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天皇の肖像

イスラム教圏

メッカへの巡礼
 カーバ神殿を巡る巡礼者
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巡礼のメッカへの一点集中が「おなじイスラーム教徒」というイスラム教圏の一体感をもたらしている。

ペニンスラール
 本国と植民地を往復

クリオーリョ
 行政区の中だけを動き回る
 行政区が「国」の単位としてイメージされていく。

俗語ナショナリズム
 新大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。
まず最初に、地理上の発見によって、さまざまな人や言語があることが意識され、結果、ラテン語(真理語)の相対化がうまれました。その結果、言語学が活躍し、辞書編纂されるようになりました。結果、俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語が言語学者の活躍によって独立の言語として確立し、結果スペインという地域が確定されました。
(またたとえば、沖縄出身の言語学者、伊波普猷(いは ふゆう)は、「日琉同祖論」をとなえ、琉球の日本編入を正当化しました。言語学者の活動は国民国家の形成に重大な役割を果たすしたのです)。
 封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大をもたらしました。そこで使用される言葉に俗語(ドイツ語やイタリア語などなど)が採用されることで、俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命を「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。

公定ナショナリズム official nationalism

この人は誰?

(1)
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(2)
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(3)
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答え:明治天皇 睦仁(むつひと)
嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月30日)

(1)束帯姿の明治天皇(明治5年(1872年)9月3 日、内田九一撮影)
明治天皇は20歳になるまで白粉で化粧していた。
(2)大元帥服を着た明治天皇(明治6年(1873年)10月8日、内田九一撮影)
(3)明治天皇 (明治20年(1888年)1月にイタリア人画家・キヨソネに描かせた肖像画の写真。「御真影」(天皇陛下の「お写真」)として各学校に下賜(かし)され、「奉安殿」に納められた。
明治天皇の「御真影」は、本人の写真ではなくて、肖像画の写真だった。
大元帥としての天皇をイメージさせるには現実の天皇の肖像は使えなくなっていった。
天皇の肖像は想像の姿へと変貌し配布され崇拝されることになった。

御真影:(明治・大正・昭和)天皇とその皇后の写真。
宮内省から各学校に貸与され、奉安殿に教育勅語と一緒に保管された。四大節(元旦・紀元節・天長節・明治節)には講堂の正面に飾り、児童(生徒)・職員一同が遙拝し、教育勅語が校長によって読み上げられた(奉読)(Wikipedia参照)。御真影を守る(奉護)のために日直・宿直制度が導入された。

紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。(→建国記念日)
天長節:天皇誕生日
明治節:明治天皇の誕生日11月3日(→文化の日)

教育勅語
教育ニ関スル勅語(きょういくにかんするちょくご)は、明治天皇が山縣有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対し、教育に関して与えた勅語。以後の大日本帝国において、政府の教育方針を示す文書となった。一般的に教育勅語(きょういくちょくご)という。1890年(明治23年)10月30日に発布され、1948年(昭和23年)6月19日に国会の各議院による決議により廃止された。(wikipedieaより)
 

奉安殿
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群馬県建築協会 編 『小学校に建つ御真影奉安殿』洪洋社1933年



公定ナショナリズム
ナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれた。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦した。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合される。
 たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けた。またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になった。日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込んだ。

NHK講座 日本史 大日本帝国憲法
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/tv/nihonshi/archive/chapter028.html

日露戦争における 曰本の勝利
曰露戦争はその戦況が電信によって世界中に即時に伝えられた。「東洋」の曰 本が「西洋」の□シアに対してつぎつぎと勝利をおさめていくことが報道されると,オスマン帝国やエジプ卜,イランなどで日本への関心 が急速に高まり,曰本を紹介する本が刊行され,曰本をたたえる詩が発表された。そして曰本の立憲制度が注目され大曰本帝国憲法が ペルシア語やアラビア語に翻訳された。(東京書籍『世界史B』平成25年発刊,312頁)
by takumi429 | 2014-05-22 09:33 | 社会環境論
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