『自殺論』: アノミー概念の形成と転変 』 フィリップ・ベナール著 杉山光信・三浦耕吉郎訳 新曜社1988.)

Ⅰ 自己本位的自殺:社会の統合や連帯が弱まり、個人が集団から切り離されて孤立する結果として生じる自殺
例証としては、プロテスタントとカトリックを比べると、(統合の度合いが低いと思われる)プロテスタントが自殺率が高く、(統合の度合いが高いと思われる)カトリックが低い。また、未婚者と寡婦・寡夫(やもめ)、と、結婚している者を比べると、孤立している未婚者と寡婦・寡夫の方が、結婚している者より自殺率が高い。また平時と戦時を比べると、(社会的な連帯が弱まっていると思われる)平時の方が自殺率が高い。つまり統合・連帯が弱い者の方が自殺率が高いというわけです。(こういう説明の仕方を「共変法」といいます)。

Ⅱ 集団本位的自殺:社会が強い統合度と権威をもっていて、個人に死を強要したり、奨励したりすることによって生じる自殺
例としては、宗教による自殺や軍隊における自殺率の高さがあげられます(日本軍の集団自決などもこの例に入るでしょう)。

Ⅲ アノミー的自殺:社会の規範が弛緩したり、崩壊したりして、個人の欲望への適切なコントロールが働かなくなる結果、際限のない欲望に駆り立てられた個人が、その結果、幻滅しむなしくなっておこす自殺。
 ここでデュルケームは、「アノミー」という概念を提示しました。アノミーとは、欲望の無規制な状態、欲望が螺旋状にどんどんと拡大していくありさまをいいます。(ちなみに、後にアメリカの社会学者マートン(Robert King Merton,1910-2003)は、目的と手段の枠組みをつかって、このアノミー概念を、適切な手段をもたない目的、と定義しました。いうまでもなく、これはデュルケームの本来のアノミー概念からははずれています)。デュルケームは、例として経済アノミーというものをあげています。いわばバブル崩壊による自殺です。

Ⅳ 宿命的自殺:欲望に対する抑圧的規制が強すぎるため、閉塞感がつのって生じる自殺。
ベルナール(1988)が挙げている例は、未婚・やもめの男性は結婚している男性よりも自殺率が高いのに対して、未婚女性あるいは寡婦は結婚している女性はよりも自殺率が低い、という例です。つまり、結婚は、男性によっては適度な拘束ですが、女性にとっては過度な拘束だというのです。
Ⅰ自己本位的自殺とⅡ集団本位的自殺を規定する社会的変数は「統合」(まとまり)であり、Ⅲアノミー的自殺とⅣ宿命的自殺を規定する社会的変数は「拘束」(しばり)である、とデュルケームはみなしています。
つまり、統合が弱いとⅠ自己本位的自殺が増え、統合が強いとⅡ集団本位的自殺が増えます。結果、統合が弱すぎても強すぎても自殺率は高くなります。
 また、拘束が弱いとⅢアノミー的自殺が増え、拘束が強いとⅣ宿命的自殺が増えるのです。結果、拘束が弱すぎても強すぎても自殺率は高くなります。
 つまり適度な統合と拘束の時には、自殺は少ないというわけです(グラフ参照)。
 

 
 デュルケームはなかなかクールな社会観察者で、一定程度の逸脱が社会にあるのは、「正常」なことだと見なしています。だから、自殺率も一定しているなら、それはそれなりに「正常」なことだと見なします。しかし自殺率が安定しないで以上に増加しているなら、それは「異常」なことなのです。
 デュルケームは、現代において自殺率が増加しているのは、まさに異常なことであり、その解決策として、統合の中間項として職業集団が活発になる必要があるとしました。
 さて、デュルケームのみるところ、19世紀後半のフランスは、統合(まとまり)と拘束(しばり)がゆるんだ社会でした。かれは、社会の統合と拘束をもたらすのは、道徳と宗教だとしました。また『道徳教育論』では道徳のもつ統合性と拘束性を強調し、それを子どもに注入するのが、教育の欠くべからざる働きだとしました。
 さらにデュルケームは『宗教生活の原初形態』で、過去において道徳を規定していた宗教の原初的形態を社会学的に探ろうとしました。ドイツの哲学者カントは人間が物事を認識する図式は人間の中にあるとしました。またその道徳原理も人間の内なる精神の中に神から与えられてあると考えました。それに対して、デュルケームはそうした認識図式も道徳原理も人間のうちにあるのではなくて、むしろ社会の方にあるとしました。いわば「逆立ちしたカント主義」をとっています。
  デュルケームは緩んだ社会のまとまりとしばりを宗教と道徳で締めなおそうとしたわけです。すなわち、「デュルケームは第三共和政の法王たらんとした」(折原浩)のです。

 ではデュルケームがなんとかしなくてはと思った、まとまりとしばりが緩んだ社会とは何だったのでしょうか。それは第三共和政の前、ナポレオン三世が支配した第二帝政(1852-70)の時代にほかなりません。ナポレオンの甥によるクーデター成功の後うまれた第二帝政期は、オフェンバックのオペレッタに沸き立たつどんちゃん騒ぎの、まさに際限ない欲望の時代でした。
 アノミーの概念によって、際限のない欲望の拡大という事態をしてきしながら、その内実についてデュルケームがあれこれ言わず、すぐにそれを抑えこむ道徳と宗教について研究を向けたのは、そうした欲望の無限増大が、自明のものとして第三共和政の前の時代、第二帝政期にあったからです。

 デュルケームの欲望論
 際限なく増大していく欲望。この欲望についてデュルケームが述べているのは、『社会主義およびサン-シモン』(森博訳恒星社厚生閣)という講義でです。
サン-シモンというのは、「空想社会主義者」として(マルクスの僚友)エンゲルスが区分した思想家です。彼は、「産業者」の活動によって社会が豊かに改善されていくべきだとしました。彼の言う「産業者」とは、資本や土地を所有している「ブルジョワ」ではなくて、直接、物づくりに携わっている技術者・労働者であり、また物を人々のもとに届ける流通に携わっている人々です。封建的な社会が去って、今やこの産業者が権力をもって、技術革新によって社会をより豊かなものにしていくべきだ、というのが彼の考えでした(172頁)(生産だけでなく流通にも技術革新はあるのは、もちろんです。銀行や鉄道の整備や、最近なら、宅急便のシステムなどをみてもわかることです)。
 しかし、デュルケームは言います。社会が豊かになると人々は満ち足りておとなしくなりはしない。動物には本能があって、欲望の歯止めがかかっている。しかるに人間にはそうした歯止めがない。豊かになり、欲望が満たされると、人間は「もっと、もっと」と求めるようになるだろう。そうして、限りない欲望の増大によって、人々は苦しみ、また闘うようになるだとう。それを抑えるためには、「道徳心」が必要となるのだ、と(231-3頁)
 ホッブスは、こうした人間の争いを、「狼が狼に対するように」と言って、動物的な争いであるかのようにとらえていました。しかし、デュルケームは、こうした闘争が、本能の抑えを失った人間固有の欲望の形であることを、はっきりと見すえています(このあたり、デュルケームはちょっと頭の出来がちがいます)。
 デュルケームは、晩年、サン-シモンもこうした問題に気づき、それゆえ、「新キリスト教」というものを提唱して、歯止めのなくなった欲望に駆られた人々の混乱を納めようとしたのだ、といいます。しかし、サン-シモンはあくまでも、産業者の活動によって豊かになるまとまりのある社会を夢見ていて、それをそのまま、「新キリスト教」の原理としていたために、豊かさがもたらす欲望の無限地獄に対して有効な対策とはならなかったのだ、欲望を抑えこむには欲望の拡大をもたらした産業者の原理とは別の道徳原理を持ってこなくてはいけない、デュルケームはそう批判するのです(267頁)。
 サン-シモンの死後、その思想の賛同者たちは、一種の教団を作り上げます。しかし、この教団の原理は「産めよ増やせ」なので、それを実践すべく、一種の乱婚制が提唱・実践されたため、多くの信者が離れていき、教団は瓦解しました。しかし、サン-シモンの考えにしたがって、生産と流通の革新によって社会を豊かな(産業)社会へと変えていこうとする人々はその後も続いていきました。彼らは、具体的には、株式会社、銀行、鉄道によって、金を集め、流通させ、物を流通させることで豊かな社会をつくりあげようとしました。
 このサン-シモン主義者の政策を積極的に支援し推し進めたのが、自らもサン-シモンの思想に深く共感していたナポレオン三世であり、サン-シモンの思想によって産業社会へと劇的にフランスが変貌したのが、第二帝政期だったのです(参照 鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会【サン-シモン鉄の夢】』(河出書房新社1992年)・『怪帝ナポレオン三世』(講談社2004年)・『渋沢栄一』(文藝春秋社2013年))。

 ゾラによる「第二帝政期の人間喜劇」
 このフランス第二帝政期に、新しい小説の可能性を感じ、この時代と社会をまるごと小説によって描こうとした作家がいました。エミール・ゾラ(Émile François Zola,1840-1902)が、そのひとです。
 ゾラは「第二帝政期の人間喜劇」を『ルーゴン・マッカール叢書』という全20巻の小説群で描きました。ゾラがそこで取り上げられたのは、地上げ、中央市場、アルコール中毒、百貨店、高級娼婦、鉄道、炭鉱、株式市場などなど、まさに人々の欲望の喚起する装置たちでした。これらまさに近代の「欲望喚起装置」(鹿島茂)を、実地調査にもとづいてゾラは小説にえがいたのです。
 ゾラはイタリア出身のナポレオン軍の工兵あがりの技術者を父に持ち、幼くして父をなくした彼は名門リセを卒後して、大学受験のときに急に理工系のグランド・ゼコールを受けて失敗してしまいます。しかし、技術者のむすこだったというプライドは絶えず持っていたようです。だから、バルザックがかならず小説を舞台装置から描いたように、小説の中心に社会的な装置(mecanisme)をおいてそのメカニズムを描いてみせました。
 ゾラの『ルーゴン・マッカール叢書』の巻数と題名、あららまし、そしてそこで描かれた装置を以下列挙してみましょう。

1『ルーゴン家の運命』ルーゴンとマッカールの家系のはじまり。
ナポレオン三世のクーデターによるプッサンの動乱。
少年シュヴェールと少女ミエットの愛し方さえ知らない幼い二人の悲劇。少女は流れ弾で死に、少年は憲兵に墓場でこめかみを打たれて死ぬ。
装置:プッサンという街。墓場(死者を飲み込む場)。

2『獲物の分け前』オスマン男爵のパリ大改造の下、地上げによって巨万の富を稼ぐアリスティッド・サッカール。若き後妻ルネは夫の連れ子マキシムと温室で不倫にふける。アリスディッドはルネから金を巻き上げて破産を免れ、ルネは若くして死ぬ。
装置:温室(人工楽園)。パリ(人工都市)

3『パリの胃袋』流刑地から逃げ帰ったフロランはパリの中央市場で働くが、そこの人々の讒言によってふたたび島が流しとなる。
装置:パリのレ・アールの中央市場

4『プッサンの征服』フォージャ神父はマルト・ルーゴンの家に住みこみ、いつしかその家ばかりかプッサン市をも支配するにいたる。しかし狂人となったマルトの夫の放火によって家もろとも焼け落ちる。
装置:王党派と共和派の両方がみおろせるマントの家。

6『ムーレ神父のあやまち』マント・ルーゴンの息子で司祭になったムーレはパラデゥ館の秘密の庭に住むアプビーヌと、アダムとイブのように愛し合う。しかし、彼が庭から去ったため、娘は死に、その葬儀を司祭である彼が司ることになる。
装置:秘密の花園。

6『ウジェーヌ=ルーゴン閣下』ウジェーヌ・ルーゴンは第3帝政で失墜の危機の乗り切り副皇帝にまでなる。装置:政治

7『居酒屋』
『居酒屋』ジェルヴェーズ・マッカールはランチエに捨てられた後、トタン職人クーバーの結婚し、洗濯屋を開業するが、舞い戻ったランチエとクーボーの二人と関係し、アル中となって貧窮死する。
装置:蒸留酒製造装置・居酒屋洗濯屋。

8『愛の1ページ』エレーム・ムーレは娘ジャンヌを救ってくれた医師と不倫し、娘はそれに嫉妬して病死する。別の男と再婚した彼女は娘の墓を訪れ去る。
装置:バルザック邸のあったパッシーの高台から見えるパリ

9『ナナ』ジェルヴェーズの娘ナナは高級娼婦となって多くの男を破滅させるが、最後は天然痘となって死ぬ。
装置:ナナの肉体。

10『ごった煮』プッサンから出てきたオクターヴ・ムーレはアパートの女たちを意のままにあやつる。オスマン様式の表面はきれいなアパートは裏では汚物にまみれ、主人たちと女中との不倫と嬰児殺しが行われている。
装置:オスマン様式のアパート(欲望の館)

11『ボヌール・デ・ダム百貨店』 オクターヴの作った世界初のデパートは女たちの欲望をあおることで大繁盛するが、周りの商店は破産させていく。
装置:デパート(欲望の館)

12『生きる喜び』海辺の家にもらわれたポリーヌ・クニュは莫大な遺産を受け取るが、養い親子に財産をすり減らされる。しかも彼女の財産を散在した婚約者サザールを友人に譲ることになる。
装置:海によって浸食される岸辺の村。金をくすねられる遺産の入った引き出し。

13『ジャルミナール』炭坑に流れ着いたエチエンヌ・ランチエは最初の夜に会ったカトリーヌに強く惹かれる。彼女もランチエに惹かれているが、結局シャバルに暴力的に女にされてしまう。エチエンヌらが中心となって起こした炭坑ストライキは失敗する。炭坑事故で坑内に閉じこめられた二人はようやく愛し合うがカトリーヌは死に、エチエンヌは助かる。労働運動の芽生えを感じつつエチエンヌは炭坑を去る。
装置:炭坑

14『制作』:印象派絵画ジェルヴェーズの長男クロードは画家となって、嵐の夜に出会ったクリスティーヌに理想のモデルを見出し、結婚する。しかしパリを描いた大作は印象派風の絵から毒々しい象徴的なものへと変貌を遂げ、作品を完成できぬまま首をつって死ぬ。
装置:キャンバス

15『大地』兵隊くずれのジャン・マッカールは、農民となってまじめに働く。フーアン老夫妻の土地の生前分与が失敗し困窮する。土地の奪い合いの中でジャンは妻も土地もなくして、軍隊にもどる。
装置:土地(投資と生産の装置)

16『夢』シドニー・ルーゴンの私生児アンジェリックは刺繍細工人に拾われて見事な刺繍細工職人となる。いつか王子さまがと夢見る彼女の元にオートクール家の跡取りフェリシアンが現れ、身分を超えての結婚式で彼女は昇天する。
装置:夢を紡ぐ刺繍

17『獣人』駅助役のルボーは若妻セヴリーヌが養父の愛人であったことを知り、養父グランモランを列車内で殺害する。それをたまたま知ったジェルヴェーズの次男クロードはセヴリーヌと愛人関係になり、ルボー殺害を計画するが、狂った殺人衝動からセヴリーヌを殺してしまう。その後ペクーの妻とも不倫したジャックはペクーと走行中の機関車(ラ・リゾン)でもみ合いとなって二人とも転落死する。運転手のない機関車は兵士を乗せて闇夜を疾走していく。
装置:機関車・鉄道

18『金銭』 地上げの後、サッカールはユニバーサル銀行を設立して、株をつり上げ、空前のバブルを出現させる。しかし株価はついに暴落して、多くの破産者を生む。
装置:株式取引所

19『壊滅』兵士の戻ったジャンは、ブルジョワ階級のモーリスと戦友となる。フランス軍は大敗し捕虜となった二人は逃げ出して、モーリスの姉のアンリエットの元でジャンは療養する。その後、モーリスはパリコミューンに参加。また軍にもどったジャンは彼と知らず銃剣で刺し、モーリスは治療のかいもなく死ぬ。惹かれ合っていたアンリエットとジャンは別れる。ジャンはフランスの再生へと歩み出す。
装置:戦争

20『パスカル博士』パスカル・ルーゴン医師は年金生活をしながら、ルーゴンとマッカールの家系の遺伝を研究し、『ルーゴンマッカール叢書』の内容と同じ文書を残す。年の差をこえて結ばれ自分の子を宿した姪のクロチルドに文書を託して死ぬ。しかし一家の汚名をおそれた母フェリシテは文書をすべて焼いてしまう。唯一残った家系図を見ながら、クロチルドは生まれた息子シャルルに授乳するのだった。
装置:家系樹。遺伝要因が交錯・発現

 ゾラが描いた装置のうち、鉄道、百貨店、炭坑、市場、レビュウー、投機市場、戦争、はまさに「欲望の喚起装置」としての、人々の際限ない欲望を引き起こしていったのです。

 第二帝政期という欲望の際限のない増大の時代に対して、一方でデュルケームはそれを道徳と宗教で抑えようと道徳と 宗教の研究をし、他方、ゾラはその欲望の装置のメカニズムを探ろうとしました。つまり、デュルケームとゾラは第二帝政期が生んだメダルの表と裏、といってもいい関係になっているのです。
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# by takumi429 | 2013-11-10 23:59 | 社会学史 | Comments(0)

まとめ

まとめ

カントの『純粋理性批判』。純粋な理性は左頁では「神はいる」と言う。そして右頁ではこう言う、「神はいない」と。純粋な理性というものが、そうした自己分裂、いわば「狂気」におちいっていることを、カントはこの『純粋理性批判』のなかでえがきました。
理詰めだけで考えていくと、神の存在さえどうにでも言える、つまり無根拠なものになったしまう。それが私たち近代人のおかれた精神的状況です。あらゆる道徳倫理の根拠だった神が空位となった時代。それが現代です。
テレビの番組での「人を殺して何が悪いのですか」という子どもの問いかけに絶句し答えられない識者を、もはや誰も笑うことはできないのです。

かつて「神はいる」と信じた人たちがおり、その人たちはこの世界をたしかに変えて来ました。しかし、世界はどう変わったのでしょうか。人を殺してはいけない、その理由をはっきりと言うことができない、そうした世界に変わったです。
宗教が宗教の欠落した世界を生んでしまった、この恐るべき逆説(パラドックス)。この逆説的発展の帰結としての近代社会において、それでもなお、もはや唱えるべき神の名を持たないにもかかわらず、ひとびとに声をあげ訴えようともがく人間、そういう人間として私たちはマックス・ヴェーバーをとらえたいと思います。

宗教と世俗の世界との逆説的な関係は、彼の最初の宗教社会学的論文「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、すでに明らかです。

教皇庁が発行している贖宥状を批判することで宗教改革をはじめることになったマルチン・ルターがその職業概念(職業のとらえかた)において、宗教者の仕事(聖職)ばかりか、いっぱんの仕事まで、聖職と同じ「ベルーフ」(Beruf)(神から与えられた使命)だととらえようとしたことで、一般の仕事、とくに営利活動(金もうけ)も、けっしていやしい仕事ではないのだとされました。
ジュネーブで厳格な宗教政治をおこなったカルヴァンは人間は救いに予定されている者と滅びに予定されている者に分けられるとしました。カルヴァン派の人々は、その仕事の成果、具体的には、その営業成果(もうけ)が多ければ多いほど、自分は救われる予定にある、と思いこみ、そうした「救いの証し」を求めて、金儲けの仕事を神からの使命だとおもって一生懸命にするようになりました。あるいは、雇われ仕事を使命だと思ってまじめに働くようになりました。そうして営利活動をする資本家と労働者が生まれ、資本主義が成立しました。
しかしいったんこの資本主義が生まれると、こんどはそれ以外の生活態度は許されなくなります。私たちは信仰のためではなく、社会から脱落しないために、必死になって働くしかないのです。

硬直したシステムが支配する現代にあってそのシステムを打ち壊し刷新していくにはどうしたらいいのか。そうした革新と刷新をおこなえる人間はどのような思想を持っているのか。
ヴェーバーはそうした人間像を過去の宗教のなかに探ります。それがかれの『宗教社会学論集』です。この書はヴェーバーの模索の書、いわばこれは「精神の遍歴」なのです。

硬直したシステムとしてヴェーバーが問題視したもののひとつが官僚制でした。
官僚の精神を体現しているのが、孔子を開祖とする儒教です。冠婚葬祭の業者だった孔子とその弟子によるこの思想は、つつがなく破綻なく祭り事がおこなわれることを目的としており、そうしたうわべの端正さ(礼)に至上の価値をおきます。
中国歴代王朝が採用した人材登用試験(科挙)の試験内容にこの儒教が採用されることで、この儒教は中国の政治・知識エリートの哲学となったのです。
しかし、一般の人びとは、まじない(呪術)を信じていました。
呪術には、似た動作や、似たものに加えた行為は同じ効果をもたらすという原理にもとづく、類感呪術と、いちどふれあったものや、体の一部は、本体と離れたのちも、本体に影響を及ぼすという原理にもとづく、感染呪術があります。
宗教は神に懇願・崇拝するのに対して、呪術は神的な力に操ろうとします。
中国では呪術や占いは道教としてまとめられました。儒教はそうしたまじないなどを軽蔑しながらも改めることはありませんでした。こうした役人根性の哲学は世俗に適合することはできても世俗を変えることはできなかったのです。もちろん、そうした精神風土のなかでは資本主義は生まれることもありませんでした。

ではそうした世俗世界を否定するような宗教思想はなかったのでしょうか。
ヴェーバーはそれをインドの宗教思想に見ます。
インド古来のブラスマン教(バラモン教)では、人間の霊魂は、業の輪廻(めぐり)によって永遠に生まれ変わるとされます。生き物は前世におかした罪(業)を引き継ぎ現世に生まれ変わり、現世に犯した罪を、来世に生まれ変わって背負う。こうして因果応報をうけつつ転生を重ねていくというのです。
この輪廻転生からの離脱こそ、インドの宗教思想がめざしたもののです。
ブッダは、こうした輪廻転生をとげていく人生そのものが苦にほかならないとしました。これが「一切皆苦」の教えでです。そのことを知って正しく実践することで、この苦の連鎖から離脱する、すなわち涅槃にいたるのだとしました。
しかしブッダの教えは現実世界から離脱していく修行僧の宗教でした。
それにたいしてブッタの骨をおさめた仏塔を礼拝する在家信者たちからうまれたのが大乗仏教でした。大乗仏教は、現実世界から逃避することができない一般の人びとはどうすれば救われるのかという問題にこたえようとしました。仏となるために修行している人で、人びとを救うために力をつくす人を菩薩と呼びます。大乗仏教では菩薩はブッダだけではなく、たくさんおり、人びとを救うのだとしました。つまり、菩薩とは大衆を救うためにあえて仏となって涅槃に行けるのを思いとどまっている、一種の救世主なのです。
この菩薩の考えかをを全面にだすことで仏教は大衆救済宗教となりました。
さらに仏教は呪術や民間信仰をとりいれインドのあった性力(シャクティ)の秘儀をとりいれることで密教となりました。しかし、その結果、一般大衆の性的・呪術的な信仰のなかに飲み込まれてしまいました。
この後期密教は、唯一、チベットに伝来することで、人間の心身と清濁のすべてをとらえるチベット密教として現在まで生き残ることになりました。
世俗否定的でかつ世俗から離脱しようとした仏教は、結局、一般世界を変えることはできず、それに向きあうとそれに迎合(適合)するしかなかったのです。

もともとのインドの宗教であったバラモン教は、仏教やジャイナ教などの異端を生み出した後、ヒンドゥー教として復興しました。
ヒンドゥー教の神はブラーフマ神、ヴィシュヌ神、シヴァ神の3つです。とりわけ、ヴィシュヌ神とシヴァ神が信仰されました。
ヒンドゥー教では、行為の成果を思わず、義務ダルマをたんたんとおこなうことで、輪廻の輪にまきこまれず離脱できる、とされました。それを特に説いたのが、叙事詩『マハーバーラタ』のなかの「バァガット・ギーター」です。しかし結果を思わずというだけでは心の持って行きように困ります。そこで、ヴィシュヌ神あるいはシバ神のことを激しく思って行為することが勧められました。こうした神への激しい信仰(信愛バクティ)が推奨されることになりました。

こうして世俗に迎合する宗教思想も世俗を否定しそこから離れていく宗教思想も、一般世界(世俗)を変えていく力にはなりませんでした。いまある世界(世俗)を否定しつつそれに激しく関わりそれを変えていくような宗教思想。そうした世界を支配する宗教思想としてヴェーバーがたどり着いたのが古代ユダヤの宗教、とりわけその預言者の思想でした。

都市の王や貴族によって抑圧され奴隷にされることに抵抗し都市から逃げ出したカナンの人びとは、同じようにエジプトの王の元から逃げてきたモーゼがもたらしたヤハウェという神を受け入れ、このヤハウェの名の下に立ち上がり、イスラエル人を名乗り、王侯貴族を打倒しました。ところがみずからの国をつくるとふただび王がうまれ人びとを搾取し隷属させようとします。王制を批判する人びとは、人びとを開放した戦争神ヤハウェを持ち出すことで王制を批判します。イスラエルがその両側にある大国によって滅ぼされると、民衆解放の神ヤハウェをないがしろにしたからであると預言者は訴えました。預言はさらに、ヤハウェはエジプト、アッシリア、新バビロニアの帝国をも操って、自らの神殿さえ壊して、イスラエル(のちにユダヤ)の人びとを罰するのだと訴えました。その結果、ヤハウェ神は、世界を支配する神となり、バビロン捕囚後には、唯一絶対の神となったのでした。こうして、ただ1人の神を崇拝する一神教がうまれました。

ユダヤ人やアラビア人などのセム族には、神の言葉を預かる預言者の系譜がありました。その系譜の最後に立ち、ユダヤ教・キリスト教の神観の元に新しい宗教をたちあげたのがマホメットでした。マホメットはユダヤ教・キリスト教の一神教を受け入れ、より簡単にしかしより力強いものとしたのでした。

ヴェーバーが、『古代ユダヤ教』を書いていた時、ドイツ帝国は第一世界大戦のさなか、亡国の危機にありました。その時、あえて亡国の危機にあることを告げる預言者となろうとヴェーバー自身はしていたのです。それはまさに「神なき時代の預言者」たらんとした英雄的で悲劇的な生き様だったのです。
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# by takumi429 | 2013-07-02 09:40 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

11.「古代ユダヤ教」

11.『古代ユダヤ教』
仏教はインドにおいてタントラの影響をうけて密教となり、インド大衆の呪術的な密儀のなかに溶けていってしまった。現世逃避的な知的宗教である仏教は、現世に向かう時、それと適合(迎合)することになり、その呪術の絡み合った密林のような園を切り開くどころか、そのなかに埋没していったのである。インドで途絶えた密教はチベットに伝わり、遊牧民たる吐蕃の気高さのなかで命を与えられ、現代まで生き続けることになった。
他方、インド大衆は、変幻自在に生まれ変わり顕現するヴィシュヌ神とシバ神への強烈な信仰(バクティ)を、性交を奉るリンガ崇拝に織り交ぜつつ、ヒンドゥー教を復興させることになった。大衆の呪術的・性的信仰は否定されることなく、続いてきたのである。
さて、役人根性(官僚の精神)たる儒教は、世俗を軽蔑しつつ結局はそれに迎合するしかなかった、知的修行僧の宗教たる仏教は、世俗から逃避したために世俗を変えることがなかった。また世俗大衆を救う宗教として生まれ変わった大乗仏教も、さらに性的密儀をとりいれた密教も、結局、世俗に迎合し飲み込まれ、呪術にそまった世俗大衆を変えていくことはなかった。
こうした世俗迎合(適合)的な宗教とはちがい、今ある現状(世俗の状況)を厳しく否定しつつ、それを支配し変えていった宗教として、私たちは古代ユダヤの宗教を取り上げることにする。

ユダヤ民族は、古代において、周辺の弱小民族でしかなかった。
にもかかわらず、それは消滅することもなく現在まで確固と存続している。いやそればかりか、その弱小民族の信奉する神(YHWH )は、世界3大宗教のうちの2つ、キリスト教の神、イスラームの神となり、今なお、世界の多くの民を支配している。
このパラドックス(逆説)はいかにして生まれたのか。
『古代ユダヤ教』という論文は、この謎を解明しようとする論文にほかならない。

地政学上の位置
イスラエルの民が暮らしたカナンの地というのは、メソポタミアとエジプトの両大帝国に挟まれた地域であり、そのためつねに双方から侵略され支配される運命にあった。

カナンの地理
イスラエルの内部は、北の肥沃は農耕地と、南の荒涼たる砂漠とステップ、とに二分される。北には農民が住み、南には家畜飼育者(牧羊者)が定住する。
古代の国家の発展方向
ヴェーバーは古代において国家の発展には2系列があったと考えていた(『古代農業事情』)。
(1)ギリシャ・ローマ型発展系列:城砦王制から民主的ポリスの形成に向かう
(2)オリエント型の発展系列:城砦王制から君主政国家へと発展していく
古代における階級対立
都市貴族が交易によって得た貨幣を農民に貸し、その結果、農民が都市貴族の債務奴隷に転落する。都市貴族⇔債務奴隷(農民)
(1)の場合は、一般市民が自分武装することで、政治的権利を得て民主化する。奴隷は征服地から補給される。
(2)の場合は、官僚制をもった絶対的な王制(帝国)が生まれて、王は国家を自分の家として支配し、人民全体が王の家僕(奴隷)となる。旧約聖書のなかで、「エジプトの家」と言う時には、地域的なエジプトではなくて、人民が奴隷状態にあることを指している。
イスラエルは、(1)と(2)の発展方向のはざまにあってもがき葛藤する。

年表 (Metzger1963訳書参照)
前19-17世紀 <族長時代>
前13世紀  <モーゼ時代>
前13世紀後半 イスラエル諸民族カナン侵入・定着(?) 「契約の書」
前12-11世紀<士師時代>部族連合、戦時における大士師の指導 「デボラの歌」
       ペリシテ人(鉄器を持った海の民)の東進、シロの神殿を破壊 契約の箱
      <王国時代> サウル、王権樹立
前1000頃  ダビデ即位
       エルサレムへ遷都
前961    ソロモン即位
       王宮・神殿の建設 「ヤハウィスト」(J)
前926    王国分裂
      <南北分裂王国時代>
       南(ユダ)王国           北王国                                  
前900頃 ヤラベアムⅠ世、ベテルとダンに金の牛の像を起き、聖所とする。
オムリ王、サマリアに遷都。
カナン宗教蔓延 預言者エリア
前850頃 「エロヒスト」(H)
王母アタリアの独裁と死        預言者エリシャ
840祭司による宗教粛正  ←845エヒウ革命(預言者エリヤとエリシャに指導された抵抗運動の指導下に,エヒウが〈ヤハウェ主義革命〉を起こし,オムリ家を打倒)
前800        両王国の繁栄と社会的退廃
ヤラベアムⅡ世 預言者アモス
        預言者ホセア
前733       シリア・エフライム戦争
アッシリアに従属    ⇔反アッシリア同盟に属する
前721アッシリア軍によりサマリア陥落
北王国の崩壊(上層民の流刑)と異民族の移住
    <単一王国時代>
    ヒゼキア王 宗教粛正 アッシリアへの反乱   
前721 アッシリア軍、エルサレム包囲 アッシリアへの従属 預言者イザヤ(後期)
                           「エホウィスト」(J+H)
    アッシリアの衰退 ユダ王国の一時的独立      
ヨシア王(前640-609) 申命記改革 ヤハウェ原理主義 エルサレム礼拝独占
                            「申命記」(D) 成立
前609 メギドの戦い ヨシア王の死         預言者エレミア(前期)
    エジプトの支配
    新バビロニアの支配               預言者エレミア(後期)
前597 新バビロニア王ネブカドネザルの軍、エルサレム包囲 
     第一次捕囚 (上層民をバビロンに連行)
前578 新バビロニア軍によりエルサレム陥落、神殿崩壊 第二次捕囚 預言者エゼキエル
    <捕囚時代>
    捕囚地バビロンで「神聖法典」(レビ記17-26章)「祭司文書」(P) 成立
                            預言者第二イザヤ
前539 ペルシャ軍によりバビロン陥落
    <ペルシャ時代>
前538 ペルシャ皇帝キュロスⅡ世の勅令により第一次帰還
前515 サマリア人の援助を断り、その妨害に耐えて神殿を再建。
前458 ネヘミア、ユダヤ州の知事として着任。城壁再建、社会改革。
前430 エズラの宗教改革進展。
     エルサレム神聖共同体を確立。大祭司・長老組織による行政
     「モーゼ五書」(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の最終編集
前331 アレクサンダー大王によりペルシャ滅亡


ヴェーバーが取り入れた聖書学の内容
4資料仮説(ユリウス・ヴェルハウゼン)
旧約聖書の律法(トーラー):モーゼ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)はさまざまな文書から成り立っている。
文書名略号成立期成立場所特徴など
ヤハウィストJ前10世紀統一王朝時代のユダ神名ハヤウェYHWHを使用
エロヒストE前9世紀分裂時代の北王国神名エロヒーム「神」を使用
申命記D前7世紀北王国崩壊後のユダ捕囚期に増補改訂
祭司文書P前6世紀バビロニアとユダ教団祭司が作成
エホゥスト  JE        北王国崩壊後のユダ  JとEを結合

生の座(Sitz im Leben) (ヘルマン・グンケル)
編集された文書には、以前からのさまざまな伝承(法律集をふくむ)が含まれている。文章の様式から、そうした伝承がおこなわれた場(生の座)を探らなくてはいけない。

共感呪術的狂騒道
フレイザーの金枝篇から共感呪術の思考がもたらす、多産を願っての性的な狂騒道が、農耕民において繰り返されるとした。具体的には北王国に頻繁にみられた金の牛の崇拝やバール神への崇拝を指している。


社会対立の構造 
王権以前の社会構成 農民・土地所有の氏族(ヤハウェの名のもとに集う連合軍の担い手)
          牧羊者の氏族(ヤハウェ連合軍の担い手)
          客人氏族(手工業者・楽人など)

王権後の社会構成  都市居住地主貴族(軍事的担い手)
          都市デーモス
           非軍事化・無産化したイスラエル人(←農民・牧羊者)
           改宗した寄留者(←客人氏族)

          
イスラエル内部の階級対立
イスラエル誓約連合は、ヤハウェの名の下に、カナンの都市貴族への反乱解放の軍事同盟として生まれた。ヤハウェは誓約連合のためにモーゼからイスラエルの民が受け入れ契約を結んだ戦争神だった。都市貴族への隷属は、エジプトの王制の下の屈従にたとえられた。だからそこからの解放は、「エジプトの家」からの解放にたとえられ、モーゼの「エジプト脱出」(出エジプト記)の記憶が、誓約連合の民衆全体の記憶となった。
にもかかわらず、王制が生まれると、今度は都にいる王と貴族が、かつての都市貴族と同じく、民衆を搾取し債務奴隷にしようとする。イスラエル内部には、解放のための連合から生まれた王制が大衆に隷属をもたらしていることへの不満と批判がたえず渦巻いていたのである。

ユダヤ教発展の担い手:祭司・知識人・預言者
レビ人祭司(一般大衆を相手にする祭司)
宗教的カウンセリング(魂のみとり)での質問
「どうしてこんな苦しい目にあうのでしょうか?」
「あなたはものを盗んだりしませんでしたか?」
この質問を肯定形にすると
「あなたは盗んではならない」という戒律になる。
レビ人のもとに来たのは都市貴族によって債務奴隷にされたりしている都市無産階級や地方の搾取されている農民たちであった。彼らの質問に答えるにつれて、レビ人の宗教の内容は、もともとは誓約同盟の同胞であった民衆を無産化させ隷属させている王制への批判と、もともとの解放の同盟であったイスラエルへと立ち返るべきだ、という内容になっていった。
ヴェーバーは律法の生まれた「生の座」をレビ人の宗教的カウンセリングにみたのだ。
知識人
バビロニアやエジプトの神話を脱色して多くの神を削り、循環する時間感から直線的な時間を導き出して、ユダヤの知識人(上層祭司)はユダヤ教を一神教として精錬していった。
たとえば、ティアマートという(海水の)原母神の殺害から世界が創造されるネヌマ・エリシュ神話を換骨奪胎して、創世記の世界創造神話がうまれた。その際、ティアマートは「水」になっている。
だが多神教の世界から一神教の世界へと神話を書き換え、ユダヤ教の純化と体系化をはかるには、その前提として、ヤハウェ神の絶対性が確立していなくてはいけなかった。それはどうやって生まれたのか。
預言者
ヤハウェの絶対性を確立してそれを民衆に告げたのは預言者たちだった。
預言者とは予言者とはちがう、神と民衆をつなぐ仲介者を言う。神の言葉を預かり民衆に伝える。「主はこう言われる」。当時、主人の言葉を預かった僕(しもべ)は、相手方に到着すると「私の主人はこう言った」と語り始めて、自分の主人の言葉をそのままオウム返しした。その習慣を預言者と神との間に適応したものである。つまり預言は、将来の予告よりも、神の言葉の宣布にあった(雨宮慧著『図解雑学旧約聖書』ナツメ社(2009年)180頁)。
ユダヤの預言者は、敵の帝国による北王国とユダヤの滅亡を、ヤハウェが敵国をあやつって下した、イスラエルへの罰だと解釈した。それまでの解釈は、民族の敗北=国の神の敗北である。しかし、預言者の解釈は、ユダヤ民族の敗北=背信のユダヤ民族にたいするヤハウェの罰である。その際、ヤハウェは敵の帝国軍をも操れる絶対的な神へと昇格している。この卓抜した解釈と宣告によって、ヤハウェは絶対の世界神となり、その絶対神の与えた命令(律法)を守るユダヤ民族には必ず救済があるはずだとの強烈な信仰がうまれたのである。
その際、イスラエルが犯した罪として挙げられたのは、ヤハウェ以外の神への崇拝へと、同胞を債務奴隷として隷属させる罪である。
イスラエルには、北と南の対立、都市の貴族と(債務奴隷としての)農民と定住した牧羊者との対立があった。
農耕地が多い北では、農耕の多産を祈願するバールなどにたいする信仰と祭儀が盛んであった。北王国の預言者はこのヤハウェ以外の偶像崇拝による祭儀を激しく弾劾し、それが北王国滅亡の原因だったとした。
南のユダ王国の預言者は、さらにエルサレムの神殿の崩壊さえ預言するに至った。同胞を搾取隷属する驕慢な王国に対して、ヤハウェはアッシリアや新バビロニアをもあやつって罰を与えるのである。ユダヤが崩壊したのは、エジプトやアッシリアや新バビロニアの神が、ユダヤの神ヤハウェより強かったからではない。ヤハウェがエジプトやアッシリアや新バビロニアのような強大な世界帝国までも、あやつるような唯一絶対の神だからである。
祭司・知識人・預言者の三つどもえの働きによって、ユダヤ教はやがて一神教へと純化・体系化され、捕囚後ユダヤはその信仰による神政政体となった。
ユダヤの崩壊と捕囚というもっとも宗教的な危機でもありえた事件が逆にヤハウェの信仰を強靭なものにし、それは一神教として確立したのである。まさにこの逆説こそ、西洋社会とイスラム世界を支配する一神教をもたらした逆説なのである。

預言者の2類型
ヴェーバーの預言者類型では、模範預言と使命預言が有名である。模範預言は信徒に自らが手本となってみせるような預言者あり、ブッダなどがその例である。使命預言とは信徒に神の命令を伝える預言者である。古代ユダヤの預言者がまさにそれにあたる。
さてこの「古代ユダヤ教」では、ヴェーバーは預言者を、イメージを幻視する視覚的な預言者と、神の声を聞く聴覚的な預言者とに分けている。
視覚的預言は、集団的な狂騒と関連があるとヴェーバーはみなしている。それはちょうど、ニーチェが『悲劇の誕生』で、コロスの音楽によるディオニソス的原理と彫刻的なアポロ的原理が、ギリシャ悲劇のなかで交互に現れると説いているのと照応する。この視覚的預言は音楽にひたりながら幻影を見る満ち足りた至福の状態をもたらす。
それにたいして、聴覚的預言はあくまでも預言者を突き動かしてやまない。それは人を突き動かし続ける命令の預言なのである。
このセム族に見られる聴覚的な預言者の系譜の最後にある者として、私たちはイスラーム教の開祖マホメットへと話を進めなくてはいけない。

      
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# by takumi429 | 2013-06-24 02:49 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

10.『ヒンドゥー教と仏教』(2)

10.『ヒンドゥー教と仏教』(2)

都市発展時代の生まれた世俗逃避的知識人による異端宗教 

サーンキヤ学派(ウパニシャッド哲学の一派)
男性的精神原理(プルシャ=アートマン)は女性的原理の原物質(プラクリティ)と結合することによって輪廻に巻き込まれており、知恵をえることで、そこから離脱(解脱)できると説いた。

ジャイナ教
苦行によって古い業をなくし新しい業が自我に付着するのを防ぐことで、輪廻から離脱しようとする。
五誓戒
生き物を殺すこと、嘘をつくこと、盗むこと、男女のよこしまな行為、ものを所有すること、を禁止。
不殺生戒のためにマスクをして生産活動から離れ商業に従事。
空衣(裸体)派と白衣派に分裂。
一般世界への影響力は限定されたものとなった。

仏教
苦行の否定。瞑想の重視。(ムキになった苦行も我執(煩悩)のひとつ?)
(安定した一定の)自我の否定。人間とはいろいろな要素が集まったのだけのもの。
輪廻ばかりでなく、あらゆるものが変化してとどまることがない。

四諦八正道
苦諦:生きることは苦である
集諦:苦の原因は煩悩である
滅諦:煩悩を消すことで苦が滅する→涅槃(ニルヴァーナ)
道諦:煩悩をなくし悟りを開くための8つの道
 正見、正思惟、正語、正業、正命(生活)、正精進、正念(自覚)、正定(瞑想)

部派仏教
きわめて個人主義的な修行僧の宗教(世俗否定・世俗逃避的宗教)

大乗仏教(紀元前3世紀~後3世紀)
ブッダの遺骨を収めた仏塔(ストゥーパ)を崇拝する一般信者から起きた運動。
仏の複数化。
菩薩:仏となる〈涅槃にいたる)手前であえてこの世にとどまり大衆を救う存在
如来蔵(仏性):人間はだれでも仏になる性格をもっている
ブッタの言葉によらない膨大な仏典の出現。「浄土三部経」、「法華経」、「般若経」、「維摩経」、「涅槃経」、「勝鬘経(しょうまんぎょう)」などなど。
「空」の思想:あらゆる物質が相関的であって絶対で安定したものではない

密教(6~7世紀)
インドの呪術的信仰の積極的導入。
マントラ(真言):呪力のある言葉。バラモン教のダラニ。
印契(いんげい):手を結ぶ形で呪力をもたらす
ホーマ(護摩):火を炊いて煩悩を焼きつくす。
タントラ:シャクティ(性力)崇拝

大日如来:宇宙の根本仏
マンダラ(万神殿パンテオン)による宇宙の表象
 金剛界(智の世界)と胎蔵界(理の世界)

教典
「大日経」・「金剛頂経」→日本・チベット
「秘密集会タントラ」→チベット

ヒンドゥー教(←バラモン教)
ブラスマー(世界創造神)
ヴィシュヌ(世界維持神)
シヴァ(破壊神)
多くの信者は、ヴィシュヌ派とシヴァ派に分かれる。
神への熱烈な信仰(親愛バクティ)
リンガ(男根)崇拝 ピータ(台座)(=ヨーニ女性性器)

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# by takumi429 | 2013-06-16 17:40 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

9.「ヒンドゥー教と仏教」(1)

9.『ヒンデゥー教と仏教』
現世適応の官僚の合理主義(儒教)では、呪術の園となった世俗を、改革することはできなかった。では現世を否定するような宗教ではどうだろうか。そこで私たちはもっとも世俗(日常世界)を否定するような宗教を生んだインドをみてみることにしよう。

インド史 年表
前2500-2000 インダス文明
前2000頃  アーリア人、パンジャブ地方(西北インド)に侵入。リグ・ヴェーダ成立
前1000頃  アーリア人、ガンジス川流域に進出。
バラモン(僧侶)、クシャトリヤ(騎士)、ヴァイシャ(庶民)、シュード    ラ(隷属民)からなるヴァルナ制度、次第に確立。
       
 ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、アタルバ・ヴェーダの編纂
  リグ・ヴェーダ
ホートリ祭官に所属。神々の讃歌。インド・イラン共通時代にまで遡る古い神話を収録。
  サーマ・ヴェーダ
ウドガートリ祭官に所属。リグ・ヴェーダに材を取る詠歌集。
  ヤジュル・ヴェーダ
アドヴァリュ祭官に所属。散文祭詞集。神々への呼びかけなど。
  アタルヴァ・ヴェーダ
ブラフマン祭官に所属。呪文集。他の三つに比べて成立が新しい。
前7-6世紀 初期ウパニシャド(ヴェーダの付随文献)
       業・輪廻(カルマ)の教説
       宇宙原理ブラフマンと個体原理アートマンの合一(梵我一如)説
前5-4世紀 〈都市発展時代〉古クシャトリア時代
       ジャイナ教・仏教、成立
前321頃   マウリア朝(-前187頃)インド統一 カウティリヤ『実利論』
        アショーカ王(前268-232)、仏教保護
前220-   アーンドラ朝(-後236)中南インド 
       バラモン教を保護   
        ナガール・ジュナ
インドの代表的仏教思想家。サンスクリット名はナーガールジュナ。「般若経」の「空」を継承発展させ、大乗仏教の根本思想として理論づけ、大乗仏教での最初の学派、中観(ちゅうがん)派の祖とされる。
空(くう):世界には現象はあるが実体はない、とする仏教の基本的でもっとも重要な概念。Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.

後45-   クシャーナ朝(-250)北インド
        カニシカ王の仏教保護
後1世紀  「バガヴァット・ギーター」最終成立(原型は前1世紀)。
       マヌ法典(インドの伝統的社会規範を説く聖典)(前2-後2世紀)
 250-320 分裂時代
 320-520 グプタ朝、インド統一 バラモン文化復興
 6-10世紀 ラージプート(戦士)時代)(分裂時代)〈中世〉
700-750頃  シャンカラ 
シャンカラの哲学もほかのインド諸哲学と同様に、輪廻からの解脱をめざしている。彼の説いた不二一元論は、宇宙の根本原理であるブラフマンと自己の中にあるアートマンは同一であり、したがってアートマンはブラフマンと同様、不変常住、常住解脱者、無欲、不老であるとするものであった。しかし現実には、人間はうつろいやすい個別的で物質的な世界しかとらえることができず、輪廻にくるしんでいる。シャンカラは、それは人間が無知(アビドヤー)のために、現象世界がじつは幻影のように実在しないものであり、ブラフマンとアートマンが不二であることに気づかないからである。この無知を滅することによって解脱が可能となるのだと説いた。Microsoft (R) Encarta (R) Reference Library 2005. (C) 1993-2004 Microsoft Corporation. All rights reserved.

11世紀-  イスラム教徒の侵入 〈近世〉
       セーナ朝(-12世紀)
        仏教、インドで消滅。
1206-1526 デーリー諸王朝時代
        北インドのムスリム諸王朝
        デカンの諸王朝
        南の半島南端の仏教の諸王朝
 14世紀    北インドのムスリム諸王朝
        デカンのムスリムのバフマニー朝
        南部のヒンデゥーのビジャヤナガル朝
 1526    ムガル帝国、成立
 1707    ムガル帝国衰退。 継承国家と分立国家(マラータ同盟、シーク教徒など)
        シーク教:ヒンドゥー教とイスラム教が融合した宗教
 1856    プラッシーの戦い イギリス、ベンガル徴税権を得る 〈近代〉

 1857-9  セポイの反乱 
 1858-1947 インド帝国 イギリス、インドを直接支配。

カースト制(バルナ+ジャーティ)
 バルナ 
  再生族(ドヴィジャ) 一定の年齢に達すると師について入門式(ウパナヤナ)を受け、聖なる紐(ひも)を受ける(第二の誕生) 
    バラモン(祭司)
    クシャトリア(騎士)
    バイシャ(庶民))
  一生族(エーカジャ)
    シュードラ(隷属民)
  不可触賤民

  ヒンデゥーの4住期(ヴァルーナスラマ・ダルマ)
   再生族のヒンドゥー男子に適応される古代インドにおいて成立した理想的人生区分
   (1)学生期(ブラフマチャルヤ) ヴェーダ学習
   (2)家住期(ブラフマチャルヤ) 家庭人として勤めを果たす
   (3)林住期(ヴァーナプラスタ) 引退して林の中に隠居する
   (4)遊行期(サンニャーサ)   聖地に巡礼して死を迎える

 ジャーティ 
  内婚
  水のやり取り・食事を共にする (他の者から受け取る/と食べる、のは不浄) 
  職業の継承
  男系

寡婦殉死(サティー) 夫に先立たれた妻が、夫の火葬の日に自らも飛び込んで自殺を図る行為。ヒンドゥー教の古い慣習にさかのぼる。
ヒンドゥー教によってこんな行為も正当化され温存された。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の記述の時に、
伝統主義的経済に対しては伝統主義、資本主義に対して資本主義の精神が対応していると考えたのと同じように、
カースト制に対してはそれを維持させる精神としてヒンドゥー教を考えている。

バラモン教の異端として生まれたジャイナ教と仏教は現世から逃避するばかりで現世を変革せず、バラモン教から生まれたヒンドゥー教が現世に適合し、現世のカースト制を正当化して温存するものとなった。

ウパニシャッド哲学にすでにみられたように、クシャトリアの哲学的思惟はバラモンのそれをしのぐようになっていた。みずからの宗教的権威を脅かされそうになったバラモンたちは、自分たちの呪術的な力を正当化しすべく思索を展開する

バラモン教の思想
アタルヴァ・ヴェーダの参入
呪術師であるフラフマン祭司が力を持ったことの現れ。
呪術師の自問自答
 なぜ私が唱える呪文が威力を持つのか。
 それは私(アートマン)が宇宙の原理(ブラーフマン)とじつは同じもの、一体だから ではないのか。「汝はそれである」→「梵我一如」の考え

輪廻転生説
霊魂輪廻(サンサーラ) 霊魂は絶えず生まれ変わっていく
業(カルマン) 前世の報いを現世で受け、現世の罪は来世で受ける 

ブラーフマンとの我(アートマン)との合一によって輪廻の輪から離脱できるとした。
呪術師としての修行(苦行)が、輪廻からの救済の修行へと発展していった。

ウパニシャッドにすでにみられたように、クシャトリアの宗教的思索がバラモンたちの思索を脅かし始めていた。それに対抗して、バラモンたちは自分たちの正当化のために教えを発展させた。しかし、それがかえって現世から逃避する(輪廻から離脱する)方向を示すこととなり、自分たちの敵対者である異端(ジャイナ教や仏教など)を盛んにさせることになってしまったのであった。

カースト
Iプロローグ
カースト Caste インドに古くからつたわる社会制度。個々人の階級を規定すると同時に、たずさわるべき職業をはじめ、結婚その他さまざまな社会生活のありようを決定する。子は親のカーストをかならず継承していくため、世代をこえてうけつがれることになる。
もともとインドではジャーティ(「生まれが同じ者」の意)という語でよばれているが、16世紀にインドにやってきたポルトガル人が、これに母国語のカスタcasta(階級、血筋)という語をあてたため、カーストとも称されるようになった。日本では一般に、カーストといえば、大きな4つの階級区分(4種姓)が想起されがちだが、これはカーストと密接な関係にあるものの、正確にはバルナというべきものである。
IIバルナ
バルナvarna(本来は「色」の意)は、前1500年ごろ、インド・ヨーロッパ語を話す遊牧民、いわゆるインド・アーリヤ人が北方からインドへ進入し、やがて農耕社会をきずきあげたころに成立した。インドの聖典文学によれば、アーリヤ人のバラモン教(→ ヒンドゥー教)司祭が社会を4つの階層にわけたとされている。前200年~後300年のある時期にアーリヤ人の司祭・律法者がマヌ法典を編纂したが、その中で世襲制の4つの階級区分を規定し、司祭階級自らをその最上位においてブラフマン(バラモン)と称した。そして2番目に王侯・武士のクシャトリヤ、3番目に農民や牧夫、商人のバイシャ、4番目に3つの階級、とくにブラフマンに隷属するシュードラをおいた(のちに農民や牧夫はシュードラにうつされる)。さらにその下、社会の枠組みのまったく外(アウトカースト)に、不浄な人々とみなす不可触民(アンタッチャブル)をもうけ、下賎とされる職業につかせた。
こうしてアーリヤ人の農耕社会のシステムにおさまらなかった先住部族民が不可触民とされたが、その後、ヒンドゥー教の戒律をおかしたり、社会の掟にそむいて4つの階級からしめだされた者もこれにくわえられていく。こうして司祭がつくったバルナの制度は、ヒンドゥー教の戒律と切りはなせないものとなり、神の啓示によってつくられたという大義名分のもとに、延々と存続してきたのである。
IIIカースト(ジャーティ)
バルナを大きな枠としながら、実際の社会で機能しているのがカーストである。ひとつの村に司祭、銀細工、大工、床屋、羊飼い、仕立て屋、洗たく屋、汚れもの清掃、乞食といった種々さまざまな職をもつカーストが、10~30程度あり、それぞれが村の中で近隣にあつまってくらしている。カーストの数は、インド全体で2000~3000あるといわれている。そしてこのカーストは、上にしるしたバルナの、不可触民もふくめた5つの階級のいずれかに属している。
カーストは、地縁、血縁、職能が密接にからみあった排他的な集団で、その成員の結婚や職業、食事にいたるまでをきびしく規制し、また自治の機能ももっている。
1結婚の規制
これは、個々のカーストの結束を強めるうえで、またカースト制度全体を維持強化するうえで、とくに大きな意味をもっている。カーストのメンバーは、自分と同じカーストの相手をえらばなければならず(→ 内婚)、しかし、同時に自分と同一のカースト集団のメンバーとは結婚できない。また、男性が自分より下のカーストの女性と結婚することはある程度許容されるが、その逆はタブーとされている。
2食事の規制
食事に関する規制は地域差が大きい。しかし一般に、ほかのカーストのメンバーと食事をともにしたり、下のカーストの者から飲食物の提供をうけることができないといった規制や、とくに上位カーストにきびしい、肉食の制限もある。
3職業
ふつう、カースト名から職業がわかるほど、カーストが特定の職業とむすびついていることが多い。そしてカーストが親から子へつがれていく以上、原則として子は親の職業を代々ついでいくことになる。カーストと職業の密接な関係はとくに職人カーストに顕著にみられるが、いっぽう同じカーストに属しながら、別々の職業にたずさわる例もめずらしくない。そしてまた、各カースト間の社会的・経済的な互助的関係が、近代化の波にあらわれてくずれはじめた今日では、カーストと職業の関係はうすまりつつある。
IVカースト制度と近代インド
カーストは、インドの社会の安定要因として機能してきた一面もあるが、いっぽうでインド社会の近代化をさまたげる要因にもなっており、今日ではカースト間の障壁がしだいにとりのぞかれようとする方向にある。
イギリスがインドを植民地支配していた時代に、カースト制度の規制はかなり大きく緩和された。そして第2次世界大戦後の1947年、インドの独立とともに、憲法でカースト差別は禁止され、49年の議会で不可触民制の廃止も宣言された。その間、不可触民の解放を強く主張してインド社会に大きな影響力をもった人に、ガンディーと政治家・社会運動家のアンベードカルがいる。ガンディーは、不可触民にハリジャン(神の子)の名をあたえた(今日では、不可触民は公式には指定カーストとよばれている)。そうした動きにもかかわらず、そして地方と都市の差はあるものの、今なおカーストは日常生活の面で強固に生きつづけているのが実態である。
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バガバッドギーター Bhagavadgītā 
サンスクリットで書かれた詩編で、「神の歌」を意味する。叙事詩「マハーバーラタ」の第6巻にふくまれ、たんに「ギーター」ともいう。18章700詩よりなる。ほとんどのヒンドゥー教徒にとって、信仰生活の真髄となる聖典で、宗派をこえてとうとばれてきた。古来、インドのすぐれた思想家が「ギーター」の注釈書を書いてきた。インド国外にも大きな影響をあたえ、今なお新たに翻訳され、さまざまな解釈がされている。
内容は、クルクシェートラの聖なる戦地でバラタ族の大戦争がはじまろうとしているときに、御者の姿をしたビシュヌ神の化身クリシュナと人間の主人公アルジュナ王子とが対話する形式をとっている。アルジュナは、友や親類を敵としてたたかうことにためらっていることを打ちあける。それに対してクリシュナは、戦士である以上、敵とたたかい、殺すという自己の本分をつくすべきであると、アルジュナを鼓舞激励する。その過程でクリシュナは、個我の本質、最高神に到達する最適の方法を説明する。
「ギーター」は、アートマン(個我)の永遠不滅、アートマンとブラフマン(最高神)の合一輪廻の過程、自己の行為の結果にとらわれないことなど、多くの教えをまとめている。「ウパニシャッド」やサーンキヤ哲学の思想の影響がこい。精神的原理としてのプルシャ(純粋精神)と物質的原理としてのプラクリティ(根本原質)はたがいに補足しあって完全になるとしている。また万物はプラクリティから由来し、純質・激質・暗質という3つの構成要素よりなるとしている。
クリシュナは、自己犠牲と世俗的な義務という相反する要求を、ひとつにはバクティ(神への信愛)によって、ひとつには瞑想することと、行為の結果を考えずに私心をすてさることによって、調和させるのだと説いた。クリシュナは、一時的に世にもおそろしい終末の日の姿となってあらわれてから、ふたたび情深い人間の姿にもどるのである。
ヒンドゥー教の聖典『バガバッドギーター』から、第11~12章の一部を紹介する。クルクシェートラの大会戦がせまっているのに、戦士アルジュナは悲しみにうちひしがれ、戦意をうしなっていた。親族や友を敵にまわし、殺すことなどできないという。そんな彼の前に聖バガバッド(クリシュナ)があらわれる。クリシュナは戦意をうながすために宗教的な教説をくりかえし、やがてアルジュナの懇望にこたえて、みずからがビシュヌ神の権化であることをしめす。そして、最高の解脱の道が神へのバクティ(誠信)であることを説くのである。この物語の起源はクリシュナを崇拝するバーガバタ教団の聖典とされ、クリシュナをビシュヌの化身とすることで正統バラモン教のなかに吸収されていったと考えられている。
[出典]宇野惇訳『バガヴァッド・ギーター』(『世界の名著』1)、中央公論社、1969年
アルジュナはいった。  ジャナールダナ〔クリシュナ〕よ、おん身のこのやさしい人間の形相を見て、いまわたしは心が落ち着き、本来の自分にたちかえりました。  聖バガヴァットはいった。  おまえが見たこの形相〔ビシュヌ〕は、非常に見がたいものである。天神でさえ、この形相をつねに見たいと願っている。  ヴェーダによっても、苦行によっても、布施によっても、また祭祀(さいし)によっても、おまえが前に見たようなすがたのわたしを、見ることはできないのである。  しかしながら、アルジュナよ、ひたむきな誠信(バクティ)によって、このようなすがたのわたしを如実に知り、見、またわたしに帰入することができる。パランタパよ。  パーンドゥの子よ、わたしのために行為をなし、わたしに専念し、わたしに誠信をささげ、執着を離れ、一切万物に対して敵意のない者は、わたしのもとに到達する。  アルジュナはいった。  このようにたえずつとめて、誠信をささげておん身を信奉する者と、不滅の非顕現者(を信奉する者)のうちで、より実修(ヨーガ)に通暁した者はいずれでしょうか。  聖バガヴァットはいった。  意(マナス)をわたしに向け、つねに実修を修めて、最高の信心をそなえてわたしを信奉する者は、最もよく実修を修めた者と、わたしには考えられる。  しかしながら、不滅、不可表現、非顕現、あらゆる場所に遍満し、不可思議、不変、不動、永遠なものを信奉する者、  すべての感覚器官を抑制し、すべての対象を平等に見て、一切有情の利益を喜ぶ者、—彼らは必ずわたしのもとに到達する。  心を非顕現なものに専念させる者の苦労は、さらに大きい。なぜなら、非顕現なものの境涯は、肉体をもつ者には到達しがたいから。  これに対して、すべての行為をわたしにささげて、わたしに専念し、ひたむきな実修をもって、わたしを瞑想しながら信奉し、  心をわたしにのみ向ける者を、プリターの子よ、わたしは死の輪廻海から、ただちに救い出す。  心をわたしにのみ向けよ。理性をわたしに専念させよ。そのあとで、おまえはわたしのなかに宿ることになろう。(これについては)少しも疑いはない。  ダナンジャヤよ、もしおまえが確固としてわたしに心を集中できないなら、反復的心統一の実修によって、わたしのもとに到達するように望め。  もし、おまえが反復的心統一さえできないならば、わたしのための行為に専念せよ。わたしのための行為を行なうだけでも、おまえは完成に到達しうる。  もし、わたしへの誠信によりながら、これさえおまえにできないならば、自己〔心〕を統御して、あらゆる行為の結果を捨離せよ。  なぜなら、知識は反復的心統一よりすぐれ、瞑想は知識にまさり、行為の結果を捨離することは、瞑想よりすぐれ、捨離からただちに寂静が生ずるから。  すべての有情に対して憎しみをもたず、友情に富み、あわれみの情にあふれ、苦楽に対して心を等しく保ち、忍耐強く、利欲と我執を離れ、  つねに心が満ち足り、実修を行ない、心を統一し、強固な決意をもち、意と理性とをわたしに向け、誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  世間からも嫌われず、また世間をもわずらわさず、喜びと怒りとおそれと悲しみを脱した者、彼はわたしにとって愛しい者である。  少しも期待をいだかず、清浄であって用意周到、公平であって動揺を離れ、すべての意図された行為を捨てて、わたしに誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  喜ばず、憎まず、悲しまず、期待せず、善行・悪行を捨離して誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  敵と友とに対して平等、名誉・不名誉とに対してもまた同じく、寒暑、苦楽に対して心を等しく保ち、執着を脱し、  非難と賞讃とを等しくみて、沈黙し、何ものにも満足し、住居(すまい)をもたず、堅固な心で、誠信をささげる者、彼はわたしにとって愛しい者である。  しかし、いままで述べた不死の(状態に到達させる)この正法を信奉し、信仰心をもってわたしに専念し、誠信をささげる者、彼はわたしにとってとくに愛しい者である。
訳(c)宇野ヒロミ
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マハーバーラタ Mahabharata 
サンスクリットで書かれた壮大な物語。「バラタ族の戦争をものがたる大史詩」の意。「ラーマーヤナ」とともに古代インドの2大叙事詩である。「マハーバーラタ」も「ラーマーヤナ」も、基本的には世俗的な作品であるが、両者は宗教儀式で朗唱され、聴衆には宗教的功徳がさずかると考えられている。

「マハーバーラタ」は、前10世紀ごろ北インドにおこった2大部族の争いが、吟遊詩人などによってかたりつたえられるうちにおびただしい補足がおこなわれて、4世紀ごろ現行のような形になったと思われる。全部で18巻からなり、10万頌(しょう:1頌は16音節2行)をこす長大なものである。

「マハーバーラタ」の中心テーマは、2つの王族の争いである。名門バラタ族の王子ドリターシュトラには100人の王子があり、カウラバとよばれていた。また弟王子パーンドゥには5人の王子があり、パーンダバとよばれていた。この両者が王国の所有をめぐってあらそい、結局パーンダバの一族が勝利する。

この物語を軸にしてさまざまな神話や伝説、宗教、風俗などがかたられる。とりわけ第6巻にある「バガバッドギーター(神の歌)」は、ビシュヌ神の8番目の化身であるクリシュナが、パーンダバ一族の英雄アルジュナと人生についてかたるもので、ヒンドゥー教の聖書ともされている。

このほか、貞女の物語「サービトリー物語」や、夫婦愛をうたった「ナラ王物語」などがよく知られており、「一角仙人物語」は歌舞伎の「鳴神」の原型といわれている。また、後世のいくつかの付録のひとつである「ハリ・バンシャ(ハリ神の系譜)」は、クリシュナの生活と家系を詳細に論じている。

「マハーバーラタ」がのちのインド文化にあたえた影響ははかり知れず、「マハーバーラタ」に材をとった文芸・美術作品は数多い。また東南アジア各地にも多大の影響をおよぼしている。

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ラーマーヤナ Ramayana サンスクリットで、「ラーマ王の物語」を意味する。マハーバーラタとともに古代インドの2大サンスクリット叙事詩である。「ラーマーヤナ」は7編、2万4000頌(1頌は16音節2行)からなる。古代の英雄ラーマ王の物語が、前数世紀ごろからひとつのまとまった形をとりはじめ、多くの追加や補足がなされて、おそらく3世紀ごろに現在の形になったものと思われる。とりわけ第1編と第7編は後世の付加と考えられるが、これにより物語としての体裁がいっそうととのえられた。

「ラーマーヤナ」は、王子でありビシュヌ神の第7番目の化身であるラーマの誕生と教育の物語である。文武にすぐれたラーマ王子は、美女シーターを妻とするが、継母に王位継承をさまたげられる。ラーマは追放の身となり、シーターと弟のラクシュマナをともなって森にはいり、悪魔を退治する。しかし魔王ラーバナににくまれ、幽閉される。ラーマは猿の将軍ハヌマットと、猿と熊の軍隊の助けによって、長い探索のすえ、ラーバナを殺害し妻シーターをすくいだす。ラーマは王位につき、善政をおこなうが、国民は幽閉中のシーターの貞節をうたがう。シーターは潔白であったが、ラーマとの間の双子の息子を、この作品の著者であるといわれているバールミーキ仙人にゆだね、大地にのまれて世を去る。ラーマもやがて王位をしりぞき、天界にのぼる。

「ラーマーヤナ」は基本的には世俗の作品であるが、聖なるベーダ文献(→ ベーダ)との多くの混合がみられる。ラーマ、シーター、ラクシュマナ、ハヌマットは、それぞれ王侯にふさわしいヒロイズム、妻にふさわしい献身、兄弟の献身、忠臣としての任務の理想的具現者として、ひろくあがめられている。「ラーマーヤナ」の朗唱は宗教的行為とみなされ、その叙事詩の場面はインドや東南アジアの各地で演劇化されている。翻訳や校訂本(もっとも有名な版は16世紀のヒンドゥー詩人トゥルシーダース版である)をとおしてひろく知られているので、「ラーマーヤナ」はのちのインド文学に大きな影響をおよぼした。

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文献
長尾雅人編『世界の名著 バラモン教典・原始仏典』中央公論社、1979年
マーガレット・シンプソン編著、菜畑めぶき訳『マハーバーラタ戦記』PHP出版2002年
河田清史著『ラーマーヤナ インド古典物語』(上)(下)レグレス文庫1・2、第三文明社、1971年
上村勝彦訳『バガヴァット・ギーター』岩波文庫、1992年
上村勝彦著『バガヴァット・ギーターの世界 ヒンドゥー教の救済』ちくま学芸文庫、筑摩書店、2007年
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# by takumi429 | 2013-06-10 08:42 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

8.『儒教と道教』

8.『儒教と道教』
初版の雑誌掲載時の題名は『儒教』。官僚精神の典型である儒教を批判することで、官僚精神を批判することをねらった論文。儒教だけでなく道教を付け足したのは、正統と異端の両方をそろえるため。正統たる儒教だけでなく、異端たる道教も、呪術的世界を廃棄するどころか、助長し、呪術的世界そのものとなってしまったことを明らかにしている。

まずは中国史をざっとさらってみよう。

中国史年表

王朝・時代名       ポイント
殷    前16-11世紀   神権政治 王の卜占(甲骨文字)人身供養 羌族を捧げる
周 西周 前11世紀-B.C.771  封建制(各地に王族・諸侯を配置して支配させる)
  東周 B.C.770-256
春秋時代   770-476  都市発展時代 鉄器による飛躍的農業生産増大 孔子・墨子
戦国時代   475-221                        諸子百家
秦      221-206  始皇帝 家産制(国家を皇帝の家産として支配する)の始まり
前漢     202-A.D.8
新    A.D.8-23     儒教の官学化 体制を正当化するものであって行政の指 針とはならず
後漢     25-220   黄巾の乱184 ← 太平道(道教の一派) 華北・華中の人口激減
三国時代   220-280  北族(北夷)の流入
普      256-316
五胡十六国  316-439  遊牧民族の中国北部への流入・占拠
南北朝時代  439-589  
隋      581-618  新たな北族の勝利   選挙の制
唐      618-907             科挙の制
五代     907-960
北宋     960-1127  王安石の改革1069-76 科挙制度完備
南宋     1127-1279   士大夫 官僚=大地主=豪商の三位一体  朱子学の誕生
元      1271-1368  塩引(えんいん)(専売の塩の引換券)と商税(間接税)による財政 紙幣の発行
              ラマ教(チベット仏教)の王宮席巻
              紅巾の乱1351-66 ← 白蓮教(終末論的宗教結社)
明      1368-1644  漢人王朝 「海禁」朝貢外交への後戻り 宦官の暗躍
清      1644-1912  女真族支配 アヘン戦争1840-2 
              太平天国の乱1851-64(拝上帝会←キリスト教の影響)
中華民国   1912-
中華人民共和国1947-

ヴェーバーの世界史認識で特徴的なのは、封建制と家産制の区別です。
封建制(ヨーロッパのみに起きた)
 君主と騎士との間の自由な契約関係
 関係の隙間をぬって、誓約共同体としての自治都市が生まれ、ブルジョワジーと資本主義が孕まれた。

家産制国家
 国家は王や皇帝の家の財産の拡大とされた

中国では科挙制度によって、皇帝と対抗する貴族や領主が育たず、皇帝権力におもねることで、官僚利権をもとめる士大夫たちが育った。
官僚は基本的にほとんど無給だった(あるいはあっても薄給だった)。通貨の不足・取引の手間が大きすぎるため、税収をいったん国庫に納めてから官僚の給料が払われるのではなく、現地で徴収した税を一部だけを中央に上納して残りを公然と着服した。
3年ごとに任地を移動する。現場の実務は地方の実務官僚(「胥吏」しょり)が担った。
科挙制度によって、官僚は建前としてあらゆる階層から抜擢され、皇帝の臣下となるとされた。実際には富裕な「士大夫」とよばれる、官僚と土地所有者と商人の三位一体の階級が形成されていった。しかし皇帝に対抗する勢力とはならずあくまでも皇帝とその帝国に寄生する知識人=有力者でしかなかった。
科挙制度で重視されたのは、専門知識ではなく、詩作と文章の巧みさと儒教知識の豊富さだった。
試験の席次は発表され、とくに「殿試」での席次(トップは「状元」)はその後の出世のコースを決めた。

こうした経済・政治状況にたいして、中国の宗教・思想は、適応するだけで何ら変えることはなかった(現世適応)

儒家 人間関係調節的な教えの羅列 冠婚葬祭の集団(「葬式屋」)
 孔子 冠婚葬祭の時の音楽の調和を人間関係にあてはめていった?
   「仁」(人が二人):人間関係のみごとな調和
   「礼」:乱れのない人間関係の遂行 祭儀の破綻のない遂行
墨家 上帝(人格神)の下の平等を主張 防衛戦専門の戦争請負人集団(「工兵」)
 墨子 工具としての規矩準縄(きくじゅんじょう)(規はコンパス,矩は直角定規のことで,それぞれ円形と方形を作り出すための器具。準は水準器,縄は下げ振り縄のことで,それぞれ水平と垂直を作り出すための器具)から思索をめぐらす。とくに「準」(水準器)から平等論を発想している?

儒教は宗教的なことにはまるで言及しない(「鬼神を語らず」)。

荘子・老子 規則としての礼重視の儒家批判。「道(タオ)」の原理を主張。
      「道」(あらゆる現象に先立ち、その背後にあって、この世界を支配している原理)

道教 中国古来からある呪術的自然信仰
   現世の御利益(ごりやく)、とりわけ不老不死をもとめる。
  老子を教祖にし、仏教との対抗意識から体系化
  陰陽と5行(木・火・土・金・水)による循環原理

朱子学 道教の影響の下、理(世界の形成原理)と気(世界の実質原理)の絡み合いから世界を説明。
    理は人間に内在して性となり、仁義礼知となって発現して国家・社会にひろがっていく。
    儒教の古典を「四書五経」として整理。科挙試験の内容となって思想界を支配。

世俗適応の官僚の精神(儒教)は、現実的な合理主義にみえるが、呪術的な世界を放置したため、それは「呪術の森」たる道教となって肥大化して、中国民衆の世界を支配している。呪術からの解放(脱呪術化)は、現実適合の思想ではなく、宗教的な先鋭な思考による変革なくしては行われないのである。

参考文献
宮崎市定『科挙 中国の試験地獄』中公新書15(1963年)
平山茂樹『科挙と官僚制』山川出版社(1997年)
宮崎市定『科挙史』東洋文庫470(1987年)
岡田英弘『中国文明の歴史』講談社現代新書1761(2004年)
杉山正明『モンゴル帝国の興亡』講談社現代新書1306・1307(1996年)
森三樹三郎『中国思想史』レグルス文庫 第三文明社(1978年)
アンヌ・チャン『中国思想史』知泉書房2010年
鯖田豊之『ヨーロッパ封建都市』講談社学術文庫1156
窪徳忠『道教の世界』学生社1987年
ヴァンサン・ゴーセール、カロリーヌ・ジス『道教の世界 宇宙の仕組みと不老不死』知の再発見双書150(2011年)
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# by takumi429 | 2013-06-03 08:09 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

7.漢字の呪術的世界

7.漢字の呪術的世界

NHKスペシャル 中国文明の謎 第2集 (2012年11月11日放送)
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/1111/
http://v.youku.com/v_show/id_XNDc0ODI4NTQ0.html

漢字は殷の時代に占いのために発明された 甲骨文字 卜占 天と王とのコミュニケーションの手段
周の時代になって、行政のためのコミュニケーションの手段となった。
表意文字であるので、異なった言語体系の人々を束ねることが出来る。

白川静:漢字の持つ呪術的(まじないの)世界を解明

呪術的世界と宗教的世界

超感性的諸力(ふだんは目に見えないさまざまな力)
アニミズム:物の背後にあってその物を動かしている霊魂(アニマ)を信仰すること
プレアニミズム:見えない力(マナ)がさまざまな現象を引き起こしていると考えること

ヴェーバーの2類型(呪術と宗教のちがい)
神強制:目に見えない力に働きかけて自分の都合の良いように現実を変えようとすること=呪術
 例:丑の刻参り(丑の刻(午前1時から午前3時ごろ)に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を毎夜五寸釘で打ち込むことで恨む相手を殺したり危害を与えようとする呪い)
 直接、現実に力を行使するのでなく、超感性諸力に働きかけて、その感性的諸力の力で現実を変えようとする。
 例:雨乞いの祭り(天に犠牲を捧げて、雨を降らせようとする。犠牲は時には人間のこともある(人身御供))

神崇拝:人間によって神が動かせることをあきらめ、ひたすらその加護を祈ること=宗教

フレイザー(James Frazer1854-1941)の『金枝篇』(未開社会の神話・呪術・信仰に関する集成的研究書)
共感呪術(sympathetic magic)
未開人の思考を支配している呪術(まじない)の原理
(1)類似の法則:類似は類似を生む、結果はその原因に似る
(2)接触の法則/感染の法則:かつてお互いに接触していたものは、空間を隔てて相互作用を継続する
類似の法則による呪術:類感(homoeopathic magic)/模倣呪術(imitative magic)
接触の法則による呪術:感染呪術(contagious magic)
例(1)ある人物をのろい殺そうとする時、その人物に似せた像を突き刺したり燃やして呪いをかける
 (2)ある人物をのろい殺そうとする時、その人物がかつて接してた物(髪の毛など)を焼いたりして呪いをかける。
 人形にその人間の爪や髪の毛を入れて、人形を刺したり焼く、という合わせ技がよく用いられる。
ロマン・ヤコブソンの指摘した
フレーザーの「類似」と「接触」/「連続」という呪術の二つの構成原理は、失語症の2つのタイプの見られる「隠喩的」および「換喩的」という表象作用の二つの軸に対応する区別である
(「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」ロマーン・ヤコブソン『一般言語学』(みすず書房1973収録))

ヴェーバーの「類感的性的狂躁道」(die homoeopathische sexuelle Orgie)
作物世界と人間世界の類似:作物の豊作と人間の多産
豊作を祈願するために、人間の交合を祝う(多産をもたらすべく乱交する)
映画『十戒』より、金の雄牛をあがめる狂躁道
http://www.youtube.com/watch?v=NEeHS1trNcQ
ヴェーバーの考えていた狂躁道とは、このイメージではないかと思われる。

例:小牧の田県神社の豊年祭 この祭りのニュース動画をみてみよう。
「くらやみ祭り」:豊年を祈って放逸な性交をする

フレイザー 呪術師としての王 王は天候調整(雨降らし)の呪術師である
ヴェーバー 「雨司」(Regemacher,rainmaker)としての中国の君主 
 これは、卜占をして、羌族の捕虜を殺して犠牲としていた殷の君子によく当てはまる。

認知意味論のメタファー理論
メタファーとはある集合からある集合への写像(mapping)である。
あるいはある集合の内容を別の集合を使って理解する試みである。

メタファー:「恋は旅である」 恋の経験を旅を通じて理解説明する。
人生の道の途中で僕たちは出会ったよね。それからいろんなことがあったね。晴れの日もあれば、雨の日もあった。すいすいと楽しくいけることもあったけど、つらい道もあった。笑ったり泣いたり怒ったりしながら、一緒に旅をしてきた。でもいま分かれ道に来たんだよね。君は右、僕は左。それぞれが目指している方へ別々に行く日が来たんだ。君の旅は素敵なものになることを祈っているよ、ありがとう、そして、さようなら」。

メタファーとは、二つの集合を(似たものとして)写像する(対応させる)ことである。

この写像の考え方は、類感呪術や漢字を考えるのに使えるかもしれない。

穀物の発芽と成長と豊穣な実り、を、男女の交合と出産、の世界に対応させる。
対応した部分を操作することで対応部分の変化を期待する。

類似の原則とは二つの集合の類似対応を意味し、
接触/感染の原則は、写像(対応付け)を意味する。

漢字は現実の事物の中から特徴ある部分を抽出して線画としたもの、つまりmapping地図化(写像したもの)。
漢字が刻まれた甲骨(亀の甲羅や動物の骨)は世界の写し絵となる。
熱した火箸を押しつけることは世界と、文字が刻まれた甲骨、とを対応させる(感染呪術)ことにほかならない。
世界を写し取った甲骨を読み解くことで、世界(天)の意志を読み解こうとする。
またしたことを甲骨に書くことで、天の下でおこなわれたことが、甲骨に写し込まれるわけである。

漢字とは基本的に似せ絵(像map)である。
それに対して表音文字はどのように世界を写し取り構築するのか、
その結果、どのような宗教世界の違いが生まれてくるのか。
そのことはさきの「古代ユダヤ教」で明らかになって来るであろう。
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# by takumi429 | 2013-05-26 23:41 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

6 の補足

6.補足

カルヴァンの生涯 (http://yokochu.seesaa.net/article/128978377.html 2013.5.20)
1509:フランスのピカルディーで誕生(ルターの26年後)。ドゥメルグによれば、ピカルディー人は自由解放の精神に富んだ船乗りたちで、「勇敢にして短気なピカルディー人」という慣用句がある。カルヴァンは怒りっぽい性格だったと言われるが、自身の多くの書簡に「私は短気であることを告白します」という文章がある。
1523:聖職登録し、パリへ遊学。
1529:父の意志により法律の勉強に転向。
1531:父の死により、生来の希望である古典文学研究者(ユマニスト)になり、文学、古典文学の研究に没頭。
1532:『セネカ寛容論の注解』を刊行。世に知られるようになる。
1533:友人ニコラ・コップ、パリ大学総長就任演説に際して福音主義を説き、教会を追われ亡命。この演説草稿を書いた疑いによりカルヴァンも亡命。
1534:回心を体験、福音主義陣営に入る。故郷に戻り聖職禄を辞退。パリで「檄文事件」(教皇のミサの誤謬を攻撃したビラが、国王の寝室にまで貼られた)が起き、数十人が処刑される。カルヴァンはバーゼルに亡命。
1536:バーゼルで『キリスト教綱要』初版本(ラテン語、全6章)を刊行。
   ついでフランス語版が刊行される。フェラーラからバーゼルへの帰途、
   戦乱のため道が通行止めになりジュネーブを経由。この地でファレルに引き留められ、ジュネーブの宗教改革のために働く。
1538:教会改革についてジュネーブの当局者たちと意見が合わず、追放され、ストラスブールへ。亡命者のためのフランス教会を建てる。
1540:3人の子を持つ未亡人イドレットと結婚。
1541:改革に失敗し、無政府状態となっていたジュネーブへ、再び招聘される。
1547:過労のため悪性気管支カタルを疾病。生涯過度の徹夜により体力を酷使。不断の偏頭痛のため口を開けられない状態が続く。
1553:三位一体を否定するセルベトスを告発。(市議会は火刑を宣告。
   カルヴァンは火刑を免れさせようと努力するが火刑が執行される)
1556:肋膜炎、肺結核に襲われる。
1559:ジュネーブ大学を創立。
1564:7つか8つの病気と戦いつつ死去。

4宗派について (ウィキペディアからの引用)

敬虔派
ルター派の刷新を目指した1宗派
宗教改革に端を発したルター主義も17世紀頃になると、教理の解釈や説教に耳を傾けるのみの受動的なものになっていた。正統主義に見られたこのような風潮に対抗したのがシュペーナーであり、一般の信者の積極的役割と、禁欲的な生活を説いた。1666年、フランクフルト・アム・マインのルター派教会の牧師になった彼は教会の改革に着手し、堅信礼の確立などともに、互いに信仰を深め合う目的で信者が定期的な集会を開くことを提唱した。1670年に「コレギア・ピエタティス」(「敬虔な者の集い」の意)の名のもとに集会を自宅で始め、週2回集って、祈ったり聖書を読み合ったりした。「敬虔主義」の名はこれに由来す(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%AC%E8%99%94%E4%B8%BB%E7%BE%A9 2013年5月20日)

メソジスト(Methodist)とは、18世紀、英国でジョン・ウェスレーによって興されたキリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズム(Methodism)に生きた人々、および、その運動から発展したプロテスタント教会・教派に属する人々を指す。
特徴としては、日課を区切った規則正しい生活方法(メソッド)を推奨した。
メソジスト運動は、本国英国ではさほどの勢力にはならなかったが、アイルランド、アメリカ、ドイツなどに早くから布教し、メソジスト教団は、現在アメリカでは信徒数が2番目に多いプロテスタント教団である。ちなみに、一番多いのはバプテスト教会である。信条としてはルター派に近く、悔い改めによる救済を強調する。カルヴァンの説いた予定説的な考え方はとらない。
これゆえ、ヨーロッパ大陸におけるプロテスタントの二大潮流であるルター派と改革派教会は、イングランドと米国ではメソジスト派と長老派にほぼ重なる。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%88 2013年5月20日)
2013年5月20日

アナバプテスト(英語: Anabaptist、再洗礼派、さいせんれいは)は、キリスト教において宗教改革時代にフルドリッヒ・ツヴィングリの弟子たちから分派した教派
幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づくバプテスマ(成人洗礼)を認めるのがその教理的特徴の一つである。幼児洗礼者にバプテスマを授けることがあるため再洗礼派とも呼ばれる。ただし、彼らにとって幼児洗礼そのものが無効であるので再度洗礼を授けているという認識はない。従って「再洗礼派」を自教会の名称として用いることはない。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88 2013年5月20日)

バプテスト(英: Baptist、漢:浸礼教会、しんれいきょうかい)は、バプテスマ(浸礼での洗礼)を行う者の意味に由来しており、イギリスの分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派。個人の良心の自由を大事にする。
バプテストは17世紀頃にイギリスで始まり、現在ではアメリカ合衆国に最も多く分布している。アメリカ合衆国の宗教人口はプロテスタントが最も多いが、その中で最も多いのがバプテストである。アメリカNo.1と言われるこの保守派に属するバプテスト派、殊に南部バプテスト連盟は、アメリカ合衆国の非カトリック教派団体として最大の規模を誇る。
バプテスト派は、アルミニウスの流れを汲む普遍救済主義を支持するジェネラル・バプテストと、ジャン カルヴァン(カルヴィン)の流れを汲む予定説を支持するパティキュラー・バプテストとに分かれる。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E4%BC%9A 2013年5月20日)

聖公会(せいこうかい、英語: Anglicanism, Anglican Church)は、イングランド国教会 (Church of England) の系統に属するキリスト教の教派。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%85%AC%E4%BC%9A 2013年5月20日)

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で言及されている
バニアンの『天路歴程』 The Pilgrim's Progressの
『天路歴程』は聖書についでプロテスタントに読まれたと言われる本。
これはまるで、「天路歴程すごろく」だ。
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# by takumi429 | 2013-05-20 10:21 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

6.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじ

 6.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の要約

まえおきがたいへん長くなってしまいました。では『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の内容をみていくことにしましょう。

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじ
                            
 第1章 問題の提示
 第1節 信仰と社会階層
 統計をみると、資本主義に参加することと、プロテスタント(新教徒)であることとの間にプラスの(正の)相関関係がある。
 この関係に対して、一般的にはつぎのような説明が考えられる。(1)経済発展が改宗を引き起こした、(2)少数派は経済に専念する、(3)プロテスタントは世俗的だから、(4)営利活動の反動で宗教に向かった。
 しかしこれらの説明に対しては、(1)むしろ宗教性が経済志向を決定しがち、(2)ドイツではカトリックの方が少数派、(3)プロテスタントはむしろ非世俗的だった、(4)プロテスタントでは事業と信仰が仲良く同居していた、という反論が成立する。
 そこでむしろ、一見水と油のようにみえる、資本主義参加とプロテスタントであることが、じつは「親和的関係」(相性のいい関係)にあり、プロテスタンティズム(新教)から資本主義への参加、がじつは説明できるのではないか、と考えられる。それをこれから考察していくことにする。

 第1章第2節 資本主義の「精神」
 まず「資本主義の精神」を体現している思想として、(初期アメリカの文筆家・外交官)ベンジャミン・フランクリン(1706-90)の思想を彼の『自伝』を見てみよう。
 フランクリンは自伝でこう言っている。「時は金である。・・・信用は貨幣である。・・・貨幣は貨幣を生む・・・勤勉と質素を別にすれば、すべての仕事で時間の正確と公平を守ることほど、青年が世の中で成功するために必要なものはない。・・・正直な男であると人に見させよ」。
 彼の自伝にみられる精神は、営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなすような精神である。これに対して、ドイツの高利貸資本家だったヤーコブ・フッガー(1459-1525)引退も他人に儲けさせることもしないで「可能な限り儲けようと思う」と答えたという。フランクリンの精神は、フッガー(このフッカー家への借金を支払うために贖宥状販売がおこなわれた)のような単なる金銭欲とはちがう、ある種の倫理性をもっている。
 フランクリンの自伝にみられた資本の増大を志向する、この「資本主義精神」は、これまでどうり生きていければ良いする「伝統主義」とは対立する。
 ところで、ゾンバルトは経済の基調を、(1)「欲求充足Bedarfsdeckung」と(2)「営利Erwerb」とに分けている。
 ふつう、欲求充足には伝統主義が、営利には資本主義の精神が対応するように思える。しかしことはそんなに単純ではない。営利活動が伝統主義によって営まれていることもある。
 たとえば、19世紀半ばまでのヨーロッパ大陸の繊維工業前貸し問屋をみるならば、①生産過程は農家の裁量に委ねられ、②販売は仲介商人まかせで、③同業種間の反目も少なく、④営業時間も短くて生活のテンポはゆとりがあり、たまに羽目をはずした消費がなされるが、身分相応の生計の維持が目指されていた。
 ところがそこに資本主義的精神をもつ青年実業家(ヴェーバーの叔父がモデル、『伝記』136頁)が登場して変革が起きた。経営組織の形態は同じだが、経営者は、①生産過程の掌握、②販売の掌握をする、③同業者間の競争が生まれる。結果④ゆとりは消え、真面目いっぽうの生活となり、消費をおさえて営利のための資本の再投下がなされるようになる。
 ところでこの精神は、よく問うとみると、人のために事業Geschaeftがあるのではなく、事業のために人がいる、という、じつはきわめて倒錯的で非合理的なことになっている。
 けっして営利を追求する活動にあわせてそれに都合のよい精神が生まれてきた、とは思われない(それだったら、伝統主義のままだったはずである)。ではこの、営利活動を倫理的義務、すなわち「天職Beruf」とみなすようなこの思想はどこから来たのだろうか。

 第3節 ルッターの天職概念
 営利活動での資本増大を「天職」とみなすこの思想は、(聖書外典「ベンシラの知恵」で)世俗の労働を「天職Beruf」と訳したルッターの宗教改革の精神に由来する。つまり彼は修道僧にしか通用しなかった「天職」の論理を世俗の仕事に適用した。
 しかし世俗労働を「天職」とみなすだけでは、「資本主義の精神」がもつ、資本の増大をたえず求める、あの駆り立てられるような心のありかたは生まれない。絶え間ない資本の増大へひとびとを駆り立てた起動力(Antireb)はどこにあったのかを知るために、我々はプロテスタンティズムの禁欲思想にわけいることにする。

 第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理
 第1節 世俗内的禁欲の宗教的基盤
 禁欲的プロテスタンティズムの、主な担い手は、(1)カルヴィニズム、(2)敬虔派、
(3)メソジスト派、(4)再洗礼派系の教派、に分けられる。
 とりわけ(1)カルヴィニズムの「予定説」、すなわち、人は救いと滅びのどちらかに予定されており、それは変更不可能であるという教えは、決定的な影響力をもった。
 ピューリタン革命時のイギリスでまとめられた「ウェストミンスター信仰告白」にはこの教えが明記されていることからも、この教えが一般信者にとっても周知の教えだったことは明らかである。
 自信のない一般の信者が、救いに予定されていることの「証し」を求めるのは無理もなかった。ルッターは世俗の労働も神から与えられた「天職」とみなしてよいとした。だから修道院でおこなわれた合理的な禁欲的主義で世俗の労働を行うことが可能になっていた。カルヴァン派の人々はこの合理的・禁欲的な世俗の労働で「神の栄光」を増大させることに「救いの証し」を見いだそうとした。
 こうした傾向は(2)敬虔派、(3)メソジスト派でも同様であった。ただ両派では感情
的側面が強く、その分だけ合理的な禁欲が弱まっている。
(4)再洗礼派系の教派の教義はこれとはちがう。彼らは心正しき者だけから構成された
「教会」を作り上げようとした。心正しさは精霊がその者に宿ることで証明される。だか
ら精霊が宿るのを妨げるような、人間の本能的で非合理的なものを克服しようとした。そ
の結果、合理的な禁欲主義をめざすことになったのである。
 こうしていずれの宗派の信徒も、神に召命された者であることの証しをもとめて、合理
的で禁欲的な世俗労働へと駆り立てられたのである。

 第2節 禁欲と資本主義精神
 プロテスタントでは牧師が信徒の相談にのり指導することを「司牧」(Seelsorge)という。
 ここでは、この司牧の活動からうまれた神学書、とくにイギリスのピューリタンの指導者だったリャード・バクスターRichard Baxter (1615-91)の書いたものをとりあげる。この司牧(魂のみとり)が宗教的な教えが日常生活へ影響する際の仲立ちの役割をしているからである。
 プロテスタント、とくにカルヴェン派、の司牧では、「救いの証し」とされる「神の栄光」の増大は、有益な職業労働から生まれるとされた。そしてその職業の有益さは、結局、その職業がもたらす「収益性」(どれだけ儲かるか)で測かることができるとされるようになった。しかも楽しみ事は徹底的に否定された。その結果、儲けても、楽しみに使わず、さらに営利活動に投資してどんどん利潤を追求していくことが宗教的に奨励されたのである。しかもそうした経営者のもとには、仕事を「天職」とみなして必死になってはたらく勤勉な労働者さえも与えられた。
 しかし富が増大するにつれて宗教心はうすれていく。その結果、フランクリンにみられた、倫理的ではあるが宗教色の消えた「資本主義の精神」、つまり営利による資本の増大を自分の倫理的な義務とみなす精神が生まれたのである。
 こうしてつぎのことがあきらかにされた。すなわち、資本主義を構成する要素のひとつである、「天職」という考えのうえにたつ合理的な生活態度は、ルッターの「天職Beruf」という考えを前提にしてプロテスタント(新教徒)がみずからの「救いの証し」を合理的な禁欲で追求したことから、もたらされた。
 しかし現代においては資本主義はすでに自律的な自動運動をしており、もはやそれを生み出した精神の支えを必要とはしていない。私たちは、生命のない機械と生きている機械(官僚制)の運動のただ中に、巻き込まれていくばかりである。

 さてこうして「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のあらすじをのべたわけですが、ここでもう一度この作品の内容を整理しなおしてみましょう。

 この著作はしばしば西洋的合理化を述べた作品であるかのごとく語られます。しかし内容を要約すると、解明はおもに経済的な側面に向けられていることがわかります。
 社会の主流である経済体制が、「欲求充足」の経済体制から「営利」中心の資本主義体制に移行する。その移行、あるいは転換はどのように起きたのか、それにたいする宗教の働きが問題とされています。

「欲求充足」の経済に適合的なのは「伝統主義」とよばれる、これまで通りの生活ができればいいとする精神です。それに対して、「営利」活動が中心となった資本主義は、もちろん伝統主義によって営まれることはあるにせよ、やはりそれに適合的なのは営利を自己目的とした「資本主義の精神」です。

 なお、ここでの資本主義とは、商人が地域による商品交換率の違いを利用してもうける商業資本主義や、金融市場を利用して(相場の時間による差をりようして)利益をあげる金融資本主義でもなく、いわゆる(労働者には精算して物の価値よりも少なく払うという、生産現場と市場との価格差を利用して利益をあげる)「産業資本主義」を指しています。(参照:岩井克人著『ベニスの商人の資本論』)
 産業資本主義の定義としてはつぎのものをあげておきましょう。
「資本主義 封建制度の次いで現れ、産業革命によって確立された経済体制。生産手段(生産過程において労働と結合して生産物を算出するために消費・使用される物的要素。労働対象(原材料・土地・樹木・功績など)と労働手段(道具・機会・建物・道路など)とからなる)を資本として私有する資本家が、自己の労働力以外に売るものをもたない労働者から労働力を商品として買い、それを上回る価値を持つ商品を生産して利潤を得る経済構造。生産活動は利潤追求を原動力とする市場メカニズムによって運営される」(『大辞泉』)。これは基本的にマルクスの定義する「資本主義」と同じです。

 しかしこの「資本主義の精神」はそれ以前の「伝統主義」からは生まれたとは考えられません。伝統主義が「今生きてあること」(dasein)を大切にするのに、「資本主義の精神」は現在を犠牲にして果てしない彼方にあるものへ向かって駆けていく、そうした倒錯した精神だからです。
 そうした精神の由来を、ヴェーバーは修道院の禁欲主義に求めます。世俗を離れ、ただ神のみを想い、厳しい労働によって自分たちばかりか俗人たちの救済を作り上げていた修道士の活動の論理。この論理はどのように世俗へともたらされたのでしょうか。
 神からの呼びかけによって与えられた使命としての職業(Beruf) はそれまで、聖職のみに限定されていました。ですから修道僧の禁欲もあくまでも世俗の外の修道院に限定されたままでした。
 しかしルッターが、世俗の一般の仕事も、神からのお召しによる「職業」であるとみなしたことで、この修道院だけにあった禁欲主義は世俗へともたらされました。ちょうどレールを切り替えることで電車が引き込まれてくるように、禁欲主義は世俗の労働に適用可能になりました。
 その意味で、ルッターはレールを切り替える人、つなわち「転轍手」(『宗教社会学論集』58頁)であるわけです。
 しかし世俗の仕事が「職業=使命」とみなされるだけでは、あの追いたれられるような、強迫的な労働は生まれません。
 それをもたらしたのは、カルヴァン派の宗教カウンセリング(「魂のみとり」)でした。彼らの「魂のみとり」(司牧)では、業績とか収益が「救いの証し」であるとみなされました。その結果、自分が救いに予定されているか不安な平信徒は、「救いの証し」をもとめて、いまや聖職と同格の「職業」と見なされるようになった世俗的労働にまい進することになったのです。

31.図にまとめるといかのようになるでしょう。

 修道院の禁欲--┐転轍
             ↓
伝統主義-→×  資本主義の精神   
   ∥         ∥ (適合)
欲求充足---→営利(資本主義的経営)

 ルッターの転轍       :仕事を「職業=使命」とみなす
         「意味連関」:修道僧の禁欲的労働の論理が世俗労働をつかむ
 カルヴァン派の「魂のみとり」:収益を「救いの証し」とみなす 
         「感情連関」: 不安→証しの追求 心理的起動力が生まれる

 ルッターの転轍により、世俗労働=「職業」とみなされたことにより、修道院の禁欲の論理が世俗の労働をつかみます。人々は日常の仕事を、神から与えられた、神の意にそった「使命」としてはげみます。つまりあたらしい意味の連なり(意味連関)が世俗の労働をとらえたのです。 
 カルヴァン派の魂のみとりは、収益・業績=「救いの証し」とみなしました。不安にあえぐ人たちは「証し」を求めて仕事(職業)にまい進しました。こうして禁欲的な労働の心理的な機動力がうまれたのです。収益をあげても救われるわけではありません。しかし一般の信徒は心理的に収益をあげて安心したいと思ったです。つまりここでは目的-手段の連関があるのではなくて、不安から労働するという、心理的な連なり(感情連関)があるわけです。

くり返しになりますが、ここでは二つの「解釈がえ」があったわけです。
 ルッターは日常的な労働が「転職」として解釈しなおしました。その結果、聖職者の世界と俗人の世界の区分の廃絶され、聖職者(修道士)の論理が俗界への侵入してきました。しかしそれだけでは社会資本主義へ転換するには不十分でした。
 カルヴァン派では収益・業績が「救いの証し」と解釈されました。その結果世俗的労働にまい進する心理的機動力が生まれました。そうして、伝統主義が支配していた経済は、資本主義が支配する経済システムへと移行したのです
 つまり、伝統主義と結合していた伝統主義的経済(単純再生産)を、宗教的な合理的禁欲思想が捉える。その帰結として、伝統主義的経済システムから資本主義的経済システムへの移行がうまれたのです。
 ここでは新しい社会科学のアプローチが生まれています。つまり行為をする人間がその行為をどのような意味づけをしているのか、その意味づけをちゃんと解釈し理解することで、その行為はどのように社会を作り上げていく、あるいは社会を変革していくのかを説明しようとするアプローチです。ヴェーバーはとりわけ後者の社会変革の方に関心があったように思われます。

後年、ヴェーバーは『社会学の基礎概念』(1920)でつぎのように書いています。「社会学とは、社会的行為を解釈しつつ理解し、そうすることによって社会的行為の経過や結果を因果的に説明しようとするひとつの学問である。」(WuG85頁)

もちろんカルヴァン派の平信徒のふるまいように、理屈では説明できないけど、感情としては説明つく場合もあります。そうしたことをふまえてヴェーバーは次のように書いたのです。「行為の領域についてみると、とりわけ、その行為によっておもわれた意味連関があますところなくはっきりと知的に理解されるならば、それは合理的な明証性をもつことになる。行為において、その体験された感情連関が完全に追体験されるならば、それは感情移入による明証性をもつわけである。」(WuG86-7頁) 
 私のみるところ、ヴェーバーの理解社会学は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を例にするともっともわかりやすい。というよりも、ヴェーバーはこの論文でおこなったことを学として成立させるために、「理解社会学」を構想したのではないかと思われます。
 その意味でもこの論文は、社会学者ヴェーバーの誕生を告げる論文でもあったのです。
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# by takumi429 | 2013-05-18 18:04 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

5.「ルターとドイツ国民」と『イエスの生涯』にいて

5.「ルターとドイツ国民」と『イエスの生涯』にいての補足説明
さて前回はドイツ第二放送ZDF制作の『ドイツ人』(Die Deutsche)の中から、「ルターとドイツ国民」(Luther und die nation)の前半を私がつけた日本語字幕付きで見て頂きました。
この番組ではドイツ人の自覚にとってルターの宗教改革、とりわけ、ドイツ語聖書翻訳がいかに重要であったかが語られていました。
以前も言及しましたが、ナショナリズムについての画期的研究書に、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』という本があります。http://shakaigaku.exblog.jp/6178962/(国際関係学科進学の予定のみなさん、必読書です)。
この本は、「想像の共同体」である国民意識がどのようにうまれていくかを述べています。
ラテン語という神聖な共通語(「真実語」)の世界は、ルッター訳聖書などのベストセラー出現により、出版資本主義による特定の俗語(出版語)の流通することで、それぞれの地域に分解します。そして、その俗語が行政語になっていくことで、その行政を政府とする国民国家が生まれていきます。
ドイツにはさまざまな方言があり、現在もあるのですが、そのなかで「高地ドイツ語」に基づいて、ルターの聖書訳が書かれることで、それが「共通語」の地位を獲得して、ドイツ地域の人々の意思疎通、さらには行政の場合の通達・報告・法律などの行政用語となって、政治行政が可能となり、ドイツが民族国家を形成する準備がなされたのです。ドイツの統一以前から、「ドイツ語」による文化的な統一は準備されました。ただドイツ統一は、同じドイツ語圏であるオーストリアをのぞく部分をプロイセンという東の1国家がまとめるという形でなされることになります(ドイツ帝国)。

さらに前回後半では、ルカ福音書にもとづいてイエスの生涯を描いたThe Jesus Film (Japanese Version with Subtitles) (http://www.youtube.com/watch?v=Swrvmf-dEGc)を見て頂きました。
「福音書」というのは、イエス=キリストの生涯を描いた新約聖書の文書を指します。この福音書には、マルコ福音書、マタイ福音書、ルカ福音書、という共通部分の多い、「共観福音書」とも呼ばれる3つの福音書と、神学的なヨハネ福音書、の4つがあります。
共観福音書(マルコ・マタイ・ルカ)では、マルコ福音書が最も古く、マタイ福音書とルカ福音書は、マルコ福音書ともうひとつべつの資料(Q資料)を使って書かれたのだろうとされています。
福音書は、イエスの生涯の散発的な出来事の羅列の部分と、捕らえられ裁かれ十字架にかけられ(復活する)といういわゆる「受難物語」と呼ばれる部分に分かれます。
受難物語(英語でpassion)はそのまとまり具合から、初期キリスト教徒たちによる典礼(儀式)からうまれたのだろうとされています(トロクメ『受難物語の起源』)。つまり、たとえば最後の晩餐のシーンの、「これは私の血であり、肉である」といってワインとパンを分け与える箇所は、実際に信徒たちがワインとパンを分け与える儀式をしながら、その箇所をとなえながら再現していただろうことです。十字架にかけられたイエスが神の子救世主キリストであった、ということを、この受難物語を儀式のなかでくりかえしとなえ再現したために、この受難物語はまとまりよく残されたわけです。
聖書学は、こうした聖書のなかの文言が、実際の現実のどういう場所で生まれ立ち現れてきたのかを探ろうとします。ちょうど、源氏物語がその文体的な特徴から、宮中の女性たちのおしゃべりの中からうまれてきたのではないか、というような推測したりするのと同じです。文言が生まれ立ち現れる生活の場面のことを、聖書学では「生活の座」(Sitz im Leben)といいます。あとで読むヴェーバーの『古代ユダヤ教』でも、旧約聖書の文言がどんなユダヤの現実生活の場面で生まれてきたのかを探りますが、これは20世紀前半に生まれたこの「生活の座」の探求という研究の方法をヴェーバーなりに取り入れようとしたものと言えます。

補足
受難物語を音楽にしたものでおそらくもっとも有名なのは、バッハの『マタイ受難曲』でしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=pf4UNJqv_-A&list=PL609BD7879558AAA0
パウロが三回イエスを知らないと言った直後に鶏が鳴くという場面のあとに歌われる「哀れみたまえ、わが神よ」http://www.youtube.com/watch?v=97iJonCTe2g&list=PL609BD7879558AAA0
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# by takumi429 | 2013-05-10 21:41 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

4.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(3)

4.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(3)

マルチン・ルター
ルッターの生涯
 ここでルタ-の略年譜をあげておきましょう(徳善1912参照)

1483年(0歳)アイスレーベンで誕生(11月10日)
1501年(18歳)エルフルト大学教養学部に入学
1505年(22歳)法学部に進む。落雷を受けたのを着にアウグスティヌス修道院入り
1507年(24歳)司祭となる。神学研究を始め、講義も一部担当とする
1507年(28歳)ヴィッテンベルクへ移る
1512年(29歳)神学博士、ヴィッテンベルク大学生聖書教授となる
1513年(30歳)第1回詩篇講義。塔の体験(1514年?)
1515年(32歳)ローマ書講義。[教皇レオ10世、ドイツでの贖宥状(しょくゆうじょう)販売を許可]
1517年(34歳)95箇条の提題(10月31日)
1518年(35歳)第2回詩篇講義、ハイデルベルク討論、アウグスブルクで異端審問を受ける
1520年(37歳)『キリスト教界の改善について』『教界のバビロン捕囚について』『きシルト者の自由について』など、宗教改革的著作を相次いで出版。教皇庁、破門脅迫の大教勅を発する
1521年(38歳)正式に破門される。ウオルムス喚問、帝国追放を宣告され、ワルトブルク城に保護
1522年(39歳)ヴィッテンベルク町教会で連続説教。新約聖書のドイツ語訳を出版
1523年(40歳)改革運動を開始
1525年(41歳)農民戦争。カタリーナ・フォン・ボラと結婚。『奴隷的意志について』を出版
1530年(47歳)アウグスブルク信仰告白を提出
1531年(48歳)ガラテヤ書講義
1534年(51歳)旧約聖書のドイツ語訳完成。『旧新訳聖書』として出版
1536年(54歳)創世記講義(~1545年まで継続)
1546年(63歳)アイスレーベンで死去(2月18日)

 ルタ-がドイツ語を作った
 ルタ-が聖書をドイツ語に翻訳した、というと、すでに共通のドイツ語があって、それへ翻訳したように思えます。しかし、じっさいには、大きくは低地ドイツ語と高地ドイツ語に分かれる、さまざまな方言がしゃべられていたのです(現在でもドイツのの方言はかなりの違いがあります)。文章語としては神聖ローマ帝国の公用語はラテン語でした。だからルターが高地ドイツ語で聖書を訳し、それが活字となって読まれることで、この高地ドイツ語がドイツの標準語となったのです。
ヴェーバーの論文との関連でいえば、ルターの生涯で大きなポイントは、ルターがもともとアウグスティヌス修道会の修道士だったという点です。
西洋キリスト教の歴史において、それまでのゲルマン人をキリスト教化する大きな推進力は、修道会と教会でした。
ローマの教会は当初はいつくかある大都市の有力な教会の一つにすぎませんでしたが、次第に力を強め、ローマ帝国の後継者としてゲルマンの王に皇帝の冠を授けるという役割を演ずることで、(ビザンチン帝国のギリシャ正教をのぞく)いわゆるカトリックの世界において頂点に立ちます。
 このいわば、体制側とでも言うローマ教皇を頂点としたカトリック教会は、領民から10分の1税を徴収する、教会が属するピラミッド型の組織でありました。
 かたや、修道会運動は初期キリスト教の理念の従った清貧と信仰の集団として、民衆の尊敬を受けていました。(修道会はどうじに学問と技術革新の場でもありました。ルターは修道会で学問をまなび聖書教授となりましたし、たとえばシャンパン・ワインというのは修道士が発明したものです)。教会の腐敗と堕落が蔓延するたびに、キリスト教内部からはいくつもの修道会運動がおこります。修道会は、禁欲的に労働と祈りをもっぱらとする集団として現れました。しかし、それは時にはあまりに極端となると、ローマ教皇を頂点とするカトリックの教会組織を脅かしかねない存在として現れます。カトリック教会は極端でないものは、正統としてのお墨付きを与えて、自らの組織のなかに組み込みますが、極端なものは異端として弾圧しました。
修道士たちの良き行いによる業績は「教会の宝」としてプールすることができるとしました。このプールされた「教会の宝」としてローマ教皇の裁量でほかの人々に分け与えることができるとされました。教皇から宝を分け与えれられた人は、罪の償いを免じられる。こうして教皇が教会の宝を与える証明書が「贖宥状」でした(徳善2012,p.64)
 しばしば「免罪符」と呼ばれますが、ただしくは「贖宥状(しょくゆうじょう)」が正しいのです。「贖宥」とは、カトリック教会で、「信徒が果たすべき罪の償いを、教会が免除すること」です。つまり、「罪を免じる」のではなくて、罪を犯した人がその贖(あがな)い(つぐない)をしなくてもいい、という証明書なのです。なぜなら、そのつぐないは、修道士たちがしてくれていてそのつぐないが教会にたくさん蓄えられていて、つぐないができない信者はお金を教会に払うことで、そのつぐないを代行してもらえるからです。
 もちろん、罪も盗みや殺人とか背信とかの大罪を犯した者は地獄に落ちるしかありませんが、償い可能な罪ならば、それは死後、「煉獄」という場所で神から与えられた苦しみに耐えるならば、最後に審判では天国にいくことができるとされました。
 「煉獄」というのは、それまでの、天国と地獄の2つの死後の世界に、あたらにつけ加えられた死後の世界です。「浄罪界」と呼ばれたこともあります。カトリックの世界観では、死後の世界は、地獄、煉獄、天国の3つです。この世界観をもっとも完成された形で表現したのが、ダンテの『神曲』という詩です。煉獄では人間は7つの大罪(傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・強欲・暴食・色欲)を業火を受けながら浄化するのです。
 ルターは罪のつぐないをお金で他の人に代理になってもらうなどというのはとんでもないことだとしたのです。ではルターの思考はどのように生まれ展開されていったのでしょうか。
 徳善(2012)によれば、ルターの宗教思想の始まりは、聖書講義をしている時の躓(つまづ)きに始まります。
 ルターは大学で学生に講義をしている時に、聖書の『詩篇』第31編2節の「あなたの義によって私を開放してください」という一節にはたと行き詰まってしまいます。
 この詩句はダビデが神に訴えた歌とされています。普通に考えれば、「神が与えた律法を私たちはまもっているのだから、神さま、神さまに正義というものがあるなら、その正義にもとづいて私たちをこの困難から開放してください」という意味になるでしょう。別に「わからない」というほどのこともないように思えます。
 しかしルターは神の「義(正義)」というものをもっと厳格に考えていました。それは神の「怒り」「裁き」であって、「救い」と結びつくものではない。「わからない」。では、学生に教えられはしない。ルターはもがきます。
 ここでなぜルターは「わからない」と思ったのでしょうか。ふつうなら、「神が与えた律法(きまり)をちゃんと守っているよ、だから助けて下さいよ」、と読める部分が、ルターが「理解できない」と思ったのはなぜなのか。
 それは、神の与えた律法を自分がきちんと守っているという自信が持てないからです。なぜ自信がもてないのか。自堕落だからか、いやそうではなくて、自分にとても厳しいからこそ、自分のいたらなさをつねに感じているからこそ、真剣に信仰しているからこそ、自分は律法をちゃんと守っているぞ、というようなおごりと満足を得られない、自分は徹底的に罪深い存在なのだと自覚せざるをえないのです。「自分はそこそこいい人間だ、ちゃんとしている」という薄っぺらなおごり(驕慢)は、絶対の神のまえに打ち砕かれるのです。
 ではどう解釈すべきなのか。ルターは言語学的にこの部分を調べます。
 「神の義」というのは文法的には「所有者の属格」という用法が使われている。たとえば「お父さんの贈り物」という表現の場合、「贈る」という行為をする主体は「お父さん」である。「お父さん」が「贈る」という行為をすると、それは「お父さん」の手をはなれ、贈られた人のものとなる。「所有の属格」というのはそういう用法である。だから、「神の義」というのも、神から人間へと「贈り物」として与えられる、「義」はそれを贈られた人間の所有するものとなって人間は救われるのだる。ではその「贈り物」とは何か、それが神の子、イエス・キリストにほかならない(徳善2012,pp.37-40)。こうして、旧約聖書の「詩篇」のなかに、その後の「新約聖書」にかかれる救世主イエス・キリストの予告を、ルターは読み込んだのです。
 これによって、旧約聖書と新約聖書の関係もつきます。つまり旧約聖書は私たちに律法をあたえ、新約聖書はそれを守れない罪深き私たちを救う救世主イエスを与えるのです。
 ルターはこの着想を塔の中で得たといいます(塔の体験)。ルターはこの着想をさらに押し拡げ、「十字架の神学」というものを作り上げます。それは以下のような内容です(徳善2012,p.60)
1.律法とそれにもとづく人間の行いによっては、人間は救われないこと。
2.罪に堕ちた後の人間の自由意志とは名ばかりであって、これによるかぎり、人間は罪をおかすほかないこと。
3.神の恵みを得るには、人間は自己自身に徹底的に絶望するしかないこと。
4.神の救いの啓示(宗教的真理の人間への知らせ)は、キリストの十字架によってのみ与えられること。

「キリストの十字架」とは、神の子イエスが私たち人間の罪を背負って犠牲となって十字架にかけられたこと、そのことによって罪深き私たちは救われるということ、でキリスト教の根本的な教えです。この教えは、イエスが捕らえられ十字架にかけられるという「受難」(passion)の話として、キリスト教徒には繰り返し語られ、また絵画・彫刻・ステンドグラスなどで、字の読めない民衆にも分かるように教えこまれてきました。
(イエスの受難物語についてはhttp://www.jizai.org/wordpress/?p=405)
(十字架にいたる7日間についてはhttp://ebible.web.fc2.com/jujika01.htm)

 さてこうした神学を確立したルターにとって、聖書に書いてない煉獄という世界や金銭によって罪のあがないを免除されるとする贖宥状(しょくゆうじょう)というのは、許しがたい逸脱でした。そこで彼は学者としてこの問題を公開討論にしようと、質問状の形で、つまり95箇条の提題として提起したのです。
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# by takumi429 | 2013-04-22 11:43 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

3.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(2)

3.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(2)

 基礎学力としての世界史
 みなさんのなかには、高校時代、世界史を選択しなかった人がいると思います。あるいは、授業はあったけど、受験科目には選ばなかった。だからほとんど勉強しなかったという人はいますね。
 正直に言いましょう。世界史を勉強しなかったあなたは、大学生になるための基礎学力がかけています。ちょうど、それは数学を選択しないで大学の理科系に進んだ(あるいは微分を学ばずに経済学部に進んだ)ようなものです。世界史を知らないと、海外のニュースを聞いてもほとんど理解不能です(そんなことはないという方、それはわかったような気になっているだけです)。
 また大学の学問の多くはもともとは西洋からの輸入学問ですから、その学問がうまれた背景となった西洋世界の歴史をしらないと、その学問の内容がいまいちよく理解できません。そんな高尚なことでなくて、たとえば海外を旅行したとしても、歴史を知らないと、何を見ても、「きれいだね」、「なんか壊れてるね」、というふうに表面的にしかものをみることができません。
 だから大学生になったら、世界史を勉強していなかった人は大急ぎで世界史の勉強をする必要があります。いちばん手っ取り早いのは、高校時代の教科書を読むことです。捨ててしまった人は、本屋で高校の教科書を書店に注文するとよいでしょう(微分をあんまりちゃんとやっていない経済学部の方、急いで数Ⅱ、数Ⅲの教科書を読みましょう)。税金がかからないので千円以下でカラー版の教科書が手に入ります(山川出版が有名ですが、個人的なおすすめは東京書籍の『世界史B』です)。

 なぜ世界史はむずかしいのか
 と、まあ、えらそうなことを言っていますが、私も、世界史を選択したものの、いつまでたっても不得意科目でした。どうにも頭に入っていかない。どうしてなのかのかな、と今になって考えてみるに、まず人名がやたら多い、しかもその人名の人物がどの国の人かよくわからない。ヘンリーがアンリになったり、フィリップがフェデリコになったり。いったいどっちが正しいんだ。スペイン王がオーストリア王をかねたり、シチリアの王がドイツに領地をもったり、王族たちが現在の国の枠を超えて移動したり結婚したりする。そもそも王様たちはどこの国の人間なのか。
 だいたい国の形が変だ。今と違う地域がひとつの国だったというのならまだわかります。ところが、歴史地図なんかをみると、たとえば「神聖ローマ帝国」なんていう国は、まだら模様になっていてどこからどこまでが国なのかわからない。第一、まだら模様の国って何なんだ、ということになります。
 このわけの分からなさを翻って考えてみると、実は私達がふつうひとつの「国」と考えているもののイメージがあって、それが通用しないから混乱もするし、理解できないし、その結果、覚えることもできないのだと気づきます。

 無自覚な前提としての独立国(国民国家)
 では私達が、「国」と考えるものはどんなイメージのものなのでしょうか。
 まず、国境によってはっきりと領土が区切られていています。地図で国が綺麗に輪郭をもって色分けできます。国境の内部は日本なら日本、韓国なら韓国、という具合に一つの国家に帰属しています。住民も一つの国に所属しています。
 国境で区切られた地域とその住民は、その国の政府によって支配されています。支配されるということは、税を徴収され、そのかわり、保護もされます。多くの国では徴兵もされます。こうした支配の実行はふつう行政官、つまり官僚(役人)によってなされます。役人は中央政府からの指示によって動きます。指示(命令)はふつう文書でなされます。そのためその文書用には統一した言語が必要です。おなじく、支配された住民を支配・保護するために法体系が必要とされますが、それも同じ言語で書かれ処理されるのが普通です。
 こうした中央政権とそれに支配される領域(領土)と人々(人口)からなる国を「独立国(主権国家)」(sovereign state)といいます。
 中国の標準語のことを、「マンダリン」といいます。「マンダリン」というのはもともとは「官僚」のことです。でも官僚は共通の言葉を使っていないと帝国が支配できない。だから官僚になるためには、官僚の共通言語に習熟しているか試験して(科挙)、それを各地に分配する。だから彼らの話す言葉も「マンダリン」と呼ぶわけです。それを「北京官話」と訳すのは、中央(北京)からの指令と中央への通報に使われる言葉だからです。
 官僚には給与を払わなくてはいけません。そのためには全国に流通する貨幣制度が必要です。それができていないと地元で税を徴収して官僚が取り、残りを中央に納めることになります。こうすると次第に地方はその官僚たちの領地のようになって、国は分裂してしまいます。    
 国境を超えて他国が侵略してきた時、それを異分子による侵入だととらえられます。逆に言うと、国境の内部の地域(国)はある種、同質の人々によって作られていると考えられています。では国の内部の人の同質性はなによって支えられるのでしょうか。それは「我々は同じ『民族』だ」という思い込みによって支えられています。
 では「民族」とは何なのでしょうか。生物学的な同一性でしょうか。たとえば「日本人」というのは、じつはDNA的には多様な人種を含んでいると言われています。「中国人」とされる、項羽の頃の中国人のDNAはヨーロッパ人と同じで、現在の中国人とはまった別だ、という話があります。同一の民族といっても、人種的・系統的に同じであるという保証はありません。
 では「日本人」としての統一を作り上げているのはなんでしょうか。もっとも重要なのは、「日本語」でしょう。日本語を母語として話す(何世代も前から日本に住むアジア)人、それが日本人だ、ということになりそうです。
 ともかく、同じ言語を話す同じ民族がまとまって占拠し、統一的な政府をもっている、それが「国」であると、なんとなく私達はイメージしているようです。
 主権国家が同じ民族によって構成されているとするのが「国民国家」(nation state)です。
 でもこの、民族がそのまとまりによって国を作る(国民国家)というのは、19世紀以降、近代になって生まれてきたものです。それ以前の国が、この国民国家(民族国家)と同じだと考えるのがじつは無理があるのです。

 封建制の下での国家
 近代以前では、農民などの住民を支配し、保護する見返りだと称して税を取っていたのは領主ですが、この領主はより力の強い領主のいうことを聞いていました。もっとも強い領主が王と名乗っていたでしょう。しかし、各領主は別の王が強かった、そちらに寝返ることもあるでしょうし、王が弱くなった、あるいは死んだなら、自分が王になろうとすることもあったでしょう。すると、A王とB王の支配する、A王国とB王国の領土はきれいに色分けできず、入れ子状態だったでしょうし、王に歯向かう領主もいたでしょうからまだら模様にもなったでしょう。
 東方からヨーロッパに移動してきたゲルマン民族の場合、ゲルマンの王が領地にいっしょに従軍してきた部下(従士)に、占領した土地(封土)を与えて配置しました。彼らはその見返りに王が戦争をするときには部下として従軍する義務を負います。しかし、それが何代か経つと、独立して、王に刃向かったり、別の王に寝返りしたりすることもありました。
 それで、部下のかわりに、跡継ぎができない僧侶を部下の領主として配置しました。もちろん、僧侶(聖職者)の任命権(叙任権)は国王にありました。これを「帝国教会政策」といいます。僧侶はもともとゲルマンの王が配置したのですけど、いちおうキリスト教会、とくにそのもっとも優位にたったローマ教会の支配下にあるということになります。
 西ローマ帝国が崩壊したあと、そのローマ帝国の後継者という名目でゲルマンの王はヨーロッパを支配することになり、領地に多くの僧侶を配置した手前もあって、ローマ教皇に、「皇帝」と認めてもらうという形をとりました。こうしてうまれたのが、「神聖ローマ帝国」という、おもにドイツやイタリアを支配したふしぎな帝国です。
 ローマ教皇はさらに、帝国の各地に皇帝が配置した僧院を自分の支配下に置こうとします。つまりその僧侶の任命を皇帝ではなく、教会が任命しようとします。ここにローマ教皇と神聖ローマ帝国の皇帝との対立抗争がうまれます。
 抗争を有利にするために、各地の領主を味方につけるべく、領主の独立権を大幅にみとめたために、群雄割拠(小国乱立)の状態になってしまい、帝国のまとまりはますますなくなりました。また、王の血筋が案外絶えやすいく(毒殺・暗殺が横行していたのかな?)、通婚によって支配関係に維持のために王や領主が通婚しているため、皇帝の継承権が錯綜します。。結果、皇帝を選挙によって選ぶ強い権力をもった領主(諸侯)たちまで生まれたのです(いやはやめんどくさい)。

 国語の成立
 また、さきほど「同じ言語」といいましたが、普段、住民が話すのはそれぞれの地域の方言であって、地域が違えばこの言語は違ってきます。国民国家をつくるには、その様々に異なった言語を一つの共通言語にまとめる必要があります。つまり、「日本語(標準語)」、「イタリア語」、「スペイン語」、「フランス語」、「ドイツ語」という、民族国家ごとの言語が生まれる(作られる)必要があります。いや生まれるだけでなく、それが子どもたちに教育されなくてはいけません。ともかく国民国家の形成にあたってはこの統一言語の形成がかならず伴わなくてはいけません。国民国家は、我らが独自の言語、を標榜します(じつはイタリア語とスペイン語の差は小さく、方言の違いのようなものです。ですからイタリア人とスペイン人はそのまま話してもだいたい意思疎通ができます。なのに、お互い別々の国であることを強調するために、別々の言語であると強調されます)。
 たとえば、セルビア語とクロアチア語はじつは同じ言語ですが、表記がセルビアがキリル文字、クロアチアがラテン文字で表し、1991年の旧ユーゴスラビア解体により、別々の言語であるかのように標榜しています。これはセルビアとクロアリアの両民族国家の構築のためになされたのです。
 現在でも、多くの異なる言語を話す民族を束ねた国家が存在します。たとえば、中華人民共和国がそうです。ここでは行政などには、「北京官話」(マンダリン)が使われますが、地域によってはまるで違う言語を話しています(たとえば、北京官話と広東語はまったく別の言語だそうです)。こうしたまるで違う言語を話す人達を同じ国家のうちに留めておくことができたのは、発音によって表記がかわる表音文字(アルファベット・アラビア文字など)でなく、漢字という表意文字(言語によってどう発音されようと見れば意味は通じる)の存在が大きいでしょう。
 「国民国家」とは、多くの場合、1つの民族が、1つの言語を使い、1つの国家をつくっている、という国家をいいます。この国民国家には、その「民族」の神話があります。またその成立存続には、共通言語の確立・教育が必要です。それにはメディアと教育システムの発達が不可欠なのです。
 ともかく、世界史の理解のあたって、私たちの、この、国といえば国民国家、という先入観が大きな障害となっていることは間違いありません。
 またその先入観を助長しているのが、世界史と日本史という区分です。日本では、「日本史」という区分があるために、ほとんど自動的に、日本という国が最初からまとまってあったような印象をもってしまい、その結果、世界史でも国といえばそういうまとまりがあるものだと思ってしまいがちです。また世界史も、東洋史と西洋史をくっつけたものです。中国史が、統一王朝の栄枯盛衰として語られがちなので、ますますそういうまとまりのあるのが国だというとらえかたにそまってしまいます。その結果、世界史の理解がすすまないということがあるように思います。

 歴史とは物語
「世界史は暗記科目だから嫌いだ」という理由をあげる人も多いと思います。高校では教科書を覚えさせてすぐにテストして頭を叩くような教育をしているので、残念なことに、世界史嫌いの人がとても多くなってしまっています。
でも、みなさんは子供の頃、昔話を読んだり聞かされたことがあるでしょう。あるいは、ハリッポッターのお話を楽しく読んだ人もいるでしょう。お話(物語)が嫌いな人というのはそんなにいないでしょう。
 ふつう私達は、歴史とお話(物語)とはまるで違うものだと思っています。英語では歴史(history)と物語(story)とは別の単語です。でも歴史(history)という単語のなかには、お話(story)という単語が含まれていますね。実はヨーロッパの言葉では、歴史と物語は同じ言葉なのです。フランス語ではhisoire、イタリア語ではstoria、スペイン語ではhistoria、ドイツ語ではGeschichte、どれも「歴史」とも「物語」とも訳せます。つまりヨーロッパでは、「歴史」というは、昔、本当にあったことのお話、なのです。歴史が好きな人はたいてい歴史が暗記科目だなんて思っていません。おもしろい話だから自然とおぼえてしまったという人がほとんどだです。
 だから、みなさんはもうテストする人もいないのだから、気楽に、物語だと思って読み流せばいいのです(だから読むなら、物語風に書いてあるものがいいかもしれません)。
村上春樹という作家は世界史で受験したけど受験勉強をしたことがなかったそうです。中央公論社『世界の歴史』(全16巻)というシリーズがものすごくおもしろかったので何十回と読んでいたので、わざわざ勉強する必要がなかったそうです。
「え、でもわたし/おれ、本読むのがきらいだから」という大学生にあるまじきことを思っている人もいるでしょう。わかりました。そんな人にとっておきの手があります。NHKの高校講座の世界史がそれです。NHK高校講座のサイトを開いてください。そこに昨年度放送された番組が保存されています。http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/
 世界史のさまざまなテーマを取り上げて20分で全40話。アシスタントの女の子(女の子はいつも無知だというきめつけ?、ちょっとジェンダー論的には問題がありますね)がさまざまなゲストを招いて歴史上の人物に歴史を語ってもらい、最後に大学の先生がコメントをして、さらにまとめがあります。映像がついているので、ものすごくわかりやすくためになります。

宗教改革とは
さてようやく今日の本題に入ります。
私達はヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文を読もうとしています。この論文を読むためには、まず、「宗教改革」と「資本主義」についてある程度、知らなくてはいけません。その前提知識をまずこの番組をみることで得ようというわけです。
ではまずは、2012年度NHK高校講座の第20回「ルネサンスと宗教改革」http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2012/tv/sekaishi/archive/chapter020.html を見てみることにしましょう。


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 さて、NHK高校講座世界史の「ルネサンスと宗教改革」を見ていただきました。
 
 メディア革命としての宗教改革
 すごいですね。宗教改革が(第一次)「メディア革命」に乗っかっていたなんて。歴史学は昔のことをあつかうのだから、変化していない、進化していないなんて思っている人がいるかもしれないけど、今見た内容は、あきらかに私が高校時代やその後学んだ時には習わなかった内容です。歴史学ってじつは自然科学とおなじように日進月歩で進歩・進化しているんですね。
 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』という本があります。この本は、ナショナリズムは新聞などによってつくられた「想像の共同体」(民族国家)を信仰するものだ、ということを論じた本です。この本によれば、当時のドイツの出版物のなんと三分の二をルッタ-が書いていたといいます。ルッタ-は論争的な論説(パンフレット)の猛烈な書き手(パンフレッター)だったのですね。
ちなみに、グーテンベルクの印刷術の発明によって膨大に印刷物が流布するようになったのを「印刷革命」とよぶこともあります。

 聖書は何語で書かれていたのか
 でも、キリスト教なんだから聖書を読むのが当たり前だろう、なんでルッタ-の時にわざわざそんな当たり前のことを言うの、と思った人もいるかもしれません。いいポイントをついています。
 じつは、宗教改革以前、ふつうのキリスト教徒は聖書は読んでいなかった、いや読めなかったのです。
 キリスト教の聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれています。じつは「旧約聖書」というのはもともとはユダヤ教の聖典なのです。キリスト教はユダヤ教の分派(異端)ですから、この「旧約聖書」をそのまま頂き、それにちょこっと「新約聖書」という文書を付け足して、自分たちの聖典、「聖書」としたのです。
旧約聖書は、元々はヘブライ語という古いユダヤ人の言葉で書かれていました。イエスが生まれた頃はユダヤはローマ帝国の支配下にありました。そのころユダヤの民衆はヘブライ語ではなくてそれに似たアラム語という言葉を話していました。
 ローマ帝国は地中海沿岸をすべて支配し、その結果、戦争が終結し「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)とよばれる体制ができていました(これをアメリカの支配の下の平和、にあてはめたのが「パックス・アメリカーナ」という言葉です)。ローマは軍事的には優位でしたが、文化的にはギリシャ文明がいまだ優位でした。ローマ人は教養のたしなみとしてギリシャ語を話しました(シーザーの最後の言葉「ブルータス、おまえもか」もじつはギリシャ語だったそうです)。ギリシャの小国の王アレキサンダーがペルシャを打ち倒し、ギリシャから東方にかけて大帝国をつくり、その死後もその部下がエジプト、小アジアなどを支配時した時代をヘレニズムといいます。それらの国をローマが滅ぼし支配した後も、東地中海ではリンガフランカ(共通語)はコイネーとよばれるギリシャ語でした。「新約聖書」はこのコイネーで書かれました。
 このヘブライ語とギリシャ語で書かれた聖書は、のちにラテン語に訳されました。ラテン語はもともとはローマ人の言葉です。キリスト教の有力な教会はいくつもありましたが、いつしか、ローマのキリスト教会が最も有力となりました。ローマ帝国が分裂して、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と西ローマ帝国になりました。東ローマ帝国では皇帝がキリスト教の最高権力者をかねていました。ここからギリシャ正教がうまれました。他方、西ローマ帝国はゲルマン人によってすぐに滅ぼされ、群雄割拠の状態が続きました。西ローマ帝国だった地域(およびゲルマン人の支配した内陸ヨーロッパ)は政治的には分裂していましたが、宗教的・文化的にはローマ教会の支配するカトリックの世界となりました。カトリックの共通語(リンガフランカ)がラテン語でした。ですから当時ヨーロッパのインテリはラテン語をつかうことで地域の垣根を超えて話し合うことができ、ひとたびラテン語で書けばその文書はヨーロッパ中のインテリがよめたのです。パリの大学地区を「カルチェ・ラタン」(ラテン語地区)と呼ぶのは、そこではラテン語が公用語だったからです。
 でもカトリックの僧侶たちはラテン語で聖書を読めましたが、一般民衆はそれぞれの方言を話しており、ラテン語はできないので、もちろん、聖書は読めませんでした。だから教会では聖書の重要な箇所、とくにイエスの受難と復活(これをパッションといいます)は、ステンドグラスや祭壇画や彫刻などにして、ラテン語が読めない民衆にわかるように見せたのです。
 宗教改革以前は一般民衆は聖書を読まなかった、読めなかった、これは重要なポイントです。だからこそ、聖書を民衆の言葉に訳してそれを読めるようにしたというのが革命的なことだったのです。
 ちなみに、ヨーロッパではこの2つのリンガフランカで、哲学・文学・神学などが書かれてきたので、いまだにギムナジウムやリセ(高校と大学の教養課程が一緒になったような大学進学を前提とした学校、日本では旧制高校がこれにあたる。敗戦後日本を統治したアメリカが廃止した)では、ギリシャ語とラテン語が必修なのです。

 ただ、最後のところで、アシスタントの小日向えりさんが、「キリスト教のしばりがゆるくなって、そのおかげで科学とか技術とかが発達した」とコメントしていたのには、ちょっと注意が必要だと思います。たしかに結果としてはそうなったかもしれませんが、ルッタ-自身は、宗教を緩めようとしたのではなくて、むしろ、キリスト教をその原点である聖書にもとづいた厳格なものにしようとしたのです。
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# by takumi429 | 2013-04-14 23:34 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

2.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1)

2.「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1)

さて、これから、ヴェーバーの『宗教社会学論集』の出発点となった「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という論文を読んでみることにしましょう。

古典とは
この著作は、社会科学の古典とみなされています。
「古典」と聞くと、みなさんは「とっつきにくい」、「わかりにく」、さらには「つまらない」のではないか、というイメージ(先入観)をもつかもしれません。そのため、ついつい直接それを読むかわりに解説書を手にとったり、教科書の記述に頼ろうとします。
じつはそれが間違いの元なのです。
こと社会学に限って言いますと、解説書の解説はだいたい間違っています(橋爪1995)。百歩譲って、間違っていなくても、わかりづらいです。元の本が説明するために何百頁も使ったことを、解説ではがそれより短い頁で説明しようとするのですから、わかりにくくなっても当然です。たとえ万が一、わかりやすかったとしても、多くはつまらないです。漁港でとれた新鮮な魚も何人もの仲介業者を通おすと鮮度がおちてしまいますよね。おなじように、元の本が持っていた新鮮な驚きは、解説書や教科書からは抜け落ちてしまっていることがほとんどです。古典は、解説書など読まないで、ガツンと直接読んだほうがおもしろい。これは覚えておくいいことです(なかなか実行しづらいことではありますが)。
「新鮮な驚き」、と言いました。そうです。古典というのは、難しい、立派なことが書いてあるから、「古典」とみなされているのではなくて、おもしろい(知的好奇心をかきたてる)から、「古典」されているのです。
 というより、実は、多くの古典は、ちょっと変です。実際に読んでみると、「え、こんなこと書いてあるの?」とびっくりすることが多いです。

 カントの『純粋理性批判』
 たとえば、カントの『純粋理性批判』という西洋哲学の古典があります。カントの名前は聞いたこともあると思います。そのカントの主著というと、やたら難しくて、退屈な本な、本のような気がします。たしかに途中まで難解で面倒な本です。でも真ん中あたりの「純粋理性の二律背反」になると、印象はがらりと変わります。そこでは、カントは、本の左頁と右頁を対照させ、「純粋な理性」に一人二役をさせ、正反対なことを主張させます。左の頁で「純粋理性」氏は、「世界には最初の原因(第一原因)となるものがいる」と主張します。ところが右の頁では、おなじ「純粋理性」氏が「世界には第一原因なんてない」と主張します。
 「第一原因」というのは、トマス・アクィナスの『神学大全』という中世神学の基本書によれば、「神様」のことです。つまり、「純粋理性」氏は、見開きの左頁では「神は存在する」と主張していたかと思うと、右頁で「神なんていない」と主張しているのです。いや主張だけでなく、「理性」氏は、その正反対な主張を、背理法をつかって、「もし神がいないとすると・・・」、「もし神がいるとすると・・・」として、その結果矛盾が生まれるから、「神はいる」、「神はいない」と結論していくのです。一人二役、神様を支持する役と神様を否定する役、それを同じ「純粋理性」が演じているのです。これはまるで正気の沙汰ではありません。人間が純粋にその思考だけを展開していくと、そこにはこうした狂気が待っているのというのがカントが示そうとするです。
 カント、それも『純粋理性批判』の著者なんていうと、なんだか近代理性の立場に立つ落ち着き払った地味なおじさん、というようなイメージがあります。でも本当はこんなふざけた書き方をする洒落気のある、と同時に、人間がもつ狂気の淵をのぞき込んだ人だったのです。
 見開きページをつかっての一人二役の、ちょうど、法廷における、検察側と弁護側の陳述のような、しかもそこでは、検察官と弁護士は実は同じ人物の一人二役を演じている、というわけです。そして一人二役の対決から導きだされのは、「神はいるとも言えるし、いないとも言える」、という、キリスト教が支配していた当時のヨーロッパ世界にとって、とてつもなく危険な結論だったのです。
 ドイツの詩人、ハイネはフランス人にむけたドイツ哲学の紹介書『ドイツ古典哲学の本質』の中で、フランス革命でロベスピエールはルイ16世の首をはねた、カントはなんと神に対しておなじことをした、と書いています。カントの同時代の人たちにとって、カントのしたことは、まさに「神殺し」にほかならなかったのです。

 ドフトエフスキー vs. カント
 この「純粋理性の二律背反」を深刻に受け止め、その解決を小説世界において果そうと格闘したのがドストエフスキーでした(ゴロゾフケル1988)。彼の『カラマーゾフの兄弟』という小説で、理性の人である次男イワンは、この、神は存在する、神は存在しない、という二律背反の狂気と絶望の淵にあります。彼は無意識に、異母兄弟のスメルジャコフをそそのかし父殺しをさせ、同時に三男アリーシャにこの淵からの救済を求めます。
 ふつう、神と対立するのは悪魔です。悪魔はあくまでも神があっての悪魔であって、神の存在を否定したりはしません。というより、完全なる神がいるにもかかわらず不完全なこの世界を説明するために悪魔は必要とされるのです。つまり悪魔は神の補完物なのです。
しかし『カラマーゾフの兄弟』に登場する悪魔は、「神がいるかどうか、僕にもわからないんだよ」とうそぶくような悪魔です。つまりこの悪魔は神の敵対者ではなくて、信仰に対する敵対者、つまりカントの二律背反の、神が存在する、神が存在しない、という理性の二律背反(狂気と絶望)を体現した存在なのです。
「神がいなければあらゆることが許される」、ドストエフスキーはしばしばそう書きます。「あらゆることが許される」とは、倫理を支える神がいないことで、あらゆる悪行(犯罪)が許されてしまう、いうことです。「あらゆることが許される」という時の「自由」とは、「悪の自由」なのです。これがカント以来の「自由」のとらえかたです。私たちがふつう考える「自由」とはずいぶんちがう「自由」のとらえ方です。しかし神が造った楽園(エデンの園)で、うまれてはじめて神の命令に反して(自由な意志をもって)、知恵の木の実を食べ、その結果、楽園を追い出された人間にとって、つねに「自由」は、規範・規則からの逸脱(罪・犯罪)と裏腹なのです。
 では人間はなぜ犯罪を犯さないのだろうか。それは人間に、「自分だけ特別扱いするルールでなくて、だれにでも適応できるルールで行動しろ」、ということを肝に命じているからです。たとえば、俺だけは人殺ししてもいいと考えると、相手も同じように考えるから、殺されても文句は言えなくなっちゃうよ、だから「人は殺してもいい」というのはまちがっている、人は殺してはいけないのだよ、というわけです。
 この原理をカントは定言命法と呼び、つぎのように定式化しました。「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ(Handle so, das die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten konne.)」。
 人間のあらゆる道徳原理はここを出発点にして合理的に構成・説明することができるととカントは考えました。理性的に考えることが出来る人間は道徳的に正しく行動できるというわけです。
 この理性的に考えさせるという発想にもとづいて、近代の刑法(犯罪を扱う法律)では、あらかじめ、「これこれの罪を犯すとこれこれの罰があるよ」ということを人々に教えておけば、人は「そうか、犯罪は割に合わないな」と考えて、犯罪を犯さなくなるだろうと考えました。このあらかじめ罪と罰を決めて教えておくという考え方を「罪刑法定主義」といいます。
 ドストエフスキーは、政治集団に参加したため、銃殺刑を言い渡され、銃殺の直前に皇帝の恩赦でシベリアに流刑になり、そこで政治犯ばかりか多くの犯罪者を見、かつ交わるという経験をしました。この流刑地の体験以降、ドストエフスキーの作品の中心テーマは、悪の問題へと変わります。そのドストエフスキーにとって、この理詰めに計算すれば犯罪をしなくなるだろう、という発想はがまんならないものでした。多くの犯罪者を見た彼にとって、犯罪とは計算づくのものなどではなく、とどめがたい人間のどす黒い根元悪の噴出であり、そういう形でしかみずからの自由を表現することしかできない人間の最後の自己表現ですらありました。
 罪刑法定主義の古典、ベッカリーアの『犯罪と刑罰』とわざと同じような題名をつけた小説『罪と罰』では、彼は計算づくで金貸しの老婆を殺そうとする大学生を主人公に据えます。捕まったら割が合わない犯罪でも、ぜったい捕まらないなら割が合うではないか。金貸しの因業婆が死んで、若く有為な自分が勉学を続けることができるなら、それは社会的にも好ましいことだ。こうした理性的な計算に基づいて殺人を犯した大学生は、しかしそのとき犯行の計算違いから、金貸し婆の、信心深い、妹まで、殺してしまいます。彼の犯罪計算は狂ってしまったのです。このあと、計算づくではない、罪にたいする許しが、天使のような心をもつ娼婦の導きによって、主人公にもたらされるのです。
 カント倫理学は、理性の狂気を超えるために(神が命じ与えたであろう)原理からの理詰めの計算によって人間に道徳的にふるまわせようとします。この倫理学との対決こそ、ドストエフスキーの小説でめざしたものにほかなりません。
 と同時に、ドフトエフスキーは政治的党派がその独善性のあまり残虐な行動に走る姿を描きます。神が存在しないことで倫理が破棄され、党派の「正義」だけが突出するとき、目を背けたくなるような残虐な党派内部の粛正や党派による横暴がおこなわれます。『悪霊』という小説が描いたのはまさにそうした世界です。その射程は、連合赤軍事件、オウム真理教事件、など、現代まで届いています。
 ところでこの『悪霊』という小説ではくりかえし「ジュネーブ思想」という言葉が出てきます。「ジュネーブ思想」とは、スイスのジュネーブ出身の思想家ルソーの『社会契約論』のことをさしています。
(ちなみに、この『社会契約論』では、ロシア人は未発達な精神しか持っていない、とされています。ドフトエフスキーの『未成年』という小説の題名はこのルソーの批判からそのまま発案された題名だと思われます。つまり、「未成年」なのは主人公だけではなくて、ロシアの人々全体を指していて、主人公はそうしたロシア精神を代表しているのです)。

 ルソーの『社会契約論』
 ルソーの『社会契約論』というと、私たちは「倫理・社会」などで、民主主義の古典、と習ってきました。私もそう思いこんでいたのですが、大学卒業してから、はじめて読んでみて、びっくりしました。この本では、人民の「一般意志」を体現する立法者は独裁してもかまわない、とされているのです。つまり、人民の党による独裁が正当なものとされているのです。これは、(崩壊した)ソ連や中国共産党や北朝鮮の独裁を正当なものとする論理とそのままつながっています。ルソーの『社会契約論』というのは内部粛正と民衆の大量処刑を、「正しいこと」としておこなう党の論理を提示した本なのです。
 私見によれば、ドフトエフスキーはこの『社会契約論』の革命党による独裁の論理にあらがいつつも結局、乗り越えることができなかったように思えます。
 ところで、ルソーはどうしてこんな、人民を代表するがゆえに独裁できる党、という考えをもつようになったのでしょうか。
 理由はさまざまでしょうが、一つは彼の出身地にあるように思われます。彼の出身地、ジュネーブは、実は、カルヴァンという宗教改革者が独裁を敷いていた町だったのです。(ルソーは、立法者の独裁について述べているときに、注で、カルバンのジュネーブでの政治に言及しています)。
カルヴァンはジュネーブに人々に請われて指導・支配者となりました。しかしひとたび実権をにぎると厳しい規則を人々に強いて、違反者を処刑したりして、一種の恐怖政治をおこなったのです。ルソーはそうした、神の名のもとによる正義による、独裁政治の歴史をもつ町の出身者だったのです。
 
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む
 話が脇道に行って長くなってしまいました。
 おそらくみなさんの中には、ヴェーバーについて解説書や教科書の記述を読んだ人もいらっしゃるかもしれません。その結果、みなさんの心のなかにはいくつかの紋切り型の先入観、とりわけヴェーバーは西洋の合理化を問題にした社会学者である、というようなイメージがすでに巣くっているかもしれません。そうした固定的なイメージからいったん自由になるために、この著作を解説していく前に、この『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかのある箇所をまず引用したいと思います。

 資本主義人の自問自答
 ヴェーバーはこの著作のなかで、「資本主義精神」にみたされた人々につぎのような(架空の)問いかけをしています。(正確にいうなら自問自答させています)。

「休みなく奔走(ほんそう)することの『意味』を彼ら(「資本主義精神」にみたされた人々)に問いかけて、そうした奔走のために片時も自分の財産を享受しようとしない態度は、純粋に現世的な生活目標から見ればまったくの無意味ではないかと問うとき、彼らは、もし答えうるとすれば、『子や孫への配慮』だと言うこともあるだろう。しかし、より多くは、---『子や孫への配慮』という動機は、明らかに彼らだけのものでなく、『伝統主義的』な人々にも同様にあるのだから---より正確に、自分にとっては不断の労働を伴う事業が『生活に不可欠なもの』となってしまっているからなのだ、と端的に答えるだろう。これこそ彼らの動機を説明する唯一の的確な解答であるとともに、事業のために人間が存在し、その逆でない、というその生活態度が、[個人の幸福の立場からみると] まったく非合理的だということを明白に物語っている。」(Archiv 54/RS・30/訳79-80頁。()は引用者挿入、[ ] は改定時(1920年)の加筆)。

この引用を問答形式に書き直してみましょう。

「なぜ楽しむことを知らずにそんなに休みなく働いているのです?」
「子どもたちに財産を残すためですよ。」
「でもそれは昔の人たちでも考えたことですよ。でも彼らはずいぶんのんびりと生活を楽しんでいきていました。決してあなたのようにあくせくと働いてはいませんでしたよ。」
「ええ、なるほどそうですね。」
「じゃ、なぜそんなに働くんですか。」
「まあ、働かずにはいられない、働いて事業を続けることが生活の不可欠なものになっているとでもいうですかね。」
「それじゃ、あなたという人間のために事業があるのではなく、事業のためにあなたは存在する、というわけですね。」
「まあ、そういうことになりますかね。」

 ずいぶん、意地悪な問いつめ方です。人が慣れ親しんで、すっかり同化していることを、ヴェーバーはことさら、あばきたてるように問いつめます。そうすることで私たちが、同化し慣れて「あたりまえ」に思っていることが、じつは倒錯した非合理なものにすぎないことが見えてきます。

 異化
 こうした技法をふつう「異化」と言います。「異化」(Verfremdung, differentiation)とは、「ロシア・フォルマリズムの芸術説で、日常見慣れた表現形式にある「よそよそしさ」を与えることによって異様なものに見せ、内容を一層よく感得させようとするもの」(『広辞苑』)です。
 演劇の世界で、これを中心的な手法としたのが、ブレヒト(Bert(olt) Brecht1898―1956)です。彼は「異化」について、「『三文オペラ』のための註」のなかでこう述べています。

「『三文オペラ』は、その表現する内容ばかりかその表現方法の点でも、市民的な物の考え方と密接に結びついている。それは劇場の観客がこの人生について見たいとのぞんでいるもののについての一種の講演である。だが同時に観客は、自分の見たくないものをもいくらか見せられる。つまり、自分の希望が実現されるのを見るだけではなく、それが批判されるのをも見る。(自分を主体としてだけでなく、客体としても見るのだ。)したがって、原則的には、演劇にある新しい機能を与えるようになる。」(『三文オペラ』165頁)

 さらにブレヒトはその演劇論でこう述べています。

「もはや観客は、自分の世界から芸術の世界へと誘い込まれるのではなく、むしろ反対に目さめた感覚をもって自分の現実的な世界に連れていかれねばならない。・・・その原理は感情同化のかわり異化を導き入れることである。
 異化とはなにか?
 ある出来事ないし性格を異化するというのは、簡単にいって、まずその出来事ないしは性格から当然なもの、既知のもの、明白なものを取り去って、それに対する驚きや好奇心をつくりだすことである。・・・異化するというのは、だから、歴史化することであり、つまり諸々の出来事や人物を、歴史的なものとして、移り変わるものとして表現することである。・・・劇場はもはや観客を酔っぱらわせたり、さまざまな錯覚を授けたり、この世界を忘れさせたり、自分の運命と妥協させたりしようとしない。これからは劇場はこの世界を、観客がそれに手を加えることができるような形で、観客に提供するのだ。」(『今日の世界は演劇によって再現できるか---ブレヒト演劇論集---』123-4頁)

 異化する精神
 すぐれた学者とはおうおうにして、驚くことの達人です。ヴェーバーはここで私たちが慣れきったことに、驚きかつあやしみ、そしてその懐疑へと私たちを誘おうとしているのです。
 このときヴェーバーは、いわゆる「合理化の社会学者」なのでしょうか。むしろ現代社会の人間の生き方の非合理性と倒錯性をあばきたてる「異化する精神」として私たちの前に登場しているというべきではないでしょうか。

 異邦人による異化
「ドワーズ」というロック・バンドの1967年の『まぼろしの世界』(Strange Days)というアルバムのなかに「まぼろしの世界」(People Are Strange)(作詞ジム・モリソンJim Morrison)という曲があります。その一節。

「きみが見知らぬひとであるとき、ひとびとは見慣れない奇妙なものになる」(People are strange when you're stranger.)

 ひとびとのまじめに働くそうしたあり方が「奇妙なもの」に見えるのは、それをみている彼がじつはそれまでの日常から外れて、異邦人のような存在になっているからです。逆にいえば、そうした異邦人の存在になったとき、はじめて日常世界のもつ倒錯性を見えてくるのです。

 ヴェーバーの生涯(異邦人への転落)
 ヴェーバーの場合、こうした「異化」を可能にしたものはなんだったのでしょうか。それは彼自身の失墜の経験です。
 ヴェーバーの生涯はその前半まではまさに順風満帆というしかないものでした。
 ヴェーバーは1864年4月21日にエルフルトというワイマールの近くの町でうまれたした。父は富裕な亜麻(アマ)布(リネン)商人の家系を引く国民自由党代議士、母は敬虔なピューリタンです。長じてハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律、経済、哲学、歴史を学びました。卒業後、一時司法官試補として裁判所に勤務したのち、学究生活に入りました。92年ベルリン大学でローマ法、商法を講じ、1994年に30歳の若さでフライブルク大学の国民経済学教授となり、1897年にはハイデルベルク大学の正教授となっています。
 今日の日本でも法学部などは25歳で助教授、35歳ぐらいで教授になったりします。ですからこの経歴は異例とまでは言えないでしょう。(ニーチェは22歳でバーゼル大学古典文学の正教授になっています。異例というならそういうのを指すべきでしょう)。しかしやはりきわめて順調な、まさに「飛ぶ鳥を落とす勢い」の出世ぶりだったことは間違いありません。同時代の社会学者ジンメル(1858-1918)がずっとベルリン大学の私講師にとどめおかれ、ストラスブール教授のなったのはその晩年(1914)だったこと。さらに当時からすでに社会学の古典的著作とみなされていた『ゲマンンシャフトとゲゼルシャフト』(1887)を書いたテンニース(1855-1936)がキール大学に教授になったのが1913年だったこと。どちらも50歳をすぎてようやく教授になったことを考えると、ヴェーバーの経歴がいかに恵まれていたかわかるでしょう。
 しかし1976年に母の財産処理について父を厳しく追求し、その直後に父親が旅行中に死んでしまってから、彼の運命は急に暗転します。それ以後彼は神経疾患に悩まされるようになり、やがて研究も教育もできなくなりました。1903年ついにハイデルベルク大学を辞めて形ばかりの「名誉教授」となり、遺産と年金によって暮らすことになります。活動はもっぱら友人と自分が編集している『社会科学・社会政策アルヒーフ』に論文を書くことと『フランクフルト新聞』(ドイツの主要新聞『フランクフルト・アルゲマイネ』の前身)に論説を書くことなどに費やされました。私たちが知っている彼の業績の主要なものはほとんどこの時期に書かれたものです。
 教職にもどるのは、第一次世界大戦がおわった1918年のヴィーン大学からで、よく1909年ミュンヒェン大学に就任します。しかし1920年6月スペイン風から肺炎を併発。14日に56歳で死去しています。
ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1905)を書いたのは、彼が社会的な日の当たる場所から完全に身を引いた後です。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、コースアウトしてしまった人間が、それまでコースのなかで必死に働いてきた自分を振り返り、あれはいったい何だったのだろうかと自問自答する、そうした作品になっているのです。ですからさきほど引用した自問自答はじつはヴェーバー自身の自問自答だったのです。

 当たり前を当たり前でなくする(異化する)社会学
 私見によれば、社会学とは、近代という時代を、そのなかに投げ込まれた個人の側から疑問を提示しつつとらえ返していく学問です。そのためにはこの社会で「当たり前」とされていることを、ある種の違和感をもって見つめ直すことが必要です。つまり日常のあたりまえと思われていることを異邦人のまなざしで異化するという性格を社会学は必然的にもたざるを得ないのではないかと私は考えています。
 じつはヴェーバーの社会学には、アメリカ流の社会学の内容は、まるでありません。ですからヴェーバーをいくら読んでもアメリカ的な社会学の教科書にのるような知識はほとんど増えません。またヴェーバーを読むのに必要な知識も、社会学の知識ではありません。むしろ歴史的な知識です。ですからヴェーバーが「社会学者」であるとされているのは、社会学が自分たちの権威づけのために偉い学者の名前を借りている、という面がかなりあるように思います。つまり社会学者は「虎の威を借りる狐」なのです。ヴェーバーの業績ははたしてアメリカ流の社会学のせまい枠に収まるものなのだろうか。私はしばしば疑問に思うことがあります。
 しかしすくなくとも、この「異化する精神」を持っているという一点だけでも、ヴェーバーは社会学者いがいの何者でもないといえるのではないか。わたしはそう思うのです。
 まえおきがたいへん長くなってしまいました。では『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の内容をみていくことにしましょう。
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# by takumi429 | 2013-04-14 23:33 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)

1.序

ヴェーバー宗教社会学講義

1.序
この講義は、ドイツの社会学者、マックス・ヴェーバー(1864-1920)の書いた、『宗教社会学論集』全3巻、を読み解きながら、世界の諸宗教とそれを生み出した社会についての概観を得る、と同時に、西洋近代社会というものがいかなる原理を持つ社会なのか、を解明していこうとするものです。

『宗教社会学論集』の構成
ヴェーバーの『宗教社会学論集』は、以下のような構成をもつ論文集です。

序言
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
プロテスタンティズムの教派と資本主義の精神
世界宗教の経済倫理
 序論
 儒教と道教
 中間考察
 ヒンドゥー教と仏教
 古代ユダヤ教
 (付録:パリサイびと)

 この論文集は、キリスト教、儒教、道教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、ユダヤ教の諸宗教を考察するのみならず、中国、インド、東南アジア、中央アジア、極東、中近東、西洋の、社会と歴史を、その自然条件・経済・政治・文化などのさまざまな側面から考察し、かつそれを統一的な社会像として把握しようとするものでした。まさに社会をまるごと把握しようとする野心にみちた論文集であり、その把握の目指すものは、私達を今覆い支配している近代社会というものが何であるのか、という社会学固有の問いに答えようとする作品でした。
 ヴェーバー自身が後世に残そうとして、まとめた(まとめかけた)論文集はこの論文集だけでした。その作品の影響力、その透徹した視野、完成度において、マックス・ヴェーバーの最高傑作というだけではなく、社会学の歴史にそびえる巨大な壁のような古典的作品群であると言えると思います。
 私達は、この論文集がどのように書かれ作られていったのか、作品形成をたどることで、この論文集を貫く、ヴェーバーの問題意識を明らかにしつつ、この論文を読み解いていくことにします。その過程で、彼の教科書的な遺稿である『経済と社会』、とりわけ、その中の『宗教社会学』や、そのほかの論文を、あくまでもこの論文集のとの関わりにおいてではありますが、扱いたいと思います。

『宗教社会学論集』の成り立ち
作品の形成と言いましたが、この『宗教社会学論集』は次の順で書かれました。
まず、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が1905年にヴェーバーが編集する『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表されました。
つぎに11年のブランクのあとに、
「世界宗教の経済倫理」の「序論」・「儒教」・「中間考察」が1916年に、同じく『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表されました。
ヴェーバーは以上の論文を改訂して『宗教社会学論集第1巻』として1920年に発刊しました。その際、
この『宗教社会学論集』全体の「序言」が新たに書かれ、
また、
「プロテスタンティズムの教派と資本主義の精神」という論文が追加されました。
また、その他の論文も改訂されましたが、とくに「儒教」は大幅に増補改訂されて題名も
「儒教と道教」となりました。
「ヒンドゥー教と仏教」は1916-17年に『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表され、
「古代ユダヤ教」は1917-19年に『社会科学並びに社会政策雑誌』に発表されました。
ヴェーバーが1920年に死んだために、この2つの論文は改訂されることなく、そのまま
『宗教社会学論集』の第2巻と第3巻となり1921年に発刊されました。
なお、第3巻には、遺稿であった「パリサイびと」が付録として追加されました。

では、ヴェーバーの最も有名でかつ影響力を持ち、この巨大な論文集の出発点ともなった論文、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をさっそく見ていくことにしましょう。
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# by takumi429 | 2013-04-14 23:32 | ヴェーバー宗教社会学講義 | Comments(0)