0.知識は偏見から自由になるためにこそある

講義をはじめる前に、皆さんに課したレポートについてコメントする必要があります。

私は、一般教養の特色科目の受講生が毎回定員(140名)オーバーなので、選抜のために次のようなレポートを課しました。

特色科目10受講希望者へ
特色科目を受講希望の方は、次の課題をA4のレポート用紙1枚に書いて、提出してください。
いま、聖母子像(聖母マリアとおさな子イエスを描いた絵)の前に立っている人がいます。どうやらその人はその絵が、聖母子像であることを知らないようです。あなたはその人に、聖母子像であることを教えようとしました。
あるいは、いま、菩薩像(大衆を救おうとする慈悲の心をもった仏の像)の前に立っている人がいます。そのひとは、その像が、菩薩像であることを知らないようです。あなたは菩薩像であることをその人に教えようとしました。
すると、その人はあなたに、こう言いました。
「何も教えないでください。余計な知識があると偏見が生まれて目が曇ってしまいます。私はまっさらな曇りのない目でこの絵(像)を見たいのです。」
この人の発言についてあなたはどう考えますか?
聖母子像の場合と菩薩像の場合では異なる、という回答はしないでください。
あくまでも「知識は偏見を生むから知らないほうが新鮮な目で美術作品を鑑賞できる」という考えに対しての、あなたの考えを書いてください。


このレポート課題に対して97名の提出がありました。定員割れなので全員受講可となります。レポートのうち、なんと65名が、「知識は偏見を生むから知らないほうが新鮮な目で美術作品を鑑賞できる」という考えに対して、「賛成」、と答えていました。
「知識は偏見を生む」というのは、反対にいえば「無知は無垢な目をもたらす」というかんがえなのでしょう。こう考える人が、受講希望者のなんと3分の2なのです。実は、私はわざわざ、反対意見に誘導するように設問しました。にもかかわらずこの結果です。
無知な人間の方が無垢で新鮮な目で物を見る。みなさんはそう考えていらっしゃるようですが、ほんとうにそんなことがあると思いますか?
もし皆さんが、知らない街にぽんと連れてこられ、地図もその街についての情報もあたえられなかったら、みなさんはどうするでしょう。皆さんは道を聞いたりすることでしょうが、その知識も、偏見を生むからといって、道も聞かないのですか。もし道も聞かなかったら、何となくあっちの方向はやばい感じがするから行かないでおこうとか言って、ほとんど最初に来た場所をうろうろするだけでしょう。また思い切って動くことはたしかに危険なことになるでしょう。もちろん、みなさんはそんな愚かなことはしないで、地図を入手し、人に道を聞くでしょうし、観光ガイドなどを入手するでしょう。そうやって得た知識は偏見をもたらすのでしょうか。そうではないでしょう。なんとなくやばそうだ、とかいう感覚だけでうろうろする方がよっぽど思いこみや偏見にまみれていることでしょう。
いま、あなたが何かおいしい料理を食べたとします。たとえば焼き鳥だとしたら、そのなかにちょっとこうばしい味わいがあったとします。あなたはこの味は何なのですかと聞いたとします。料理した人が、「実はクルミの粉をちょっとだけまぶしてあるのです」と答えたとします。それにたいして、あなたはよけいなことを言うな、おかげで純粋に味わうことができなくなっただろう!と怒ったりしますか?さらにその鶏肉が名古屋コーチンだと教えられたら、そんなことは料理を味わうのによけいな知識だと怒りますか?なるほどねと思うことでしょう。またさらに、「じつはゆずをしぼってかけてあるんですよ」と言われたなら、なんとなく「うまい」としか思わなかったのが、このうまさはゆずの酸味が加わっているからなのかと、味覚はさらに鋭くなることでしょう。
料理のような味覚(感覚)の、味わいでさえ、知識は邪魔でなくて、知ればより料理が楽しく味わえるものです。まして、絵や彫刻ならさらにそうだとは思いませんか。
ところで、皆さんは絵は視覚(感覚)の領域のものだと思っていらっしゃるようです。でも古来、絵というのは文字が読めない人のためのに、文字の代わりにメッセージを伝えるものでした。
キリスト教の教会ではもっとも重要な、イエスの受難物語(イエスが捕らえられ処刑され復活する話)は、ステンドグラス、彫刻などで目に見える形にされて、信者に提供されていました。いわば、「絵はことば」だったのです。その絵や彫刻が何を意味するか、誰なのか、何なのか、ということはその絵を描く、その彫刻を作る、さらにその絵や彫刻を見る、うえでもっとも重要で、その絵や彫刻を見て鑑賞するうえの前提条件でした。
絵がことばであるという約束から自由になろう、絵は感覚の産物だ、として展開しようとしたのが、いわば印象派の絵画で、その延長線上に抽象絵画はあるわけです。しかしそれは「絵はことば」ということを前提にしたうえであえてそれに逆らってみせたものです。日本が開国して西洋美術にふれたとき、もっとも盛んだったのは印象派でした。ですから日本の近代美術はこの印象派の亜流として発展しました。アカデミックな本流を知らず、それに対する反主流ばかりを導入してしまったのです。そのことが日本の美術教育をゆがんだものにしたようです。
そもそも、ものを知らない人間が偏見をもっていない、なんてことがほんとうにあると思いますか?ひとは無知を偏見によって埋めようとするものです。ほんらい知識とは私たちを無知がもたらす偏見から解き放ってくれるものです。
だいたい、聖母子像を聖母子像と知らず、菩薩像を菩薩像と知らずに、ちゃんと作品が鑑賞できるわけがないじゃないですか。こんな知識は、背景知識でも作者の思いでもなんでもない、作り手・受け手の共通の常識にすぎないことです。そんな常識さえないほうがいいなんていうのは、無知が無知な状態に居直っているだけのことです。
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by takumi429 | 2012-09-23 04:06 | メディア環境論 | Comments(0)
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