3.バフチンの分析をつかって
イワンの中のアンチノミーがどのようにスメルジャコフへの殺人教唆になったのか。これについては、むしろバフチンの解釈を見てみよう。 「『カラマーゾフの兄弟』から、短いが非常に際立った対話を一つ引用しよう。 イワン・カラマーゾフはまだ全面的にドミートリーの有罪を信じている。しかし心の奥底 では、まだ自分自身からはほとんど隠したままで、自分自身の罪について自問している。彼の心の中の内的闘争は、極度に緊張した性格を帯びている。これから引用するアリョーシャとの対話がやりとりされるのは、まさしくそういう瞬間においてである。 アリョーシャはドミートリーの有罪を断固否定する。 「お前の考えでは、いったい誰が殺したんだい?」何だか冷ややかな様子でイワンは尋ね たが、その語調には何か横柄な感じが響いていた。 「誰かってことは、あなた自身が知ってます」アリョーシャは静かに、心に染み透るような声で言った。 「誰なんだい?あの頭のいかれた白痴の癩痴持ちだっていう作り話のことかい?スメ ルジャコーフの話のことかい?」 アリョーシャは突然、全身が震えているのを感じた。 「誰かってことは、あなた自身が知ってます」彼の口から力のない声が漏れた。彼は息が 詰まりそうだった。 「だから誰さ、誰なんだ?」もはやほとんど凶暴な声でイワンは叫んだ。堪忍袋の緒が突 然ぷつりと切れてしまった。 「僕が知っているのはたった1つです」相変わらずささやくようにして言った。「父さん を殺したのはあなたじゃないってことです。」 「『あなたじゃない』だって!あなたじゃないとはどういうことなんだ」イワンは棒のように立ち尽くしてしまった。 「父さんを殺したのは、あなたじゃない、あなたじゃないんです!」アリョーシャはきっ ぱりと繰り返した。三十秒ほど沈黙が続いた。 「そうさ、俺自身だって、自分じゃないことぐらい知ってるさ、熱に浮かされてでもいる のか?」青ざめた、歪んだ薄笑いを浮かべて、イワンは言った。彼の目はまるでアリョー シャに吸い込まれてしまったかのようだった。二人はまた街灯の近くに立っていた。 「いいえ、イワン、あなた自身が何度か自分に言ったんですよ、あなたが殺したんだって ね。」 「俺がいつ言った?……俺はモスクワにいたんだぞ……俺がいつ言ったというんだ?」イ ワンはすっかり途方に暮れて眩いた。 「あなたはそのことを自分自身に何度も何度も言ったんです、この恐ろしいニヵ月の間、 一人きりでいるときにね」アリョーシャは依然として静かに、一語一語区切るようにして 言い続けた。しかし、彼の口ぶりは、あたかも我を忘れ、自分の意志ではどうにもならず に、何か打ち勝ちがたい命令に従っているかのようであった。「あなたは自分自身を断罪 し、殺したのは他ならぬ自分なのだと自分に白状したんです。でも、殺したのはあなたじ ゃありません、あなたは誤解しているんです、あなたは殺人者じゃありません、いいです か、あなたじゃないんですよ!このことを言うために、僕は神様にあなたのところに遣わされたんです。」[『カラマーゾフの兄弟』第四部第一二編第五章] ここでは内容そのものの中に、検討中のドストエフスキーの手法がものの見事にくっきりと浮き彫りにされている。アリョーシャが単刀直入に語っているのは、彼はイワンが自分で自分にその内的対話において課した問いに対して答えているのだ、ということである。この抜粋は、心に染み透る言葉と対話におけるその芸術的機能のもっとも典型的な例である。ここで非常に重要なのは次のようなことだ。つまり、他人の口から発せられた自分自身の心の奥深く秘めた言葉が、イワンに反抗心とアリョーシャに対する憎しみを呼び起こすが、それは、それがまさしくイワンの痛いところを衝いたからであり、それがまさしく彼の問いの答えに他ならないからなのだ。こうなればもはやイワンには、自分の内面の問題に対する他者の口出しを、全面的にはねつけるしかない。アリョーシャはそのことをよく心得ているが、それでも彼は、イワンが、この《深遠な良心》が自分自身に、遅かれ早かれ必ずや「俺が殺したんだ」という断定的な答えを突きつけるだろうことを予見しているのである。そうなのだ、自分自身に対しては、ドストエフスキーの構想によれば、イワンはそれ以外の答えを与えることはできないのだ。そしてまさしくそのときにこそ、アリョーシャの言葉は、他ならぬ他者の言葉として役立つはずなのである。・・・ 《他者》としてのアリョーシャは、イワンが自分自身との関係においてはもちろん絶対に口にすることのできない、愛と和解の調子を持ち込むのである。アリョーシャの発話と悪魔の発話とは、双方とも同じようにイワンの言葉を反復しながらも、その言葉にまったく正反対のアクセントを付与しているのだ。一方がイワンの内的対話のある一つの応答を強調すれば、もう一方は他の応答を強調するのである。 これが、ドストエフスキーにとってもっとも典型的な主人公の配置法であり、彼らの言葉の相互関係というものである。ドストエフスキーの対話において衝突し、論争しているのは、二つの首尾一貫したモノローグ的な声ではなく、二つの分裂した声(少なくとも一つの声は分裂している)なのだ。一方の声の開かれた応答が、他方の声の隠された応答に答えているのである。一人の主人公に対して、それぞれがその第一の主人公の内的対話の正反対の応答に結びついているような二人の主人公を対置させること――これがドストエフスキーにとってもっとも典型的な組み合わせなのである。・・・ イワンとスメルジャコーフの相互志向的な関係は、非常に複雑である。すでに前述したように、父親の死を願う気持ちは、小説の初めの方のイワンのある種の発話を、彼自身には目に見えない、半分隠蔽された形で規定している。しかしこの隠されているはずの声を、スメルジャコーフは捉える、しかも、明々白々としていて疑いようのない形で捉えるのである。 ドストエフスキーの構想によれば、イワンは父親の死を望んではいるが、彼自身は外面的にはもちろん、内面的にもその殺人には加担しないという条件づきで望んでいるのである。彼は殺人が宿命的必然性として、彼の意志とは無関係であるばかりか、彼の意志に反して起ることを望んでいるのである。イワンはアリョーシャに言っている。 「いいかい、僕はいつだって親父を守ってみせるよ。でも、僕の望みについては、今度の場、完全な自由を確保しておきたいね。」[『カラ了ゾフの兄弟』第四部第3編第九章] イワンの意志が内的対話において分裂している姿は、例えば次のような二つの応答の形で再現することができよう。 「僕は父親殺しを望んではいない。もしも父親殺しが起こるとすれば、それは僕の意志に反して起こるのだ。」 「しかし、僕は、父親殺しがこうした自分の意志に反して起こることを望んでいる。なぜなら、そのとき僕は内面的にはその殺人に加担しておらず、いかなる点でも自分自身を責めずに済ますことができるからである。」 イワンの自分自身との内的対話は、そんな風に構成されている。スメルジャコーフが見抜くのは、より正確に言えば、はっきりと聞き取るのは、この対話の二番目の応答に他ならないが、彼はその応答の中に埋め込まれた逃げ道を自分勝手に解釈してしまう。つまり彼はその逃げ道を、自分が犯罪の共犯者であることを示す証拠を何一つ彼に与えまいとするイワンの欲求として、自分を摘発し得るあらゆる直接的な言葉を回避しようとする《賢い人》の、したがって、ほのめかすだけで話を通じさせることができるがゆえに「ちっと話をするだけでもおもしろい」《賢い人》の、外面と内面双方の極度の用心深さとして理解するのである。イワンの声は殺人が起こるまでは、スメルジャコーフにとって首尾一貫した、分裂していない声である。父親殺しの願望も、彼にとってはイワンのイデオロギー的視点、イワンの「すべては許されている」という主張の、単純明快な当然の帰結なのである。イワンの内的対話の一番目の応答はスメルジャコーフの耳には入らず、イワンの第一の声が本当は父親殺しなどまったく望んではいないのだということを、彼は最後まで信じないのである。ドスエフスキー自身の構想では、この声は真剣そのものなのであり、この声こそがアリョーシャに――彼自身イワンの内なる第二の声、すなわちスメルジャコーフの声をしかと知っているにもかかわらず――イワンを正当化する根拠を与えてくれるのである。 スメルジャコーフはイワンの意志を、自信たっぷりにしっかりと握って放さない。より正確に言えば、イワソの意志に一定の意志表示のための具体的な形式を付与する。イワンの内的応答はスメルジャコーフを通して、願望から実践へと変貌を遂げるのである。」 (ミハイル・バフチン著、望月哲男・鈴木淳一訳『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫534-44頁) ここであらためて注意すべきなのは、イワンの内的対話が、プロ・コントラ(テーゼとアンチテーゼ)のアンチノミーの形式を取っていることである。 理性の法廷 アンチノミーが理性の法廷であるとされていたように、『カラマーゾフの兄弟』でも肯定と否定の弁証は法廷の場面へと移される。カントのアンチノミーがまさに法廷の場面として展開されていっていると言える。 4.ドストエフスキーの作品史をふりかえって 流刑以前 ピョートル大帝が作った政治的人工都市ペテルブルグに生息する(常に他人の評価を気にせざるをえない)下級官吏をあつかったもの(ゴーゴリ時代) 処女作『貧しき人々』 他者の見る自分と自分の見る自分との分裂。ゴーゴリの『外套』を読んで自分のことを書いたと憤慨する下級官吏。自己の無限対話地獄の彼方にある救済としての少女への思慕 他の下級官吏ものでは少女は消え、分裂した意識が自己の分裂を生む 自己の中の他者との対話から自己の分裂していく(『分身』) 流刑後 悪への自由 「魂の不滅がなくなればすべては許される」 自己の中に無神論的な問いかけ(対話)を持った人物 自己の無限地獄のような内部対話は無神論と信仰との対話へと変わっている。 自己の分裂(分身)は無神論者(犯罪者・政治犯)と信仰を求める者の分裂になる ドストエフスキーの作中人物はつねに人の反応を先取りしながら内的な対話を続けている。それは「出口のない無限循環」(バフチン472頁)を続けている。しかし、流刑以後の長編ではそれは肯定と否定の対話の形となり、さらに、『悪霊』のスタヴローギンと『カラマーゾフの兄弟』のイワンにおいては、無神論のアンチノミーとなっている。流刑前の作品に見られる「分身」は、流刑後の作品では思想的な内部葛藤による分身へと変貌をとげる。分身した閉じた自己の向こうに救済のようにあらわれた少女のイメージは、流刑後の長編では、大いなるロシアの大地による確固たる肯定の声へと変容する。 また長編ではつねに自由は悪とのつながりで語られる。さらに魂の不滅がなくなれば、すべては因果関係が支配することとなり、自由は消え、その結果、犯罪の責任は問えなくなり、すべてがゆるされてしまう。「心神喪失」というのは自由意志の喪失状態であり、それゆえ、犯罪の責任を問えないとすることである。『カラマーゾフの兄弟』ではこの心神喪失についての言及がくりかえしみられる(16-252-4,365,451)のもこの関連からである。 下級官吏の自己の対話がこうした無神論的対話へと変わったのには、流刑体験もおおきいだろうが、カントのアンチノミーの影響もあるとかんがえられないだろうか。時期的にはカントの言及からみて『地下生活者の手記』からこの影響があると思われる。ともわれ、すくなくともたとえカントの影響をうけなかったにせよ、ドストエフスキーの小説はまさにカントのアンチノミーの深刻な問題を小説のなかで展開したものとなっていると言えよう。 バフチンの『貧しき人々』分析 「他者の言葉と他者の意識に対する人間の志向性そのものこそ、実はドストエフスキーの全作品を貫く根本テーマに他ならないのである。主人公の自分自身に対する関係は、彼の他者に対する関係および他者の彼に対する関係と不可分に結びついている。自意識はいつでも自分自身を、他者の意識を背景として知覚する、つまり、《自分にとっての私》は《他者にとっての私》を背景として知覚されるのである。したがって主人公の自分自身についての言葉は、彼についての他者の言葉の間断なき影響のもとで形成されるのである。 このテーマは様々な作品において、様々な形式、様々な内容、様々な精神的レベルで展開されている。『貧しき人々』では、貧しい人間の自意識というものが、彼についての社会的な他者の意識を背景として暴き出されている。そこでは自己主張が、間断のない隠された論争として、あるいは自分自身をテーマとした他者との隠された対話として響きわたる。・・・深遠な対話性および自意識と自己主張の論争性は、この処女作においてすでに見紛いようもなく鮮やかにその姿を現しているのである。 つい先だって二人きりで話をしたとき、エフスターフィー・イワーノヴィチが言ってましたが、市民としての最大の美徳は金をたくさん儲ける能力だということです。誰の厄介にもなるべからずという教訓を、彼は冗談めかして言ったのでしょうが(小生にも冗談だっていうことぐらいは分かります)、小生は誰の厄介にもなってはおりません! 小生のところにある一切れのパンは自分のものです。確かにそれは何の変哲もない一切れのパンで、時にはこちこちの場合さえありますが、それでもあることはあるんです。それは汗水たらして手に入れた、誰に非難されることなく堂々と食べることのできる代物なんです。いやはや、他にどうしろというんでしょうか! 小生だって、浄書するのは大した仕事じゃないことぐらい、自分でちゃんと心得てます。それでも小生は、その仕事を誇りに思っているんです。何と言ったって、働いて、汗を流しているんですからね。浄書しているからって、それが実際どうしたと言うんです! 一体、浄書するのが罪悪だとでも言うんですか。みんなは言います「あいつは浄書をしているんだ!」〈略〉でも、いったい全体それのどこが不名誉なんでしょうか。〈略〉だって、いまでは小生は、自分が必要な人間、不可欠な人間であることも、馬鹿げたことで難癖をつけられるいわれもないということも承知してますからね。でもまあ、ネズミだと言うんならそれでもかまいません。似ているところがあるんでしょうからね!それでもこのネズミは必要なんです、このネズミは利益をもたらすんです、人に頼りにされるネズミなんです、このネズミは報酬さえもらえるんです――ネズミと言ったって、こんなネズミなんです! でも、こんな話題はもうたくさんです。だって小生が話したかったのはこんなことじゃなかったのに、少しばかり興奮してしまったものですから。それでも、時々は自分を正当に評価するのも気持ちのいいことです。[同、六月一二日付の手紙] マカール・デーヴシキンの自意識がもっと激しい論争の形で暴き出されるのは、彼がゴーゴリの『外套』の中に自分の姿を見出したときである。マカールは『外套』を自分自身についての他者の言葉として知覚し、その言葉を自分にはふさわしからざるものとして、論争によって葬ろうとするのである。だがいまは、この《人目を気遣う言葉》の構造それ自体を、もっと詳細に検討することにしよう。・・・ 先ほど引用した箇所は、マカール・デーヴシキンと《他者》との間の、ほぼ次のような大雑把な対話の形にパラフレーズしてみることもできるだろう。 他者「金をしこたま儲ける腕が必要なのさ。そうすれば誰の厄介にもならなくてすむんだ。ところが、お前はみんなの厄介になっている。」 マカール「小生は誰の厄介にもなってはいない。小生のところにある一切れのパンは自分のものだ。」 他者「へん、いったいどんなパンだというんだ! 今日はあっても、明日にはないってやつだろう。しかも、その一切れだってこちこちのやつに違いない!」 マカール「確かに何の変哲もない一切れのパンで、時にはこちこちの場合さえあるが、それでもあることはあるんだ。それは汗水たらして手に入れた、堂々と誰に非難されることなく食べることができる代物なんだ。」 他者「いったいどんな汗水をたらしたんだか! やっていることはといえば、浄書だけじゃないか。それ以外のことは何にもできやしないんだ。」 マカール「それでどうしろというんだ! 小生だって、浄書が大した仕事じゃないくらいのことは、自分でもちゃんと心得ているが、それでも小生はこの仕事を誇りに思っているんだ!」 他者「誇れる何があるというんだ!浄書かい!いやはや何とも恥知らずなこった!」 マカール「浄書をしているからといって、それが実際どうしたというんだ!」……等々。 あたかもこうした対話の応答同士が一つの声の中で重なり合い、融合してしまった結果として、先の引用箇所におけるマカール・デーヴシキンの自己言表ができあがったかのようである。」(419-22,426-7頁)
by takumi429
| 2009-02-06 12:30
| 物語論
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