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(6)24年組の革新

24年組:昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った女性漫画家達の一群

作家:青池保子、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子、木原敏江、山岸凉子、樹村みのり、ささやななえこ、山田ミネコ、増山法恵

それまでの記号的な少女マンガの描写からよりリアルで洗練された絵と、より文学的なストーリーを用いて、それまで少女マンガでは描かれなかった、同性愛、近親姦、SF、収容所もの、などを描いた。

とりわけ、ジェンダー(社会・文化的な性別)と母と娘の愛憎関係の問題をえぐった作品がみられる。
今回はそこにスポットあてて解説してみよう。

山岸凉子
天人唐草』 (天人唐草、別名、イヌフグリ)
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男性から女性におしつけられるダブルスタンダード(二つの相反した道徳規準)
貞淑な妻・娘であれ/淫靡な女であれ=天人天草/いぬふぐり(犬の睾丸)
二つの論理(男性論理の要求)に引き裂かれ発狂する主人公
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夜叉御前
近親姦と近親殺害をあつかった衝撃の展開の傑作
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ここでは母は娘を嫉妬し憎悪する。
これはグリム童話の初版の白雪姫をおもいおこさせる。
白雪姫に毒リンゴを食べさせるのは、実の母である(改訂版では継母に変更された)。
妃(魔女)がのぞいていた鏡とは王の態度のこと(ザイプス)。
王の好色なまなざしが自分ではなく娘に向けられた時に娘に対する殺意が生まれる。

大島弓子
綿の国星
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子猫と飼い主の家族。
「子猫は自分を人間だと思っているから少女として描く」というただし書きが最初にある。
もしこのただし書きを削除してしまったらどうだろうか。
するとそこには、娘を愛せない母親と愛してもらおうとして愛されない娘。
人間にはなれず、その動物性(男性社会にとって女性は人間ではなくメスでしかない)に従うしかないのだと、言われ続ける娘が登場することになる。
親は決して子供を自動的に愛するものでもないし、親らしい完璧な人間でもない。
愛そうと思ってもどうやっても愛せない、あるいは他の子のほうをひいきしてしまう、ということはある。
そうした母親が獣性をもった娘をようやく受け入れる、そして娘も自分のなかの獣性(メスであること)を受け入れようとする物語として読むことができる。

萩尾望都
半神
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シャム双生児の姉妹。姉は妹に栄養を供給し続けるが、みにくくやせこけているが聡明。妹は白痴美人、天使のような清らかさと美しさ。自分では何もできない。
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切り離し手術が終わり、妹はやせこけて死に、姉はかつての妹のような美しい年頃の娘になる。
短編マンガの極北にある作品。
だがこの、シャム双生児を描いた特殊な作品が、なぜ私たちの心を打つのだろう。
私たちのなかに、こうした分裂した自己があるからではないのか。すくなくとも女性のなかにこうした分裂した自己があるのではないのか。
女性はもちろん、飯もくらえば便もする、そうした生物的な存在である。
しかし、美しき女性として愛されるのは、そうした動物性を切り離した、天使のような女性である。
しかし愛された女性は、その愛が自分の(獣性をもふくめた)全体ではなくて、自分なかの一部でしかないことを知る。愛される美しい自分の下には、飯も食らえばくそもする、月に一度は血を流す、そうした獣としての、もうひとつの自分が存在する。しかしそうした動物としての自分をかかえつつ、それをたくみに隠しつつ、娘は、愛される女へと変身(成長)する。
この短編で提示された問題を後年、『イグアナの娘』という作品で萩尾望都はたいへん明晰に腑分けしてみせる。
イグアナの娘
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生まれてきた長女がイグアナにしか見えない母親。母のそうした態度から自分はイグアナの娘だとおもう(実は聡明で美しい)娘(ゆがんだ自己概念の典型例)。

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母の死後、葬式で見たのは、自分とそっくりのイグアナだった母の顔だった。人間(男)と結婚するために、自分の獣性(イグアナであること)を捨てた女が、自分の子供の中に自分の捨てたはずの獣性(イグアナであること)を見出してしまい、いつまでも愛せない。母の評価を引き受けることで低い自己評価したもてなかった娘が、実は母親似であるからこそ、母が自分を愛せなかったことを知り、母の苦しみと悲しみを理解し許す。
人間(男)が求める女性像とは、実際の動物性をも持っている女とは異なっている。それは女がもつ、まがまがしいばかりの獣性(飯を食らいくそをして、血を流し、孕み生む)を切り捨てて、身勝手な理想化をした「女性」である。汚れなき乙女を愛する男は、その乙女の汚れを無視し抑圧する。しかし人間(男)を愛し、彼に受け入れられようとする女は、自分のなかの獣性を封印しようとする。しかしそれはその獣性をもった娘の出現によって報復を受けるのである。

よしながふみ『愛すべき娘たち』
24年組がえぐり出した母娘関係の深淵を、その継承者たる、よしながふみは、『愛すべき娘たち』でさらに描く。
器量が悪く、美人の友達にバカにされてきた母親が、自分の娘がいい気にならないようにと、けっしてほめないようにして育ててきた。その結果、本当は美しい娘は、自分のことをずっと醜いと思ってきた。
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その娘のさらに娘(孫)が以上の経緯を知ってはき出す一言。
「母というものは要するに一人の不完全な女の事なんだ」
母親というのが公明正大で愛情深く完璧であることを子供は望むが、それはかなえられない。
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母親というものは他の誰かと同様に、ひずみやゆがみをもった一人の人間にすぎないのだ。苦しい親子の歴史の果てにたどりつく、このにがい認識。よしながふみ、はそれを描ききって余りない。
by takumi429 | 2011-07-26 00:51 | マンガ論 | Comments(0)
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