3.3病者の意味世界

3.3病者の意味世界
(1)「一杯のコーヒー」
ケース5
  多くの末期がんの患者様にとって,夜はこのうえもなく恐ろしい。「寝ている間に死んでしまうかもしれない」と感じておられるのかもしれない。
  Aさんはいつもドアに背を向けて布団をかぶって寝ておられたが、それが寝たふりであることはわかっていた。日中にケアや検査,治療,処置も多く、まとまった休息時間がとれないうえに嘔吐が続いていた。体力の消耗を心配して睡眠薬の使用を促したこともあったが,「眠りたくないの」と仰って、静かに布団をかぶって夜が明けるのを待っておられた。私は、そんなAさんと一緒に“息を潜めで夜が明けるのを待った。雀のさえずりをパックミュージックに昇る朝日はとても神々しく、朝日のさす部屋で眠るAさんの表情はとても穏やかだった。Aさんにとって、毎日昇る朝日はお正月の“初日の出”と同じなのかしれないと思った。
  Bさんは腫瘍と腹水の貯留のために臥床することができず、夜間も坐って過ごされていた。夜になると決まって2~3回。コーヒーが飲みたいと私たち看護婦をコールされた。「すぐにコーヒーを入れて差し上げられないことがある」「お待たせするのはどうか」という意見が多くの看護スタッフからあり、Bさんと相談して魔法瓶にあらかじめコーヒーを入れておくことになった。しかし,本当にBさんはそれでよかったのだろうか? もし、Aさんと同様に起さて朝が来るのを待ちたかったのだとしたら?Bさんは恐ろしい夜”をコーヒーと一緒に私たちとの心の触れ合いを味わう“ホットな夜”にリフレイミングすることで,夜をやり過ごしたかったとしたら? -残念だが、今となってはBさんに確かめることはできない。“患者様の願いや行動”は、私たちにわかりやすいものもあればそうでないものもある。逆に、私たちが勝手にわかったと思い込んでいることもある。その時々に、患者様の状況を正しくとらえているかを吟味することが大切なのだと考えながら、臨地実習での学生指導に取り組んでいる。      (名古屋市立大学看護学部 石黒千映子)
              「看護夜話」Quality Nursing vol.8 no.9 2002 p.36(762)

ケース5のBさんが求めていたのは「一杯のコーヒー」の意味とは何だったのでしょうか。
まず、看護スタッフは「一杯のコーヒー」は何だ、ということにしたのでしょうか。看護師スタッフは、「一杯のコーヒー」は、「患者が必要としている、水(湯)とカフェインとその他の微量な物質」であり、「ナース・コール」は、「必要物質摂取の要求」、である。そして、「看護」とは、「生理的必要(ニード)をみたす処置」である、としてふるまおうとしているとしかおもえません。ここでは、患者の欲求は生理的欲求へと切り縮められており、そして、看護も生理的処置へと切り縮められています。だから、あらかじめ魔法瓶にコーヒーを入れておけばいい、ということになります。こうした、看護の「処置主義」とでも言いたくなるような、人の心をやわらかな部分を切り捨てていく態度、あえて言えば収容所的の看守みたいな、とでも言うべき態度の横行には、ケースを読んでいる私たちにも心痛むものがあります。
いうまでもなく、Bさんにとって、「一杯のコーヒー」はそれを持ってくる看護師とのコミュニケーションのきっかけ、媒介(メディア)にほかなりません。言葉を介したコミュニケーションもあれば、足を洗う(足浴)を介したコミュニケーションもあれば、「一杯のコーヒー」を介したコミュニケーションもあるのです。入院してきた患者の足を洗うことで、「よくいらっしゃいました」、「私たちには気兼ねなく」といったさまざまなメッセージを伝えることもできるでしょう。「一杯のコーヒー」の受け渡しもおなじようにさまざまなメッセージを伝えることができたはずです。
しかし、残念ながら、この報告を書いた看護師の気づきもそこで止まってしまっています。報告者は、死を目前にした(ターミナルな)患者Aを患者Bと列記することで、「死の不安」という言葉(ラベル)で、患者AとBを同じ色に塗りつぶしたのです。「リフレイミング」 という心理学用語の借用も、「ホットな夜」というなかばダジャレめいた語りも、患者Bが「一杯のコーヒー」にこめた意味の具体的な内実を明らかにするものとはなっていません。AさんもBさんも、「死の不安」という同じものを抱えている人、というふうにくくったとしたなら、私たちはAさんを、Bさんを、理解したといえるでしょうか。理解(解釈)というものが良くできたかできなかったかは、その理解(解釈)によって、そのものが、くっきりとみえてくるか見えてこないかによって判定されます。その意味で、「理解」(解釈)というのは、決して、恣意的(ひとそれぞれなもの)ではありません。「正しい」(と断定できる)理解(解釈)はないかもしれません。しかし「より良い」理解(解釈)というものはあるのです。それは事態を照らし出す明るさ、それによって浮かび上がる事態のほかでもない個性・独自性によって知られるのです。ここでいうなら、ほかの患者のだれでもない、Bさんにとっての「一杯のコーヒーの意味」というものが浮かび上がってくるかどうか、にかかっているのです。
さて、ここでもう一つのケースをみてみましょう。ただし今度は「ポット一杯のコーヒー」です。

ケース6
ポット一杯のコーヒー
                   ドロシー・マーナー
  六十七歳の男性が老年精神医学検査病棟に自分のアパートから直接入院してきました。彼は離婚していて、一人暮らしでした。入院は急性の行動障害のためでしたが、その他に慢性閉塞性肺疾患、肺と脳に転移した末期癌がありました。でっぷり太った人で、その一因は体液貯留にありました。風呂に入るのをやめており、自分の体にいっさい気を配らなくなっていたので、皮膚がただれ、強烈な体臭を漂わせていました。彼は声が大きく、行動面でも言葉の面でも非常に人を不快にさせました。彼はこう言っているように見えました――おい、ここに俺さまがいるんだぞ、これまで誰もやろうとしなかったことを俺さまのためにやってくれる奴はいないのか。彼は人に頼らなければならなくなりつつあることへの怒り、能力を失うことへの怒りを示しているのでした。彼の入院はこの病棟にとってほとんど敵の襲来といったふうでした。
  この人に過去のことを聞いてみると、元新聞記者で、非常に社交的な人だったことがわかりました。彼は燃え立つような知性を示し、自分の自立性が脅かされることにとても激しやすいところがありました。入院してすぐ彼とスタッフの間にいざこざが起こりました。彼はのどが渇けば、病院関係者用のコーヒーポットから自分も同じように飲んでよいはずだと思っていました。周期的に襲う吐き気のせいで、用意された時に必ずしも食事をとれなかったのです。同僚たちはそのコーヒーポットに彼が近づくのを禁じました。彼はこの問題を病院からの脱走という形で解決しました。翌日戻ってきた時、彼は私たちのとまったく同じコーヒーポット、それにコーヒー豆を買ってきました。そのコーヒー装置は、彼が怒りと欲求不満をぶつける具体的な対象になり、また自分の自立性を維持しようとする試みの焦点にもなりました。そのポットからコーヒーを飲むこと、そして人々にコーヒーをふるまうことは、彼の生活スタイルの不可欠の一部になりました。
  この事件は看護婦たちの間にかなり議論を巻き起こしました。私は病院の医療用機器管理部局から彼のコーヒー装置に使用許可と特別安全証明をもらうことで何とか折り合いをつけました。同僚たちは、彼がやけどしたり、空のまま装置をつけっぱなしにしたりしないように自分たちで気をつけることにすればいい、ということで同意してくれましな。彼が同僚たちにコーヒーをふるまうのを見て、私はこれは看護に役立つと思いました。彼に力の感覚を取り戻させる手段、彼の社交的な面を引き出すための手段になるのではないかということです。自分用のコーヒー豆を買うために商店街に散歩に行くのなら、病院からまた失踪してしまうこともあるまい、それにこのコーヒーを通じて、私たち以外の先生などとも交流の途が開けるのではないか、そのように考えました。彼は信仰には懐疑的なユダヤ人でしたが、病院牧師にコーヒーをふるまいながら、自分が神を信じていない理由を話すことに大きな慰安を感じていました。また彼は精神医学も信じていませんでしたが、精神科の医師とコーヒーを飲みながら雑談し、その医師に「最近気分が上向きのようだ
ね」などと言われている時は、興奮がぐっとおさまったものです。
  彼は家族から疎まれていました。私たちは、コーヒーでも飲みにいらっしゃれば、という言い方で家族の人たちに訪問を勧めることができました。そしてついに家族の人たちが見舞いにきてくれました。「コーヒーでもと思って立ち寄っただけ」とか言いながらです。容態が悪化した時も、彼はまだ人々にコーヒーをふるまうのを楽しみにしていました。それは彼の慰めになったとともに、病室を訪ねる者の辛さも取り除いてくれました。病気の代わりにそのコーヒーポットのことを話題の中心にできたからです。
(Benner/Wrubel1989『現象学的人間論と看護』 邦訳445-6頁)

 このケ-スの患者の場合、コーヒーをふるまうことで他の人とふれあいつながっていっています。コ-ヒ-をふるまうとき、彼は「患者」ではなく、かつての新聞記者だった頃の溌剌とした自分を取り戻すのです。コーヒーをまわりの人にふるまい、ともに飲むという行為が、彼がかつてそうだった、そして今もそうでありたいと思っている人間とそれをつつむ、病院とはまるで別の世界を開かせたのです。こうして、一見、きわめて日常的、小さな行為と見えるものが、その人間の人生と社会への広がりをもつものとして現れてくることがあるのです。その世界では、その行為者はほかの誰でもないその人間としての顔をみせるのです。
だとすると、患者の具体的な個人としての顔が見えてこなければ、それは十分な理解とはいえないのではないかといえるのではないでしょうか。ケース1の場合、そこではAもBも「不安をかかえた人」として同じような者としてしかみえてきません。ケース2のように、コーヒーをふるまう患者の個別性・具体性がうきあがってくるとき、はじめて十分な患者理解が行われているというべきではないでしょうか。患者のしていることの意味を問いかけ理解しようとしていながら、じつは医療者が自分のもつ意味づけを押し付けレベル貼りをしてしまう、そういうことがあんがいあるのかもしれません。

(2)意味の浸食
ケース7
(次のものは症例というよりは研究の報告例ですが、興味深い例なのでとりあげます)。
保健師のHは、Ⅱ型糖尿病(後天的糖尿病)へのケアを通じて、「医療者の考える意味と医療を受ける側の考える意味の違いへの疑問」が生じた。そこで、医療を受ける側にとっての「食べることの意味」を探るために、Ⅱ型(後天的)糖尿病患者に「食べること」についての9時間のインタビューを行い、それを分析した。結果、患者にとっての「食べること」は、「嫌いなものを食べること」と「食べ過ぎないこと」の二つに集約されていくことがわかった。(肥後恵美子「Ⅱ型糖尿病患者の食べることの意味の記述~食べることの語りとその解釈~」)

この研究で、糖尿病患者の「食べること」についての発言から抽出されたものが、「嫌いなものを食べること」と「食べ過ぎないこと」という二つになったのは、「食べること」の意味づけとしては、いかにも異様な気がします。
私たちが、誰かに向かって、「おい、飯でも食おう」と言ったとすると。それは「一緒に栄養摂取をしよう」という意味ではないでしょう。むしろ「親睦を深め語り合おう」という意味だとみるべきでしょう。「食べること」はこうした一種のコミュニケーションであるともいえますし、「食べること」で人は親密な人間関係の空間を作り出すことができるのです。
この研究例では次のようなケ-スが報告されていました。

女性患者B(57歳)は5年前に夫を亡くし、一人息子も3年前に独立し、ひとり暮らしになった。1年まえに糖尿病と診断された。

この患者の場合、夫を亡くし、息子と離れて暮らすようになった後に発症していることはきわめて重要だと考えられます。家族関係を失った後に、この患者の食習慣がどのように変わったのかが注目されるべきである。食べることとは関係性を作ることであり、孤食・過食は作り得ない関係性を作ろうとするシジホスの神話にも似た、決して満たされかなうことのない、むなしい努力ともがき、とみることができるはずである。ひとり暮らしになって、この女性患者は、ともに食べる、という喜びをなくしたと言えるでしょう。それと同時に彼女の食生活そのものがくずれだし、糖尿病を招いたといえそうです。ここでは「食べること」がかつて持っていた、家族の空間を作り出すという意味が失われています。だからいくら食べても、心は満たされることはない。なのに、かつて「食べること」がもたらした満足感・幸福感をもとめて、過剰に食べている孤独な女性の姿が浮かんできます。その意味で、食事というものを家族関係から食を見る観点が必要なのかもしれません。
 ケ-ス7の研究報告を聞いたある看護師によると、糖尿病患者の多くは、食べ物を「エサ」だと言っているのだそうです。糖尿病患者が、発病する前から、「食事はエサ」なんていう見方をしていたとは思いづらいです。げんに糖尿病でない私たちは、ふつう、食事をエサだ、とは思っていません。だとすると、彼らは糖尿病患者になって、医療者の食事の指導を受けるうちに、そうした意味づけを「食べること」にするようになっていったと思われます。つまり医療者の指導にしたがっていくにうちに、食べることの喜びは奪われ、医療者が食事に対して与えているであろう意味を、患者が受容していく、そういう過程が想像されるのです
してみると、糖尿病患者たちの「嫌いなものを食べること」と「食べ過ぎないこと」という「食べること」の意味づけは、むしろ、医学的・栄養学的な発想で食事をとらえ、食事指導をする保健婦の、食事に対する意味づけに合わせる形で、発言されたのではないかと想像されます。つまりこの二つ意味づけは、患者たちが、食事指導をする保健師を前にして、「食べること」について語ったために、こうした発言が出てきたと見るべきなのではないでしょうか。
そもそも調査者である保健師は、「食べること」にどのような意味を与えているのでしょうか。著者(私)が何度聞いてもこの研究者(保健師)は、自分の「食べることの意味づけ」を答えてくれませんでした。医療者と患者の意味の違いについて研究したいなら、まず自分自身が「食べること」をどのような意味でとらえているのか明らかにすべきだったのではないでしょうか。思うに、おそらく、この研究者(保健師)の、食事の意味づけは、かなり栄養学的・医学的な意味へと偏っているのではないでしょうか。ひょっとしたら、「食事とは身体を維持・生成する栄養摂取の活動である」、なんていうとらえ方をしているのかもしれません。
おそらく、糖尿病患者たちは、保健師たちの、医学的・栄養学的な言葉(専門用語)を交えた、「むずかしい」教育・指示の内容を、「嫌いなものを食べること」と「食べ過ぎないこと」の2語に「翻訳」して理解しているのでしょう。だから、保健師である研究者を前にして、「食事の意味」を聞かれると、「嫌いなものを食べること」と「食べ過ぎないこと」と答えたのではないでしょうか。
ここでは、保健師にとっての「食べること」の意味体系と、患者の「食べること」の意味体系、この二つの意味体系がぶつかり合い、前者が後者を浸食しているともいえるでしょう。保健婦の意味体系が患者の意味体系に浸食しそこに突き刺さった意味づけは、「嫌いなものを食べること」と「食べ過ぎないこと」という言葉に翻訳された。患者はこの浸食してきたものを翻訳した2語を中心にして、自分の食事の意味体系を、さらには実際の食生活全般を編成しなおす。その過程で、食べることのコミュニケーションとしての意味や、暖かな社会空間の形成、といった意味は患者の中から失われていったと考えられないでしょうか。

 患者のさまざまな行為の意味を問うと、言葉の意味のような形のものが現れるのではなくて、むしろ患者の心の世界が意味の世界として立ち現れてきます。もし、それをさらに、言葉の意味のようなものに近づけようとすると、その意味を成り立たせている「文脈」が必要となってきます。患者の心の世界で、行為の意味を与える「文脈」とは、どのようなものとして現れるのでしょうか。それを次に見てみましょう。
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by takumi429 | 2009-07-06 12:04 | 臨床社会学 | Comments(0)
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