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医学教育が求める社会学とは何か?

医学教育が求める社会学とは何か?
(千葉大学セミナーでの報告)

はじめに---医薬看護早期合同実習を指導して---
大げさな題名をつけてしまいましたが、まずは私の勤務校でのささいな経験からお話をはじめたいと思います。
私が勤務する名古屋市立大学では数年前から、医学部・薬学部・看護学部の1年生を対象に、早期合同実習なるものを始めました。私がオブサーバーとして参加しているのは、KJ法で医療についてのテーマを話し合うというものと、模擬問診の体験実習です。
4月に入ってきたばかりの新入生たちがはたしてうまく共同して実習をすることができるのかしらと私は少々心配していたのですが、学生たちは私が予想していたよりずっとうまく、フラットな関係で一生懸命に協力しあい話し合い実習をすすめていきます。
そこで私は考えました。なぜ1年生の、それもちがう学部生同士が、このようにうまく協力しあい話し合えるのか。医療関係者のみなさんにとってはもう答えは自明のことでしょうね。そうです、かりにも医療者を目指す者ならば、それは、医学部であれ、薬学部であれ、看護学部であれ、「患者を治し援助したい」という思いは一つなのであり、その同じ思い(目標)をもっているから、ことなる学部の医療系学部生の間に連帯と協力関係がうまれているのです。
このことはおそらく、医療者にもあてはまることでしょう。異種の医療関係者が連帯し協力しあえるのは、「患者を治したい、あるいは(治せないにしても)なんとか助けたい」という同じ思い(目標)を持っているからなのです。

これまでの医療社会学
さて、こうした医療関係者の思い(目標)にたいして、これまでの医療社会学はどのような目標をもった、どのようなものだったのでしょうか。
医療社会学がおこなってきたことは、大きくみると二つだったように思われます。それは、医療社会の社会学的分析、と、医療が社会においてはたす役割の分析、でした。
医療社会の社会学的分析には、たとえば、医師と患者の関係の分析が含まれます。これのもっとも有名な理論は、パーソンズの「病人役割論」です。病人は治療を受けて休むことができ(2つの権利)、医師の言うことを聞いて良くならなくてはいけない(2つの義務)、というのがその内容です(あまりにも常識的なのでがっかりすると思いますが)。
また、医療社会の社会学的分析には、シンボリック相互作用論をもちいた「死のアウェアネス」という理論があります。これは、ターミナル(末期)の患者をめぐる認識の文脈には、①「閉鎖」認識、②「疑念」認識、③ 「相互虚偽」認識、④「オープン」認識、があるというものです。
医療が社会にたいしてはたす役割の分析には、フーコーの「生権力」批判があります(フーコーは社会学者とはいえないように思いますが、社会学者は有名な学者の業績は自分の領域に引きずり込むのが好きなので、社会学の古典としてよく言及されます)。これは、権力が生命をも把握しようとするとき医療がその手段となる、というものです。
またイリイチなどが展開した医療化批判(脱医療化論)もあります。現代人の生活全般に医療が浸食していくことを批判したものです。顕著な例が、「健康病」とでもいうべきものです。これは、健康のために運動して健康のために食事する、「健康のためなら死んでもいい!」という現代人特有の強迫観念とそれをあおって利益を得ようとする産業構造の発展のことです。

医療社会学者と医療者の目線のずれ
こうした医療社会学の内容をみていくと、医療のたてまえ肯定であれ、医療批判であれ、医療社会学のもくろみは、どこか、医療者の関心・目的とは、ズレているように思われます。つまり、端的に言うなら、医療社会学者はもっぱら医療(者)を見ている、のにたいして、医療者は患者を見ている、のです。

患者を治す(援助する)ために
さて、患者を治す(援助する)という目標をもっている医療なのですが、はたして単なる医学的治療だけで患者は治るのでしょうか。あるいは言い換えるなら、患者を助けるには、医学・生理学的な知識だけで十分なのでしょうか?いくつかの事例をあげてみましょう。
(事例1)治ったと思ったらまた入院してくる神経性の下痢の患者。
これは入院して治癒した神経性の下痢の患者が退院すると再発して戻ってくるというものです。
病院医療では治療はもっぱら隔離された病院の中で行なわれます。そこでは病人は「患者」です。しかし治療が終われば病院の外に患者は帰っています。この事例の場合、患者は主婦で、彼女は家族のもとに帰っていきます。家族間のコミュニケーションの障害(夫と子どもからの板挟み)により彼女の下痢は再発して、彼女はまた病院にもどってくるのです。こうした家族コミュニケーションの問題をあつかっているのが、心理療法の一種である家族療法です。ここでは家族を一つのコミュニケーションのシステムとしてとらえ、システムの潜在的な障害が、病人の病気として現れる(顕在化する)とされます。

(事例2)治ったと思ったら、退院後、自殺してしまったストーマ患者。
人工肛門設営にも成功し完治した患者がお礼と言ってナース・ステーションを訪問したとき、元患者の表情が暗いので、看護師がどうしたのかとたずねたところ、浴室で人工肛門のキャップ交換をしたら、そのあとに浴室に入った妻から、「臭い」と言われたと、話した。その後、その元患者は自殺してしまった。これは、後でお話する看護診断では「自己概念」の「ボディイメージの混乱」と呼ばれるものです。人間はだれしもが、自分のイメージ(自己概念self concept)を持っており、病気になったり手術を受けたりすると、それが大きく損なわれる。新たな自分の、この場合は身体のイメージを作って受容しなくてはいけないのだが、そうしたあらたな自己イメージは、家族・恋人などの協力がないとうまくつくられない。なぜなら、自己のイメージというものは、他人、とくに親密な他者を鏡にして作り上げられるからです(これを「鏡に映った自我」といいます)。

(事例3)自分の病気についてえんえんと語り続ける患者
これは事例というよりもしばしば見られることなのですけど、病院や医院の待合室でえんえんと自分の病気について話をしている患者をよくかけます。話したところで治るわけでもあるまいに、と思うのですけど、患者は自分の病気について語らないではいられないのです。それは、ちょうど、刺さったとげを覆うように皮膚がもりあがるのに似ています。病気という非日常的な状況に陥った時、その事態を自分に納得させるべく、人は物語のベールでそれを覆おうとするのです。人間は、いわばカイコのように、物語をはき出しその繭の中で生きている動物です。自分をその物語のなかで位置づけ説明しようとします。そうした自己のことを、「物語的自己」といいます。これは、家族療法の発展型である、ナラティヴ・セラピー(物語療法)で展開されている理論です。鋭利なナイフのような事件をおおうように物語が幾重にも生み出されしかもその袋を突き破って事件というナイフが飛び出してくるさまを知りたいと思う方は、ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』という小説(というよりノン・フィクション)をお読みになると良いと思います。

患者は具体的な人間である
このような事例をとおしてみえてくることはどういうことでしょうか。それは、患者は疾患をもつ動物(ホモサピエンス)ではなく、病気をかかえた人間であり、その人間への理解が足りないと、十分な治療や援助はできないということです。つまり、疾患をもつ患者、という見方を超えて、病むことで問題をかかえた人間、という見方を持つ必要があるということです。
そうした見方をするために必要な知識・理論にはどんなものがあるのでしょうか。それを知るための、何か手がかりのようなものはないのでしょうか。手がかりはあります。それは「看護診断」というものにあると私は思います。

看護診断
医師というのは、あんがい(ぜんぜん?)看護学や看護理論の内容を知らない(知ろうともしない)人たちです。そこであえて素人の私が解説することにしましょう。「看護診断」とは、看護師がくだす診断のことです(看護師も診断するのです!)。医学診断とは、患者の疾患を診断することです。これに対して、看護診断とは、病むことで患者が人間として抱えるにいたった問題を診断することです。
医学診断と看護診断がどう違うのか、具体的な例をあげてみましょう。
今、ここに、大腸ガンの医師A、大腸ガンの主婦B、肝硬変の看護師C、肝硬変の建築業者Dがいるとしましょう。医学診断では、大腸ガンの患者は(A,B)、肝硬変の患者は(C,D)というふうに同じ疾患をもつものとしてくくられます。しかし、医師Aも看護師Cも疾患についての知識が豊富だろうと思われるにたいして、主婦Bも建設業者Dも疾患についての知識は不足していることでしょう。もしそうなら、看護診断では「知識不足」として、患者(B,D)が同じ診断を受けます。また、これまでの精力的な仕事ができなくなり引退においこまれるのではないかと医師Aと建設業者Dが不安に陥っているとするなら、看護診断の「不安」が(A,D)に診断されます。つまり、医学診断と看護診断の仕方とそれによる患者のくくりかたは、医学と看護の観点の違いにあるのです。医学がもっぱら疾患に注目してそれを治そうとするのにたいして、看護が病気を抱えながらも自分で回復していく人間に注目し援助しようとする、その観点と立場の違いが、この両者の診断の違いとなって現れるのです。(詳しくは、中木高夫著『POSをナースに』を参照ください)。

看護診断にみる社会学的内容
看護診断は、患者を、病気の人間として見ていくために、さまざまな領域からいろいろな理論を導入して診断名を開発しています。そしてそこには多くの社会学の理論も導入されているのです。
では看護診断のなかにはどのような社会学的な内容が導入されているのか、順次みていくことにしましょう。
領域6自己知覚 類1 自己概念、類3 ボディイメージ。これはすでにふれましたね。
領域7 役割関係 類1 介護関係、類2 家族関係、類3 役割遂行。
領域8 セクシュアリティ 類1 性同一性、類3 生殖母親/胎児二者間系
領域9 コーピング/ストレス耐性 類1 身体的/心的外
傷後反応 レイプ-心的外傷シンドローム、類2 コーピング反応 コーピング 家族コーピング妥協化・家族コーピング無力化、家族コーピング促進準備状態、非効果的地域社会コーピング、地域社会コーピング促進準備状態。死の不安。
医師はストレス概念は知っていても、コーピング概念は知らない人もいるようですが、これはラザルスという学者が提唱した概念です。状況がどの程度深刻なものと評価するかによってストレスは違ってくるし、その状況へ対処(コーピング)できるかによっても異なってくる、ふつう対処には、問題解決型と感情型とがある、という学説です。
領域11 安全/防御 類3 暴力 自殺
領域10 生活原理 類1 価値観 類2 信念 霊的安寧 類3価値観/信念/行動の一致 信仰心、霊的苦悩
これは宗教社会学、とくにヴェーバーの宗教社会学があつかった問題です。
領域12 安楽 類3 社会的安楽 社会的孤立

看護診断にみる社会学
こうして、看護診断をみていくと、そこに取り入れられている社会学は、「自己概念」、役割理論、家族社会学、地域社会学、宗教社会学、社会的孤立による「孤独死」・「無縁死」や自殺をめぐる社会学などだといえるでしょう。
ここで重要なことは、看護診断に導入されている社会学の内容は、医療社会学のそれではないことです。
たとえば、看護診断に導入されている「役割理論」は、医療社会学の「病人役割」論ではありません。患者理解のための、一般の社会における役割、が問題になっているのです。入院生活になじめない「社長さん」とか、手先がふるえて退院後の調理を案じている主婦とかを、役割理論によって、理解しようとしているのです。

医学教育が求める社会学
私たちがみた看護診断に導入された社会学の知識と理論内容は、患者を人間として理解するために必要とされた内容でした。医学も、より良い治療をするために、看護同様に、より患者を社会とつながった人間として理解することが求められるでしょう。だとすると、看護診断にみられた社会学の内容は、医学教育にもめられる社会学の内容をさし示しているみなすことができないでしょうか。
医学教育が求める社会学は、医療を見つめる社会学である「医療社会学」ではなく、社会に帰属する人間の理解を深めるための社会学、つまり、一般の社会学なのです。 なぜならば、医学も看護と同様に、患者という人間を対象として、それをなんとかして助けたいと思っており、その人間理解を深めるためには、患者が社会のなかでどのように生きているかについての、一般的な社会学の知識と理論が求められるからです。
では、医学教育において、これまでの一般的な社会学を教育していればいいのでしょうか。
答えはノーです。患者というのは病いによってきびしい状況にある人間です。医学はそうしたきびしい状況にある人間の理解を求めています。それに対して、既存の社会学はそうしたきびしい状況にある人間を十分にとらえるものになっていないように思われます。それはあまりに、常識的な考え方を学問的な言い回しで言い換えたものに過ぎないことが多すぎます。社会学を医学教育で教えるならば、これまでの社会学を刷新して、その上で教育しなくてはいけないでしょう。

これまでの社会学の問題点と刷新すべきところ
看護診断に導入されている社会学を参考にしながら、これまでの社会学の問題点と刷新すべきところを列挙していくことにしましょう。

自我論
「自己概念」の理論は社会心理学のものでした。それの自己概念の形成と変容をクーリーの「重要な他者」との関連で説明するべきでしょう。
また、自我が「物語的自己」であることをふまえ、個々人を支配する、ありふれた(しかし支配的な)物語から、個人がどのように解放され新たな物語を生成していくのかを説明しなくてはいけないでしょう。(これについては、メタファーによる物語形成を、拙著『ケアに学ぶ臨床社会学』で展開してみました)。

家族社会学
家族社会学はフェミニズムのジェンダー論の登場によって大きく変わりました。
ジェンダー論以前の家族社会学は、その耐えがたい保守性が特徴です。たとえば、パーソンズは、家族がはたす機能には、手段的機能と表出的機能があるとし、それはもっぱら、父親と母親によって担われるとしました。これなどは、「お父さんはお仕事に行き、お母さんはお家で子育てする」という、「おじさん」の言いそうなことの、焼き直しにすぎません。
これにたいして、ジェンダー論以降の家族社会学は、「近代家族」(両親と子どもからなる情愛にみちた閉じた核家族)が特殊近代西洋のものにすぎないことを指摘します。(さらにジェンダー論の家族社会学者の多くがフェミニストですから、暗に、そこからの解放・離脱を提唱します)。また、統計などをつかって、大所高所からみた家族論を展開します。たとえば、子どもが親の家からいつまでも離脱しないで寄生しているというパラサイト・シングル論などがそうです。
家族看護学は、患者理解のために、患者が帰属している家族を理解しなくてはいけないとして始まった学問です。当初は家族社会学の内容を導入していました。しかし、そのあまりの退屈さ(「常識」を疑うことのなさ)、切迫感のなさに辟易し、しだいに家族療法の内容を導入するようになりました。家族療法では、家族はひとつのシステムとみなされ、システムの障害が個人の発病につながるとみます。ただ看護教員がシステム理論を理解できないため、多くの大学が家族看護学から撤退しつつあります。
医学教育に導入されるためには、これまでの家族社会学の刷新が必要です。それには、家族療法の源泉となったベイトソンの理論にさかのぼって、家族のコミュニケーションのあり方から家族を論ずる必要があるでしょう。(拙著『ケアに学ぶ臨床社会学』でこれを試みてみました)。

地域社会学
最近、「社会関係資本」( social capital社交資産)という概念が注目されています。水平的でゆるやかな人とのつながり(例:米国のボーリング・クラブ)が、その人間の資産として、地位や職業の獲得などに影響し、またこの「社会関係資本」が高い地域は治安などもいい、という考えです。たとえば、イタリアでは社会観系資本が豊かな北中部では道州制に成功したというのです。反対に社会関係資本がとぼしいシチリアでは道州制がうまくいかなかった。ボス支配とそこへのコネがすべて、というシチリアは、実は「社会関係資本」がやせているのです。
これはべつの言い方では、NHKの番組にもなった「ご近所の底力」のことです。ご近所が相互につきあう、ゆるやかなネットワークを持っている(たとえばひんぱんにあいさつをかけあう)地域は治安もいいのです。こうした「ご近所の底力」は孤独死も減少させることが期待できます。地域社会学をこの社会関係資本に着目して刷新するべきでしょう。

宗教社会学
最近の宗教社会学は、宗教の集団的な側面や新規な動きなどを外側から語る傾向があるようです。しかし、人びとが宗教運動へのめり込む大きな理由には、病苦などの苦難にたいする納得的な説明をもとめる精神的な飢餓(神義論的問いかけ)があります。その意味で、神義論を議論の中心にすえたヴェーバーの宗教社会学の読み直しと復権が求められているでしょう。

自殺論
私たちはついつい自殺の原因を心理的原因に求めがちです。ところが、社会学の古典である、デュルケーム『自殺論』はこうした心理還元論をとっていません。彼によれば、自殺には、利他的自殺(集団本位的自殺)、利己的自殺(自己本位的自殺)、宿命的自殺、アノミー的自殺(螺旋状に際限なく増大する欲望に呑み込まれて自殺する)、があります。
社会の人間現象を、個人心理から説明しようとする傾向を「心理学化」と言います。しかし、自殺などの現象はむしろ不況などの社会的状況から説明したほうが見えやすいのです。自殺を社会状況から説明する試みは過度な心理還元論を是正することにつながるでしょう。

まとめ
医学教育に必要なのは、医療社会学ではなくて、一般の社会学です。だが、それは既存の社会学を教えればいいということではありません。患者を救うために患者を理解したいという医療関係者の切迫した思いに応えるべく、これまでの退屈な社会学を刷新することが、今求められているのです。
by takumi429 | 2011-11-21 01:50 | 臨床社会学
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